torai-4

ヒガンバナの民俗・文化誌

(Ⅳ)

~ ヒガンバナ渡来説再考 : その2 ~

<古典に探る>

 自然分布にせよ人為分布にせよ、これまでに提唱された説によれば、ヒガンバナは有史前から日本に渡ってきており、しかも食料の一つとして私たちの祖先は出合っていたことになる。ところが現代の私たちにはこの植物を目にしても、食べ物というイメージはまったく思い浮かばない。その一般的な呼び名にしても、彼岸花であったり曼珠沙華であったり、死人花であったり、毒花であったりと、死や仏教や毒性に関連するものがほとんどである。

 では古代の人々、とくに記紀・万葉の時代の人々は何と呼んでいたのだろう。

 深紅で人目を奪わずにはおかない花を咲かせ、しかも大切な救荒食糧でもあるということになれば、上古の人々もさぞやこの植物に注目し、書き記したに違いない。そう推測するのは理にかなったことではないだろうか。

 そこでさまざまな上代の古典に当たってみたところ思いがけない結果となった。まるでヒガンバナなど存在しないかのように、どの古典にもそれと特定できる植物名が登場していない。これほど目立つ花を咲かせ、今日ですら1000を越す里呼び名が知られ、しかも近年まで食糧として利用されていたにもかかわらずである。

 『古事記』と『日本書紀』とに名が挙がっている植物は松田修の『植物世相史』によると100種ほどもあるのだが、ヒガンバナにあたるものはみえない。むろんこの約100種類の中にはイネ、ムギ、ヒエ、アワ、ダイズなどの穀物や株、ウリ、ダイコン、ショウガなどの野菜の名はあり、食用されていたセリ、ヤマノイモ、ノビル、ユリ、クリ、ムクノキなどの野生植物も登場している。
 私にとって大変驚きだったのは、約166種もの植物とその花が詠われている『万葉集』にさえ、ヒガンバナはとりあげられていなかったことである。
 
そして、『竹取物語』に始まり、『今昔物語』、『平家物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』にも現れない。作者の美意識から推して、何となくあってもよさそうだと思っていた『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』にも登場しない。
 1190年頃の作とされる『平治物語』には「曼珠沙華」という言葉が出てくるが、これは併記されている「曼陀羅華」ともに仏教上の用語として使われており、実在のヒガンバナを指しているとは思えない。 今日「曼陀羅華」と呼ばれている植物はチョウセンアサガオで、これは江戸時代に日本へ渡来したものである。

 仏典の曼珠沙華なるものは、大明三蔵法経の巻き19にある法華文句の四華の一つとして挙げられるもので、“柔らかく赤花”の意味があるそうだが、それは梵語のマンジューチャカ、つまり仏の浄土に生える木のことである。南方熊楠は、グベルナチスの『植物譚原』を引き、この木は水陸に産する一切の花々を具えて咲き、宝玉に飾られ諸仏がその木の下に座禅すると記している。マンジューチャカはベンガル地方でマンジッツと呼ぶアカネ科の染料植物だというが、定かではない。

 また、西行法師の歌集『聞書集』にも「曼珠沙華、栴檀香風」と題した和歌があるが、この曼珠沙華は香る春風の中で梢に咲く花で、ヒガンバナではない。平安時代、900年代の初頭に深江輔仁が著した日本最初の本草書『本草和名』にもヒガンバナはと考えられる植物はない。もっとも、この書物は唐初の顕慶2年(659)に蘇敬らにより編纂された『新修本草』にとりあげられているものに和名を当てたもので、単に原典にヒガンバナの漢名の“石蒜”が載っていなかったことを反映しているだけであろう。

 有史前から日本に存在し、救荒植物として利用されていたのが事実ならば、これほどに目立つ花がなぜ奈良、平安から鎌倉時代にかけて著された数多くの古典に登場しないのだろう。この時代の人々、ことに文字とかかわりを持てた貴族階級にとっては救荒植物など無縁の存在だったのか、それとも彼らの美意識にそぐわない花だったのだろうか。
 ヒガンバナは本当に上代の日本に存在していたのだろうか。まだ中国大陸から渡来していなかったのではないかと疑いたくなる。 


