MANATU

真夏に咲く花々

夏至 〜 半夏生 〜 小暑 〜 大暑

索引

 アカメガシワ アサガオ ウバユリ キツネノカミソリ ササユリ スイレン スベリヒユ ゼンテイカ
 タチアオイ ネムノキ ノリウツギ  ハス ハマオモト ハマナシ ヒマワリ ベニバナ マタタビ
 マツヨイグサ ヤナギラン ヤブカンゾウ ヤマユリ リョウブ



 <アカメガシワ>  赤芽柏
 

 つかの間の梅雨の晴れ間に野に出ると、アカメガシワの花の甘い匂いが、南の風に運ばれてきた。赤芽柏と書くが、ブナ科のカシワ類ではなく、トウダイグサ科である。雌雄異株で、目立たぬ黄色の花穂を梢につけるのは雄株。葉は神事の際に供物を盛る皿として上代より利用され、万葉集などにヒサギの名で登場している。


 <ネムノキ>   合歓木

 象潟や雨に西施がねぶの花     芭蕉

越王勾践から呉王夫差に献上された美姫西施に芭蕉がみたてた、薄紅色のなよやかな花をつけるネムノキは、北海道をのぞく日本全土の原野に自生する。一般に水辺を好む木で、東北や北陸では海沿いの平野に多い。北村・村田の『原色植物図鑑』によると、元来は熱帯にあったものが北辺の日本列島にまで分布を広げたものだという。

 中国でも南支を中心に広く分布しており、合歓、夜合、蓉花樹などと呼ばれている。まだ呪術的医療がおこなわれていた古い時代から知られていた植物で、漢の『神農本草経』にもその名がみえ、「合歓。味甘平。生川谷。安五蔵。和心志。令人歓楽無憂。-----」とあるのをはじめとし、後代のあまたの本草書にとりあげられている。
 例えば宋の蘇頌の『図経本草』では、崖豹の“人の忿(ふん)をすてんと欲せば、則ち贈るに青裳を以ってす”という言葉を引き、青裳は合歓のことで、つまりこの木を庭に植えておくと人の怒りを鎮めることができるとしている。『本草網目』にも同様の記述のあるほか、若葉はよく蒸して水にさらせば食べられるともある。
 中国ばかりか、日本においても、この木は古くから親しまれていた。
 年長の恋人である紀女郎から「昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ」と謎めいた歌を贈られた青年大伴家持は「吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実に成らじかも」と返歌を詠んだ。
 合歓はよく知られているように実の成りにくい木です。私の恋も実らない、そうおっしゃりたいのですか。年下の自分はからかわれている、若い家持はそう思ったのだろう。たしかに夏にはあれほど盛んに花をつけるのに、初冬の風に触れあって、かちかちと鳴る褐色の莢(さや)は、数えるほどにもない。
 「こうかの花は二度さく/二度さいて一度みがなる/一度はただのあだ花」、高知県宿毛地方の民謡もこう歌っている。“こうか”はネムノキの別名である。


 
 <マタタビ>   木天蓼

 緑深い谷の斜面のおちこちに、マタタビの葉群が白々と盛り上がっている。白化しているのは枝先の葉だけだが、葉陰に隠れて目立たない小ぶりな花の存在を虫たちに宣伝しているのだろう。花が終わり、秋の風が吹く頃になると、白い葉はもとの緑に戻り、やがて黄葉して散る。小粒の果実は少し苦い。


 

  <ベニバナ>    紅花

    まゆはきを俤にして紅粉の花

元禄二年の夏、曽良とともに奥州路をゆく芭蕉は、尾花沢の干花問屋鈴木清風に案内されての山寺詣の途上、漆山の里でこの句をよんだ。
 山形盆地の中央を、立谷川、馬見ケ崎川、寒河江川などの多くの支流を集めてくだる最上川の流域は、川霜の立つ里である。清明、つまり春分の日から数えて十五日目に、この川霧の里に蒔かれたべニバナは、半夏生(はんげしょう)の候から花をつけはじめる。

