HARU

光の春に花ひらく

~ 立春 ~ 雨水 ~ 啓蟄 ~ 

  寝ごころやいづちともなく春は来ぬ    蕪村  

索 引  ウメ オウレン オオイヌノフグリ コブシ スハマソウ セツブンソウ ダイコン ナズナ
 ネコヤナギ ハコベ ヒオウギ フクジュソウ フサザクラ ボケ ホトケノザ マンサク ミツマタ
 モモ ユキノハナ ロウバイ 


  <ハコベ>  繁縷

 霜が降り、厚く氷が張る頃になっても、寒さなどまるで気にしないかのように、ハコベの小さな淡緑色の葉は生き生きとしている。そして、朝日が射し少しでも気温があがれば、たちまち白く輝く星のような小さな花が開きはじめる。 だから、イングラムは『フロラ・シンボリカ』の中に午前9時15分の花としてハコベをあげている。

    石垣に春日あかるくはこべらの
            微けき花は数限りなし  土田 耕平


 ハコベの名を知らぬ人は少ない。それはまずなによりも、春の七草の一つとして昔から親しまれていたからである。七草の行事は、晋の宗懍による『荊楚歳時記』に、正月七日に七種菜を材料にして羹(あつもの)を作って食べると万病を避ける、とあるのをならったものだ。我国では平安時代からおこなわれており、当初の七種にはなにを使ったか不明だが、南北朝時代の『河海抄』には、春の七草として、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ホトケノサ、スズナ、スズシロとともにハコベラがあげられている。また、平安時代の『和名抄』では、“八久倍良”を野菜の一つとしているので、古くから食用とされていたことがわかる。たしかにあくがなく、滑らかな舌ざわりで、良質の食草である。

 これほど昔から私たちの生活に密着した野草で、いたるところの畑地や路傍にはびこるハコベも、その原生地はヨーロッパだと考えられている。肥沃な土地を好み、花が咲けば十日たらずで熟す無数の微細な、それでいて生命力の強い種子が、農耕文明の広がりとともに全世界へ散っていったのだろう。いまでは、アイスランドやアラスカのような極寒の地にも、そして、赤道をはるかに越えたオーストラリアのタスマニアや南アフリカのケープ半島などにも分布している。

 ところで、ハコベの里呼び名の一つにトリグサというのがあるが、面白いことにこの名は世界に共通するものである。アルゼンチンのイエルパ・デ・ロス・カナリオス、チリのボカド・デ・ガジナ、ドイツのフオーゲルミエレ、英語圏のチックウィードなど、いずれもトリグサと同意である。

    ひな鳥の引張り合へるはこべかな        かつ女


   <ロウバイ>  蝋梅

 臘梅や雪うち透かす枝の丈    龍之介

 寒風の吹きすさぶ冬のさなかに咲く花は数少ないが、ロウバイはその一つである。潅木ではあるが、古木の枝は頭上に広がり、睦月の白青の空を背景に、蝋細工を思わせる淡黄色の多弁花が群れ咲く。花はすがすがしい香気を放つ。晴れた日にはことのほかよく薫る。
 蝋梅のほか、南京梅、仇英梅、唐梅などの名があるが、植物学的にはクスノキ科にに近縁で、ウメの仲間ではない。中国原産で、長江流域に分布する。ロウバイという名の由来については諸説があり、『本草綱目』の「梅と同じ時に咲き、香りが似ており、花色が蜜蝋のよう」であるからとする李時珍の説が有力である。しかし、芥川龍之介のように臘月(旧暦12月)に咲くからだとの説をとる人もある。
 
 日本にこの花木が渡来したのはいつか。一七〇八年に成った『大和本草』には「近年中夏ヨリワタル」とあるが、この約百年後に上梓された『本草網目啓蒙』には、江戸時代初頭の後水尾天皇の御世に、朝鮮を経て移入されたのだとある。そうだとすれば、十四歳の若さで後水尾帝に嫁ぎ、その数年後には中宮となった家康の孫の東福門院和子も、厳冬の京の庭園に咲いたロウバイの花や香を楽しんだのではなかろうか。
 幕末になっても、ロウバイは珍木として大切にされていたようだ。芥川龍之介は「わが裏庭のほとりに一株の臘梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる数朶の花をつづりぬ。こは本所なるわが家にありしを田端に移し植ゑつるなり」と記している。嘉永のころ、土屋佐渡守屋敷の向かいにあった芥川家の庭を飾っていたロウバイである。
 
    臘梅のすぎゆく花に立ち添ひて
          ここだく芽ぐむみどりをさなき    鹿児島寿蔵

 花が終わると、薄緑の葉がひろがり、虫こぶのような奇妙な形の実を結ぶ。「花後稀に莢を結び中に黒子あり、此子毒探し誤てこれを食すれば卒嘔暴潟す」と文政十年に清原重巨が著した『有毒草木図説』にある。毒はアルカロイドのカリカシンである。


  <ヒオウギ>   桧扇

 春のおとずれが待ちきれなくなって、黒潮に洗われる安房の花里を訪ねた。冬知らずの地を標榜するだけあり、畑地にはすでにナノハナやスイセンが咲き始めていた。
 眺望をもとめて登った太平洋に向かう丘の、さすがにまだ冬枯れの目立つ草原に、指ほどの太さの花茎の先の実が裂開し、真っ黒な種子をのぞかせているヒオウギの一群れがあった。

ヒオウギはアヤメ科の多年草で、今日ではヨーロッパはむろんのこと、南半球でも栽培されているが、原産地は東アジアである。わが国では、北海道をのぞく各地の山地草原に自生している。
 ヒオウギという名は、少しずつ重なりあいながら互生する葉の様子が、殿上人たちが笏(しゃく)の代わりに持った、ヒノキの薄板をとり連ねた桧扇に似ているところからつけられた。
 晩夏に咲く花は、元禄八年刊の『花壇地錦抄』が「花黄色に赤き星あり。花形は童幼のもてあそぶ風車のごとく---」と記すとおりである。