 古典への最初の登場は、私の知る限りでは足利時代である。しかも食糧とはかかわりのない、とうじ庶民をも含めて多くの人がその名を聞いたことのあるに違いない、仏典の中の異境の植物の名を借りての登場であった。
 舞台は『続群書類従』に収録されている、文安元年(1444)に没した禅宗の高僧心田が遺した「曼殊沙花を奉じて定林和上に寄す」と始まる詩藁である。この漢詩はある年の秋、老師に従って西阜に滞在している僧侶にこの花を添えて送ったものだが、“曼殊沙はインドの原産だが、花々は次々に咲き紅に茂って光り輝く”とか“曼殊は世に稀で珍しく、他に類を見ないあでやかさ”という意味の詩句があり、実際にヒガンバナを見た上での作詞のように思える。心田にとっては珍しくも貴重な花だったのだろう。
 同時代の、やはり僧侶が著した『木蛇詩』にも「人の曼珠沙華を恵まれしを謝す」と題する詩がある。もしも当時曼珠沙華がすでに路傍や田の畦に生えるありふれた植物であったなら、これを恵まれて感謝するというのは解せない。ヒガンバナではないのだろうか。しかしこの詩は“西方に美しい花があると伝え聞いていたが、白髪頭の自分には天竺はあまりにも遠くあきらめていた。ところが、思いがけなくも紅の雲のような曼珠沙華に接することができようとは”と喜んでいる。「紅の雲」とは花の盛りのヒガンバナの群落をいい得て妙ではなかろうか。この僧侶にとってもヒガンバナは珍しかったのである。

 このほか室町時代の典籍としては、明文年間(1469~87)以前に成立したといわれる国語辞典『節葉集』や天文16年(1547)のものとされる『運歩色葉集』に曼珠沙華が収録されている。享徳2年(1453)に将軍となった足利義政は茶会を好んだことでよく知られるが、この頃から茶室に花を立てることが盛んになる。『山科家礼記』には延徳3年(1491)の8月24日(新暦では10月上旬)に禁裏の御学問所で曼珠沙華を立花したことが記録されている。


 華道の流派、池坊もこの時代に生まれたが、その定法式の中に胴作にする花としてボタン、シャクナゲ、タケ、ヒノキとともに曼珠沙華が挙げられている。『池坊専応口伝』(1543)にも華材の一つとして曼珠沙華があるが、めでたいときに飾ってはいけない花の部類には入ってはいない。当時には未だ死人花、地獄花などと忌み嫌う風習がなかったのではなかろうか。ところが江戸時代になると、例えば天和年間(1681~83)に著された『立花正道集』には祝儀に活けてはいけないものとしてオニユリ、ボケとともにヒガンバナを挙げている。明治時代の『花道池坊指南』も生花に使ってはいけないものとしている。このような転換が何をきっかけに起こったのか知りたいところである。

 徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)、日本イエズス会が長崎で刊行した『日葡辞書 VOCABVLARIO DA LINGOA DE IAPOM』にも「Manjuxaqe (曼珠沙華)-秋に咲くある種の赤い花」としてヒガンバナがとりあげられている。この辞書を著したのはポルトガルの宣教師たちだが、

    赤い花なら/曼珠沙華/オランダ屋敷に/雨が降る  ・・・・・・

という歌詞のような風景がすでに見られたのだろうか。

 一方、ヒガンバナの漢名である“石蒜”が初めて登場するのは、宋代の嘉祐(1062)に蘇頌により出版された『図経本草』である。平安時代末期にはこの書はすでに渡来していたらしく、高野山の兼意が著した『香要抄』などにその一部が引用されているが、この時代から鎌倉時代にかけて、石蒜すなわちヒガンバナ(曼珠沙華)と認識していた形跡はない。曼珠沙華という名は中国でも韓国でも仏典以外にはまったく使われていないから、これをヒガンバナに当てたのは、沙羅双樹をナツツバキと考えたと同様の日本人独自の発想である。