 芭蕉が「富めるものなれども、志いやしからず」とほめた三代目島田屋八右衛門鈴木清風が、その財力にものをいわせ、仙台侯伊達網宗と新吉原の高尾太夫を争ったと伝えられる元禄十五年の頃が、この地での紅花栽培の最盛期で、千歳山からは一面に咲く橙黄色のべニバナが望まれたという。

 その後、農業構造の変遷とともに紅花栽培は次第に衰退し、昭和十八年の食糧増産策の一つとして出された紅花作付禁止令により終焉を迎えたかにみえた。
 だが花への愛惜の念にかられ、密かに種子を保存した人がいた。今年八十一歳になられた桜井きくさんである。桜井さんは戦後の混乱が収まるのをまって、二十五年にその少量の種子をまいた。八年もの眠りから目覚めたのは、ほんのわずかであったが、その子孫がいま各地で美しい花を咲かせている。
 染料植物であるばかりか薬草でもあるベニバナは、呉藍、末摘花ともよばれ『播磨風土記』や『万葉集』をはじめ多くの古典にその名がみえるが、土着の植物ではなく、飛鳥時代か、その少し前に中国から朝鮮半島を経て伝来した。
 現在ベニバナそのものが野生している地域はないが、近縁種のオキシカンタが自生する中央アジアが原産地ではないかといわれる。ここから、西は地中海地方へ、東はインド、中国へと伝播した。中国へは漢の時代に入ったとされる。「われ燕支山を失い、わが婦女子をして顔色なからしむ」と漢に敗れた匈奴の王は嘆いたが、この燕支山がベニバナの産地であった。





<ハマナシ>   浜梨


  田切須崎の海辺では、たくさんの大きな花で飾られたハマナシの青緑の茂みが“あいの風”に吹かれていた。佐渡島の南端に近い小木の宿への道すがら中塚節が手折って手帳に挟んだハマナシかもしれない。近づくと、金色の花粉にまみれた花蜂が不満げな羽音を残して飛び去った。里人はハマナスと呼んでいた。


  <ヤブカンゾウ>  萱草、忘草

    わすれ草わが紐に付く香具山の
              故りにし里を忘れぬがため    大伴旅人

大宰府の長官に任命され、幼少の家持を残し、住み馴れた飛鳥の里に別れを告げなければならなくなったとき、大伴旅人はすでに六○歳を過ぎていた。忘れ難い古里、それを忘れんがため、忘草であるガンゾウを腰に付けたのであった。
 憂いを忘れるためにある種の草を身に帯びる習俗は、中国では太古からおこなわれていた。『詩経』には戦場におもむいた夫を恋いしたう妻が歌った詩があるが、その一節に「どこかでsuancaoをとってきて、わたしの背中にさしましょう」とある。つらい思いを、いっときでも忘れたいというのであろう。
 この「suancao」がどんな植物であったのか定かではないが、後代の人は発音の類似から萱草、つまりカンゾウをこの忘憂の草にあてた。

 カンゾウという名は、ホンカンゾウ、ノカンゾウ、ヤブカンゾウなどの総称であるが、『万葉集』に歌われる忘草、萱草はヤブカンゾウであろうと考えられている。
 呪術的に用いられていたカンゾウを、薬草の一つとして本格的にとりあげたのは宋代に書かれた『嘉祐本草』で、忘憂、鹿葱、宜男草などの別名があると述べている。
 明の徐光啓の著した『農政全書』には、花葉芽のすべてが食用となり、ゆでて水にさらし、塩味をつけたり油でいためたりして食べるとある。李時珍の『本草網目』ではこの花蕾を乾燥させたものを金針菜あるいは黄花菜とよんでいる。
 今日でも、金針菜は中国料理に欠かせないものの一つで、日本のキスゲによく似たキトリーナキスゲの開花直前の蕾を乾燥させたものである。甲信越地方の土産物店に「山百合の花」などの名で並べられている袋詰めの蕾は、そのほとんどが輸入された金針菜である。
 なお、前川文夫によれば、ヤブカンゾウは史前帰化植物の一つで、有史以前から人里に植えられ、その花や葉が食用されたらしい。アマナとかアマネなどの里呼び名はその名残だろうか。


