epilogue

ヒガンバナの民俗・文化誌
(Y)

〜 エピローグ 〜

浙江省杭州近郊の田園風景

 大声で叫び交わしながら激しく揉みあって改札口をなだれる人波に飲み込まれ、よろめきながら上海駅構内に入り、やっとの思いで第3ゲートにたどり着く。杭州行急行便の発着するプラットホームへの入り口である。
 ベルが鳴り、ゴトンと列車が動き、なにげなく腕の時計を見ると、定刻の3分前だった。

 市街地を抜ければ、広大な揚子江下流域の沃土には見渡すかぎり畑や水田が開かれ、小舟が行き交う水路には風眼蓮(ホテイアオイ)や水浮蓮(ボタンウキクサ)が浮かび、四角形の池には驚くほどによく育った空心菜(ミズアサガオ)や菱(ヒシ)が重なり合うようにして茂っている。水辺近くには大きな赤い実を結んだ楮樹(カジノキ)も植えられていた。
 乗客が飲食する甘味料の香りにひかれるのか、ひた走る列車の窓を風圧に逆らってミツバチが出たり入ったりしていた。
 上海を発って4時間30分、押し出されるようにして降り立った杭州の環状東路に面した駅前広場も、人また人の波であった。

 1987年9月4日、故郷に咲くヒガンバナとその仲間たちに出合う旅の始まりであった。

 いくつ物美しい交配種を作出されている杭州植物園の育種家の林巾箴女史と面識を得たのもこのときのことである。その後の8度にわたる中国訪問を通してヒガンバナ属の実態がかなりはっきりとしてきた。それは予想をはるかに上まわるほど複雑なものであった。

 中国と日本の研究者が同一種とみなしてきたいくつかの分類群が別物であることも判明した。シロバナヒガンバナ(Lycoris albiflora)はその一例である。
 やや赤みが差すこともあるが、純白に近い花を咲かせるこの植物は1924年、奄美大島産と思われる個体をもとに小泉源三が新種として記載し、後にショウキランとヒガンバナの自然雑種と判明したものである。これが中国にも分布することになっていて、乳白石蒜と呼ばれていた。『中国植物誌第16巻第1分冊(1985)』には江蘇省の山野に自生するとある。しかし、葉が伸展するのは春だとあり、日本産の秋出葉性と異なる。また、江蘇省にヒガンバナはあるもののショウキランが分布するという報告もない。
 そこで原産地に赴き、乳白石蒜なるものを採集し、外部形態と核型を観察した。その結果、乳白石蒜はシロバナヒガンバナとは似て非なるものであった。親の一方はヒガンバナだが片方はショウキランではなく江蘇省に広く分布している中国石蒜(Lycoris chinensis)と考えられた。
乳白石蒜 シロバナヒガンバナ


 取り違え事件は近代植物分類学の黎明期にもあった。
 ガーンゼーリリー(Guernsey Lily)とヒガンバナの混同である。これにはかの“熊野の森の巨人”南方熊楠がかかわっている。
 フランスのサン・マロ湾の沖合いにイギリス領チャンネル諸島がるが、ガンゼーリリーとはこの諸島の一つのガーンゼー島(古名はサルニエ島)に生えるユリという意味である。これがこの島にどんな方法でいつ伝来したのかは口伝えがるのみで確かな記録はないようだが、モリソン(1680〜1699)の『プランタルム・ヒストリア・ウニヴェルサリス・オクソニエンシス=オックスフォード植物誌』の説が一般に流布しているものである。それは、日本から帰国の途にあったオランダ船がこの島の沖で難破し、その積荷の球根が流れ着き野生化したものがガーンゼーリリーだというものである。一説には、それは1634年、江戸幕府が鎖国令を敷く1年前の出来事だったという。また、難破船からこの球根をもちだした島民が、食糧と勘違いして煮炊きしたところ、あまりにもひどい味だったために残ったものを野原に捨てておいたところ、見たこともない美しい花が咲いて人々を驚かせたという言い伝えもある。

