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ヒガンバナの民俗・文化誌

(Ⅲ)

ヒガンバナ渡来説再考~その1

 日本に分布しているヒガンバナの故郷が中国大陸の揚子江流域のどこかだということが、かなりの確かさでわかってきた。 だとすると、どのようにして東シナ海を渡ったのだろう。
 いくつもの仮説が提唱されたが、整理すれば自然分布説と人為分布説に分けることができる。

1) 自然分布説 

 栽培品種やごく一部の種を除けば、植物は人間の存在にかかわりなく自らの子孫を残し、その分布を広げてきた。種子散布という分布域を拡張する手段を獲得した植物は、すでに古生代には出現している。
 種子という繁殖のための構造が出現するまでは、ほとんどの植物はシダ類のように数10ミクロンの胞子を放って新天地を求めたのだが、約2億年前ゴンドワナ大陸に繁茂していたグロッソプテリスなどの原始的な種子植物の種子も数ミリメートル以下の粉のようなものであった。気流に乗って分散したのであろう。その後、現在に至る長いときの流れのなかで、より効率よく、そしてより確実に子孫を増やすために、種子も進化し、今に見られるような多様な散布様式を獲得した。

 昔ながらの風を利用する種には微細種子型を踏襲するもののほか、カエデのように翼果をつくるものとタンポポのように羽毛状果を発達させたものがある。熱帯雨林やモンスーン地帯などの水に恵まれた環境には雨水や川の流れや海流を利用した水散布型の種子がある。自由に移動できる動物たちを利用する動物散布型のものもある。スミレやカタクリのようにアリの好物の物質(エライオソーム)を種子つけて運んでもらうもの、おいしい果実目当ての鳥たちに食べてもらって運ばれるもの、センダングサ、ヌスビトハギ、ミズヒキなどのように鉤刺を発達させて獣や鳥の体に付着して移動するものなどさまざまである。自動散布と呼ばれる方式のものもある。ホウセンカやカタバミのように接触刺激で子房壁が弾けて種子を飛ばすものである。このほか、遠距離への分散はおぼつかないが重力分散という方法もある。種子が親個体の周りに落下するタイプである。このタイプは例えば鉤刺のような散布のための特別な構造は発達させていないが、地表で採食する動物や水流などで比較的遠くまで運ばれることもある。ヒガンバナ属の種子はこの最後のタイプである。


 一例だが、コヒガンバナ(L. radiata var. pumila)は35cm前後の長さの花茎1本につき平均5個の種子をつける。10月になり種子が熟す頃になると花茎は地表に倒れ、やがて黒くて丸い、平均直径6.6mm、平均重量0.2gほどの種子が親株から少し離れた場所にこぼれる。種子は運良く枯葉などの下に入り乾燥から逃れることができれば、その年の内に発芽して、まず根を伸ばすが、乾燥して皺がより固くなったものは発芽しない。一年後には長さ数センチメートルの細い第一葉が地上に現れる。つまり、親株から35cmほど離れた場所に分布を広げたことになる。生えている場所が傾斜地であれば、転がってもう少しは遠くまで分散できるだろう。

 光沢のある種子は肉眼で見た限りでは滑らかだが、顕微鏡で観察すれば種皮に細かな凹凸がある。このため撥水性があり、静かに水面に置けば表面張力が働いて浮かぶ。しかしいったん水没すれば、水流で水面に持ち上げられない限り沈んだままである。種皮は薄く傷つきやすいので、激しい流れの中ではながもちしないだろう。ハマユウのそれのように海流で遠くまで運ばれるような種子ではない。しかし、雨水などによりかなり離れた場所まで運ばれる可能性はある。

 実際には統計的な計測データはないので、どれほどの分散能力があるのか不明だが、最低でも35cm程度は移動できる。しかし、実生株は7年ほどたたないと花を咲かせないので、うまくゆけば7年で70cm、年平均10cmの速度で分布を広げることができるわけである。この程度の速度でも同じ方向へ直線的に移動できれば1000万年で1000kmである。とはいえ、花茎が倒れる方向はまちまちで、地形にも山あり谷ありで、分布圏の拡大は非常に緩やかなものになるはずである。

