SEIKA

野の花便り    盛夏 

琉球列島の梅雨は既に明けいよいよ本格的な夏ですが、人類が大量の化石燃料を無制限に使い続けているつけとして大気中の二酸化炭素濃度が上昇し、その温室効果が日本列島の気候や生物相をも大きく変えつつあるようです。従来の歳時記が役立たずになる日が近いのかもしれません。
その過渡期の記録、というのは大げさですが、遠州の夏の野の便りを書き綴りました。
お楽しみいただければ幸いです。

索引  アカメガシワ アキカラマツ アメリカオニアザミ アメリカデイゴ イチビ イヌガヤ イヌビユ
 イワダレソウ ウスゲチョウジタデ エノコログサ エンジュ オオケタデ オオニシキソウ
 オジギソウ オニドコロ オニユリ オミナエシ カクレミノ カラスウリ カラスザンショウ カラムシ
 カラムシ‐2 ガガイモ 季節外れのガマズミの花 ガンクビソウ キツネノカミソリ
 キリシマキツネノカミソリ キハギ  クサギ クサネム ゲンノショウコ コウボウムギ
 コウリンタンポポ コクチナシ コケオトギリ コニシキソウ コマツナギ コマツヨイグサ サカキ
 サギソウ ザクロ サネカズラの雌花 サンゴジュ シキミ  ジャノヒゲ センニンソウ ソクズ
 ソテツ タカサゴユリ タニジャコウソウ チョロギ ツリフネソウ ツルナ ツルレイシ
 テリハノイバラ トチバニンジン ナガエコミカンソウ ナガバギシギシ ナツズイセン ナツツバキ
 ナツフジ  ニラ ネムノキ  ノウゼンカズラ ハナイカダ ハマオモト ハマゴウ ハマスゲ
 ハマボウ ハマボッス ハンゲショウ ヒオウギ ヒマワリ ヒメクグ ヒメマツバボタン ヒルガオ 
 ヒロハコンロンカ  ヒョウタン フウラン フヨウ  ヘクソカズラ  ペクトラジ ママコノシリヌグイ
 マンリョウ ミソハギ ムラサキシキブ モッコク モミジアオイ ユウスゲ ヤゾウコゾウ(イヌマキ)
 ヤハズソウ ヤブガラシ ヤブガラシの花 ヤブミョウガ ヤブレガサ ヤマノイモ ヤマトミクリ
 ヤマユリ ユウガオ ヨルガオ ラセイタソウ 浜岡砂丘の花 

更新(追加):

10/07/03  イヌガヤ  10/07/08  ムラサキシキブ  10/07/11 フウラン
10/07/14  オミナエシ  10/07/25  シキミ  10/08/13 アカメガシワ
10/08/15 ソテツ   10/08/19 ナツフジ  10/08/24  キハギ
10/09/04 クサネム
11/07/04 ヤマトミクリ  11/07/10 ナツツバキ  11/07/19 ヒロハコンロンカ
11/07/27  ハナイカダ  11/08/02  エンジュ  11/08/09  ヒメクグ
11/08/15  ジャノヒゲ   11/08/19 サネカズラの雌花

July 1、2005: ヨルガオ

 ここ遠州の里では空梅雨を心配したほどの好天続きだったが、昨日から梅雨らしさが戻ってきた。
 日中は降ったり止んだりだったが、日が落ちる頃には西の空が薄紅に染まっていて、棚つくりのヨルガオの純白に近い大きな花がゆっくりと開き始めていた。
 ヨルガオは明治時代に観賞用に導入された南アメリカの熱帯地方が原産の朝顔の仲間である。花は月明かりに浮かび上がってよい香りを漂わせて夜行性の蛾のような昆虫類を誘う。英語圏ではムーンフラワーと呼ぶが、ヨルガオなどという無粋な名よりずっとましではないだろうか。
 あるフラワーショップで売っていたヨルガオの種子の袋には「白花夕顔」とあった。「夜顔」より雰囲気を捉えた名ではあるが、残念ながらユウガオはすでに別の植物の名として定着している。それはヒョウタンの変種でアフリカが原産地といわれ、干瓢を採るために栽培されているものである。

 メキシコや中央アメリカではゴムの木のラテックスを固めるためにヨルガオの絞り汁を加えていた。若芽は野菜としても利用できる。



July 2、 2005:  ハンゲショウ
 今日は夏至から数えて11日目、24節季のうちの半夏生である。昔から田植えを終える目安としていた。しかし、このところの四国から九州北部にかけては渇水で、田はひび割れてせっかく植えた若稲も気息奄々、ましてや改めての田植えどころではなかったのだが、幸いにして梅雨前線が南下して水不足は解消されるようだ。
 この季節、野に咲く花は初夏の頃に比べればずっと少なくなっているが、半夏生にあわせるように咲くのでハンゲあるいはハンゲショウと呼ばれる植物がある。サトイモ科のカラスビシャクのことである。
 中国では古来この植物を半夏に生えるので「半夏」と呼んでいて、唐の『新修本草』にある植物が日本の何に当たるかを考究したを平安時代の『本草和名』で、深江輔仁は「半夏」は保曾久美(ホソクビ)、つまり今に言うカラスビシャクだと正しく認識していた。
 下って江戸時代になると、やはりこの季節に咲く、古来「片白草」と呼ばれ一部の葉の下半分ほどに白い斑の入るドクダミ科の「半化粧」が「半夏草」と呼ばれるようになり、今ではこれがカラスビシャクに取って代わってハンゲショウの名で大手を振っているようだ。
      湯沸かしてつかはずにいる半夏生                  能村登四郎   
 これは咳止めなどに使われたカラスビシャク。
      夕つ方ここしまらくの片あかり半夏草白葉昏れなづみをり    横内菊枝
 こちらはハンゲショウである。


July 3、 2008:  サカキ  Cleyera japonica

 煙るような霧雨が降っては止み降っては止みしている。梅雨明けはまだ遠い先のようだ。
 駅北の日吉神社の参道に植えられたサカキに白い花が咲いていた。濃い霧が流れればその中に溶け込んで見失いそうな淡い柔らかな花であった。たくさんの雄蘂が乱雑についているさまはモッコクの花にも似ている。
 日本から中国南部を経てヒマラヤに暖地に分布するツバキ科の低木である。17種が知られているサカキ属の分布パターンは変わっていて、アジアにはサカキ1種だけで残りはすべてメキシコからパナマと西インド諸島に分布しているのである。かつては極東から北米にも分布する種があったのが氷河期に失われたのか、それともサカキと中米の種は別系統で、同属にするのは形に惑わされているのかもしれない。
 日本では古代から常緑性のサカキを神事に使ってきた。例えば、万葉集巻3の大伴坂上郎女の神を祭る歌にある賢木がサカキだという。日本の民間では夜泣きやものもらいのをサカキが治すといわれたようだが、ネパールでは切り傷の治療に樹皮の煎汁を使うという。
     立ちよりし結いの社や花榊    松尾いはほ



July 3、 2010: イヌガヤ Cephalotaxus harringtonia (Knight) K. Koch
 最近は天気予報が当てにならない。梅雨時というのは予報し泣かせなのだろう。
 今朝も予報と違って日が差したので、常葉の丘の麓を巡り、イヌガヤの雌花を初めて見ることができた。だが、やはり梅雨。霧雨にしっぽりと濡れての帰宅となった。
 イチイ科のカヤに似た実がつくが、苦く臭いも不快で食べられないのでイヌが頭に付いたものだが、古代から利用され植栽されていた。相模原市の縄文時代中期にあたる勝坂遺跡や南房総市の加茂遺跡などから出土した丸木弓がイヌガヤで作られ、函館市の縄文時代後期の著保内野遺跡からは見も出土している。実は油を搾るためだったのだろう。9世紀中葉の『延喜式』にある“閉美油”や“閉弥油”もイヌガヤから採った灯油だと考えられている。
 深津正著『燈用植物』によればイヌガヤ油は悪臭はあるものの冬でも凍らず、その明るさは抜きんでていたため、明治時代になっても航路標識船の灯りとして使われていたという。
 ちなみに、やや輪生する葉や溝のある枝から見て、画像の個体はチョウセンマキと呼ばれるイヌガヤの園芸品種である。品種名にもかかわらず、朝鮮には分布していない。思い違いの命名で、日本で生まれたものと考えられている。


July 4、 2005:  ザクロ
 禍福は糾える縄の如しというが、最近の日本では新潟を初めとして各地で禍ばかりが繰り返すように感じるのは私だけだろうか。福があっても小さすぎるからだろうか。
 瀬戸内の異常渇水は南下した梅雨前線のおかげで収まる事は収まったのだが、それと同時に今度は洪水や土砂崩れが頻発している。
 そんなさなかではあるが、昨日の東海地方の午前中は風もなく、ときどきこぼれる陽射しにザクロの赤い花びらと金色のオシベが輝いていた。
 ザクロの原産地はバルカン半島からヒマラヤ西部にかけての、いわゆる西域である。いまでもアルゼバイジャンの河谷やカスピ海沿岸の砂丘地帯には自生するザクロの林が茂る。彼の地ではザクロは人々の渇いた喉を潤す貴重な果樹であるとともに果皮に多量に含まれるタンニンで皮をなめし、花の色素を染料として利用している。
 また西域では無数の種子を持つザクロは豊穣多産を象徴する”吉祥果”でもあった。


July 4、 2011: ヤマトミクリ Sparganium fallax Graebn

     沼の上に生ふる三稜草の茎なかに
                 けだしや夏はたけにけらしも    尾山篤二郎

 遠い昔たしかに通った憶えのある、だがいまは夏草が茂り踏み跡すらおぼろげになっている谷津田の奥をつめて登ると、あたかもタイムマシンのドアを開けたかのように、少年のころ見たと変わらぬ佇まいの、雑木林に囲まれた溜池が現れた。
 その水際に下りると、絶滅危惧Ⅱ類に指定されているヤマトミクリがやがて毬栗のような形に変わる丸い雌花塊とパフのような雄花を連ねた花穂を立てていた。
 日本には現在7種のミクリ属の水草が知られているが、浮上葉しか持たない種を除けば何れもよく似ていて、花や実がなければ識別は困難で、ふつう“実栗”と総称している。
 実栗(みくり)は平安時代の『本草和名』に漢名三稜草、和名美久利として登場し、『源氏物語』、『枕草子』、『古今和歌六帖』などにもその名があるが、これらがミクリかヤマトミクリかナガエミクリかはいまとなっては特定できない。
 漢方ではこの仲間の根茎を止痛・止血の効能があるとして三稜の名で処方するという。

 水面の揺らぎに目を上げるとカルガモが2羽のんびりと通り過ぎていった。
 

 8日前就任した松本龍復興担当相の岩手県知事に対する恫喝的発言には胸が悪くなった。復興は俺の匙加減一つでどうにでもなるのだぞ、憶えておけ、といったのだ。
 おまけに、マスコミに対しての「これはオフレコだぞ、書いた社は終りだと思え」という発言には、今の大臣の質の低さを思い知らされた。



July 5、 2009: ヤブガラシ Cayratia japonica

  さみだれの雨にのびゆく鳥蘞苺
         竹垣こえて縄になりつつ  岡 麓
 藪を枯らしてしまうほど旺盛な繁殖力があるのでヤブガラシの名があるというが、アメリカで“悪魔の蔓”と呼ばれるようになったクズほどには茂ることはない。伸び盛りの柔らかな若芽は湯がいて和え物にしたりして食用されるが、漢方では“鳥蘞苺”という名で腫れ物や虫刺されに効く生薬として根茎を利用している。
 小さな花で、目に留める人は少ないようだが、よく見ると何かおかしい。何かが足りないような気がする。今にも開きそうな蕾はたくさん付いているのだか、花びららしきものが見当たらないのである。小さな小さなオレンジ色のキャンドルのような形の、つんとめしべを立てた花盤が目に止まるだけである。しかしさらに仔細に観察すると、花序の下の鳥足型葉の上に緑色の細片が散っている。そう、ブドウ科の花のほとんどに共通する性質で、蕾が開くと間もなく花びらは散ってしまうのであった。
    学荒ぶヒマラヤシーダ藪からし  草田男
 あれからすでに40年、休講の続く夏のキャンパスの片隅でヤブガラシの天麩羅を食べていたことが思い出される。



July 6、 2005:  ナガエコミカンソウ
 今年になって急にわが家の庭で目立つようになった野草がある。ナガエコミカンソウという名のトウダイグサ科の一年草である。
 近隣では未だ見かけないので、一昨年の春に購入して温室で栽培していた東アフリカが原産のザミオカルカス・ザミイフォリアというサトイモ科の植物の鉢に生えた一株の子孫に違いない。
 ナガエコミカンソウという名は、この写真からもわかるように雌花の柄が長く10mm近くもあることに因んだものであるが、原産地はこれも東アフリカでモザンビークやタンザニア辺りということになっている。つまり帰化植物の一つである。
 日本で最初に記録されたのは20年ほど前の1987年で、神奈川県でのことだが、その後は関東地方以西の本州、九州から沖縄県にわたって発見されているそうで、都市部を核に急速に分布を広げている。
 わが家での激しいほどの殖え方を見れば、なるほどとうなづける。
 ところで、この草を眺めている私も、10数万年前に東アフリカを出ていまや地球全域を多い尽くす勢いの、ホモ・サピエンスという生き物の一匹ではある。


July 7、 2009:  ネムノキ Albizia julibrissin
 昨夜の激しい雨で増水して黄土色に濁った西方川の水辺のネムノキが花盛りだった。眠って折りたたまれていた灰緑色の大きな複葉はすでに目覚めて朝日を喜んでいるようだった。

 親しきはうすくれなゐの合歓の花
      むらがり匂ふ旅のやどりに   斎藤茂吉

 遠い遠い昔、“伊豆の踊り子”に出会うことを期待して湯ヶ島世古狭のほとりの宿で一夜を過ごしたことがある。
 窓框に腰を落とし、淡く紫陽花のすかし模様のあるガラス戸を引くと、漆黒の闇の底から、岩と打ち合う水音を抜けて、河鹿の澄んだ声が聞こえてきた。吹き上がってくる沢風が、心地よく美酒にほてった頬を撫でていった。その風の来る眼下の闇の中の、部屋からもれる灯りがかろうじて届くあたりに、いくつもの薄桃色の毛玉のような花が咲いていた。 合歓の花であった。
 結局のところ、可愛い踊り子さんとの出合はなかったが、心休まる旅ではあった。


July 8、 2008:  ヤマユリ  Lilium aurantum
 降りそうで降らず、さりとていつ降り出すか心配な空模様の朝、傘を持って散歩に出た。
 丘陵地に拓かれた住宅地の中に取り残されている緑の小島の斜面に数株のヤマユリ(Lilium auratum)が咲き始めていた。
 振り仰ぐと重みのある甘い香りが降りてきた。
 遠い昔、恋い知り初めしころ、草いきれの立ち上る夏の草原の中でこの香りを聞いたときは、ロマンチックなそして少しはエロティックな世界に身を置く自分を想像したものだが、老いの身にはタイムトラベルへといざなう香りである。
 詩歌や小説を読むと、この花は人々にさまざまな思いを抱かせることがわかるが、「山百合のゆたけき蕾六つに裂けて咲きぬる見れば世は事もなし」と詠んだ若山喜志子にとっては平和の象徴と映ったのであろうか。
 だが私の住む世は“事”が氾濫している。“事もなし”といえる日常が渇望される。
 
