幕末の教育和歌山県田辺市での講演要旨)
 
                                 菊池 道人
 
 幕末の教育がどのようなものであったのか、そしてどのように今の教育に活用していけるのか私なりの考えを述べさせて頂きますが、その前に日本の教育の歴史の流れをご説明させて頂きます。
 
 貴族社会の学校
 奈良に都が開かれる少し前、701年に制定された大宝律令では、中央に大学、地方に国学という教育機関を置くことが定められましたが、これは官吏を養成することが目的で、主に儒学などが教えられましたが、入学するのは貴族の子弟のみで庶民への教育は行われませんでした。平安時代になると、有力な貴族が別曹と呼ばれる寄宿舎兼研究室を設置するようになりました。藤原氏の勧学院、 菅原氏・大江氏の文章院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などがあります。その一方で、空海が庶民のための教育機関である 綜芸種智院を造ったことは画期的なことといえますが、これは空海が亡くなると廃止になり、以後しばらくは庶民のための教育機関は造られませんでした。
 
家庭教育中心の時代
 さて、平安時代末期から鎌倉時代にかけて政治の実権は武士に移りましたが、武士たちへの教育、これは主に家庭教育でした。(数少ない例外として室町時代に現在の栃木県に出来た足利学校があります)。
武芸や武士としての心得などを親から子へと伝えていったのです。戦国武将たちがその子孫に伝えた家訓などが文章として残っています。北条早雲が残した家訓には「朝は早起きしなければならない」というのもありました。
 大名家ではおもり役という家来がいて、家庭教師のような役割をしていました。織田信長を諫めるために切腹した平手政秀という人もいます。
学問に接する機会ですが、平安時代から鎌倉時代にかけて、武士たちは宮中を警護する大番役として地方から京へ一定期間滞在したり、あるいは主と仰いだ貴族のもとに子弟を奉公させたりしていましたが、都へ行った武士たちは貴族の文化を身につけていったようです。鎌倉時代の武士たちの中にも和歌や今様などに堪能だった人たちも少なからずいます。
 例えば梶原景時という人は義経のことを悪し様に頼朝に報告し、結果的に兄弟の仲を裂いてしまったのですが、その一方で和歌にも優れていたといわれています。都で徳大寺実定という貴族に仕えて、歌を学んだそうです。
また、鎌倉幕府でも和歌の会や読書会を催したり、金沢文庫のような図書館を造ったりもしたのです。政治を担うためには、学問も必要だという考えからです。その他に、お寺が教育機関の役割を果たしていました。徳川家康は幼少の頃、今川義元の人質となりましたが、その時に、今川氏の顧問であった雪斎から学問を学んでいました。家康の側近であった榊原康政という人も幼い頃、お寺に預けられて学問を学んでいました。さて、家康によって天下が統一され、江戸幕府が開かれます。
当初は戦国時代の荒々しい気風も残っていましたが、これを改めて、秩序ある社会にするため、幕府は学問を奨励します。儒学が中心ですが、その中の学派である朱子学(宋の朱子が大成)は身分の上下を重んじたので、特に奨励されました。その他にも、古学(孔子や孟子の教えに戻る)や陽明学(明の王陽明が唱える)などの学派の学問も盛んになりました。諸藩の大名たちの中にも会津の保科正之、岡山の池田光政、加賀の前田綱紀など学問好きの人がいました。あの水戸黄門も「大日本史」の編纂に乗り出すなど、学問好きの大名として知られています。忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭は当時赤穂に流されていた山鹿素行の講義を100回以上も聴いたといわれています。大石内蔵助が討ち入りの時に山鹿流陣太鼓を叩いたといわれているのもそこから来ています。
 
 学校教育の時代へ
 さて、これまでは武士の教育の場は家庭が主でその補完機関としてお寺などがありましたが、江戸時代の特色は学校で学ぶ機会が増えたことです。幕府は十八世紀の終わり頃、昌平坂学問所を設置しました。これはもともとは家康が林羅山という学者の私塾で上野にあったものを、後に湯島に移して孔子を祀る聖堂をつくり、江戸時代も後半に入る1792年に幕府の学校として発足されました。幕府だけでなく、各藩でも藩校や郷学などが設置されました。その他、個人経営のような私塾も作られるようになりました。
そして、庶民の教育機関として寺子屋も造られるようになりました。寺子屋では日常生活に必要な読み書きそろばんが主として教えられましたが、京都の石田梅岸という人が儒学や仏教の教えを庶民向けにやさしく説いた心学の学校をはじめ、以後、その弟子たちによって全国に広まっていったのです。
 江戸時代後期はこうして日本教育水準が飛躍的に上がった時代であったのです。
 
