卒業式なのに校歌を歌えないなんて                                     菊池 道人                                                                            

母校・早稲田大学から届いた刊行物。袴姿の女子学生が歌詞カードを見ながら校歌を歌っている写真が載っていた。卒業式の写真である。入学式のではない。卒業式なのに校歌を覚えていない。それを学校当局が発行する刊行物の写真に。

母校の校歌を知らない学生がほとんどという大学は珍しくはない。しかし、筆者が通っていた早稲田大学はそうではない。そうではないことが学校の特色である、と筆者は思う。しかし、「であった」と過去形にしなければならなくなっているのであろうか。そして、大学当局が「校歌なんか知らなくてもよい」と考えているのであろうか?

早稲田大学では、昔から、学生に校歌を覚えることを強制していたわけではない。しかし、校歌を覚える場は、多くの人々によって育まれてきた。 神宮球場で毎年、春秋に行われる東京六大学リーグ戦。試合開始前に、各校応援部主将の指揮でそれぞれの校歌を歌い、エールを交換、お互いの健闘をたたえ合う。七回の攻撃開始時も副将の指揮で歌う。アメリカの大リーグでは、観客全員で「球場に連れてって」なる歌を合唱する慣習があるが、日本の学生野球は各校の校歌である。両国の野球文化の違いを思わせるが閑話休題。試合終了後はまた校歌を歌って、応援も終了する。つまり、母校の野球の応援に行けば、三回は校歌を歌うことになる。この六大学リーグ戦の最終カードは、毎回「早稲田対慶応義塾」すなわち「早慶戦」。 「春の早慶戦を経験して初めて早大生となる」と、昔、ある教授は言ったそうである。神宮球場は満員で、他のカードは応援席は内野のみであるが、早慶戦は外野にも応援席ができる。その大観衆の一人となり、校歌を轟かすことによって、早稲田の、慶応の学生である、ということを実感するのであるという。新入生にとっては感激の通過儀礼でもある。  春の早慶戦は今でも内外野とも満員となる。

 早慶戦は秋にも行われる。「秋は稲穂の実る頃、熱気あふれる健児らが 早慶戦に命かけ 神宮球場どよめかす」これは「早稲田の四季」(作詞・森豊)という学生歌の三番の歌詞である。  第一回早慶戦は明治36年(1903)の「秋」であった。両校の応援の過熱により、中止となつたのはそれから三年後の秋のこと。それから19年間の中止期間を経て、大正14年(1925)の「秋」に早慶戦は復活した。太平洋戦争中の昭和18年、出陣学徒にとっての「最後の早慶戦」も秋ならば、戦後の復活試合第一号も昭和20年の秋であった。昭和35年には、六連戦にも及ぶ激闘、そのうち五試合を投げぬいた今は亡き安藤元博投手に後に監督として母校を初の四連覇に導くことになる野村徹捕手のバッテリーの活躍などで早稲田が勝利したのも秋のことであった。  歴史的な節目の試合は秋に多かったような感じがある。  試合終了後、秋の夕闇迫る中、野球部の四年生たちが応援席で挨拶をする。出場機会がないままに学窓を去る選手、部員までもが感涙にむせぶ。もらい泣きをする観客も。秋には春とはまた違った感動がある。  しかし、今は秋の早慶戦は、内野応援席は成立するが、外野は空席である。  春の早慶戦は各サークルの新入生歓迎行事を兼ねているが、秋になると、学生たちの関心も薄れるということがいまや常識て゜あるとも言われている。

春は満員でも、秋は外野には閑古鳥。

こうした傾向は、筆者が早稲田を卒業した昭和60年頃から始まったように記憶している。 その理由を「野球部が弱いから」「スター選手がいないから」と誰かが訳知り顔に言えば、大抵の人が納得してしまうきらいがあった。  実際、早稲田は、筆者が二年生の昭和57年秋、大学創立百周年の年に優勝して以来、七年半も優勝から見放されるという 低迷時代があり、それが観客減少とほぼ時を同じくしていた。しかし、それはたまたま時を同じくしていただけであり、野球部の成績とは無関係であるということがやがて証明される。

平成5年秋、早稲田は一敗でもすれば優勝の可能性は消滅するという崖っ淵から、対明治戦そして慶応戦と引き分けを挟んで四連勝。劇的な逆転優勝を遂げた。しかし、優勝を決めたその試合でも、外野席はがらがらのままであった。 内野席で応援をしていたのは全学生のごく一部である。

選手たちが自主的に決めた打順を監督に進言するなどリーダーシップを発揮したこの年の主将・仁志敏久選手(現巨人)は述懐する。「あの優勝の喜びはプロでも味わえない」と。頭脳的プレーに定評のある、我が国球界トップクラスの名二塁手がここまで言いきる「喜び」を選手たちと共有することなく母校を去ったことを後悔している人々はいったいどれくらいいるのであろうか。

前述、野村徹監督の指導、采配で達成された四連覇は平成14、15年の春秋。 快刀乱麻の奪三振ショーを繰り広げた頭脳派左腕・和田毅投手(現ソフトバンク)、攻守にわたり洗練されたプレーを見せた遊撃の鳥谷敬選手(現阪神)、後にオリックス時代のイチロー選手に次いで日本プロ史上二人目の年間200本安打を達成した青木宣親選手(現ヤクルト)もいた。その青木選手に続くスター候補として、強打の武内晋一選手はヤクルト入り、速球派右腕の越智大祐投手は、名門復活の担い手の一人として期待され、巨人へ:。 しかし、彼らの力をもってしても、春は満員、秋はがらがらの状況は変えられないままである。 主たる原因は野球の成績ではない。母校の求心力の低下でなくて何であろうか。

