書籍 | 山田方谷ゆかりの群像 | ||||
著者名 | 野島 透 片山純一 | ||||
書籍紹介 | 〜団藤重光・東京大学名誉教授のことば〜 | ||||
〜祖父善平は、安政六年、他国へと武者修行に旅立つに際し、方谷先生に英名録の序を請い、今も手元にその篇冊が遺る。それから百五十年を経た本年一月、方谷先生六代目の子孫野島透氏が拙宅を訪れ、「方谷ゆかりの群像」を知友と世に問うに先立ち、序を請う。方谷先生の恩顧に報いる機会の到来に、巡り合わせというものを感じ、同時に喜びを禁じ得ない。 祖父は、旧松山城下、現高梁市の古刹に眠るものの齢九十半ばを過ぎて墓参もままならぬわが身にとって、本書に収録された団藤善平の墓碑は何よりもの供養と、謝辞を以って序に代える次第である。 | |||||
目次 | |||||
序文(団藤重光) | |||||
はじめに | |||||
(1) | 山田方谷とは | ||||
(2) | 藩校及び私塾牛麓舎での教育 | ||||
(3) | 晩年の長瀬塾での教育 | ||||
第一 山田方谷の一番弟子・三島中洲 | |||||
(1) | 三島中洲の前半生 | ||||
(2) | 二松学舎創設 | ||||
(3) | 三島中洲の学説 | ||||
(4) | 三島中洲の後半生 | ||||
第二 山田方谷の孫・山田済斎 | |||||
(1) | 若き日の山田済斎 | ||||
(2) | 九州時代の山田済斎 | ||||
(3) | 東京時代の山田済斎 | ||||
(4) | 郷里高梁に帰任する | ||||
(5) | 山田済斎の友人と家族 | ||||
第三 阪谷朗廬と山田方谷 | |||||
(1) | 若き日の阪谷朗廬 | ||||
(2) | 方谷との交流、渋澤栄一との出会い | ||||
(3) | 朗廬、広島藩の賓士となる | ||||
(4) | 明六社に参加、晩年の朗廬 | ||||
(5) | 阪谷朗廬の系譜を継ぐ者 | ||||
(6) | 「三代の系譜」と坂田一族 | ||||
第四 坂田警軒と山田方谷 | |||||
(1) | 方谷、警軒を閑谷学校に招く | ||||
(2) | 啓蒙家から政治家へと転身 | ||||
第五 関藤藤陰と山田方谷 | |||||
(1) | 頼山陽の門弟となる | ||||
(2) | 福山藩出仕、蝦夷探査に向かう | ||||
(3) | 人材育成で藩主を支える | ||||
(4) | 維新動乱期に奮迅、方谷との交流 | ||||
第六 団藤善平と山田方谷 | |||||
(1) | 剣の達人団藤善平の英名録序 | ||||
(2) | 団藤刑法学と陽明学 | ||||
第七 方谷門下の異才原田一道 | |||||
(1) | 洋学を志し、オランダで兵学を学ぶ | ||||
(2) | 二度の渡欧を経て軍制確立に尽力 | ||||
第八 川田甕江と山田方谷 | |||||
(1) | 苦学し文を以って世に立つ | ||||
(2) | 幕末の難局に東奔西走 | ||||
(3) | 維新後の川田甕江 | ||||
第九 留岡幸助、順正女学校の系譜 | |||||
(1) | 留岡幸助と山田方谷 | ||||
(2) | 福西志計子、伊吹岩五郎と山田方谷 | ||||
第十 河合継之助と山田方谷 | |||||
あとがき |