仏の利益 功徳
 

利益 

「アルタ」「ビタ」仏や菩薩の慈悲によってもたらされる、修行の結果において得られる福利のことをいい、具体的な何らかの形、又事象をともなった宗教的利得 

利益には「現世利益」「後世利益」があります。通常「神仏のご利益」は前者をさす。

功徳 

グナ(回向) プンヤ(福徳) 善行を納めることによって具わる徳性(宗教的不思議な力)

仏が備えている功徳-慈悲 衆生が積む功徳-修行 

仏と私たちの功徳が相互に関係してはじめてご利益はもたらされる。

加持祈祷の加持
仏の日の影、衆生の心水に現ずるを(仏の願いを我々の心に写すことを)「加」 

我々の心水仏の日を感ずること(我々がその願いを感じることを)「持」

加とは仏の力が私たち凡夫に加えられることをいい。

持とは衆生が仏の力をしつかり受け止めることをいいます。


仏教の教え

三法印 諸行無常―すべてのものは変化し続けており常なるものは存在しない。

    諸法無我―すべてのものは因縁により生じたもので、実態は無い。永遠に変らないものは存在しな         い。 

   涅槃寂静―煩悩を滅した、涅槃は安らかである。

四聖諦 4つの聖なる真理。

    苦諦 集諦 滅諦 道諦 これにしたがって修行することの大切さを述べている。

 

八正道 修行の中身について、8つの実践の道をとく。 正見(物事をありのままに見る) 正思(物事の道理を正しく考える) 正語(何時も正しい発言を心がける) 正業(常に正しい行いをする) 正命(正しく清らかな生活をする。) 正精進(悟りの境地を目指し、常に努力する。) 正念(邪念を持たず正しい道を進む。)正定(精神を集中し瞑想することによって心を安定させる。)

 

縁起 いかなるものは独立して存在しているものではない。常にほかのものと独立して関係し合っている。そして条件次第で変り続けていく。こうした考え方を「縁起」という。原因を「因」条件を「縁」といい、縁が無ければ「因」は「果」を結ばない。

あらゆるものは因と縁により結果として成立しているが双方が整って初めて生起するのです。このことを仏教では「因縁生起」と呼び略して「縁起」といいます。


仏とは

如来 「タターガタ」漢訳語 如とは真理、真如 仏が悟った真理を意味することから、「真如より来たる    者」 「真如に行ける者」

釈迦如来 仏教の開祖、釈迦牟尼のことで「釈尊」ともよばれる。釈迦族の王子として生まれる。

     菩提樹の下で悟りを開き、人々に真理を教え広めた史上実在の如来です。

阿弥陀如来 梵語で「アミターバ」無量光の音写です。「無量寿如来」と訳され、西方の彼方にある極楽浄土の教主である。大無量寿経によれば阿弥陀如来は、悟りを開く以前は「法蔵菩薩」と言う名の修行者だったという。浄土を建立してすべての生けし生きるものを迎えて、救い取るるという誓いを立て、5劫という気の遠くなる時間のかけて修行し、悟りを開き、西方極楽浄土を建立し、その教主阿弥陀如来となり今も法を説き続けている。永遠の命と永遠の知恵の光。

大日如来― 大日の日は太陽のことであり、ただし太陽の光は影を作り、夜は隠れてしまう。しかし大日如来の光は昼夜とわず、分け隔てなく照らすことから「遍く」の意味である大を加え「大日」となった。

その徳は除闇(じょあん)遍明(へんみょう) (煩悩が深くてもその闇を一瞬に照らす。明らかにする。)

能成(のうじょう)衆務(しゅむ) 沢山務めを成し遂げる。光無生滅(こうむしょうめつ) 滅することが無い。何時でも我々を照らしている。

大日如来は密教では法身仏と呼び教主とする。

薬師如来― 梵語で「バイシャジヤーグル」といい、医薬の先生という意味がある。東方浄瑠璃世界の教主であり、薬師浄瑠璃光如来と言う。瑠璃光とは浄土の地面が七宝の一つ瑠璃で出来ていて、それが光り輝いていると様をいう。衆生を救うため12の大願を発する。その6.7番目の誓いに「障害や病のもの、私の名前を聞けば患がのぞかれる」にちなんで薬師如来となずけられた。

 

菩薩― 梵語でボーディサットバの音写で「菩提薩?」の略称である。菩提とは悟りのことで、薩?は有情つまり私たちを含む心ある生命のことである。したがって悟りを求めて修行するものは皆菩薩ということである。又衆生の機根に応じてさまざまな姿で現れ、慈悲を持って悟りへ導く如来の化身たる救済者である。地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩等

 

