KIKU

ー 菊 の 話 ー
            Folklore of KIKU, Chrisanthemum morifolium

日本を代表する花


 英国のプラントハンターで、『江戸と北京』の著作を残したロバート・フォーチュンを乗せた小帆船マーモラ号が長崎から北上して神奈川沖に投錨したのは、万延元年(1860)の晩秋、10月30日の朝であった。
 神奈川居留地の某寺の一室を、ポルトガル領事で旧友のジョセフ・ローレリアに提供してもらったフォーチュンは、さっそく珍しい植物を求めて、近郊を連日のように歩き回った。
 そんな彼が最初に目にとめた花がキクであった。丘の麓に点在するどの農家にもささやかな庭があり、色とりどりのキクが咲き乱れていた。

 農家の一軒で気に入ったみごとな品種を購入することのできたフォーチュンは「これは私の日本での最初の買い物であった」と記している。
 
彼は11月中旬に江戸へ移るとともに、さらに精力的なプラント・ハンティングを始めるが、団子坂の茶屋でみた「数千の花を使って作られた菊人形の美人」に驚嘆している。
 こうしてフォーチュンはキクこそ日本を代表するに相応しい花と考えるようになったが、明治元年一月の太政官布告によって16弁の菊花が皇室の紋章と正式に定められてからは、日本人にとってもキクは国家を象徴する植物となった。
 とはいえ、現代の若者の中には、海外旅行に出かけるときに手にした旅券の表紙を飾る菊花紋の意味を知らないものも少なくない。

キクの原産地は中国だった


 このように、キクは外国にも認められた日本の国花であるが、実は土着の植物ではない。原産地は中国で、平安時代前期に渡来したというのが今日では定説となっている。
 そこで、栽培される中国生まれのキクを”イエギク”と呼び、リュウノウギク、イソギク、ハマギク、ヨメナなど、日本に野生しているキクの仲間を、まとめて”ノギク”と呼ぶ。


ダルマギク

イソギク

リュウノウギク

 かつて牧野富太郎は、イエギクは四国・九州の海辺近くに生えるノジギクから生じたものとの説をたてたが、その後の形態学的および細胞学的研究から、北方系のチョウセンノギクと南方系のシマカンギクが中国大陸の中部で交雑しイエギクが生じたと考えられるようになった。
 キクの研究で世界的に知られた北村四郎によれば、紀元前10世紀頃の前漢に編まれた『礼記』に黄色花を咲かせる「鞠」という植物が記されており、「菊」の字は之に由来するが、鞠の実体はイエギクではなく中国北部に野生しているセイアンアブラギクかホソバアブラギクだろうという。
 中国でのキクについての漢代の記述は『礼記』にとどまらず、『爾雅』や『楚辞』にもみられ、『神農本草経』には「軽身耐老延年」の薬効のある草だと記されている。つまり古代中国ではキクを神仙の霊草と考えていた。

 いずれにせよ、雑種として誕生したイエギクが花好きの人の目に留まり、採集され庭園で栽培され始めたのは、おそらく6世紀前半の梁の時代であり、唐代にはすでに多数の改良品種が作出されていたらしい。この時代には「菊」と書けばイエギクを意味するようになっていた。
 中国ではこの後も品種の改良が行われ、南宋の范石湖が著した『菊譜』には71品種が記載されている。

日本への渡来


 日本へイエギクが渡来した正確な年代は不明だが、宝亀年間(770〜780)に完成したといわれる『万葉集』の4516首中に全くキクの名がみられないことから、移入されたのはこの時代以降のことと考えられている。
 キクの名が初出する平安時代の典籍は『類聚国史』である。そこには延暦16年(797)10月11日に宮中で催された曲水宴での桓武帝の御歌、「このごろのしぐれの雨に菊の花散りぞしぬべきあたらその香を」が挙げられている。この短歌は時雨に濡れそぼる庭先のイエギクの花を眼前において詠まれたもののよう思える。
 正確な年代はともかくとして、イエギクは遅くとも平安時代中期までには京の貴族たちの秋の庭に彩をそえる存在となっていたのであろう。


 鶴岡八幡宮にある国宝の籬菊螺鈿蒔絵硯箱の蓋表には籬(まがき)に囲まれて咲き乱れる一重咲きのキクを見ることができる。渡来して間もない頃のキクが、不老長寿をかなえてくれる霊草として慎重に栽培されていたようすがうかがえて興味深い。

深まるキクへの愛着


 さらに時が流れ、『枕草子』や『源氏物語』に記されて、そして没落した貴族たちの荒れ果てた庭にもキクが茂るようになると、中国生まれの神仙の霊草も次第に日本の風土に馴染んでゆく。かくて、鎌倉、室町、安土桃山、江戸へと時代が移るにつれ、貴族社会から武家へ、そして農民町民の庭へと移し植えられ広まっていった。
 元禄7年9月8日、支考、素牛らに付き添われて故郷の伊賀上野を旅立った芭蕉は、途路奈良に一泊し、「菊の香やならには古き仏たち」の句を残すが、このキクにはもはや中国生まれの面影はない。
 平安朝の菊花蝶鳥鏡に刻印されたキクは瑞祥の象徴であったが、江戸中期の陶工尾形乾山の色絵菊絵向付けに描かれたそれは、美しい花以外のなにものでもなかった。


 中国においても宋から明の時代にかけて品種の改良が行われてかなりの名品が作出されたが、日本ではこれを遥かにしのぎ元禄時代にはすでに200余もの品種が栽培されていた。江戸時代のキク栽培の最盛期は正徳から享保に亘る30年ほどであった。
 元文元年(1736)に児氏素仏が著した『扶桑百菊譜』はその成果の集大成ともいえるものであった。品種ごとに図を示し、花銘と寸法が記されている。その中には「諸白髪」と銘された花のように、細い管咲きの花冠の直径が34cmにも達するものがあった。
 このキク作りへの情熱は一向に衰えを見せず幕末まで続いている。秋が訪れるたびに人々は飽きることなく菊見の会へ出かけるのであった。
 そして文化元年(1804)には麻生で菊人形が創作され、巣鴨や染井をはじめ日本各地へと広まっていった。
 「菊人形作りは神迎えの影向(ようごう)の役を果たす祭りの山車作りと共通の精神基盤に立つものだ」と『花と日本文化』のなかで西山松之助は説くが、これはまた同じ頃考案された文楽人形にも通ずるものであろう。

 ともあれ、フォーチュンが楽しんだ万延元年の秋に咲いていたキクは、このようにして生まれたものであった。

 21世紀に生きる我われが、遥か古代にキクが持っていたあの霊力をかすかに思い起こすのは、まだあちこちに残されている菊花紋や菊水模様をふと目にしたときではないだろうか。

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