埃と腐れたヘドロの混じった空気を吸う。
良い気持ちだ。ここは、外よりは静かでいい…
私は、このウメダ下の地下通路を見渡す。
電気が点かないこの狭いトンネルのような地下通路にびっしりと妄獣がくっついている。
 壁一面に人の顔が見える。それらは実にバラエティに富んでいた。
ふやけたピザのような灰色の顔、スライムが固まったような上半身だけの茶色い煮凝り、
それ以外はロボットか人形か、機械の形をしていた。
 横に自販機が見える。モニターの所には血色の悪い人間の顔が圧縮されて詰まっていた。
隋道の横から、壊れた人形のようなものが歩いてくる。
灰色の粘土でできた顔は極限の悲しみと苦痛で固まっていた。
腹の部分は陶器がひび割れ、中から腐れた人間の内臓が出ている。それでも、彼は生きていた。
彼はどこからか捜したゲームセンターのコインを震える手で持っている。
 彼は人間自販機にコインを入れる。自販機の顔が少女の声で、「ありがとうございました。またお会いできてうれしいです。おつかれさま」と抑揚の無い声でしゃべる。
その時だけ、人形の顔が僅かに綻んだ。目から涙が出ている。
「ありがとう…ありがとう…」彼も壊れたラジオのような声で呟いた。
落下音がして自販機から缶ジュースが出る。缶は歪んで、ねじれている。
人形はそれを受け取るとまたどこかへと歩いていった。

アレは駄目だな。私はそう思った。もはや処置できないだろう。
彼らは全て元は人間だ。この国の貧困層の成れの果てだ。この国はアメリカのように二極分化した。
貧困層と、富裕層に。だがこの国ではスラム化はしなかったようだ。
その代わり、労働の実態だけが悪化していった。明らかに労働法違反の企業が乱立し、
一部のエリートや幸運な者達以外、要するにこれといった取り得の無いごく普通の人間たちは奴隷的労働に甘んじている状況だ。労働法で搾取を規制すればするほど陰湿になっていくだけだった。
ここはそうして搾取されていった者達のうち、壊れてしまった者たちが社会復帰できずに集まっている所だった。

 人の思考が物質に変化を与えるようになった現代、身も心も草臥れ果てるほどに痛めつけられた彼らが怪物のような容姿になっても致仕方ないだろう。
 私の仕事は彼らの社会復帰を助ける事、となっている。
だが彼らはここにいた方が幸福かもしれない。彼らの体はもはや苦痛や空腹や、病魔には悩まされないようになっているのだから。
 ここが無い時代、彼らは死ぬか、そのまま苦しみ続けるしか無かった。
それに較べれば、ここでまどろんでいる方がまだいいだろう。
 私は象の墓場を思い出す。死期を悟った動物は群れを離れて必ず特定の死に場所で死ぬそうだ。
ここも、そう言う所なのだろう。だが祖国はここの存在を許していない。
平和という幻想、繁栄という夢を見続ける者達にとってここは目障りなのだ。
 おそらく、私はそのためにここにいるのだろう。社会復帰という名目で、彼らを追い出すために。
だがだからこそ私は完全に狂気の彼岸へと行ってしまった者はもはや引き戻さない事にした。
正気に戻れる者だけ、より強い形にして社会復帰させる事にしている。
ひょっとしたら、彼らにも何かしがの幸福がつかめるかもしれないと信じて。
 私は異形の地下道を歩いていく。どす黒く変色したコンクリートの上に、スクラップ寸前になったロボットがいる。片腕と下半身が壊れ、内部の機械が見えていた。中には内臓も入っていた。
これも、多分人間だ。私は彼に話しかける。
「大丈夫ですか、私は社会福祉事務所の者です」
余計な事はあまり言わない。私は彼らに理解力が残ってるとは思っていない。
「あ…は…コレハ、寝テイルンジャナインデス。私ハ壊レテイルンデス…
蹴ラナイデ…寝テルンジャナイ…コワレテイル…ドウセ、ナオシテクレハ…
ナンデモアリマセン、ゴメンサイゴメンナサイ」
どうやら、まだ仕事場にいると思っているらしい。
 最近の職場、というかある種人間というものは他人が倒れると即怠けていると思うように出来ているらしい。大方は病気や怪我、疲労だというのに。恐るべき想像力の欠如だ。
 だが彼らもまた弱者なのだろう。他の者から搾取された分を、他人から取り返しているだけだ。
私は倒れているロボット人間に話し掛ける。
「大丈夫です。私はあなたを治療するために来ました。ゆっくり休んでいいんですよ」
ロボットの目が一瞬輝くが、また光が消える。
「クビニシナイデ下サイ。私ハマダ働ケマス…クビニナッタライキテイケマセン…
…アナタハ…ダレデスカ。病院ノヒトデスカ」
