SHOKA-HANA

初夏を彩る花々

〜 立夏 〜 小満 〜 芒種 〜 入梅 〜

索引

 アジサイ アヤメ ウツギ エゴノキ ガクアジサイ クサノオウ クチナシ ケシ シャガ スイカズラ
 センダン タチバナ ドクダミ トチノキ ナツツバキ ニセアカシア ネジバナ ノイバラ
 ハマヒルガオ ヒナゲシ フジ ヘクソカズラ ホタルブクロ ムラサキ ムラサキシキブ ヤマボウシ
 ヤマブキ ユリノキ 

   <ヤマブキ>   山吹

ほろほろと山吹ちるか瀧の音

 貞享五年(一六八八)の初夏、吉野郡川上村を流れ下る西河(にじこう)を訪れた芭蕉の句である。また翁は『真蹟詠草』のなかで、「きしの山吹とよみけむ、よしのの川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、桜にもをさをさおとるまじきや」とこの句に余韻を付けている。

 まことに蕉翁の記すように、ヤマブキは水辺や林縁の湿地に多い。中国と日本のみに分布する一属一種のバラ科の低木で、全国で見られるが、どちらかといえば落葉樹林帯を好むようだ。その、群れてしだれかかる緑の細枝に連なって咲く鮮やかな黄金色の花々は、直射光のもとにあるよりも木漏れ日の遊ぶ林床にあるほうが美しい。

    かはづ鳴く神辺河に影見えて
                  今か咲くらむ山振の花       厚見王

 飛鳥の里には今もヤマブキが多い。そして、万葉の歌人たちもしばしばこの花を詠んでいる。それらをみると当時の人びとはこの花の美しきを恋の成就の象徴とみなしていたらしいことがわかる。これが『忘衣物語』にかたられる「昔、男女あかずして別れはべりけるとき、鏡に面影をたがひに映して、その鏡を埋め終はんぬ。それより、山吹、生ひ出でける」という伝説に繋がるのであろう。だが、十市皇女の死をいたむ高市皇子の挽歌の山振(やまぶき)は黄泉の国の水辺に咲く悲しい花であった。また、巻十の春の雑歌の一首「花咲きて実は成らずとも長き日に思ほゆるかも山吹の花」にみるように、八重咲きの不稔の品種の存在も当時から知られでいた。

 そしてこれ以後ヤマブキは『古今集』や『源氏物語』や『徒然草』など、あまたの詩歌典籍に登場し、活け花の素材として用いられるようにもなる。地下茎による繁殖が盛んで栽培しやすいこともあってか、江戸時代になると多くの園芸品種が作出された。だが、酒井抱一の愛弟子の鈴木基一が「養老の滝・四季草花図」に活写したように、一重のヤマブキの美しさは、江戸琳派の文人たちにとってはまた格別のものであったようだ。

     山吹や宇治の焙炉の匂ふ時            芭蕉




 <ユリノキ>  百合木

 ”百合の木通り”のユリノキの梢にチューリップによく似た黄緑色の花が開いた。北アメリカが原産のモクレン科の高木である。アパラチア山脈には樹齢が500年を越す巨木がある。日本にも100万年ほど前までは自生していたが、なぜか絶滅した。大きな花なので蜜もたっぷりあり、一花で小さじ一杯ほども採れることがある。


 
 <センダン>  栴檀

 青嵐に吹かれ、薄紫の小花で彩られた緑色の鳥の巣を思わせるセンダンの葉群が、ゆったりと揺れている。ヒマラヤ山麓が原産の地ともいわれるこの暖地性の落葉高木は、古来”あふち”と呼ばれ、端午の節句のころ咲く花として親しまれてきた。この季節、平安朝の女性は紫の紙で結んだ”あふち”の花束を手紙に添えた。



 <ノイバラ>  野茨

 小さな庭の片隅で、小鳥の落し物から芽生えた一叢のノイバラがほのかに香っている。元禄二年の春遅く、曾良を伴い”奥の細道”へと旅立った芭蕉が白河の関を越したのも、まさにこの季節であった。青葉の梢を風が渡り、道の辺にはウツギとノイバラが白々と咲き乱れていた。「雪にもこゆる心地ぞする」と蕉翁は記している。



  <クサノオウ>    草王

 皐月の房総丘陵地は美しい。田も畑も雑木林も、さまざまな色調の緑で覆いつくされる。その緑の中の小道を行くと、私たちは彩り豊かな花々に出逢うことができる。それらは木洩れ日の化身かと見まがうエビネの花であり、大地の精霊の触手のような長い紫の糸を伸ばしたウラシマソウであり、薫風の喝采に舞うオドリコソウであり、ほろほろと山吹色の四弁花を散らすクサノオウである。
 クサノオウはケシ科の越年草で、北半球の暖温帯に広く分布している。漢名は白屈菜であるが、この名が初出するのは一四〇〇年頃に周定王によって著された『救荒本草』らしい。書名のとおり飢饉に際しての有用食物を記したものだが、それには、土といっしょによく煮てから何回も水洗いして食用するとある。水洗いが必要なのは、この草にケリドニンなどの強い有毒物質が含まれるからである。
 日本ではいつ頃からこの草が注目されていたのかよくわからないが、『大和本草』の白屈菜の項に「今俗ニ草ノ王ト云ヨク瘡腫ヲ消ス…」とあり、江戸時代には民間薬として広く用いられていた。千葉県の山武郡などに残るタムシグサという名もこの時代からのもので、茎から出る黄色の汁をつけると田虫が治るからである。ヒゼングサ、イボクサの名もあるが、同じ理由からである。ヨーロッパでも疣(いぼ)とりに使ったので、英語にはウォートワート、独語にはヴァンツェンクラウトなどの名が残っている。いずれも直訳すれはイボクサである。
 ところで、我国の詩歌でこの草を詠んだものを私は知らない。花の美しさにひかれたとしても、タムシグサなどの名を聞いては、とても一句をなす気になれない、というところであろう。しかし、絵画の世界はまた別で、江戸時代に描かれた美しいクサノオウが、京は冷泉家に伝わる花貝合わせの中にある。それは円山応挙その人か、あるいはその流れをくむ画家の手になるものではないかといわれるものだが、金を塗りこめた大きな蛤の貝の内面に、まことに写実的に描かれてある。
 源氏物語を読み、古今集や新古今集に日ごと親しんだ往時の冷泉家の姫君たちは、この草をなんと呼んでいたのであろう。


 <フジ> 藤 
 Wisteria floribunda (Willd.) DC


 ものうい熊蜂の羽音のあるほかは、ひっそりと静まりかえった皐月の藤棚の下に立つと、咲き満ちて垂れかかる長い紫の花房から、ゆらゆらと甘い香りがこぼれ、人は遥かなる追憶の世界へといざなわれる。

