コップに酒が10ml入っている。
これを見て「まだ少しある」と言う人と「もう少ししかない」という人がいる。
しかしそこには少ない酒も少しだけある酒もなく、ただ酒が10mlあるだけだ。
人はその時10ml酒に「少ない」とか「少しある」という意味をくっつける、あるいは認識するのだ。
酒はそこにあるだけならただガラスという物質にアルコールという液体が10ml入っているというだけだ。
人がそれを見て「これは酒で飲んだら旨いものだ」とか「もう少ししかない」と思い、認識する事で
はじめてアルコールは酒という役割と意味ができるわけだ。
この物に意味をつける事を「見立て」と言う。
この見立ての現象は心理学でも魔術でも非常に重要な概念だ。
この原理はうまく使えば素晴らしく有効な技術になる。
たとえば酒の入ったコップでも猫から見ればそれは遊び道具になるし子供から見れば飲んではいけない液体になる。
同じものでも人によって見立ては違うわけだ。
見立てが違えば使い方も代わってくる。そうすればおのずと結果も変わる。
役に立たない(間違った)見立てを役に立つ(正しい)見立てに直す。
例を上げると苦しい状況を「今は苦しい、ついてない状況だ」と見立てるのと
「今は試練の時だ。自分の力を試そう」と見立てるのとではやる気も違うだろうし、
結果も代り、苦痛も増減していくだろう。
無論万能の見立てなどあるはずはないし、自分の選んだ見立てのせいで失敗する可能性もある。
見立てを自分で選ばず適当なものにして失敗した時に自分の無能を嘆かずにいた方がいいか、
それとも見立てを選んで他人や理不尽な力に屈するのではなく
自分の失敗は自分のせいだと開き直るのがいいか選ぶのは貴方自身なのだ。

ところで「現実をこんな風に勝手に変えるような事をしていいのか。
事実というのはもっと確固たるものではないのか」と思われるかもしれない。
そこで再び一席ぶち上げよう。

今度は別の側面からの私の考察を少しばかりひけらかしたいと思う。
まず「あなたの常識は必ずしも他の人の常識ではない」
これが私の常識だ。「そうでない、常識というのは皆が当たり前に持ってるから常識なんだ」
と思った人はすでに私の常識と違うという点で逆に私の主張を証明してしまうのだ。
無論これは詭弁でありいくらでもこの手の言葉のトリックでごまかせる。
ははは、何を言っているかさっぱり解らんでしょう。そういうものです。
しかしそれこそが再び私の正当性を示すわけだ。
すなわち「常識など口先三寸で曖昧になってしまうような脆いものだ」
という解釈もできる。
無論これは私に都合のいい証拠だけで論じたのだから
私の説を証明するようになっていくのはこれまた至極当然の事なのだ。
しかしこれまた愉快な事に私の見立てという名の妄想を補強してしまう材料に成り下がる。
世の主張も実はこれと似たり寄ったりのものが多い。
大体自分に都合のいい事ばかり言ってそれで「私の説は証明されました。だから私の考えと違う人は間違っている」
など噴飯ものではないか。
自己批判の無い論説など証明が無いも同然、これは言いすぎだがそれは信仰と似たり寄ったりではないか。
ならば自分に都合の悪い証拠も挙げて
「しかし私がこれこれこういう理由でこの証拠は違うと思う。
あるいはこの証拠は解釈が違うだけで私の説を否定するものではない」
と、すべきではないか。
その説からすれば無論私の説も有象無象の愚説にすぎない。
他の説と大してその価値は変わらないのだ。
え、そうでしょう。そういう事になりますよね。
「絶対に正しい説なんてない。どれも価値は同じだ。
だからその時々に自己の責任でもって都合のいい説を採用すればいい」
という説の論者が「しかし自分の説だけは正しいんだ」なんて言えるわけありませんよね。
しかし私はこの説が私にとってなにかと便利だから採用する。それについての不都合も被ろう。
いささか優等生すぎるがそういう態度をとる事にしたわけだ。
あくまで「私からは世の中こう見える」というだけにすぎず
そうしたら「私にとってこの説はなにかと都合がいい」というだけなのだ。
他人が別の説を持っていても構わない。どちらの説も幾分正しくてでもどこかは少しは間違っているからだ。
無論欠点はある。なにしろ世の中に絶対は絶対に無いという主張なのだから自分の説すら完全には信じてはならない。
そしてどの説も正しくないのだから何も信じてはならないわけだ。
これはつらい。どれが正しいかその都度自分で考え、そのリスクを負わねばならない。
無論私だって絶対的な神か何かを信じてその言葉に身をまかせて安心のうちにすごしたい。
それはある。だが私はそれをつっぱねたのだ。
神にすがりたいとも何も解らないとも思いたいが
そのどちらもとらずその境界で揺れているという選択なのだから。
しかしそれでも私は神だの偉人だのに意志を捧げるくらいならたとえ苦しんでも自分で意志を決めたいわけだ。
考え様によっては神よりも自分の実力を信じるというとんでもなく傲慢な考え方だがそれでも私はこの考え方生き方を通したいのだ。
このへんでもうわけがわからなくなっておられる事でしょう。
そうなのである。私から見れば世の中はそれぞれの主張が混ざり合って灰色の混沌とした煮汁のように見えるのだ。
そしてそんなわけの解らない世の中でこれが唯一正しいのだなんてあるわけないでしょう。
とそう思うわけだ。