『本草綱目』の石蒜---ヒガンバナというより同じ属の忽地笑L.aureaのように見える。上図の山慈姑の方がヒガンバナ的である。こちらはキツネノカミソリに当てられた。 『訓蒙図彙』の金燈(キツネノカミソリ)と石蒜(シビトバナ)。葉と花の時期が違うことを示している。『大和本草』では金燈はナツズイセンだとしている。

 わが国の書物に石蒜が現れるのは明の李時珍が1590年頃著した『本草綱目』が伝来した後のようだ。
 この名著を長崎で最初に入手した日本人は林羅山だったと伝えられる(西岡為人、1977)。江戸時代が始まったばかりの慶長12年(1607)のことである【木村陽二郎(1974)によれば、羅山が落手したのはもう少し前のことで、徳川家康に献上したのがこの年だという】。慶長17年、林羅山はこの『本草綱目』にある諸物の漢名に対して和名を付した『多識編』を著すが、石蒜はとりあげていない。
 “石蒜”こそヒガンバナのことだと最初に気づいたのが誰かは特定できないが、おそらく中村惕斎や貝原益軒など江戸時代初頭の儒学者と思われる。
 貝原好古は益軒の甥だが、彼が元禄元年(1688)に著した『倭爾雅』の第七巻草木の章に石蒜の和名として現在もヒガンバナの里呼び名として知られるシビトバナとステゴバナを挙げている。これは文政6年(1823)に来日したシーボルトをして日本のアリストテレスといわしめた、伯父の益軒から得た知識だろう。『大和本草』はこの益軒が宝永6年(1709)に上梓したわが国の代表的な本草書だが、その石蒜の項に「老鴉蒜也シビトバナト云四月或八九月赤花サク下品ナリ此時葉ハナクテ花サク故ニ筑紫ニテステ子ノ花ト云本草山草下ニアリ」と解説されている。老鴉蒜は『救荒本草』にある石蒜の別名である。四月、つまり新暦の5月に咲くというのは解せないが、思い違いであろう。ステゴバナは益軒の生まれ故郷の九州筑紫地方の里呼び名である。

 益軒にとっては、しかし、曼珠沙華は石蒜(ヒガンバナ)ではなかった。『大和本草』では石蒜の項に続いて“金燈草”別名“鉄色箭”があり、これにナツズイセンの和名をあて、石蒜の類ではあるがこれが俗にいう曼珠沙華であると記しています。“金燈”は唐の『西陽雑俎』にあり、「葉と花は会うことがなく、無義草とも呼び、世俗では人家に植えることを嫌う」という意味のことが書かれている。

 この頃、中国は清の時代だが、その康煕27年(1688)に陳昊子が著した『秘伝花鏡』にも“金燈”がある。そこには「秋に葉のない滑々の茎が一本地面から抜き出て先端で5本の花の小枝に分かれ、深紅の花弁の色はあたかも金燈の炎のようである。黄、淡紅、紫碧、白など多くの色があり、白色のものを銀燈という。葉は花の後に出る」などの記述があり、ヒガンバナ属のものをまとめて“金燈花”と呼んでいたことがわかる。

 また、益軒たちがよりどころとした『本草綱目』の石蒜の記載もヒガンバナの特徴と完全に一致するわけではない。例えば、石蒜の葉は初春に出て7月に枯れるとある。ヒガンバナの葉は中国においても秋に出て初夏には枯れてしまう。当時の本草家はこの違いを軽く見て無視したか、あるいは渡来した中国人に直接聞いて実態を確かめたかしたのであろう。ナツズイセンに当てた鉄色箭についても、その花弁は黄白色だと綱目にはある。

 このような混乱は時代が下るとともに整理され、現代の種レベルの分類群へと収束してゆく。

元禄3年(1690)に来日して2年と1ヶ月長崎に滞在し、この間二度の江戸参府の旅を経験したケンペルは帰国後の1712年に『廻国奇観』を出版したが、その第5分冊を『日本植物誌』に当てている。その872ページに石蒜があり、「シビトバナの名で広くし知られ、ある場所では、球根を食べると毒があるのでドクシミラと呼ぶ。コルニチのいう赤花日本水仙である」と書かれている。シミラはクイシミラ、つまり食べられるシミラのことで、九州に広く分布するツルボの里呼び名である。なおこの著作の漢名と和名の対照のほとんどは中村惕斎が寛文8年(1668)に著した『訓蒙図彙』に拠ったものである。