早慶戦に限らず、かつてはプロをも凌ぐ人気であったという六大学野球。その看板スターであった立教の長嶋茂雄選手が巨人入りして以来、ファンの関心もプロへと移っていったという。そして、長嶋人気が呼び水となって隆盛を極めた日本のプロ野球もイチロー、松井といったトッププレーヤーが大リーグに流出し、衰退傾向にあるという。 こうした趨勢は、もちろん、無視することはできないであろう。

しかし、大リーグにも日本のプロ野球にもない学生野球の魅力とは? それは「グラウンドでプレーするのも、客席で応援するのも同じ学校の人間である」ということである。 選手と観客の間に「母校」という共通項があることである、と少なくとも筆者は思う。それだからこそ、勝った時は喜びを、負けた時は悔しさはありながらも明日の再起、飛躍への祈りをこめて校歌を歌うのであり、歌詞の一字一句が心に刻み込まれるのである。 入学の動機が、たとえ偏差値や就職率であったとしても、こうした経験は、単に実利的なだけではない何かを学生たちの心にもたらすはずである。 学校当局もそれを認め、評価していたからこその先述の「早慶戦を経験して初めて早大生となる」という台詞であろう。現に筆者の在学中もしくは卒業後もしばらくの間は、早慶戦のある日は、ほとんどの授業が休講となっていた。学生の本分はもちろん勉学であることには相違ないが、スポーツの応援を通じても、豊かな感性を育む。それが、学問やサークル活動を行う活力にもつながる。そして、校歌を思いっきり歌うことで、建学の精神を自覚する。それだからこそ、一日の休講に代えるだけの価値があった。 ところが、それはいまやすでに「過去の話」どころかそうした「過去」すら知らない学生も多いようである。 「早慶戦のある時は授業が休みになった」という「昔話」を筆者から聞いた現役の応援部員は驚いていた。

近年、早稲田では、野球、ラグビーなど学校の代表的なスポーツの強化に力を入れ、スポーツの実力による推薦入学の枠も拡大している。しかし、いくら優秀な選手を入学させても、その選手たちを応援することを奨励しないで、学生スポーツの意義があるであろうか。毎年のようにドラフト候補選手を輩出するある大学の試合では、応援にくる学生よりもプロのスカウトが多いと言われているが、学校当局が掲げる「スポーツ王国」の姿とはそうしたものなのであろうか。

スポーツの応援はもちろん校歌も強制すべきものではないであろう。しかし、ほとんどの学生が校歌を歌えることを特色としていた大学がその特色を平気で捨てる(卒業式に歌詞カードを見ている学生の写真を学校の刊行物に平気で載せることからはそう感じられる)ことを看過していてよいものなのか。 不用意な問題発言でたびたび物議をかもし出した某元首相に、秘書の給与疑惑事件を起こしながら、性懲りもなく返り咲き当選を果たした某野党女性議員。早稲田出身政治家の資質の低下に加えて、昨今は現役学生による性犯罪。 このような時期こそ、母校の建学の精神を刻み込んだ校歌を歌うことで、襟を正すべきである。

だが、その校歌の一節に付随し、気になることがある。 これはある意味では、学生が校歌を覚えるかあるいはスポーツの応援に行くかよりも重大な問題であろう。 校歌に歌われた「学の独立」の位置づけである。 大学当局が掲げる「第二の建学」では「学の独立」は「独創的先端研究への挑戦」となっている。「先端」への挑戦は大いに結構である。しかし、「学の独立」とそれとは別のものである。早稲田大学の「学の独立」とは、明治15年に学校が創立されたその開校式に、創設者たる大隈重信が自身の政治活動と学校教育とを峻別すべく、欠席したことで体現化された(その当時、外国語による講義が主流であったことに対して、母国語による教授によって、日本国民の他国への隷属から決別せしめんとの意図も学問の独立に含まれてはいたが)。 学問・教育を政治から独立させる。若き人々を育て、学問を通じて真理を探求し、人格を形成するにあたり、権力による圧力やイデオロギーによる偏見は排除しなければならない。それがどうして時代錯誤なのか。もちろん、長い学校の歴史において、必ずしも、その理想通りにいかなかったという現実も確かに存在する。しかし、それだからこそ、平成時代、二十一世紀にこそ生かさなければならない精神なのではないか。 それを忘れた校歌の歌詞など、学生に覚えてもらう意味があるのであろうか。校歌を歌えない学生の写真を学校の刊行物に掲載するなど恥知らずもはなはだしい。少なくとも早稲田においては。しかし、それ以上に、母校の歴史、伝統、建学の精神を正しく理解して、後進に伝えてもらいたい。先ずは、総長を始めとする現役の諸先生方の猛省を願うとともに、筆者も一校友として、自戒をこころがけたい次第である。

(平成18年早春)

参考:早稲田大学校歌 作詞・相馬御風  作曲・東儀鉄笛

1都の西北 早稲田の杜に 聳ゆる甍は 我らが母校 我らが日頃の抱負を知るや 進取の精神 学の独立 現世を忘れぬ 久遠の理想

輝く 我らが行く手を見よや わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ

2東西古今の文化の潮 一つにう゛すまく 大島国の 大なる使命を担いてたてる 我らが行く手は 窮まり知らず やがても 久遠の理想の影は

あまねく 天下に輝きしかん わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ

3あれ見よかしこの 常磐の森は 心のふるさと 我らが母校 集まり散じて人は変われど 仰ぐは同じき 理想の光 いざ声そろえて 空もとどろに

我らが母校の 名をば讃えん わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