一つ解り易いたとえを言ってみよう。
一つは戦争についてだ。

南京大虐殺というのがあるがあれは一方で慰安婦の何々さんはこんな酷い事をされましたよ。
誰誰の日記によるとそれはもう酷い事を日本軍はしましたよ。となるが
逆の否定派からすれば
それらはさっぱり物証が無く証言だけならいくらでも演技できるし勘違いだって多いはずだ。となる。
そうすれば肯定派はいや、この写真があったという事を証明している。となる。
すると、いや、それは合成だ。でっちあげの写真だ。
とか実はこれは日本軍じゃなくって中国軍がその罪を日本になすりつけたんだよ。
とかなり、その日は普通に日常生活していたという人の証言もあるぞ、とか
いやこの死体が・・・いや、それは民間人じゃなくて変装したスパイだ。
じゃあ証拠見せろ、いや、見せない。
とかもうわけがわからなくなってくるのである。
そして私から見ればその証拠もどうもどっちもどっちでもう南京という街があったのかもわからない事態だ。
そんなわけが解らない状態で何故皆自説をそんなに信じれるのだ。
それは盲信なんじゃないの?と思える訳である。
いやもうこのさいどっちが正しいなんてもうどうでもいい。
ただお互いまったく違う説を唱えているのに自分だけは絶対に正しいと思っている、という事態が存在するのはご理解いただけたであろう。
そしてどうも見たところここまではっきりしてなくてもそういった事は日常生活であるだろう。
ちょっとした誤解や勘違い、すれ違い。それは規模は違えどこれと同じ構造である。

ならばもう「思った事を正直に言えば
それは正しくて相手に素直に伝わり
やがて皆私の要求を聞きいれ
全てがうまくいくであろう」など死んでも思えないはずだ。
そう思いたくなることはままあるけど。
だから
「基本的にそれぞれ考え方は違うのだから
言い方や解説の順序を考えて言おう」
となるわけだ。かなり難しく困難ではあるけれでも結果的にはスムーズに会話が進むと私は思う。
ここで見立てやペテンのテクニックが必要になり、人間の習性に対する研究が必要になってくるのだ。

人間は一人一人細かい所では違うのだから万人に絶対に正しい論理などない。
しかし同じ人間という種族なのだから似通った所も多い。
だから「こうしていれば大体安全」とか
人間そのものの習性から編み出した人間という動物に対する対処法というのがあるはずなのだ。


だが今度はあえて色即是空という事を考えてみよう。
これは般若心経の要点なのだがこの経の考え方は一言で言うと「空」という概念だ。
まず「各人が正しいと思っている事はどれもいいかげんなものだ」これも空という概念の一つである。
多くの概念がそうであるように空もまた様々な要素が集ってできている。