 ヤマユリは近畿地方以東の低山帯に分布している日本特産種である。鱗茎は百合根と呼ばれ、古代から食用されてきた。


July 8、 2010: ムラサキシキブ  Callicarpa japonica Thunb. 
 高度成長期と呼ばれる時代に、丘陵の傾斜地に広がっていたかつての雑木林を切り開いて作られた市営の公園は、バブルの弾けた後の今となっては、保守管理もままならず、ところどころが元の植生に戻りかかっている。ある意味では喜ばしい。

 そんな藪の中にムラサキシキブが咲いていた。

 対生する花茎は1回2回と二叉分枝しし、それぞれの先端に淡い桃色の小花を5つ6つと咲かせている。側に可愛いオチビさんでもいれば、ちょっと失礼して髪に飾ってあげたくなるような、そんな花である。
 この花木を紫式部と名づけた御仁は源氏物語絵図のなかの内裏の庭先に、にこの可愛い花を咲かせている小枝を書き加えたかったのかもしれない。
 
 霧雨にけむる岡辺の藪影に
           咲く紫の式部やさしも   静
 間もなく参院選投票日である。政治屋たちは無責任きわまる発言に自己陶酔している。政治屋ばかりではない、同じように無責任な思慮の感じられない発言をたれ流すマスコミにも失望の感が増すばかりである。自らが厄介ごとに巻き込まれないように汲々としているようだ。その一例が「ザ・コーブ」の件。NHKでは“クローズアップ現代”で断片的な映像と右翼や市民の発言を流すだけで、自分たちは何も主張しない。市井の映画館経営者に上映を押しつつけるだけで、なぜ自局で全編を放映しないのか。現代日本の縮図でもある。


July 8、 2009: ヤブガラシの花 Flowers of Cayratia japonica

 今朝の散歩の途中、先日から探していた開花直後の花にやっと出会えた。道端のフェンスに絡んだヤブガラシの花序の中にぽつんと一つだけ咲いていた、
 その姿は、想っていたよりもはるかに瀟洒で、職人さんが腕を振るった和菓子を連想させた。
 4枚の長さ3mmほどでスプーン状の緑の花弁に紅で染めた餅のような花盤が抱かれていて、その中央に立つ黄色のメシベを小さな小さな動物のようなオシベが四方から覗きこんでいる。造化の妙である。
 写真に収めた後、そっと花びらに触れてみると、ほろりとこぼれた。
 赤い花盤は間もなくオレンジ色となり、やがて色褪せ、丸くて黒い実が熟す。



July 9、 2005:  コクチナシ
 今朝の天気予報では、雨になるのは日が落ちてからということだったが、11時頃になると断続的に霧雨が風に運ばれてきて、古庭の梢からは滴がこぼれ始め、その木下闇にひそやかに咲いたコクチナシの純白の花びらにも、表面張力の緊縛から逃れる寸前にまでに盛り上がった水玉が乗った。
 コクチナシは日本に自生するクチナシの変種として分類されているが、中国が原産地で水梔と呼ばれる。日本に入った時期は判然としていないが、江戸時代には既にコクチナシの名で呼ばれていた。貝原益軒は『大和本草』に「・・・・小なり。花小にして千葉なり。香よし、・・・・梅雨の中、花多くひらく。・・・・」と書いている。
 宵闇の中に放たれる甘い香りは、ホウジャクなどの大型の蛾に花粉を運んでもらい子孫を繁栄させるためだが、人間にも好まれて、遠く異国の地までも運んでもらえるとは思いもかけないことだったろう。
 クチナシは香りが高いだけでなく、果実からは繊維を染めたり食べものを着色したりする色素がとれ、薬としても利用できるが、世界に200種以上もある仲間の内には、アフリカ熱帯のテルニフォリア・クチナシのように矢毒に使われるものもある。


July 10、 2007: ハマボウ

 きぞの夜の夢はかなめるわが目には
       淡黄色なるはまぼうがあはれ   木村流二郎

 木村が見たその夢に想いをはせるのは心休まることなのだが、梅雨の晴れ間に訪れた、遠州灘に河口を開いた弁財天川の、その岸辺に咲いていた淡黄色のハマボウはまったく別の意味で哀れであった。
 私が最初に出会ったハマボウは、小笠原父島のコペペの白砂の浜に鬱蒼と茂って、明るい黄色の重量感のある花を群れ咲かせていた。その姿に比べると、魚影もなく淀んだ川岸に廃プラを絡めて、それでも美しい花を枝先に咲かせている姿は哀れであった。目の前の砂丘では巨大な風力発電機が低音でうめきながら廻っていた。
 ひとたびヒトという生き物の生活圏に飲み込まれれば、草木も獣も水界の生き物たちもなべて本来の姿や暮らしを保つことはもはや不可能である。なんという傍迷惑な生き物なのだろう、ヒトは。
 おまけにヒトは他の生物だけでなく同類をも苦しめる。戦争やテロはそのさいたるものであるが、日常の経済活動や政治も平然ともっともらしい理屈のもとに弱者を痛めつける。
 最たる哀れな存在はヒトそのものかもしれない。



July 10、 2011: ナツツバキ Stewartia pseudo-cameria Maxim.

 なにとはなく、水無月のけむるように降る雨の中の古刹の暗い庭に咲くのが似つかわしいと思っていたナツツバキが、梅雨明けのまぶしい光を避けるようにして、小さな尼寺の片隅で香っていた。

             朝咲きて夕には散る沙羅の木の花の盛りを見れば悲しも      天田愚庵

 釈迦が入滅のときを迎えたその床に白く散り敷いたと伝えられた沙羅の樹こそ、日本の白い花の季節にひときわ目立ち、一夜にして散り敷いてやがて苔の褥の上で朽ちてゆくこのナツツバキに違いないと最初に思い至ったのは誰だったのだろう。今となっては知るすべもない。
 ナツツバキが沙羅双樹だとはっきりと記されるようになるのは江戸時代になってからで、『大和本草』の“沙羅樹”の項には「大坂ナドニアリ、葉ハ榎又柿ニ似テ、花白シ、朝ニ開キユウベニシボム、花大ナリ、夏花サク、是真ニ沙羅樹ナリ、・・・・」とある。
 だが、『平家物語』の作者は、あの人々の心に深く刻まれる「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 奢れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し・・・・・」と記し始めたとき、すでに沙羅はナツツバキと思い定めていたような気がする。

                   花を拾へばはなびらとなり沙羅双樹      加藤楸邨
 
 はらりと散ったばかりの花を拾い上げようとすると、それぞれに雄蕊の束をつけたままの5枚の花びらに分かれてしまう。

              生まれては死ぬ理を示すちふ沙羅の木の花美しきかも      天田愚庵


July 11、 2005:  浜岡砂丘の花

 海辺の花に会いたくなって30年振りに浜岡の砂丘を訪れた。そして、そのあまりの変わりように言葉を失った。
 双山あった砂丘は内側のそれの一部が昔の面影をとどめるのみで、前の丘は無残にも削られてしまい、波打ち際にはテトラポッドが延々と連なっていた。強い風に霧のようになって舞う汐飛沫に霞んだ丘の彼方には原子力発電所の4本の白い排気塔が墓標のように立っていた。
 丘が消えたのは大井川や天竜川から遠州灘へと流れ出していた土砂がダムに遮られたのが最大の要因だという。だが、ザクリと削られた前砂丘の尾根の部分は砂ではなく、原発を建てたとき排出された残土が敷き詰められ、水はけが悪いためあちこちに湿地ができていた。砂丘を押しつぶして出来た土砂の丘だった。その土砂の厚さは海側から見ると、場所によっては数メートルもあった。
 昔日の砂丘には日ごとに変わる美しい風紋が描かれていたが、それは今、私の記憶のなかのみに残る風景となってしまっていた。
 そんな変わり果てた砂丘にも、厳しい環境に適応して生きている花たちの姿があった。

ハマボッス イワダレソウ コウボウムギ
 かつては松林の中の白い砂の道を歩いているうちにいつのまにか砂丘を登っていた筈だが、今その辺りは舗装された道で、その突き当りには数軒の茶店と駐車場になっていて、そこが砂丘への入り口だった。
 竹を編んだ砂止めで仕切られた砂丘への登りはあっけないほど短く、鞍部に出ると目前に遠州灘が白波を立てて寄せていた。
 砂丘の上は、いまでは白いさらさらとした風紋が生まれるような砂地ではなく、小砂利と黒い土と砂が混じり合っていたが、浜辺にはちがいなくそこに生える草たちの葉の上には点々と細かな塩の結晶が光っていた。
 梅雨明けも間近ないまは、多くの花は咲き終わっていたが、先ずはサクラソウ科の
ハマボッス(左の写真)の残り花に会えた。その隣には世界中の海辺で目にすることの出来るクマツズラ科のイワダレソウ(中央の写真)が元気よくマット状に広がり、こちらは今を盛りと直径が2mmほどの小花を花穂の先に咲かせていた。その向こうのこんもりとした砂の山には、もう熟した種子を宿した、筆先のようなコウボウムギ(右の写真)の穂が立っていた。名前にムギが付くが、イネ科ではなくカヤツリグサ科である。

ツルナ テリハノイバラ ラセイタソウ
 しばらく行くと、侵食が激しく、たぶん少しでも強い雨風があるたびに崩れているであろう砂丘の切り傷のような場所があり、その内陸側には植栽されて程ないと思われる松林がネットフェンスで囲まれていた。この心細い狭隘な場所にも、植物たちがつかの間の茂みを作っていた。
 フェンスに吹き溜まる砂に負けじとツルナ科のツルナ
(左の写真)が大きな株に育ち、咲き残った花をつけたテリハノイバラ(中央の写真)が地表に太くたくましい茎を這わせていた。そして、潮風を激しく受ける海に面した斜面には緑の羅紗布のような肉厚の葉の間から、乳白色の花穂を突き出したイラクサ科のラセイタソウ(右の写真)がいく株も生えていた。


July 11、 2010: フウラン  Neofinetia falcata (Thunb.) Hu
   風蘭に隠れし風の見えにけり   後藤比奈夫

 庭の片隅で、草友から分けてもらったフウランが咲いている。 肌にまとわりついていた湿った空気が流れる気配がすると、ファインダーの中の白い花がかすかに揺れた。

    風蘭の虫形の花霧呼べり     関森勝夫

 江戸時代後期、19世紀の初めに活躍した思想家の佐藤信淵 が著した『草木六部耕種法』に「風蘭ハ九州土州紀州伊豆房州等ニ多シ、風ノ能ク徹ル處ノ樹木ニ結ビ付テ置モ、能ク繁榮シテ皮ニ根ヲ纏ヒ、籠ニ入レテ釣置モ宜シ、此亦花開トキハ香気最モ愛スベシ」と記されるように、栽培のしやすさもあって昔から親しまれていた着生ランの一つである。
 私がこのランの名を憶えたのは小学生の頃だった。区画整理で今は跡形もないが、我が家の庭のマキの古木に着生し、毎年この季節になると白く香っていたことを思い出す。
    風蘭の花垂るゝ簷や遠雷す   富安風生


July 12、 2009: カラスザンショウ  Zanthoxylum ailanthoides
 今にも雨粒が落ちてきそうな空だったが、二人でいつもの朝の散歩に出た。
 常葉山の木々は中天の陽さえ遮るほどに茂り、森を抜ける早朝の散歩道にはまだ闇が残っていた。その闇の薄れるあたり、谷底から伸び上がってきたカラスザンショウの梢の先に、米粒ほどの薄緑色の蕾をびっしりとつけた花茎が立ち上がっていた。
 カラスザンショウは東北地方以南の2次林に生えるミカン科の高木で、韓国・中国からフィリピンにまで分布している。和名の由来は牧野図鑑によるとカラスが好んでこの実を食べるからだという。しかし私はまだそのようすを見たことがない。
 日本では昔は下駄材として利用していたので静岡にはゲタバラという呼び名がある。バラというのはこの若木には鋭い棘が密生しているからで、遠州ではタラノキ同様シビトバラと呼ばれる。
 一方、中国では葉の形がセンダンに似ている山椒の仲間という意味で“樗葉花椒”という。日本では利用されていないが、果皮は香料の原料、種子からは油を搾って利用している。
 話は飛ぶが、朝の森の中の日の差す場所とその奥の暗い影とを抜けながら、昨日天声人語氏が紹介していたウイズ・エイジングという考え方のことを想った。彼は“ウイズ・エイジング”を「高齢社会の厳しい現実の中でこそ、広まってほしい言葉である」と締めくくっているが、光の当たらぬ場所で老いてゆく多くの高齢者にはむなしく響くのみであろう。


July 13、 2005:  モッコク

 一週間ほど前に、蕾のたくさん付いたモッコクの木を見つけたので、今年こそは咲きたてのしゃんとした花を撮るつもりでいたのに、またもや機を逸して、カメラをもって出かけたときには残り花が一つ二つ咲いているだけだった。
 モッコクは木斛と書く。その花の香りがランの1種の石斛(セッコク)のそれに似ている木ということでこの名が付いたという。日本では千葉県以西の沿海部に多い常緑高木で大きなものは樹高が10mにもなるが、樹形がよく光沢のある葉身と臙脂色の葉柄の取り合わせが美しいため東海地方では庭木として好まれている。分布は広く、中国南部から東南アジアにもあり、中国では厚皮香と呼ばれている。
 雄花と雌花があり、写真は後者である。花糸が極端の短いので葯は花弁に直接付いているように見える。子房は薄緑色でその先に瘤状の柱頭が乗っている。雄花では子房が形成されず葯だけが密集している。
 樹皮を潰したものは草木染の染料になり、アルカリ媒染で赤茶、鉄媒染で紫鼠、銅媒染で茶色に染めることが出来る。中国では秋に熟す美しい紅色をした種子を絞って工業用の油を採るそうだ。



July 14、2004  イチビ
 今年、梅雨に入る少し前に近所の古い家が取り壊された。その猫の額ほどの空き地に、人の背丈ほどの、小さな黄色の花を咲かせた見慣れぬ草が群生していた。近寄ってみるとアオイ科のイチビだった。
 家に戻って図鑑を繰って学名を調べると Abutilon theophrastis とある。近ごろあちこちの家で栽培されているアブチロンの仲間だとは知らなかった。インド原産で強害雑草だと書いてある。強害という日本語も初めて知った。昔は繊維をとるために栽培したそうだが、いまや畑作の強敵に変じたそうだ。この写真の株は近年輸入穀物に混じって進入したもので、熟した果実は黒く色づく。1800年代に日本で採集されたものは果実は茶色に熟し、現代のものとは別系統だという。

  勉強になりました。


July 14、 2010: オミナエシ Patrinia scabiosaefolia Fisch.
 牧の原台地の西斜面を縫う、富士山静岡空港へと続く吉田大東線が横切る赤松の疎林に、梅雨の風に揺れてオミナエシが咲いていた。

   ひょろひょろと尚露けしやをみなへし    芭蕉

 絶滅危惧種には挙げられてはいないが、最近の里山では滅多に出会えなくなった花の一つである。原因は定かではないが、人手が入らなくなって、こぼれた種の発芽成長が思うに任せなくなったのではないだろうか。
 というのも、庭に植えて観察しているかぎり、この植物の繁殖力はかなりのものである。散布能力が高いといわれるオトコエシと違って種子には翼がほとんどないものの、親株から20m近く離れた場所にも子株が現れる。しかも、実生個体の数は多い。また、興味深いのは厳冬期をのぞけば、年間を通じて次々と発芽してくる。これは、庭のように除草され表土が撹乱される場所だからだろう。手入れのされない里山の草地ではこの能力も発揮できないのであろう。