 

 
<リョウブ> 令法

 水芭蕉が大きな葉を広げる湿原の細道に、白猫の尾のようなリョウブの花穂からこぼれた小さな花が散り敷いていた。北海道から九州までの山地に生える落葉高木。木肌が滑らかなのでサルスベリと呼ぶ土地もある。昔は若葉をゆでて食べたと聞いたので試したが、大飢饉でもない限り口にしたくない代物であった。
 
 * 朝日新聞社の『植物の世界』には「ハタツモリ」の名で『万葉集』にも見えるとあったが、何番の歌に出ているのだろうか。知りたいものである。


 ハス >   蓮

 久遠の世へ消ゆる水輪や蓮の花  増 葦雄

 『日本書紀』によれば、仏教が大和朝廷によって受け入れられたのは欽明13年のことである。この年、百済の聖明王から一体の釈迦佛金銅像が献じられたが、この異国の神の偶像は、美しく開いた蓮の花の中に静に佇立していた。
 国神の怒りを恐れる物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)らの反対を受けながらも、蘇我氏一族に守られた仏教は興隆し、やがて壮大な飛鳥寺が建立された。仏は蓮華座にあり、屋根には蓮華紋軒軒丸瓦があった。極楽浄土に咲く花、それがハスの花だと人々は教えられるのであった。
 だが、縄文時代後期の熊本県御領貝塚や晩期の千葉県検見川遺跡から種子や花托がみつかっているように、ハスそのものは、この列島に生を受けた人々にとっては仏教伝来のはるか以前から馴染み深く親しい植物であった。
 ハスの実や葉や根茎を食用する文化は、日本だけでなくアジアに各地で今も続くが、縄文時代の人々も食料としていたにちがいない。そればかりか、漢の劉向が編纂したという『楚辞』にあるように、葉を屋根葺きの材料にしたり編んで衣服を作ったりしてもいたのだろう。
 また、仏教思想とかかわりのなかった頃の古代の人々は、ハスの花を美しい娘にみたてたりたりもしている。

 日下江の入り江の蓮花はちす身の盛りびと羨しきろかも

 『古事記』にあるこの歌は「可愛い少女よかならず妻にしてやるから待っていろ」という雄略天皇の言葉を信じ、老女になるまで待ちつづけた引田部赤猪子が、約束を忘れはてていた天皇の前で「あなたの御側にはべるハスの花のように美しい若い女性がうらやましい」と涙して詠んだものである。
 ハスの花に美しい女性の姿をみたのは日本人ばかりではない。ラオスの民話に登場する美少女カーキーもまた香り高く美しいハスの花の化身であった。だが、つつましやかな赤猪子と違って、この少女は愛を寄せ来る男たちを破滅に追いやる多情な妖婦であった。



<ゼンテイカ> 禅廷花

 濃い山霧が晴れると、橙黄色のカーペットのようなゼンテイカの草原が広がっていた。ニッコウキスゲの名のほうが通りがよいユリ科の多年草である。近畿以北の高山の湿原に多いが、北海道では海辺でも見られる。淡黄色のキスゲ(ユウスゲ)と混同されるが、こちらは夕方に花が開き、かすかに香るので区別できる。


