方谷山田先生墓碣銘

 

 高梁市の八重籬神社に建つ方谷山田先生墓銘は、旧松山藩主板倉松叟が方谷先生の功績を称え明治12年建立した誠に立派な碑である・撰文が良い、揮毫が良い、石が良い、彫りが良い

撰文 三島中洲(方谷先生の弟子、二松学舎大学創始者)
篆額 松平慶永春嶽(旧福井藩主・新政府の民部卿・大蔵卿)
書丹 一等編脩官従五位 巌谷 修
刻字 吉川黄雲の薬研彫
碑石 125年の風雪経て彫刻が劣化しない立派な青石

 

拓本   日本拓本研究会会長 高橋昌博先生採拓

碑高約3.5m
碑幅約3.0m

 

 

 明治13年、国賓として来日した 清国の特命全権公使 何 如 璋 (かじょしょう)氏は『方谷山田先生墓碣銘』を撰した三島中洲を、「これほどの碑文は中国広しといえどもめったにおめにかかることはできない名文中の名文である」と称えた。

・時の経済人澁澤栄一氏(日本銀行を設立し日本の金融界を統合、また創立に関与した企業・学校は九百を数える)に何如璋(かじょしょう)氏が語ったエピソード
参考図書「ケインズに先駆けた日本人ー山田方谷外伝ー」矢吹邦彦氏著

千数百年の昔から数々の名文碑を残す中国の公使に激賞させ、もとより明治の錚々たる漢文作家もたたえる三島中洲撰述の『方谷山田先生墓碣銘』

 

以下筆者のつたない口語ダイジェスト版で山田方谷先生の功績を紹介する(参考図書「方谷の文」濱久雄氏著)

明治10年6月26日、岡山県小阪部町で山田方谷先生が永眠され、高梁市西方の先祖の墓地に葬られた。

東京に居られた旧松山藩主板倉松叟氏は訃報を聞き、痛く悲しまれ、『山田方谷先生墓』の七文字を揮毫し遺族に下賜された。(墓石柱となっている)

また藩主は「山田方谷先生は私を補佐し松山藩を改革してくれた。この功労を銘文に作れ」と私(三島中洲)に命じられた.。私は幼少のころから三十年間先生に学問を受け藩の役人になった。この学恩に感謝して銘文を作る。

先生の姓は源氏の山田氏で、実名は球、あざなは琳卿、安五郎、号を方谷という。

先祖は、源範頼家中の駿河守重英という尾張の人である。元暦年代平家討伐の功績により、備中二十八ヶ村の領地を受け西方に移住した。九世の祖先重記は天正・文禄年代に毛利氏に従い九州・朝鮮の役で功績を立てた。曽祖父は益昌、祖父は正芳、父は重美,、母は西谷氏で、この頃は農業に従事していた。

先生は生まれつき聡明で、三、四歳で大きな字が書け、文章読解力があった、八、九歳で丸川松陰塾に入り朱子学を学び神童と呼ばれた。老人でもその学力にかなわず、学問の目的を尋ねると「治国平天下です」と答えられ、将来を期待された。十四歳で母を失い、十六歳で父を亡くし、家務の傍ら学問を怠けることはなかった。

藩主がこれを知り二人扶持、ついで八人扶持を給し藩主のお供とし、さらに二十五歳で藩校有終館会頭とした。
その後京都に遊学し、寺島白鹿・鈴木遺音・春日潜庵ら儒学者と交際、江戸にて佐藤一斎に陽明学を学び佐久間象山・塩谷宕陰らと交友し学問を修めた。帰郷後有終館校長となり六〇石を賜った。おだやかに分かりやすく教授する先生の塾はいつもいっぱいであった。

弘化元年藩主は先生を側近として経学と史学を教授させ、西洋の火薬術を学ばせて藩内に砲術を伝授させた。さらに疲弊していた藩の財政改革を命じた。

改革は、

@借金の山である藩財政改革に、まず無駄な費用を省き、借入金返済期日を五十年先に延期した。「これでは二度と借り入れができなくなり、孤立した城で援軍を失ったようなものである」と心配する者があったが、「援軍を待っても城が陥落すれば援軍は来ない、孤立しても死守すれば援軍も期待できる」と方針を断行した。
A濫発し価値が下がった藩札の半分を焼却し貨幣価値を戻した
B藩内の物産を増産し、これを江戸の大消費地に直接販売した