 日本で最初にヒガンバナに出合った西欧人が誰でいつのことだったかは知るよしもないが、室町時代も末の天文18年(1549)の8月に鹿児島に上陸し、約2年間を平戸や山口など各地をキリスト教布教のために巡ったフランシスコ・ザビエルの一行であった可能性もある。このおよそ50年後、日本イエズス会が編んで長崎で刊行した、日本語をポルトガル語に訳した辞書には「Manjuxaqe(マンジュシャケ)−秋に咲くある種の赤い花」とあり、宣教師たちがヒガンバナを知っていたことがわかる。

 混乱の発端は、この100年ほど後の元禄3年(1690)に長崎を訪れ、2年と1ヶ月を日本で過ごしたエンゲルベルト・ケンペルが故郷の北ドイツのレムゴーで1712年に出版した『廻国奇観』であった。彼は420種もの植物を採集し、それをこの書で解説しているが、ここにケンペルは「ヒガンバナはコルヌチのいうところのナルキスス・ヤポニクス・フロレ・ルチロ(赤花日本水仙)である」と記した。

 一方、ダグラス(1725)は、ヤコブ・コルヌチ(ジャック・コルヌ)が1635年に北米大西洋岸とチャンネル諸島などを記載した本の中で、“赤花日本水仙”と名づけた植物はガーンゼーリリーであるとして、島の古名に因みリリウム・サルニエンセと命名し、原産地は日本だとした。リンネは『植物の種』の1753年版においてこれをアマリリス・サルニエンシスと改名している。リンネの弟子で1784年に大冊『日本植物誌』を著したチュンベリーも長崎で採集したヒガンバナにアマリリス・サルニエンシスを当てている。
ガーンゼーリリー (赤花日本水仙)

 金銭的に困窮したこともあり、19世紀も余すところ数ヶ月というところで英国留学を打ち切り帰国した南方熊楠は、数年後ふとした機会に読んだガーンゼーリリーの日本由来説に興味をひかれ、くだんの調子で執拗に調べ始める。その結果、モリソンやダグラスの日本原産説をよしとして「ガーンゼー百合の本種は石蒜たること疑いを容れず」と書くに至る。「・・本種は・・・」とわざわざ書いたのは、彼がロンドンに滞在していたときに街角の花屋の店頭に見たガーンゼーリリーは、よく似てはいるもののヒガンバナとは異なる植物だったからである。ヒガンバナは一度はガーンゼー島に野生化したものの、北緯45度30分に位置する島の風土に合わず、間もなく絶え、代わってよく似ている別の種が栽培されるようになったと考えたのである。2月の平均気温6℃はともかく、真夏8月の平均気温が16℃、年間平均降雨量914mmはヒガンバナの生育、ことに花芽形成には向いていないといえるだろう。また、大正4年の『日本及日本人』の元旦号に発表された『石蒜の話』を読むと、この結論に至る背景には、“東洋のものはすばらしい、西洋にまけるものか”という熊楠の気負いがあったように思える。


 ところが、その後の再検討により、コルヌチの赤花日本水仙はその原典の付図からみて、ヒガンバナではなく南アフリカはケープ地方原産のネリネ・サルニエンシスということになった(Gray 1938; Muntschick 1983)。途中で入れ代わったのではなく、最初からアフリカ産の植物だったわけである。ケンペルもチュンベリーも同定を誤ったことになる。当時の専門家でも間違えるほど両者は似ていたということでもある。しかし、似ているのは見掛けだけで、わかれて以来数千万年にも亘るかも知れない長い期間を地球の南と北で独自に進化してきた両種はいまや核型も遺伝子でもはっきりと異なる存在となっている。
 ちなみに、リンネのアマリリス・サルニエンシスをネリネ・サルニエンシスと改名したのはヒガンバナ属を独立させたヘルベルトである。