<マツヨイグサ> 待宵草

 ブライト病に悩まされ続け、1884年、失意のうちに世を去ったヨハン・グレゴール・メンデルの「今に私の時代が来る」という願いをこめた言葉を実現させたのは、阿蘭陀の生物学者ヒューゴ・ド・フリースであった。1900年、彼は自分が発見した事実がすでにメンデルにより明らかにされていたことを世に知らしめ、35年前のメンデルの論文を「時代に先行したものである」と誉めたたえた。
 20世紀生物学の基幹をなした遺伝の法則は、このようにして日の目を見たのであるが、このド・フリースはまた一方では進化理論の一つとして重要な突然変異説の提唱者でもあった。そして、この理論を彼に思いつかせた植物が北米原産のマツヨイグサの1種であるエノテラ・ラマルキアナであった。
 そのころ日本にも、すでに何種類かの“マツヨイグサ”が渡来していた。飯沼慾斎の『草木図説』には嘉永4年(1851)に南米チリ産のマツヨヒグサがオランダ船により長崎にもたらされたという記述があり、河川敷などに大群落を作ることのある北米原産のオオマツヨイグサも明治初年頃までには帰化していたらしい。
   竹久夢二が「やる瀬ない/釣鐘草の夕の歌が/あれあれ風にふかれて来る/まてどくらせで来ぬ人を/宵待草の心もとなき/『おもふまいと思へども』/われとしもなきため涙/今宵は月も出ぬそうな」と雑誌『少女』に書いたのは明治45年のことであった。
 これが、あの有名な「待てど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵は月も出ぬそうな」という3行詩に書き改められ、多忠亮(おおのただすけ)のつくった曲にのって世に歌われだしたのが大正7年のことであった。
 植物学上では‘ヨイマチグサ’という名の草は存在しない。これは“待宵草と書くべきところを竹久夢二が間違えたのだ”といわれているが、私には詩人夢二が意識的に書きかえたように思えてならない。
 太宰治が“富士によく似あう”と書いた‘月見草’もマツヨイグサの仲間である。


 

 <ヤナギラン> 柳蘭

 群青の大空に向かって湧き上がる入道雲と、はだらに雪を残した山並みとを背景にして、高原の草地にヤナギランが咲き乱れている。葉の形がヤナギのそれとよくにたアカバナ科の多年草で、ランの仲間ではない。北半球の温帯に広く分布するが、ヨーロッパでは大戦の爆撃で荒廃した都市部へ瞬く間に進入し、ありふれた雑草となった。

 * ヤナギランを帰化植物だという人はいないようだが、わが国の古典にこの美しい花が登場しないのはなぜだろう。牧草地の拡大に伴って比較的近年に日本列島に侵入したのかもしれない。


 <ウバユリ>   姥百合 

 夜来、雨戸を鳴らしていた荒南風もいつの間にか止んだ。海辺ちかくの宿を発つ。光沢のある濃緑の葉で覆われた照葉樹が茂る安房の山並みは黒潮のうねりを思わせる。そのうねりの下に潜ると、山頂の社殿へと続く小道が、アオキやヤブツバキやイノデなどが密生した林床を縫って、朝霧の彼方へ消えていた。その小道の消えかかるあたり、目を凝らすと一人の白衣の修験者が佇んでいる。と見えたのだが、近づいてみると、それは数輪の白花を咲かせた一株の大きなウバユリであった。

  木の暗に開きあへざる白き花
         露しとどなる今朝のうば百合    上屋文明

ウバユリ属は東亜の北太平洋地域からヒマラヤにかけて分布するが、わずかに三種が知られるのみである。ユリ属にたいへん近いものだが葉脈が網状である。日本産のものは北方系のオオウバユリと福島県以南に多いウバユリとに区別されるが中間型もあって分類はかならずしも容易ではない。

ユリ同様、その鱗茎(ゆりね)に良質の澱粉を多量に含むので昔から食糧として利用きれてきた。小野蘭山は『重修本草網目』に蕎麦葉貝母の名でとりあげ「野人取リテ食用トス、故ニ山カブラノ名アリ」と記している。また『大和本草』の著者貝原益軒はシカカクレユリと呼び「西土ノ野人ハ牛蒡ユリト名ツケテ煮テ食ス其味巻丹ニ似テ甘シ」という。益軒先生のいう西土は筑前あたりをさすようだが、東国でも食用していたに違いない。ことに狩猟採集生活をしていた頃のアイヌの人々にとっては貴重な食品であった。彼等は旧暦の四月をキモウタチプ(少しウバユリを掘る月)、五月をシキウタチプ(どっさりウバユリを掘る月)とよんだ。そして、トゥレプ・タ・ウシ・ナイ(ウバユリをどっさり掘る沢)などの地名が今も北海道のあちこちに残っているという。