 生け花にもよく用いられたらしく、文化年間の著作といわれる『生花独稽古松月堂古流』の挿図には、秋草の心として馬盥(ばだらい)へ轡留(くつわどめ)に生けたヒオウギがみられる。また、昔は修験者が呪詛調伏を行うとき仏前にこの花を供えたという。寺島良安の説である。鬼扇の名はこれにちなんだものか。

暖地の海辺の明るさには不似合いな、冷たい闇のような種子の黒さにひかれ、つと伸ばした指が触れると、数粒の奴婆玉(ぬばたま)が掌にこぼれた。

ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ
                      二上山に月かたぶきぬ     土師道良

ぬばたまの月に向ひてほととぎす
                      鳴く音はるけし里遠みかも   大伴家持

 ヒオウギの漆黒の種子は、記紀万葉の時代からヌバタマとよばれ、黒いもの、夜とそれにかかわるものの枕詞として頻繁につかわれてきた。
 中国ではこの草を射干と呼び、『神農本草経』にみるように漢代から薬種として利用されていた。烏扇、烏蒲、烏吹などの名もある。


  オオイヌノフグリ>  大犬陰嚢

かつての日の下総台地には二次林を切り開いて作られた無数の耕作地があつた。そして、一月下旬の風のやんだ晴れた日、こうした畑地が林と接する所の南向きのゆるかな斜面では、きまって空色の小花が咲き乱れていた。

   根ざす地の温みを感じいちはやく
          空色花咲けりみちばたひなたに

 木下利玄が、彼の歌集『紅玉』の巻頭にあげた、この早春から咲きはじめる空色花は、ゴマノハグサ科のオオイヌノフグリである。

 全国いたるところで、ごく普通にみられる二年草であるが、よく知られるように帰化植物の一つである。帰化したのは比較的最近で、牧野富太郎がはじめてこの花を見たのが明治二〇年頃だそうだ。所は武蔵野の面影が色濃く残る東京はお茶の水であったという。
 オオイヌノフグリという名は、近縁の在来種であるイヌノフグリより大型だというので付けられたものである。しかし、花後に生じる実の形状が似ているからとはいえ、“大きな犬の陰嚢”という意味だと知った後では、大声でその名を口にするのはいささか気恥ずかしい。そう思った人が少なくなかったらしく、オオハタケクワガタ、ルリカラクサ、ルリクワガタなどの名も付けられた。だが、ぶしっけではあるがどことなく滑稽なこの名の方が通りがよい。近頃はホシノヒトミ(星の瞳)などと呼ぶ人たちもいるが、これもまた別の意味で気恥ずかしい。

原産地は南ヨーロッパから南アジアにかけての地域と考えられているが、今日では北半球全域に広く分布している。学名ではこの類をベロニカというが、これはゴルゴタの丘に引き立てられていくイエスの顔に流れる汗を手にした布でぬぐったという聖ベロニカちなんだものである。この花の英名はスピードウエルだが、薬草としで早く効くという意味だとも、ほろりと散り易い花の意味だともいう。
 日がかげり、冷気が流れると、花はたちまち閉じはじめる。

夕づける風冷えそめぬみちばたの
                      空色小花みなみなつぼむ      木下利玄


  <ウメ>  梅

   春さればまづ咲く宿の梅の花
              ひとりみつつや春日暮さむ

天平二年(七三〇年)正月十三日は越冬した蝶が舞うほどのよく晴れたおだやかな日であつた。この日、大宰府の帥(そち)大伴旅人の官邸では梅見の宴が催されていた。『万葉集』巻五にはこのうたげに参集した貴族たちの歌三十二首がある。これはそのうちの一つで、旅人の詩友、山上憶良の歌である。 ウメは当時の選良たちにたいへん愛好されたらしく、万葉集には、ハギの百四十一首にはおよばないものの、それでも百十八首ものウメを詠んだ歌がある。しかし「人ごとに折りかざしつつ遊ベどもいや珍らしき梅の花かも」などとあるように、この時代では珍花の一つであった。つまり、この花木は日本に土着の種ではなく、中国から移入されたものである。
 中国では、前漢の馬王堆古墳からその種子が出土するので、すでにそれ以前から食用あるいは薬用にされていたのだろう。日本への渡来の時期は、記紀や出雲風土記にその名がみえず、天平勝宝三年(七五一)に成ったとされる漢詩集『懐風藻』に初出するところから、奈良時代の初頭ではないかといわれている。
 また、旅人邸での歌の中には「春柳かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒盃の上に」のように、柳つまりシダレヤナギとウメとをとり合わせたものが五首もある。面白いことに、この柳も同じころ中国から渡来した植物である。さらに、三十二首中七首はウメとウグイスのとり合わせを歌っているが、こういった形式は当時の文人貴族が座右の書としていた唐の『芸文類聚』の引き写しであった。
 だが時の流れとともに異国の植物だという意識は希薄となり、鎌倉時代も末になると「この外の世にまれなる物、からめきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず」といい「唐のものは、薬の外は、なくとも事かくまじ」とまでいった、かの兼好法師すらウメ、柳を「をかし」とみている。そして「むめがかにのつと日の出る山路かな」と蕉翁によまれる頃には、ウメはもう完全に日本の風土にとけ込んでいた。