 遠い人おもへば悲しゆく春の藤波の花ほろほろと散る
          佐佐木信綱

 マメ科の蔓植物であるフジの仲間は東アジアから北米にかけて10種ほどが分布しているが、フジそのものは日本特産種である。

 縄文時代の遺跡からは、さまざまな加工技術を駆使した編み籠などが出土していることを考慮すれば、強い靱皮組織をもつフジの蔓も有史前から繊維源として利用されていたに違いない。したがって、現存するわが国最古の歴史書で8世紀初頭に著されたとされる『古事記』の挿入説話にも、フジは登場している。
 それは、布遅葛(ふじかずら)から作られた衣(きぬ)と袴(はかま)と沓(くつ)と弓矢を身に付けた男神が男嫌いで知られた美貌の女神のもとへ求婚に向かうと、身にまとうものすべてがにわかに藤の花となり、その美しさに女神が見惚れている隙に男神は思いをとげ児をなしたという話である。これは、当時の日本人がフジを実生活に活用していただけでなく、男女の婚姻を象徴する植物とみなしていたことを示している。
 しかし、フジだけでなくクズやツタなど、他のものに絡みつく植物を性愛の象徴とする思想は、古代中国ですでに育まれていた。それは、紀元前11世紀から7世紀にわたる周の時代の民衆の歌を集めた『詩経』のなかに見て取ることができる。
 いっぽう、奈良町以降の日本人は、フジの花とその香りのすばらしさを詠った唐の詩人李白の影響もあってか、花房の美しさを強く意識し始める。これは「恋しけば形見にせむとわが屋戸に植ゑし藤波いま咲きにけり」という山部赤人の歌にも読み取ることができる。この傾向は、例えば『枕草子』などの王朝女流文学にみるように、時代が下がるにつれてより顕著となっていった。そして、幕末の画人鈴木其一が描く、流れ落ちる藤色の滝を思わせる『藤図』などには、古代中国の性愛を象徴するというその思想は、もはやその片鱗すらもとどめていない。



 
 <ニセアカシア>   針槐樹

「この花が咲くと、北大予科時代の小樽高商との定期戦を思い出します。勝っても負けても、散りこぼれる白い花をうけた大杯の麦酒。甘かったですね。あれは」
 ある夕べ、頬笑みながらこう語ってくれたあの老細胞学者、H教授もいまは彼岸におられる。私にとってこの白い花は、何とはなく寂しい。
 初夏に白い花を房なりにつけるこの樹を小説や詩歌ではアカシヤと書くのが普通だが、分類学的には正しくなく、標準和名はニセアカシアである。この美しい花を偽者あつかいした張本人は、あの分類学の父ともいわれるリンネであったが、理由は葉形がアカシアという別の樹のそれとよく似ていたからであった。本来のアカシアはオーストラリアの国花であるワートルなどのことで、花の形はまったく異なる。しかし、それはそれ、ニセアカシアでは恋文も書けぬ。
 実生での繁殖力が強く、土地によっては自生種のようにふるまっているこの樹も、原産地は太平洋をへだてた北米大睦である。生長が早く、花はむろんのこと樹形も優れていたため世界の各地へ街路樹として広まった。ヨーロッパへ入ったのは十七世紀ということで、パリ植物園には一六三五年に移植された大木がある。日本では明治一〇年頃から北海道で本格的な栽培が始まり、それが各地へ伝播した。しかし日本へ最初期この木の種子を持ち込んだのは津田梅子の母の仙で、明治6年のウィーンでの万博参加の土産だったという。

 先年訪れた、十一月上旬の、チリはサンチアゴの町にも、満開のニセアカシアがあった。公園に遊ぶ少年にその名を尋ねてみると「アカシオ!アカシオ・ブランカ!」(アカシアさ!白花アカシアだよ!)と得意げに教えてくれた。花房が大きくゆれると、甘い香りが流れた。
 その時、なぜか唐突に、私は清岡卓行の『アカシヤの大連』にあった「------並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのであった」という美しい一節を思いうかべていた。



  <アヤメ>   菖蒲

 すくすくと伸びた育ち盛りの若稲が青嵐になびく頃になると、池沼のほとりや山地の草原のあちこちに、紫の小旗のようなアヤメが咲きそめる。

     野あやめの離れては濃く群れて淡し     水原秋桜子

 アヤメは東シベリアから中国東北部を経て日本列島へと分布しているアヤメ科の多年草である。この仲間は、日本には八種ほどしか自生しないが、世界には約三百種がある。いずれも人目を引く美しい花をつけるので、古代から注目されたらしく、スフィンクスの額にも浮き彫りされている。もちろん園芸品種化されたものも多い。またヨーロッパのニオイイリスが香料となるのは有名だが、ヒマラヤ地方ではネパールアヤメの根茎を下剤とし、アラスカのイヌイットはセトーサアヤメの種子をコーヒー豆の代用にする。

 アヤメという呼称は大伴家特の歌「ほととぎす待てど来鳴かずあやめ草玉に貫く日をいまだ遠みか」にみられるように古く万葉の時代からあったが、実はこれはいまに言うアヤメではなく、サトイモ科のショウブである。ショウブはよく知られるように多くの精油成分が含まれ芳香を発するため、フジバカマなどと同様に邪悪なものを追い払う霊力があると信じられ、端午の節句に軒先などに飾った。この習俗は古代中国のそれを模倣したものだが、日本書記によれば我国では仁徳天皇の三十九年(三五一)五月に始まったという。
 ところが本物のアヤメの方は江戸時代より前の古典には見られない。近縁種のカキツバタが万葉集や古今集をはじめとするあまたの歌集に登場し、花鳥画にもしばしば描かれたのとは対照的である。昔の人は何故にアヤメよりカキツバタを好んだのだろう。よくわからない。「いずれ菖蒲か杜若」で、大変よく似ているから江戸時代になるまでは区別していなかったのかも知れないとも思ったが、ワシントンのコリーア美術館にある室町時代の元賀の筆になる六曲一双の「花鳥図」の右隻には水辺に咲くアヤメとカキツバタとが、はっきりと描きわけられていた。