 コヒガンバナと違って、球根の分裂以外に繁殖手段を持たないヒガンバナの分布圏拡大はさらに緩やかで遅々としたものになるだろう。

 松江幸雄は1965年に平均的なサイズのヒガンバナの球根を1球ずつ5ヶ所に植えて、増殖するようすを継続的に観察した。分球が進み株が大きくなるとともに、地表に露出するいわゆる浮上株が増加する。その結果、1993年にはそれぞれの株は地表に顔を出しているものだけでも平均180球、株の直径約50cmまでに増殖した。
 32年後の1996年に一つの大株を掘り起こして数えると926球もあった(松枝、1997)。ほぼ1000倍になったわけである。しかし、仮にすべての球根が1年に1回の率で分裂すれば10年で1024球、20年で100万球以上になってしまう。したがって分球の速度はそれほど早くはなく、またあるていどの球根数に達すると増殖率は低下するとみなせる。

 一方、高橋道彦は自生状態を調査し、香川県の平野部では株は30cmX50cm~50cmX50cmの楕円形ないしは円形となり、その平均球根数は約148と報告している(1980)。調査した自生の株群が何年経過したものかはわからないが、松江幸雄の観察結果から想像するとあまり年月を経ていないのかもしれない。あるいは、野外環境では栽培しているものに比べ、増殖率を抑制する別の因子が働いているのかもしれない。

 いずれにしろ、球根が分裂するだけでは分布圏の拡大はおぼつかない。

 中島庸三は東北大学植物園内でのヒガンバナの分布拡大のようすを次のように報告している(中島、1960)。
 1939年に直線上にほぼ50cm間隔で4ヶ所に数個ずつ球根を植え20年放置した結果、飛び火的に分布が広がり、最も隔たった個体は親株から7.5mに位置していた。また、親株から離れて点在する株のサイズは大小さまざまであった。
 この実験が行われた場所は、園内の落葉高木の下の平坦地で、地表植物ではクマスズタケが優占種だがときどき刈り取られるため冬季でも日当たりは良い。
 最も遠くまで移動したものは、単純に計算すれば1年につき約38cm動いたことになる。なぜ球根が飛び火的に分散できたのだろう。中島は動物による地表の攪乱が原因と考えた。この場所はモグラの生息地で、あちこちに押し上げられた土塚が見られる。犬も徘徊し、その糞もあり、夏には蝉取りの子供たちが遊び、タケを刈る作業員も立ち入る。これらのヒトや獣が無意識のうちにヒガンバナの株群を乱し、浮上球などを遠くに移動させたのであろう。

 中国の山間部でしばしば見るように、沢の近くや河原などに生えている場合は、台風にともなう洪水などの自然現象で球根そのものが一気に遠方へ散布する可能性もある。したがって、種子ができなくても分布圏を広げることはできる。もちろん、コヒガンバナのように種子と球根とをセットにしたものの方が分散には有利である。

 ヒガンバナ属の最初の種、つまり現生種の祖先がいつどこに出現したかはわかっていないが、アジアの地形がどのような変遷をたどったかは化石や地層の調査を基にした古地理学の研究によりあるていどは解明されている。

 被子植物が適応放散を始めた約1億年前の白亜紀後期から2500万年前の中新世に入るころまで日本海は形成されておらず、現在の日本にあたる位置は太平洋の波に洗われる大陸の沿岸域であった。2000万~900万年前の中新世中期から後期にかけては海進により大陸から切り離されるとともにいくつもの小島に分断される。直立原人が東アフリカに出現した更新世前期の200万年前あたりから地球は寒冷期に入りそれぞれがギュンツ・ミンデル・リス・ウルムと呼ばれる4回の氷河期が波状的に繰り返された。当然のことながら氷期には海水準は下がる。湊正雄(1978)らによればミンデル氷期には現在の東シナ海は完全に陸化していたようだ。このように、1万年ほど前にウルム氷期が終わり完新世に入るまで、いくたびか大陸とつながったり離れたりしながら、次第に現在の日本列島の姿に近づいていった。