  <マンサク>   満作

早春の沼の辺に黄昏がせまる。

銀色のにこげを被ったネコヤナギの花穂がみえかくれする薮を背に、枯れ草を折り敷いた、桃割れの少女が、かじかんだ右足の草履をぬいで、無意識に左足とすり合わせながら、横笛を吹いている。矢絣(やがすり)の袖からすらりと伸びた腕と、管の上を舞う白い指が美しい。その少女の眼前にあるマンサクの小枝では、黄金色の細く縮れた花びらが、風もないのに震えている。
 若き日の鏑木清方が、従妹のきく女をモデルに画いてみせた『暮れゆく沼』である。
 わが国の原野、山地に自生するマンサクはマンサク科の落葉性小高木である。ほとんどの樹では花芽が硬くつぼんで、厳しい寒気に耐えているのに、この花だけは二月になるともう開きはじめる。
 奥多摩の尾根道で、氷雪に凍てついたマンサクの小花に出逢うのも、この頃のことである。

まんさくやまた雪となる吉野越     笹井武志

なにやら人の名のようにも聞こえるこのマンサクという呼称は、何に由来するのか。『牧野新日本植物図鑑』には、マンサクは満作、つまり豊作の意味で、枝いっぱいに花をつけるからだという説と、早春に真っ先に咲く、すなわちマッサクなのだとの説があげられている。一般に流布しているのはこの二説であるが、後説を支持する人が多いようだ。
 しかし私には、中村浩が『植物名の由来』に書いたマンサク語源考のほうが信憑性が高いように思われる。中村説は「手にとってしげしげと眺めているうちに、直感的に“この花はシイナ(粃・秕)に似ているな”と思った」ことから生まれた。つまり、この花はまずシイナバナと呼ばれたのではなかろうか、だがシイナは凶作を意味する、そこでこの古称は、忌詞を祝詞にいいかえる、民俗学でいう“実名敬避”によってマンサクとなったにちがいないというのである。魚のシイラをマンサクと呼びかえている地方があるという事実も中村説の正しさ裏づけるように思えるのである。


  フクジュソウ>  福寿草

「花金色、葩(はなびら)多く菊のごとし.葉こまかなる小草なり。花朝に開き、夕にねむり、その花又朝にひらきて盛り久しき物なり。元日草ともふくづく草ともいふ。祝儀の花なり」
 元禄八年(一六九五)に江戸染井の三之丞伊藤伊兵衛によって著された園芸書『花壇地錦抄』にある福寿草の解説文である。

 福寿草黄金花ぐきほのぼのと
    ふゝごもる春にあひにけらしも  尾山篤二郎

 フクジユソウは東シベリアから中国と韓国と日本にかけて分布するキンポウゲ科の多年草である。北海道と東北地方に多いが、四国や九州にもある。温帯性の落葉広葉樹林の林床や林縁を主な生活の場としてきたこの植物が、いつの頃から栽培されるようになったのか定かでないが、江戸時代前期に書かれたという『花壇綱目』にはすでにその名がみえる。江戸も末期になるとさまざまな品種が選別作出されており、文久二年(一八六二)の『本草要正』には一二六もの品種名があげられているという。しかし、その大部分が、日本のあの暗い時代に、軍靴に踏みにじられたかのように失われてしまったことは真に残念である。ずいぶんと以前のことだが、埼玉県岡部町本郷の中村文治郎さんのもとで四三品種が大切に保存されていると聞いたことがある。今も残っているのだろうか。
 栽培されたフクジユソウは元日の床の間を美しく飾ってくれるが、野性のものが花開くのは山合の雪が消えかかる早春であり、いわゆる雪割草の一つである。秋田や岩手にはチヂマンチャクとかツチマンサグというこの花の里呼び名があるが、これは春が来ると“大地にまっ先に咲く”花だという意味であろう。
 なにもかも凍てついた白い世界の中で、黒い土と緑の芽と流れる水音を待ち望むコタンの人々にとっても、フクジユソウは親しい植物であった。更科源蔵・光の『コタン生物記』によると、オホーツク沿岸や釧路地方のアイヌの人たちはこの花をチライ・アパポと呼ぶという。チライつまりサケ科のイトウが川に登ってくる早春に咲くアパポ(花)というわけである。
 正月も近くなると、フラワーショップにはこの花の鉢植えが並ぶが、毒草だということは意外に知られていない。アセボトキシンなどの強心配糖体が全草に含まれ、誤って口にすると激しい嘔吐や心臓発作を引き起こし、死に至ることもある危険な草でもある。

 なお、近年の研究によれば、従来日本でフクジュソウの名で呼んでいた植物は三種の総称で、典型的なフクジュソウは四倍体、北海道に分布する二倍体をキタミフクジュソウ、本州・九州でみつかる二倍体をミチノクフクジュソウと呼ぶのが正しいようだ。さらに、第四の新種が発見される可能性もある。


  <オウレン>  黄連 

 黒潮の香をかすかに運ぶ春の風のなかを、安房の山の辺の小道に花々を求めての散策は楽しい。田畑のきわには桃色のホトケノザや空色のオオイヌノフグリの小さな花が咲き乱れ、ツクシが灰緑色の胞子をおしげもなくこぼしている。
 雑木林のなかでは、運がよければ、スハマソウやヤマルリソウの花群に出合うこともできる。そんなとき、さらに目をこらして周囲をさがすと、ふわりと積もった枯れ葉の下から赤褐色で光沢のある細い茎を伸ばし、その先に数個の白い星形の小花をさかせているオウレンが見つかることがある。

