津久井町いじめ自殺事件  菊池 道人

  1、湖畔の学舎の教室から

 東から来る者たちを威嚇するかのように、 その山は聳えている。城山という名のその山には、戦国時代には 津久井城があった。城といっても天守閣のな い、中世形の要塞であるが、往時は、小田原 の北条氏にとっては、甲斐の武田氏に対する 前線基地であった。武田と北条とは、同盟と抗争とを繰り返し ていたが、この城の主・内藤一族をはじめ津 久井に住む人々は、城の西側に対する警戒心 を抱きながら、生活していた筈である。  北条氏の滅亡から四百年余り後の今日。山の麓には城山ダムがあり、それによって 出来た人工湖・津久井湖は神奈川県下の水の 供給源である。山とダムの東側は城山町、西は津久井町と いう行政上の区分になるが、山の西側に住む 人々は、かつては、さらに西の強敵・武田信 玄に向けていたであろう敵意を、いつからか 東の方へ向けるようになっていた。橋本駅からバスで三十分。相模野に不意に 現れるこの山の不気味にすら覚える姿は、人 々の心を表しているかのような気もする。

 平成六年四月。相模原市から、津久井湖の 南岸にある中野中学校に転校してきた当時二年生の平野洋君は、ボーイスカウトに参加し 、野外活動が大好きであったという。 津久井は北の高尾山、南の丹沢山に挟まれ 、山林の緑豊かな土地である。  豊富な自然の中での新生活に胸を弾ませて いた。 が、しかし、一日のうちの多くの時間を過 ごさなければならない学校は:。  中野中学校は荒れていた。窓ガラスは割られる。校舎の上から消化器 は落とされる。生徒の喫煙も公然と行われ、 校内暴力で負傷した教員もいた。  洋君が転校して来る前年のPTA・学年委 員会だよりには、「先生方がグループで見回 りをされている中で、バケツ一杯の吸殻:」 という保護者の発言が記載されていた。その 他にも、クラス新聞などに、風紀の乱れを指 摘する生徒の文が掲載されていた。そのような状況の中での、四月五日の始業 式。この日、初めて中野中学に登校した洋君 は、別のクラスの男子生徒Mら数名に取り囲 まれた。Mは喫煙での補導歴もあり、空手を 習うなど腕力も強いことから、他の生徒から も恐れられる存在であった。 「おまえ、何処から転校してきたんだ」 「髪の毛長いじゃん」  明らかな威嚇であった 洋君が所属した二年三組の生徒たちの態度 も決して、暖かなものではない。ゴールデンウイークが近づく頃、早くも「 陰湿化」したいじめが顕著になっていた。  同じクラスの女子生徒、S、Nらは、普段 、いじめていた別のクラスの女子生徒に、無 理やり、洋君宛の偽のラブレターを書かせた 。洋君がそれを受け取った時、男子生徒たち も周囲ではやしたてた。  が、洋君はそれを気にしないかのように破 り捨てた。女子生徒のSやN、Kらは、無視 されたのが悔しくて、仕返しに、洋の机を教 室の外へと運び出した。この時は担任の教師が注意し、机は元へと 戻された。  しかし、洋君への執拗ないじめはこの後も 延々と続く。女子生徒のSやN、Kに男子生 徒のU、0、K、Sなども加わり、教科書の 投げ捨てや足掛けも頻繁に行われた。

 五月の末、洋君の母親・君江さんは、英語 のノートに落書きがされてあるのを発見した 。「私は占い師だ。君は呪われている。死な なければ解決しない」比較的きれいな字で、 女子生徒によるものらしかった。 君江さんは、担任教師に電話連絡し、その 旨を知らせた。すでに、転校に際して、前に通っていた相 模原の中学校でもいじめに会ったことがある ので、注意を払って欲しいとの要望も伝えて はいた。  約一ヵ月後、今度は、担任から「青あざを 作ったが、ゲームでやったことだから心配は いらない」との電話が君江さんにあった。  担任が知らせた通り、洋君は「青あざ」を 作っていた。直るまでには約一週間かかった 。  この「ゲーム」とは、じゃんけんで勝った 方が負けた方をつねるという「ルール」で洋 君の相手は、始業式の日に威嚇したMであっ た。担任は飽くまでも「ゲーム」としていた 。  洋君は、この頃には、同じクラスの男子生 徒らから、ベランダで集団で殴られるなどの 暴行を受けていた。  洋君は活発で負けん気が強く、やり返すこ とも多かった。  口で言い返しもし、時には、取っ組み合い や殴り合いもしていた。  担任の目には、偶発的な「喧嘩」と映って いたという。しかし、洋君は一人で、何人も の生徒と敵対していた。  担任は、トラブルを十数件、認知していた というが、それらに気づく度に、洋君と相手 の生徒を「仲直り」させようとしてはいた。  しかし、「いじめ」と「喧嘩」の定義上の 区別が担任には出来ていたのか。  そして、洋君がクラスの中で置かれている 立場についての認識は:。  さらには、担任教師がほとんど全科目を担 当する小学校と違い、中学校は科目ごとに教 師が代わる。洋君のクラス担任は国語の教師 であるが、他の教師との情報交換、「いじめ 」をはじめとする校内の問題に対する学校を あげての取り組みは。 横浜地裁での一審の証人尋問に出廷した担 任教師の口からは、残念ながら、反省さらに は発展的な検討の材料となりうるような証言 を聞くことはできなかった。

 「いじめ」はエスカレートするまま、夏休 みは近づいていた。七月八日、二泊三日の社 内研修に出掛けていた父親の信矢さん(会社 員)を迎えるため、母親・君江さんは橋本駅 に車を走らせた。この日、同乗していた洋君 はいつになくはしゃいでいたという。話の内 容は、テレビゲームやボーイスカウトの日本 ジャンボリーのことであったという。洋君は、時折、父親の信矢さんと風呂に入 り、学校のことも聞かれれば、話したという が、いじめられているとは一言も言わなかっ たが、ベランダでの集団暴行は一層ひどくな り、クラスの中にも、洋君が自殺するのでは 、と口にする者も出ていた。

