細かい砂の積もった石の床、高い天井から釣り下がる橙色の電球の光、大時代にも燭台に飾られた蝋燭の揺らめき、それにほの暗く照らされる聖母像。
小さな教会の中に小さく声が木霊する。
「神父さん、もう我慢できないわよ。私、町を出るわ」
みすぼらしい神の社の中の布で区切られたスペース。その中に依頼者と神父はいた。
丸い眼鏡をかけた痩身の神父は相槌紛れにため息を吐いた。
「そうですか…止む終えないかもしれませんね。
私にお手伝い出来ることがあればできるかぎりさせてもらいましょう。
彼は了承されておられるのですか?
お気を悪くされたのならば善いのですが説得ができるようならば私がしましょう。
無理であるならば車を回します」
女は呆れたようにため息をつく。
「話せないから街を出るのよ神父さん。それなんだけど…シェリルを連れ出すのを手伝ってくれない?あいつから逃げるのは私一人じゃ無理だわ。それと…恥ずかしい事なんだけれども、
お金が足りなくて…必ず、返すから!ごめんなさい…」
女は拳を握り絞め、スカートに皺が寄った。
「かまいませんよ。お金はそう多くは御貸しできませんが…」
神父はあくまで落ち着いていた。
「ありがとう、神父さん。必ず返すわ…じゃあ、二十二日の10時にフォートン・Stの11番で」
「解りました。出来る限りやってみましょう。あなたに神のお力添えがあらんことを」
神父は、やはり慈愛に満ちた声で言った。
事の始まりはこの哀れな女、ナタリー・ウィーバーがこの小さなスラムの教会に訪れた事からだった。
彼女はお決まりの貧しい産まれで、売春婦の子だった。
父親は客の誰かで、いつも穀潰し、コブだの挙句には寄生虫がと母親に言われて育ち、
商売の手伝いもさせられていた。
そのまま彼女は17の時家をおん出て母と同じように体を売って生計を立てていた。
そして数え切れない男と寝て、やはり誰の子かも解らない子を産んだ。
しかし彼女はここで母と道を違えようとする。
家庭に飢えていた彼女は出来る限り献身と愛情を持って育てようと願った。
そのため今度はパトロンを必要とした。
それでも寄ってくるのはろくでもない極道者ばかりで、彼女は徐々にすさんでいった。
ここ3、4年ほどはロバート・オーウェンという薬の密売人だのチンピラの親分だのをやっている
金はあるがやはりろくでもない男と暮していた。
それもこれまた今までに輪をかけた駄目人間で、その暮らしは彼女と娘の神経をすり減らしていった。
やがてかつての彼女の娘を育てる願いは忘れ去られていく。
そしてある日彼女はストレスの果てにくだらないことで娘に手をだしてしまう。
その時彼女はようやく気づいたのだ。いつのまにか自分がかつての自らの母親のようになりかけていた事に。
数日して、彼女は今まで一願だにしなかった教会を訪れた。
何日もかけて神父に全てを告白し、相談をした。
それらにいちいち神父は答えてゆき、彼女を責める事無く聞き入れていった。
だがその間にもオーウェンの堕落振りは加速してゆき、しまいには娘や彼女に暴力を振るったり、家でも薬をやるようになった。
彼女が求めてやまなかったはずの家庭は地獄になった。
神父は彼女の求めに応じて辛抱強くロバートに更正を求めた。
それが無理ならば別れる様にただひたすら説得を繰り返した。
当然ロバートは話を聞かない上、彼の暴力は増えた。