<ヒナゲシ>  雛罌粟

      ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコわれもコクリコ     与謝野晶子


 ビスケー湾にそそぐロワール河の流域に点在する古城をとり巻く麦畑も、ピカルジーのアルトワ台地の麦畑も、ノルマンジー丘陵地に広がる麦畑も、そしてモンブラン山麓のシャモニーの麦畑も、初夏が訪れ、混生するコクリコの花がいっせいに咲きはじめると、鮮血を散らしたように紅く彩られる。
 コクリコは、coquelicot、つまりヒナゲシである。
 鉄幹を追って渡仏した晶子の熱き血潮の色でもある。
 ちなみに、coquelicot はcoquelet (若い雄鶏)の泣き声のコケコッコー(cocorico)に由来するそうだが、真っ赤な花を元気のよい若鶏のトサカに見立てたのだろうか。

 ヒナゲシ(Opium rhoeas L.)は原産地の小アジア地方から小麦とともにその随伴雑草として各地へ伝播した。日本へは江戸時代までに、中国へはシルクロードを経てもたらされた。唐代のことだという。一般には宋の曽鞏(そきょう)がうたった「虞美人草」がヒナゲシということになっているが、定かではない。明の李時珍が『本草綱目』の中で、唐代に著された『酉陽雑俎』にある舞草(マイハギ)が虞美人草だと述べているからである。
 ともあれ、虞美人草という名は、漱石のこの題名の小説を思い起こさせずにはおかない。「虚栄の毒を仰いで斃れた」藤尾の枕辺に「逆に立てたのは二枚折の銀屏である」、その一面に冴え返る月の色の方六尺の中に咲く花、それが虞美人草であった。
 酒井抱一の落款のあるこの銀屏が実在するものか否か、寡聞にして知らないが、「踏崩す蝶のちからやけしの花」とある抱一の自画賛扇面に描かれてあるのは虞美人草(ヒナゲシ)ではなく、阿片を採ることのできる芥子(ケシ)であった。
 ヒナゲシもケシ同様に室町末期にはすでに渡来していたようだが、実用書である『草花絵前集』などを別とすれば、なぜか江戸時代の絵画の対象となっていない。
 喜多川相説の『四季草花図屏風』でも、尾形光琳の『四季草花図巻』でも、鈴木其一の『養老の滝・四季草花図』でも、そして野々村仁清の『色絵芥子文茶壷』でも、そこにあるのは妖艶なケシの姿のみである。
  藤尾の前に逆さに立てられたヒナゲシ(虞美人草)の銀屏は例外的な作品だったのだろうか。



  <アジサイ>   紫陽花

一八二三年六月二十七日にジャワのバタビアを発った三本マストの帆船、デ・ドリー・ヘジュステルス(三姉妹)号が長崎沖に姿をみせたのは八月八日であった。
 三日後の十一日、ほぼ一カ月半の旅を終え、出島のオランダ商館長ブロンホフらに迎えられて上陸した人々の中に、一人のドイツ人青年がいた。
 この青年が、そのころ長崎のある寺院の境内に咲いていた手毯型の青花をつけるアジサイの一品種にHydrangea Otaksaという学名をつけ、和名はオタクサである、と『日本植物誌』に書き記したフォン・シーボルトであった。
 彼が誰からオタクサという名を教わったのか、そしてこの名は何を意味するのか、後学の人たちはたいへん悩まされたそうだが、実はこれは、彼が熱愛した丸山引田屋の遊女其扇(そのぎ)の本名である楠本滝にちなんで、彼自身が創作したものだという。呉秀三や沢田武太郎の“お滝さん花”説である。
 これには異説もある.たとえば春山行夫は「出島の植物園に植えられていてオタクサの名で呼ばれている」というシーボルトのつけた解説文などから考えて、オタクサというのは当時の長崎地方での里呼び名ではないかという。オタクサのクサは草の意味だろうともいう。
 だが、この解説文は、愛人の名をつけたことを、わざとしらばくれて書いたものだとする外山三郎の見方もある。さらに、最近『アジサイの話』という好著をものした山本武臣は、シーボルトは、『日本』のなかにあるお滝さんの肖像画の下に、自筆でOtaksaと書きこんでいることを指摘し、“お滝さん花”説は疑いのないものだとしている。
 またシーボルトは「この植物はおそらく数世紀以前に中国から日本へ渡来したものだ」と書いているが、実際は有史以前からのわが国に土着の植物らしい。したがって『万葉集』にもアジサイの名はみえ、味狭藍、安治佐為、と用字されている。

      さみだれのきのふ一日晴れしかば
                      今朝は色よきあぢさいの花      三ケ島葭子



   <シャガ>    著莪

 またひとしきり雨足が激しくなった。ほの暗い谷間を登り、峠の観音堂へとつづく小道のきわには、冷光を放つ濃緑の剣状葉が隙間もなく茂る。その上に薄い青と黄色の斑紋のある白い蝶のような小花が、いくつもいくつもひらひらと、咲き乱れていた。シャガの花であった。

  杉しげる渓流沿いの道の辺に
           著莪の花舞う五月雨ふりて   菊川 静

 チュンベリーがイリス・ヤポニカ、つまり日本アイリス、と命名したこのアヤメ科の多年草は、北海道を除く各地にみられる。「行者みちと杣みちは別著莪の花」と詠まれるように、仏教とかかわりを持った道の辺に多く、杣道や獣道のきわに生えることはまずない。つまり人里植物の一つである。おまけに不稔性で、種子でふえることができない。したがって、この植物は中国から移入されたものと考えられている。しかし、その渡来の時期は定かではない。
 シャガが瑚蝶花の名で文献に登場しはじめるのは江戸時代になってからである。シャガという名はヒオウギの漢名である射干に由来する。これは古代中国の本草家が射干と瑚蝶花とをはっきりと識別していなかったための混乱がそのまま日本へ持ちこまれたためである。そして、古くからヒオウギが修験者の呪術の道具としで使われていたことを考えると、シャガにも同様の用途があったであろう。恐らく密教の伝来とともにこれらの植物も渡来したのではないか。なんらの確証もないが、以前から私はこのように考えていた。
 ところが、一九八三年の春、東京国立博物館で開催されたボストン美術館絵画展で、はからずもこの私の考えを裏付けてくれそうな一幅の絵に出合うことができた。それは室町時代中期の狩野元信の筆と伝えられる、墨隅(すみぐま)した幽谷の岩上に二重の光背を負い、禅定印を結び、結跏趺座する白衣観音図であった。胸に金色の瓔珞がきらめく観世音菩薩が、谷川の飛沫に冷たくぬれ光る、敷きつめたシャガの葉の筵の上におわしたのであった。

