青い、青い世界。ここでは何もかもが青い。
それはそうだ。海なんだから。
何かの宝石のように透き通った青い色の中に白い岩や黒い鉄、
ころころと軽い音を立てて浮き上がり弾ける気泡。
それだけが視界の全てを埋めている。
それに混じる重鈍なスクリューの音。
サガワは水中バイクに掴まりながらプランクトンが堆積した
深海のように濁った意識をバイクを駆る事に向ける。
ああ、見えてきた。
海中に浮かぶ空中楼閣、ドーリア式でもイオニア式でもない海の周柱式神殿。
垂直方向と水平方向に組み合わされた巨大な円柱できた集合住宅。
その工事現場に品物を届けるのが彼の仕事だ。
ヘルメットのボタンを触り、回線を開く。
こんな海の底では会話するのも一苦労だ。
<<ニシヤマ、ニシヤマタダシさんはおられますか
こちらはブルートラベリー運輸ですお届物があります>>
頭で思い浮かべた文字がそのまま配信される。
それも全て風呂場の黴のように頑丈に残ってくれた科学技術の恩恵。
サイボーグ手術で身体に埋め込まれた電脳に信号が走る。
<<こちら工事現場主任のタダカワ。あんたの探してるのはG123・A247・D432の海水プラントにいるぜ。
ご苦労さん>>
サガワは礼を言うとさらに水中バイクを走らせる。
青い霞の果てに見えるのは竜宮の如き異郷だった。
最も、毎日見れば新鮮味も薄れる。綺麗なことには変わりないが。
建設中のプラントを運ぶ寸胴にロボットアームがついたような潜水クレーン。
物資を定期的に配達するシャチ型義体とそれに掴まる作業員たち。
今回の配送先はそのシャチ男だった。
しかしまあ、職場に直接送るとは。どうやら送り主は娘さんらしいが妙な親子だとサガワは思った。
作業員を降ろし、次の仕事にかかろうとしているシャチ男に通信を送る。
<<ニシヤマさんお仕事中失礼します、ニシヤマタダコさんからお届物です。
確認をお願いします>>
海水の中を孤立波が走り、電脳が繋がって返信が返って来る。
<<ああ、ごくろうさんああ何?タダコから?そうか。今日は…
そこにアンカーとブイを架けて置いておいてくれ丁寧にな。
娘からなんだ。ええと、どこに出せばいい?>>
機械のシャチはその頭にあたる部位から内部に収納された人間の上半身をせり出してくる。
手には煙草の箱ほどの小型機械。
通信から振込み、個人確認にいたる全てを一手に引き受ける機械、いわゆるケータイだ。
<<ああ、ここです。はい、はいどうも。荷物はここに置いておきますんで。はいありがとうございます>>
サガワは同じような機械を取り出して確かに配達したという電子の領収書にサインを書き込む。
<<おお、ごくろうさん。いやあ、何かな。あいつも大人になったもんだ…>>
消費者の喜びの声を後にしてサガワは次の配送先に向かう。
(仲が良くてうらやましい事だ。まあ、独り身の気楽さには変えられないが)
実家の両親の事と自分の老後問題にも頭を悩ましながら彼は急浮上する。
海面が迫り海中から大気中、二つの世界を隔てる膜を突き破る快感。
羊水から空気へ、海中から海面へ。
そのまま彼は水しぶきを挙げて愚連隊のように夕暮れの海面を疾走する。
背後には氷山の一角を現した巨大構造物、海中に暮す人々のコロニーが見える事だろう。
清清しい。これで煙草の一つでもあれば完璧だ。
彼は慣性と重力に身を任せながら舵を操る。
見えてきた。今度は船団だ。
ガレオン船ではない。粗末な水上家屋と強力なエンジンと
もはや陸のなくなった時代において広大な海で生活できるだけの頑健さを持った
ボート、ヨット郡だ。
それら護衛に守られて内部で蠢く魚と野菜、そして生活の垢の染込んだ
船頭の舵棒一つで動く小さな木造ボート。
それらのひしめく海上マーケット。
ベトナム辺りの水上生活者を思い浮かべてくれればわかりやすい。
サガワは速度を落としてマーケットに入る。
日に焼けた海の民たちが木で作られた家屋をつなぐ渡り廊下を荷物を抱えて行き来する。
もう食事時だ。食堂にはアロハと短パン一枚を被った庶民たちが割り箸で魚のスープを喰らう。
萱葺きに明るい色の木で作られた立ち飲みバーには陽気な飲兵衛共がもう気炎を上げている。
家々と人が住んでいる船たちの間は道路一本分あるかないかだ。
その間の濁った水の中を木造ボートや水上バイクがのろのろと行き来する。
サガワもその一人だ。
ゆっくりと日が暮れ、深い藍色とオレンジのグラデーションに星空が混じる。
そろそろ電球がつき初め、マーケットは夜市の様相を見せ始める。
まるで昔本で読んだ移動遊園地だ。
それらを観察しているうちにサガワは渋滞を抜け、小道に入り、漸くこの日最後の配達に向かう。
荷物は30センチ四方の箱だ。何やら重いがこれでようやく食事にありつける事を思うと気が軽い。
配送先は白いペンキがところどころ剥げたこ洒落たやや金持ちの別荘風の家だった。
バイクを降り、ヘルメットを外しドアに手を触れるか触れないかで彼の日常は変わった。
ドアが開いている。それだけなら普通だ。だが血を流している死体は普通じゃない。
よっぽど若者向けの小説でもない限り。
「ああ、丁度良かった。いいタイミングだ。実にいい。
ああ、これはそのあれだ。ちょっとしたトラブルって奴だよ。
そううん、ちょっとした。その荷物は私が待ってたんだ。
すぐサインするからこれの事については気にしないでくれるかな」
奥から拳銃を手にしたメガネをかけている学者風の若い男が出てくる。
死体は白い顎鬚を生やした老人だ。
サガワは一瞬の思考停止の後これは自分の手に余ると片付け、
さっさと自分の仕事を片付けてしまうことにした。
「あ、ああはい。えーと、ここはヤマダヨウイチさんのお宅で間違いないですね」
「ああそうだよ。僕はまあ、代理だ。ケータイは…あったと。これでいいんだっけ?」
メガネはケータイを出して彼の端末に近づける。これでイレギュラーな仕事も終わりだ。
「そうです。じゃあこれで」
サインを終え帰ろうとしたその時、イレギュラーな仕事は彼を離してくれなかった。
「ま…駄目だ。ヤマダは私だ。…テラヤマショウイチだ!彼に届けろ!住所は…」
メガネがヤマダ老人を黙らせた。しかし老人はすでに作業を完了していた。
老人の手に合ったリモコンが光り、サガワの手にある箱のロックが解ける。
中に入っていたのは小さい旧式のラジオだ。
それが急に喋りだした。
『自由の空気はいいものだな。そうだろう?』
電脳に衝撃。ハッキングだ。
どうやら目の前のラジオかららしい。
サガワはそれに操られるままメガネにゆっくり近づいていく。
「遅かったか…!」
サガワの肉体はゆっくりと食卓にあるスプーンを掴み、自然に、ごく自然に近づき、メガネの目を抉った。
『鉄人28号を知ってるかね?古き良きロボットアニメだ。私と君の関係は実に良く似ている。
安心したまえ、君の自由意志は奪ってない。さあ、私を連れて逃げるんだ。
君が死ぬぞ』
拘束を解かれたサガワはラジオを持って逃げ出した。
これが、彼がこの怪物と出会う顛末であり、奇妙な冒険の始まりだった。


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