 わが里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり    巻10-2279


 山上憶良が乞巧奠の祭壇に飾る七草の一つとして選んだオミナエシは、草原に揺れるその優しげな風情が古代から日本人の心を捉え、たおやかで寂しげな美しい女性を連想させていたようだ。
 単身赴任中の男と深く契った都の女が、帰郷して文もよこさぬ男の住む山城国の男山を訪ねたものの、本妻の存在を知り、悲しみの果て放生川に身を投げ、その岸辺に残された山吹襲の衣の朽ちた後からオミナエシが生えてきた、という言い伝えをもとに作られた世阿弥の謡曲『女郎花』も、このようなオミナエシの印象から生まれたものであろう。



July 15、2004:  ウスゲチョウジタデ

  今日も猛暑で、エアコンの室外温度の表示が37℃にもなって驚かされた。梅雨明け以来の日照り続きは当然のことだが、野の花たちにとっても過酷な日々だろう。
 日が高くなる前に、いつも通る散歩道に沿った小さな湿地で、この花を見つけた。私にとっては初めて出逢う花だ。全体の雰囲気からアカバナ科のものではないかと思ったのだが、5枚の花びらと5本の雄しべが腑に落ちない。
 帰宅して調べてみると、やはりアカバナ科の植物で、ウスゲチョウジタデ(Ludwigia greatrexii Hara)だった。東海地方では比較的珍しいものらしい。チョウジタデ属には75種ほどが知られているそうで、その多くは中南米に分布するそうだ。花の構造は4数性のものが多いが、属としてみると3~6数性だと書いてあった。



July 16、 2005:  モミジアオイ

 昨年より少し遅れたが、九州四国方面では梅雨明けが宣言された。台風4号の行方にも関わるだろうが、東海地方も間もなくだろう。
 庭ではモミジアオイが咲き出した。

       花びらの日裏日表紅蜀葵     高浜年尾

 葉の形がモミジのそれに似ているモミジアオイは、俳諧の世界では何故か紅葉葵ではなく紅蜀葵と表記される。
 原産地は北米東南部、ジョージア州からフロリダ州にかけての主に川沿いの湿地帯に生育している。そのためスワンプ・ハイビスカスとも呼ばれる。日本に入ったのは明治時代だそうだが、昭和の初めには全国的に広まっていたようだ。
 私はこの花を見ると、少年時代に防空壕の入り口から恐る恐る覗き見した青い空と飛行雲をいく筋も引いてきらきらと光りながら音もなく通り過ぎてゆくB29の編隊を背景に真っ赤なこの花が咲いていた、あのときのことを思い出す。



July 17、 2005:  ハマオモト

 文部科学相がまたぞろ、当該者は言うにおよばず、多くの女性の心を逆なでにするような発言を繰り返した。「従軍慰安婦という言葉は当時存在しなかった」「自虐的歴史観の産物である」、だからなんだというのだろう。多くの女性を襲ったこの悲劇があったことは否定できない事実である。この事実に対しカナダに留学中の20歳の女性から彼に寄せられた、”あれは、戦地にある男の心を慰め休息と秩序をもたらすプライドを持って取り組めた職業だった”というような主旨の励ましメールを公開の席で紹介し「感銘を受けた」と語ったという。そして、彼はいまだに大臣の席にいる。これが平成17年の日本の夏である。
 海辺から連れてこられたハマオモトが、潮の香などするはずもない街中の公園で、未だ梅雨のあけない空から射す薄い陽を受けて咲き始めていた。純白で甘い香りを放つこの花は、本来育つべき明るい海辺であれば、清楚な乙女の化身と見えるのかもしれないが、内陸の街中では何故か寂しそうだった。
 赤い丸印こそないが、細い白妙のような花びらは、60年前のちょうどこの季節に牧の原航空隊から知覧へと旅立っていった神風特攻要員の兄貴たちが額に巻いた鉢巻を思い起こさせた。



July 18、2004:  ハマスゲ (コウブシ)

 私のささやかなリコリスガーデンに入り込んできたハマスゲ(Cyperis rotundus)は、大方の雑草が乾燥と暑さで気息奄々となっている中、一人気を吐いて、青々と茂ってくる。地中では元気よく白い地下茎が伸びている。引き抜いても、小さな塊茎が残ることが多く、根絶やしは難しい。放っておいても問題はないのかもしれないが、リコリスの球根の花芽形成が邪魔されそうな気がして、ついむなしい努力をしてしまう。影響があるかないかは対照実験をすればよいことだが、それもしないで引き抜きに熱中する自分は、考えてみれば情けない存在だ。
 全世界の熱帯から暖帯に広く分布していて、綿・トウモロコシ・稲・サトウキビや野菜畑の有害雑草として名高い存在である。そのため、この草の生育特性などは詳しく研究されていて、肥料要求が極めて高い(つまり作物のための肥料を横取りする)ことや塊茎から他の植物の成長を阻害する物質を放出することも報告されている。 一方、塊茎には独特の香りがあり、「香附子」の名で呼ばれ、消化器の痛み止めなど薬効があるそうだ。インドネシアで月経不順や尿路結石に利く薬としている「テキ」もこの塊茎である。古代ローマでは「Radix Junci 」と呼び、香水の素材にし、インドでも髪や衣類に使う香料としたそうだ。澱粉が含まれるので救荒食とした記録もある。
 そんなわけで、国ごとにいろいろな名があり、例えば日本には20以上、アルゼンチンには17以上の呼び名が知られている。



July 19、 2005:  ペクトラジ (白桔梗)
 典型的な青紫色のキキョウに少し遅れて、白花のキキョウが咲き始めた。
 梅雨明けの強烈な日差しの下ではそこだけに涼しい風が渡っているのではないかと思わせるような清楚な趣がある。しかし日本人の多くはなぜか青紫の花でないとキキョウのような気がしないという。
 ところが、韓国の人たちは、この白い花こそキキョウを代表するもののように思っているようだ。そして彼らはキキョウ、すなわちトラジが登場する古代からの民謡を今も心から愛している。
 ♪トラジ、トラジ、トーラージ・・・・♪と始まる私たちがよく知っている歌にも「白いトラジの花見つめて 母を偲ぶ黄昏 星は優しく揺れるよ」と歌われる。白花のキキョウ、ペクトラジは純白のチマチョゴリをまとった優しいオモニの化身のように思われるのであろうか。
 最近知ったハン・ドルさん作詞作曲の『トラジッコ(トラジの花)』は辛い歌だ。強制連行され慰安婦にされた娘さんたちを日本軍兵士が無神経にもトラジッコと呼んだそうだ。その娘さんたちの望郷の歌である。
 故郷のオモニ、故郷の美しい月、懐かしい山河、すべて海原の彼方である。


July 19、 2011: ヒロハコンロンカ Mussaenda shikokiana Makino
 今日は富士山のシャクナゲを見に出かける予定だったが、大型台風6号が四国に上陸の気配で、中止。東海地方でも時折り激しい雨が通り過ぎて行く。
 というわけで、今日は一日中PCに向かう時間ができ、数日前に撮った画像の整理を始めることができた。
 この画像はそのうちの一つ。鹿島神社の切通しに生えていたヒロハコンロンカである。
 昨年の散歩の途中でこの低木を目にしたときには、私はヒロハコンロンカなるものの存在を知らなかったので、どこかの庭から逃げ出してきた西南諸島以南に分布しているコンロンカ(Mussaenda parviflora miq.) だと思い、温暖化もここまで来たのだねと家人と語り合ったものだ。
 ところが、先日おなじ場所で開花が始まっているこの低木に出合ったとき、ふと違和感を覚えた。枝を手にとってよく見ると、コンロンカよりやや葉の幅が広く托葉の形も少し違うようだ。

 帰宅して図鑑などで調べてみるとヒロハコンロンカなる珍しいものだった。
 静岡県の伊豆半島が北限で九州まで散発的に分布するアカネ科の低木で、牧野富太郎が発見して1904年に新種として発表している。 現在は個体数も少なくなっていて四国と九州では絶滅危惧種である。コンロンカは雌雄異株だが、大阪府立博物館の内貴章世の報告(2008)によるとヒロハコンロンカは自家受粉ができる雌雄同株である。形態は大変よくにた2種だが、このような繁殖様式の違いが降霜地への進出を可能にしたのだろうか。


July 20、2004:  ヤブミョウガ
 今日は日影が多そうな「虹の丘」への道を歩いてみた。 かつては照葉樹の多い雑木の林で覆われていた場所だが、いまでは急な傾斜地をのぞいて、艶やかな緑がまぶしい茶畑になっていた。それでも、北面の八幡神社の周りには、未だ古木のある林が残され、しっとりとした林床が山草を育んでいた。
 純白の花穂が美しいヤブミョウガ(Pollia japonica)も、この小さな林に住んでいた。ツユクサ科のヤブミョウガ属には18種が知られていて、17種がアフリカの熱帯からアジアとオーストラリアに分布している。残る1種は遠く離れたパナマから報告されている。不思議な分布のパターンだ。
 ヤブミョウガそのものは日本では関東以西で見られるが、台湾、中国、韓国にも分布している。和名は漢字で書けば藪茗荷で、葉の形がショウガ科の茗荷に似ていて藪に生えるという意味だ。実は丸く、若いうちは白いが、やがて鉛色となり、熟せばは明るい青色となり美しい。中には1mmほどの細かなタネが20粒ていど入っている。

  竹の根にほのかな花が咲いてるといふ
              まことにほのかな藪茗荷の花     北原白秋



July 21、 2007: ヤブレガサ Syneilesis palmata
 やぶれがさむらがり生ひぬ梅雨の中   水原秋桜子

 丘の斜面の草むらの中からヤブレガサの灰色の花序が突き出ていた。名の由来の破れた傘のような葉は茂る草の中に隠れてしまっている。
 左側の写真が典型的な花の形だが、よく見ると同じ個体なのに右側のような花をつけた花茎もあった。図鑑などを見てもこのような2型性には触れていない。ウイルスなどに感染した結果の奇形だろうか。
 本州、四国、九州と韓国にも分布するキク科の多年草で、伸び始めの柔らかな毛で覆われた葉は天婦羅やお浸しにして食べることができる。
 深く切れ込んだ葉の形が独特で、いろいろな里呼び名で知られる。遠州ではカエルノコシカケ、駿河ではウサギコーモリと呼ぶ。後者は中国名の兎児傘という呼称と同じ発想で面白い。キツネノカサ、サルノカラカサ、ヘビノカサなどなど、動物の名をつけたものも多い。しかし、信州のヨメノカサはお嫁さんがいじめられているようで可哀相だ。


July 22、 2005:  イヌビユ
 宇宙の年齢とかその広さについての理論を理解することは私には至難の業で、いまでも解説される最新の数値を「そういうことになりましたか」と鵜呑みにしているというのが正直なところである。そうなのではあるが、なぜか宇宙についての情報には心ときめかされるものがある。
 今日も朝刊に「最も暗い銀河 スバルが撮影」という記事があった。約100億光年の彼方にある24.7等級の明るさの銀河を赤外線で撮影するのに成功したそうだ。肉眼で見える限界の明るさの3000万分の1というかすかな光を捉えることに成功した世界記録だそうだ。つまり、この記事は宇宙の神秘についてというのではなく、日本の研究者たちのハイテクを誇るものだったので、研究者さんたちには申し訳ないがちょっと拍子抜けしたことは否めない。
 しかし、100億光年という数値はこの記事の内容とはまた別の面白さがある。ビッグバン理論が正しいとすると宇宙の年齢は100億ないしは120億年だということで、とすればこの銀河は宇宙が誕生して間もなく形成されたもので、それを今我々は目の当たりにしているのだ。100億年後の現在の宇宙ではこの銀河はどんな姿に変わっているのだろう。もはや存在しない確率の方が高そうだが、それは今後100億年を経なければ知ることはかなわないのだ。それまで人類が存続し続けることはありそうもない。「知るのは誰か」と想像するのも楽しい。
 そんな楽しい思索をしながらいつもの道を歩くと、路傍に茂る夏草の中から渋い緑褐色の花穂を青い空に向かって突き上げているイヌビユに出遭った。
 イヌビユが今の姿になったのは何百万年も昔であろうが、その命の出発点は私たちそしてこの星の生きとし生けるものと同じく、地球上に最初の生命が出現したおよそ40億年も前に始まっているのだなあと、あらためてその時の流れの長大さに心震えた。



July 23、2004:  アメリカオニアザミ

  ここのところ、激暑という言葉を使いたいほどの日々がが続いている。雨もずっと降っていないので、外歩きは油のひいてないフライパンの上に乗せられた心地がするほどだ。タフな草で知られるメヒシバもスベリヒユも水気をなくして元気がない。
 日が少し傾いたころ、意を決して野に出てみた。
 雨待ちで、すっかり萎えてはいるが、それでも緑は保たれている草むらの中に鮮やかなピンクの花が咲いているアザミがあった。近寄って不用意に葉に触れ、鋭い痛みに思わず声を上げた。あの悪名高いアメリカオニアザミ(Cirsium vulgare)だった。ヨーロッパ原産で戦後に帰化したといわれている。北海道には多く、家畜が負傷するので問題になっていると聞いた。
 タンポポのそれより少し大きなパラシュートを付けた種子が旅立った後には、白く輝く硬い鱗片が残るが、これもけっこう美しい。



July 24、 2005: コケオトギリ
 先日までガマやアシやタデの仲間などが茂っていた休耕田がさっぱりと刈り払われて、それまで隠れていた、というより私が気づかずにいた、背の低い草ぐさが眩しそうに朝の日を浴びている。
 そのうちでも取り分けて背が低く、長さは数ミリの卵形で黄緑色の葉を方形の赤味を帯びた茎に対生させ、そして直径が5ミリにも満たない群を抜いて細かな花を咲かせているのが、コケオトギリであった。
 この草をこの辺りで見るのは初めてのことだったのでカメラを向けたのだが、近距離ではズームアップが利かない機種なので膝を折って屈みこんだ。だがそれでは思うように焦点を合わせられない。ままよと、湿った畦道に尻をしいてシャッターを切った。
 そして立ち上がって腰を伸ばし空を仰いだとき、唐突に、どこにでも踏み込んで自由に野の花を撮ることができる安全な国に住んでいることの気楽さを思った。地雷が散乱する国々では野の花を求めて道を外れることは死の危険を冒すことである。


July 24、 2009: ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida
  咲き残る夕顔の花の白きかも
         桑の青葉に雨そそぐ音   高田浪吉

 今にも降りだしそうな雲行きだが、昨夜はめずらしく雨がなかったようで、ユウガオの真っ白な花が咲き残っていた。
 このあたりは幸いにして水害が発生するほどの降雨ではないが、防府市ではすざましい豪雨とそれにともなう土石流災害が発生して多くの死者が出ている。ご冥福を祈る。
 
 ユウガオは中国から渡来したものと考えられているが、渡来の時期については不明である。しかしその有用性から考えて、ヒョウタン同様に縄文時代に遡るのだろう。果実を干瓢に加工することは6世紀の『斎民要術』に記されている。しかし、この植物の花に美しさないしは情緒を覚えるようになるのは平安時代以降のようだ。清少納言もその一人だが「實のありさまこそ、いとくちをしけれ」と書いている。しかし、『源氏物語』以来「夕顔」は詩歌の世界にも頻繁に登場するようになった。


July 25、 2006:  マンリョウ
 庭の片隅で、数年前に小鳥が運んできてくれたマンリョウが、雨の滴をためてひっそりと咲いていた。

 今年は梅雨が未だ明けない。一両日で1000mmもの降雨があった鹿児島県下では土砂災害が頻発し多くの方々が被災され命を落とされている。ご冥福を祈る。
 しかし、毎年のように繰り返されるこのような悲しい出来事はわかってはいてもその環境から抜け出すすべをもたない庶民にのみ訪れる厄災ではないのか。
 ふとそんな思いに駆られたのはA紙に連載された「分裂にっぽんー新しき富者」の最終回を読んだためだろう。お金さえあれば余命6ヶ月と宣告された肝臓ガン患者も東南アジアの某病院で”最高の肝臓”を移植することにより、いま「生きているありがたさ」を実感している。だが、肝臓を買うまでの費用はあってもその後にかかる治療費までの蓄えのなかった同病の患者は、肝臓を買うお金を家族に残す道を選んだという。
 ああ、なんという世の中なのだろう。


July 25、 2010: シキミ Illicium anisatum L.