 ほのかに林檎の香りを放つ花は、やがてほろほろと散って細長い子房だけが残り、秋にはそれがふっくらとした緑色の実になる。

   秋さぶるおどろが中に姥百合は
           青実むすべる茎を立てたり        五味保義

 やがて霜が降りるころになると、実は褐色に変わる。そこには、何百という数の種子がぎっしりと詰まっているので、東北地方では“狐の金庫”と呼ぶそうだ。直径一センチほどのぺらぺらの薄く軽い種子は、音を立てて森を渡ってゆく激しい風に乗って、新天地へと旅立って行くのである。



   <タチアオイ>    立葵

  この梅雨の晴れ間は何日ぶりのことだろう。今日は太陽が黄経105度に位置するという小暑である。庭先では例年になく大きく育った立葵が、掌ほどもある、薄く紅を帯びたなよやかな花々を、下から上へと綴り咲かせていた。
 
 白き指に紅のにじみてなまめける
       にほやかさもて咲く葵かな  木下利玄

このたいそう美しい花をつけるタチアオイは中央アジアをその原産の地とする越年性草本である。中国では漢の時代にはすでに栽培されていたらしく、紀元前二世紀頃に編まれた『爾雅』に蜀葵の名で登場する。これは蜀の国(現在の四川省地方)から伝来したアオイという意味である。
 また、敦煌の壁画の一つである「楽庭壊夫人供養図」に一株のタチアオイらしいものが描かれている。この植物が絹の道に沿って西域から中国へと伝播したことを示唆するものであろうか。
 我国への渡来はいつ頃のことであろう。葵の字が最初にあらわれるのは『万葉集』の三八三四番の短歌であるが、この葵は食用されるフユアオイのことらしい。だが、九一八年に成ったという『本草和名』を見ると、蜀葵の和名として加良阿布比をあげており、これは明らかに今にいうところのタチアオイである。つまり、平安時代にはすでに渡来していたのである。
 室町時代になると、画材としても注目されはじめ、例えば狩野宝楽筆と伝えられるボストン美術館所蔵の名画「麝香猫図」には紅花と白花のみごとなタチアオイが描かかれている。
 江戸時代ともなれば、多くの品種も作り出きれ、いわゆる淋派の画人たちが好んでこの花を描いたが、なかでも酒井抱一が残した“十二か月花鳥図”の内の「立葵に紫陽花図」のそれが、ことのほかあでやかであった。

 いま美しく咲き盛るタチアオイも、間もなく花終わる日を迎える。その日、房総の地の梅雨も明けるはずである。



   <ノリウツギ>   糊空木

 色とりどりのザックを背負った子供たちがにぎやかに登っていく山の道に、ノリウツギが真っ白な花を咲かせている。名は樹皮を水につけて製紙用の糊をとったことに由来する。北海道ではサビタと呼ぶが、これはアイヌ語ではなく、東北地方の里呼び名が開拓民によって持ち込まれたもの。アイヌの人々はラスパと呼んだ。


   <ハマオモト>    浜木綿

 はるか南、フィリピン群島の近海から日本列島をめざして北上してくる黒潮、これは太古より動植物を運び続けている海上の道である。

 半年以上も波間に漂っていても発芽力を失わない種子をつけるハマオモトは、この道に沿って分布を広げてきた海辺の植物である。南国生まれゆえ寒気には弱く、年平均気温が十五度を割ると生育できない。現在の分布の北限は房総半島の南端で、館山市の沖の島や平砂浦などにわずかに自生している。

