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蒲公英の話 Natural History of Dandelion

朝が来れば昇る太陽と競うように黄金の花を開き、夕暮れが迫れば眠るように静かに花を閉じる。
 そして、花時が過ぎると、後から咲く花の邪魔になってはいけないとでもいうように、いったん花茎を地表へ横たえ、実が熟すと再び、以前にも増して背高く伸び上がって、吹き渡る春風の中へふうわりとした銀色のパラシュートを背負った、たくさんの子供たちを送り出す。
また、雨風に表土が洗われて、寸詰まりの色白の茎がむき出しになると、地中深くまで伸びている根が縮んで、まるで首をすくめるように土の中へと潜りこみなおす。
 庭先の蒲公英(タンポポ)はこんな生活をしている。

タンポポの分類や生態について詳しく知りたい方には”小川潔著『日本のタンポポとセイヨウタンポポ』、どうぶつ社、1600円”を推薦します。

<タンポポの仲間の分布と分類


 2万種以上も記載されているキク科植物のうちで、根・茎・葉の何れの部分を傷つけても白い草汁を分泌し、花茎の頂端に頭状花を一つだけ咲かせ、花の後にはあの特徴的なパラシュートをもった種子をつけるもの、それがタンポポの仲間である。
 タンポポの仲間は北半球に広く分布しているが、特にアラスカ南部、アイスランド、スカンジナビア、インド北部、そして島国日本との5つの地域に多くの種が集中的に分布している。
 ではタンポポの仲間は世界全体では何種類あるのか?ということになると、学者により意見がはなはだしく分かれてしまう。2000種以上に細分する人もいれば、60種ほどしか認めない人もいる。
 日本に分布するものについても事情は似たり寄ったりであるが、佐竹義輔他編『日本の野生植物』に見られるように、22種ほどを認めるのが一般的である。
 とはいえ、上記のような図鑑を手がかりに、野に咲くタンポポを本格的に分類し始めると、それはもう門外漢の手に負えるようなものではないことがすぐにわかる。そこで、はなはだ人為的な分類ではあるが、帰化植物の”西洋タンポポ”と日本に土着の”日本タンポポ”に分けて話を進めることにしたい。


<グローバルな放浪者、西洋タンポポのたどって来た道>



日本に分布しているタンポポのうちで、最もわかりやすいのが西洋タンポポである。日本タンポポと違って頭状花を包んでいる総苞片の外側のものがはっきりと下向きに反転しているからである。北海道の牧場や東北地方の果樹園の中に黄金の絨毯を敷きつめたように咲くタンポポも、都市の空き地や公園や道端に群生するタンポポも、ほとんど例外なく西洋タンポポである。

 今日では、これほどありふれた存在になっているものの、このヨーロッパ原産のタンポポが日本へ渡ってきたのはそれほど古いことではない。
 一説には、札幌農学校創立当時のお雇い教師だったブルックスが、食用にアメリカから持ち込んだものが野生化したものだという。したがって、最初はアメリカタンポポと呼ばれていたようだ。
 そうだとすれば、17世紀の初頭にヨーロッパから植民地時代のアメリカへ移住する人々とともに大西洋を渡ったタンポポの子孫が、今度は太平洋を渡って、極東の島国へとたどり着いたことになる。
 
   日本国内で採集された西洋タンポポで腊葉標本として保存されている最も古いといわれるものは明治27年のものであるが、これは北海道産ではなく、東京小石川植物園で薬草として栽培されていたものらしい。
 一方、牧野富太郎は明治37年の『植物学雑誌』に「札幌では西洋タンポポがはびこっているそうだが、種子が風に運ばれるから、きっと南進して日本全土に行きわたる日が来るだろう」という意味のことを書いているが、100年を待たずしてこの予言は的中したことになる。