    紫の斑の仏めく著我の花         高浜虚子



   <ヘクソカズラ>   屁糞葛

 野の仏へくそかづらを着飾りて  石川あき子

 梅雨の晴れ間の陽光が、盛夏がもうそこまで来ていることを告げる頃、おちこちの生垣や薮かげを這う蔓草のひとつに、銀灰色に縁どりされた紫紅色の彩りが美しい、直径が一センチにも満たない筒状の小花が咲きはじめる。北は北海道から南はフィリピンにまで分布するアカネ科のヘクソカズラである。蔓はきわめて強靭で、すこしぐらいの力では引き切れず、おまけに悪臭を放つ。そのため、このような身も蓋もない名を頂戴したものだが、『万葉集』の巻十六にもこの草を詠んだ歌が一首ある。

 p莢に延ひおほどれる屎葛絶ゆることなく宮仕せむ

 作者の高宮王の経歴は詳かではないが、酒席で、p莢、屎葛、官仕の三語を与えられて座興に詠んだ一首である。p莢は『本草和名』に日本名は加波良布知乃岐とある。カワラフジノキにはサイカチ説とジャケツイバラ説とがあるが、何れもマメ科の植物で、枝や茎には大きくて鋭い刺がある。そこでこの歌を私流に解釈すると、「やなことばかりの勤めじゃが、妻子思えば罷められず、ヘクソカズラのそのように、刺もものかわ絡み付き、しぶとくお勤めいたそうぞ」と、いうことになる。なにやら現代給料取りの、酒場でのぼやきのようでもある。「世間を常なきものと今ぞ知る平城の京師のうつろふみれば」と、天平のあの繁栄に翳りがさしはじめた時代の歌なのであろうか。
 「鬼も十八蛇も二十屁屎葛も花盛り」などとはやされるように、臭気を別にすれば、この花はなかなか可憐である。そこで、もっと優しい名で呼ぶ人もいる。早乙女花、躍子草などがそれである。いっぽう、灸花(やいとばな)とか天狗花などの名もあるが、これは子どもたちの遊びに由来する名である。花には悪臭がないので、これを摘み取り、唾をつけ、手足や背中に押しつけると、まるでお灸の艾(もぐさ)をのせたようにみえるからである。そして鼻の頭にチョンと付ければ、童はたちまち天狗に変身するのであった。

        雨の中日がさしてきし灸花       清崎敏郎


 

<タチバナ>  橘

 やさしい初夏の風に乗って、タチバナの白い花の放つ清涼な芳香りが、青葉の茂みから漂ってくる。タチバナは唯一つの日本原産の柑橘類である。平安京の紫宸殿の前庭には左近の桜とともに右近の橘があった。かぐわしい花と金色の果実をもつ常緑樹ゆえ、人々は長寿と理想の平和の地、常世の国の象徴とたたえた。
 


<ケシ> 芥子

       罌粟咲きぬさびしき白と火の色とならべてわれを悲しくぞする    与謝野晶子


 亜熱帯高地の常春の都、昆明の夜明けは遅い。7時、薄明の中を150里の彼方の大理へと旅立つ。琵琶湖の半分ほどもある、土地の人たちが「海子=ハイズ」と親しみを込めて呼ぶ昆明湖から湧き上がる、雲のように濃い朝霧に包まれては、ランドクルーザーのヘッドライトも心もとなかった。雲南での植物調査行の幕開けであった。

 田園の風景は戦前の日本の農村そのままといってよいほどで、懐かしいふるさとに戻ってきたタイムトラベラーのような気分になる。強い雨が浸食したラテライトを溶かし込んだ、トンキン湾にそそぐソンコイ河の支流の一つ、朱江の濁流を眼下にして峠を越えると、赤い小さなイ族の集落があった。野菜畑には食用カンナや大きく育ったヒモゲイトウが栽培されていて、その向こうの丘の麓にはたくさんの白い花とそれに混じる赤い花が目立つ草の茂みがあった。何の花だろうと、カメラ片手に近づいてみて、一瞬足が止まった。日本ではご法度のケシ(Papaver somniferum L.)であった。しかし、考えてみれば驚くにはあたらない。ここは雲南山地、かの“ケシを作る人々”として知られるメオ族の故郷でもあったのだ。

 ケシと人類とのかかわりは、ヨーロッパでは既に新石器時代から始まっていたらしい。もっともこの時代のケシは阿片の含量が少ない野生種のセチゲルムケシ(P. setigerum DC.)だったと考えられる。紀元前4世紀頃にエーゲ海のレスボス島に生まれたテオフラストスの『植物誌』にあるエジプト産のネペンテスなるものが栽培種のケシとする説もあるが、ディオスコリデスの『薬物誌』の記載が信頼の置ける最初のものであろう。そこには阿片の採り方も詳しく記してある。
 では、日本に渡来したのはいつの頃だったのだろう。ある学者は『源氏物語』のなかの「御衣などもただ芥子の香にしみかへたり」や「忍びやかに芥子焼く事せさせ給う」などをもとに、平安時代までには渡来していたと説くが、これは誤解で、密教の護摩焚きに使った芥子はカラシナの種子であった。いまではもう正確な渡来期を示す古典は残っていないようだが、風説によれば足利義満の時代にポルトガル人が薬草として津軽地方に伝えたのが最初だったという。なぜに津軽地方が選ばれたのか不明だが、ケシにはツガルという別称があることからこの説が生まれたのだろうか。
 間もなく日本の各地で栽培されるようになったが、その目的は薬種というよりは美しい花の観賞にあったようだ。
 安土桃山時代の茶会の席にこの花が活けられた記録が残っている。絵画として残されている最も古いものは、バージニア州立美術館所蔵の六曲一双の屏風『花鳥草虫図押絵貼』に描かれたそれであろう。この絵は室町時代末期の武人画家、山田道安の筆によるものらしい。江戸時代には数多くの美しい品種も作出され、人々の注目を浴びた。私たちは今、当時の人々がこの花に寄せた熱いまなざしを、狩野宗眼の『麦芥子図屏風』やメトロポリタン美術館が所蔵する喜多川宗雪が描いた一幅の『罌粟図』や野々村仁清の『色絵芥子文茶壷』などの壮麗な作品に感じ取ることができる。

     白罌粟に羽もぐ蝶の形見かな

 この句は『野ざらし紀行』に旅立つ芭蕉が南杜国との別離を悲しむ絶唱である。白罌粟は寵童杜国、蝶は芭蕉自身である。
 ところが、日本でと違って、この花の原産地の西欧では19世紀も末になってやっとその美しさが認識され始めたのである。それはギリシャ・ローマの時代以前からの蔬菜そして薬草としての栽培の歴史の長さゆえか、それとも植民地の拡大と支配のために、傷つけられたケシの実が滴らせる麻薬、阿片を、おぞましくも利用し続けていたためであったのか。
 はじめにメオ族を「ケシをつくる人々」と書いたが、これは正しくなかったい。「ケシをつくらされた人々」と書くべきであった。列強の送り込む阿片商人と軍閥、そしてそのおこぼれに与り私服を肥やすことしか念頭になかった地主や官僚たちにより、ケシ栽培を強制させられたのである。しかしこれはメオだけではない。アカ、ヤウ、ラウなど雲南高地に住む多くの少数民族にふりかかった悲劇であった。19世紀初頭のことであった。だが、幸か不幸か、彼らには阿片中毒者はあまりでなかった。自らが作ったものすらも使えないほどに搾取され貧しかったのである。