  つやつやと樒に厚き丘の上の
      墓かわくとき何かにほうふや   生方たつゑ

 休耕田と放棄茶畑が年を追うごとに増えてゆく遠州の里だが、丘の上の照葉樹林の中に忘れられて、遺跡のようになった墓石に出合うことも多くなった。
 かつてこのあたりでは、裕福な土地持ちの農家は自宅の裏山に先祖代々の墓を祭っていたが、車社会で育ち都市での生活を体験した若い人たちに代替わりするにつれて棄農者も現れ、細い山道を歩いて登らなければならない墓所がうとまれ、忘れられてきたのであろう。

 今朝の散歩の途中でそんな墓地の一つを見た。

 傾いた墓石を覆って茂ったシキミの、蓮華座を思わせるような不思議な形で、猛毒成分アニサチンを含んだ実が、何ごとかを訴えているようであった。
 22日、小石川植物園で17年前に蒔いた種子から育った燭台大蒟蒻(スマトラオオコンニャク:Amorphophallus titanum Becc.)が開花したとのこと。TVや新聞やインターネットで報道されたため、翌日には5000人もが見物に訪れ、長蛇の列の大混雑で、3~4時間も待たされた人がでたという。メールをくれた友人は喧伝されている卒倒しそうになるほどの悪臭を経験したいとでかけたたが、近くに寄ってもさほどではなく期待はずれだったという。栽培条件によるのかもしれない。
 ちなみに、http://flower.synapse-blog.jp/flower/cat3847290/index.html によると、2008年にも開花した“フラワーパークかごしま”の株が、間もなく開花するそうだ。


July 26、 2008: オニドコロ Dioscorea tokoro
 今日も酷暑。佐久間で39℃にもなったという。
 乾ききったリコリス園に散水に出で、ふと気がつくとフェンスにからんだヤマノイモらしきものに花が咲いているようだった。近寄ってみるとオニドコロだった。いつの間に、どこからやってきたのだろう。冬の間の強い北西の風が近くの岡の雑木林から翼のついた種子を運んできたのだろうか。
 小さな小さな白い花で、いままでこれほど近寄ってみたことがなかったが、アップしてみると涼しげな花であった。

 書斎の戻ってメールボックスを開くとCIのスタッフのマイクから8月の始めにエディンバラで開催される22回国際霊長類学会へ出席して講演するという連絡が入っていた。絶滅に瀕しているアジアの霊長類の保護を訴えたいとのことだった。現在634種が知られている霊長類の50%は今世紀末までには絶滅する恐れが強いという。とくに、ヴェトナムとインドネシアのそれは、このままでは80%が消えるだろうという。
 我々ホモ・サピエンスが早々と絶滅すれば彼らのほとんどが助かることであろう。いやはや・・・。


July 27、 2005:  サギソウ
 サギソウが咲いていた。空を舞う白鷺を連想させるからという名前だが、鷺よりも美しくそして不思議な造形である。金色の命の伝達者、花粉塊を運びに来てくれる蜂を優しく抱きとめてくれる白い花の精のようにも思える。
 50年程前にはこの辺りでもさほど珍しいランではなかったが、いまや絶滅危惧Ⅱ類に分類されていて、ほとんど目にすることが出来なくなってしまった。
 『プランタ』の100号記念特集「絶滅危惧植物の現状」にラン・ネットワークのメンバーの三橋さんと大貫さんの報告がでていたが、そこにはサギソウもとりあげられていた。それによれば、急速な絶滅への歩みは園芸目的の採取と宅地造成などを狙った湿原の埋め立てであったという。この現状を憂えての保護活動も各地で行われているが、これがまた別の問題を引き起こしている。原産地不明の栽培増殖個体を自生地に植え込んでいるからである。これは遺伝子汚染をもたらすだけでなく、ウイルスを野に放っていることになるからだ。市場に流通する大半のサギソウはウイルスに汚染されているためである。


July 27、 2011: ハナイカダ Helwingia japonica (Thunb.) F .G. Dietrich

 花筏みどりの風に煽(あふ)らるる  鈴木房枝

 激しい驟雨の通り過ぎた疎林の床で、木漏れ日を探すように葉を広げたハナイカダが揺らいでいた。
 葉脈のよくわかる、緑の柔らかそうな葉の、中央からやや葉柄よりに、ぬばたま色の円い実が輝いていた。
 北海道南部から九州まで分布し、ほとんどは比較的明るい林床にに生える低木で、樹高は3mどまりである。雌雄異株で葉の上に、雄花は3個から5個ほど、雌花はふつう一個が咲く。まさに花を乗せた緑の筏である。
 こんなに面白い花木で、茶花としても使えそうな気がするが、使われることはないようだ。目立たなさ過ぎるということだろか。
 一方、ハナイカダは食べられる野草としてよく知られ、ママッコとかママコナの名で呼ぶ地方が多い。ところが、江戸時代、元禄・享保・宝暦・天明と20~30年間隔で経験した飢饉を経て天保4年(1833)に上梓された建部清庵著『備荒本草図』も多数の食用できる草木を挙げながら、この木については触れていない。
 しかしこの出版に先立つ1823年に来日したシーボルトは『日本植物誌』に「山間の住人はその柔らかい葉を野菜として利用している」と記しているところをみると、民間では古くから食用されていたのだろう。

              筏士の蓑やあらしの花衣     蕪村                櫻の落花が水面を流れる様も花筏である。


July 28、 2006:  チョロギ

 炎天にちょろぎの花の群れ咲ける
       今日在りて痩せたるからだを拭ふ    鹿児島寿蔵

 朝のうちは雲が厚くて少しは過ごしやすい一日なるかも、との期待はみごとに裏切られ、昼時を迎える前から33℃を越す猛暑で花壇の草花たちも元気がない。そんな中で、チョロギ(Stachys affinis)だけが平然と咲いている。
 生来病弱だったという鹿児島寿蔵が還暦を迎えるころに詠んだという上記の歌を思いださせる。

  チョロギとは変わった名ゆえその由来に興味をもったのだが、諸説があって確実なところはわからずじまいだ。多くの書物が紹介しているのは朝鮮語のジロイ(蚯蚓)かテウロギ(朝霧葱)に由来するというものだったが、釈然としない。 中国が原産地で、日本に渡来したのは、この植物の名が初めて登場するのが林羅山が著した『多識編』のため、江戸時代初期の延宝3年ころではないかといわれている。



July 29、 2005:  ユウスゲ
   夕菅の風あつめては散らしては   黛 執

 雲に隠れた陽がすでに深く沈んだであろうころ、草木をしっとりと濡らした霧雨が止み、迫りくる宵闇のなかで薄黄に開いたユウスゲが揺れていた。風が涼やかな香を運んでいった。
 ユウスゲは関東地方以西の海岸近くから信州などの内陸部に分布している。日当たりの良い草地が好きで、以前は牧の原台地や東海道に沿った山地で普通に目にすることができた。しかし近年はユウスゲの生育に適した草地が少なくなったためか、滅多に出会えない。
 キスゲとも呼ばれるので、大きな群落を形成するニッコウキスゲ(ゼンテイカ)と混同されることが多いが、こちらは朝日が昇ってから咲く昼咲型で、しかも香はほとんどないので区別できる。

     霧多き阿蘇を淋しと黄菅揺れ    岡部六弥太


July 29、 2009:  ヒョウタン Lagenaria siceraria var.siceraria
 ヒョウタンは分類学上はユウガオと同種で、変種の一つとして取り扱われている。ふつう実の形がくびれているものをヒョウタンと呼び球形や円筒形のものをユウガオと呼んでいるが、変異の巾が広く、厳密には区別できない。花の形態でも花弁の巾や切れ込みに変異があって区別はできず、唯一の違いは苦味成分の有無だという。苦いのがヒョウタンである。この違いは単一の優性遺伝子によるもので、ユウガオとヒョウタンの雑種の実はすべて苦く、雑種を交配すると苦いものと苦くないものが3:1に分離するという報告がある。ただし、実の形を決める遺伝様式は複雑で、ことにヒョウタン系統には驚くほど多様な形の実が知られている。
 形態的にこれほどの変化が見られるということは、おそらくこの植物と人類のかかわりの歴史が古く、栽培の過程でさまざまな変異が選抜されてきたことの証左であろう。
 アフリカが原産地だと考えられるこの種をいつ人類が利用し始めたかはわからないが、約9000年前の縄文時代早期の琵琶湖粟津湖底遺跡やペルーの12000年前の遺跡から種子や果実が出土していることからもその古さがわかる。


July 30、2004:  ソクズ

  小笠原諸島をかすめて北上して来て、東へ向かうかと思いきや、東海沖で足踏みをはじめ、今度はゆるりと西に向かいだすというおかしな台風が接近してきた。IAPTのシンポジュウムに出席するため、久方ぶりに訪れた千葉県の佐倉は、この台風の余波で、時折まるで熱帯圏のスコールのような雨が降った。そんな中をサルトリイバラを採集したいという中国の先生と野歩きした。
 この季節、日本の庭には異国生まれの花々が咲き乱れているのだが、野に咲く花はまことに少ない。上総の台地も例外ではない。ヘクソカズラ、ビンボウカズラ、ガガイモなどの目立たぬつる草の花やカラスウリの白い花が、濃く茂った緑に、埋もれるように咲いている程度だ。
 そんな花欠けの野の中では、暗い竹やぶを背に咲く白いソクズはひときわ美しく思えた。花に混じってぽつぽつとある小さな金色の粒は腺体で蜜を分泌する。
 スイカズラ科の多年草で、晩春に咲くニワトコの仲間だ。クサニワトコともいう。中国からタイにかけて分布している。昔から消炎効果のある薬草として知られ、平安時代の『本草和名』にも「曾久止久」の名で出ている。この「ソクトク」が転訛して「ソクズ」になったのだろう。



July 31、 2004:  タニジャコウソウ

  変則台風10号は間もなく四国に上陸するらしい。先日の新潟や福井のような災害をもたらさないことを祈るのみ。今日は房総を早朝に発って、信州戸隠に向かう。新幹線の車内で広げた朝日新聞の『be on Saturday, e1』の「ことばの旅人」が鴨長明をとりあげていた。『方丈記』の流麗な文章に惹かれていた私は、彼が自惚れやで家名に固執する片意地で偏屈な男だったとの人物評が意外だった。
 バードライン経由でたどり着いた戸隠の森は、いつに変わらぬ静謐を保ち、木々は安らかに木漏れ日を散らしていた。”さかさ川”の水辺近くにはミズバショウが茂り、その葉の陰に隠れるようにしてタニジャコウソウが咲いていた。シソ科の多年草で日本固有種ということになっている。ジャコウソウと同じように茎や葉をゆすると麝香の香りがするというが、私には嗅ぎ分けられなかった。麝香と同じで興奮剤になると聞いたが、ほんとうだろうか。
 タニジャコウソウの葉陰を映す谷川の流れを見て、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書き記した鴨長明についての記事を、また思い出していた。



August 1、 2004:  トチバニンジン

 朝霧が消えかかるころ、奥社への参道の中ほどにある随神門の手前から戸隠牧場へと続く”ささやきの小径”を歩いた。以前はこれほどではなかったと思うが、林床はほぼスズタケに占拠されている。そのほかの草たちは、人間がスズタケを刈り払った道の両側にかろうじて生活の場を見いだしている。とはいえ、40種では聞かない数の草がが生育していて、散策するものの目を楽しませてくれる。この季節、咲いている花は多くはないが、あちこちで面白い形や彩の果実が実っている。
 下半分が濃いオレンジ色で上部が真っ黒な、ちょっと蟹の目玉に似た果実を花茎の先に集めたウコギ科のトチバニンジンもそのひとつだ。”トチバ”というのは葉の形がトチノキのそれに似ているからで、ニンジンは人参で、肥大した根の形に由来する名である。薬草として名高い朝鮮人参(オタネニンジン)の近縁種で日本特産である。韓国産には及びもつかないが、日本人参にも解熱や健胃の薬効が知られている。
 戸隠のものはこの写真のように上半分が黒く色づくものが多いが、普通は濃いオレンジ一色である。戸隠タイプのものを”相思子様人参”と呼ぶこともある。



August 2、 2004: エノコログサ 

  戸隠山麓の森で3種類のサルトリイバラ属の植物を観察できて上機嫌の浙江大学の傳教授と学生の孔さんと東京駅で別れた。大阪府立大学に寄ってから琉球大学へ行き、8日に那覇から上海へ向かうという。彼らはサルトリイバラ属の進化の道筋を研究していて、北米に分布するものはアジア起源だという。人類の知の財産を増やしたわけだが、法人化された日本の大学では、この手の研究はやりにくくなることだろう。
 久しぶりのアクティブな一週間を楽しんだのはよかったが、帰宅してみると除草をサボっていた庭は草原状態。イネ科のC植物の成長の早さにはいつも驚かされる。
 しかしその花は、このエノコログサのように、なかなかの風情がある。昔は野の玩具として子供たちを楽しませてくれたものだが、かつての重要な穀物だった粟の祖先でもある。



August 2、 2011: エンジュ  Sophola japonica L.
 源実朝が「時により過ぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ」と願った建保の大風雨洪水もかくやと思われる水害を新潟や福島にもたらした台風8号は去ったが、放射能汚染は一向に収まらない。

 うち茂り槐は水の面覆ひたり
     日光きびしき夏となりつつ  宮 柊ニ

 夏休みになってしんと静まりかえった幼稚園の庭が、散り敷いた小花でクリーム色に染まっていた。
 仰ぎ見ると濃い緑の葉の茂みの中に点々と白い花をつけた花穂が見えた。エンジュの大木であった。
 散った花の量と花穂に咲く花の少なさから、花時がすでに終りを迎えているのだろうと思ったのは早合点で、望遠レンズの中の花穂には未だたくさんの蕾がついていた。咲いては散り、散っては次の蕾が開き、十日以上も咲き続けて虫たちに蜜を与えているようだ。
 中国原産の高木だが、渡来の時期は定かではない。エンジュについて記された最古の和書は源順が平安時代中期に編纂した『和名類聚抄』で、漢名の槐は和名の恵爾須(えにす)であると記す。現在の呼称“エンジュ”は“えにす”に由来すると見てよいだろう。明治生まれの民俗学者井上頼寿が著した『京都民俗志』によれば、平安時代の日本では中国の神木として知られたこのエンジュが雷避けの霊樹として信仰されていたらしく、雷嫌いの醍醐天皇が空海に命じて加茂川の東岸に植えさせたという。
 また、江戸時代初期の『和漢三才図会』に、「人家・庭院・門径に植えるとよい。数年ほどで大木になり、夏の日差しを遮る格好の緑陰を楽しめる」というような記述があるので、かなり古くから広く民間でも植栽されていたことがわかる。

