暗い。真っ暗い洞穴を小島勝一は歩いている。足元には水が溜まっていた。周囲が真っ暗いせいでタールのように黒く見える。周囲は土の壁だ。人が2人通れる程の狭さだった。まるで蟻の巣のようだった。土からは蒸気が噴出している。生暖かい。まるで布団の中か、大きな動物の大腸の中にいるようだ。
元は普通のマンションだった場所だ。それが一人の人間の妄念によって蟻塚のようになってしまったのだ。もはやこうなっては誰も住めない。マンション住民の要請で小島はこの妄念とそれを発する人間を殺しに来たのだ。
「ったくベトコンゲリラじゃねえんだぞ。引き篭もりにも度があらぁな。ま、仕方ねえっちゃ仕方ねえ事かもしれねえがな・・・」
 
 小島は依頼を思い出す。依頼してきたのは仲介屋の笹中洋三だった。彼はジーンズに派手なジャンバーというチンピラファッションの40才だった。
 小島の事務所での話だ。小島の事務所は正四角形の12畳ほどで白いリノリウムの床にロッカーや机、武器類に冷蔵庫や食器が雑然と置かれている。家具類はどれもそのへんのごみ捨て場からかっぱらってきた品だ。
「辛気臭せえ話しだべ。何ってターゲットの事だよ。引き篭もりが嵩じてマンションごと引きこもっちまった。他の住民はカンカンだべ。住むところが無くなっちまったんだからな」
 小島は事務机に腰掛けて銃の整備をして、笹中は壁に寄りかかって話をしていた。応接用の歪んだ折りたたみ椅子は使う気が無いようだ。
「ハン、それで国選の妄念師が行って返り討ち、そんで俺の所にお鉢が回ってきたってか?どうせその引き篭もり野郎ってのもただの引き篭もりじゃねえんだろ?どうせクソみてえな裏話があんだろうさ」
 妄念師には国選と私立がある。人の思考が物質を変質させるようになった現代、妄想によって変質したものが害になった場合に対処する公的機関が必要だった。
 なにしろあらゆる妄想が現実化するのだ。架空の人物が現実に現れる、妄想の中の怪物が暴れまわる。
 妄念師は自らの思考によって自在に物質を変化させる事ができる。国が彼らを雇うようになるのは必然の流れだった。だが当然、弁護士と同じで国に飼われる人種は腕が悪いのだ。国選が失敗した任務は私立に回ってくる。
 小島は私立だった。笹中は話を続ける。
「そうだ。ターゲットの君島瑞枝は目の前で家族を殺されてついでに誘拐、監禁レイプされた。覚えてんべ?2年前の君島家一家殺害事件だ」
 小島は座っている中央奥の所長机の足元にもコンロに乗った鍋が置いてあった。中の食材はとうに捨てられている。
 机はどれも安い灰色の事務机。端っこには布団までたたまれていた。相棒の黒瀬が床で眠るために置いてある。
 小島は気だるそうに煙草に火をつける。
「ああ、うろ覚えだけどな。最近そんな事件ばっかでいちいち覚えてらんねえよ。たしかありゃあ、家族全員掘られてそりゃムゴい拷問されたんだろ?くっだらねえ。で?生き残った娘は引きこもりか」
笹中は事務所の端に備え付けられた冷蔵庫からコーラを出して飲む。
「無理もねえべ。誘拐されて3日間ポンプ小屋で集団リンチだ。助かったのは奇跡だべ」
小島はトカレフの整備を終えて軽く構える。小型で丸みを帯びたデザインの黒い銃だ。
「ハン、医者にゃ治せなかったのか?PTSDなんざ最近の流行病だろ。特にそんな事件となりゃお偉い名医さんが集団で治すだろうさ。できなかったのか?」
 小島は加え煙草のまま器用に煙を吐く。事務所の空気は淀んでいた。生白いコンクリートの壁はニコチンと埃で黄ばんでいる。
「いや、治そうとはしたらしい。だが、奴っこさん、医者が来る前に家に帰っちまった。壊れた人間の心は解らねえべ。なんでわざわざ惨劇の場に戻る?とにかく、それ以来その部屋にゃ誰も入れねえ、マンションは奴っこさんの妄想で壊れていく。しょうがねえ流れだよ」
笹中が咳ごんだ。声帯をやられているのだ。低い掠れた声しか出せない。
「おい、ここでタン吐くんじゃねえぞ。ゴミ箱はあっちだぜ。で?何か?医者に連れて行こうとしても返り討ち。マンションはグチャグチャ。しょうがねえから俺みたいな殺し屋の出番ってか?何すりゃいいんだ。そのお姫さんを治せる奴の所まで連れてく事か?それとも殺るか?」
