弘法大師は、お名前が「空海」で灌頂名(かんじょうめい)を「遍照金剛(へんじょうこんごう)」とお呼びします。
宝亀5年(774)6月15日に香川県善通寺市でご誕生になられました。幼名を真魚(まお)といい、幼いときから泥で仏像を作ったり、7歳の時には、我が身を捧げて多くの人々を救いたいと誓いをたてられていました。
15歳の時、伯父の阿刀大足(あとのおおたり)に連れられて奈良の都に入り勉学に励み、18歳で国立大学に入学しますが、多くの矛盾にぶつかり、20歳で大学を中退して、出家得度し仏教修行に入ります。修行僧として奈良の都での修行に満足せず、真の仏教を探している中、不二の法問大日教との出会いが訪れます。御大師様23歳の時です。
大日教には、単に理論や哲学には当てはまらない密教の深い教えが述べられていました。これを理解実践するには、良き師僧から法を伝授してもらう必要お感じ、中国長安へ留学するこおとを決意します。
御大師様の情熱が多くの困難を打破して、延暦23年(804)5月12日出発の遣唐船にて、遣唐使の留学僧として唐に向かいます。その一行の中に比叡山の最澄もおられました。遣唐船は暴風雨にあい、九死に一生を得て中国にたどり着きます。日本を出て170日かけ12月23日に都長安に着きます。
当時密教の第7祖と仰がれていた、長安 青龍寺恵果和尚(しょうりゅじ けいかわじょう)のもとに入門を許されて御大師様を見るや、「われ先より、汝の来るのを知り、待つこと久しい、今日、相見るに大いに好しい、報命まさに尽きなんとするに付法に人なし。必ずすべからく速やかに香花を弁じてに灌頂壇(かんじょうだん)入るべし」と喜ばれました。それは密教の教えは灌頂授受をもって初めて体得できるもので、密教の歴史は灌頂(かんじょう)の系譜によって成立していたため、恵果和尚にとって御大師様との出会いが運命的な出会いであつたということです。恵果和尚より遍照金剛の名を頂き密教の第8祖となったわけです。
御大師様は密教の教義は元より、医学、薬学、工学などの様々の近代科学を修得し、教典、法具、曼荼羅などの他に文化資料を携えて日本に帰国します。帰国した御大師様は時の平城天皇に御請来目録(ごしょうらいもくろく)を奉呈し、真言宗の立教開宗の勅許(ちょうきょ)を賜わります。
34歳になった御大師様は真言宗開宗に関する多数の書物を著し、不二(ふに)の法門である即身成仏(そくしんじょうぶつ)の教えを布教されます。その後も全国行脚されて済世利人(さいせいりにん)の行に徹し、末徒の修行と養成に尽くされました。
42歳の時には四国を巡られ、その遺跡後の四国八十八ケ所霊場となって現在も多くの巡拝者を迎えております。その後いろは歌を綴られたり、香川県の満濃池(まんのういけ)の修築、日本初の民間学校である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創設など、日本文化の発展に大きく寄与されました。
済世利人の情熱に従い、真言密教の根本道場の必要性から高野山の開創を決意されます。真言密教の真理は、その理想とする曼荼羅世界の様相を持つ大自然に囲まれた静寂な境地である高野山が最適地で有りました。その聖地で国の平和と繁栄を祈り、世を救い人々に利益を与えると共に、真言密教にあらわされている密厳国土を現世に作ろうと鎮護国家、済世利人の根本道場をここに置かれたのです。
御大師様は自身の入定の地を高野山と定め「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(たとえこの世に、一人でも迷い悩み、悶え苦しんでいる不幸な人がいる限り、その最後の一人まで悉く救ってしまうまでは、自分の衆生済度の大誓願は終わらないのです。)とのご誓願のもと、聖地に永遠に生き続け、済世利人の行を続ける事を選ばれました。すなわち、高野山を万人の心のよりどころとし、仏と人々の霊がここに集まり帰着する霊場を築かれたのです。
未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、承和2年(835)3月21日に高野山の奥之院で御入定なされました。
一般的に入定とは、宗教的瞑想(禅定う)に入ること、または聖者の入寂を意味するが、お大師さまのご入定とはそれは入定という一代奇跡を通して、永遠にいき続け、令法久住(密教を永遠に存続せしめる)と末世の弟子、門徒たちを悉く救済しようとの切なる願いからと理解したらよいでしょう。
弘法大師の御宝号は「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)です。弘法大師を拝む時、この御宝号をお唱えします。