 『大和本草』より少し前、元禄8年(1695)に出版された伊藤伊兵衛の『花壇地錦抄』には石蒜の名は見えず、“曼朱沙花”を「花色朱のごとく花の時分葉ハなし此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて花壇などにハ大方うへず」と解説している。しかし24年後の同じ著者による『広益地錦抄』では金燈草にはナツズイセンを当て、石蒜には「色極朱紅しべ長ク多く出ル俗に曼珠沙花といふ」と記している。また、それぞれの出葉期と開花期の違いも明確にしている。
 ケンペルが日本での見聞を故郷でまとめていたころ、大阪では漢方医の寺島良安が日本で最初の絵入り百科事典を執筆していた。これが正徳3年(1713)に刊行された105巻の大冊、『和漢三才図会』である。この書でも李時珍の『本草綱目』にある石蒜がヒガンバナの漢名だと考えている。

 良安は石蒜のほか、烏蒜、老鴉蒜、水麻、蒜頭草、一枝箭などの漢名を列記しているが、これらは『本草綱目』の引用である。和名としては曼珠沙華のほか死人花と彼岸花を挙げている。この辞典の特色は単なる漢籍の引用にとどまらず、墳墓の周辺に多いので死人花、秋分のころ花盛りとなるので彼岸花、などと和名の由来を解説したり、わが国での用途や分布などにも触れていることである。ヒガンバナの用途としては、薬用のほか壁土にぬりこめればネズミ避けになること、絵の具にすりおろした球根を混ぜて漆器に絵を描くと剥げないことがあげられている。また切り取った花茎を、基部のほうから2~3cmの間隔で、表皮が断ち切られないように左右に折り分け、これを輪に繋いだものを念珠にみたてて首にかける子供の遊びも紹介している。
 同じころ書かれた新井白石の『退私録』には球根と銀杏を一緒に潰して、その汁を染み込ませた紙を栞にすると、書籍が紙魚に食われないとある。

寺島良安の『和漢三才絵図』の石蒜と山慈姑の項

 寺島良安のこの百科事典の刊行を境に、江戸中期以降には“石蒜=マンジュシャゲ=ヒガンバナ=シビトバナ”説が定着していく。江戸も末期になると民俗学的な知識も蓄積され、天保15年(1844)出版の『重訂本草綱目啓蒙』には48もの里呼び名が収録されている。

 本草を離れて、文芸の分野でヒガンバナが登場する江戸時代の作品となると、寡聞にして多くは語れないが、さらに少なくなる。
 知られているものは何れも中期以降のもので、例えば森川許六の「弁柄の毒々しさよ曼珠沙華」、安永年間(1772~81)に書かれた与謝蕪村の遺稿集にある「曼珠沙華蘭にたぐひて狐啼く」などである。また、江戸後期の儒学者で備後福山藩医だった伊沢蘭軒の『秋行』と題した絶句に「荒徑雨過滑緑苔/花紅石蒜幾茎開」とある。雨上がりに苔の緑が美しい古びた寺の参道に数本のヒガンバナが紅鮮やかに咲いていたのだろう。
 
 明治時代以降になれば、枚挙にいとまないほどの作品が現れることはすでに述べたとおりである。

 美術工芸の分野にヒガンバナがとりあげられるのはいつのころからであろう。
 むろん万全を期すのはほど遠いのだが、機会あるごとに各地の美術館や博物館の花鳥画などの収蔵品を覘き、またいろいろな画集などにもあたってみたが、初期の本蔵書の稚拙な絵は別として、いまだに江戸中期より古い絵画の中にヒガンバナを見出しえないでいる。