 七月十四日の放課後。二年三組の教室には 、男子生徒Uと偽のラブレターを仕組んだ女 子生徒S、Nに他のクラスの者も含む数名が 集まって、話し込んでいた。平野洋君の悪口を言い合っていたのである 。そこへ、男子生徒のUも加わる。洋君をい じめていた一人である。Uは洋君のテストの点を見ようとしたが、 見せてもらえず、教科書をごみ箱に捨て、洋 君に殴られていた。そのために、SやNたち の会話に入ると、火に油を注ぐようになって しまったのであろうか。洋君への悪口は、言葉にとどまらずに、あ る行為へと移行した。Uが洋君の椅子の上に床に落ちていた画鋲 を置いた。Nも黒板消しで洋君の机の上を叩く。チョ ークの粉がうっすらと残るくらいまで叩いた 。Uは、給食のマーガリンを見つけると、洋 君の歴史の教科書につけ、さらに机の上にも 置いた。Nがそれを伸ばす Sも机の上に花瓶の水をまいた。かくして、食品までも使う異常ないやがら せ行動が、夏の緑に囲まれた湖畔の学舎で行 われた。

 翌日、洋君は、いつものように登校してき た。前日の放課後の「異常行動」の跡は生々し く残っていた。「立った方がいいよ」 誰かが洋君に声をかけた。 が、洋君の目には、マーガリンでべとべと になった自分の机が映っていた。この時の洋君の心境それはこの後の行動に よって、今となっては推測するしかない。事態を知った担任は、アンケートによる調 査を行い、Nらが名乗り出た。その時も、洋君とNらに注意をした。が、「じゃんけんゲーム」の青あざの時の ように、家庭に連絡するということはしなかった。

 その日、洋君は、歯医者に行くからと、部活動(コンピューター部)に参加せずに帰宅 した。 夕方、テレビゲームをやっていると、君江 さんから、 「勉強でもしたら」  と言われて、二階の自室に入っていった。 しばらくして、買い物から帰って来た君江 さんが、二階に上がると、洋君は自室のクロ ーゼットの中で、ロープで首をつっていた。 自宅近くの津久井日赤病院へ運ばれたが、 すでに短すぎる命は終わっていた。

 深夜、斉藤弘校長・渡辺貞雄教頭(いずれ も当時)と担任が弔問のため、平野家を訪れ た。担任が「気をつけていたのに、こんなこと になって」と言いかけたところ、同行者の誰 かが(校長か教頭のいずれか)が咎めた、と 父親の信矢さんは、陳述書(横浜地裁に提出 )で述べている。告別式までには、学校関係者が数回来訪す るも、ただ弔意と驚いているとことだけを言 うのみであった。洋君の両親が、学校でのマーガリン事件を 知ったのは、七月十八日のことであった。  告別式の手伝いに来た信矢さんの知人が、 十七日の夕刊と十八日の朝刊の切り抜きを見 せて、初めて知った。学校関係者からではなかった。       

 2、町ぐるみのいじめ隠し

 平野洋君と他の生徒との十数回のトラブル を認知しながら、担任から校長への報告は一 度もなかった。  しかし、洋君が自殺してから後の中野中学 校の対応は、皮肉な云い方をすれば、実にそ つなく迅速であった。洋君が所属していた二年三組の生徒の父母 たちには、電話連絡網で、マスコミへの対応 は慎重にするようにとの指示を伝え、さらに は、亡くなった翌日の七月十六日の朝には、 全校生徒を体育館に集め、同様の趣旨を徹底 させた。十九日には、PTA主催(といっても実質 は学校主導であったが)の「保護者総会」が 開かれたが、洋君の両親である平野信矢さん、 君江さん夫妻は、強く要請したにもかかわら ず出席を認められなかった。 一年生から三年生まで、全校生徒の父母の 八割から九割が参加、学校からは平野洋君の 自殺についての報告があったが、原因は不明 としていた。すでに、新聞各社は、自殺の原因はマーガ リン事件などのいじめであると報じ、警察も その線で調査を開始していた。しかし、学校側は、自殺の原因がいじめで ある、とは説明しなかった。質問をする人は、誰の父母であるかを名乗 るように、との学校側からの指示があった。  明らかに、子供を人質にとる形であった。                          「PTAといっても、ほとんど学校の言いな りになっている。余り騒ぐなというようなこ とを伝えるための会であった」  当時副会長の小杉麻雄さん(タクシー運転 手)は、語っていた。

 保護者総会への出席を拒否された平野さん 夫妻は夏休みと前後して、何度も学校へ出向 いたが、なかなか納得のいく説明は得られな かった。 津久井町の教育委員会へも出向き、「我々 は情報が欲しい。学校の箝口令に阻害されて いる」と訴えたが、永井一浩教育次長(当時 )らは、教育委員会としては、学校を通して 調査している。町教育委としての調査はしな い、と答えた。その間、斉藤弘校長は、教育委員会への報 告書の中で、「愛されたことのある人は、自 ら死を選ぶことはしない」と記していたこ とが、後に法廷の場にて明らかになった。  津久井町議会でも、洋君の自殺事件は取り 上げられた。しかし、奈良保男教育長(当時 )は、マーガリンが洋君の机に塗られたこと などの外形的事実は認めながらも、「いたず らやちょっかいの範囲で、飽くまでも成長過 程の範囲内」との趣旨の答弁をした。  机にマーガリンを塗るような行為を「成長 過程の中の出来事」と発言するような人々が どうして教育行政に携わる役職についている のであろうか。一体、この津久井町の人々の倫理観念はど うなっているのか。                     「この町では、先祖代々暮らしている人同士 の連帯感は強いが、他の土地から移って来た 人に対しては、冷たい」  心ある人たちは異口同音に言う。  転校して来た平野洋君への態度、さらには 自殺後の対応、まさしくよそ者排除の論理で ある。  津久井地方では、他の土地から移住して来 た人のことを今でも「旅の者」と呼んでいる という。  山に囲まれ、鉄道も通らないこの町では、 現在でも、他の土地との交流が盛んとはいえ ず、そうしたことが排他的な体質の温床とな っている。そのことへの分析はまた後に譲る として、洋君自殺事件と学校の対応に対する 別の動きについても触れなければならない。