 この間、植生も複雑に変化した。あるときは現在の北海道のあたりまで亜熱帯性の植物が茂り、またあるときは針葉樹林などの寒帯性の植生が九州にあたる緯度まで南下した。気候の変動のみならず地形の変化にともない海流も複雑に変化したに違いない。

 一方、中新世の地層から発見される植物化石のほとんどは現生の属に分類することのできるので、ヒガンバナ属植物の化石は発見されていないものの、すでに2500万年前のこの時代にヒガンバナ属が存在していた可能性を否定することはできない。とはいえ、無論のこと、もっと新しく、数百万年ほどの歴史しか持たないものかもしれない。
 
 仮に、中新世にヒガンバナが現在の華南にあたる地域に出現していたとすると、前に述べたような緩やかなペースで分布圏を広げたとしても、距離的には十分に日本列島までたどり着けたことになる。しかし現実には地形は複雑に変化し、気候もかなり激しく変動したことがわかっている。また、いったん分布を広げたとしても、その地が針葉樹林で覆われたり、あるいはマングローブの林が茂るような気候になれば、ヒガンバナは絶えてしまう。古環境学の手法によれば、数万年にわたって堆積した地層に残された花粉を分析すれば、過去の植生の変遷を推定することができる。これにより2万年前ごろの最終氷期の日本列島では、現在ヒガンバナが分布している地域は亜寒帯性の針葉樹や冷温帯性広葉樹林に覆われ、照葉樹林は南西諸島以南へ押しやられていたことが明らかにされている。したがって、大陸の現在の華南あたりに現れたヒガンバナが辺縁の日本の位置にたどり着いて現在のような分布を占めることは容易なことではなかったのである。

 とはいえ、現在の日本と中国の植物相には多くの共通要素がある。その中には氷河期の生き残りとみなされるものも少なくない。これは、両地域間での種の分散が行われた証拠である。

 ヒガンバナは中国大陸と陸続きだった地質時代に日本へ分布を広げたとみる「自然分布説」を主張したのが稲荷山資生(1955)と中島庸三(1964)である。われわれ日本人の祖先がこの島に渡ってくる遥か以前から秋の野を彩っていたというわけである。稲荷山は『ヒガンバナの話』に「ヒガンバナ属の植物、とくにヒガンバナは種子ができないにもかかわらず、山間の奥地まで広く分布しているところをみると、渡来種であると考えることには難点がある」と記している。
 一方、中島(1960,1962)は陸地伝いの伝播とは別に、海流による分散の可能性を論じて
“海流漂着説”を提唱した。彼はヒガンバナの球根は2年以上室内に放置され乾燥しても枯死しないことと乾燥した状態で出葉した球根は海水に浮き、45日間そのままにしておいても生活力が失われないことを確かめ、海流漂着に思い至ったという。


 海流を利用して分布を広げる植物は少なくないが、その多くは種子ないしは種子を抱いた果実による散布である。
 砂浜に咲く桃色の花が美しいグンバイヒルガオもその一つである。このサツマイモ属の蔓草の種子は軽く対塩性があり表面に黄褐色の毛が密生し海水をはじくとともに、その内部には空気室を備えている。このため長期間の海流に乗っての旅に耐え、浜辺に打ち上げられれば発芽する。火山活動停止後わずか1ヶ月の西之島新島の波打ち際で見つかった一株のグンバイヒルガオも新天地を求めて旅していた種子の一粒が定着したものである。「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ」と島崎藤村が詠んだココヤシをはじめとして、海流により散布する植物の多くは熱帯から亜熱帯に生育する木本性のものである。

 ちなみに、ガラパゴス諸島やセントヘレナ島のような海洋島の珍しい植物をその目で見てきたC.ダーウィンも、進化理論の確立には地理的分布の成立過程を知ることが不可欠と考え、種子が海水中でどのくらい生きているかを知るためにさまざまな植物で実験をしている。
 グンバイヒルガオやハマナタマメなど、数少ない草本性の漂着植物の中にヒガンバナ科のハマオモトがある。この純白で香り高い花を咲かせる暖地性海浜植物は万葉集にも登場する古代から日本人に親しまれた植物でハマユウ(浜木綿)とも呼ばれる。この名の由来については、垂れ下がる白い花びらが木綿(ゆう=コウゾの樹皮から採った白い繊維)に似ているからという本居宣長の説と、偽茎と呼ばれる葉の基部の束が白い布を幾重にも重ね着しているようにみえるからという貝原益軒などの説がある。
 ハマオモトのやや歪んだ球形の種子は大きく、直径は25mmにもなるが軽い。胚乳の周縁部にコルク層が発達しているためで、数が月以上も海水に浮いていることができる。小清水卓二(1952)によると発芽した状態の種子でも2ヶ月以上は浮いているという。

