世楽院の庭に咲いていた古典的渡来美花、岩菲




 焼津森線を北上し、キコラの駐車場に車を置き、倉真城址の丘を迂回する雑木林の中の山道を辿ると、掛川市指定保存樹木のサザンカとスイリュウヒバの立つ曹洞宗華厳寺世楽院に出る。天文元年(1532)に開山された清楽寺を掛川城主松平越中守定綱が倉真城址に移築し、世楽院と改称した古刹である。

 その庭先で、木漏れ日の中に輝く懐かしい花に出合った。
 中国の浙江省と江西省の山地林内や沢沿いの比較的明るい湿地に分布する、中国特産のナデシコ科のガンピ(岩菲)である。原産地では剪夏羅または山茶田と呼び、根茎を消炎や下痢止めなどに薬用している。
 フシグロセンノウやマツモトに近縁の多年草だが、ガンピがわが国へ渡来した時期は、昔というだけではっきりしていない。だが、江戸時代という人が多い。
 しかし、『枕草子』の「草の花はなでしこ・・・・」で始まる67段に「かにひの花、色は濃からねど、藤の花といとよく似て、春秋と咲くがをかしきなり」と記された“かにひ”がガンピだという説があり、これが正しいとすれば平安時代にはすでに渡来し、広く栽培されていたことになる。
 “藤の花といとよく似て”という部分を重く見て、薄紫の小さな花穂を咲かせるやはり中国原産のジンチョウゲ科のフジモドキ(芫花)が、あるいは和紙の原料となるやはりジンチョウゲ科のガンピ(雁皮)が“かにひ”だという説もある。だがこの2種はいずれも低木で、草の花の中に入れるのはおかしい。
 清少納言の直筆の原本はつとに失われているが、“かにひ=ガンピ”だと唱える立場の人々は、それを書き写した何者かが「ふしの花といとよく似て」とあったものを“藤の花といとよく似て”と誤写し、これがそのまま後世に伝わっているのだとみる。そう考えると“ふし”は花色の濃いフシグロセンノウで、“かにひ”はよく似て花色の薄いガンピのことだと納得がいく。
 遣唐使、あるいはさらに古く遣隋使の一行が持ち帰ったものと見ることができるだろう。

 ところで、ガンピ(岩菲)という和名の由来は何処にあるのだろう。

 渡来した当時は隋あるいは唐での呼び名を使っていたと思われる。それが現代と同じ剪夏
羅(
Jian-xia-luo)や山茶田(Shan-tu-tian)と呼ばれたかはわからないものの、やがて“かにひ”という和名が使われるようになったのだろう。だが、“かにひ”は何に因んだ名なのだろう。『枕草子・徒然草の花』や『古典植物辞典』の著者の松田修は「カニヒは“蟹緋”で、この花の蟹のような赤さを意味し、今名ガンピはカニヒの転訛かと考えられる。」と説く。たしかに、蟹をガニと呼ぶ地方も少なくない。なるほどと思うが、蟹緋を岩菲と書き記すようになった経緯には疑問が残る。“菲”は普通ダイコンやカブに似た野菜を意味するが、草が茂るという意味やかんばしい・すぐれたという意味もある。岩場に生える美しい草という意味を込めてガンピに岩菲という漢字を当てたのかも知れない。
 また、清少納言がガンピを渡来植物だと認識していたかは不明だが、「春秋と咲くがをかしきなり」と書いたところを見ると夏の終りから秋に咲く土着のフシグロセンノウと同じ種と思っていた可能性が高い。清少納言の時代にはすでに渡来種であることが忘れられるほどに普及植栽されていたのではないだろうか。そのためであろう、江戸時代の代表的な本草書『重修本草綱目啓蒙』でもガンピを阿蘇山に自生し広く栽培されていたマツモトセンノウの遅咲きの品種としている。昭和4年(1929)刊、『植物渡来考』の著者の白井光太郎も渡来種との認識がなかった。渡来種と断じたのは、国内に自生地がないことを確かめた牧野富太郎で、明治43年のことだが、彼も渡来の時期については言及していない。

 難しいことはさておき、かつてガンピが広く植栽されたのは、いうまでもなくその花姿の美しさだったのだろう。だが、私はまだ江戸琳派をはじめとする華麗な花鳥画の中にその姿を見出すことができないでいる。
 私の知る唯一の例は、江戸中期に丸山応挙一派の手によったのではないかといわれている冷泉家に伝わる花貝合わせの中に写実的に描かれたガンピである。

人行きてすぐ木隠れや岩菲咲く   村田修


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