 四季の草花は平安大和絵以来の日本人好みの画題だが、平安・鎌倉時代までに描かれた仏画や絵巻物、南北朝時代に盛んになった宋・元花鳥画の影響の色濃い屏風絵、室町時代の雪舟や狩野派による重厚な四季山水図屏風にもヒガンバナとおぼしきものはない。秋草にまぎれて描かれているかもしれないと期待した、桃山の艶やかな障壁画の中にも探し出すことができなかった。
 戦乱で灰燼に帰したものも少なくなかっただろうが、安土桃山時代によく描かれた天井絵で現存するものにもヒガンバナを見ることはできない。例えば西本願寺白書院狭屋の間の天井にはケイトウ、コデマリ、ヨメナ、ハナウツギ、アサガオ、カンゾウ、ウメ、ムクゲ、キク、ツバキ、シデコブシ、ヤマユリ、テッセン、ハギ、アヤメ、キブネギク、フジ、レンゲショウマなどがあり、ことにキレンゲショウマのような日本固有の珍しいものも描かれているのには驚かされたが、ここにもヒガンバナはなかった。大崎八幡神社の石の間でも、延暦寺根本中堂の天井でもヒガンバナを見ることはできなかった。
 硯箱、筆入れ、文机などの調度を飾る蒔絵や陶磁器の絵柄にもヒガンバナは使われていない。能衣装を彩る染織の草花のなかにも見られない。

 すでに述べたように、江戸時代の人々はヒガンバナという植物をよく知っていた。しかしこの時代に多くの花鳥画を遺した絵師たちもこの花を描いていない。中期に活躍した丸山応挙とその一派、江戸琳派の祖の尾形光琳、琳派を大成させ華麗な画風で知られる酒井抱一や鈴木其一、彼らの作品にヒガンバナが登場することはついになかった。
 京都の冷泉家に伝わる“花貝合わせ”は丸山応挙その人かその門人の手になるものとされるが、そこには360種類の草花が描かれている。ミズバショウ、クマガイソウ、アマドコロ、ウマノアシガタ、クサノオウ、スハマソウ、アケビ、タマガワホトトギスなど、それまで絵画の対象になったことないような野生の草木が少なくない。しかしヒガンバナの姿はここにもない。

 さすがに江戸時代も後期、それも幕末ともなれば、ヨーロッパの近代植物学の知識を吸収した本草家たち、例えばシーボルトの『日本植物誌』の原画を数多く担当した川原慶賀や、最近になってやっと日の目を見るに至った『本草図説』を著した高木春山などが、正確で美しく彩色されたヒガンバナを描いている。
 明治時代以降には増原咲次郎のように好んでこの花を描く画家が現れる。個人的には、赤く燃えるヒガンバナの原を背景に白馬と3人の乙女を描いた折井虫光の『六道原』や月食の薄闇に咲くヒガンバナとその上を舞う白い蛾を描きとめた梅川三省の『幻花』が好きだ。前者は諏訪美術館、後者は金沢県立美術館に収蔵されていた。また、奈良県立万葉文化館で出合った、宵闇の春日山の麓に篝火のように咲き満ちるヒガンバナを描いた吉澤照子の『いちし』も忘れがたい。

 江戸時代の花鳥画や調度品の装飾にヒガンバナが使われていないのは『和漢三才図会』などの死を連想させる記述が原因で中期以降はタブー視されて描かれなかったのであろうが、立花に使われることもあった室町時代から江戸時代初頭においても描かれることがなかったのはなぜであろう。
 『続群書類従』の記述を信じれば、渡来してから間がなく、めったには目にできない珍しい花だったからだとも考えられるが、不思議である。

<イチシと ヒガンバナ>

 鎌倉時代以前の古典にはヒガンバナがまったく登場しないと書いてきたが、実は意図的に触れないできたことが一つある。それは、万葉集に詠われているイチシ(壹師)と呼ばれる植物とヒガンバナとの関係である。
 この植物が詠まれているのは巻11にある次の一首である。

