zakuro

石榴の話 Folklore of Pomegranate, ZAKURO



 4月のサンチアゴは秋たけなわであった。プラザ・デ・アルマスではハカランダの蝶の形に似た翼果が風と遊んでいた。
 私が話しかけると、きまって頬を染める可愛らしいセニョリータが店番をする、サンタルチアの丘の麓の小さなフルーテリアに、ある日ふと立ち寄ると、オレンジやリンゴの山に並んで薄紅色をしたザクロが積まれていた。ここにも秋が訪れていた。
 「汝の唇は紅色の糸すじのごとく、その口はうるわし。汝の頬はベールの後ろにありて石榴の半片に似たり」という旧約聖書の雅歌の一節を、そのとき私は思い浮かべていた。


<ザクロの植物学>

 ザクロはザクロ科に分類されるが、この科は進化学的に見ると大変特殊化したもので、ザクロとプロトプニカザクロの2種のみで構成されている。
 プロトプニカザクロはアデン湾の入り口に位置する南イエメン領のソコトラ島の固有種で、ザクロの祖先だと考えられている。
 一方、ザクロは、いまでは世界各地で栽培されているが、その原産地はバルカン半島からヒマラヤ東部にかけての、いわゆる西域である。獲得形質が遺伝することを主張するルイセンコ学説にあくまで反対し、そのため投獄の憂き目にあったソビエトの硬骨の科学者で、『果樹類発祥に関する諸問題』という論文を残したヴァヴィロフ(1887〜1942)はトランスコーカサス東部のアルゼバイジャンの河谷に沿って茂る野生ザクロの大群落を観察している。

 また、カスピ海沿岸の砂丘地もザクロ林が多く、さまざまな変異個体が発見され、そうしたもののいくつかが選抜され栽培されている。

 ザクロは日本ではほとんど利用されていないが、原産地の西域の人々にとっては重要な果樹の一つである。
 果実の外皮(外果皮)は厚くて硬いが胎座(子房内で種子のもとになる胚珠が付着する場所)に並ぶ無数の赤い宝石のような種子の外側(外種皮)は甘い果汁に富み、旅人の渇いた喉には心地よい。一般にタネと呼んでいる硬い中心部はウメの核と同じで、種皮の内側(内種皮)が木化したものである。したがって、パキスタンなどにあるタネナシザクロは種子がないのではなく、内種皮が木化しない品種である。

 ザクロの用途は食用にとどまらない。外果皮には乾燥重量の30%近くものタンニンが含まれるので、獣皮をなめすのに使われる。また、花や未熟の果皮からは赤い染料がとれる。モロッコ皮のあの色は、この染料によるものである。
 薬用植物としての利用も古くからおかなわれている。トルコのキリキア地方出身のディオスコリデスが紀元1世紀に著した『薬物誌』にも、果実、花、樹皮に分けて、その薬効が詳しく記されている。



<西域の吉祥果>

 西域では古代から無数の種子を持つザクロは豊穣多産を象徴する”吉祥果”と考えられていた。
 今日でもトルコでは新婦がザクロの実を投げ、壊れて飛び散った種子の数で生まれる子供の数を占っている。
 このようにザクロは西域の人々に親しい存在であったため各地に伝わる神話や説話にしばしば登場し、美術工芸のモチーフともなっている。


 ギリシャ神話には、冥界の王ハデスに連れ去られたペルセフォネがザクロを食べさせられたため冬の間は冥界で暮らさざるをえなくなる話がある。これは、赤い果実は死者だけに供えるものとしたギリシャの禁忌(タブー)とザクロを豊穣多産の象徴とする西域の思想との複合の産物であろう。
 