 人格形成中心の教育
それでは、江戸時代後期、幕末の教育から現代の私たちが何を学ぶべきかということについてです。
庶民の教育機関である寺子屋の教科書ともいうべき本があります。天保10年(1839)に発刊された「養育往来」 という本です。この本を書いた小川保麿という人の詳細な伝記は不明なのですが、その本の中に、(学問の世界を志しても、人としての道を教えず、ただ名誉や利益を得るために学ぶならば、物事の筋道をわきまえ、身の行いを正すことはできない) と書かれています。また、長州藩で松下村塾という私塾を開き、高杉晋作や伊藤博文らを育てたことで知られる吉田松陰は道理を主とすれば自然と事業は成功するものである。利益を主とすれば道理を失う心配は少なくないと「講孟余話」という著書の中で述べています。つまり、武士も庶民も教育に於いては道徳ということを根本にしていたということです。では、具体的にこうした道徳はどのように子供たちに伝えられていったのでしょうか。会津藩を例に挙げます。
  会津藩では藩校である日新館に入学する以前の子供たちは、地域ごとに「什」といわれるグループに属し、勉学や遊びをともにしました。毎日、「什」ごとに反省会が開かれ、最年長のリーダーの子供が以下の項目を読み上げるのですその項目は
 
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、嘘を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 
そして、今「ならぬことはなりませぬ」と結ぶのです。
子供たちは今日一日それらに違反する振る舞いがなかったかどうか毎日反省したのでありました。
 上記の項目のうち、「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」は言うまでもなく、現代では通用しません。
他の項目はどうなのでしょうか?「戸外で物を食べてはなりませぬ」は遠足では、ということになるでしょう。
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」は、例えば、もし年上の人が物を盗めなどと言うことがあったら、ということでケース・バイ・ケースということでしょう。
「嘘を言うてはなりませぬ」嘘をつくということは正しいことではありませんが、これも時と場合によっては嘘も方便ですね。
しかし、「弱い者をいじめてはなりませぬ」は学校で、現代だからこそ毎日言い聞かせなくてはならないことではないはずです。
 人間として最低限守らなければならない道徳を毎日、子供たちに言って聞かせ、自覚させる。
 これが当時の教育でありました。
 もちろん、現代の教育にも立派な言葉はあります。学校案内のパンフレットに書かれている教育理念はどれもすばらしいものです。
 しかし、それを守り続け、伝えていくということは決してなまやさしいことではありません。不断の努力が必要なはずです。
江戸時代の会津藩では、それを日常生活の中に浸透させようと毎日努めていたのでありました。ただ言葉を伝えるだけでなく、それが実践されているかどうかも常に反省していたのです。
入学式や卒業式にだけ立派な話を聞いていたというのではありません。
そして何よりも、「ならぬことはなりませぬ」つまり、してはいけないことはどんなことがあってもしてはいけないのということです。
絶対にしてはならないことがこの世にはあるということが徹底されていたのです。
 明治政府からは逆賊扱いされていた会津藩ですが、陸軍少将になった山川浩にその弟で東大総長となった山川健次郎、その妹で日本最初の女子留学生の一人山川捨松 、講道館柔道の達人で小説「姿三四郎」のモデルになった西郷四郎など、近代社会の建設に貢献した人材を多数輩出しました。
同じようなことが薩摩藩でもありました。
郷中と書いて「ゴシュウ」と読む薩摩藩の自治的な教育組織これは会津藩の「什」と同じようですが、居住する各地域ごとに郷中があり、藩士の子弟たちはそこで厳しい文武の修行に励んでいましたた。
 この郷中に通う青少年たちは、六、七歳から十四、五歳までが稚児、十五、六歳から二十四、五歳までが二才「にせ」と呼ばれ、特定の教師の指導を受けるのではなく、二才の代表である「二才頭」が後輩たちを教導していました。現代に置き換えるならば、大学の最上級生が小学生や中学生を教えるのです。その教えの中にも、「幼少の者をこなすな」
 (後輩をいじめるな)というのがありました。
 いじめが許されないのは戊辰戦争では敵味方に分かれた、薩摩も会津も同じなのです。今日、日本全国、いじめのニュースが絶えませんがが、「いじめ」は地域、時代に関係なく絶対悪なのですね。
 
