最近巷に殺人を描いた作品が多くあります。
しかし中にはどうしても許せないものがあります。
上等な料理を箸でつつきまわして捨てるかのごとくくだらない殺し方のものが。
そこで私の思う理想的な殺人と殺人者というのはどういうものか、少し論じてみたいのです。

本当にただの殺人者である事を極めるのであるのならば彼は殺人以外で人を害してはならない。
するべき事は殺人であるのだから他の余計な事は慎むべきです。

苦しめる事を快楽にしてはならない。それは殺すこととは分けれる事もできる。
殺す事を突き詰めるならば余計な要素はいらない。
目先の快楽に流されていては殺人をするという本質を見失ってしまう。
殺す事が快楽なのであっていわんや誰かが苦しむとか、苦痛を与えるのが楽しいというのは
それは別の感情です。あくまで加虐欲であって殺人欲ではない。断じてない。
それは余計なものではないでしょうか。

怒りも本当はいらない。怒りは冷静な判断を曇らします。
理屈も理由もいらない。特に罰するという理由付けもできることなら必要ない。
殺人をする事だけが目的であり手段なのだから他の目的の手段として殺人を使ってはならない。

躊躇いはもってのほか、罪悪感は逆に死者への愚弄です。かといって見せびらかすのも浅はかでしょう。
殺人をするという目的のために他の人を強制的に協力させたのです。
人の命を奪うからにはその動機が不完全なものであってはいけません。
殺したくも無いのに殺すということは本来殺される必要がなく、他の手段でも代用できたという事です。
殺す必要がないのなら、殺人に高い価値を置くならば、少なくとも自らは手を下さないでしょう。
程度の低い殺人をするくらいなら自ら死を選ぶくらいでないといけません。
自分のために殺すのもいいでしょう、
しかし理想は自分のためはもちろん誰のためにですらなく
理由なくしかし殺す必要があったから殺すのがあるべき姿です。強制されてするものではない。
人の命は誰か一人の思惑でどうこうすべき安いものではない。少なくとも殺しに価値をおくならばそう思うべきです。
安いものではないからこそ奪う価値がある。
その命を強制的に奪うには相手への感謝が必要なのです。
言い方を変えれば誰かの思惑や躊躇うようないいかげんな意思で奪っていいような安いものではないのです。
言い訳をするような安い行為でもないのです。
端的にかつ感情的に解りやすく言うと

価値のある料理をまずそうに食べたくないのに食べている人と美味しそうに感謝して食べる人とどちらが
食べる姿勢として正しいですか?

見せびらかすのもあまり良いこととは言えません。
殺人者は死者へのある種の敬意も必要ですし。
自分の身勝手な快楽のために人を殺すのです。いわば協力者であり、食材なのです。
楽しませてくれたものには相応の敬意をはらうべきでしょう。
あるいは殺人のしめくくりとして飛び切り冒涜的な演出を徹底させてみるのもいいでしょう。
肝要なのは徹底です。相手に憎しみであれ快楽であれ価値をおくならば相応の手間をかけるのが礼儀というものです。
あるいは逆に潔く何も手を加えないというのもいいでしょう。
一番いけないのは何を表現したいんだが解らないような中途半端な表現です。
死体の始末に限った事ではないですが、何かを成すならば意図を明確にしないと駄目です。
そうでないと順序だって方策を練る事ができませんから。
少し矛盾するかもしれませんがどうしたいかという目的があってそれを成すために手段を選ぶのです。
目的がなければそれに見合った手段を選ぶ事ができません。
結果を良くしたいならそれなりに手を尽くすべきでしょう。
何もせず素のままというのも良いものだと思いますが。

躊躇って殺して罪悪感を抱くくらいなら恨みや怒り、義憤で殺されたほうがましです。
それだけ大きな感情で殺されるだけの価値があったということですから。
あるいはじゅっぱひとからげでゴミクズのように殺されるのがまだましです。
絶対的な力で大した余計な感情もなく一瞬にして殺される、致命傷を受けるのは
それだけの相手に殺されたということです。少なくともそれだけ相手に殺される価値はあったと言う事になります。
わけのわからない少女の喧嘩みたいなので殺されてはたまりません。

そして殺人者は相手が殺されたくないのも、相手や周囲から恨まれるのも受け入れなければなりません。
それだけのリスクを負ってまでするべき価値のあることだからこそするのです。
第一自分の行為を否定しながら殺されたのではなんのために殺されたのかわからないでしょう。
罪も背負い罰も受ける、
それが死者への敬意というものですし、自分自身の初志を貫徹する事になるでしょう。
しかし罰を受ければそれ以上殺人はできません。ですから全く完全に罰を受け入れるのはできない事でもあります。
ですから、罰を避けようとはしない程度でいいかもしれません。
証拠を隠滅する程度、隠れて殺人をする程度はいいですが、過度に捕まらない配慮をしてはならない。
追われるという罰を背負うべきです。何らかのリスクがなければするべきでない。
あるいは罰を下される事を避けようとしない。そういう姿勢であるべきです。

そして楽しむのは重要です。
楽しみのない仕事ですと往々にして手抜きやいいかげんな仕事になりがちです。
高い品質を保つためには仕事へのやりがいがなければいけません。
これは殺人でも同じだと思います。

そしてそのためにはある程度の趣向や趣味も仕方の無いことでしょう。
いろいろなスタイルがあって研究、切磋琢磨してこそ腕に磨きがかかるというものかもしれません。
しかし小手先の趣向にとらわれて「殺すということが目的であって手段」という本質を忘れてはいけないとも思います。

以上の要素を満たした殺人者というのは完璧すぎて面白くないかもしれません。
ですから全部に従う必要はないと思います。
しかしあまり外れすぎるとしょうもない殺人が描かれることになるでしょう。

それにしても完璧な殺人者とは人間というよりもむしろ現象に近いのかもしれません。
取りだてて騒がれる事もなく、感情もなく、命を奪うだけ。
妖怪に近い存在になるのかもしれません。
ですから本来殺人というのは突き詰めればありえないような所に行ってしまうような、
とんでもないリスクと覚悟がいるようなありえないものであるべきなのではないでしょうか。
それほど簡単なものではないかと言う事でしめくくりの言葉にしたいと思います。