                  散りはてしゑんじの木立朝日さしするどくし鳴く鳥見えてをり    今井邦子
            

 自民党の3人の国会議員が大型望遠鏡なら竹島を見ることができるという鬱陵島に、竹島問題を考えるためと称して渡るため、中継地の金浦空港に降り立ったところで入国を拒否されたという。韓国としては当然の措置だとの見解である。
 それにしても、かの代議士たちは、放射能に追われて帰るすべのない福島県民やセシウム汚染に泣く牛飼いの人々や汚染肉の流通に頭を痛める日本国民のことは念頭にも浮かべないのであろう。10000ミリシーベルト以上の汚染地点も見つかってきたフクシマ・ニッポンをどうするかに知恵を絞り汗を流してほしい。領土問題に取り組むのは、それが済んでからであろう。


August 3、 2005:  キリシマキツネノカミソリ
 昨年よりやや早く、一昨年に比べれば2週間ほど遅れてキリシマキツネノカミソリが私の庭で咲き始めた。開花期や花の形態はオオキツネノカミソリと区別できないが、葉が地上に顔を出すのが12月で、この点が2月以降に葉を伸ばすオオキツネノカミソリとちがっている。九州南部に分布するが宮崎県のものが最初に注目されたので、とりあえず「霧島狐の剃刀」と呼んでいる。
 キリシマキツネノカミソリはかつて奥山春季先生が、中井猛之進先生が韓国で採集されてムジナノカミソリと命名したものと同種として発表されたので、いまでもムジナノカミソリと呼ぶ人もいる。しかし韓国産のムジナノカミソリは葉が伸び始めるのが2月以降で、花の形もやや異なるので、日本の12月に葉を伸ばすものは区別してキリシマキツネノカミソリと呼ぶことにしている。
 とはいえ、生き物に名前をつける、つまり一つの分類群を認識するということは、個人の主観に基づく判定行為である。したがってその判定結果にうなづく人もあれば首を横に振る人もでてくる。首肯しない人は、葉が伸びる季節の違いやオシベの長さの違いなど人類の目の色や肌の色などにさまざまな違いがあるのと同じで区別する必要はない、ひっくるめてキツネノカミソリでよいではないか、というだろう。
 それはそれでもっともではあるが、野の草花を愛好する方々には味気ない”ご意見”にちがいない。


August 4、 2005:  ヒルガオ

 猛暑の昼日中、ほとんどの草木は葉を垂れているなかで、この花だけは少し上気したような色合いではあるものの、平然と微笑んでいるように見える。
 きっと地中深く這い巡っている根が蒸散を上回る水分を吸い上げているのであろう。日焼けした荒地もものかわの繁殖力もこの地下部があってこそに違いない。
 東アジアの温帯に広く分布していて、各地で野菜として利用されてきた。サツマイモの蔓など未だご馳走の内だった敗戦直後には、この草の若い蔓先を集めてサッと塩茹でしたものに味噌や醤油で味付けして食べていた。中国では全草を乾燥させたものを狗狗秧と呼んで利尿剤や強壮剤として薬用している。
    君が目に涙とうつる昼顔の
          日の矢おもてに咲くはうれしき    若山喜志子
 敗戦のあの夏の日、死の縁から帰還した若者と乙女の再会であろうか。



August 5、 2004:  カラムシ

  そろそろキツネノカミソリの花が咲くのではないかと、菩提寺の近くの丘に行って見た。突然発生した台風11号の影響か、日が射していたかと思うと驟雨が通り過ぎる。雨に洗われた後の緑は生き生きと輝く。
 目的のキツネノカミソリは未だ花茎すら顔を出していなかったが、その代わりにカラムシの花を見ることができた。
 この仲間は日本だけでも10種ないしは20種が記載されている。研究者によって種の決め方が違うほど分類が難しいグループだ。しかし、そんな中にあっても、カラムシだけは素人でも同定できる。カラムシのように、葉が互生し、葉の裏に白い毛が密生している種は、日本産のこの属では他にないからだ。
 アジアに広く分布しているが、日本では人里でのみ見られる。昔はこの草を栽培し、繊維をとって布を織っていたので、それが逃げ出して野生化したからだと考えられている。



August 6、 2005:  コニシキソウ
 原産地の北アメリカや中央アメリカからどんな経路でやってきたのかはわからないが、日本には明治時代中期以降に帰化したといわれているコニシキソウは飛びぬけて暑さと乾燥に強い草である。
 からからに渇いた、小砂利交じりの無舗装の路面に、二又分枝を繰り返しながら覆い広がる株があった。その虫眼鏡が必要なほど小さな花と実を腹ばいになって写真に収めた。路面は火のように熱く、火傷をするのではないかと思うほどであった。起き上がったとき雷鳴のような轟きを残して、航空自衛隊浜松基地からであろう戦闘機が消えていった。
 そうだ、今日は8月6日だった。
 60年前の今朝、人口35万余の広島市が原子爆弾の熱線と爆風に壊滅したのだ。生き残った人々にも筆舌に尽くせない苦しみが残り、今も続いている。被爆した捕虜のアメリカ兵も憎しみの石礫を受けて死んだ。
 人間は愚かだ。戦争をする愚かな動物だ。憎しみの連鎖を断ち切るすべを知りながら、それができない。イラクでの戦火も止みそうにない。今日も大勢の人が爆弾や銃弾で死ぬのだ。


August 6、 2009: ガンクビソウ Carpesium divaricatum

 また8月6日が巡ってきた。アメリカには黒人系の大統領が誕生し、イラク戦争の泥沼から足を抜きつつあるが、その泥沼の中では相変わらずの自爆テロや車爆弾テロが炸裂して人々の命が消えている。一方、アメリカは抜いた足を故郷の地へ下ろして兵士たちに平和な生活を過ごさせるのかと思いきや、あろうことかアフガニスタンの荒地に下ろし、またぞろ庶民を巻き添えにしてアルカイダとの殺し合いを始めてしまった。やはり政治家と軍人は軍需産業を切り捨てることはできないのだろう。そればかりか彼ら自身も、強力な武器と従順な兵士を道具に戦争という行為をすることを無意識のうちに楽しんでいるのではないだろうか。ホモ・サピエンスが捨て去れないダーク・ネイチャーである。 被爆国であるこの国の人々にも根強い再軍備願望がある。しかし、強力な軍備競争の行くつく先は、あの日の広島と長崎の再現であろう。
 長々と続いた梅雨が明けた。久しぶりに歩いた林の中に、緑の羽根を広げて飛び立つことを夢見ているようなガンクビソウがあった。柔らかで優しい野の道を歩いていると、ホモ・サピエンスの一匹であることを忘れることができて嬉しい。



August 7、 2004:  ツリフネソウ

  今日は立秋。思いなしか空の彼方に秋の気配が感じられる。何故か立秋と聞くと、婚約者の佐野綾子とのサナトリウムでの生活を綴った堀辰雄の『風立ちぬ』が思い浮かぶ。
 ふと思い立って、大井川の支流の笹間川に沿った東海自然歩道を歩いてみた。谷間を通り過ぎる涼しい風と岸壁から滴る雫を受けて、赤紫のツリフネソウの花が揺らいでいた。「春は野で生まれ、秋は森で生まれる」といったのが誰だったか忘れたが、なるほどそうだなと思う。
  ツリフネソウは秋の始まりを告げる花だと私は思っている。出逢っているのがいつもそんな季節だからだろう。山里の子供はこの花を遊び道具にした。前に垂れ下がる2枚の花びらを外したものを細い指先にはめると、後ろのくるりと巻いた距が鉤爪のように見え、怪獣に変身できるのだ。
  花の寿命はわずか2日である。



August 8、 2005:  ゲンノショウコ
 「改革を阻むような自民党なら打ち壊します」という公約どおりに小泉さんが解散総選挙に打って出た。いやお見事である。おまけにこれで15日の靖国神社参拝も決定的だろう。
 予想とさして変わらない明日が繰り返される昨今だが、未来への不確定要素が増えることには、不謹慎かもしれないが心弾むものがある。年甲斐もないことではある。こんなことを考える人間とはおかしな生物だ。では野に生きるものたちにとっての明日とは何であろうか。
 大差で郵政民営化法案が否決されたというニュースを聞いてからでかけた買い物の道すがら、色濃く咲くゲンノショウコに出会ったときも、この花にとっての明日の持つ意味を考えさせられた。
 美しく均整の取れた5数性の放射相称の花は、遠い遠い過去からの幾千万回もの明日の積み重ねが生み出した非の打ち所のない創造物である。しかし、このみごとな創造物は、これからやってくる明日の、その気の遠くなるほどの繰り返しの果てに、どのような姿となっていくのだろうか。気象条件の変化や花粉を運んでくれるものたちの変化に呼応して変わっていくのだろうが、それを想像することは至難である。ただ、美しい存在であり続けることは、何故か確かことのように思われるのである。


August 9、 2005:  ヒマワリ

 大空に向かって何事か叫び続けているようにヒマワリが咲いている。
 60年前の今日、広島に続いて長崎に原子爆弾が落とされた。夜明け前にテニアン島を離陸したボックス・カーが松山町上空で投下した、人類の好奇心と悪しき心の産物のファットマンが、地表500mの高みで炸裂し、建造物を粉砕し、生きとしいけるものに死の熱線を浴びせた。午前11時02分。真夏の青空を仰いでいた「太陽の花」たちも一瞬にして灰となって消えた。

 ヒマワリは北米大陸の南西部から中米にかけての地が故郷で、太陽をあがめるアステカ王国の人々はヒマワリをその象徴と見ていたが、エルナン・コルテスのメキシコ征服を機にヨーロッパへ持ち込まれ、そしてアジアやアフリカへと伝播していった。
 大輪のヒマワリは小形の花を咲かせる原種と近縁の野生種が交配して生まれたものから選抜された品種と考えられていて、ヨーロッパの人々が新大陸に入ってきた16世紀までにはメキシコばかりでなくペルー辺りでも栽培されていたようだ。
 



August 9、 2009:  カクレミノ Dendropanax trifidus
 私一人だけの秘密の暗い森がある。いつもの散歩道を少し外れたところにある森である。狸や狐のたちのつけた獣道だけで人間のための道はない。この森に、時々私に語りかけてくれる小天狗と名のる精霊が潜んでいるカクレミノの大木がある。

 今日は珍しく一人で散歩をすることになったので、ふと思い立って小天狗の声を聞きに、もう咲き始めているはずのカクレミノの木の下に立った。
 案の定、小天狗は黒い葉陰に身を潜めたままであったが、それでも私の呼びかけに答えてくれた。しかし、いつもと違ってその声が沈みがちであった。
 少し心配になってご機嫌を伺うと、8月9日だからという。64年前まで子天狗は、朝な夕なに静かな祈りの声が聞こえてくる浦上天主堂を見下ろす金毘羅山の鬱蒼と茂った森の中に、家族や友達と暮らしていたそうだ。それがあの朝、唐突の光と熱線に近しいものたちを失い、たまたま濃く厚いカクレミノの葉陰にいた自分は生き残れ、こうして今ここにいるからだ、と呟いた。そして、こうも言った。
 「おまえたち愚かな人間が勝手に殺しあって滅ぶのはかまわない、だが我々を巻き添えにすることは許せない。お前には悪いが、我々は人間だけをこの宇宙から消去することに決めたよ。さようなら」
 ざわざわと、さげすむように、森が騒いでいた。


August 9、 2011: ヒメクグ
       Cyperus brevifolius (Rottb.) Hassk. var. leiolepis (Fr. et Sav.) T. Koyama
立秋は過ぎたが、予報では今日も猛暑となるようだ。
 菊川の左岸の丘陵地から太陽が顔をのぞかせる前にと、5時前から散歩に出た。
 “なつしずか”のようにすでに収穫が始まった品種もあるが、今朝見た稲田ではちょうど花穂が立ち始めていた。晩生の品種なのだろう。
 その田の畔にはさまざまな夏草に混じって、ひっそりとヒメクグが咲いていた。
 たくさんの花を頭花序状に集めた円い花穂の基部には3枚の細長い苞葉がある。カヤツリグサの仲間に共通する特徴である。
 ヒメクグは姫クグのことで、小型のクグということだが、クグとは何を意味するのだろう。
 奈良時代の初頭に編纂された『出雲国風土記』にある産物の一つの“莎”が『和名類聚抄』や『東雅』などによるとクグ(具具、久具、久久)で、ハマスゲなどなどカヤツリグサの類のことだというが、なぜこの名で呼んだかはよくわからないとある。
 一方、植物文化史研究家の松田修は神仏への供物を入れる容器を古来“供具(くぐ)”と呼んでいるが、花穂とそれを支えるように広がるカヤツリグサの仲間の苞葉とのとりあわせが供具を連想させるところからこの名がついたのではないかと記している。納得できる説である。


August 10、 2005: オオケタデ
 今日の暑さは格別で、昼過ぎに外出したときなど、目をつぶればエジプトの王家の谷に迷い込んだのではないかと思うほどであった。
 そんな気温にもかかわらず、というかそんな気温だからこそか、側溝の土手ではオオケタデが赤い花穂を、ゆるりと渡っていく熱風に心地よげに揺らしていた。

       大毛蓼長者の土塁残る径    谷口和子

 インドから中国にかけての亜熱帯地方が原産地といわれるオオケタデは江戸時代には既に日本に来ていたが、正確な渡来の記録は見つかっていない。鑑賞が主な目的だったろうが、ハチグサ、マムシグサ、ハブテコブラ(Pao de cobra)などの呼び名があったように蜂や蛇の毒を消す効能があると信じられていたようだ。種子による繁殖が盛んなので各地で野生化している。

       市となるも田舎は田舎大毛蓼   小林草吾


August 11、 2004:  ナツズイセン 

  夜明け前の風が肌に冷たく感じられるようになったものの、昼日中の気温と陽射しは、相変わらずの凄まじさである。運動不足になりがちなのを気にしながらも、なかなか野に出る勇気が湧かない毎日だったが、花恋しさに、朝露の消えぬまの散歩をした。
 半世紀ほど前にはフナやクチボソやタナゴたちの泳いでいた小川は、今では屋並みの間を縫う排水溝となってしまったが、その辺の尼寺の森は今も残っていて、藪陰に薄い桃色のナツズイセンが咲いていた。
 ナツズイセンはヒガンバナの仲間で、鎌倉から室町時代にかけてのころ、鑑賞が目的で中国から持ち込まれたものらしい。現代は夏水仙と呼ぶが、昔は「金燈草」「鉄色箭」などと、いろいろななで呼ばれた。花時に葉が、葉時には花がないので「不義理草」とも呼ぶ。韓国では「相思華、サンサーファ」という。中国名は「鹿葱」である。