笹中は咳込んでゴミ箱にタンを吐く。すまねえ、と言った後に写真と書類を小島に投げる。現場の状況を書いた資料だ。
「どっちでもかまわないべ。用は住人の望んでるのは奴っこさんがその場からいなくなる事だ。連れ出すか、殺すかだよ。解るか?」
「OK、わかったよ。資料にゃ目え通しておくさ。後ぁ俺の仕事だ。ったくろくでもねえ」
小島が吐き捨てるように言う。その目には怒りとも悔恨ともつかない表情があった。笹中が小島の目の底を観た。
「同情か?たしかに哀れには違いねえべ。理不尽に傷つけられて誰にも救われずにあげく他人の都合で殺されるんだ。だがな」
小島が遮って言う。
「違えよ。そいつぁ違うのさ。理不尽に傷つけられるなぁ、当たり前のこった。人権も法律も銃向けられた時にゃ守ってくれねえ、人間の尊厳なんざ、ただの理想なんだろうさ。立ち直れなかったなぁ、弱いってぇだけだ。弱いなぁ本人のせいじゃねえけどな。仕事だってんならきっちり殺(ト)るさ。でもな、俺が困ってんなぁ、こんな事に慣れちまった俺の神経を悲しめばいいのか笑えばいいのか解りゃしねってこった」
笹中はため息をついた。ひどく疲れたものだった。
「考えても始まらねえべ。弱気は老いの始まりだ。解らなくても闇ん中を手探りでいくしかねえべ」
「まだ30さ。老けごむ気ぁねえよ」
そう言って小島は、笑った。笹中も軽く吹いた。二人とも、それはとても乾いた笑いだった。

 そうして、小島は土の中を掘りぬいたようなマンションの廊下を歩いている。
 壁は土でできていて生暖かい。まさしくベトコンのようだった。歩いているとまるで布団の中でまどろんでいるような気分になってくる暖かさだった。
 小島は元々階段だった坂道を登っていく。もうすぐ君島瑞枝の部屋だ。赤いペンライトがお化け屋敷のように辺りを照らす。
 壁には潰れた目が一面に埋まっている、黄色い体液と血を流しており、それが河のようになっていた。地面に流れていた水は血だったのだ。君島瑞枝は目を潰されていた。
 床には赤く光る釘が打ち込まれている。地面は妙に柔らかい。彼女は焼けた釘を突き刺されていた。体中、もちろん性器にもだった。
 「しょうもねえな、ったく」
 小島は誰にとも無く呟くと黙々と歩いていく。背中には大きな猟銃が吊り下げられていた。
 曲がりくねり、上下にうねった廊下へと出る。彼女の部屋のある階だ。
 壁の中からうめき声が聞こえる。ほそくかすれてのびる悲鳴、空気を吐き出すような悲鳴、獣のような悲鳴。
 天井からは白いロープだ。びっしりと、イソギンチャクのように垂れ下がっている。縄の先にはどれも輪っかがあった。首吊りようの輪だ。
 そこら中に、人体のパーツが落ちている。どれもマネキンのように生白い。並行に傷が何本も走る血を流し続ける腕。何度も破裂しては再生する頭、天井に開いた穴から落ち続けるミンチのようなもの。
 「ハン、死にたくっても死ねねえってか。手前だけじゃねえよ。俺にゃあ解りたくねえがな。愉しめよ。死にかけるピンチってのをよ。俺は、俺たちゃあ、そうするしかできねえ。ハッ独り言か。くだらねえ。さっさと終わらすか」
 小島は自嘲しながら歩く。すると突然足元から出てきた手に捕まれた。
 「そうこなくっちゃな!シケててつまらねえと思ってた所さ!」
 容赦なくトカレフを打ちまくる。だが手を粉砕する事はできなかった。壁から、地面から化物が出てくる。
 君島瑞枝が生み出した妄想が形になったものだ。それは全裸の男たちだった。ある者は肥え太り、ある者は筋骨隆々とした大男で、ある者は痩せた若者だった。
 皆、顔が無い。黒く塗りつぶされている。股間のものは異様にでかかった。それぞれ棒だのナイフだのを持っていた。
 それらが一斉に襲い掛かってくる。小島は地面の手に足を捕まれたまま男たちに二発づつ銃弾をブチ込んだ。心臓と、頭に。
