木曽街道六十九次之内 守山 達磨大師



 二八蕎麦倶楽部からの提案

まえがき


「十割生蕎麦」という呼び名は、江戸時代、小麦粉を多用した蕎麦が横行したときにグレードの高いそばと俗にいう”愚そば”との差別化から生まれた言葉である。その「愚そば」の総称を「二八そば」と呼び、その安価や食べ安さから江戸庶民の気軽な食べ物として蕎麦は普及したという。
明治・大正を得てどの蕎麦屋でも売り文句として看板に「生蕎麦」を名乗るようになったが生粉打ち蕎麦など出す店はほとんど無く、今で言う偽装食品の走りのようだった。
戦後に至っては、蕎麦粉3〜4割、後6〜7割はつなぎの小麦粉というような配合で製麺機械のローラーで無理やり廼した「そばモドキ」を出すようなそば店が急増した。
これらの店は、社会の急成長を背景に庶民に根付いた食文化として大変繁盛した。
出前にしても、ピザや宅配寿司も無い時代で今にしてみれば一番出前に適さない「そば」が独占していたということ自体が不思議なことだ。(それほど伸びにくいそばだったともいえる)
しかし江戸における「そば文化」の発展という視点から見て、「愚そば・二八そば」が果たした役割(打ちやすさ、食べやすさなど)を無視することは出来なかった様に、昭和30年代の食の需要を支えたのは機械打ちそばだった。
ところ変わり現代の「二八蕎麦」は、そば粉8割/小麦粉2割の割合で蕎麦を打つことだとされている。 この割合は蕎麦粉の特性を失わずに程よいのど越しと旨みを出せる最良の方法だ。   二八そば倶楽部では、この良質な蕎麦を敷居の高い高級蕎麦店から安値で誰でも気軽に暖簾をくぐれる町場のそば店に取り戻そうというのが狙いです。
二・八(ニッパチ)倶楽部は、 衰退し続ける日本蕎麦の普及を願うそば店が中心となって、蕎麦三ケ条(蕎麦麺の品質向上・蕎麦食の普及・蕎麦の啓蒙活動)を守り、さまざまな機会に日本蕎麦を食べていただくために努力して行こうという趣旨の集まりです。

 歴史は、作為的に作りかえられる。

話題のイエスの秘密を暴いた「ダビンチ・コード」は、聖書を時の権力者が自分の統治しやすくするために、信仰者を欺く書き換えをしたり削除したという話を別な解釈でサスペンスにした物語だ。その後の聖書は間違った(?)解釈の元に人間イエスを神として崇め世界中に伝わったという。  忠臣蔵の討ち入蕎麦は、ストーリー性を重んじたために作られた話だ、歴史は都合の良い形にして伝えられることがよくある。正しいものや本当のことを知らなければ、常に虚無の危険にさらされている事が解かる。


昨秋から始まった「めん類飲食店の標準営業約款」の登録制度の登録条件の中にそば粉7割以上の蕎麦を提供することとある。 それは「そば粉」10割の生粉打ちが絶対であり、5割の同割はそばの紛い物であるかのようだ。
江戸に始まる蕎麦食文化。 よく二八そばということばを耳にする。粉の配分量だとする解釈が世間に多く語られているので、質問すればほとんどの人はそう答えるが間違ってはいない。 しかし当時は、小麦粉が大変な高級素材だった為に、おいそれと使えなかったという事実もある。2×8で16文というそば銭のことなどとする説などもあり、そばはそうあるべきのものという定義は、一概には言えそうに無い。
今や、そば粉も小麦粉も輸入物にたよらなくては、国内需要に追いつかない状況下で、小麦粉は蕎麦粉の1/3以下の価格で入荷される。そこから、そば粉は高級、小麦粉は低級というレッテルが貼られてしまった。
また、江戸時代には勿論蕎麦打ち機械などは無い。そば切りを作る方法は手打ちでしかない。その当たり前のだれでも出来る。田舎のおばぁさんにでも打てる蕎麦打ちを職人芸に変えて、さも技をひけらかすようにそのそば打ち技術に段位まで設定した。  
庶民の食べ物として蕎麦切りの文化は始まった、ファーストフードの草分けであるべき蕎麦が高級食となり庶民の「そば食堂」が低俗な蕎麦として格差をつけられてしまったのだ。
いまや、どちらかといえば町場のそば食堂の方が伝統文化を継承しているといっても過言ではない



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