 大理への道はまだ半ばであった。




 <ウツギ>  空木

 時折の蛙の声のあるほかは、しんと静まりかえった谷地田の際の、日ごとに深まりゆく緑の中で、白いウツギの花が雨にぬれている。卯花腐(うのはなくたし)である。
 ウツギは茎が中空の木、つまり空木であるが、『本草和名』には宇都岐とある。このウツギの花がウノハナで、『万葉集』には宇花、宇乃花、宇能波奈などと用字されている
  だが、花の白さがウサギを連想させたのか、平安時代にはもっぱら卯花と書かれるようになっていた。したがって、元来は桃や梅の枝から作るべき呪棒の卯杖にウツギを使うという混同も、この時代に端を発したのだろう。
  また、小川のふちなどの水辺に多いウツギの花は、水稲を作る農民にはことのほか親しい花であった。

ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の
                 咲き散る岡に田草引くをとめ (* 注

  神聖な田植がすめば、早乙女たちは普段の少女にもどる。そして卯の花が咲き散り、ほととぎすが山の辺で鳴き始めると、万葉の若者たちは夕闇の中へ、恋の歌垣の世界へといざなわれてゆく。ほととぎすは妹背鳥であり恋鳥であり、黄昏鳥でもあった。

  卯の花の咲き散る岡ゆほととぎす
                  鳴きてさ渡る君は聞きつや

  聞きつやと君が問はせるほととぎす
                  しののにぬれて此ゆ鳴き渡る

  やがて、野のウツギは貴族の庭へ植え移される。『源氏物語』の乙女の巻にあるように、彼等は前栽に呉竹を配し、小高い森のような植え込みをした庭に「山里めかして卯の花垣根ことさらにし渡し」たのであった。
  だが、卯の花は野山にも咲きつづけた。
  弥生も末の七日、曽良を伴い江戸を発った芭蕉は、白河の関で、茨を咲き添えて雪かと見まごうばかりに白い卯の花を手折る。仙台から、石巻、戸伊摩を経て平泉へと、師弟は初夏の『奥の細道』を旅する。そして、夏草や兵どもが夢の跡と、二人が笠打敷いて時のうつるまで泪を落としたあの高館の岡にも、卯の花が白銀に咲き乱れていた。

    卯の花に兼房見ゆる白毛かな      曽良

    
  * 注
     この短歌の「田草」の万葉仮名表記には「田葛」とするものもあり、この場合「クサ引くをとめ」ではなく「クズ引くをとめ」と読むのが正しいという。(万葉集略解)


   <スイカズラ>  忍冬

  蚊の声す忍冬の花の散るたびに     与謝蕪村

柿の葉影が濃くなって、薄黄緑の小さな花が散りはじめると、ふと立ち止まりたくなるようなスイカズラの芳香が、どこからともなく漂ってくるようになる。

 常緑の蔓植物で、その葉は冬の寒さをたえ忍ぶ。したがって忍冬という。昔は子供たちが花筒にたまった蜜を吸ったから、スイバナとかスイバナカズラなどともよばれた。 咲きだしてから散るまでの間に、白、浅黄、深黄と花色が変ってゆくので金銀花の名もある。左纏藤ともいうが、これは.『大和本草』にあるように「諸ノカツラ皆右ニマトフ只忍冬ノカツラ左ニマク」からである。
 ところが現代の植物図鑑をみると、スイカズラは右巻きということになっている。貝原益軒がまちがえたのだろうか。だが同時代の『会津歌農事』にも「こはいかに左に巻くは忍冬、藤やところも同じこころに」と書かれている。
 さらに、その頃ヨーロッパで古典的分類学を大成させたリンネも『植物哲学』のなかで、スイカズラは左巻きだとのべている。すると昔は左巻きだったのが近年になって突然変異を起こし右巻きに変わったのだろうか。残念ながらそういうわけではなく、この違いの原因は単に右巻き左巻きについての定義の問題にすぎなかったのである。ちなみに書けば、植物分類学以外の自然科学の諸分野では、今日でも益軒たちと同じ定義にしたがっている。
 スイカズラはよく知られた漢方薬の一つでもある。『大和本草』に「至賎ノ薬ニ至貴ノ功アリ」と書かれるほどの効能があり、民間では蕾(つぼみ)を集めて忍冬酒を作ったりもする。

 ヨーロッパにもアジアのものと良く似た、香りの高いスイカズラがあり、その英語名はハニーサックル(蜜吸い)である。和名の由来と似ていておもしろい。
 「壁やひさしにはびこった/ゆれる遅咲きスイカズラ/その丸木小屋までゆかぬ間に/息づく花の芳香が/あの日の記憶を呼び起こす」

  ワーズワースの詩の−節である。



   <エゴノキ>   野茉莉

えごの花ながれ溜ればにほひけり  中村草田男

エゴノキは東アジア全域に分布し、日本では北海道から琉球までの各地の山野の水辺近くで、ごく普通にみかける。
 材質が緻密なので、ロクロギの異名があるように、かつてはこの木で傘のろくろを作った。また果皮にエゴサポニンが含まれているから洗剤になり、シャボンノキとかセッケンノキなどとよばれる。さらに、この成分は魚毒でもあるので、ウナギなどの淡水魚を獲るのにつかわれた。
 縄文時代の遺跡からエゴノキの種子が出土するようだが、これは古代の人たちもこの実を魚獲りに利用していたことの証しだろうか。アマゾソのパンチャコーヤで今も原始生活を営むインディオたちが、石でつぶしたバルバコスの根の汁を使って池や堰き止めた川で魚を獲るような、そんなことをしていたのかも知れない。