鏑木清方 『讃春』 宮内庁蔵 部分 イメージ

 しかし、昭和の初めの東京には、まだ西洋タンポポははびこってはいなかった。このことは昭和8年に”御大礼記念に”と岩崎家が献上した5双の屏風の内の一つが物語っている。
 この屏風は鏑木清方の『讃春』で、その右隻に描かれた皇居前の芝生に語らう女学生のまわりに咲きこぼれるタンポポは、明らかに日本タンポポであった。だがそれから70余年、今日の皇居前広場のタンポポはすっかり西洋タンポポと入れ替わってしまっている。

 なぜ西洋タンポポはそんなに早く分布を広げることができたのか。さまざまな理由があるだろうが、まず第一は日本古来の環境が、耕作地や都市と、そしてそれらを結ぶ幹線道路に沿って撹乱され破壊されてきたからであり、そして第2は、受粉(受精)することなく多量の種子を生産できる能力があるからだといえる。
 大航海時代以降、ヨーロッパの人々とともに海を渡り、熱帯を除く世界の各地に住み着き帰化している西洋タンポポも、原産地では古代から身近な薬草として人々に利用され親しまれてきた。
 10世紀ごろの記録ではアラビアの医師たちがこの草を taraxacon と呼んでキクジシャと同様に薬用していたし、16世紀の末のイギリスでも Gerard, J. や Parkinson, J. などの本草家がその薬効を喧伝している。17世紀の占星術的本草学を代表する Curpeper, N. は肝臓病、黄疸、リューマチ、肺病などに効く薬草としてあつかっている。そして、現在も使われている Taraxacum という属名は18世紀末にWigger, F. H. がギリシャ語の taraxos(病気)と akos(治療)を組み合わせて創ったものである。また、Weber, G. H がつけた officinale という種小名は薬のことである。
ミレー 『タンポポ』 ボストン美術館蔵 部分 

 この流れの中で、民間では花を摘んでタンポポビールやタンポポワインを造り、強壮剤として愛飲したり、根を焼いて粉末にしたものをコーヒーの代用としている。
 野菜としての利用も古くから知られていて、柔らかな苦味の薄い若葉は春のサラダとして、特にフランスやオランダで好まれている。イギリスでもウェールズの人々は若い葉に2年目の根を炙って切り刻んだものと混ぜてサラダとして食べていた。最近ではどうなのか知らないが、昔は種苗店で特に幅広い大きな葉をつけるものの種を売っていたそうだ。

美しく可憐な花は、いつでもどこでも、幼児たちの遊び道具となる。それは洋の東西を問わない。

 どこの国の童話だったか、たぶんイギリスのそれだったような気がするが、こんな話がある。・・・・・昔、ある村に住む守銭奴から袋一杯の金貨を掠め取った盗賊が、金貨の詰まった袋にあいていた穴に気づかずに持ち逃げする途中で野の道にこぼしていった。その点々と散らばった金貨をみつけた妖精が、持ち主に返してもまた溜め込むだけだからと子供たちの喜ぶタンポポの花に変えてしまった・・・・・・・というものである。
 それ以来、タンポポは子供たちのために咲くのである。そして、咲いたあとにできる真っ白なパラシュートを背負った小さな種は、子供たちの夢や願いといっしょに、遠い見知らぬ国へと旅立っていくのであった。

 ミレーが1867年に描いた、アカツメクサの茂る道の辺に咲いたタンポポにも、ダリが1948年に発表したあの幻想的な踊るタンポポにも、表現こそ違え、二人の楽しかった幼少期に育まれたタンポポへの親しみが込められているように思える。

ダリ 『踊るタンポポ』 部分
Collection of Carlos B.