 思いやりと自尊心〜幕末教育から学ぶものは〜
 さて、それではいじめを防ぐためには、何に力点を置いて教育すべきか、幕末から現代へ何を受け継いでいくか、私の考えを申し上げておきましょう。
 それには先ず、他者を思いやることの大切さです。
先ほど挙げました「養育往来」が出版された二年前に、大坂で大塩平八郎の乱が起こります。この大塩という人は幕府の役人でしたが、飢饉に苦しむ人たちを救うため、度々、意見を上申したり、蔵書を売ってまで貧しい人たちを助けようとしましたが、なかなか効果が得られず、ついに反乱を起こしました、大塩は大坂で洗心洞という私塾を開いていたのですが、その教えに 「血の通った動物から草木、瓦や石まで、死んだり、壊れたりするのを見れば、心を痛み、悲しい思いになるのである。すべてこれらは心の中にあるからである」つまり他者への思いやり、同情心を説いていたのです。
 それと先ほどの会津藩の「什」の掟に「卑怯なことはなりませぬ」という項目がありますが、いじめも卑怯なことです。つまり、自分が弱いからもっと弱い者をいじめるのです。本当に強い人はいじめはしないはずです。先程、武士の時代が始まったばかりの頃は、武士としての心構えを家庭で教えていたことを申し上げましたが、それでは武士の心構えとはどういうものであるのでしょうか。
武士が発生しだした平安時代のことですが、現在の埼玉県に平良文という人がいました。この人と同じ地域に住む源宛という人とどちらが強いか、決闘しようという話になりましたが、この決闘に際しては、双方とも配下の郎党たちには一切手出しはさせませんでした。 あくまでも、個人同士の力を競いあうのだから、誰かに助けてもらえば、自分の方が弱いということを認めたことになるからです。結局、この勝負は引き分けということになりましたが。
ところで、ここ田辺市出身の方に合気道の開祖・植芝盛平先生がいらっしゃいます。個人的な話になりますが、私も合気道を習っています。
この合気道には、二人掛かり多人数掛かりという技の種目があります。複数の相手がかかってきたところを全員投げ倒すという技で、二段の審査の時は二人、三段以上は三人以上の相手を投げなければなりません。つまり段が上がる程、多くの相手を倒さなければならないということです。逆に二人以上で一人の相手を倒すという技はありません。強い人ほど、一人で大勢を倒さなければならないということです。一人を倒すのに二人がかり、三人がかりは弱いということになります。
 他者を思いやることは何よりも大切ですが、しかし、他人のことを考えるということは簡単なようでも難しいことです。自尊心を育み自分が強くなるということを考えれば、いじめということがその逆であるということになるのではないのでしょうか。
 また、勝海舟の懐刀として江戸城無血開城のため西郷隆盛との下交渉をした人に山岡鉄舟という人がいます。
この人は 十五歳の時に、二十の訓示を自らに課していたといわれています。その中に
、「何事も他人の不幸を喜ぶ可からず候」(どんなことでも他人の不幸を喜んではいけません)というのがあります。
いじめが起こる原因は一つだけというわけではありません。しかし、他人の不幸や失敗を喜び、嘲り笑うということは間違いなくいじめの第一歩です。 
 例えば、学校で授業中に間違った答えを発表した級友をからかうことであるとか:。間違いや失敗は誰にでもあるのですが、した方は恥ずかしくて辛い。そこへ、周囲の人間からはやしたてられたらば、どんな思いになりますか。
 とにかく、他人の劣る点を喜ぶという心は戒めなければならないです。
 他者へは思いやりそして自分は強くなる。幕末にはこういう教育が行われていたのですが、思いやりと自尊心の両面から、いじめを防ぐということは現代の我々も学ぶべきではないでしょうか。
 
