方谷山田先生遺蹟碑

 

 山田方谷は晩年(明治三年)母の里である大佐町に移住、絶えていた母方家系に養子・嫁を入れ西谷家を再興した。また同地において刑部塾を開学、数百人の門人を育てた

方谷は、ここ大佐町で王陽明全集を枕頭に七十三才の天寿をまっとうしたものであるが、大佐町を輿で葬送され、町外れから高梁川を筏でくだり生まれ故郷の高梁市中井町西方の方谷園墓地に葬られた

幕末・明治の英雄勝海舟や二松学舎大学の創始者三島中州など門人らが終えんの枕頭位置に高さ約十メートルの巨大な「方谷山田先生遺蹟碑」を建立している

大佐方谷会の調査によると碑石は近隣の山中から切り出した巨石をあてており、明治初期の偉業を彷彿させる

 

日本拓本家協会会長の高橋先生(80歳)は、方谷山田先生遺蹟碑のあまりの立派さに惚れ込み、採拓に動かれた

高橋先生は、先に採拓された、幕府筆頭老中・板倉松叟が方谷を称え建立した、「方谷山田先生墓碣銘」(高梁市)とあわせ、拓本家生活60年の歴史に残る二大傑作になったと感動されていた

15年4月12〜13日、日本拓本協会・大佐方谷会・関西方谷会会員らの協力により拓本採集作業は無事終了し、その模様は、NHKテレビニュース・産経新聞・山陽新聞・備北民報等で大きく報道された

石碑洗浄作業

100年の苔
を洗浄

所要時間
3時間

 

拓本採集作業

リフト車で作業

所要時間
12時間

 

採択作業
点検中の

高橋先生

 

方谷山田先生遺蹟碑

拓本 三面

 

 

 

 所在  岡山県阿哲郡大佐町小阪部上   方谷園  (JR姫新線 刑部駅 北方800m)

篆額揮毫 枢密顧問官 従二位勲一等伯爵
     勝  安 房 (海舟)

撰 文

東宮侍講 正五位
     三 島  毅 (中洲)

揮 毫

貴族院議員 錦ケイ間祇候 正四位勲三等
     金 井 之 恭

刻 字

 倉敷の名石工
     藤 田 市 太 郎

 

  漢文碑 訳文要旨 (文学博士 山田 琢 先生の訳文から) 

 我が方谷山田先生は、備中松山藩主板倉勝清の富国強兵政治をよく輔佐し、その成就後は引退し郷里の西方村で家塾を開校した
学徒は各地から集まり読書の声が山谷に鳴り響いていた

 暇には新田を開墾するなど家運を盛んにした上、山田家を嗣子の明遠に譲り、先生は母の出生地刑部に移住した

 先生は明治三年十月刑部において、母方の西谷家が絶えていたところを再興し、刑部塾舎も棟を並べ常時数百人が学ぶにぎやかな村とした。

 先生は外祖父母の忌日には、小南村の金剛寺に必ず墓参した。先生は供の童に、墓表の文を指さして『これは私の師匠丸川松隠先生の子息慎斎が八歳のとき書かれたものだ』と久しく物思いにふけっていた。また墓側に小庵を建てたが、ここに静坐し思いをこらして、祖先の霊が在すごとくに傷み悲しんでおり、供の童は思わず感興した

 やがて田地を購入、家屋を建築、新見村の林謙作の次男巻太郎を養子にして、先生の親戚の小野定一郎の娘と結婚させたうえ西谷家を継がせた

 明治十年六月二十六日先生はここに逝去し、嗣子の明遠が柩を奉じて西方村に葬った

 門人らが刑部の学塾の傍らに石遺蹟碑を建て、私(三島中州)に銘文撰述依頼があった

 思えば先生は藩主をよく輔佐し祖先によく奉仕して、忠と孝を兼ねてまっとうした。

 先生の名は「球」、字は「琳卿」、号は「方谷」山田氏である。その学問と事業は藩祖廟(高梁市・八重籬神社)の側の大碑に詳しく記しているので省略するが、銘文は左のとおりである

 忠孝を述べる学者は多いが、言葉だけで実行がともなわない。先生はこれを実践躬行した

 その人柄がそのまま手本であり、説く必要はない。後世の人々が感奮するのはもっともなことである

 先生は今は亡いが、永久にその典型は存する。銘は千古に伝わり、忠孝の碑は滅びない

 明治二十九年十二月東宮侍講正五位三島毅撰 貴族院議員錦ケイ間祇候正四位勲三等 金井之恭書 倉敷 藤田市太郎刻