 洋君が亡くなった年の十一月、前述の小杉 麻雄さんを中心に、「子供と共に育つ会」が 結成された。この会は、政治や宗教に左右さ れず、いかなる団体にも属さずに、津久井の子供たちを取り巻く問題を考えていくという 趣旨である。娘が中野中学校に転校したとたんに、喫煙や家出を繰り返すようになったと いう経験を持つ父親など、会の趣旨に賛同す る人々が集まりはじめた。平野さんご夫妻も この「育つ会」に加わり、地域の人々と力を 合わせて、洋君の自殺事件の真相究明に乗り 出す決意を固めた。「育つ会」では、地域住民に子供の教育問 題へのアンケートを行う一方で、平成六年十 二月には、津久井町の天野望町長と奈良保男 教育長宛にいじめ問題への対応の改善を求め る要望書を提出した。しかし、約一ヵ月後の 一月十三日付で届いた天野町長と奈良教育長 との連名の回答書には「いじめによる死に至 った事実の確証はつかむことができなかった 」というものであった。「育つ会」では、その後も粘り強く中野中 学校や町の教育委員会、さらには神奈川県教 委とも話し合いの場を持ったが、納得のいく 回答を得られなかった。県は町に調査を任せ 、町の教育委員会は、学校に任せたとの答え ばかりであった。地方分権や学校自治など「 民主的」な聞こえのいい言葉も時としては、 ただの無責任な丸投げ主義となることもある 。洋君をいじめていた同級生たちには、反省 する機会が与えられぬまま、卒業の日は近づ いていた。

 高校入試が終わり、卒業式も近づいている 平成八年二月末、筆者は初めて、中野中学校 前を訪れた。  西門近くでは、まだ授業時間だというのに 女子生徒が一人でいた。最初は体調が悪く て早退するつもりで、保護者が迎えに来るの を待っているのかな、とも思った。しかし、 いつまで経っても一人で佇んでいる。  休み時間になると、ノーネクタイ(中野中 学校の制服は背広にネクタイ着用)でハンド ポケットの男子生徒が学校のフェンスを乗り 越えて、国道413号線の向こう側のコンビ ニエンスストアに行き、菓子を頬張りながら 悪びれる風もなく、学校内へ戻って行った。体育館(学校の西側)の裏側では、先程の 女子生徒が、まだ一人でいた。  筆者が気づいてから、約一時間が過ぎてい た。二階からある男子生徒が首を出し、その 女子生徒に何か言った。何を言ったのかは、 聞き取れなかったが、女子生徒は急ぎ足で校 舎の中へ入って行った。  もしかしたらば、あの女子生徒も「いじめ 」にあっているのでは。確証こそ見いだすこ とはできなかったが、疑いはぬぐい去ること ができなかった。午後一時半。紺色の名札の三年生たちは下 校を開始した。  最初に出て来た男子生徒に、平野洋君のこ とを尋ねた。 「クラスは違っていたけど、知っている」  という答え。 「先生たちからは何か言われていたのかい」  という質問に、 「余計なことを言うなといわれた」  と答えた。  次には二人連れの生徒が来た。そのうちの 一人は洋君と同じクラスであったという。  マーガリンの件で、担任がアンケートをと ったことがあったことは認めた。が、実際に 塗るところは目撃していないという。 「だから、アンケートにも知らないって、答 えた」 「先生からは余計なことを言うなって言われ ていたのかい」  それに対して、 「言われたかもしれない」  と答えた。その後、また別の男子生徒が通りかかる。  同じ質問をすると、立ち止まりもせずに、 「うるせえな」  とつぶやきながら、413号線を東の日赤 病院方面に去っていった。  女子生徒たちに同様の質問をしてみるが、 異口同音に 「別に:」  また、質問している筆者を敵意に満ちた視 線で見つめている女子生徒もいた。一年半前の箝口令はいまだに有効であった のか。

 それにしても、洋君が自殺した日の夜には 電話連絡網、翌日には体育館で全校生徒への 箝口令、学校に任せっきりで独自の調査をし ない教育委員会。町ぐるみのいじめ隠しが、これ程までに有 効に機能しているからには、何者かを中心に して、統一的な指揮系統が形成されているの ではないか。前にも述べた「育つ会」の町への要望の過 程において、小杉さんは、天野望町長とも会 談した。その中での天野町長の発言。 「私はこの町の町長だけど、教育に関しては 、教育長の方がえらいんだからね」  教育委員会に全て任せてあるような言い方 をしておきながらも、 「渡辺はえらい人だ。泣き言を言わない:」  渡辺とは、洋君が自殺した当時の渡辺貞雄 教頭である。 「あれ(渡辺教頭)は僕が引っ張って来たの だが:」  渡辺貞雄教頭は東京都出身。昭和四十四年 に東海大学を卒業、津久井町立中野中学校に 英語科教員として採用され、同四十七年から は相模湖町立北相中学校に十一年間勤務して いた。天野、渡辺両氏の関係がいつから始まった のかは詳らかではないが、昭和五十六年に天 野氏が津久井町議選に初当選すると、その二 年後には渡辺氏は津久井教育事務所で社会教 育主事に昇格した。天野氏が津久井町長に就任したのは、昭和 五十九年であるが、平成二年に渡辺氏は町の 教育委員会社会教育課長、そして同四年には 中野中学校教頭となった。東京から来た渡辺氏は津久井では、「旅の 者」であるにもかかわらず、順調な出世ぶり である。しかも、天野氏が町議、町長に当選 した後に昇進している。  洋君が出席する筈の卒業式も終わり、平成 八年度を迎えた。  依然、学校、教育委員会は「いじめ」と「 自殺」の因果関係を認めていなかったが、中 野中学校の渡辺教頭は、相模湖町立桂北小学 校校長に昇格した。十一年には、津久井町立青野原中学校の校長になっている。                                                      