 オウレンはキンポウゲ科の多年草で北海道と本州と四国に見られる温帯性の林床植物の一種であるが、いくつかの近縁種がヒマラヤから北アメリカにかけて分布している。心皮の合着が不完全で、進化学的にみると、被子植物としては未完成な段階にとどまった原始的な植物だといわれる。
 オウレンは黄連と書くが、これはその根が珠を連ねたようでしかも黄色だからだと『本草網目』のなかで李時珍がその由来を記している。中国ではこの植物の薬効を古代から認識していたようで、最古の本草書といわれる『神農本草経』に消炎、止血の要薬としてとりあげている。
 有史以前の日本人にどれ程の薬草の知識があったのかよくわからないが、奈良時代に唐の本草学が伝来すると、『本草和名』の黄連の項に和名「加久末久佐」とあるように、黄連-シナオウレン-は日本の山地に自生する「カクマグサ」と同じものとみなした。たしかにその薬効はシナオウレンのそれに優るとも劣らぬもので、江戸時代の『大和本草』には「日本ノ黄連性ヨシ、故二中夏朝鮮ニモ日本ヨリ多クワタル、中夏ノ書ニモ倭黄連ヲ良トス」と書かれている。
 かくて『本草和名』や『風土記』にみられるカクマグサや、「うもれける水際隠れのかくも草葉末もみえず行きかくれなむ」と『古今和歌六帖』にうたわれたカクモクサなどの美しい古い名は忘れ去られ、漢名がいつのまにか標準和名となってしまったのであった。


  <セツブンソウ>  節分草

 睦月の声とともに、日ごとに明るくなる春光に誘われて、久しぶりに武甲山の麓に咲く節分草に会いにでかけた。かつての日には山頂まで美しい緑の衣で覆われていたこの関東の秀峰は、その衣を剥がれ白い裸身の石灰岩を削りに削られ、無残な姿に変り果てていた。だが、浦山川に沿った雪の消え残る杣道をたどると、見覚えのある崖下の、そのわずかな日溜まりの枯れ葉の褥のなかで、日覚めたばかりの節分草が、昔に出遭ったときとすこしも変わらぬ姿で、うつむきかげんに花ひらき始めていた。
 セツブンソウは名のとおり冬が去って春がはじまる節分の頃から咲きだす。キンポウゲ科の多年草で関東地方以西に分布している。ふつう落葉広葉樹の林床に生えるが、なぜか石灰岩地帯を好む。日本固有の種である。学名のエランチス・ピンナティフィダは「羽状に裂けた葉をもつ早春の花」の意味で、一八六〇年から六四年にかけて来日して各地の植物を調査したロシアの学者マクシモヴィッチが命名したものである。
 いまでこそ、山草愛好家でこの可憐な花の名を知らぬ人はいないものの、その花どきがまだ寒風の止まぬ日の多い早春のひとときであり、またその産地も限られていたせいであろうが、花の美しいわりには人々に知られず、室町時代以前の典籍にはこの名はみられない。
 江戸時代にはいって最初にこの草らしきものに言及したのは貝原益軒で、その著作『大和本草』の巻七に「一花草 葉ハツタニ似テ基ノ長二寸ハカリ冬小寒二始テ葉ヲ生シ立春ノ朝花忽ヒラク一茎ニ一花ヒラク花形白梅二似タリ」とあり、葉がツタに似ているというのは正しくないが、この一花草(いちげそう)こそセツブンソウであると『本草網目啓蒙』の著者小野蘭山は説く。だがこれはイチリンソウのことだと主張する人もいる。しかし、岩崎灌園の『本草図譜』や飯沼慾斉の『草木図説』には記載文とともに美しいセツブンソウの図が描かれており、一八〇〇年代の初頭までには、はっきりとこの植物が認識きれていたことがわかる。

    訪ねくる小蜂とてなき寒き日も
                     笑みて咲きおり節分草は      菊川静


  スハマソウ>  洲浜草

 房総半島の常緑性シダ類をみたいというパンジャブ大学のヴァルマ教授と清澄山系を歩いた。ホソバカナワラビの群生する照葉樹の林床をぬけ、立春の夜に降った淡雪がまだ消え残っている山道にかかると、純白の花被片の中央に無数の細かな緑の心皮が集った、スハマソウの小花が咲きはじめていた。

   禅僧が雪割草を摘みてゆく  成子恵以

 雪割草の名でよばれる早春に開花する草には、セツブンソウをはじめとし、フクジュソウ、ショウジョウバカマなどいろいろな種があるが、スハマソウ類もその一つである。
 北半球の温帯に広く分帯するキンボウゲ科のヘパティカ・ノビリスの変種である。日本にはスハマソウのほか、ミスミソウ、オオミスミソウ、ケスハマソウがある。スハマソウは洲浜草と書く。正月の蓬莱飾りや婚姻儀式の肴を盛る洲浜台や洲浜紋にその葉形が似ているからである。中国名は獐耳細辛だが、これも葉形にちなんだものである。獐とは鹿に似たノロのことである。
 スハマソウ類の花形、花色はきわめて変化に富み、山草愛好家の間では人気が高い。いつ頃から栽培されはじめたのか定かではないが、江戸中期にはすでに観賞されていた。
 享保十八年(一七三三)に伊兵衛政武の著した『地錦抄付録』では、白い小花は見るに足らずとしながらも「葉の形紋のす浜のごとく青く黒みありて葉数多くしげり、四季共にありて、ながめ花にかえたり」と記す。つまり観葉植物とみなしていたのである。ところが、この約百年後の天保十二年(一八四一)に桜渓主人なる人物が書いたという『長楽花譜』には、六十八品種ものスハマソウ類が、美しい彩色図とともに収録されている。いずれも山野において発見されたもので、人為的に作出された品種ではなかった。この『長楽花譜』の写本は国立国会図書館の白井文庫に収められている。
 江戸時代に集められた数々の品種はすでに失われてしまったものの、近年になって多くの雪割草愛好家たちの努力が実り、千重咲きの紫雲や桃苑などのように、昔日をしのぐほどの美しい品種が再び発見されている。