 「浜木綿に流人の墓の小ささよ」と篠原鳳作は歌ったが、北限のハマオモトもまた、古里へ帰るすべのない漂着者であった。浜木綿はハマユウと読み、ハマオモトの別名である。

み熊野の浦の浜木綿百重なす
           心は思へど直に逢ぬかも


 柿本人麻呂が、直接には逢うことのできない女への恋の苦しさもどかしさを、ハマユウに託した歌である。このように浜木綿といら名は万葉の時代からのものであるが、なぜこの花を浜木綿と呼んだのであろう。
 本居宣長は『玉勝間』の十二の巻で、白く垂れる花のさまが木綿(ゆう)に似ているのでハマユウとよぶのだろう、と書いている。木綿とは緒(コウゾ)の皮から取った白色の繊維のことで、これを榊の枝につけて垂らしたものを木綿花(ゆうばな)と呼んだ。造花である。

    泊瀬女の造る木綿花み吉野の
                    滝の水沫に咲きにけらずや

 ハマユウの花が、この万葉集九一二番の歌などに登場する木綿花に似ているからだとの説である。
 いっぽう、牧野富太郎のように、真っ白な木綿のような葉鞘が幾重にも巻き重なっていることに基づく名だとする学者もある。柿本人麻呂の歌にある“百重なす”の意味はここにあると考えるのである。

 ところで、大仏次郎の『旅路』の一節に、和歌山県御坊町(現在は美浜町)の烟樹の浜に沿った道を三尾村に向かうバスの中で「あれが、夏、花の咲くハマユウの木です」と車掌が岡本妙子に話しかけるところがあるが、この“ハマユウの木”とよばれた植物はなんだったのだろう。時々思い出す気になる植物の一つである。



  <ヤマユリ> 山百合

 夏木陰を流れる涼やかな風が、ヤマユリの芳醇な香りをつれて通り過ぎた。東北から近畿にかけて分布する日本特産のユリ。美しい花を求めて幕末の日本を訪れた英国の園芸家フォーチュンは、横浜に程近い金沢村の丘に咲き乱れるヤマユリに感激し、その根を掘り取っている。
 文久2年(1861)の夏であった。

 山百合の強きにほひに酔へるひと
          二人ありけり夏のあけがた  吉井 勇

 山百合のゆたけき蕾六つに裂けて
          咲きぬる見れば世は事もなし 若山貴志子


< ササユリ >   笹百合

 神前の右と左に配置された、径一尺ばかりの蹲(そん)と缶(ほとぎ)の二つの酒樽は、百余本の百合で飾られ、緋の袴をはき黒髪に日陰蔓を巻いた4人の乙女が、静にその前を舞う。白くたおやかな手にゆれるのは、杉枝をそえた百合の花束である。百合は三輪山に咲くササユリであった。
 百合を飾って疫病退散を願うこの祭りは、奈良市率川神社の三枝祭りである。
 率川神社は三輪明神大神神社の摂社で、神武天皇の后が主祭神であり、后はいうまでもなく伊須気余理比売命(いすきよりひめのみこと)である。
 日向を発って、宇沙、岡田宮を経て瀬戸内海を渡り、紀伊水道から潮岬を
回って熊野に入り畝傍の里へと、東征をはたした神武天皇は大久米命の勧めにしたがって、高佐士野(たかさじの)に遊ぶ七媛女(ななおとめ)のうちからひときわ美しい娘を后に迎えたが、これが三輪の大物主神と勢夜多良媛(せやたらひめ)との間に生まれた伊須気余理比売命であった。

 平沢定人の筆になる三輪明神縁起絵巻には、ササユリを天皇に献じる七媛女たちが描かれているが、このようなかたちで百合と伊須気余理比売命とを結びつける発想は、命がその河辺に住んでいたという佐葦河についての『古事記』の記述から生まれた。そこには「其ノ河ヲ佐葦ト謂フ由ハ其ノ河辺ニ山由理草多ニ在リキ。故、其ノ山由理草ノ名ヲ取リテ佐葦と号ケキ。山由理草ノ本ノ名佐葦ト云ヒキ」とある。そして、この山由理草は賀茂真淵らによりササユリであろうと考証されている。
 このように百合は古代から人々に注目されていた植物で『万葉集』にもこの花を詠んだ歌が10余首もある。また、美術工芸にもはやくからとりあげられているが、正倉院御物の一つの『花樹孔雀紋刺繍』にある百合がこの分野では最古のもののようだ。
 桃山時代の能衣装『茶地御所車百合縫箔』の百合や、京都妙心寺天球院の狩野山楽が描いた襖絵のハカタユリなどもまた有名である。