3、尾崎行雄の孫までもが:                                                                               今でも残る昔ながらの門構えの屋敷。奥丹沢の麓、宮が瀬湖にも近く、鳥屋と書 いて「とや」と呼ぶ地域の人々の暮らしは、 「うえのやしき」という屋号を持つこの屋敷 の住人の顔色を気にしながらのものであった のであろう。  豊臣政権の末期から関が原の戦いを挟み江 戸幕府創設までの激動があった慶長年代(1 596−1615)頃から続いているという 「うえのやしき」の住人で、代々の名望家で あった天野一族。  明治十七年(1884)に生まれたこの一 族の四男の貞祐氏はカント研究の哲学者とし て名を成し、吉田茂内閣では、文部大臣も努 め、独協大学の創立者にして、初代の学長で もあった。  貞祐氏の長兄の康三氏は、天野家の家督を 継いだが、彼の妻・千代子氏は、津久井又野 生まれの政治家・尾崎行雄氏の妹である。  康三の長男の泰夫氏は、昭和二年、二十八 歳の若さで鳥屋村長に就任し、「青年村長」 といわれ、昭和二十年までその任にあった。  昭和三十年、町村合併により、鳥屋村は津 久井町に組み込まれた。  天野泰夫氏は、その年に新制・津久井町の 町議会議員に当選、同年議長に就任した 三十八年、津久井の町長選挙に立候補した が、武内奥三郎氏に破れた。  天野氏は、心ならずも野に下ったのだが、昭和四十四年、状況は激変する。津久井町三ヵ木にゴルフ場を建設していた 津久井観光は、実際にはできなかったゴルフ 場の新コース入会金を横領した疑いで、会社 幹部が東京地検特捜部に逮捕された。さらに、この津久井観光が、新用地の賃貸 を依頼した謝礼として、当時の町議会議長と 副議長、それに武内町長に賄賂を送ったとい う疑いで、町長らも逮捕された。武内町長は辞任に追い込まれ、その後任選 挙に出馬した天野泰夫氏は、天野貞祐、尾崎 行雄両氏の親戚という「毛なみの良さ」もあ って、対立候補の山口怱吉氏を破って、津久 井町長に当選した。鳥屋の王者「天野一族」は、同じく津久井 町に組み込まれた三井、串川、中野、青根な どの諸勢力を抑え、ついに合併「津久井町」 に君臨することとなった。が、それも束の間、天野泰夫氏は三年後の 四十七年十一月に、任期途中で病死する。その後を継いだのは、助役の梅沢忠郎氏で あった。  再び天野一族には「冬の時代」が訪れたの ではあったが、またしても春は巡ってくる。昭和五十六年。天野泰夫氏の三男の望氏が 町議会議員に当選した。三年後の五十九年十二月、四選目を目指す 梅沢忠郎氏を約三千八百票の大差をつけて破 り、津久井町長の座についた。この選挙で、望氏は、町内の建設業者や商 業者を中心に組織作りをし、「長期政権で独 断化した梅沢町政を阻止し、人間尊重の町政 を復活させよう」と訴えていた。しかし、現在(平成十四年)までの十八年 、五期目に及ぶ天野望政権は、「人間尊重」 の町政を行っているのであろうか。ある住民は、筆者の取材に対して、こう答 えていた。 「天野貞祐先生は品の良さそうな方でしたけ ど、今の町長の望さんはよくわからない人で すね」

 父泰夫氏が津久井町長となるきっかけとな った「ゴルフ場疑惑」の際、町の体質がマス コミ等によって指摘された。 「町民同士の結びつきも固く、義理や人情が まだまだものをいう所に、ボス政治を生む素 地が生まれる。ボスたちはちょとしたことで も振る舞いにあずかり、平気で現ナマを受け 取る」(毎日新聞 昭和四十四年九月四日) 鉄道も通らず、人口も少ない山間部の町で は、古くからの地縁、血縁によるなれあい政 治が根強く残っている。さらに、町議会では、ほとんどの議員(革 新系政党に所属の人たちも含め)が町長派と いわれ、それは今なお続いているという。が、それでも、ごく少数の「良識派」の議 員によって、町政を巡る問題点も指摘されて はいる。例えば、平成十年に行われた「かながわ・ ゆめ国体」、天野町長宅にも近い鳥屋には、 馬術競技場が建設された。建設費は総額29億円ともそれ以上ともいわれている。  津久井町では、馬術場建設の費用を捻出す るために、役場の昼休みは停電にまでした。津久井町、神奈川県の税金の使い道という 観点からも大問題であるが、さらに環境上の 問題もあった。馬術場の建設された土地には、町内・青山 にあるごみ焼却場で生じた残灰が長年にわた り投棄されていた。そのごみ焼却場の電気集塵機の残灰からは 、680ナノグラム(一ナノは一億分の一) のダイオキシンが検出されている。(拙稿「 国体馬術場にダイオキシン疑惑」(「地球環 境」平成十年十月号参照) その馬術場の用地のもとの所有者は、秋本 薫町議(故人)の一族のものであったという 。また、平成七年度から十年度にかけて、津 久井町が発注した工事において、予定額の九 割を超える額で、町内の業者に落札されたこ とが、佐藤健一町議によって指摘されていた。複数の町議が町の公共工事について、入札 前に町職員から聞き出そうとしたことも表面 化した。しかし、これらの問題への追求もほとんと どが尻切れトンボに終わってしまい、住民運 動もほとんど起きないといわれている。天野町長も五期目に入っているが、四年ご との改選に、対立候補が出馬することはなく 、無投票で再選されている。 長年の地縁、血縁による馴れ合い、ボス政 治。議員のほとんどが町長派で、一党独裁に 近い形の町議会。 議員ばかりでなく、町の要職につく人々も 有力者と何らかの縁故でその役につく。  教育に携わる人々も:。前号で指摘した、平野洋君自殺当時の中野 中学校の渡辺貞雄教頭もその一例であろうか 。教育委員も、「地方教育行政法第4条1項 」によれば、「人格が高潔で、教育、学術、 及び文化に関し、識見を有するもののうちか ら、地方公共団体の長が、議会の同意を得て 任命する」ことになっている。 津久井町では、天野望町長(文相時代に道 徳教育の復活を提唱した天野貞祐氏の親戚で もある)が「人格が高潔」として任命した「 教育委員」が、机にマーガリンを塗るような 嫌がらせをそれもそれがために自殺に追い込 まれるような子供がいても、「成長過程の範 囲内」としているのである。