明王― 梵語でヴァドヤーラージャといい ヴァドヤーは明 ラージャは王と訳される。明とは知恵のことであり、仏の言葉「真言」のことである。真言には秘密的な力があり、この力を身につけた者を「持明者」という。そのお王者が明王である。

明王は仏やその信仰者を守護する役目を担っている。不動明王、愛染明王、

 

天部― 梵語で天はデーヴァ光り輝くもの 部は部門 あるいはグループという。もともと天部はバラモン教の神々であった。仏教に帰依して守護神となったのである。

ではなぜ利益があらたかなのか。一つは如来 菩薩 明王は私たちを悟りに導く役割に対して、天部は仏教とその信仰者を障害から守るのが使命である。それとバラモン教で現世利益の神として信仰されていた名残から来る。

毘沙門天 弁財天 鬼子母神 大黒天 帝釈天等

仏さまというと、まことに清浄で光り輝くお方ばかりと考えやすい。だが煩悩即菩提ですべての悩みも包んでくださるのである。我々の持っている悩み、憂い、煩悩は仏に触れることにより、そのまま浄化されている。我々の悩みをいちいち訴えなくても、総じてお任せすることにより、仏は何でも不平なく、お受けくださる。あえて心が清らかにならなくてもいい。悩みの中に有りながら安心の心が生まれてきたところにそれが成仏の気配である。人間は死ぬまで色々な戒を破る。でも破っても法を捨ててはならない。このほころびを縫い直し、又信仰の旅を続ける。いつの間にか人が尊敬する、いわゆる仏体に変ずるのである。後光が差す訳でも、香の香りがするわけでもないが、自然に人に親しみやすい人間になるところに、功徳が現れるのである。






お経とは

お経とは仏陀の教法や教説を記した聖典である。その内容を実践するためにある。

法華経に「もし法華経を読誦するものあらば、まさに知るべし、この人は、仏の荘厳をもって、しかも自ら荘厳するなり。」

経典を読誦するものが自ら仏の相(すがた)を表すということ。仏そのものになること。(相とは内にあるものが外に出ること。)

仏像に対して読経するのは自分がその相で荘厳されているのを自覚するためである。鏡を見ているようなもの。読経 説経は単に経典を説くだけではなく、必ず聞くものがいて説法、読経は成り立つ。

一人で読経するときは(自受法楽)自分自身が聴衆となる。

読経するということは、経典の世界、説法の会座をそのまま再現することをいう。

繰り返し読経することで頭での理解ではなく体全体でその境地に深く投入していくことである。

経典の役割の本義は、仏の言葉を正しく後世に伝える、又唱えることを仏の教えを学ぶことにある。

大乗仏教になると、経典そのものが信仰の対象となる。

仏教の聖典は大きく3つに分けられている。「経」仏陀の言行を記したもの。「律」戒律が書かれているもの。「論」仏教思想を論じたもの。

陀羅尼 真言 「ダーラニー」の音写で総持 憶持と漢訳される。教えをしっかりと心に留めて忘れない、勝れた記憶力という。陀羅尼は念(注意力)と慧(判断力)との心作用からなるといわれ、「多くの善を保つ力」と言う意味にもなる。

経文を記憶するため、その趣意を凝縮した短い句が繰り返し唱えられ、結果精神が集中、高揚した。そうした精神状態で称えられる章句は真実の句である呪句としての機能も有するようになった。

 

最 澄 日本人の目で仏教を選択して、小乗仏教ではなく、法華経を中心とした大乗仏教であるとした教えを伝えた。凡夫が仏に向かって限りなく歩いていく。大乗仏教の基本的な考え方

空 海 仏教には顕教と密教があり、宇宙仏の説法である、密教こそが、究極の教えであると説く。すでに仏である凡夫が、仏を目指して成長していく。密教の考え方

法 然 ユーザーの理論から出発する。難行である聖道門より、昜行である浄土門の念仏により救われる。「念仏偽本」念仏を称えることが、本なのです。

親 鸞 念仏が行になっている以上、自力の計らいが残ると考え、我々凡夫は徹底した他力に立つべきで、「信心偽本」阿弥陀仏にお任せしますと言う信心だっけで救われる。阿弥陀の誓願の不思議な力に助けられて、私たち凡夫でも、必ず往生できると信じて、念仏する気持ちになった瞬間、私たちはもれなく阿弥陀の浄土に掬い取られている。

道 元 仏道、仏教の教えを、日常の生活でどのように実践したらよいかを説いた。「修証一如」修行と悟りは一つのもので、悟っているからこそ修業する。(修行を積み上げて行った先に悟りがあるということではなく、修行することそのものが悟り。)