私がその根幹であると考えるものを現すにはまず無明という概念を説明せねばならない。
まず欲望とはどういうものだろうか。
欲望を晴らすとは?まず欲望を達成する事は幸福なのか?
否である。幸福と満足は近い概念だが、欲望を達成する事とは別の概念である。
たとえば・・・金持ちになるのは幸福か?土地や車を得るのは?良い会社に就職するのは?
皆さんもうすうす解っているだろう。これらは幸福とは直接は関係ない。
まずこれらの欲望を持つ状態がまずある。
・高価なものが欲しい
・出世したい
・良い所に就職や入学したい
これが「欲望がある状態」だ。しかしこれらにやっきになっているのは
これは「欲望を持っている」のではなく「欲望が取り付いている状態」だ。
本当に欲望を持っている状態というのは自分で欲望をコントロールできている状態の事だ。
欲する事もできるし欲しない事もできる。これが普通の状態だ。
しかし欲望を止められない状態、これが「無明」なのだ。
・どこぞの教祖に貢ぎたいという欲望があって家族離散してもまだ金を貢ぐ
・車や賭け事に入れ込んで家計が苦しくなる。
・出世や賞与が欲しくて他人や家族をないがしろにしてついには破滅する。
・高価なものが欲しくて盗みをしたり破産したりする。
こういった状態が欲望に取り付かれた状態「無明」あるいは「貪欲(執着)」だ。
これらは出世できない事や高価なものが買えないのが苦しみではないのだ。
どうしても欲しいという強い欲望が苦しみを巻き起こすのだ。
この状態では欲望を止める事もコントロールする事もできていない。
逆に欲望を達成するために動いている。欲望に動かされているのだ。
この時彼ら自身の意志はない。欲望が彼らを動かしているのであって彼ら自身の意志を奪い取られた、
すなわち欲望という憑き物に取り付かれた状態なのだ。
私はこういう欲望を京極夏彦氏に習って「憑き物」と呼んでいる。
こういった憑き物は他にもある。

・怒りもまた憑き物である。相手を消し去りたい、打ちのめしたくてどうにも自分が止められない。
怒りと憎しみで相手を倒す以外考えられない。
・恐怖に支配されてどうにもできない。ただひたすら逃げて怯える。恐怖の対象を消そうとやっきになる

すなわち「どうしようもない強い感情があってそれを止められない、それに従う以外できない」
たとえその感情を消したくてもそれができない。
あるいはさらに「それに気付いていない」。そういう状態が無明であり、
そういった感情が「憑き物」であり「貪欲」である。

しかしこういった疑問も出てくるだろう。いや出てこないと私が困る。
「自分の欲望を晴らして、それに忠実に生きているのならばそれは自由なのではないか」
という疑問があるだうがそれもまた見立て方の問題だ。
般若心経ではこう考えるのだ。
『ならばその欲望を止められるか。その欲望を捨てたり操ったりできる事こそ本当の自由だ』
『欲望に従わなければ苦しいのならばそれは欲望の奴隷になっているという事だ』
となるわけである。
しかし「たとえ欲望を操れるようになっても自分のしたい事ができない人生などいやだ」
と思うかもしれない。
しかし欲望を操る事はこれは苦痛を減らし、物事を楽しむのにとても都合がいいのだ。
たとえば欲しい物があったとする。しかし何をどう努力しても手に入れるのは不可能だ。
しかし諦められず、苦しい。そういう時に欲望を操る術を身につけていれば簡単に諦められる訳だ。
誰かにけなされて悔しい。怒鳴られたり叱られたりして腹が立つ。
しかし上役であったり相手が強かったりして怒鳴り返せない。
そういう時に怒りを静められる術があればそもそも腹が立たない。怒鳴られても涼しい顔でいられる。
しかし何かそういう生き方は情けないと思うだろう。それはそうだ。
これは「苦が無い生き方」であって英雄の生き方ではないのだ。
あくまで苦痛が無い事が大事なのであって快楽は二の次なわけだ。
「欲しい欲しいと思うから手に入らなくて苦痛なわけで初めから欲しいと思わなければ苦痛はない」
現状で満足すればどんな時でもそれは幸福になる。
「それ以上上を望まず今が満足だと思えばやがて幸福になる」
すなわち幸福と満足は近い概念だが欲望の達成とはまた別であるとなるわけだ。