  ダイコン>  大根

    大原や日和定まる花大根      飯田蛇笏

 霜の降りる朝がいつしか間遠になり、高野川の岸辺にヤブカゾウの淡緑の萌芽を見る頃になると、おちこちの畑で、抜き残されていたダイコンが抽薹し、清やかな白い花を咲かせはじめる。
 ダイコンは日本の代表的な野菜である。アミラーゼという澱粉を分解する酵素を多量に含有するため、芋や穀類を主食としていた日本人には欠かせない副食であった。だがわが国に生まれた植物ではなく、地中海沿岸からコーカサス南部にかけての地域が原産地らしい。
 二千年ほど前のローマ時代、キリキア地方アナザバルに生まれた医師ディオスコリデスが著した『薬物誌』には、ダイコンと同定できる図がある。同じ頃、コルメラが『田園について』という十三巻本を書いたが、その中で二月に播種する香辛料の一つとしてダイコンをあげている。
 このダイコンは、まず西アジアに広がり、やがて中国へと伝播した。『爾雅』にある葖(とつ)や蘆葩(ろは)がダイコンだとされるので、漢代にはすでに栽培されていたのであろう。その後の中国では萊菔(らいふく)とか蘿蔔(らふく)の名がよく使われている。
 日本に渡来したのも古く、『古事記』の歌謡ある「つぎねふ山城女の木鍬持ち打ちし淤富泥-----」の淤富泥(オホネ)がダイコンのことだと考えられている。平安時代前期の『本草和名』には萊菔の和名は於保禰とある。さらに平安中期の『康頼本草』では、萊菔は蘿蔔ともいい蘿菔大根のことだとし、同時代の『和名抄』も、俗に大根の二字をあてるとしている。つまりオホネを大根と書き、ダイコンと読むようになるのは、この時代以後のことである。
 優れた救荒作物でもあったので、江戸時代までにはわが国独自の品種が数多く作出され、庶民の日常に欠かせない野菜となった。ダイコンを食べるとせつかく飲んだ強精薬地黄丸が効かなくなるといわれたのは元禄時代だが、これを「薬を頼りとして日夜交戦陰血漏下したのでは髪が白くなるばかりか命も失いかねない、ダイコンのせいではないのだよ」と茶化したのが元禄十年に『本朝食鑑』を著した人見必大であった。


  <モモ>  桃

    春の苑くれなゐにほふ桃の花
                した照る道に出で立つをとめ

 『万葉集』の巻十九に載録されているこの美しい歌は、当時越中守であった大伴家持が、天平勝宝二年(七五〇)三月一日の暮れに詠んだものである。
 モモの原産地は黄河上流域であるが、すでに弥生時代にはこの列島に渡来していたらしく、静岡の登呂遺跡や鳥取県の青谷上寺地遺跡などからはかなりの量の核(種子)が出土している。
 しかし、イザナギにモモを投げつけられた黄泉の国の悪鬼たちが恐れて逃げ散った(つまり美味な果実だという認識がなかった)という『古事記』の記述などからみて、この時代にはまだ実物がよく知られていなかったらしいともいう。したがって、家持の歌も実写ではなく、“樹下美人図”などを思い浮かべながらの、中国漢詩文の翻案とみたいという斎藤正二などの説も生まれるわけである。
 いうまでもなく、原産地の中国においては遥か上古から人々の生活と深くかかわっていた。食用されたのは無論のこと、霊木としても崇拝され、邪気を祓う呪具とされたほか、不老長寿をもたらす仙果だとも考えられていた。
 日本がやっと弥生式文化の時代に入り始めた頃の中国各地で歌われた詩を編んだ『詩経』にも、モモは登場している。その一つで、桃夭(とうよう)と題された詩は「桃は若やぎ/照りはえる花/この子嫁いで/良き妻たらん」とはじまる。加納喜光の訳文である。ここでは、柔らかな桃色の花を美しい娘にみたてつつ、豊饒多産の象徴としている。家持の歌には、この“桃夭”にみられる思想が色濃く反映しているように思われるのである。

    雛祭る都はづれや桃の月       蕪村

 雛祭りと聞くとモモの花を思い浮かべる人が少なくないようだが、この結びつきはさほど古いものではない。つまり、古代から撫物(なでもの)として川辺に捨てられ流されていた“ひとがた”が雛として愛玩され、三月上巳(じょうし)に祭られるようになるのは平安時代以降のことであり、“桃の節句”にいたっては江戸幕府が定めた式日の一つなのである。


  フサザクラ>  房桜

 上総の春の山路には陽光があふれていた。

 その日、私は亀山駅から長崎の集落を経て猪の川林道を南へと歩いた。尾根を越して谷道を吹き抜けてゆく風は、さすがにまだ冷たかったが、微かにクロモジの花のあの爽やかな香りがした。やがて、墨色の岩膚を白い水が流れ落ちる黒滝を右手に見た後のいくつ目かの隧道を出ると、無数の赤い小さな花房で飾られた低木が眼前にあった。フサザクラであった。

