さて、ここで序論でほんの少し述べた天使や悪魔、要するに魔物について話してみよう。
まず初めに断っておくが基本的に古今東西の魔術師は彼らを実在の生き物として考えていたわけではない。
一言で偉そうにいうなら「自然や人間の技術の諸作用を擬人化したもの」と考えられていたはずであり、
今もそのはずだ。
簡単に言えば・・・酸素が化合して炎を発する反応、これを科学者は酸化とか燃焼とかと言い、
あなた方はただ単に「燃えた」と言う。魔術師はこの作用の事をイフリートとか不動明王とか言うのだ。
ここで勘違いして欲しくないのはイフリートが息をふきかけているから燃えるんだとかいうのではなく、
(いやこれも結局はあながち間違いではないのだが)
この燃えるという作用そのものの名前とそれに付随する人格の事をイフリートと云うのだ。
たとえて言うならここに車が一つあったとしよう。
この車にノームという名前をつけるのではなく、車のそのエンジンの動くしくみ、
車輪という概念そのものにノームという名をつけ、ノームはこれこれこういう性格なのだと付け加えるのだ。
どうも伝わりにくいが、私は京極夏彦氏の説明を借りてこう言おう。
「ここに鋏(はさみ)と紙があるとしよう。
そして君は鋏を知らない未開人だ。
君は紙を切りたいとしよう。ならばどうする?
そうだ。君はただ単に手で破くだろう。
そこに文明人の僕がやってきて鋏で紙を切ったとする。
そうすれば鋏知らずの君からすればこれは魔法だろう」
これがまず魔法である。
テコの原理と摩擦の原理を駆使して物を斬るのが鋏であるように、
一部の自然の原理を魔術師なりの方法で使う事が魔術なのだ。
そしてその原理に人格という個性と名前を与えて擬人化したのがこれが魔物というわけだ。
で、さらに氏から言葉を借りれば
「だから鋏は呪具であり、道具ま全て呪具なのだ。
道具の使い方。これが式(魔術)でありそれを使う行為、鋏で紙を切る事、これが呪術(魔術の儀式)になるわけだ
で、使い方に人格を与えたのが式神(この場合魔物)で道具そのものに人格が与えられると付喪神となる。似ているが違う」
要するに火そのものを擬人化したのではなく、燃えるという仕組みを擬人化したのが魔術でいう天使や悪魔であり、仏教で言う神仏なのだ。
デヴィッドコンウェイ師も同じ事を言っていて
「宇宙の主な力を把握しやすいように様々な惑星や古来の神の名前をそれらにつけている。
こういう擬人化は本質をわかりやすくする努力だ」
そしてその天使たちの王座にいうのが神であり大日如来だ。
宇宙が神の身体ならその根本原理や人間で言う内蔵や爪といったその一部が天使や諸尊なのである。
そうしてそのうち破壊的で人間に都合の悪い洪水とか雷とかいったものを悪魔とか邪鬼と言い、
人間に都合のいい春の日差しとか恵みの雨といった創造的な力を天使といってるに過ぎないわけだ。
ちなみにさらに別な見方では神の縮図である人間の中にも天使悪魔がいて、
それらの力をバランス良く高めていく事こそ魔術師の目標であり、
人間の体験しうるあらゆる感情を経験すればやがて神と合一する事も夢ではないというのが魔術の根本原理である。
ちなみにユング心理学ではこれを元型と言い、心の個別の働きを擬人化されたものとして見なしている。
そんな小難しい事を言わなくてもこう言えば解るだろう。
ジキルとハイドだ。あなたの心の中にもまるであなたでないような邪な欲望があってそれに囁かれるという経験がある人もいるはずだ。
あるいは恋人と会う時はまるで天使のような優しい自分になれるとか・・・
それは心理学でいう元型、心の働きの一部であり、魔術でいう天使悪魔の一つなのだ。
それはとても簡単に人格を持ち、あなたにささやきかける事もまた良くあるだろう。
魔術の一部ではそれを使い魔とする事もある。
これは童貞魔術の章で語る事になる。