 度々の真相調査要請にも応えぬ町:。  平野洋君の両親は、横浜弁護士会の人権擁 護委員会に調査を依頼、そして平成九年五月、 横浜地方裁判所に損害賠償を求め、訴訟を起 こした。訴訟の対象は、神奈川県、津久井町、 そしていじめに加担したとさる男女生徒十名 であった。  かくして法廷闘争は始まったが、ここでも 、天野望町長とその一族の影が見え隠れする 。  被告・津久井町の代理人となったのは、赤 松俊武弁護士。東京第一弁護士会所属である 。この赤松弁護士は、独立開業前の勤務先は 同じく東京第一弁護士会所属の尾崎行信氏の 法律事務所であった。尾崎行信氏の祖父は、「憲政の神様」とい われた尾崎行雄氏。その妹は、前述したよう に、鳥屋の名望家・天野康三氏に嫁いでおり、その孫が津久井町の現町長・天野望氏である。つまり、赤松弁護士は、天野町長の親戚の法律事務所に勤務していたのであった。しかも、尾崎行信氏は、平成六年二月から 、平成十一年四月までの間、最高裁判所判事の地位にあった。平野洋君の両親が訴訟を起こした平成九年 の時点では、云うまでもなく、我が国司法界の中枢にあったのである。そのような立場にある人が、裁判の当事者 それも「いじめ隠し」をした行政当局の弁護人を斡旋していたのではないか、という疑惑は容易にぬぐい去ることはできない。しかも、尾崎行雄といえば、自由民権運動 、大正デモクラシー、普通選挙運動の第一線に立ち、軍国主義にも抵抗し、恒久平和のために「世界連邦」まで提唱した政治家として 伝えられている。尾崎行雄記念財団発行の伝記では、「政治 家たるものは、何が国民の幸福であるかとい う善悪の区別を判断する能力が絶対に必要で あり、その信ずるところを、良心に従って、 断乎として行う勇気が必要である、といって いた」と記されている。(「尾崎行雄伝」発 行責任者 相馬雪香氏) 天野望津久井町長、尾崎行信判事には、果 して、一族の誇りであろう尾崎行雄氏が説い ていた「善悪を区別する能力」があるのであろうか。弁護士出身の裁判官によって生じる司法制 度上の問題、それ以上に公職にある者の倫理感。「子供が悪くなるのは、大人が悪いからだ 」という台詞に対して、筆者は、長年、半信半疑であった。偶然、同じ期に起こった少年犯罪と政治家 の汚職を引き合いに出しただけでは、説得力 の弱さを感じなくもなかった。 しかし、津久井町の「いじめ裁判」は、言 い古されたような台詞が、決して嘘ではない ということを物語っている。山に囲まれた中学校の教室から最高裁まで つながる糸が見え隠れしているのだが:。                                                                                                                                                                               

 4、余所者排除の論理を生んだ歴史的風土                       津久井町の東の入口に、まるで外部から来 る者たちを睨みつけるように聳える懸崖。その上には、かつて、小田原北条氏に味方 していた内藤氏の根城、津久井城があった。北条三代目の氏康は、家臣たちの所領高と それに応じた軍役での負担を記録した「小田 原衆所領役帳」をまとめあげたが、それによ ると、津久井城を守護する「津久井衆」の所 領貫高の集計は2238貫文(当時は所領の 大きさを年貢の銭高で示した)で、記録され た侍は59人であった。小田原城を本拠地とする北条氏は、その勢 力下にいくつかの支城を置いていたが、津久 井城は、先述したように西の強敵・武田氏に 対する前線基地である。当時の武士たちは普 段は農業を営み、危急の折りには武器を携え て、砦や城に集結する。内藤氏をはじめとする59人の津久井衆は 北条配下の侍衆の中でも最も緊張した環境の 中で暮らしていた筈である。現に永録十二年(1569)に、小田原城 を攻めた武田信玄が、甲斐(山梨県)に引き 上げる途中、現在は津久井町と愛川町の境と なっている三増峠にて、北条氏照(氏康の次 男)らと戦った。双方とも約二万の軍勢であ ったと伝えられているが、結果的には三千人 以上の戦死者を出した北条方の敗北であった。ところで、「日本城郭体系」(新人物往来 社刊)に掲載された「津久井郡城砦・烽火台 分布図」を見ると、津久井城を要にして扇を 広げるかのように、その西側に、烽火台が設 置されていた。間山城峰(相模湖町若柳)景 信山(同町千木良)陣馬山(藤野町佐野川) 仙洞寺山(津久井町青山)鷹取山(藤野町佐 野)鉢岡山(同町牧野)伏馬城山(同町牧野 )鐘撞山(津久井町青根)の八か所が記され ていたが、これらの烽火台の近くに住んでい た人々は、山の上から敵の姿を見つけると、 直ちに鐘や太鼓、法螺貝を鳴らし、あるいは 狼煙を上げる、おそらく物心つくかつかぬう ちにそう教えこまれて来た筈である。もちろ ん、このような烽火台は津久井に限らず、至 る所に設置されていたことが、「北条五代記 」に記されているが、武田の領土に近接する 津久井の烽火台近くの人々の役割は他のどの 地域の人々のよりも重大であった。  他の土地から来た人間に対して、直ちに反 応する。それも警戒心を持って。 平野洋君が津久井の中野中学校に転校し、 初めて登校した時、他のクラスの生徒が、 「転校生が来た」 といって、集まり、威嚇した。 遠く数百年も昔の人々の生活様式とも通じ るものが全くないのであろうか。