    山笑ふ水辺に赤く房桜      菊川静

 フサザクラは本州から九州にかけての低山帯の沢筋にごく普通にみられる雑木であるが、いわゆる桜の仲間ではない。カツラやヤマグルマ同様、数々の原始的な特徴を温存していて、生きている化石ともいうべき植物である。
 植物地理学でいうところの日華植物区に固有のものだが、アッサム地方から日本にかけてわずかに3種が知られるののみである。大陸のものはプレイオスペルマム・フサザクラであるが、その中国名は領春木、つまり“春を悟る木”である。
 ふつう花といえば、花粉の媒介をする虫や鳥を誘うために、さまざまな色や形の萼と花弁をそなえているが、フサザクラにはそれらがない。一つの花房は数個の花の集まりで、一つ一つの花は赤い花粉袋をつけた十数本の雄しべと、やはり十本ほどのクラブヘッドのような形の短かい雌しべだけできている。つまりフサザクラは、虫たちではなく春風が花粉を運んでくれるのを待っているのである。土屋文明が「折りて来て一夜おきたる房桜うづたかきまで花粉こぼしぬ」と詠んだほどに多量の花粉を放出するのもこのためである。
 また昔は樹皮から鳥黐を採ったり、材を建具や櫓櫂にしていたので、各地にいろいろな里呼び名が伝わっている。関東から東北にかけてはサワフタギと呼ぶところが多いが、これは沢の人口を塞ぐほど茂る木ということらしい。甲州ではメメズギ、伊豆の天城ではサワクワといい、先年訪れた宮崎の山里ではタニアサと呼んでいた。


  ホトケノザ>  仏座

   野寺あれて跡にやはゆる仏の座      松永貞徳

 ホトケノザとこの草が呼ばれるのは、四角形の細い茎の上部に、葉柄のない二枚の葉が対生し、それが蓮華台のような形にみえるからである。シソ科の越年草で、北半球の暖温帯に広く分布している。畠や道ばたを好んで生える、いわゆる人里植物の一つであり、有史以前に帰化したものらしい。
 三月に入る頃から、淡紅色の小さな唇形花を開くが、蕾の状態のままで自家受粉して結実する閉鎖花もある。

 野に遊ぶことの多かったかつての日の子供たちにとっては親しい早春の花であった。蓮華台形の葉を間に、その上下で茎を切り、それを両の手のひらで軽く支えながらふっと吹くと、くるくる回る緑の風車となった。子供たちはクルマグサと呼んでいた。
 ところで、南北朝時代の源氏物語の解説書『河海抄』は春の七種菜として薺(なずな)・蘩蔞(はこべら)・芹(せり)・菁(すずな)・酒々代(すずしろ)・御形(ごぎょう)・仏の座をあげたが、この“仏の座”の実体についてはその後諸説が入り乱れた。
 例えば貝原益軒は『大和本草』の中で、シソ科のホトケノザの説明に「賎民飯ニ加へ食フ是古ニ用ヒシ七種ノ菜ナルベシ」としたかと思うと、キク科のタビラコの項にも「本邦人日(じんじつ)七種ノ菜ノ内仏ノ座是ナリ」と書く。
 こうした混乱は寛政年間の薩摩曽榛堂の『春の七くさ・釈菜』にもみられ、『別本公家年事』ではオオバコを、『大宝馬療方』ではキランソウを“仏の座”にあてていると記している。
 さらに当時の人々は、チドメグサ、オニタビラコ、レンゲソウなどをも“仏の座”と呼んでいたようだ。薩摩曽榛堂自身は『師光年中行事』がいうところの「かわらけな」説を採り、「かわらけ」は田平子のことだとしている。だがこの書の“仏の座”の図はキク科のタビラコではなくムラサキ科のキュウリグサである。小野蘭山も『本草綱目啓蒙』の中で“仏の座”はムラサキ科のものとみなしている。

 近年まで続いたこの混乱に断を下した(?)のは牧野富太郎で、『植物学九十年』に“仏の座”はカワラケナ、つまりキク科のタビラコだと書いた。今日ではこれが通説である。


  <ボケ>  木瓜

  土近くまでひしひしと木瓜の花    高浜虚子

 啓蟄も過ぎ、ケヤキの古木の細やかな枝先がほのかに紅色をおびる候になると、庭の日だまりに茂る暗褐色のボケの枝茎にも、緋色の五弁花が開きはじめる。
 ボケにはふつう漢名の“木瓜”をあてているが、北村・村田の『原色日本植物図鑑』によると、植物学的には貼梗海棠(てんこうかいどう)が正しく、ほんとうの木瓜はマボケとよばれる、ボケよりやや大型になるものだという。どちらも中国に原産するバラ科の落葉低木である。しかし、一九七一年に初版が出版された『中国高等植物図鑑』ではカリンを木瓜とよび、ボケを貼梗木瓜とよんでいるし、李時珍の『本草綱目』にある木瓜の記述もカリンを思い起こさせる。ところが十三世紀中頃の『重修政和本草』にある蜀州木瓜の図にはカリン型ではなくボケ型の果実が描かれている。
 こうしてみると、『本草和名』や『和名抄』などの平安時代の書物に、「和名は“毛介(モケ)”である」と記された木瓜が実際にはなんであったのか、にわかには断じがたいものの、モケは明らかに木瓜(mu-kua)に由来する言葉である。
 中国において木瓜という言葉が最初に現れるのは『詩経』にある「衛風」の十番目の詩である。求愛のしるしとして、女性が男性へ木瓜の実を贈ったらしい。果実は古くから薬用され、六世紀初頭の『名医別録』をはじめとし、あまたの本草書に収載されている。

野に這ひて草木瓜の花あかく咲く
                  むかしのままのふるさとの道     峰村国一

 日本には中国原産のボケに近縁で、本州と九州の山野に自生する特産種がある。クサボケである。関東ではシドミともよぶ。この実を地梨といい食用する地方もある。また漱石の『草枕』の画工は「所々の草を一二尺抽いて、木瓜の小株が茂ってゐる」草原に寝ころびながら、「只真直な短い枝に真直な短い枝が、ある角度で衝突して、斜に構へつつ全体が出来上って居る」、そんな木瓜の姿を「拙を守ると云ふ人」の生まれ変わりだと思うのだが、この草原の木瓜もクサボケである。