 なぜこのような混同が起こったのか。日本からの帰路にあるオランダ船だから積荷は日本のものに違いないと思い込んだガーンゼー島の住民のあの口伝がそもそもの原因だったのだろう。当時のアジアとヨーロッパを結ぶ航路は必ずアフリカ南端の喜望峰を経由したから、難破した船が積んでいた球根は日本からのヒガンバナではなくケープ地方で集めたネリネのものだったのである。
 熊楠はロンドンでヒガンバナと出合うことはできなかったが、21世紀の日本に住む私たちは、植物園やフラワーショップに足を運びさえすれば、南アフリカうに生まれたネリネの仲間に出合うことができるのである。

 

 最後に、私にとって忘れ難いヒガンバナとの出合いを紹介させていただく。
 その出合いは、ヒガンバナの染色体にとりつかれて間もない1976年の夏のことであった。場所は京都大学理学部植物学教室の静まりかえった標本庫の片隅。古びた木製の机の上で広げた一枚の台紙に張られた、色褪せ縮れた寂しげな一株のヒガンバナと出合ったのである。
 その標本は文部省学術研究会議が昭和20年9月に設けた原子爆弾災害調査研究特別委員会の生物科学会調査団に加わった京都大学教授北村四郎が長崎西山地区の爆心地付近で採集した株の一つであった。

 昭和20年8月9日午前11時2分。松山町170番地上空500m。“でぶっちょ”のプルトニウムが臨界点に達し、閃光と熱線を発して炸裂。

 調査団が長崎に入ったのはこの2ヶ月後のことである。秋が訪れた原子野で調査団が採集した数少ない植物の一つがこのヒガンバナであった。
 調査団の一人、前川文夫は「まるで春先のショウジョウバカマのような花をつけた数センチメートルしか丈のないずんぐりした花茎が所々に顔を出しているのをみつけた。花はほとんど開かず、しかも短くてヒガンバナ特有のあの赤さも、豪華な花弁のそり返り方もまったくみられず、みすぼらしい花つきである」と『ヒガンバナの執念』に記している。

 原子爆弾の放射能による種の突然変異の実例になるとの期待から、かなりの数の球根が東京と京都の実験圃場に移植された。しかし、次の年の秋が来ても1本の花茎も立たず、葉も伸びることなく、すべては死に絶えた。20年の8月、地中にあってすでに完成していた花芽はかろうじて生き残り、いじけながらも花開いたのだが、次の年の葉や花の原基細胞は放射線に射抜かれて命を継ぐことができなかったのである。

 身震いし、鳥肌立ち、心の沈む出合いであった。

 その日から30年後に金毘羅山の麓、浦上天主堂に近い江平町の路傍で採ったヒガンバナの中に、染色体異常をもった株があった。染色体数は2n=32と正常個体より1本少なく、2本の染色体が融合していた。この染色体突然変異がどんな原因でいつ起こったのかはわからないが、被爆の厄災を生きのびたヒガンバナの子孫ではあるのだろう。


<追い書き>

 ヒガンバナに魅入られて夢中になっていた頃の私の思いのたけを、だれかれかまわず話してみたい衝動に駆られてというきらいが多分にある『ヒガンバナの民俗・文化誌』ゆえ、思い入れが過ぎていささか度を越した記述があるに違いない。そんな私の未熟さはご苦笑の上にてお許しただければ幸いである。不十分な調査や読みの浅さが原因の誤りのあることを恐れる。言語道断ともとれる飛躍があるかもしれない。読者のご叱正とご教示を待つ。
 作文上の都合もあって、文中に挙げさせていただいた方々の敬称は省略させていただいた。この場を借りて非礼を詫び、お許しを乞う次第である。

《 ヒガンバナの民俗・文化誌:主要参考文献 PDFファイル 》

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