 だが弾丸は男たちをすりぬけて壁に当った。幻像のようなものだろう。だが男たちの凶器は幻像ではなかった。金属バットが当り、ビール瓶が当った時点で小島は次の手に出た。
 「ハン、こんな程度か?痛いってなぁこういうのを言うのさ!」
 小島は自分の足に向かって発砲した。捕まれている方の足だ。銃弾は地面から出ている腕の指を5本とも正確に射抜いた。間髪入れずに小島はコルトガバメントを出すと自分の足に向かって撃った。肉がこそげ、小島の足がわずかに細くなる。
 その隙間を使って小島は腕から抜け出した。小島が自分に撃った銃弾は重要な筋や筋肉をすべて避けて通っていた。
 小島はそのまま前方にジャンプすると皮ジャンのポケットから黄燐手榴弾を放り投げる。
 1秒とたたずに爆弾は爆発し、男たちは火炎に包まれる。黄燐手榴弾は燃焼材の黄燐を振りまいて周り中に炎をふりまく爆弾だ。
 男たちはそれでも向かってくるが、小島は今度は男たちの武器に向かって撃った。ナイフは砕け、金属バットは折れ曲がった。
 武器が砕けると男たちは崩れていった。君島瑞枝の妄想に小島が勝ったのだ。
 「ハハハッ、おやつにもなりゃしねえよ。もっと気合入れて来な!」
 振り向くと目の前に少女がいた。君島瑞枝だった。髪の長いどうということはない普通の少女だ。美人の部類ではあったが。
 「あなたは…誰…?」
 泣きそうなかぼそい声だ。小島は陽気に答える。
 「俺か?俺ぁあんたを助け出すために来た殺し屋さ。死にたくなけりゃ、俺と表に出な。ひきこもりは終わりだぜ。このままでいいたぁ、思っちゃいねえだろ?病院に連れに来たのさ。いいか?手前を助けに来たんだ」
 拳銃を彼女に向けながら鷹のような目で答える。真剣な顔だった。
 「無理よ…もう…おそいの…ごめんなさい。このまま帰って」
 「何が遅いってんだ?手前は生きてる。やり直しってなぁ、いつだってできんだよ。俺も仕事だからな、帰るわけきゃあいかないのさ」
 そう言うと彼女は悲しそうな顔をして自分の部屋の方を指差した。そこには超巨大なウニのようなものがあった。部屋丸々一個分くらいあるだろうか。
 「あれが私よ…ああなってしまったの。もう、人じゃないのよ…ここから出ることはできないの…私は私の意識の一部。多重人格のようなものよ。本体の体は…もう、駄目なのよ。あなたが殺し屋なら、私を殺して。でも、誰も私をどうする事もできなかった…皆、死んだのよ。あなたも、できれば逃げて」
 いい終えると彼女は蝋燭の灯りが消えるように姿をけしてしまった。
 「OKレディ。やってやるさ。安心しな、できるだけ楽に殺ってやるよ」
 小島が背中の猟銃を構える。象撃ち用のライフルだ。マンションの壁など紙のように貫通する代物。
 だが撃つ前に地面から無数の刺が一直線に並んで小島に向かう。すんでの所でかわしたが、壁や天井からも真っ黒い刃が小島を狙って伸びてくる。黒というよりは深い藍色で、黒い霧を纏っている。まるで陰のような色の刃だった。
 小島は伸びてくる刃をトカレフの弾丸で全部叩き割り素早くマガジンをリロードした。
「いや…いや…いや…来ないで!こないで!一人にしてよ!もう嫌なの!何も聞きたくない!なにもしたくない!!」
 見れば巨大ウニと化した君島瑞枝の本体に顔が浮き出ている。小島に攻撃されて意識が戻ったのだ。
 「知ったこっちゃねえよ!だから引導渡しに来てやったんだろうが!」
 空中に黒い腕が出現する。黒い黒鉛のような粉を吹き、指先は鋭い爪が生えている。腕は20本近くあった。
 その腕が一斉に襲い掛かってくる。まるでミサイルのように自由自在に動き、小島の全身を切り裂いていく。
 「OK.Then!it's showtime hah!」
 小島は右手にトカレフ、左手にコルトガバメントを構えて高笑いすると近づいていった順に打ち落としていく。
 「嫌ァアアア!!嫌、嫌嫌嫌!!」
 廊下の奥から真っ黒い水が押し寄せてくる。廊下全体を覆い尽くすほどの量だ。鉄砲水に似ている。小島を押し流す気だろう。
 同時に残った腕が小島を引っつかむ。半数は打ち落としたが、数が多かった。腕はがっちりと固定されていて小島は動けない。