<愛され親しまれた日本タンポポ>

 前にも触れたが、今日のように町や村が西洋タンポポに席巻されてしまうほんの半世紀ほど前までは、私たちの身近に咲き、人々に可愛がられたタンポポは、そのほとんどが古来から日本にあった日本タンポポであった。
 この総苞片が大きく反転することない在来のタンポポの仲間は、新参の放浪者である西洋タンポポと違って、それぞれが固有の領土、つまり”分布域”をもった18種ほどから構成されている。



カントウタンポポ トウカイタンポポ シロバナタンポポ

 例えば、北原白秋が郷里の福岡県柳川で、「廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける」と詠んだタンポポは四国や九州に多いシロバナタンポポであり、神奈川県の三浦三崎で詠んだという、「いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花」のタンポポはヒロハタンポポであろう。また、若山牧水が、「多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし」と詠んだ川辺のタンポポはカントウタンポポだったのではないだろうか。
 この他では近畿地方以西に多いカンサイタンポポと関東地方以北に分布するエゾタンポポが比較的目にする機会の多いタンポポである。


 日本タンポポについての最初の記載は平安時代の918年ごろに深江輔仁が著した『本草和名』に見ることができる。この書物は唐の蘇敬たちが編んだ『新修本草』の各項目に和名をあてたものであるが、タンポポの漢名である”蒲公草”にたいして「この草の和名は”布知奈(フチナ)”あるいは”多奈(タナ)”である」と記してある。
 では、今日広く使われているタンポポという呼び名はいつ頃からのものであろう。私の知るかぎりでは、安土桃山時代のものという『文明本・節用集』に「蒲公草・タンホホ」とあるのが最初であり、これ以前には見当たらない。江戸時代に入れば貝原好古が元禄7年に刊行した『和爾雅』を初めとし多くの著作にタンポポが登場するようになる。
酒井抱一 『四季花鳥図巻』 東京国立博物館蔵 部分

 したがって、タンポポは比較的新しい呼称ということになるが、これが柳田國男が『野草雑記』で主張したように「鼓を打つ音を擬したものだとすると納得がゆく。
 つまり中世以降に用いられるようになった、胴の中央がくびれた打楽器の鼓を見知った子供たちがさっそく野に出て、花茎を短く切り取った二つのタンポポの頭状花を相対に並べて、重なった花茎を糸で縛って小さな鼓を作って遊んだのがこの名の始まりであったというのである。
 先ずはツヅミクサという、今も新潟と福井県の一部に伝わる名が生まれ、次いでタンタン・ポンポンと楽しそうに響く鼓の音色をまねたタンポポという幼児語が成立したのであろう。タンポポという名の響きは、いかにも明るい春の野にふさわしい。やがていつの間にか大人たちにもこの楽しげな名を使うようになった。
 これが江戸時代に入って急速にタンポポの名が広まった理由なのだと思う。

 いま全国では130余のタンポポの里呼び名が収録されているが、その多くはタンポポと同根である。しかしその一方では、奈良平安の時代から使われていたフチナという古い呼び名から転訛したと考えられるクジナという名も、青森から九州に亘る各地に残存しているのも興味深い。
 江戸時代になりタンポポという楽しい名が広まるにつれ、それまで絵画の対象とされることのなかったこの花が頻繁に描かれるようになる。
 例えば、狩野雅楽助の作ではないかといわれる、ボストン美術館所蔵の『松に鴛鴦図屏風』や近衛予楽院の『花木真写』にはシロバナタンポポが登場し、尾形光琳とその一派も、春草の一つとして盛んにカントウタンポポやエゾタンポポと思われるものを描いていた。

『四季草花図』 伊年 印 個人所蔵 部分

 また当然のことではあるが、本草学者や園芸家にも注目され、岩崎灌園は『本草図譜』に斑入りの品種などを図示している。変異個体だけでなくごくありふれたタンポポも園芸植物とみなされ花壇に植えられていたようだ。これは元禄8年(1695)に江戸は染井の花戸伊藤伊兵衛三之丞によって刊行された『花壇地錦抄』の草花春之部に”つづみ花”の名でとりあげていることからもわかる。

 かくて日本タンポポは大人にも子供にも愛される”春告花”となったのであった。

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