 戦国乱世の統一を目指す豊臣秀吉が小田原 の北条氏を攻め滅ぼすに及び、津久井城も落 城の時を迎えた。城主・内藤景豊が小田原城の 守備に当たっている間、秀吉に従っていた徳 川家康配下の平岩主税に津久井城は攻め落と された。北条氏滅亡後、関東は家康の支配下 となり、その家康が江戸に幕府を開くと、津 久井は幕府直轄領となった。  江戸時代の津久井の人々の暮らしも決して 楽ではなかった。  山間部でもともと米が余りとれないために 、薪や炭、漆などを年貢として納めなければ ならなかった。  天明年間(1781−89)の大飢饉は、 津久井も例外なく、惨状に見舞われた。  加えて、質屋や酒屋などの金持ちの商人た ちは、農民たちが犬や猫まで食いつくしてい るにもかかわらず、米や雑穀を買い集めては 、高く売って、私財を増やしていた。 この窮状から何とか農民たちを救おうと立 ち上がったのが、牧野村(藤野町)の名主・ 渡辺土平治であった。土平治は、十二歳の時に、江戸へ出て松平 讃岐守の屋敷に武家奉公をし、学問、武芸の 才能を見込まれていたが、十八歳の年に父を 失い、家業を継ぐために郷里へ戻っていた。  凶作続きで、餓死者は増える一方、悪徳商 人たちはそれをよそに金儲けのみに走ってい る実情を憤った土平治は、同郷の伴蔵、利左 衛門らと語らい、質屋や酒屋などを襲撃して 、蓄えられた米を奪って、貧民に施すことを 計画した。大山の石尊権現神社にて、大願成 就を祈願しているところ、池上十太夫、杉浦 兵庫という二人の侍が加勢を申し出た。  さらに親戚や友人たちも集めた土平治は、 天明七年(1787)十二月、津久井郡の村 々へ廻文を送って、決起を促した。  十二月二十二日、久保沢村(城山町)の八 幡神社に、土平治の檄に応じた、津久井郡二 十六ヵ村からの八千人余りとも後に伝えられ る農民たちが集結した。  「救民」「大山石尊権現」と記したむしろ 旗をかかげ、竹槍や鎌などを手にした百姓た ちを、白無垢の服に羽二重の小袖、八金入り の鉢巻きに、小手、臑当てを身につけ、太刀 と脇差しを腰に差して、軍扇を手にした土平 治が率い、手始めに、久保沢村の酒屋弥兵衛 屋敷を襲撃、主人弥兵衛を捕らえると、蔵に しまいこんだ米と金子を差し出させ、それら を封印した。  土平治らはさらに、中野、青山、鳥屋の酒 屋五ヵ所を襲い、都合一万四千俵の米と五千 六百両の金子に封印した。  幕府側では、脇坂民部守が二千五百の手勢 を率いて鎮圧に向かったが、偽の土平治が脇 坂らの志田峠の陣地に現れ、捕らわれた。こ れで一揆は降伏したと思いこんだ脇坂らが酒 盛りをして、酔いつぶれたところを土平治ら が襲った。不意を突かれた脇坂軍はさんざん に追い立てられ、土平治らの勝利となる。八 千の百姓たちの意気は上がったが、幕府から は新たに青山播磨守らの六千騎が鎮圧に向か った。  さしもの土平治も勝ち目なしと判断し、つ き従ってきた農民たちを説得した村へ帰らせ ると、残った九十三人とともに、青山らの軍 への最後の戦いを挑み、そして破れたた。  土平治は同じく首謀者の伴蔵、利左衛門ら とともに、捕らえられ、処刑されたが、つき したがった他の農民たちは、軽い刑罰で済ん だ。  これが、後に云う「土平治騒動」の顛末で あるが、この事件に関しても、津久井の余所 者排除の歴史を示唆するような興味深い史料 がある。  「神奈川県史研究」第21号(昭和四十八 年九月)に、青木美智男(神奈川大学講師) 川鍋定男(神奈川県史編集室非常勤嘱託)両 氏が「津久井土平治騒動をめぐる「酒造一乱 記」と「県中騒動趣留メ」について」という 論文を掲載した。両氏が紹介した「酒造一乱 記」と「県中騒動趣留メ」には、いずれも、 近江(滋賀県)などの上方商人が津久井郡に 進出し、地元の酒造業を圧迫し、それが土平 治騒動につながった、と記されている。  この二つの史料、前者は津久井郡太村名主 ・角田家、後者は根小屋村名主・小室家に保 存されていたが、両者とも事件発生からそう 遠くない時期に書かれたものと思われる、と 論文では述べている。  これら二つの文書を書いた人は、「上方者 」「他国者」という言葉に如何なる思いを込 めていたのであろうか。  父祖より語り継がれた津久井の歴史、例え ば、武田信玄の侵入を警戒していたこと、例 えば、豊臣秀吉の小田原攻めにより、津久井 城が陥落したことなどと、地元業者を圧迫し た上方商人たちを重ね合わせていたのであろ うか。

 時代はずっとくだって昭和四十年。 津久井城があった城山の麓に、ダムが完成 した。この城山ダムによって相模川の水はせ き止められ、人工湖・津久井湖が誕生した。神奈川県民のための水の供給源であるが、 この湖の底には、かつて人々が生活していた 村落が沈んでいる。他の地域の人々に水を提供するために、土 地や家を奪われる恰好となった人も多く、現 に、昭和二十八年、水没部落となる荒川など の住民を中心に、「城山ダム建設反対期成同 盟」が結成され、激しい反対運動が起こった 。反対運動は途中から、一部を除いて条件闘 争へと方向転換し、昭和三十七年、水没地域 の住民に補償金を支払うことで妥結、285 世帯が県企業庁の用意した代替地や、親戚、 知人のいる他地域へと移っていった。 時代は昭和の高度経済成長期。 もちろん、武田信玄と戦った人々や津久井 落城を見た人々、あるいは土平治騒動に加わ った人々が生存している筈もなく、郷土の歴 史に関心を持つ人もそう多くはなくなってい たことであろう。 しかし、ここでも余所者への反感は蒸し返される。津久井の人々の一部は、ダム建設 によって土地を奪われた。普段は「田舎者」と蔑視しているのに、山 河の幸を得る時だけ辞を低くして現れる都会 人への反感は根強い。加えて、人口が急増した県内の水を確保す るためとはいえ、生活の場を奪われた人々は 、余所者による迫害の歴史を想起したのであ ろうか。 今でも、余所の土地から移り住んで来た人 々を「旅の者」と呼んでいるという。  そして、昭和から平成へと時代は変わって も、余所者排除の感情は消え去ることなく、 不幸な事件が学びの場で起きてしまった。津久井の歴史的な怨念は、あたかもイスラ エルとパレスチナのように、執拗に続いてい たのであろうか。筆者は、津久井の人々には真の意味での「 郷土愛」を持ってもらいたい、と思う。  愛する郷土ならば、そこに住む人々の心も 正してしかるべし。例えば、前述した渡辺土 平治を郷土史の中で語り継ぐならば、飢饉に 苦しむ農民たちを何とか救おうとした義侠心 こそ学ぶべきであり、また郷土の誇りとすべ きではないのか。(もちろん、民主主義の世 においては暴動を肯定することは出来ないが)そうなれば、転校生一人を数名で威嚇したり、机にマーガリンを塗るなどは土平治の心 意気とは対極のものであるのは自明の理であ る。 天野町長の親戚である天野貞祐や尾崎行雄に対してもまた然りである。