    
路邊壹師花灼然人皆知我恋嬬     路の邊のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は
 賀茂真淵が柿本人麿の作と推定したこの歌の“壹師”をヒガンバナとする説があるのである。しかし、イチシの正体については古くから諸説があり、必ずしもヒガンバナと特定されているわけではない。
 松田修(1980)は『古典植物辞典』で6説を紹介し、その当否を論じている。
 タデ科の大黄
(ダイオウ)とする説は天和3年(1683)から元禄3年(1690)に亘って契沖により著された『万葉代匠記』にみられる。平安時代の『本草和名』が大黄の和名をオホシとしているが、契沖は「此花白くして茎一尺も立ちのびいちじるしくみゆる物なれば」と記し、大黄が万葉集の壹師の短歌の歌意に矛盾しないとみた。つまり“イチ+”と“オホ+”は同一物というのである。
 これに対し、ダイオウは渡来の薬草で路傍にありふれた植物とは考えられず、詠われたイチシとは別物とすべきというのが大方の万葉植物研究家の意見だが、契沖もそのあたりの反論は予想していてか、「路邊とは人皆知と云はむ料なり」と付記している。
 イチシをタデ科のギシギシと見立てたのは『本草綱目啓蒙』の小野蘭山などで、これも『和名本草』の羊蹄(シ、シノネ)の
とイチシのが同一だと考えた説である。大方の国語辞典はこの説をとっているが、この植物の淡い白緑色の花は、仮に道端にあったとしてもさほど目立つものではない。
 前川文夫(1952)もに注目するが、シをス(酢)の転訛とみて、シュウ酸カルシウムなどを含む酸味のある植物の総称と考えた。したがってイチシは”イチ+シ”という合成語で、イチは接頭語の“イ”+“チ(血)”であり、イチシは血のような赤い色をした、つまり若芽が赤い色素に富んでいてよく目立つイタドリのことだと主張している。
                        ダイオウ(Rheum rhabarbarum) →

 しかしイタドリの花もギシギシのそれと同様に周りの雑草の緑に紛れてしまうような地味な花である。この点に関して前川は「イチシの花とは真の花というよりも恐らく果実の時であろう。イタドリのあの盛んな実のつき方をみれば花とみまがうであろう」と記している。

 私見ではあるが、前川の理論であればイタドリに限らず、同じタデ科で花茎が赤味がかり、緑白色の花穂を風に揺らすスイバでもイチシの候補になりそうである。
 クヌギないしはイチイガシ(檪)説は、江戸後期の国語学者の春登が作かと伝えられる『万葉集名物考』にある。この書では「市柴、五柴、壹師の花、ともに皆同じく、いちひしばの略なり」としており、その注に「壹師の花は椎の花の如く、梢に穂をなして春の末、夏の初めに咲くものなり、色は白くして黄ばめり、花は細かにして分明ならず、遠く望めばいちじろし」とある。しかし人間の感覚には個人差があるとはいえ、ブナ科の風媒の穂状花は視覚的にはさほど目立つものではない。5月のさわやかな風に運ばれてくる特徴的な香りに初めてその存在を知る、そんな花ではないだろうか。

クサイチゴ Rubus hirsutus スイバ Rumex acedtosa 

 幕末から明治大正にかけて活躍した本草家の山本章夫(1926)は『万葉古今動植物正名』にクサイチゴ説を記している。イチシはイチシコ、すなわちイチゴのことであり、クサイチゴはイチゴ類のなかでもとりわけて大きな白い花つけるとともに、路傍の雑草の中にあってよく目立つからだと説く。小清水卓二(1942)は『万葉植物』の中でこの説に賛同している。同様の発想はすでに新井白石(1719)の『東雅』にあり、この書では「覆盆子 イチコ」の項に「万葉集の歌にイチシといひし即此也」と断じている。ただし白石のイチコはキイチゴのことと考えられる。
 エゴノキ説を唱えたのは日本博物学史の研究で名高い白井光太郎である。大正4年(1915)、佐々木信綱主催の竹伯会が発行する短歌雑誌『心の花』に「万葉集中に見えたる二種の植物名に就きて」を発表し、イチシはエゴノキだと主張した。その理由は次の三つである。
 純白の花が鈴生りに咲く様は人目をひきつける。
 伊豆諸島に残るエゴノキの里呼び名にはイヅサとイッチャがあり、イチシはこの転訛の一つとみなせる。
 エゴノキの材は和傘の轆轤に使われ、果実は潰してその汁を洗剤や魚毒として利用するなど、日常生活と密着していた。
 これらをよりどころに白井は「予は前記の理由により、草に非ずして一種の木なりと考へ、其木は邦俗エゴノキ一名チシャノキ(漢名齋墩果)を充つるなるべしとはいうなり」と論じている。


