sengamachi

野の花便り 〜 千框の里の夏の花 〜

 東海道線の金谷駅を発った列車が牧の原トンネルを抜けて間もなく、進行左側の車窓の向こうに、牧の原台地の西斜面に、土地の人たちが千框(せんがまち)と呼ぶ棚田が見えてくる。
 3000枚以上もあったという小さな水田は、昭和40年代の末までは大部分が耕作されていて、四季折々に美しい風景で旅客を楽しませてくれたが、農業の機械化、減反政策や生産者の高齢化などが進むにつれ放置されアシやススキや雑木が進入していった。
 現在では一部の農家と棚田愛好家のボランティア活動で、部分的ではあるがかろうじて棚田の美しさが維持されている。
 
 10日ほど前、この棚田の里の夏の花を里山を歩く会の皆さんと楽しんだ。


 
千框の最下段は蓮田になっていてその縁にはガマ(Typha latifolia)が茂っていた。

          
谷ひとつ越えつつゆけば平らあり沼地の岸に蒲ぞ生ひたる       斎藤茂吉

 
『古事記』の“因幡の白兎”の話にあるように、日本では古代から親しまれた植物で、若葉は食用され、葉や茎は筵や御簾を織るために使われ、花粉は蒲黄と呼び止血に使われた。花茎の上部に雄花が、その下に雌花が密集している。褐色の棒状の部分が受粉が住んで変色した柱頭の集まりである。熟した雌花群は少しの刺激で種子の周りの綿毛がほぐれてこぼれる。この綿毛はクッション材として利用された。
 ガマは北半球の暖・温帯にに広く分布していて、一部はオーストラリアにも侵入している。また、各地で日本同様に利用されている。
 例えば北米の先住民のアルゴンキン族は根を潰したものを止血作用のある膏薬として傷に湿布し、ナバホ族の人々は地下茎や春先に地上に顔を出した芽立ちを食用にする。また多くの部族が茎や葉でマットやレインコートを編んでいる。アパッチのように花粉を宗教儀式に使う部族も少なくない。


          
すきまなくしげれる蓮の葉の池にぬきいでて立ちひらく蓮の花     岡 麓

 
蒲の立つ草むらの向こうには水面を覆って大きな葉が広ごり、その中から手のひらほどもある薄紅の花びらの重なりが金の針のような雄蘂に囲まれた小さな蜂巣のような雌蘂の集まりをささげていた。

 ハス(Nelumbo nucifera) はボルガ川下流域からアジア、オーストラリアに分布し、やはり古代から人々の生活にかかわってきた。
 仏教とのかかわりはいうまでもないが、実も水泥中に伸びる地下茎も食糧として利用され、その葉は調理道具の一つである。また、花の美しさ、その香り、そして風に揺れる緑葉も厳冬の沼に凍てつく枯葉も、人々の琴線に触れ、美術・文芸の世界にその姿を留めてきた。

 
植物学の分野でも研究者の興味をそそってきた存在で、とくにその類縁が問題にされてきた。従来は、図鑑類に見られるようにスイレンやコウホネなどに近いものと考えられ、アルカロイドの成分からはキンポウゲ科との類縁も示唆されていた。ところが近年のDNAの研究の結果、驚いたことにヤマモガシ科、たとえば活花にも使われるキングプロテアと同じグループに入ることが明らかとなった。スイレン科は種子植物の中でも最も早く出現した原始的なものだが、ハスはずっと遅れて地球上に出現した真性双子葉植物の一員だったのである


 棚田の縁を巡る道には数株のアマチャ(Hydrangea serrata var. thunbergii ) が植栽されていた。
 棚田を離れて諏訪原城址へと向かう山道には数は多くはないもののさまざまな季節の花が咲いていた。これはその一つ、コマツナギ(Indigofera pseudo-tinctoria) 。ヤマトシジミ(?)が吸蜜に飛来していた。


 コマツナギの株のすぐ近くにはシソ科のウツボグサ(Prunella vulgaris ssp. aristata)が咲いていた。かつてはいたってありふれた草であったが、近年は目にすることが少なくなった。花の散ったあとの花穂の形を弓を入れる靭(うつぼ)に見立てたものだという。

           紫はこまやかなれや日はたけて草生にまじるうつぼ草の花     藤沢古実

 このあたりでは夏休みが終わるころにはすっかり花も萎れ枯れ草色に変っている。“夏枯草”と呼ぶのもこのためだろうが、信州の草原ではもっと遅くまで鮮やかな青い花穂を楽しむことができる。

 中天に上った太陽の熱気も、ときおり吹き過ぎる風にやわらげられるが、その風に、満開になったキンポウゲ科のアキカラマツ(Thalictrum minus var. hypoluecum) の花穂がゆらゆらと揺れていた。