   <ヒマワリ>    向日葵

  向日葵は金の油を身に浴びて
          ゆらりと高し日のちひささよ     前田夕暮

 いまでは世界のほとんどの地域で栽培されているヒマワリも、十六世紀の初頭までは新大陸だけにみられる植物であった。コロンブスの新大陸発見にともなって、数多くの草花がヨーロッパへもたらされたが、ヒマワリもそのような植物の一つである。
 三メートル以上にもなる草丈と、人々を見下ろすように咲く大輪の頭状花は、当時の人たちにとってはまさに驚異的なものであったようだ。一五九七年にイギリスで出版された『本草または植物の一般史』のなかで著者のジエラードは、“太陽の花またはペルーの黄金の花”について「茎は真すぐ上に伸び、強壮な男子の腕ほどもの太さになる」などと驚きを込めて記述している。

 シルクロードが忘れられ、海路による交易が主体となったこめ時代、ヒマワリがアジアに伝わるのにさほどの年月を要しなかつた。明代の一六三〇年に書かれたという『群芳譜』に、すでに丈菊の名でヒマワリがとりあげられている。
 わが国の書物で最初にヒマワリがでてくるのは一六六六年版の『訓蒙図彙』で、丈菊一名迎陽花と記されている。『大和本草』にも向日葵の項があり、「花ヨカラス最下品ナリ只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ」とある。太陽の運行につれて花が向きを変えるというのは事実に反するが、これは新の陳扶揺の『秘伝花鏡』の巻五に、“太陽に随いて回転する云々”とあるのを鵜(う)のみにしたからであろう。
 おもしろいことにヨーロッパにも全く同じ誤解があるが、先にあげたジェラードは“私はそれが本当かどうか確認に努めたが、それを観察することはできなかった”と書いている。さすがである。

   ひまはりが好きで狂ひて死にし画家     高浜虚子

 ヒマワリという言葉を聞くと、大概の人は情熱の画家ゴッホを思い浮かべるにちがいない。
  だがヒマワリを描いた画家はけっして少なくない。モネの描くヒマワリも見事であるし、江戸琳派の一人、鈴木其一の描いた一幅の『向日葵図』もすばらしいものである。


  
 <スベリヒユ>  馬歯草

 目くるめく炎天のもと、靴底を通して熱気が伝わる歩道の敷石の隙間に、スベリヒユの小さな黄花を見つけた。耕地雑草の一つで、南米の熱帯が原産地らしい。多肉質で柔らかく、古くから野菜として利用していた。実は熟すと帽子を脱ぐように上半分がはずれ、つややかで黒々とした細かな種子がこぼれる。



  <キツネノカミソリ>  狐剃刀

 東能代で乗り換えたディーゼル車が五能線の大間越の駅に着くと、下校の途中らしい、コロコロと笑い合うふくよかな少女たちが、車内に駆け込んできた。
 彼女らのとりかわす会話の意味はかいもく理解できなかったが、その津軽の言葉は可憐な小鳥の群れのさえずりのように心地よかった。
 白神岳のふもとに咲くという、北辺のキツネノカミソリを求めての旅であった。