 以上の諸説はイチシの花の色を白と、それもよく目立つ白花と想定したものである。ところが牧野富太郎(1952)は意表をついて深紅の花を咲かせる植物ではないかと考えた。それが『混々録』に発表されたヒガンバナ説である。
 牧野は歌中の“灼然”を“いちしろく(著しく白く)”とは読まず、“いちじろく目覚めるばかりに著しく”と読み、道の辺に燃え立つヒガンバナがこの歌意にふさわしいと考えた。『アララギ』の第40巻9号には「彼岸花の漢名は石蒜で、これはイシシとよめる。イチシはイシシの訛ったものか、(中略)ただヒガンバナにイチシの名がみつからないのが残念で、この方言が残っているとすれば、これはまさしくヒガンバナである」とも書いている。

 この牧野説を真っ先に支持したのは、先に紹介した、ヒガンバナの里呼び名を精力的に収集していた山口隆俊(1965)だった。山口が支持した理由は大きく分けて二つあった。
 その一つは残存している里呼び名である。山口県から採集されていたイチジバナ、和歌山県のイッポンバナ、イッポラカッポラ、イッポンカッポンが『本草綱目』にもあるヒガンバナの漢名の一つの“壹枝箭”に由来するとみたのである。壹枝箭は一本の花茎の先端に小花を群れ咲かせる形態を表したものだろう。そして箭が省略された“壹枝”は転訛するまでもなく“イチシ”そのものというわけである。さらに三重県にある“一志”という地名を吉田東吾の『大日本地名辞典』で調べると、これが貞観4年(867)頃まであった宮家の家名“壹枝”に由来し、『古事記』の記述などから“壹枝”の歌の作者と推定された柿本人麿がこの宮家の一族だったことがわかるというのが第2の理由である。山口隆俊が訪れたとき、一志の里にもヒガンバナが咲き乱れていたという。しかし、残念ながら山口は一志地方でイチシの里呼び名を拾うことはできなかった。

 かつてはエゴノキ説を支持していた松田修も『日本植物方言集』を編纂する過程での調査によって、山口県熊毛地方でイチシバナ、九州でもイチジバナ、イッシセンを採集し、ヒガンバナ説に転向している(松田、1968)。

 本当に“壹枝”は真っ赤に燃え立つヒガンバナということでよいのだろうか。
 サンケイ新聞(1981)に連載した『花の文化誌』やNHKサラリーマンライフ(1985)の『花の博物誌』などに書いたように、かつて私はイチシ=ヒガンバナ説を疑問視し、エゴノキないしはヤマボウシの可能性を示唆した。また、細見末雄(1992)も『古典の植物を探る』でヒガンバナ説を否定している。

 確かに、疑問を差し挟む余地があるのである。
 まずはやはり“灼然”を何と読むかということである。“いちしろく”で目立つ白い色を指しているのか、“いちじろく”で色は特定せず、とにかく目立つことのみを意味しているのかということである。
 『万葉集』に採録されている歌のうちで“灼然”を用字しているものはイチシの歌のほかにもある。「窺狙ふ跡見山雪の灼然恋ひば妹が名人知らむかも」「青山を横切る雲の灼然われと咲まして人に知らゆな」「天霧らし雪も降らぬか灼然この斎柴に降らまくを見む」などである。いずれも白いものの代表ともいえる雪と雲にかけて用字されているから“いちしろく”と読まれている。純白の雪や雲のようによく目立つということである。ならば、道の辺の“壹枝”の花も白色とみるのが自然であろう。
 “いちしろく”という言葉は集中20首ほどに見られるが、“灼然”の他は“伊知白久、市白久、市白、市白兼”と白が使われている。17巻ー3935番では“伊知之路久”が用字されているが、これも白波にかかっている。
 川村幸次郎著『万葉人の美意識』や伊原昭著『万葉の色相』が指摘するように、白という色は、当時の日本人にとって重いい意味を持っていたようだ。