August 12、 2005:  オニユリ
 朝日新聞の朝刊3面の”追跡・政界流動”の記事の見出しは面白かったが、いささかのうそ寒さも覚えた。曰く”気分は戦国大名?首相猛進”、曰く”亀井静氏「安政の大獄か」”。
 そもそも一法案を巡る自民党内のごたごたなのだから総選挙で民意を聞くというのもおかしなものだ。自民党党員の間で決着をつけるべきものではないのか。国民全員が自民党員ではないのだよ。それにしても、水戸の黄門さんの葵御紋の印籠でもあるまいに、総理大臣という階位に平伏する自民党の政治家たちの姿には、なにやら歴史のプレイバックが始まったようで怖いものがある。
 なんとなく憂鬱になって川岸を散歩した。この季節、夏草のはびこる土手の茂みには見るべき花の姿はほとんどないが、水が運んだのかそれとも誰かがむかごを蒔いたのか、色鮮やかなオニユリの花が咲いていた。
 中国が原産で有史以前に食用が目的で日本に運ばれてきた史前帰化植物の一つらしい。3倍体で種子はできないが、葉腋に作られるむかごで殖えることができる。騒乱に明け暮れる人の世の外で、数千年もの時をこの島国で咲き続けてきたのである。


August 13、  2004:  ガガイモ
  丘へ登る細い道には夏草が生い茂っていた。このところ通う人もなかったのだろう、蜘蛛の巣が顔にかかる。むっとする草いきれの中にいると、この夏は終わることなく続くのではないかと思えてくる。
 茂みの中に、薄く桃色を帯びた小さな花が房咲きしたつる草があった。5裂した花冠には白い毛が生えていて、小さな海星を連想させる。東アジアに広く分布しているガガイモである。

 このつる草は神話の時代から日本人には親しいものだったらしく『古事記』に登場している。
 出雲の美保の岬にいたオオクニヌシの前にアメノカガミ船に乗った小さな神、スクナビコナが現れる場面が記されているが、このアメノカガミ船はガガイモの果実の二つに割れた舟形の鞘のことだという。人々は実の形の面白さに惹かれたのだ。
 平安時代に著された『本草和名』に見るように、古代の日本ではガガイモのことをカガミ(加々美)と呼んでいた。実の形が面白いというだけでは本草書に載ることはない。薬草でもあったのだ。強壮強精効果や止血作用などがある。 種子には絹糸のような毛が生えていて、これは詰め物などに利用された。また江戸時代の『本草綱目啓蒙』などを見ると、葉も地下部も食用された。

 遠州ではコーガモと呼んでいる。


August 13、 2010: アカメガシワ Mallotus japonicus (Thunb. ex Murray) Muell.
 長く続いた猛暑日が終わったかと思ったのもつかの間で、去っていった台風4号の置き土産のように、またしばらくは各地で35℃を越す日々がやってくるとの予報である。窓の外が白んで、さて足慣らしの散歩に出ようと身支度が済んだ頃には、早くも27~28℃で、家人ともども、行こうか行くまいかと顔を見合わせてしまう夏である。
 久しぶりに歩いた川土手の横の藪道では小さな栗毬のような丸い実を密に連ねたアカメガシワの雌株があった。6月の下旬の花時には甘い香を放つクリーム色の雄花の穂ばかりが目に付いて、近くに咲いていたはずのこの雌株は見落としていたようだ。雌花は小さく暗赤色で香もないの気づかれにくい存在である。
 秋が深まればこの実も灰色に変わり、裂開して光沢のある黒い種子をこぼすことだろう。
  庭のうへに朝露しげくふりこぼす
        赤芽柏を伐らばやと思ふ  鹿児島寿蔵
 成長が早い木で、我が家の小庭にも小鳥の落し物から芽吹いた若木がよく顔を出すが、放置すれば大変なことになるので、可哀相だが抜き取らざるを得ない。


August 14、 2008: ナガバギシギシ Rumex crispus
 例年ならば彼岸花が咲き終わるころに行われる川土手の草刈が7月中旬には済んでしまったため、川風に揺れる植生はイネ科がほとんどの単調なものになってしまった。
 その中でよく目に付くのが鉄錆色の枯れ枝のように見えるナガバギシギシ(Rumex crispus)である。
 遠目ではすでに命の失われ汚れた花穂の終の姿のようではあるが、近寄って目を凝らせば、新しい命を秘めた種を肥厚した外花被片が挟み込んでいる、チョコレート菓子のような実の束が連なっていてなかなか美しい。
 ナガバギシギシは日本全土の草原や路傍に分布しているが、草姿はギシギシ(R. japonicus)と大変よく似ていて区別が難しい。しかし、花が終わって実が稔るころになると違いが明らかになってくる。とはいえ、両種が混在する場所では雑種が生まれているということだから、どちらともいいがたい個体も見つかることだろう。そんな個体の染色体数は両種の中間で2n=80になっているはずだ。
 ユーラシア全域に広く分布している種で、日本では明治時代の中ごろにその存在が認識され牧野富太郎がこの名で呼んだ。そこで明治時代に渡来した帰化植物だと考える研究者が多い。


August 14、 2005:  オオニシシキソウ
 電話の子機のニッカドバッテリーが消耗しきってしまって充電がきかなくなった。マニュアルを読むと1年程度で取り換えろとあるが、なんと4年も使っていた。東名のインターチェンジに近い電気店に買いに行くと、1500円もした。しかし、うっかりしていたおかげで節約になったともいえる。ま、わが家のように滅多に電話も使わなければ、このくらいはもつということだ。
 日は中天に昇って気温もうなぎのぼりではあったが、帰路はいささか遠回りになるものの、稲田が残る西方川に沿った道を歩いてみた。
 路傍の畑地の土手にはエノコログサが多かったが、ところどころにオオニシキソウがたくましく枝を広げ、米粒よりもはるかに小さい白い花を咲かせていた。北米から中米が原産の帰化植物だが、日本で目に付くようになったのは20世紀の初頭のころからだという。
 アメリカではEyebane(目の毒)と呼ぶが、茎や葉を傷つける出る白い粘り気のある乳液が目の毒だということらしい。しかしルイジアナの先住民のホウマ族は煎じて冷やしたものを乳幼児のお腹の薬にしている。
 


August 15、  2004:  カラスウリ
  8月15日という日に格別の思いを抱く人たちは次第いに少なくなる。詮無いことではある。とはいへ、他国に侮られないような攻撃的な兵器を備えた国軍を作ろうという昨今の風潮は悲しい。「歴史は学ばれることはない、ただ忘れられるだけだ」という言葉が真実味を増してきた。
 あの8月15日の夕方、家の近くにあった大きな枇杷の木の太い枝にすわり、3歳年上のK君か「俺たちどうなるのかなあ、負けたから男は玉を抜かれ、女はみんなさらわれるらしいぜ」というのを、ほんとうにどうなるんだろう、と思いながら聞いていた。
 夕闇が迫り、傍の生垣に真っ白なカラスウリの花が点々と浮かび上がっていた。細く長く裂けた花びらの先が闇に吸い込まれていくようで、心細かった。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
               写真はキカラスウリの花です。


August 15、 2008: アキカラマツ Thalictrum minus var. hypoleucum

 今年もまた8月15日が巡ってきた。

 北京ではオリンピックがたけなわで、金だ銀だと大騒ぎだ。あちらの人々の思いはどうかは報道されていないが、日本人の多くはマスメディアを含めて63年前の今日のこの日を忘れているようだ。
 軍国少年だった(と思う)当時の私にはあの天皇の詔勅はほとんど理解できなかったが、大学生になって読みなおしてみると腹が立った。最高責任者としての反省の気持ちがまったく語られていないからであった。そして、原爆を使ったのは日本の民衆を救うためであったと米国に開き直らせる言質を与えたのだと思った。しかしあの期に及んでも、天皇は本心を言わせてもらえなかったのかもしれない。
 今朝、あの少年の日の夏に、グラマンの機銃掃射を避けて皆で下校した、狭い谷津田を抜けて雑木の岡を縫う道を、家人と歩いた。その道は今では簡易舗装され農作業用のライトバンが通えるまでに拡幅されていたが、野の花はまだ少しは残っていて、あの夏の日にも蒸し暑い風に揺られていたアキカラマツが朝露に濡れて咲いていた。



August 15、 2010: ソテツ Cycus revoluta Thunb.

 “ふるさと講座”なるもので「外国の植物」について話をしてほしいということで、遠い昔に学んだ小学校をおよそ半世紀ぶりに訪れた。校舎も校庭も、その佇まいは記憶に残るそれとはまったく違っていたが、正門を入るとソテツが植栽されているところに在りし日の面影を見た。そして、そこには8月15日の敗戦とともにいつの間にか消えていった奉安殿なるものが鎮座していたことを思い出していた。
 少年の朧な記憶では、がっしりとしたコンクリート製の神棚のような社で、観音開きの白木の扉があって、事あるごとに国民服を着た校長先生が白手袋でぎこちなく開いて拍手を打っていた。先生の話では天皇と皇后さんの写真と「朕思ふに・・・」が入っているとのことだった。上空をB29の編隊が飛行雲を引いて通り過ぎ、気まぐれにグラマンが機銃掃射をして消えてゆくころであった。
 奉安殿の設立の歴史的意義について学んだのは高校生になってからだった。
 二人の写真は御神影と呼ばれ、神の化身として崇め、朕思ふに・・で始まる教育勅語の教えるように命を懸けて国のため戦えということだった。結局のところ家も人も焼かれ殺され、兵士たちの多くは玉砕を強いられ、為政者は死ぬこともなく、長崎への原爆投下で戦いは終わった。そして、1945・12・15、GHQの「神道指令」発令により、奉安殿は廃止され取り壊されていった。



August 15、 2011: ジャノヒゲ  Ophiopogon japonicus (L. fil.) Kel-Crawl.
     龍の鬚茂りぬ花のひそみけり    川上井梨葉

 5日の明け方の雨を最後に、10日間も雨無しの猛暑日が続いている。そのため花壇や鉢物には毎日の水遣りが欠かせないものの、水道料金も安くはないので、リコリス園やその周りの小藪は乾くに任せているが、そんな藪の中の庭石の間に、いつの間にか殖えていたジャノヒゲの薄紫の小花が咲き始めていた。
 短歌俳諧の世界では“龍の鬚”の名の方が通りがよい。蛇には鬚はないのでリュウノヒゲの方が納得のいく名なのだが、なぜかジャノヒゲが標準和名とされている。小野蘭山の『重修本草綱目啓蒙』をみると江戸時代には“龍常草=タツノヒゲ”というのが一般的で、ジャノヒゲという名は江州(琵琶湖周辺)の里呼び名だったようだ。また、越谷吾山の『物類稱呼』には「東国にてりうのひげと云、奥州にてたつのひげと云、尾州にて蛇のひげといふ」とある。
 かつてはユリ科に分類されていたが、最近はDNA塩基配列の比較から、リュウゼツラン、ギボウシ、スズラン、ヤブランなどと共にキジカクシ科(Asparagaceae)に分類されている。
 漢方では、ジャノヒゲの瑠璃色の円い種子を乾燥させたものを麦門冬と呼び、咳止めや痰切りに処方している。平安時代の『本草和名』の著者の深江輔仁はこの麦門冬は日本の“也未須介=ヤマスゲ”だとしている。彼のいうところのヤマスゲがなんだったのか、その記述からは確かめるすべはないものの、同時代の源順の『倭名類聚抄』の記述を読むと深江のヤマスゲはジャノヒゲのことだとわかる。

 冬が来て、円くてよく弾む瑠璃色の種子を目にするのが楽しみである。


August 16、 2005:  タカサゴユリ
 4年前、転居した当時の更地状態の庭に、どこからか舞い込んできたタカサゴユリが芽生えて、翌年にはもう花を咲かせた。
 その子供たちであろう、今年は庭のあちこちに雑草状態に個体数を増やして花盛りとなっている。美しい花をつけるので、所かまわずに芽生えたものを引き抜きかねて育つに任せてしまった結果である。
 このユリの原産地はタカサゴ(高砂)の名がつくように台湾である。日本では大正時代から昭和の始めのころ観賞用に栽培され始めたという。しかし平成の始めのころには中部や関東地方で野生化したこのユリを見ることはほとんどなかったように思う。それがここ数年の間にごくありふれた存在となった。これも温暖化の現れであろが、それにしてもその旺盛な繁殖力には驚かされる。先日も東名高速道の土手を、時ならぬ淡雪のように彩っているのを見た。
 このユリと、これも沖縄方面の南国が故郷のテッポウユリとの間に雑種ができていてシンテッポウユリと呼ばれているが、これも繁殖力が強く、おまけに相互に交雑するので、どちらとも言い難い個体が出現する。


Aug.16、 2009:  ハマゴウ Vitex rotundifolia
 11日の東海地震もどきで崩落した東名の上り線がやっと修復された。思いのほか時間がかかったが、40年前の建設当時どのような工法を施したのか正確な記録が残っていなかったようだ。まさか手抜き工事だったとは思いたくないが、全線に渡ってのチェックをしておくべきではないだろうか。 
   白南風の光葉の野薔薇過ぎにけり
           かはずの声も田にしめりつつ   北原白秋
 白南風が吹き渡ってゆく砂丘に茂るハマゴウに花が咲いた。背景の白い浜に良く似合う明るい花である。
 秋に直径1cm弱の実が熟すが、その果皮はコルク質で海水に浮かび海流に沿って分散する。そのためもあって、北海道を除く日本列島全域の他、韓国、中国、東南アジアからポリネシア、オセアニアの海辺に分布している。果実には精油成分が含まれていてよい香りがする。そのため民間では安眠するため乾燥させたキクの花と一緒に枕に入れることがある。中国では古代からこの果実を“蔓荊子”と呼んで解熱・消炎などに処方していた。ハワイではコロコロ・カハカイなどと呼ばれ同様の薬効があると考えられている。


August 17、 2007:  季節外れのガマズミの花
 気がつくと庭の小さなガマズミの木に花が咲いていた。
 初夏に咲くはずの花である。
 思い返してみると今年は花を見た覚えがない。そういえば若葉が展開するとまもなく、何ものかの食害を受けて枝だけの寂しい姿になっていて、枯れるのではないかと心配したことを思い出した。花を見なかったのはそのせいで、梅雨の間に再生した葉が花芽に力を与えたのだろう。子孫を残そうとする生き物の逞しさである。
 
 昨日の日本列島は記録的な猛暑で熊谷と多治見では40.9℃に達したという。熱中症で多くの高齢者が倒れた。空調のない部屋で、動きもままならない老体が倒れて行く美しい国ニッポンである。生き物の逞しさにも限度がある。
 イラク北部モスル近郊での自爆テロでは400人以上が爆殺された。憎しみと怒りと涙が渦巻く泥沼のただなかに、それでも人は生きている。生き物の悲しさである。
 ペルーではM7.9の巨大地震。ピスコの町は壊滅状態らしい。ガイアの力を思い知らされる。
 


August 17、  2004:  キツネノカミソリ

 フィリッピンの東海上にあった熱帯性低気圧が台風15号に成長し、琉球列島に向かっていて、多量の降雨が心配されるという。被害が最小限で済むことを祈るのみ。予報では東海地方でもぐずついた天気になるという。幸いいまのところよく晴れているので、新幹線と在来線に挟まれて残った、小さな社寺林に咲いているはずの、キツネノカミソリを眺めに出掛けてみた。
 盛りは少し過ぎてはいたが、林床の緑のカーペットのおちこちに咲いているその花は、オレンジ色の小さなブーケのように見えた。地味な花ではあるが、愛好者も少なくない。
 和名は狐が鳴くような寂しい場所に生え、春に茂る葉の形が昔使われていた剃刀に似ていることに由来するのだが、柳田國男の『野草雑記』の「狐の剃刀」がヒガンバナのことであるように、昔から今に至るまで両者は混同され続けている。
 ヒガンバナと同じように有毒アルカロイドを含む植物だが、球根にはデンプンがたくさん含まれるので、縄文時代から食糧として利用されていた。