 近代社会と武士道教育
 やがて明治維新となり、武士の時代は終わりとなりますが、今申し上げました武士たちの道徳について新渡戸稲造 が「武士道」を著すなど、近代社会の中でも語り継がれていました。武士という階級はなくなってもその倫理観は残っていたのです。ところで、武士道を軍国主義と結びつけて、完全否定する意見もあるようです。確かに、戦前の軍国主義に利用されたという面はまったくなかったとはいえないとは思います。しかし、そうだからといって、現代にはまったく役立たない、かえって害だと決めつけてしまっていいのでしょうか。明治時代後期、早稲田大学の教授をつとめた安部磯雄という人がいます。この人は早稲田大学野球部(OBに田辺市出身の岩本尭さんがいる。元巨人選手、近鉄の監督も努めた)の初代部長で学生野球の発展にも貢献し、野球殿堂入りもしています。
 日本に野球が伝わったのは明治時代の初期で、学校などを中心に盛んに行われるようになったのですが、安部磯雄が野球部長になったばかりの頃は今日のプロ野球、アマチュア野球のようにきちんと日程が組まれていたわけではなく、その都度、挑戦状を送って試合を申し込むという形がとられていました。 試合を申し込む以上は勝ちたいとは誰でも思います。しかし、勝つためには、手段は選ばすということも行われがちなことです。
 ずば抜けて強いチームがあり、そこの中心選手は、日本ハムの大谷選手のように投げても、打っても抜群であったとしますが、そうした選手が病気になったり怪我をした時を狙ってわざと挑戦状を送るということも、野球が伝わったばかりの頃には行われていたようです。しかし、安部磯雄はこれは卑怯なことだ、我が国固有の武士道に背くものと戒めています。現代流に云えば、スポーツマンシップの大切さを説いたのですが、前にも述べました会津藩「什」の掟の「卑怯なことはなりませぬ」はスポーツにおけるフェアプレーの精神に通じるものではないでしょうか。安部磯雄という人は、日露戦争のさなか、周囲の反対を押し切り、早稲田の野球部の選手をアメリカ遠征に引率しました。これは国際競技を通しての世界平和という信念に基づくものです。ほぼ同じ頃、敵国となっていたロシアの文豪トルストイとも文通をし、戦争反対の意を表しています。昭和初期には衆議院議員となり、 軍国主義反対の立場をとっていました。こうした人の精神の中にも武士道は脈々と生きていたのです。ちなみに安部磯雄の実家は福岡の黒田藩士でした。
 
 就活中心の学生生活、ネットでの中傷、文系学部廃止論
 現代の危機は:。
 さて、現代についてですが、それに入るに当たって、福沢諭吉が晩年述べていたことに触れます。
「最近の学生は自分の身の行く末のみ考えて、どうしたら出世ができるのか、りっぱな家に住めるのか、うまいものを食い、いい物を着られるかというようなことばかり考えてあくせく勉強するということでは、真の勉強はできないだろう」
このことはそのまま現代にも当てはまるのではないのでしょうか。就職活動の時期が昔より早くなっていますが、 大学の三年生、四年生というのは、それまでは教室で先生の話を聴くだけであったものが、ゼミや卒業論文など自分で調べて発表するという機会も与えられ、課外活動などでもリーダーシップを発揮する貴重な時期であるはずです。そうした時期を、どうしたら会社の面接官に好印象を与えるかということにばかり頭を悩ませては本当の勉強はできるのでしょうか。明治時代末期の福沢諭吉の憂いが現代にも蘇っているようです。福沢諭吉は幕末期、大坂で緒方洪庵の適塾に学んでいます。
また、現代はネット社会です。誰でもネット接続可能な環境にあれば、自分の考えを伝えることができるようになりました。海外には、ネットへの規制がある国もありますが、幸いにも日本は現時点ではそのようなことはほとんどないはずです。誰でも自由に意見を述べられる反面、名前を隠すことができる気安さから、他者への誹謗中傷が行われるようになりました。これではせっかくの技術の進歩、表現の自由を活かすことはできません。
昔の武士は戦場での一騎打ちでは堂々と名乗りをあげて戦いました。
「卑怯なことはなりませぬ」 この言葉の意味をもう一度かみしめたいものです。
 また、文科系学部不要論がいわれていましたが、これも極めて憂慮されることです。人間の精神や社会のあり方についての学問は必要なはずです。そのことを忘れてしまったかのような人々がいることは本当に困ったことだと私は思います。特に政府の責任ある人がこんなことを言うのは、日本という国にとってとても危険なことではないのでしょうか。せっかく皆様のお目にかかれたのに、最後は悲観的な話ばかりになってしまいましたが、幕末という時代はアメリカから来た黒船の圧力でそれまでの鎖国政策を転換させざるを得なかった時代でもありました。危機感が大きな変革のきっかけとなったのです。本日、皆様に申し上げたことが何かのきっかけとなりましたら幸いです。(平成28年7月2日)
 
 
主催:田辺市青少年育成市民会議
 
会場 :紀南文化会館(和歌山県田辺市新屋敷1)