ドブ泥の悲恋
ああ、相変わらず心地よく酷い天気だ。
上を見上げれば黒々と立ち並ぶ威圧的なビルは水垢と煤に侵食され、
その間に張り巡らされた電線は偏執狂的な蜘蛛の巣のようだ。
電線に透けて見える空は灰色の雲に覆われていつも暗い。
相変わらずこの街は不健康でいい。黒く粘る汚水のにおいも、
汚水に塗れた脈打つうろこのある地面も心地よく体を蝕んでくれる。
電線を良く見れば黒い粘液に包まれた3歳児くらいの大きさの妖魔がネズミを食っている。
その横でのたうつのはピンク色の一反木綿だ。
私の体の中にあるオイルと埃塗れの歯車とチェーンが少しばかり動く。
戯れに虐めてやろうか。いいや。面倒くさい。無駄な殺生をしても良い事は無いはずだ。
どうせイカレた誰かの妄想か、ストレスに悩んだサラリーマンの苦悩が流れ出たのだろう。
サンノミヤの裏通りを進んでいけばまたそこはひどく妄想に汚染されていた。
地面や壁やらは青いプラスチックの欠片や安っぽいイミテーションの宝石のようなものが埋め込まれ、道路は草の代わりにフェイクファーが茂っている欲望の密林。
だがこれも私の仕事ではない。この程度ならば誰も文句は言わないだろう。
裏通りを更に進んだそのまた奥。誰も使わないどん詰まりの路地。
そこはまさに女体だった。
押せば軟らかく張りのある弾力にとんだ暖かい、滑らかな地面。
ピンク色の軟体動物のような配管。乳首のようなスイッチ。
酷い。かなり酷い汚染だ。
私は爪を剥き出しにして戦闘態勢に入る事にした。
土地の新しい持ち主の要望に応じて染み付いた妄想の地上げをするのが私の仕事だ。
妖魔は掛かってくるなら殺すし、人間は少しあらっぽい話し合いで退去してもらう。
あとは私の妄想でとりあえず建物を元の形に戻してやればいい。
私は手を握り締めて路地に開いた女陰のような入り口に入った。
いつごろからだったろうか。
人間の妄想が周りの環境に影響を与え始めたのは。
最初は人間自身にだった。
極度の精神異常の人間が怪物のような姿になったり、慈悲深い神父やおだやかに老後を過ごす老人が神のような神々しい姿になるようになった。
「顔はその人の内面を表している」
人の服装、表情、肌の健康状態は普段のその人の生活や精神状態によって変わるものだ。
外面はある程度内面の影響を受ける。その逆も然り。
それが極端になってしまったのだろうか。
人間の起こす行動や、意思、心理状態、妄想が人間自身や環境にも影響を起こすようになってしまったのだ。
人間は意志によって環境や自らの肉体を変える事も可能に成った。
といっても物理法則を変えることはできない。
変わったのは一点だけ。心の強い力が外界を変えるということだ。
しかし自らの思い通りに世界を変える事のできるほどの意思力のあるものは少なくは無いが、まれだ。
思い通りに力が使えたのは有名企業の社長やらプロスポーツ選手、著名な芸術家といった元から成功してるような連中ばかりだった。
それに必ずしも思い通りになるとは限らない。強く思ってしまったら不安な事も、忌諱している事も現実になってしまうからだ。
拒食症の少女など自分の妄想で百貫デブになって死んでしまったし、
分裂症の電波な病人は自分の作り出した宇宙人に本当に解剖されてしまった。
しかし、大概の人間は少々姿形や自分の家の形が変わったくらいで終わった。
次に出てきたのが妖魔たちだ。人間の妄想の中には当然登場人物も存在する。
人気のある物語のキャラクターが語り継がれていって半ば人格化する事だってよくある事じゃないか。
それが全部現実に産まれ出てしまったのだ。
イスラム圏など信者全員の妄想によって本当にアラーが出てきてしまったし、
アメリカはキリストが復活してしまい、今や本当の宗教戦争になっている。
最も、本当にゴルゴダの丘で処刑された大工の息子が蘇ったわけではなく、
キリスト信者の中にあるキリストのイメージが具現化したわけだが。
そしてそれらは時に害を及ぼす事もある。それを駆除するのが我々妄念師だ。
私の今回の仕事は依頼主の持ちビルにとりついた強力な妄想の浄化だったのだ。
今度の仕事もまたひどかった。
獣臭いような、甘いようなフェロモンのにおい、男女が絡み合う時の湿気た汗の匂い。
こっちまで当てられそうだ。妄想に汚染されたビル内部の壁はピンク色の粘膜で指で押すと熱いゼリーのように弾力がある事だろう。
ろくな事になりそうにないので触るのはやめておくが。
おぞましい色欲の妄想の中を私は歩いていく。
近い。そろそろ何かが出てくる所だろう。
ああ、いたいた。粘膜の壁から突き出す男女のパーツが。
ある部分は睦みあう上半身だけが突き出ていて、ある部分はすらりとして張りのある脚だけがのたうっていた。
どれも同じ男女だった。
ほとんどは愛し合い、絡み合っていたが中には殺しあっていたり、女がただ泣いていたりしたのもあった。
何か女がらみで修羅場があったらしい。絡み合う妖物はそのせいか。
しかし私はこの気味の悪いオブジェには手を出さない。これは敵の断片にすぎないからだ。
本体は多分この奥にある…