August 18、 2005:  ニラ
 自民党の内紛は浅ましくも凄まじくもそして悲しく情けない様相を呈してきた。ずいぶんと前のことで誰の作品だったのか思い出せないが、明智光秀が信長の暗殺に失敗した後の血塗られた歴史を綴ったSFがあった。九死に一生を得た信長は意に沿わぬものはことごとく粛清し、庶民もまた利のためには裏切りも恬として恥じない寒々とした時代を描いたものであった。
 昨日今日の政治の世界は、ふと私にこの小説を思い出させてくれた。21世紀の日本の戦前の時代の始まりでないことを祈りたい。

 メディアに溢れるどろどろした情報の海でのサーフィンに嫌気が差して、精進落しのような気分で純白の花探しの散策に出た。
 この季節、身近にある白い花といえばタカサゴユリだろうが、これはなぜか爽やかさに欠ける。そこで思いついたのがニラの花だった。
 昨年の今頃、川向こうの畑地のあちこちでニラの花を見ていたのでそこへ足を向けてみた。
 その畑は昨年に比べると手入れが滞っているように見えたが、目当てのニラは株がかなり大きくなって、今年もまた心なごむ真っ白で小さな星の形の花を群れ咲かせていた。
 北半球の温帯に広く分布しているニラは古代から薬用・食用にされていて、日本でも恐らく縄文時代から利用されていたことであろう。だが完全に野生化したものはなく、人里の植物に留まっているところを見ると、いつの時代にか大陸から持ち込まれ栽培されていたのだろう。
 ニラという名は古事記や日本書紀の時代ににネギ類の総称として使われているミラが転訛したもので、古事記に登場する”香美良:カミラ”が匂いの強いニラのことと思われる。


August 19、  2004:   ミソハギ
 台風15号のが引き込んだ湿舌が四国に大雨をもたらした。川筋の家と人々が荒れ狂って流れ落ちる濁流に襲われている。自然が人間の営みを否定するかのようだ。被災された方々の痛みと悲しみを思う。
 こちらは阪神以上の烈震が予告されている東海地方だが、いまのところ自然は穏やかな顔を見せている。稲の実りも平年以上になるらしい。
 畦道を歩くと草いきれならぬ「稲いきれ」に包まれる。田園に育った私には、豊穣を知らせてくれる懐かしい香りだ。そのたわたわとそよぐ稲田の片隅の水口に、ミソハギが咲いていた。
 どんなきっかけで始まったのかは知らぬが、この植物と日本人のかかわりは長い。平安時代の『本草和名』にも「美曾波岐」の名が出ている。最初は薬草として栽培されたのだろうか。しかし『多識編』にみるように江戸時代には盂蘭盆会に飾る花となっている。
 
       みそ萩や水につければ風の吹く
 
 小林一茶が愛妻の新盆に詠んだといわれる句だ。溝萩、禊萩と書くがハギの仲間ではない。
 いろいろな里呼び名があるが、このあたりではミズムケバナという。


August 19、 2010: ナツフジ Millettia japonica (Sieb. et Zucc.) A. Gray
掛川城跡公園の南に面した崖に茂る藪の中に、白絹細工のようなナツフジの花穂が、逆川に沿って吹き過ぎて行く真夏の風に揺らいでいた。
 中部地方以西、四国、九州に分布し、東海道ではありふれたものだそうだが、私には初めての出合であった。葉や蔓のようすはフジに良く似ているので、花のない季節には気にも留めず見過ごしてきたのだろう。
 しかし、こうして出合ってみると、その清楚な佇まいが、身の周りから失われつつある侘びの世界へのいざないのように思えた。
 江戸時代の人々も同じ思いだったのだろう。茶人は庭園に植栽し、その姿を愛でていた。文政6年(1823)に来日したシーボルトもその著『Flora Japonica』のKo-fudsi(ナツフジ)の解説の中で、日本人は野趣豊かな美しさを珍重し、人手の加わっていない自然をそのまま庭に移すことを好としているという意味のことを記している。
 ちなみにシーボルトとツッカリーニがナツフジにつけた学名は Wisteria japonica 。つまりフジ と同属であった。その後、フジと違って旗弁(跳ね上がった花弁)の内側に突起がないことなどから別属に分類された。


August 19、 2011: 雌雄同株のサネカズラ Hermaphrodite Kadsura japonica (Thunb.) Dunal


 昨年に続き今年も庭のセンダンに絡んだサネカズラに、中央に真っ赤な玉を乗せてたくさんの花が咲いた。
 一昨年はじめてこのサネカズラの花が咲いたときから、あの京和菓子を連想させる赤い実を見るのを楽しみにしていたが、昨年も花数が多かったにもかかわらず実は止まらなかった。
 今年も次々と咲く花をカメラに収めながら、ふと思うことがあって、書斎に戻り図鑑を紐解いた。そして、うかつにも私はこの蔓木が雌雄異株であることを知らないできたことを思い知らされた。中央の赤い玉がそのまま秋には大きく育ってあの美しい実になるものと思い込んでいたのである。雌花の存在には思い及ばなかったのである。
 そこで、早速、この株を分けてくれた花師匠にメールでことの次第を報告し、ご自宅の実がよくなるという株に咲く雌花を拝見することにしたが、師匠は「家の株には雄花も咲いているよ」と電話してきた。
 半信半疑でうかがったところ、確かに師匠の株には雄花も雌花も咲いていた。なんと、雌雄同株なのだ。
 大井次三郎の『日本植物誌』は無論のこと、『牧野新植物図鑑』、『日本の野生植物』、をはじめシーボルトの『日本植物誌』など、手もとの図鑑・植物誌にはいずれもサネカズラは雌雄異株だと記してある。
 だが、インターネットで市井のナチュラリストの方々のホームページやブログを検索してみると、そのいくつかには、雌雄異株のほか雌雄同株、まれには両性花もみられるとあった。それぞれの比率はわからないものの、これがサネカズラの性の実体なのだろう。
 雌雄同株や両性花の存在は、環境が壊されて個体数が減ってしまったときには種を維持するための保険となるのであろう。生き物は逞しい。
 そして、こうした事例に出会えることこそ、深く知ることの醍醐味である。



August 20、 2005:  サンゴジュ

 やれ国民新党だの新党日本だのと政界はかまびすしく、メディアも刺客だの○×軍団だのと品のない軽薄な日本語使いで盛り上がっていて、それに同調する輩も少なくないらしい。首相の行動を日本的談合民主主義から本家西欧型狩猟民族民主主義への脱皮だと歓迎する向きもあれば、陰湿な村八分的多数決で、どちらに転んでも天下りや談合のはびこる社会がまだまだ続くに違いないと決め付けている向きもある。
 何はともあれ9月11日が過ぎれば、現代日本の有権者が何を望んでいるのかがはっきりと見えてきて、それはそれで私にとっては面白い。
 雲の動きは早く、時々強い夏の陽が市街地にも降り注ぐ。そのたびに宣伝カーの上に立って、髪振り乱して絶叫調の演説をしている候補者のすぐ後ろの街路樹の真っ赤な実が艶やかに輝いていた。梅雨のさなかに白い小花を咲かせいていたサンゴジュの実だった。
 サンゴジュはスイカズラ科の高木で、アワブキ(泡吹き)の別名があるように切り落とした枝に火をかけると切り口から泡を出し、なかなか燃えない。そのため防火の目的で垣根として植栽されているが、元来は中部地方以西の沿海の山地に自生していた。



August 21、  2004:   オジギソウ

   道端の草むらに薄桃色の毛玉のような花がころころと咲いている。母親の差す日傘の陰を歩いて来た4・5歳の女の子が、つと屈みこんでその毛玉をつまむと、小さな葉がぱたぱたとドミノ倒しのようにたたまれて、見る間に草全体が萎れたようになってしまった。少女は眺めていた私に気づき、にこりと笑った。オジギソウのこの習性を知っていたのだ。
 オジギソウは南アメリカはブラジルあたりが原産地のマメ科の多年草で、いまでは世界各地に帰化している。熱帯・亜熱では一年中花を見ることができるが、霜の降りるこのあたりでは一年草である。
 植物には珍しいすばやい運動能力は昔から注目の的で、ダーウィンは『植物の運動力』でとりあげ、ファーブルは『薪の話』に「通りかかったコガネムシの羽が触れても、風に追われた砂粒がぶつかっても、太陽が明るすぎても、雲の影がさしても、それだけでも気を失ってしまう。ささいなことで死なんばかりになる哀れな植物だ」と記している。



Aug. 22、 2006:  ママコノシリヌグイ
 九州に大量の雨を降らせた台風10号が韓半島をかすめて通り過ぎた後、東海地方では連日の夕立が乾いて熱気を放つ大地をしずめ、風鈴を揺らす風を涼やかにしてくれている。
 水かさを増して勢いよく流れる農業用水路に沿った道を行くと、桃色の米粒のような花をつけたママコノシリヌグイが草むらを縫うように茂っていた。
 這い回る茎やそこから伸びた葉柄には白い逆さ棘がたくさん生えていることに因んだ名だというが、それにしてもママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)とは凄まじい呼び名ではある。
 この名が初出するのは文政6年(1825)に水谷豊文が著した『物品識名拾遺』ということなので江戸時代に付けられた名であろう。しかしこの植物そのものはそれ以前から日本の水辺に生えていたものであるから、ことに稲作に従事していた人々には近しいものであったに違いない。どんな名で呼ばれていたのだろう。
 今も残る里呼び名のトゲソバやハリソバはやはり鋭い逆棘によるものである。また熊本県のビッキノツラカキやネコンツラカキは悪餓鬼の遊び名であろうが、継子の尻拭いのような陰湿さはない。


Aug. 23、 2006:  クサギ
 生家の石垣に一株のクサギがあった。成長の早い木ゆえ、放置すれば石組が崩れてしまうからということであろうが、梅雨あけの頃になるとその枝打ちをするのが、小学生の私に課せられた仕事の一つであった。
 切り落とされた枝葉は臭木の名にたがわぬ異臭を発し、その後片付けは私にとって年に一度の苦役であった。
 そんなわけで、一時期の私はこの木の茂みを目にする度に「紫がかり黒みをおびし臭木の葉重く心におひかぶさりぬ」という前田夕暮の短歌を思い出さずにはおれなかった。
 ところがいつの頃からか、私はこの木が好ましく思えるようになっていた。
 それはある人との辛い別れをした初秋の日、キャンパスの片隅にほのかに香り咲く白いクサギの残り花に気づいたあの時からだったかもしれない。

    行きすぎて常山の花の匂ひけり    富安風生

 クサギにはこの句のように常山の字を当てることもあるが、これは平安時代に中国産の常山、つまりジョウサンアジサイをクサギと混同して以来のことである。


Ausust 24、  2004:   コマツナギ  Indigofera pseudo-tinctoria Matsum.  
 手と手を取り合っているかのように仲良く北上してくる二つの台風の影響で一昨日から降り続いていた雨がやっと止み、久しぶりに陽が射した。昨日は暑さも峠を越すという処暑だったが、相変わらずの蒸し暑さだ。それでも、時折吹く風は秋がそこまで来ていることを教えてくれる。雨で洗われて緑が甦った道端の藪にコマツナギが咲いていた。
 遠州の里人が”草萩”と呼ぶコマツナギは駒繋と書く。草のように見えるが木本で、簡単には引き抜けない。それで、馬を繋ぎ停めることができるということからつけられた名だという説が主流だ。しかし、馬がこの木の葉を好み、見つけると食べ終わるまで動かなくなるからだという説もある。まあ、どちらでもかまわないことではある。
 一方こちらは厄介だ。天平5年(733)に完結したという『出雲風土記』に仁多郡の産物として”狼牙”があげられていて、これがコマツナギだということになっている。『和名抄』でも狼牙は”古未豆奈木”だ。ところが江戸の本草学者、小野蘭山や貝原益軒は狼牙はバラ科の植物でマメ科のコマツナギではないという。現代漢方薬の狼牙はバラ科のキンミズヒキの根のことである。奈良平安の人たちの当て違いだろうか。


August 24、 2010: キハギ Lespedeza buergeri Miq.
 処暑を過ぎたというのに、猛暑は一向に遠のく気配がない。これまでに既に4万人余の人たちが熱中症で病院に運ばれ、その過半数は中高年だという。ということもあって、間もなく後期高齢者という分類群の仲間入りをする私は日中は家人とともに空調の効いた室内に逼塞しているが、足が萎えても困るので、早朝に少しばかりの散歩をしている。

 歩いてみるとわかるのだが、しかし、野に生きるものたちはしたたかである。暑さは暑さとしてやり過ごしているらしく、例年とほとんど変わらぬペースで虫は鳴きはじめ、秋草は咲き初めている。
 今朝歩いた常葉の丘を越え西方川へ下る道の辺の藪の中に、白い旗弁が薄紫に彩られたキハギがあった。マルバハギやヤマハギの紅の差したそれに比べれば、ずいぶんと地味な雰囲気の花であった。

 極東の暖帯に広く分布していて中国では緑葉胡枝子と呼び、根は血人参という漢方薬である。解熱、咳止め、鎮痛の効果があるという。
 アジアと北米に分布するハギ属(Lespedeza)の分類には諸説があるが、昨日届いた『植物研究雑誌、Vol.85,No.4』の根本智行さんたちの葉緑体DNAを使った解析によると、北米とアジアのそれは遠い過去に分かれたグループで、ヤハズソウは別系統のものでヤハズソウ属(Kummuerowia)を建てることが支持されるそうだ。


August 25、  2004:  フヨウ 

  夜が明ける前から咲いていたのだろうか、時々立ち寄るお寺さんの庭で一重咲きの酔芙蓉の純白の花に出逢えた。花の底には小さな蛾がとまっていた。
 日が西に傾きかけた頃、もう一度会いに行くと、薄桃色に顔を染め、気持ちよさそうに酔いどれていた。
 しかし、気持ちよさそうと見たのは、呑み助の勝手な感想で、花は強い日差しに苦しんでいるのかもしれない。



August 25、 2008: ヤマノイモ Dioscorea japonica
 遠州では弥蔵小僧の愛称で呼ばれるイヌマキの実があちこちに青白い顔をのぞかせている生垣に、米粒のような白い花を連ねてヤマノイモの蔓がたくましく絡んでいた。
 里山の秋を散策すると、雑木林の藪の中のあちこちで何気なく枝にとめられている赤いテープや紐を目にするが、これがすでに枯れているヤマノイモの位置を夏の間にマークしたものである。そして、運がよければ芋掘用の長いシャベルを手にした小父さんに出会うことができる。この芋を掘り取るには根気と繊細なテクと強い筋力が必要で、少年のころ挑戦したことがあったが、あきらめざるをえなかった。 本州以南に広く分布しているが、台湾や中国南部にもある。いわゆるアジア照葉樹林帯植物の一つである。照葉樹林文化論の提唱者の中尾佐助は、縄文時代以前からのこの地域に生活した野生採集段階の人々にとっても重要な根菜の一つだったろうと考えている。
 生活がかかっていて目の肥えた古代の人々には問題にもならないことであろうが、現代人の多くはこの仲間の同定には悩まされるのではないだろうか。それぞれを手にとって比較すれば違いは歴然なのだが、記憶を呼び出してということになるとおぼつかなくなる。そこで、私は葉が対生なのがヤマノイモということにしている。