 5 活かせ 歴史的判決を                                        21世紀を迎えて間もない平成十三年一月 十五日午前。横浜地方裁判所では、池田亮一 裁判長によって、画期的な判決が言い渡され た。  原告・平野信矢さん君江さん夫妻の長男で 平成六年当時、津久井町立中野中学校二年生 であった洋君に対して、被告の同級生女子生 徒K、S、N、男子生徒Uらが、足掛けをし たこと、机の上にマーガリンを塗ったことな どは、学級内で孤立していた洋君にとっては 、それらが継続、累積することによって、心 身の負担が増大し、著しく精神的、肉体的苦 痛を被る結果となる性質、程度のものであり 、また、集団での暴行等は「共同不法行為」 にあたるとした。  加えて、担任教師はそれらの「いじめ」の うち十五回を認知し、また、平成六年当時は 官公庁による通達やマスコミ報道等により、 「いじめ」が自殺の原因となる可能性が大い にありうることを想定出来る状態であったに もかかわらず、洋君と「いじめ」た生徒を個 別に注意するのみで、学校全体としての組織 的対応などを求めず、指導教育監督を行う義 務を怠った、とした。  その上で、被告同級生十人のうち九人と神 奈川県、津久井町に対して、総額約四千万円 以上の損害賠償を命じた。 これに対して、同級生らは「いじめ」では ないとし、また県、町は「自殺の予見は不可 能」として、控訴した。 二審目では、東京高等裁判所の奥山興悦裁 判長が九月二十五日に和解勧告を出したが、 県、町、同級生は十月三十日にこれを拒否、 翌十四年一月三十一日に、控訴審判決となっ た。その内容は、原審(横浜地裁)での「暴行 等の共同不法行為」という表現からさらに踏 み込み、「一連のいじめ行為は共同不法行為 」と正面から認めたものであり、それらと自 殺との因果関係、担任教師の「予見可能性」 も認めた。 ただし、賠償額については、両親も注意監督 を怠ったなどの理由から大幅に減額され、一 審よりも約二千万円減額された。  県、町、同級生らはいずれも上告は断念し 、ここに平成九年五月の提訴以来、四年八ヵ 月、若すぎる命を自ら絶った平野洋君の名誉 はついに回復された形となった。

 一審、二審とも、「いじめ自殺事件」の裁 判としては、初めて「自殺の予見は可能」と したもので、すでに報道各社が指摘している ので、今更筆者が述べるまでもないが、極め て画期的であり、他の「いじめ裁判」への影 響も期待しうるものではある。  そして、何よりも、平野さん夫妻が判決後 の記者会見で述べていたように、「この判決 を受け止め、いじめがなくなるように教師ら は熱心に取り組んでほしい」とのメッセージ でもある。  しかし、判決に問題が全くないわけではな いし、もちろん、これで全てが終わりという わけでもない。  先ず、一審、二審両判決であるが、「いじ め」を不法行為とし、また教師が「予見可能 」としたことは、高く評価すべきとしても、 自殺事件後の学校や町当局の対応は、「不適 切であるとまではいえない」とし、損害賠償 の対象とはしなかった点である。  事件後、学校としては十分な調査は行った 、マスコミヘの対応に関する生徒たちへの注 意も「錯綜する情報を避ける」ためとしてい るが、洋君へのいじめがあったことを両親が 初めて知ったのは、新聞によってで、葬儀に 参列した学校関係者からは何ら報告はなかっ たこと、あるいは斉藤弘校長(当時)が、調 査報告書に「愛されたことのある人は自ら死 を選ばない」と記載したことなど、洋君の両 親に耐えがたい精神的苦痛を与えるものであ ることは、一般的な良識からすれば、明白で はないのだろうか。  「いじめ自殺の予見は可能」という判断は 、教育現場の責任を厳しく問うものではある が、その厳しさゆえに、万が一にも同様の事 件が起きてしまった場合、学校サイドは法的 制裁を恐れる余り、過剰防衛となり、より巧 妙な「いじめ隠し」が行われるのではないか、 という危惧もなくはない。  中野中学校としては、洋君が亡くなった後 、「いじめ」の事実が判明したならば、平野 さん夫妻さらにはいじめた生徒の両親にも速 やかに報告し、各家庭とも協力して、再発防 止に全力をあげるべきであったのではないの であろうか。  「万が一」の不幸な事件の後の対応に関し も、きちんとした道筋を示して欲しかった。  このことは、例え損害賠償の対象にはなら なくとも、敢えて指摘をしておきたい。 次に、上記でも触れたが、 裁判官の弁護士任用制度にまつわる問題点で ある。(津久井町の代理人・赤松俊武弁護士は独立開業前に津久井町・天野町長の親戚である尾崎行信氏の法律事務所に勤務。尾崎氏は 本件提訴時には最高裁判事)  結果的には、平野さん側の勝訴という形で 裁判は終結した。  しかし、弁護士出身の現職裁判官の親戚が 、裁判の当事者となった場合、その現職裁判 官が弁護士時代に同一の法律事務所に勤務し ていた弁護士が、裁判官の親戚である当事者 の代理人となることを禁止もしくは規制する 法律や規則の制定を視野に入れた議論をすべ きではないのか。  今回の津久井の「いじめ裁判」以外にも同 様の事例はないのかも含め、国民の司法に対 する信頼感という観点から、一人でも多くの 人に、この問題を留意してもらいたい、と思 う。  加えて、親戚の法曹関係者に頼ってまで、 「いじめ」を認めることに抵抗するような人 を町長に選んでいる津久井町の有権者の見識 も改めて問われなければならないであろう。  さらに、津久井町に限らず、子供を取り巻 く社会環境である。  昨今、筆者は新聞のテレビ欄を見て、げん なりすることがある。  それは、子供がテレビを視聴すると思われ る夕方から夜の八時代にかけて、余りにもひ どいタイトルの番組が多すぎるという点であ る。筆者が子供の頃までは、「正義」「友情 」「愛」「思いやり」「努力」「根性」など をモチーフにしたアニメなどが放送されてい た時間帯に、のぞき見趣味的なタイトルの番 組が放映されているという現実。  これでは、大人が子供たちに「いじめをも っとやれ」とけしかけているのと同じてはな いのか。  本連載二回目でも触れた「子供とともに育 つ会」のアンケートの回答にも、「テレビ・ 雑誌など子供たちの回りにあり、悪影響があ ると思われるものがあふれている」「テレビ 番組の中でいじめをやって笑いをとっていた り、非常識で子供に見せたくないと思うもの を平気で放送している」というものがあった 。確かに、放送などに政府が干渉を加えるこ とに対しては、言論表現上の問題があること は各方面から指摘されてはいる。  それならば、民間団体等が、子供たちを取 り巻く情報環境に厳しい監視の目を光らせる 必要があるのではないか。  「いじめ自殺」は例えば、鹿川君事件のよ うに、東京23区内でも起きている。筆者は これまで、津久井町という山間部の地域につ いて述べてきたが、特定の地域の体質だけが いじめの原因ではないということも、申し添 えておきたい。