              萱草は随分暑き花の色     荷兮

 登ってきた細い山道が台地の原へ向かう舗装道路と出合うあたりの路傍にはヤブカンゾウ(Hemerocallis fulava var. kwanso) が咲いていた。春先に地表に顔を出したばかりの若葉は、おそらく縄文時代よりもはるか昔から食糧として利用されていたと考えられている。古代中国では、この草を身に着けていると憂いを忘れられると伝えられていて、奈良時代の日本人もこれに倣い“萱草(わすれくさ)”と呼んだ。ヒガンバナ同様の3倍体植物で種子はできないが、地下茎で繁殖している。
 
              淵となる瀬音に合歓の咲きかかる   三橋敏夫

 雑木の茂った台地の斜面を切って登ってゆく道の、そのガードレールのすぐ傍には、薄紅に染まっている無数の蘂を束ねたネムノキ(Albizzia julibrissin) の花があった。この木もまた万葉の時代から親しまれていた里山の木の一つである。

 


           暑き日やをどり出でたる竹煮草       山田みづえ

 スギの林を抜ける路肩では撹乱された後を好んで生えるタケニグサ(Macleya cordata) が細かな白い花を咲かせていた。
 硬い竹をこの草と一緒に煮ると柔らかくなるのでこの名で呼ばれると某書にあったので、少年の頃実験をしてみたが、少しも柔らかくならなかった。その後、実は竹似草で、太い茎が中空だからという説もあることを知った。

           擬宝珠の長き花茎ひとつ立ち日のゆく道に傾きはじむ     斎藤茂吉

 杉林の奥に目を映すとシダの茂りの中にいく株かのギボウシ(Hosta undulata var. erromena) が薄紫の花穂を立てていた。従来はユリ科に分類されていたが、遺伝子(DNA)の解析からリュウゼツラン科に入ることが明らかになった。もう40年も昔のことだが、核型(染色体の形態)の比較からギボウシ類とリュウゼツラン科が近縁であることを論じたが、当時は聞き流されてしまったことを思い出す。


 天正元年(1573)に武田勝頼が築いた、典型的な武田流城郭の一つとして知られる諏訪原城の遺構の、古木の茂る林の中では、シマヘビがマムシを襲い、ホトトギスが啼き渡っていた。林縁では木漏れ日を受けてオカトラノオ(Lysimachia clethroides) の純白の花が輝いていた。

 茂みの奥に入るとウワミズザクラ(Prunus grayana)の小さな桜ん坊が色づき始めていたが、どうやら熟し始めるや小鳥の胃袋におさまっているようだった。昔は人間が実の未だ青いうちに摘み取って塩漬けにして食べたそうだ。


 城跡の南側には諏訪神社が祀られているが、その周囲には人家も多く、さまざまな園芸植物が逸出して路傍をにぎわせていた。
 ポインセチアを小柄にしたようなショウジョウソウ(Euphorbia heterophylla) は最近このあたりでよく見かけるようになったメキシコ原産のトウダイグサ科の多年草である。植物体を傷つけると滲み出る乳液は有毒で肌に触れると炎症を起こす。繁殖力が強く今では世界各地に帰化しているようだ。
 近くの廃屋の庭にはポウエリー・ハマオモト(Crinum X powellii 'Album')が咲いていた。C. mooreiC. bulbispermum の交配で作出された園芸品種の白花系統である。

千框の里はユウスゲの里


             夕菅の風あつめては散らしては    黛 執

 牧の原台地にはユウスゲが咲くということは聞いたことがあったが、今日はその優しい姿に出合うことができて感激した。
 10時頃棚田を離れて諏訪原城址へ向かう途中、ススキの原の中にすでに萎れてしまっている花と薄黄緑でふっくらとした蕾をささげたユウスゲの群落を見つけた。何時ころになれば開くのだろう、咲いた姿を見たいね、と花友と語り合った。
 帰路、14時を少しまわった頃、思いもかけず、今朝とは別の斜面で咲き始めているユウスゲを、花友が目敏く見つけてくれた。そして、あの群落へ戻ってみようと車で運んでくれた。
 やはりそこでも、今朝見た蕾が開き始めていた(左の画像)。すっかり開いた姿は、手折って持ち帰った花茎の一花が、ビルの向こうに日の隠れた18時頃に見せてくれた(右の画像)。なるほど、夕菅であった。

             夏の花原の黄菅はあけぼのの山頂よりもやや明くして      与謝野晶子

 薄明の野に露を宿して咲くユウスゲとの出合もいつかはもちたいものである。


このページのトップへ    目次へ戻る