ヤマボウシ Cornus kousa


 一方、集中でイチシが登場する短歌は2480番の1首のみだが、奈良時代の宝亀3年(772)に藤原浜成によって編まれた歌論書の『歌経標式』の中に「道のべの伊知旨の原の白妙のいちしろしくも吾恋ひめやも」が、鎌倉時代の建長年間(1250頃)の藤原光俊の私選和歌集『現存和歌六帖』に「立つ民の衣手白し道の辺のいちしの花の色にまがえて」がある。
 これらの短歌を素直に読めば、イチシは赤い花を咲かせるヒガンバナなどではなく、よく目立つ白い花を咲かせる植物だということになる。だがそれが、草であったか木であったかとなると、今のところ決め手はない。人里近くの路傍にあって、遠くからでも目立つ白い花を咲かせる植物という点ではエゴノキ説が的を射ているようにも思える。しかし、このような条件を満たすものとしてはミズキ科のヤマボウシ(ヤマッカ)を挙げることもできる。この樹木の里呼び名を調べると、近畿地方から北陸にかけてイツキ、イチギ、野尻・妙高方面でイッキ、イッキノキ、上越地方でイチキ、イッチキと呼ばれていることがわかる。イツキとイチシ相互に容易に転訛しうることは明らかで、イチシがヤマボウシである可能性については細見(1992)も同様の見解を披瀝している。

 石蒜がイシシと読まれ、これがイチシに転訛したものだろうという牧野説や壹枝箭がイッシセンと和訓され、イチシセンを経てイチシになったという松田説には無理がある。中国で石蒜の名が初出する『図経本草』は1063年に編まれたものとされていて、これが早々と日本に渡来したとしても平安時代の末以降であろう。また壹枝箭の名を石蒜の別名として最初に載せた『本草綱目』は、すでに述べたように室町時代の終わりから江戸の初頭に日本人の手に落ちたものである。奈良時代の万葉人がこれらの漢名を知っていたとは思えない。仮に知ったとしてもイシシなどと読み代えず、江戸時代の本草家がしたように、以前からある日本での呼び名を当てれば済んだはずである。平安時代の『本草和名』ではまさにそのように、さまざまな新来の漢名に和名を振っている。
 繰り返しになるが、『本草和名』には石蒜もイチシも見られない。


 ヒガンバナは縄文時代の半栽培段階、ないしは弥生時代に大陸から澱粉源として持ち込まれ、次第に分布を広げて現在に至ったものではなく、ずっと遅れて鎌倉・室町の頃に渡来したものだろうか。典籍の上からではそのようにも見える。
 そこで、細見(1992)は「南宋へ留学した僧か、その地から渡来した禅僧かが救荒食の材料か薬用としてもたらしたのではないか」と考えている。
 しかし、典籍に載っていないから存在しなかったと断定することはできない。『万葉集』に詠われていない植物でも、有史前から日本に土着していた植物は少なくない。存在していてもその時代の人々が認識していなかった、あるいは知ってはいても彼らの美意識にそぐわなかった、または何らかの禁忌があって書き記すことをはばかった、このような植物はその時代の典籍に残らないであろう。
 ヒガンバナはそんな植物であったのかも知れないのである。

 何か他に渡来の時期を知る手がかりは残っていないだろうか。
 里呼び名は手がかりにならないだろうか。言葉は遺伝子(DNA)と似ていて、時の流れとともに変化するが、DNAの塩基配列を調べることで生物の進化(変化)の跡をたどることができるように、言葉の変遷とその伝播の過程もかなり詳しく追うことができるからである。

このページのトップへ   目次に戻る    次へ