黒い繁みを掻き分け、闖入者にも気づかず狂ったメロドラマを繰り返し続ける妖物や不気味なオブジェを掻き分け、ついに私は玉座にたどり着いた。
そこは真珠貝の内側のように淡く白く光り輝いていた。
その妄想の真っ只中に敵がいる。
「ああ、愛しいあなた。もう離さないわ。誰にも渡さない。私の愛しい悪い人」
「すまない。昌子。もういいんだ。もうここでずっといよう」
「そうよ。私はどこにもいかないわ。あなたもどこにも行っちゃ駄目…」
「すまない。愛してるよ。お前が一番だ。お前だけがいてくれたらいいんだ…」
聞いているとこりたまで取り込まれてしまいそうになる。小奇麗だが、歪みきった妄想だ。
おそらく悲恋に破れた女か、ここのビルで働いていた落ちぶれたソープ嬢が妄想にはまり込んでしまったのだろう。可愛そうだが、まあ仕方ない。こうなったらもう人間ではないのだ。
私は爪を彼らに向ける。
「悪いが死んでくれ」
指鉄砲の形に握った人差し指から間の抜けた空気音を出して爪が発射される。
そしてそれはあっさりと女を庇うように身を乗り出した男の背中に刺さり、爆裂した。
「ああ!あなた!どうして…」
「昌子今までお前には迷惑をかけた。すまない。先に死ぬ事を許して…」
そこで男の頭が弾ける。だが私が撃ったわけではないんだが。
どうやら彼女の妄想の中では男は私に殺された事になっているようだ。
「あああなた。今すぐ私も…」
また勝手に爆発だ。だが死んではいない。この手の妄想に多いパターンだ。
あくまで彼らの妄想の中の出来事にすぎない。
おそらく本体は別にある。
放っておいたらまたすぐに妄想を繰り返すだけだろう。
本体はどこだ。私は鉄の刺の生えた足で彼女らの死骸を踏み潰し、妖物の襲撃に気を配りながら隠された本体を探る。
その瞬間。首の辺りを風がかすめた。
危ない。間一髪で避けて振り返る。
そこにいたのは諸刃の剣を持つ黒い翼の生えた銀色の甲冑を着た騎士だった。
やはり妄念の生んだ妖物か。すると目指すものも近くにいるのだろう。
とりかえず倒してみよう。私は右手の爪を発射するが銀色の甲冑の前には意味が無い。
爪を弾いた白銀の騎士は思った以上の俊敏さで剣を振りかざして襲ってくる。
私は左腕で剣を受けるとそのまま刃を掴んで動きを封じた。
私の左腕は石になっているので滅多な事では傷つかないのだ。
砕こうかとも思ったが銀色に光り輝く剣は思いのほか硬く、すぐには折れなさそうなのでそのまま掴んでおく。
それよりもそのまま間合いをつめて兜の隙間から目を射抜いてやった。
銀色の怪物は短く苦悶の声を上げると剣を手放して翼を使って宙を舞い、腰に下げたベルトから長めのナイフを取り出して構えた。
そのまま敵は壁を蹴って滑空して飛び掛ってくる。しかし狭い場所ならばこちらが有利だ
私は素早く避けるとそのまま石の左腕でラリアットを叩きつけてやり、そのまま壁に押し付けてやった。
さらにそのまま鎧の隙間から右手を入れてありったけ爪を発射してやる。
数秒後爪もろとも怪物の首が爆散して倒れていく。
なんとかうまくいったようだ。
復活されたり別の妖物が出てくる前に片付けてしまおう。
本体はどこだ。玉座の周りを調べてみる。ん、玉座には裏があったのか。おお、あったあった。
粘膜の地面に腰まで浸かった女の上半身がある。
目を瞑って眠っているようだ。
私はいつものように懐から封じ球を取り出した。
これさえあれば他人の妄想を封じ込められる。
最もこれも私の妄想が現実になったものだが。
ようやく仕事を終えようとしたその時、女の目が開いた。
「どうして…どうしてあなたたちは私の邪魔をするのよ!!邪魔よ邪魔よ邪魔邪魔邪魔死んでしまえばいいんだわ!」
「仕事だから」
封じ球の表面を一撫するとそれは光り輝き、彼女もろとも妄想を吸い込んでしまった。
真珠色の玉座も、肉色の壁も少しづつ崩れていき、黒い粘土のようなものに変わっていく。
一度変質してしまったものが元に戻る事はあまりないが、この場合は本体がいなくなったので妄想を維持できなくなってしまったのだろう。
あとはこのビルに巣くう妖魔を追い出せばいい。
殺さずにほっておいてもどうせ死ぬか、また別の妄想の中に入って適応するだろう。
大勢に影響は無い。
私は再び爪を装填すると仕上げにかかる事にした。
雇い主に連絡し、報告書を書き上げればあとはもう自由の身。
私はそのまま地下街のバーに入り、祝杯を上げた。
当座の生活資金はあるのだ。700円の安酒くらいいいだろう。
オールドファッションな落ち着いた雰囲気のバーでクィーンを聞きながらジントニックを傾け、手の中で玉を転がす。
中を見てみると何も変わらずに恐らくもう居ないであろう想い人と睦み合う女の姿があった。
これは高く売れるな…自分で妄想するに飽きたらず他人の妄想を覗き込みたがる奴も多い。
他人の妄想はけっこう金になるのだ。
そして妄想に取り憑かれた彼らももう二度と他人に邪魔されない玉の中で満足を得る。
誰も困らない。
しかし疲れる仕事でもある。
いい夢見てね昌子さん。哀れな名もなき女に乾杯。
一人つぶやきジンをもう一杯。