Aug. 26、 2006: ツルレイシ 

 先週あたりから、冥王星を惑星と認めるか否かがチェコのプラハで開催されている国際天文学連合の総会で討議されていることをマスメディアが連日のようにとりあげていたが、私には無意味な空騒ぎのように感じてならなかった。
 結局は24日の投票で新しい惑星の定義が決まり、冥王星は惑星とは呼ばれなくなったそうだが、冥王星という天体はいままでとなんら変わらず存在し続けるわけで、天体物理学がこれによって書き換えられるわけでもない。定義など人間の都合で何とでもなるものなのだから、そのうちにまた復活するかもしれない。やれやれだ。

 こんな星空の話より、今の私にとっては移り行く地上の花たちの方がはるかに面白い。
 今日は久し振りに最高気温が30℃以下になるとの予報のとおりで、過ごしやすい一日であった。夕刻が迫るころ、猫額の菜園に出てみると、ツルレイシの茂みに淡い黄色の小さな花がいくつも咲いていた。
 肌に心地よい風が立った。秋の訪れをそっと知らせてくれた風であった。



August 26、 2009: カラムシー2  Boememeria nipononivea
 今日は旧暦の七夕である。
 奈良時代になって大陸で行われていた乞巧奠の行事が伝わり星祭の意味合いが濃くなるまでは、七夕は夏と秋との交叉(ゆきあい)の祭であった。それは棚機であり、階上にしつらえた棚の上で若い娘、棚機つ女、が機を織りながら神を迎える場所であった。棚は人里の外の、池、川、湖、海辺などの静謐な場所に作られた。
 神を待つ棚機つ女が織る糸は荢麻を晒した白い糸であった。荢麻は荢(まお)とも書かれるカラムシである。
   荢刈りて乾したる葉うら白々し
       露おきたればただしなやかに   土屋文明
 月の初めには未だ咲き始めたばかりだったが、今日の朝日の中で出合った株には、淡い緑色の金平糖を思わせる若い果実が鈴生りに下がっていた。雄花の花序はすでに萎れていた。
 人里に集中して分布しているので渡来植物であろうが、縄文時代の遺跡からこの植物の繊維の釣糸が出ているところを見ると典型的な史前帰化植物といえるだろう。


August 27、 2005:  ヒオウギ

 足早に本州の東海上を北太平洋へと通り抜けていった台風13号に置いてけぼりを食ってすねてでもいるかのようにぐずぐずしていた12号が、25日の未明から夜半にかけて御前崎沖から伊豆半島をかすめて北上して行った。
 遠州の里にとっては久し振りの本格的台風の襲来で、庭木は揺すぶられ花壇の草花はなぎ倒され、畑の作物は傾き、そして私のリコリスガーデンも無残に荒らされてしまった。そんなわけで、26日は夏台風明けの猛暑の中を後片付けに忙殺されたが、今日は暇ができたので、家人には「この暑いのに物好きね」といわれながらもカメラを手に野の道を歩いてみた。
 収穫間近の稲田はあちこちで倒伏が見られたが、思ったほどではなく、路傍には何事もなかったようにヒオウギが咲いていた。
       射干や露と朝日の裏表   也有
 射干はヒオウギ(檜扇)の中国名で、和名は重なっている葉の様子が上代の貴族が笏の代用にした檜扇に似ていることに由来する。



August 27、 2008: ヤゾウコゾウ(イヌマキ) Podocarpus macrophyllus
 ヤマノイモの記事の冒頭に遠州ではイヌマキの実を弥蔵小僧と呼ぶと書いたところ、なぜそんな変わった名がついたのかという質問メールが数通届いた。
 ヤゾウコゾウという名はイヌマキという標準名を知る遥か以前の少年時代に教えられ、なんとなくこの実の形から納得していたせいもあったのか、いわれてみるまでは深くその由来を考えたことがなかった。
  そこで内田武志著『静岡県方言誌』をみると、静岡県にはイヌマキの里呼び名が100余もあり、その約1/5がヤゾウコゾウ系の名であった。また野口英昭著『静岡県樹木名方言』にはヤゾウコゾウ系の呼名は大井川以西のものだとあった。
 その名の由来を柳田国男は『方言と昔』のなかで、“弥蔵”という名の下男とおぼしき者が“小僧”つまり小児を肩車した様子と見立てたのだろうとしている。また浜松方面でオショコゾと呼ぶのは上の種子が小僧で下のアリルの部分を和尚と見たのだと書いている。しかし私がこのイヌマキの実と“おしょーこぞう”という名から連想するのは“小坊主”である。
 ヤゾウは伊吹下ろしの風の“伊吹の弥三郎”のことで、この風が遠州平野に吹き込むころに赤く稔る小さな実だからという説を紹介するは八木洋行である。


August 28、  2004:   センニンソウ

 朝一番の天気予報を視ると、超大型という台風16号が東大東島に接近中という。その余波だろう、大粒の雨が降り出していた。しかし、10時近くになるとうそのように晴れ間が広がり、筋雲の流れる青い空がのぞき、藪陰のセンニンソウの花が白く輝いた。

      白雲の一朶籬の仙人草     川島彷徨子

 センニンソウは仙人草だが、これは花の後に残る長い白い雌蕊を仙人の髭と見立てた名だという。テッセン(鉄線)やカザグルマ(風車)などとおなじクレマチス属の1種だ。日本ではありふれているせいか園芸植物の扱いは受けていないが、イギリスではスウィート・オータム・クレマチスと呼んで、異国の美しい花として庭園に植え込まれていた。 昔は茎や葉を叩いて潰したものを魚毒として利用したが、その有効成分はサポニンだ。漢方薬で鎮痛や利尿作用のある威霊仙の原料の一つでもある。



August 29、 2005:  ヤハズソウ
 今日は私のブログ、街角の花園、のウコンを見てくれた娘から良いことを教わった。数日前に日本列島にはほとんど影響を残さずに北太平洋に去っていった台風12号の名がグチョルで、これはミクロネシア語でウコンのことだという。ウコンは東南アジアだけでなくミクロネシアやポリネシアでも広く栽培されているのだ。
 台風に襲われる心配のあるアジア11ヶ国にミクロネシアを加えた12ヶ国で順繰りに発生した台風に名前をつけることになったという話は以前聞いたことがあったが、実際にはどんな名が付けられているのか気にしたことはなかったので、嬉しい情報だった。
 早速ウエザーニュースで調べてみると、私のリコリスガーデンを吹き荒らしてくれた11号は、なんとマーワー(マレーシア語でバラ)だった。
 閑話休題。 明日はまた雨になるとのことで、少し野道を歩くと、からからに乾いた草原の中に細かな赤い点を見つけた。旗弁の大きさが5mmにも満たないヤハズソウの花だった。ファインダーの中にクローズアップしたそれは美しいマメの花だった。この草の葉を千切って遊んだ子供のころを思い出したが、花についての記憶はない。


August 30、 2005:  ヒメマツバボタン

予報どおり空模様が怪しくなってきたので、廻ってきた回覧板を急いで次のお宅へ持っていった。その途中にある細かな砂利を敷いた駐車場の縁に花壇で見るマツバボタンを思い切り小さく縮めたような、直径が1cmにも満たない、赤紫の花がたくさん咲いていた。
 帰宅して調べてみると、帰化植物のヒメマツバボタン(Portulaca pilosa) だった。
 南アメリカが原産地で日本で記録されるようになったのは第2次世界大戦以後のことであるが、大航海時代を経て世界各地に広まったと考えられている。したがって、日本に渡来したのもかなり昔のことだったかもしれない。
 現在では関東地方以西に分布が知られていて、海に近い暖地に多いようだ。芥子粒ほどの真っ黒な小さな種子をこぼして増えるが、切り取られた枝からも発根して活着する。
 英語圏でShaggy Purslane(ケスベリヒユ)と呼ぶのは花の基部にふわふわとした白い綿毛が付いているからである。
 写真の花はすでにポリネーターが訪れた後で、その証拠に花粉が花びらにこぼれ柱頭も花粉にまみれている。

 



August 31、  2004:   ヘクソカズラ

  今日は二百十日。遅れてやってきた16号が南西から北東へと大暴れしながら走り抜け、北海道の彼方へと去っていった。幸いこのあたりは被害もほとんどなく、農家の人たちもほっとしたことだろう。
 晴れればまた真夏日だ。日中の気温は30℃をあっさり超えた。刺すような光の中、手入れの行き届かない生垣に絡むヘクソカズラが咲いていた。茎や葉が臭いからと、可哀相な名をもらったものだが「鬼も十八蛇も二十歳、屁屎葛も花盛り」などとはやされるように、花はなかなか可憐だ。そこでもっと優しい名で呼ぶ人もいる。早乙女花、躍子草などの名がそれだ。一方、灸花とか天狗花とも呼ばれるが、これはかつての童たちの遊びに由来する名だ。小さな花を摘み取り、唾をつけて手の甲に乗せれば、お灸の艾のように見えるからだ。そして、鼻の頭にちょんとつければ、童はたちまち天狗に変身するのである。

        野の仏へくそかづらを着飾りて    石田あき子



September 1、  2004:  ノウゼンカズラ
  このところ逆さまつ毛が生えるようになって、PCの画面を見るのがつらくなるので、一月ごとに先生に抜いてもらっている。都住まいの娘にメールでこぼすと、歳のせいで瞼に張りがなくなったせいだと、鋭く現実を衝かれてしまった。已んぬ哉。
 そんなわけで、今日も毛抜きに行ってきたが、その医院の門先には、私が通い始めた夏の初めから、ノウゼンカズラが飽くことなく咲き続けている。夏は永遠に続くのよ!と叫んでいるような姿だ。
 この蔓植物は中国が原産地で、平安時代には既に渡来していた。漢名は凌霄(lingxiao)で、『本草和名』に和名は「乃宇世宇(のうせう)」とある。音転だろうか。漢方薬の素材の一つで、利尿・通経の効能があるといわれる。

        凌霄花まひるの火勢遠江     熊谷愛子


September 2、 2005:  コウリンタンポポ
 夏も終りに近づいたこの季節、予想外のところで思いもかけない花に出逢った。逸出して帰化植物状態になったヒメツルソバが地表を覆う、公園の奥まった一角に、一株のコウリンタンポポが派手なオレンジ色の花を咲かせていた。
 ヨーロッパが原産地というヤナギタンポポ属(Hieracium)の1種で、日本へは明治の中頃に鑑賞目的で導入されたといい、原産地と気候が似ている北海道から東北地方で帰化が始まったようだ。
 そのせいだろうが手持ちの図鑑類には分布は東北地方以北と書いてあり、私もそれを鵜呑みにしていたので遠州の里でこの花を見て驚かされた。折も折なので、”落下傘部隊”とか”くのいち”などと騒がれている美人候補者を連想してしまったが、しかし、ごく最近の帰化植物図鑑に当たると、いまや日本全域で目にすることができるらしいことがわかった。
 世界中の暖温帯に帰化していて北米では有害雑草に指定されているほどはびこっている。英名はOrange Hawkweed (オレンジ色の鷹の草)である。Hawkweed というのはヤナギタンポポ属の植物の通称で、鷹が良い目を持っているのはこの草を時々啄ばむせいだという俗信に由来するのだそうだ。


September 3、 2005: コマツヨイグサ

 聞く人によっては耐え難い騒音だと耳を塞ぎたくなるほどにぎやかに鳴いていたクマゼミの声も、ここ数日ですっかりなりを潜め、代わってツクツクボウシの行く夏を惜しむような、寂しげでそれでいて遠くまで届く声が聞こえ始めた。
 ツクツクボウシの声は確かに秋の近づきを教えてくれて入るが、夏が終わったわけではなく、今日も相変わらずの暑さだ。その炎天のもと、町内の”ミニ運動会”が開かれた。脹脛の肉離れが心配なので駆けるのは勘弁していただき、カメラマン役を引き受けた。運動会とはいっても、グランパとグランマと小学校低学年のお孫さんたちが主体の輪投げ競技などを挟んだのんびりとしたものなので、カメラマンにもグラウンドの周りの草原の花を撮る余裕がある。
 そこで見つけたのが未だ萎まずに咲き残っていたコマツヨイグサだった。
 北米東部が原産地だが、世界中に帰化している。日本で記録されだしたのは明治時代末期だが、いまでは関東地方以西にはびこっている。

 大型の台風14号が奄美から九州へ向かって北上している。東海地方も週明け辺りから影響を受けそうだが、お手柔らかに願いたいものだ。



September 4、  2004:  アメリカデイゴ  Erythrina crista-galli L.

  夏が早く終わってほしいと思うようになったのはいつの頃からだろう。魚追いに夢中になっていた少年のころには夏が過ぎてしまうのが悲しかったのだろうか。そんな気もするが、今となっては思い出せない。
 今日は天気予報が大はずれで、真っ青な空が広がり街路樹のアメリカデイゴ(カイコウズ)の花が燃え立っていた。夏は終わりにしようよ、と思わずつぶやかずにはおれなかった。
 南米が原産の地で、アルゼンチンでは国花に制定されている。日本には明治時代の中ごろに導入されたそうだ。温暖化が進んだせいもあるかも知れないが、あちこちで目にするようになった。一般のマメ科の花と違って、花柄が90度捩れて上下が逆転している。下方から吸蜜に来るハチドリには具合がよいことだろう。こちらではマルハナバチが訪花するのだろうか。

 頭上の深紅の花を見つめるうちに、ベスランの子供たちの横たわる鮮血の海に思いが飛んだ。ヒトはまっこと狂ったサルだ。



September 4、 2010:  ムサネム Aeschynomene indica L.
 今年の夏はいつになったら終わるのだろう。台風7号も太平洋側の高気圧に負けて東シナ海を北上していってしまった。気象庁で記録をつけ始めて以来の猛暑が続いている。遠州の沿海域では、梅雨明以来ほとんど雨も降っていない。
 しかし、火の玉を地殻という薄い皮で包んだこの星は、宇宙の息吹に感応しなが刻々と変貌を遂げて行く。その皺の寄った皮の上で右往左往するヒトの都合など一顧だにしない。
 ロシアの山火事も2000万余の被災者を生んだパキスタンの洪水も、ましてや遠州の猛暑など、この星にとっては無きに等しい出来事であろう。
 とはいえ、有象無象のわが身ではあるが、なんとも耐えがたき夏である。

 その猛暑の中、よんどころない所用で出かけた街中で、街路樹の根本の雑草の中にひときわ元気よく育っているクサネム(草合歓)を見た。本来は水田や湿地に生える草だが、こんな乾燥地でも生育できると知って驚いた。植樹に際して運ばれてきた土に種子が入っていたのだろう。
 クサネム属には175種もあって全世界に分布しているが、日本に自生するのはクサネム1種のみである。クサネムは旧世界の熱帯から温帯に渡って広く分布していて、インドやパキスタンでは種子を食べたり家畜の餌にし、茎の髄は軽いので日除け帽子に編んだり、炭化させて粉末にして火薬に混ぜたり懐炉に利用したという。

「野の花便り~夏~」はここで終わりにします。続いて明日から「野の花便り~秋~」を始めます。

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