  <ミツマタ>  三椏

  三椏の花のうす黄のなかも雪    大野林火

 春の雪がはだらに消え残る谷の辺の杉林の緑に、蜂巣形の花房をこぼれんばかりにつけたミツマタの茂みがあった。銀鼠のつぼみの群れを、黄色に咲いた筒状花が取り巻いた花房であった。
 ジンチョウゲ科の落葉低木であるミツマタはガンピやコウゾなどとともに和紙の原料として名高い。各地の山間部に野生化しているが、その原産地はヒマラヤから中国の中南部だと考えられている。しかし、中国名を結香(ジェシヤン)とか黄瑞香(ホアンシュイシヤン)というこの植物がいつ日本へ伝来したのかは定かではない。

       春さればまず三枝の幸くあらば
                      後にもあはむな恋ひそ吾妹

 『万葉集』巻十の春相聞に歌われたこの三枝(さきくさ)がミツマタだと考える人があるが、異論も多い。そしてこの時代以降、徳川氏の時代に入るまでミツマタの名は文献にあらわれない。
 江戸時代になるとまず『大和本草』に「三マタ瑞香ノ類ニシテ相似タリ…」と書かれる。瑞香は室町時代にはすでに渡来していたジンチョウゲのことである。『和漢三才図会』には「カワヤナギに似た葉をつけ、小黄花が房になって咲く」もので、中国名は不明とある。
 これらの書のほぼ百年後に出版された『本草網目啓蒙』は、ミツマタは結香のことだと説く。結香は清代の『秘伝花鏡』に初出する名で、明代の『本草網目』をはじめそれ以前の本草書にはみられない。なお、これらの書物はなぜかミツマタが紙の原料となることにふれていない。
 ミツマタの伝来の時期について最初に論じたのは『植物渡来考』を著した白井光太郎で、享保年間の『用薬須知』にある黄瑞香の記事をよりどころに、江戸時代になって渡来したものと考えた。ところが浜谷稔夫によると、慶長三年に徳川氏が伊豆修善寺村へ送った文書に紙料としてのミツマタの名があるという。そうだとすれば、室町時代にはすでに栽培されはじめていたのだろう。

   三椏の花に光陰流れ出す        森澄雄


  ネコヤナギ>  猫柳

 川面を渡る風はまだ冷たく、水底に潜む魚にも動く気配はない。だがよく見ると、霜枯れた岸辺の薮のなかで、ネコヤナギがもう芽ぐみはじめている。ねじれた銀鼠の花穂の先は、みな申し合わせたように北を向き、陽のあたる南側だけが、丸めた子猫の背のようにふくらんで、点々と紅色の葯をのぞかせている。
 春が始まっていた。

  ときをりの水のささやき猫柳   中村汀女

 ネコヤナギは全国いたるところの川や沼のふちに生える落葉低木である。ヤナギ類のなかでは最も早く開花を始め、春を告げる花として古くから親しまれてきた。
 そのためか里呼び名も多く、一八〇三年刊の小野蘭山著『本草網目啓蒙』にはカワヤナギ、エノコロヤナギ、フデヤナギ、トウトウヤナギなど十余の名があげられている。同し頃、江戸琳派の一人である鈴木其一が、スミレとレンゲの咲く小川のほとりの猫柳を華麗に画きとめている。また当時は、この花穂の毛を集めて硯の下に敷くと冬でも墨が凍らないとされ、こうした硯を「文房春膏硯」とよんだ。

 トウトウヤナギのトウトウは仔犬の意味で、山陰地方の呼び名である。かつては、子どもたちが手の平に唾をつけ、そこへこの花穂をのせ「トウトウ乳のめ、トウトウ乳のめ」とはやしながら遊んだものだという。
 ところで、万葉集に歌われているヤナギのほとんどすべては、奈良時代に中国から渡来した柳、つまりシダレヤナギにちがいないと斉藤正二は説く。しかし、松田修は『万葉花譜』のなかで、「山の際に雪は降りつつしかすがにこの河楊は萌えにけるかも」という歌の“河楊”や「山の際の雪は消ざるを水霧らふ川之副(かわぞいやなぎ)は萌えにけるかも」の“川之副”は、カワヤナギつまりネコヤナギのことであろうといっている。なるほど、いわれてみれば、早春に咲きはじめるネコヤナギを詠んでいるように思えもする。これらは巻十春雑歌のなかの“柳を詠める”と題された八首の内の二首である。他の五首には柳の字が当てられ、内容から見てシダレヤナギと特定できる。また残りの一首には楊の字が使われているものの、これもシダレヤナギを詠んだものである。柳は枝の垂れるヤナギに、楊は枝の斜上するヤナギに使うという決まりは、万葉時代には確立してはいなかったのである。

     日をゆりて水よろこべり猫柳      石原舟月


  <ナズナ>  薺

   黒髪に挿すはしゃみせんぐさの花      横山白虹

 畑中の道の辺は春光に輝く緑の帯であった。菜の花の香りをはこぶ風に乗って白い蝶が舞った。ナズナの髭飾りをつけた童女がノカンゾウの若葉を摘んでいた。食べるのかと聞くと、葉を折り重ねてタンポポ頭のお人形を作るのだと笑った。
 実の形が三味線の撥(ばち)に似ているのでシャミセングサの名もあるナズナはアブラナ科の越年草である。南北両半球の暖温帯に広く分布するが、その原産地はヨーロッパだと考えられている。オーストラリアや新大陸にこの植物が入ったのは近世になつてのことだが、アジアへの伝播は遥かに古く、有史以前のことであろう。
 中国では周の時代の詩を集録した『詩経』にこの草の名があり、棄てられた女の苦しみをノゲシの苦さに、新婚の楽しみをナズナの甘さにたとえている。当時は天然の蔬菜として利用していたのであろう。『名医別録』をはじめとし、本草書にも早くから記載された植物で、『本草綱目』では護生草、地米菜、薺菜などの名もあげ、茎や葉には虫よけの効能があると記されている。
 日本でも、春の七種の一つとして、昔から食用していることはいまさらいうまでもないことだが、平安時代前期の『本草和名』に薺の和名は奈都奈とあるところをみると、かなり古くから帰化していたのであろう。農村ではごくありふれたナズナも、都市化がはじまった江戸の町からは消えてゆく。七種粥の行事を大切にした江戸っ子たちは一束一文のナズナを買うはめになった。そんな情景が『月並万句合』や『諧風柳多留』に歌われている。