 だからこそペルセフォネは春が来れば農耕の女神である母親のデメテールの住む地上に帰ることができるのであろう。


 ギリシャ南部のケラテアで発掘され、ベルリン国立博物館に所蔵されている紀元前575年頃の作という、あの右手にザクロを持つ等身大の大理石の「ザクロの女神」はペルセフォネなのだろうか。その冠には、これも多産のシンボルである睡蓮の花と蕾も刻まれている。
 ザクロはまたイチジクやブドウとともに旧約聖書にも頻繁に登場し、”エデンの園の生命の木”はザクロだったと主張する学者もいる。
 ウフィッツ美術館所蔵のボッテチェルリの『マニフィカトの聖母』やチェステルロ修道院聖堂の『聖告』などに見るように、ザクロを持つ幼いキリストがしばしば描かれたのも、こうした思想の反映であろう。
 
聖告 マニフィカトの聖母


<西へ東へ --- 各地への伝播>

● ヨーロッパから新大陸へ

 西域に生まれ育ち、ソロモン王の神殿の飾りにもなったザクロは、やがて地中海域から新世界へと伝播していった。
 ローマ時代にはすでに南ヨーロッパ全域とアフリカの北部にまで広まっていたらしい。ことにスペイン南部での栽培が盛んであったのだろう、アンダルシア地方にはザクロを意味するグラナダという名の町もある。このスペインのザクロはフェニキア人によってもたらされたと伝えられている。

 海峡を越えたイングランドには14世紀に渡ったと考えられていて、16世紀中葉には広く栽培されていた。
 サンチアゴの街角で私が出合ったあのザクロは、16世紀の後半に新天地を求める人々とともに、はるばると大西洋を渡ったグラナダのザクロの子孫だったのかもしれない。
 

● 中国へ

 東アジアへはシルクロードを通って伝播した。
 一般には、前漢の使節として18年を西域で過ごした張騫がその種子を中国へもたらした最初の人物とされているが、残念ながら確証はない。
 「安石榴」や「塗林」というザクロの中国名が文献に現れるのは3世紀に入ってからである。例えば、晋の武帝に仕えた陸機の残した『与弟雲書』や張華の『博物誌』に、”張騫が西域の塗林という国(現在のイランのタウリア地方)で安石榴を得た”と記されている。

 ザクロを塗林と呼んでいたのは陸機の故郷の江南地方であるが、一説にはこの呼称はザクロのサンスクリット語名のダリムの音に漢字を当てたものだという。これが事実なら城山桃夫のいうように、シルクロード経由のものとは別に、天竺からインドシナ半島を廻って海路で南中国に入ったザクロが在ったのかも知れない。
 一方、安石榴は安息国(現在のイランとアフガニスタン)から持ち帰った榴(幹に瘤が多い木)の意味だといわれる。
 6世紀の北魏の都であった洛陽の有様を記した『洛陽伽藍記』には、白馬寺には重さが1.5kgにもなる大きな実のなる石榴が植えられていたとあって、当時すでにいろいろな品種が西域から中国にもたらされていたらしい。同書には「白馬甜榴 一実直牛」、つまり白馬寺の甘い石榴の実一つが牛一頭に値する、という記述もある。
 

● 日本へ 

 では日本へ渡来したのはいつのことか。これも正確な記録はない。だが平安時代中期に深江輔仁が著した『本草和名』の「安石榴」の条に”和名左久呂”と記されているので10世紀までには渡来していたにちがいない。
 現在日本で栽培されているザクロは種子が小さく酸味も強く、おせじにも甜榴などとはいえないものだが、これは恐らく最初に移入したときの目的が食用ではなく、薬用かあるいは鬼子母神(訶梨帝母)信仰と結びついたものだったからではなかろうか。

 訶梨帝母はインドの鬼神パーチンカの妻で500人もの子を産みながらも、他人の子をとって食っていた夜叉であったが、後に仏門に帰依し、安産と幼児の守り神に変身したハリティーのことである。
 このハリティーも、京都三宝院にある鎌倉時代の作という唐代の女官の姿をした『訶梨帝母像』にみるように、その手にザクロを持っている。インドにおいても木の実を豊穣多産のシンボルとみなしていたからである。

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