 ところで、エゴノキという名は、昔は関東地方にかぎられた呼称だったらしい。この名は「果皮がのどを刺激してえごいため」つけられたのだというのが通説である。しかし本当は“えごに生える木”の意味ではなかろうか。“えご”とは、岡にかこまれた土地とか、山や渓谷のくぼみとか、浅いくぼ地のことである。これはエゴノキの好む環境である。つまり、この名は、この植物の生態を的確に示しているのだと思う。
 『万葉集』の知左や山治左もエゴノキとされるが、柿本人麻呂の作といわれる「路の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻を」という歌の壱師もエゴノキだというのは博物学者白井光太郎の説である。
 しかし異説も多く、近年は牧野富太郎のヒガンバナ説が有力視されている。壱師を白い花ではなく、いちじるしく赤い花とみるのである。だが『歌経標式』の「道の辺のいちしの原の白妙のいちしろしくも吾恋ひめやも」や『現存和歌六帖』の「立つ民の衣手白し道の辺のいちしの花のいろにまがへて」という歌をみると、やはり壱師はエゴノキやヤマボウシのような白い花をつける植物だと考えるのが自然であろう。

   えごの花ふむにをしげもなきまでに
                   散りてはたまる田にも畦にも         岡 麓




 <トチノキ>  栃

 秩父山地の大弛峠から国師ヶ岳を経て、甲斐の西沢渓谷を下ると、そこはトチノキの花匂う山里であった。ソフトクリームを連想させる白い大きな円錐形の花の集まりが、緑の谷風に吹かれていた。秋にこぼれる栗によく似た実は、縄文時代からの食料であった。初夏、パリの町並みを彩るマロニエも同じ仲間である。


 <ドクダミ>  十薬

  そぼ降る五月雨に煙る、過疎の村の廃屋の軒下にドクダミの白い小花が咲いていた。花びらのように見えるのは総苞で、その上の黄色の塊が花の集まりである。中国の江南地方では野菜として利用する。

「白き目をひきあけてひたぶるに寄り添う、淫らにも若く美しい」女友だちを、「どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし」と歌ったのは北原白秋であつたが、ドクダミには独特の臭気がある。
 これを鯨肉の臭いと感じたのは近藤富蔵で、『八丈実記』の第六編、土産の草類の項にドクダミについて「八丈ニクジナ草、其臭ノ鯨ニ似タリト云フ心ナルベシ」とある。だが現在の八丈島では、フジナクサとかフジノクサとよんでいるそうだ。一方、青森県や秋田県にはイヌノへとかエヌノベなどの呼称もある。
 臭いが強いだけでなく、繁殖力も旺盛で、いったんはびこりだすと手におえなくなるため嫌われもする雑草だが、薬草であることもよく知られている。
 すでに平安時代に、この草を之布岐(シブキ)とよんで注目していたことは『本草和名』や『蜻蛉日記』の記述から知れる。だが当時はまだ薬草とは認識していなかったらしい。それは、その頃日本に伝えちれていた唐の『新修本草』などで、この草を菜の一種として取り扱っていたことが原因であう。
 『新修本草』には、子どもが食べると脚痛を起こすが、江左つまり江南地方の人たちは好んで生食するなどと書いてある。したがって薬草との認識が広まったのは李時珍の『本草綱目』が輸入された以後、つまり江戸時代になってからとみでよい。この書には、たたいてやわらかにした葉を疔瘡(ちょうそう)につけておくと数日で癒えるとか、葉で痔をおさえると癒える、などとある。
 大分県にはオショウサンノシリフキ、シヨウヤサンノシリフキなどのように“尻拭き”という言葉を語尾につけた里呼び名が多いが、これは痔疾とドクダミの葉とのかかわりを示しているのだと思う。
 また、俳句ではドクダミことを十薬ということが多いが、これは『大和本草』に「和流ノ馬医用之馬ニ飼フ十種ノ薬ノ能アリトテ十薬卜号スト云」とあることに由来する。

      どくだみの白き小花は過ぎむとす
                   飽けるがごときさみだれ降りて     斎藤茂吉



  <ホタルブクロ>  蛍袋

 蓼科の山巓に向かって吹き上げる風が通りすぎてゆく山の道の辺に、ホタルブクロの淡紅色の鐘状花が揺れていた。花筒に生えたにこげが、木洩れする夕陽射しに、ときおり白く光った。見つめるうちに時が流れ、闇が谷底に生まれた。

 少年の日を過ごした遠州の稲田のきわにも、ホタルブクロの花が咲いていた。少女たちはホタルをその花筒に入れ、そのほのかに螢光を放つ袋を、宝石かのごとく両の手で包み、指の隙間から漏れるかすかな光に笑みをこぼした。日は沈んでいた。

    宵月を螢袋の花で指す     中村草田男

 我が国の山野にごく普通にみられるホタルブクロは、キキョウ科の多年草である。学名はカンパニュラ・プンクタータという。種小名は斑点があるものという意味で、属名のカンパニュラは小さな鐘や鈴を意味するラテン語だが、ヨーロッパの伝説に登場する、神の園の黄金のリンゴを守ろうとして銀の鈴を鳴らし、そのため盗人に切り殺された薄幸の少女カンパニューラにちなんだものとの説のほうがおもしろい。
  和名は“ホタルを入れる袋”の意味だという人が多いが、中村浩は“火垂る袋”、つまり提灯(ちょうちん)のことで、ホタルとは無関係なのだと『植物名の由来』に書いている。
  いずれにしても、各地に残るさまざまな里呼び名から考えると、野に遊ぶことの多かった往時の子どもたちにとつて、この花はまことに親しいものであったようだ。
 『植物方言集』を読むと、青森の子どもたちはこの花を“アッパツツ”と呼ぶらしい。関東風にいえば“オッカアノチチ”というところか。わずかに紅をおびた、白くてふっくらとした筒花は、花茎からつみ取ると、その切ロから乳液をしたたらせる。なるほど、なつかしい母の乳房である。
 下総では、トックリバナとかポンポンバナとよぶ。前者は花形にちなんだものだが、後者は、この花に息を吹きこんでふくらませ、ポン!と破裂させる子どもたちの遊びから生まれた名である。 宝歴五年(一七五五)に出版された『絵本野山草』には、美しい線画があり、宝釈草と名づけてあった。


 
 <ハマヒルガオ>  浜昼顔

  水平線の彼方から寄せてくる夏の潮に触れたくなり、九十九里の浜辺に立つ。天空は梅雨雲に覆われてはいても砂浜は思いのほか明るく、ハマヒルガオの桃色の花が咲き敷いていた。典型的な海浜植物ではあるが、まれに内陸の湖の辺や河原にも生える。ヒルガオとは別種だが、「大汐や昼顔砂にしがみつき」と一茶が読むように、俳諧では区別しない。


 
  <ムラサキ>  紫

  庭の雑草にまぎれてひっそりとムラサキが咲いた。薬草園から分けてもらいプランターで大切にしていた親株の方は絶えたが、その子供に違いない。人工的な住処を嫌ったのであろう。