 「ハハッこうでなくちゃな!燃えてくるってもんさ!」
 小島は背中の猟銃を回して壁の方に向けると背中に背負ったまま撃った。
すさまじい衝撃で小島の体が反対側の壁に叩きつけられる。同時に君島瑞枝の出した腕も数本吹っ飛ばされた。本来サイや象を撃つ銃なのだ。対戦車ライフルの数倍の威力がある。当然反動もそれだけあるのだ。
小島は腕を振り解くと袖からロープを取りだした。猟銃の銃撃によって壁に開いた穴に向かってロープは生きているように一直線に飛んでいき、その辺の突起に絡みつくと小島の体を穴の中に引っ張り込む。
 穴の中は君島瑞枝が引きこもっている部屋の隣の部屋だった。鉄砲水が小島の横を通過した。部屋の中にも水は僅かに入ってきたが、小島の膝くらいまでだった。
 小島が部屋の中に入ると、ロープが小島の皮ジャンの袖に素早く引っ込んだ。巻き取られているかのような動きだった。
 部屋の中の変異の具合はすさまじい。畳は黒く腐り、壁は粘土のように解け、一面にびっしりと蛙のいぼのようなものがある。
 小島の前の壁に君島瑞枝の顔が浮き出る。
 「どうして笑っていられるの?どうしてこんな事ができるの?どうして・・・あなたもこんな目に会ってるのに平気でいられるのよ!」
 小島の足元を流れる黒い水に小島の記憶が映る。それは暴力と戦いの記憶だった。虐待された少年期、負けてひどい拷問にあった記憶。それはボコボコに殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられ、みじめに犯された記憶と、血まみれになりながら戦い続けた記憶だった。
 「ハン、こんな物を見せて何が解るってんだ。簡単だよ。俺は戦ってねえと生きてる実感がねえ。死に直面しないと生きてられねえ人種もいんのさ。ああ、病んでるなぁ解ってるよ。理解されようたぁ思っちゃいねえ」
 君島瑞枝が闇に逃げた人種ならば、小島は闇に魅入られた人種であった。どちらも、ひどく病んでいる。
 「あなたみたいなのがいるから…怖い、嫌よ!消えて!殺してやるわ!あなたみたいなのは全員!腐れ外道は全員死ねばいいのよ!」
 君島瑞枝は恐怖と憎悪に歪んだ顔で殺意をあらわにする。対して小島は怒っているような攻撃的な笑いを浮べている。
 「ハッ、そうやって引きこもって何か楽になったか?何も変わっちゃいねえだろ!俺を殺(ト)って何かが変わるってんならそうしな!だが手前にできるか?」
 「解ったような事言わないで!あなたに何が解るのよ!みんな勝手な事ばっかり!バカは黙ってればいいのよ!」
 小島の周囲に数百の影でできたような黒いナイフが浮かび出て、浮かんでいる。だが小島は余裕の表情で続ける。その顔には痙攣したような笑いがしみついていた。
 「説教なんざする気ぁねえよ。手前が苦しいなぁ確かなこったろうさ。苦しみから逃げたきゃ治そうと思う所からしか始まらねえだろ。それもできねえってんだから、俺は手前に決着をつけに来てやったのさ」
 言い終わると同時に小島の懐から缶ジュースのようなものが転がり出た。閃光投擲弾、スタングレネードだった。すさまじい光と爆発音が鳴り響く。長い間闇の中にいた瑞江は目がくらんで苦しみもがく。
 その隙を逃さず小島は背中の猟銃を構え、残った弾を全弾君島瑞枝本体に向かって撃ち放った。同時に空中に浮いたナイフが小島に飛んでくる。
 巨大ウニのようになった君島瑞枝の体は4発の600ニトロエクスプレス弾で一瞬にしてミンチにされ、粉々に粉砕された。小島は倒れていた。
 だが彼はゆっくりと立ち上がる。その体には数本のナイフしか刺さってなかった。伏せてナイフをやりすごしたのだ。
 その場にはただ、崩れ行く君島瑞枝の体があった。黒いヘドロのようになって垂れ下がり、広がっていく。やがてそれは黒い水に押し流されて消えていくだろう。
 小島は冷笑するとゆっくりと煙草に火を点けた。ゆっくり吸い込み、大きく吐く。
 「救えねぇな…病んでるよ。俺もお前も。ハハッ」
 小島は笑った。声を出して笑った。それはひどくさびしく、寒々しい笑いだった。