 七月の中旬から八月下旬にかけて赤橙色の花を開くキツネノカミソリはヒガンバナと同属であるが、ふつう低山地の小沢沿いに生育しており、人家の近くではあまり見られない。だが、秋田県の金浦や山形県の吹浦のようにヒガンバナがない土地では、畦道や墓地にキツネノカミソリが生えている。金浦の大蓮池のほとりを散策していた老人は、私が手にしたキツネノカミソリを見て、ヒガンバナなど集めてどうするのかと訝しげに声をかけてきた。
 植物方言集でしらべてみると、ヒガンバナとの混同は、日本海側だけでなく近畿地方や四国や九州にもあり、東北地方ではナツズイセンとも混同されている。この傾向は『和爾稚』や『本草綱目啓蒙』など、江戸時代のほとんどの本草書にもみられる。つまり日本人は昔から、花時には葉がなく、葉の茂る季節には花の咲かないこの類をハミズハナミズと呼んだり、葉の形を剃刀にみたててカミソリグサなどと呼んで、ひとまとめにしてきたのである。現在残っているキツネノカミソリの里呼び名の多く、例えばカブレノハナ・ジゴクバナ・ジュズバナ・シロイ・ヤクビョ−バナなどは、ヒガンバナの里呼び名でもある。
 キツネノカミソリは下総台地の二次林内でもよく見かける。たとえば、千葉市緑区野呂の泉自然公園内の、釣橋がかかる谷地の斜面には、カタクリなどと混生した大きな群落があり、その花の季節は美しい。このあたりではホウロクバナと呼ぶのだと、園内で出逢ったご婦人から教えられたのは、昨年の夏のことであった。


  

 <アサガオ> 朝顔

 花柄の浴衣がよく似合う童女が、紅の色をした大輪アサガオの、その囁きを聞き取ろうとするかのように、小さな頬を寄せている。この蔓草の原産地は東南アジアらしいが、平安時代から既に栽培されており、江戸時代には多数の品種が観賞されていた。東京入谷の鬼子母神境内の朝顔市は明治時代に始まった。


 
  <スイレン>    睡蓮

 二メートル四方に広々と開け放たれたその時空をつなぐ窓は、国立西洋美術館の、静もりかえった展示室の大きな壁面の中央にあった。その窓の向こうには、岸辺に茂る枝垂れ柳の葉叢のから幽にこぼれる木洩れ日を映す紫色の水面がひろがり、幾群もの睡蓮が、白と薔薇色の花を、けむるように咲かせていた。
 そこは一九一六年のパリ郊外、ジヴェルニー。セーヌの支流エプトの流れを引き入れた和風庭園の一隅である。どこかでかすかに花蜂の羽音がしている。そしてそこには、この窓辺に立つ私の視界には入らぬが、水辺に舫った小さな平底舟の傍らに、白ひげに麦藁帽子の、やさしい眼差しの老人が佇んでいるはずである。老人は睡蓮をこよなく愛したクロード・モネその人である。


 むらさきの睡蓮の花ほのかなる息してなげく水の上かな   与謝野晶子

 世界には四○種ほどのスイレンがあり、その多くは熱帯に生育する。モネが愛し、晶子が詠ったスイレンは、この熱帯産のものを改良して耐寒性を持たせた品種である。また、古代エジプトの人々が、スイレンを神聖な花とみなして親しんだことはよく知られている。ある時期の墳墓の璧画や彫刻には、必ずといってよいほど、スイレンの花を手にしたり髪に飾ったりした女性が描かれ刻まれている。いっぽう、種子や根茎は大切な食糧でもあったから、彼等はこの花を多産、復活のシンボルとしたのであろう。太陽神ホルスがこの花の上に佇立する姿も描かれてあるが、この構図はやがてガンダーラの仏教美術にとり入れられ、仏教とハスの花との結びつきを生んだ。五世紀のものという、スリランカのシギリヤにあるフレスコ画には、スイレンの花を手にしたヒンズーの乙女が描かれていて、ここにもエジプト文化の影響がみえる。

 あしびきの山かげ沼にまさびしく睡蓮の花のゆふたち萎む   石原 純

 睡蓮の花のみ白く暮れのこる夕の水におもふそのかみ     原阿佐緒

 この恋人たちが見た睡蓮は、日本に自生する、純白で可憐な花をつけるヒツジグサである。私もこの睡蓮の方が好きだ。


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