 明治時代以降の社会経済機構の急変は都市への激しい人口流人をひきおこし、膨張する市街は昔ながらの安定した生活の場であった郊外の田畑や雑木林を、まるで津波のような勢いでのみこんで、金と物とを至上とする、鉄とコンクリートと荒廃した心とに満ちた環境へと変貌させてしまった。そこでは数多くの草や木が、重機に押しひしがれ、人間に踏まれ、根絶やされた。
 紀記万葉の上代より人びとに愛好され、あまたの詩歌にうたわれたムラサキも、こうして消えていった草のひとつである。

   紫の一本ゆゑに武蔵野の
             草はみながらあはれとぞ見ゆ       (古今集・巻十七)

 ムラサキは極東の一角に、ちょうど日本海をぐるりと取り囲むように分布する多年草である。その直径四ミリほどの、ほのかに紫色を帯びた小さな花は、ムラサキ科の特徴であるくるりと巻いた蝸牛状花序に、日に二花ずつ開く。まことに目立たぬ花ゆえ、この草に格別の想いを寄せる者のほか、いまではまず目にとめる人とてない。
 だが、奈良・平安朝から江戸時代までは、貴族も大衆もなべてこよなくこの花を愛でた。
 それは、この草の根に秘められる美しい紫の色素への憧れであり、いにしえびとのおおらかな恋への憧れであった。

   茜さす紫野行き標野行き
              野守は見ずや君が袖振る          額田王

    紫のにほへる妹を憎くあらば
         人妻ゆゑにわれ恋ひめやも         大海人皇子


 中国では、すでに周の時代から、この色素を帝王の権威を表徴する色として重用していたが、大和朝の貴族もこの文化を踏襲し、これを上級者のみに許される禁色とした。そして、額田王の歌にみるように、この色素を確保するための標野を定め、野守をおき、ムラサキを保護したのであった。
 だが時は流れた。江戸時代の乱獲もさることながら、その後の都市化の大波の中で、武蔵野をはじめとする日本の野のムラサキは、文字どおり幻の花と化してしまった。


 

  <ガクアジサイ>  額紫陽花

  海霧の流れる岬に、薄紫に色づいた装飾花で縁どられたガクアジサイが咲いている。日本に固有の種で、フォッサマグナ地域を中心に分布している。大きくて軟らかな葉は、落とし紙の代わりに使われたという。手毬形の花を咲かせるアジサイは、鎌倉時代かそれより少し後に、この種から作りだされたらしい。



   <クチナシ>   梔子

   けむるごと降る雨の中いち白く
              けふ咲きそめぬ梔子の花        静

 クチナシはアカネ科の常緑性低木で、静岡県以西に自生があり、中国・台湾を経てフィリピン諸島へと分布している。熱帯には多くの近縁種があるが、タヒチ島のチアレマオヒ(タヒチクチナシ)の白くかぐわしい小花はゴーギャンの描く島の娘達の黒髪を飾っている。

 中国最古の本草書『神農本草経』にその名があるように、薬用植物としての歴史は古い。漢名の“巵子”は赤橙色に熟した実の形が酒器の巵(し)に似ているからであるが、和名はその実が裂開しないことに由来するという。つまり“口無し”である。また日本では果実に含まれる色素のクロセチンを飛鳥時代から染料として利用しており、『延喜式』には色名の一つとして支子(くちなし)があげられている。『源氏物語』の賢木(さかき)の章には、光源氏が藤壺中官に仕える女房たちの“くちなしの袖口”を「なかなか、なまめかしう、奥ゆかしう、思ひやられ給ふ」くだりがあるが、この“くちなし”も色名である。素性法師の俳諧歌「やまぶきの花色衣主やたれ問へど答へずくちなしにして」は駄酒落の域をでないが、これは“山吹の花色=黄色=くちなし色”と“口無し”とをかけたものである。
 このように染料としての認識は古いのだか、純白の花やその香りが注目されはじめるのは室町時代末期の一条兼良が著した『尺素往来』以後のことである。
  江戸時代に入ると盛んに生花の材料として用いられるようになるが、『万葉集』や『古今集』以来の伝統なのか短歌にはこの花は詠まれていない。俳句においても蕪村の「口なしの花さくかたや日にうとき」の一句しか私は知らない
 クチナシが頻繁に詩歌に登場するようになるのは西欧文明に日本人が気触れだした明治時代以降のことである。ヨーロッパにクチナシが入ったのは一七五四年のことだが、その純白の花弁と甘い香りはたちまち人々を魅了し、ガーデニア(クチナシの属名)という清純な乙女に天使が送った、天国に咲く花だという伝説まで創作された。このヨーロッパのクチナシ狂いが明治の日本人にも伝染したのである。

      流俗を憎む病のきざすとき薬に嗅ぎぬくちなしの花

 与謝野鉄幹がこう詠んだのもその頃のことである。


   <ナツツバキ>   夏椿

  平家のあの全盛とそのあまりにも早く訪れた滅亡とを目の当たりにした人々は、やがて一つの白い木の花に心をひかれていった。それは福島県以西の山中に生える落葉性高木であるナツツバキの大きな白い花であった。
 ナツツバキはツバキ科の植物ではあるが、ツバキ属ではなく、ステワルティアという別属の一員である。この属は極東の一角とアパラチア山脈を中心とした北米東部にのみ分布している。第三紀周極植物の生き残りである。
 音もなく降りしきる霧雨の中で、梢の高みに白々と咲き、夕べを待たずして散り急ぐナツツバキの一日花は、苔むした暗い地面に累々と横たわり、やがて褐変して朽ち果てる。中世の人々はこの花こそ沙羅双樹の花だと信じた。

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす

 ひとたび聞けば忘れ得ないこの”移ろいの花”に、これほど相応しい花が他にあろうとは思えないのであった。理を正せば、『涅槃経』に説かれる沙羅双樹は、たしかにナツツバキではない。それは、インドで家具材などに利用されている、小さな5弁の淡黄色花をつけるフタバガキ科のサル、つまりショレア・ロブスタのことである。だが、それはそれ。日本の沙羅双樹はやはりナツツバキを置いて他にはない。

   また立ちかえる水無月の
   嘆きを誰にかたるべき
   沙羅のみづ枝に花さけば
   かなしき人の目ぞ見ゆる

 この美しい詩を佐藤春夫に書き送った芥川龍之介も、やはり白くはかないナツツバキの花に特別な思いを抱いていたのである。


   <ヤマボウシ>   山法師

 初夏は白い花の季節である。この季節、列車での旅が良い。目の位置が乗用車に乗っているときよりはるかに高いので、いろいろな樹木の花をながめる機会に恵まれるからである。
 銚子へ向かう列車が八街駅を過ぎる頃から、ふわっふわっと白いものが視界をよぎるようになる。林縁に咲くウツギの花である。木原、松崎の集落を過ぎれば、もう窓外は、さわやかな緑一色の世界である。その緑の中にときおり、ホウノキやエゴノキの白花が浮かび流れる。そして、日向駅にさしかかると、ひときわ白い花々で飾られた大きな樹が旅人の目を奪う。ヤマボウシである。