それに対し神父は娘のシェリルを預かったり率先してロバートの攻撃の矢面に立ち、母子を守った。
神父は裏社会の知人にも頼ってあらゆる手を打ったが、それも直っても一時の事か、
全く効果がないかのどちらかだった。
そして、冒頭の会談になるわけだ。
黒い黒い雨が降りしきる。空を見ればホバーが飛び、狭い夜空には立体映像が巨人のように居座っている。
だがそんなハイテクはこのスラム層には関係ない。
車の中で待つ神父の電脳にメールが入った。
<<シェリルを攫われた。私捕まってる>>
どうやら拘束された状態で打ったらしい。神父には添付された写真とメールの発信記録からして大体の見当はついていた。
「神よ。見守ってください。…いきますよ」
神父のホバーが宙に浮く。
暗い、外のネオンの明かりだけが入ってくる埃や崩れた壁の破片で荒れ果てた廃墟ビル。
その一室にナタリーは監禁されていた。
手錠をはめられ、猿ぐつわがされているがそれ以外は特にこれといった拘束はない。
部屋にはもう一人いた。皮ジャンを着た若い男だ。
「なんで俺が犯さないかって顔だな。別に我慢してるわけじゃない…アレだよ女には困ってねえし、ただ頼まれただけだからな。一時間座ってるだけでコネが手に入る。得な取引だよ。
あんたが誰だとかそんなのは別にいい。まあ、これから来る奴に引き渡せばそれで俺の仕事は仕舞いだ。あとはあんたの運次第だな」
ライターの音がして一瞬、小さな明かりが灯る。
次いで煙を吐き出す音。
静かだった。だがその静寂は一瞬にして破られた。
いきなり窓から車がつっこんできたのだ。
その中から神父が飛び出してくる。
「へっあんたが受取人か?…そうじゃないみたいだな。手間こさえさせやがって…畜生」
皮ジャンの男が手を握り締ると腕が変形して細い数本のアームになり、手先からはレーザー銃やナイフが覗いた。
「そこのお方。事情はわかりませんが、どいてください。後で埋め合わせはしますから、その人を渡してもらえませんか。お互い無駄に怪我をすることはないでしょう」
神父も同じく身構え、両手に30cmほどの金属製の十字架をサイのように握る。
「そうか。なるほどな。…NOだ!!」
レーザー光が一瞬にして神父に迫る。
吐き捨てた煙草が地面につく前に神父は飛翔して宙返りをしていた。
そのまま男の後ろに着地して首に十字架を叩きつけようと振り回す。
しかし男は後ろを見ずにアームで受けると振り返ってそのままチャンバラを始める。
薄暗い荒れ果てた部屋に金属の光と鉄を叩きつける音が幾度も響く。
男の無数のアームを神父は2本の細い十字架で受けきっていた。
膠着状態になりつつあるのを悟った男が腰から拳銃を抜いて発砲する。
不自然な姿勢で打ち放たれた弾丸は神父には当たらず逆にその隙を突いた神父がアームをかいくぐって十字架を男の機械化された肩に突き立てた。
次いで神父の放った蹴りが男を壁際まで吹っ飛ばす。
「待て、解った。降参だ。命賭けてまでこんな馬鹿騒ぎに付き合ってられるか。
勝手に持ってけ糞ったれ」
男が手錠の鍵を投げると神父は止まって一礼した。
「ありがとうございます。後ほどお伺い致しますよ。時間がないので今日はこれで。
さあ、ナタリーさん、大丈夫ですか」
神父は手錠を解くと彼女を助け起こした。
「ええ、助かったわ…それよりも急いで!シェリルが捕まってるのよ!
あの男にやられたの!場所は多分ローアン通りのアジトよ。あいつシェリルを売るつもりなのよ!
