情の自然と理の自然

Subjective Universe versus Objective Nature

    

私には二つの自然観がある。「理の自然」と「情の自然」である。
前者は客観であり、後者は主観である。
「理の自然」は私が仕事としてかかわってきた自然である。それは統合的認識の対象である「情の自然」と異なり、構成成分に分解し、観察し、測定し、記述し、考察しなければならない存在である。
「情の自然」は「お気に入りの自然」と言い換えてもよい。それは、かの万葉人が

真葛原なびく秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る

と詠った阿太の原野であり、

ひさかたの天の香具山このゆふべ霞みたなびく春立つらしも

と記した大和の山々であり、平安の歌びと凡河内躬恒をして

やみがくれ岩間を分けて行く水の声さへ花の香にぞしみける

と言わせたような抑揚の効いた世界であり、松尾芭蕉が奥の細道の旅の終りに色浜でみた、桜色の“ますほの小貝”に混じって赤紫の“萩の塵”が打ち寄せられている砂だまりである。
そしてまた、太平洋戦争の嵐の過ぎ去った後の静かな山里で、ひとりの少年がひながいちにち魚影を追った小川の流れも、ひとしれず初恋の少女の名を刻んだあのヤマモモの古木が茂っていた森も、やはり「情の自然」である。
「情の自然」はさまざまな色彩と形と音色と香気とで満ちていることもあれば、限りなく無に近いこともある。時を越え空間を越えた存在であり、部分でもあり全体でもある。それは私の宇宙に構築された私のための遊びの場であり、くつろぎの場でもある。
この『植物の文化誌』は、そんな「情の自然」に遊んだ日々の覚え書である。


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