     夏ごとに木の暮れまぎれ見過ぐして
                       花やまぼうし白白しろし      鹿児島寿蔵

 ヤマボウシは、ミズキ科の高木で、純白の花弁のようにみえるのは、実は頭状花をとりまいた四枚の苞である。中国名の四照花は、この姿を表わしている。そういえば、無形丈化財紙塑人形の大家であり、歌人でもある鹿児島が木俣修たちと結成した会が四照花会であった。
 このヤマボウシは材が大変堅く、昔は農具の柄や杵や撞木を作るのに使われ、水車の歯車にも利用されたという。また、梅雨に入ると咲く花は、田植のめやすとなり、秋に赤く熱した果実はねっとりと甘く、子どもたちは喜んで食べた。山里の人々の生活に深くかかわってきた植物の一つである。
 ところで、ヤマボウシという名は尾張や美濃の方言で、実の形が“法師の頭” に似ているというのだが、長野、静岡以東ではヤマグワとかヤマッカなどの名で呼ばれることが多い。新潟以西の地では、おもに、イツキ、ウツキ、ウチギなどの名で呼ばれている。

     路の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻を

 この万葉の歌にある壱師(いちし)はエゴノキともヒガンバナともいわれるが、私はヤマボウシではないかと思う。つまり、最上の杵を意味するイツキの名がイチキを経てイチシとなったと考える。可愛い私の妻は、誰れもが知っているヤマボウシのあの純白の花のように美しい。こう詠いあげているのだと思うのである。


    <ムラサキシキブ>   紫式部

  京の町なかは、五日後に迫った祇園山鉾巡行のしたくと、絶え間なく行きかう人と車とで、いつになく騒然としていたが、今出川通と白川通とが交わるあたりともなると、さすがに古都の名にふさわしい静寂の世界となる。第四回国際植物系統分類学会での発表を昨夜すませた私は、ふとあの「哲学の道」が歩きたくなり、なごりの梅雨にけむる銀閣寺への小さな坂道を登った。哲学者西田幾多郎が愛したというその小道は、この坂の途中から如意ケ岳の裾を縫うように流れる琵琶湖疏水に沿って、若王子を経て南禅寺へと続く。
 葉桜の並木の下の清流にはマツモやネジレモが群生し、その間をみごとな婚姻色で身を飾った大きなアブラバヤが雌を追って走り抜けると、砂溜りで眠っていたカマツカが驚いて泳ぎだした。
 山側の石垣や土手には、なん種類ものシダが茂げり、ヤブカンゾウの橙色花やムクゲの白い花が小雨にしっとりと濡れて美しい。そんななかで、ひときわ私の目を引いたのは薄紫の小花を、しだれる枝に群れ咲かせたムラサキシキブであった。行きかう人とて無き古都の小道の雨中の散策が故の幻想か、それはまこと、かの平安の才媛紫式部の化身と見えた。

  こまごまとムラサキシキブの花咲きて
                      吾も匂はし森の陰の路      水町京子

 このクマツヅラ科の低木がいつの頃からこの名で呼ばれ始めたのか定かではないが、宝永六年刊の『大和本草』には「京ニテ紫シキミト云」とあり、約百三十年後の天保年間に書かれた『大和本草批正』に至って初めて紫式部の名が現われている。江戸時代後期の粋人たちが使い始めたのであろう。
 花もさることながら、中秋のころ実る瑠璃紫の、小粒でつややかな果実の美しさはまた格別である。一七八四年にかのチュンベリーが『日本植物誌』でこの低木をヨーロッパの人々に紹介したとき、カリカルパ・ヤポニカ(日本の美しい果実)という学名を使ったこともむべなるかなと思う。

    玉紫つづりし腕輪よろこびて紅葉山ゆく愛し子幼く        静



    <ネジバナ>    捩花

 東アジアの一隅に分布するこのラン科の多年草は、生物学的に見るとたいへん面白い存在である。どんな教科書でも、被子植物に共通する特徴の一つとして重複受精をあげるが、ネジバナには精核が一個しか形成されないので、この現象がおこらない。つまり重複受精をしない被子植物である。

 ネジバナはモジズリとも呼ばれるが、これは『伊勢物語』にある河原左大臣源融の歌、「みちのくのしのぶもじずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」の信夫文字摺を連想してつけられた名といわれる。しかしこれは忍草(しのぶくさ)、つまりシダ類の葉を布にすりつけて染めた捩れ乱れた模様のことで、草の名ではない。それよりも、花の形に由来し、捩連(ねじつれ)→ もじつれ→ もじずり、と変わってきたのではないだろうか。深沢七郎は『みちのくの人形たち』の冒頭にこの花を登場させ「ねじれた穂の淡い色は、ひそかな恋、ひそかな悶え、ひそかな怨み、ひそかなひがみ」と表現しているが、これはやはり『伊勢物語』のあの歌が念頭にあったにちがいない。
 記紀万葉の時代から鎌倉、室町にかけての人々がこの花をなんと呼んでいたのかは定かでない。だが江戸時代にはすでにモジズリの名があった。貝原益軒の『大和本草』のモジズリの項には「好事ノ人園ニウエテ玩賞ス」とある。また寺島良安の『和漢三才図絵』にも捩摺草の名で図示してあるが、不確かな絵で、ヤブランのように見えてしまう。しかし、一七五五年に出版された橘保国の『絵本野山草』に描かれた図はみごとにこの草の特徴をとらえている。「しんこ花」と名付けてあり、「花しのだち、くみ糸のごとき花、すへより咲き出し、白、ひらくほど紅いろ出る。見事なり。葉は秋筆草のごとく、地際にいずる」と記載されている。秋筆草とはツルボのことであろう。

 同属の植物は世界に広く分布していて、先年訪れたロンドン郊外の王立キュー植物園ではスピラリスネジバナが真珠色の小さな花を連ねていた。たいへん珍しいもので、ブリテン島ではすでに絶滅してしまったと聞いた。通りかかった職員に名前を聞くとレディーストゥレスだと教えてくれた。“ご婦人の編んだ髪”という意味で、黒髪を見慣れた私には奇異に聞こえたが、北欧系の人々には違和感はないのだろう。

     花蜂の羽音螺旋に巻きあがる梅雨の晴れ間のもじずりの花       静


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