       なずな売り元はただだとねぎられる

       なずな売り村でもしごくかせぐやつ

 アジアと違って、原産地のヨーロッパにはナズナを蔬菜として利用したという記録はないようだ。しかし、薬用の歴史は古く、西暦七七年に完結したプリニウスの『博物誌』にはトラスピの名で坐骨神経痛や月経促進に種子を利用するとある。“羊飼いの巾着”というのがヨーロッパでのこの草の名である。小さな袋状の実の形からの連想である。


  <コブシ>  辛夷

 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の母親は、「向こうの谷の白い雪のやうな花を」見やりながら「どうしても雪だよ。おっかさん。谷のこちら側だけ白くなってゐるんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」と甘えた声でいいはる子熊に、あれは“ひきざくら”の花だと教える。「くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうとさした」そんな夜であった。
 ヒキザクラはコブシのことで、平安時代前期に著された『本草和名』や『新撰字鏡』にみられるほど古い呼び名であるが、今日では岩手県や秋田県などのごく一部の地域で通用するにすぎない。東北地方では広くコブシをタウチザクラと呼ぶが、タウエザクラ、ナワシロザクラともいう。この花の咲くころが田植えの適期だからである。
 植物学的にみればバラ科のサクラとは縁遠いものだが、桜井満の説くように、サクラはサ(田神)+クラ(座)、つまり穀霊の依りつく神の座であると考えればこのような名も理解できる。だがヒキザクラの“ヒキ”の意味はよくわからない。三重県の一部などでは夜光虫や白く輝く海面を“ヒキ”というから、“白く光るサクラ”ということかも知れないし、晩秋に真っ赤に色着く種子が、白い糸をひいて垂れさがるからかも知れない。
 イトザクラの名はやはり青森、岩手の両県にある。

 北海道のコブシはキタコブシと呼ばれるが、アイヌの人々はこれをオプケニという。オプケは放屁、ニは木の意味である。しかし、実際にはオプケを思い起こすような臭気などなく、小枝を折ったり樹皮をはいだりするとクロモジのそれと良く似た香気を放つ。故意に悪い名をつけ、魔除けに使ったのだという。
 更科源蔵父娘の『コタン生物記』には樹皮を煎じて風邪薬にしたともあるが、一戸良行の『毒草の雑学』によると、南米インディオの矢毒の一つであるツボクラーレと同様の作用をするアルカロイドが含まれているそうだ。
 ところで、コブシには辛夷という漢名をあてているが、これは誤りで、辛夷はモクレンのことである。中国にはコブシは分布していない。

       見はるかす山腹なだり咲きてゐる
                      辛夷の花はほのかなるかも      齋藤茂吉


  ユキノハナ>  Snowdrop

 おととし卒業したM子の残していったユキノハナが、今年も実験圃場の片隅でひっそりと咲いた。
 忘れ雪の薄くつもった朝であった。
 ローレンスは『チャタレイ夫人の恋人』のなかで、この花を“三叉の白い炎”と書いているが、消え残る雪の林床に咲く、小指の先ほどもない可憐な乳白色の小花に、“未発の激情”を感じとったのであろう。
 ユキノハナはヒガンバナ科の一種で、地中海東部の沿岸からコーカサス地方にかけてがその原産の地である。マツユキソウとも呼ばれるが、それよりもスノードロップの名の方が通りがよいかも知れない。この名は、春早く釣鐘状にうなだれて咲く白い花を“雪の雫”に見立てたからとの説もあるが、本当のところ、は花の形が十六世紀頃の女性が愛用した耳飾りに似でいることに由来する。“雪の耳飾り”である。
 花が可愛らしいばかりでなく、聖母マリアが嬰児イエスを初めてエルサレムの神殿に連れていった日に一斉に咲いた花だと伝えられ、キリスト教徒の聖燭節には欠かせないものであった。そのため古くから伝導僧により各地へ運ばれ、十六世紀末にはヨーロッパの全域に広まっていたらしい。
 いっぽう英国では、アイルランドには分布しないものの、ブリティッシュ・アイレスにおいてはスコットランド北部のマリー湾以南の草地や林床や果樹園などにごく普通に群生し、あたかも土着の種のようにみえる。しかし、一六三三年版のジェラードの『グレート・ハーバル』より前の典籍にはこの植物は登場してこない。そのため一般には、十六世紀の修道僧がローマから持ち帰ったのだろうといわれている。繁殖力が大きいので、短期間に野生化し分布を広げたのであろう。また、この花にまつわるさまざまな伝説や俗信が今に伝えられている。雪の中にエデンの園を追われたイヴを哀れんだ天使が、彼女を慰めるために贈った花だという伝説や、花の白さが死や災いに結び付けられ「シュラウド(死者の白布)を着ている花」と嫌う習俗などがそれである。
 ではユキノハナの日本への渡来はいつのころだったのだろう。確かな記録はやはりない。だが、明治末期の園芸書をみると、南品川の妙華園が輸入するこの花の球根はたいそう売れ行きがよいので、間もなく全国に普及するだろう、というようなことが書かれていた。

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