この改革により松山藩の貯金は歳入の二倍になり、武器の調達は十分で軍備も備わり、減給した藩士の俸給は従前に戻った

藩主はさらに民政改革を命じた。改革は、

C賄賂の根絶・贅沢の禁止
D学校の設立・物資保存倉庫の設置
E道路の拡張・河川の修復
F郷兵の編成

また藩主は、藩士に恥を教え、倹約を教え、文武に専念させた

この改革実行十年で人民は裕福になった。かくして先生は禄高百石増加し参政職に任命された

さらに安政年間先生は郷里に赴き、役人生活の合間に藩士を率いて土地を開墾し、兵士を訓練した。太平の世に松山藩の改革の評判は列国に聞こえ、先生に教えを請うものがあとを絶たなかった

文久元年、藩主が幕府の寺社奉行に任命されたことに伴い、先生は江戸に出府された。途中先生は胃潰瘍になられ帰郷静養されたが、まもなく藩主は老中に任命され先生は病身のまま再出府された。

このとき諸外国はわが国に迫り、幕府の政治は乱れ崩れていた。先生は老中を補佐して大いに改革しようと、松平春岳・小笠原芽明山らと交わり、横井小南・桂小五郎らを引き入れ、将軍・朝廷の大義名分を論議したが成功しなかった。先生は病気を理由に松山藩に戻られた。

元治元年藩主は長州征伐に赴かれ、凱旋の後再び老中に就任し将軍と京都に赴かれたことから、先生も京都に赴き参謀となられた。

元治四年将軍は大政を奉還した。先生は藩主に前後策をたずねられ「恭しく従われ、大政奉還の本心にそむいてはなりませぬ」と数ヶ条の対策を示された。藩主は喜ばれたが、これが論議の末伏見の戦いへとつながった。さらに朝廷からは朝敵の汚名をうけたが、先生や三島中洲の尽力が認められ藩主板倉家は継承された

藩主は老中職の十年間ほとんど藩の政務に係わらなかったが、先生の力で天下の騒乱中も領内の人民の心は落ち着いていた。

晩年、先生は大佐町小阪部に住まいされるが、各地から教えを請い訪れる学者は数百人もいた
また備前市の閑谷学校を再興され、蕃山の麓に庵を持ち暮らしもされた

明治九年先生は病床で、藩主が朝廷から爵位を受けられるのを聞き「多くの薬で病気を治すより、この朗報の愉快さには及ばない」と喜ばれた。
翌夏、家人に命じて王陽明全集と藩主から拝領の短刀をならべさせ、香を焚き黙って感激され息をひきとられた

先生は文化二年二月二十一日に誕生寿命は七十三歳であった。最初の配偶者は若原氏で一女を生んだが若くして亡くなった。後の配偶者は吉井氏で子供はない。そこで弟の子で明遠氏を養子とした。
先生は額が広く体は大きかった。知恵と策略は秀でていた。
議論は人の考え及ばぬことが多かった。しかし謙虚で真心と誠意で貫かれ、人は皆信用し服従した。若いうちは酒豪で明け方まで飲み、酒で病気の後は二十年間杯は持たれなかった

先生の学問は深くきわめて独特の説が多かった。また禅宗の理論にも深く、好機をみて勇ましく進み、道理をみて決行し、物事にとらわれてとどまることがなかった。
詩文は意思を伝達することを主とし、筆をおろせば千言あっという間に出来上がった

先生は私に「わしが藩のことを論じたものは多く実行されたが、天下のことを論じたものは一つも実行されなかった」といわれた。先生の道は松山藩に実行されたことは前述のとおりだが、これを天下に実行したならば、その効果はいかなるものであったろうか

銘に言うには

蕃山は空高くそびえており、昔偉大な賢者が住んでいた。ならんだ谷は奥深く、いま哲人を葬った。世は今と昔で異なるが、人は類を同じくしている。学問は陸象山・王陽明をおおもととし、こころざしは経済にあった。三備の人はなんと幸福なことであろうか。共にその恩恵を受けている。惜しいことに蕃山は人生の末路でつまずいてしまった。これを方谷に比較して見ると、徳の点で欠けるところがあった。ああ、盛んなことだなあ、始めから終わりまで先生は完全であった。ここに残された業績を石にきざみこみ、後の子孫に対し慎んで手本とする。     授業弟子三島毅撰す

毅はもとから先生の為に伝を作り、遺稿に載せたいと思っていたが、公務が多忙のため執筆する余裕がなかったので、しばらく旧作の墓銘を収録することでこれに代えたい。