 話は判決文に戻る。  「いじめ自殺の予見可能」は確かに、教育 現場にとっては厳しいものであろう。  しかし、単に掛け声や建前論を押しつける ばかりものではない、と思う。  横浜地裁の判決文の中に、大変、建設的で なおかつ具体的な指摘があったので、それを 抜粋しておく。  「(トラブルに)関与した者を呼び、事情 を聞き、諭すという指導方法のみではトラブ ルの発生を防止できないことを認識し、担任 教師として、更に学校全体に対して組織的対 応を求めることを含めた指導教育監督を行う 義務(中略)日常の学校生活において、二年 三組生徒生徒ら及び亡洋(故平野洋君)の生 活状況を把握するために休み時間における見 回りを強化すること、個々のトラブルの解決 のみならず、亡洋と相手となった生徒らとの 交友関係修復にも配慮しつつ事情聴取などを 十分に行うこと、教職員の目を避けて発生す るトラブルに対処するために、個別的なトラ ブルに関与していない生徒からも事情を聞く (中略)(いたずらやちょっかいに名を借り た行為が)時として重大な結果が生じるおそ れがあることを、認識、理解させ、直ちにや めるように厳重に指導し、個別の生徒らに対 する指導や学年集会、クラスにおける学級活 動などを通じて全校生徒に周知徹底すること (中略)その後の様子及び指導の効果があら われているかについて注意深く観察し、その 後もトラブルや小競り合いが継続している場 合には、相手生徒の保護者とも面談するなど して問題点を指摘し、学校側が厳重に指導す る方針であることを伝えるとともに、家庭に おいても指導をするように申し入れること、 原告(平野さん夫妻)らにも、亡洋の改善す べき点について率直に伝え、家庭における指 導を依頼すること、個々のトラブルについて、 学年主任、斉藤校長らに報告し、指示を仰い だり、複数の教諭と情報交換しつつ共同で指 導するなどの対応策を学年会などで検討する こと、担任教諭、他の教職員に対して、気軽 に相談できる機会や窓口を設けること、原告 らに家庭における亡洋の言動の観察を依頼す るなどより強力な指導監督を組織的に講じる 義務を有していた」  もし、この判決を厳しいと思う教育関係 の方がいらっしゃるならば、上に引用した判決文の一部を繰返し読んで頂きた いと思う。  例えば、学園ドラマに登場するような「理 想的な」教師像に自身が程遠いことに失望し たり、あるいは生徒や父母がそのような教師 が現実には存在しにくいことを嘆くよりも、 今出来ることを実行することの方が遙に大切 なのではないか。  一人一人は、ドラマに出てくるような「恰 好いい」先生ではなくとも、みんなで力を合 わせる少なくとも生徒の様子をこまめに話題 にすることによって、随分違ったものになる のではないのであろうか。

 以上、津久井町立中野中学校生徒であった平野洋君の自殺事件とその原因及びその後の動きに関する問題点を指摘 してきた。不備な所も多いとは思うが、単に 特定の学校、地域の問題ではなく、社会全体 の問題であること、「いじめた」子供たちば かりでなく、その周辺の大人たち、それも社 会的にかなりの地位にある人たちの責任も指 摘してきたつもりである。「いじめ」は悪で ある、と認識できない大人には、実際に「い じめた」子供たちに対する以上に、許しがた い心情を筆者は有しているということも申し 上げておきたい。拙稿への批判、反論もある だろうが、それらも含め、問題の根本的な解 決への一助ともなることを祈るばかりである 。右に記した判決が今後、どのような影響を 及ぼすのか見届けた上で、いずれ改めて起稿 したいとも思う。  最後に、筆者の出すぎた申し出にもかかわ らず、取材に応じ、さらには戦いの輪の中に 加えて頂いた平野さんご夫妻、支援者の小杉 さん小野さんご夫妻には心よりお礼をもうし げたい。担当の弁護士の皆様にも、心より労 いと敬意を表したい。 さらには、生前、一度もお目にかかること はなかったが、耐えがたい苦しみのために若 くして命を絶った平野洋君、そして共にこの 裁判を支援し、色々ご指導頂きながらも判決 を見届けることなく急逝された平本俊雄さん のご冥福をお祈り申し上げる次第である。 (了)                  

この稿は、「現代展望」2002年4月号から同年8・9月合併号まで5回にわたって連載された。(原題「そして偉人の孫までも」)