私もいっしょに行くわ」
神父は少し思案すると頷く。
「わかりました。急ぎましょう。さあ車に乗って」
二人はさっさと乗り込むとホバーは埃を巻き上げてすっ飛んで行った。
取り残された男はしばらく咳き込むとまた煙草をすい始める。
「…糞ったれ」
神父の車は蛍光灯の白い光のまたたく真夜中のバスケットコートの裏っかわに駐車すると
二人を降ろした。
「ナタリーさん、ここからは私一人で行きます。気をつけて待っていてください」
神父はナタリーに拳銃を手渡して肩に手を置く。
彼女は何も言わず頷くとただ一人暗闇に消えていく神父を見送った。
そこはやや広いプレハブ小屋か、倉庫のような場所で、壊れた車やら作業用APUやらが置いてあった。
そのAPUの操縦席でロバートが待ち構えていた。
「よう色男。どうやってあいつを口説いたんだ?あんなスベタに惚れてんじゃねえよお偉い聖職者様がよ」
ロバートの挑発に対し、神父は穏やかだった。
「シェリルちゃんはどこに居ますか」
「へっ善人気取りが…何考えてんだが知らないけどな。あんなガキ持ってって何するんだよ
そうやって我慢してりゃ偉いとでもおもってんのか!」
鋼鉄の巨人が咆哮を上げる。
「シェリルちゃんを渡して下さい。あなたも困られるかもしれませんが、お願いします」
「寝ぼけた事言うなカスが。もう死ね」
APUは象のような足の底部のローラーを使って滑るように突進してくる。
2tの鉄の塊の突撃に対し神父は気の毒そうな顔をすると十字架にキスして
再び武器を手にする。
今度はサイではない。ギターケースくらいある木製の十字架だ。
神父が十字架を一振りすると横木と下端から折りたたみナイフのように人間の腕くらいの大きさの刃が飛び出た。
突撃してくるAPUを神父は軽く避けると今度は自分から向かっていく。
かなりの健脚だ。しかしそれだけでは歩行車両には敵わない。
作業用のガスバーナーが火を噴き、火炎放射のごとき烈火が吹きすさぶ。
神父は柱の影に隠れたりして距離を取っているがやがて追い詰められてしまうだろう。
炎に追い立てられた神父はとうとう壁際に追い詰められてしまった。
「どうだよ偽善者。お前らは結局何もできないんだ。誰も彼も何の意味もなく我慢してそれで終わりだ!」
「それでも私は神を信じます。そしてあなたを哀れみます」
バーナーの炎が噴出される一瞬、神父は壁を蹴って飛ぶとAPUのエンジン部に刃を突き立てた。
神父が十字架を引き抜いた一瞬の沈黙の後のAPUの暴走、そして爆発。
爆炎から脱出した神父は十字架とロバートを抱えていた。
「何を考えてやがるんだ…お高くとまりやがって…恩を売ったとでも思ってやがるのか…
余計な事をしやがって。絶対に殺してやる」
「いいえ、あなたに死んで欲しくないからです。たとえあなたに殺されそうになっても私はその度に逃げましょう。そして、私はあなたが今より善く生きられる可能性がまだまだあるとそう信じています」
神父の言葉にロバートはただ呆れて狐に摘まれたような顔をするだけだった。
その後神父はシェリルを助け出し、ロバートを火の届かない所に手錠でつないでおくと
警察に通報した。
そしてようやく彼はナタリーの元に戻ってきた。
「シェリル!ああ、シェリル!ありがとう、神父さん。ありがとう…」
ナタリーは娘を抱きしめて神父に礼を言った。
「どういたしまして。その笑顔を見れただけで私は幸せですよ。
さて、タクシーを呼んでおきました。バージニア州のロックキャスケット教会に連絡してあります。
あちらに着いたら行かれると善いでしょう。旅の幸運を」
神父はにっこりと笑う。
そこに丁度よくタクシーが降りて来た。
「ねえ神父さん、あなたはなんでそんなにいろんなことに我慢…いいえ、耐えられるの?」
ナタリーがタクシーに乗り込みながら尋ねる。
「あなたは、それが我慢でも、耐えているのでもない事をすでにご存知のはずですよ」
神父は、やはり憎いほどの穏やかな笑顔で微笑んだ。
車に乗り込んだナタリーが手を振る。娘もその紅葉のような小さな手を振った。
タクシーが、飛び立つ。
終劇
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