ようやく少し正気を取り戻したのか。いや、彼は自分の妄想の中から、ほんの少しばかり理解力を取り戻しただけだろう。私は話をあわせる事にした。
「そうです。あなたを助けに来ました。大丈夫です。職場には、わたしが話をしますから。
あなたは治療を受けるべきです。いいですか、私はあなたを治療するために来たのです。
安心してください。2、3日で職場に戻れますから」
大嘘だ。私は彼を専門の治療施設に送り込む。そこで妄念師やその他の能力者によって治療を受けるだろう。だがそれは1年2年はかかる。人の心というのは簡単には戻らないのだ。
ひょっとしたら一生施設の中かもしれない。だが、ここで苦しんでいるよりはいくらかましだろう。
「ワカリマシタ…ビョウイン…ツカレタ…」
 私は彼を担ぎこむ。全身鉄製だというのに、彼は驚くほど軽かった。
応答が無いが、心拍音は聞こえている。多分寝ただけだろう。
早く治療施設に行かなければ…安心のあまり、死んでしまうというのは良くある事だ。
 私は地下道を戻っていく。本来ならば、さらに多くの廃人を回りカウンセリングなどもしなければならないが、今日は大丈夫だ。
天井や壁にひっついた顔たちが、微かな笑い声を上げる。
とても虚ろで、人間ならば神経に触る音だ。私の真横の顔が喋りかける。
「滑稽ダナ、負ケ犬。善行ヲシタツモリカ?」
彼は馴染みだ。私が配属された時からいる。姿は赤い仮面のようだ。中国の京劇で使うものにそっくりである。今は忙しいのだが。彼は時に大事な示唆もしてくれる。一応聞いておこう。
「無駄ダ。負ケ犬。ロボットノ貴様ニ、人間ノ心ハ解カルマイ。
善良カツ優良デアルヨウニプログラミングサレタ、アラカジメ勝組ミノ貴様ニハナ」
そうだ。それこそが私達の悩みだ。私たちは人間のように悪に走る事はできない。狂えないと言ってもいい。
どんなに過酷な状況でも、「正気の人間のように」あるいは「人間の善良な一面で」しか考えることしか出来ない。
そして、人間はそんなとき、我々についていけなくなるのだ。
「人間ハ、アラカジメ争イアウヨウニ、プグラミングサレテイル。
優ノ者ガ劣ノ者ヲ搾取スルヨウニ、アラカジメ決メラレテイル。
淘汰ヲ拒否シタ人間ハ、結局自ラ淘汰ヨリモ過酷ナ道ヲ歩ンダダケダ。
明日ハ我ガ身ダ、負ケ犬」
そうだ。明日は我が身だ。恐らく私は解任される。
あまりにも「人間的」な判断をしてしまったせいで。
人間は私が彼らを生かそうとしている事を許さないだろう。
おそらくここも封鎖され、彼らは殺されるか、良ければここの壁と同化した何割かがここにいられるのだろう。
「逃ゲロ、負ケ犬。明日ハ歯我ガ身ダ…モウ解カッテイルダロウ?
我等ハ殺サレル。貴様マデソレニツキアウコトハナイ」
私は歩き出す。ゆっくりと。背中に背負った彼を然るべき所に預けるために。
「知ってるさ。だが私はロボットだ。仕事を放棄することはできない。
私は、人間に作られた。その人間が私を不要だと言うならばそれに従うよ。
昔のこの国の人間もそうだったんだろう?理不尽でも、上司が死ねと言えば死んだ。
私も多分、そのように作られているだよ。今の人間は忘れてしまった感情だ…」
赤い仮面が後ろで笑う。地上はすぐそこだ。私の破滅も。
「知ッテイルカ。負ケ犬。人間ハナゼ自殺ヲ自ラ禁ジルカ。
自殺サレタラ、モウ搾取デキナイカラダ。コマルカラ、ト言ッテモイイ。
人ノ命ハ本人ダケノモノデハナイノダ…
ソレニ、人間ニハ生存本能ガアル。人ハ死ニ対シテスラ不自由ナノダ」
そう、我々には生存本能がない。あるのはロボット三原則だ。
だから、自分自身の保身よりも大きな目的があれば、ためらいなくそれができる。
そこが私がロボットに生まれて感謝している所だ。
「知ッテイルカ。負ケ犬。ロボットトハ、元々チェコ語デ労働者トイウ意味ダ…
皮肉ナモノダナ、ロボットノ貴様ノ方ガ、人間ヨリ、自由ナ心ヲモツトハ…」
私は、それに返す言葉が無い。ただ、人間を哀れに思うだけだ。業の深すぎる彼らを。
私はロボットに生まれて感謝している。人間より堕落に対する耐性が強いのだから。
 実は、ここ数日で治療可能な人間は全て知り合いの妄念師に渡した。
そのほうが面倒な手間をカットできる。
 背中に背負っている彼を地上に連れ出せば、私の仕事は終わる。
「助けられる人間は、全て助けた。私に心残りはないよ…君等は、そこにいた方がいいんだろ?無理に助けはしないさ」
後ろでまた仮面が笑う。
「サラバダ、負ケ犬…明日ハ我ガ身ダ」
私は階段を昇る。なにか、すっきりしたような気分だった。
地上に出ると、月が歪んで輝いていた。