 コヒガンバナのことはすでに書いたが、それ以外のヒガンバナ属植物の種子も水に浮く。だがその浮力は小さくいったん波をかぶって沈水すれば再浮上はできない。種子が潮流に乗って遠くまで旅をする可能性は皆無といえるだろう。ただし、流木などの隙間に挟まって漂着する可能性までは排除できない。

 種子がだめなら、球根が海流で運ばれることがあるのだろうか。
 牧野富太郎はヒガンバナ科のスイセンをその例に挙げている。琉球諸島から九州・四国の沿岸に、本州では太平洋側は房総半島まで、日本海側では能登半島の富山湾まで、海辺近くの山地丘陵に野生状態で分布していることが海流で球根が運ばれたと考えた理由である。伊豆の下田など、スイセンの群落が近くにある海岸にはしばしばその球根が浜辺に打ち上げられているので、海流による分散は確かに行われているとみてよい。
 面白いことにスイセンも3倍体で、球根の分裂のみにより繁殖している。すると、スイセンの故郷も中国大陸で、そこから海流に運ばれてきたのだろうか。

 たしかに中国には日本と同じ3倍体のスイセンがある。だが、スイセンの原産地はスイセン属のほとんどの種が分布している地中海地方、それもスペイン南部とモロッコ・アルジェリアの山地と考えられている。そこには種子繁殖のできる2倍体もあり、海辺近くの畑の縁や草原や荒原の岩の割れ目などに生育している。スイセンは地中海沿岸のほぼ全域に分布しているが、クレタ島・イタリア半島・シシリー島とバルカン半島には自生していない。このことは海流による遠距離散布はそれほど頻繁ではないことを意味しているのかもしれない。海岸伝いに少しずつ分布を伸ばしたとしても、東アジアへ到達するためには喜望峰を巡りインド洋沿岸を北上し、アラビア半島、インド、インドシナ半島をたどらなければならない。
 地中海東岸のシリアやイスラエルからイラク・イランにかけても自生するとの報告もあるので、アフリカ迂回ルートも考えられるが、いずれの場合でもスイセンの生育には不向きな熱帯圏を経由することになり、東アジアの沿海部への到達はおぼつかない。

 すると、中国と日本へはどんな方法で到達したのだろう。海流によったのではないことは、いくつかの文献によると確かなようだ。
 「水仙」という漢語は明代の汪機が著した『本草會編』に初めて登場するといわれていますが、唐代の860年ごろに段成式が著した『酉陽雑俎』の第18巻に拂林国(現在のシリアあたり)の原産で蒜のような葉と鶏卵ほどの球根をもち、種子はできないが花を圧搾して香油を採ると記されている「柰祗(Nai-qi)」がスイセンのことだと最初に指摘したのは『本草綱目』の著者の李時珍であった。その後、B.ラウファー(1919)は『SINO-IRANICA』のなかで「naik'i ; nai-gi」の語源はスイセンを意味する中世ペルシャ語の「nargi」、新ペルシャ語の「nargis」、アルメニア語の「narges」だとしている。
 このことは中国へスイセンが入ったのは海流によってではなく、シルクロードを経て渡来したことを強く示唆している。
 唐の時代には外来植物がゆえに原産地の呼び名をそのまま漢字表記していたものが、時の経過とともに広く栽培されるに及んで「水仙」という中国名で呼ばれるようになったと考えられる。李時珍は「これは低地の湿った場所に生え、水が欠かせないので水仙という」と書いているが、この命名の背景にはシルクロードから伝わった美少年ナルキッソスとこの花にまつわるあのギリシャの神話があったのではないだろうか。

 日本に水仙が到達したのはいつのことだろう。
 奈良時代の『万葉集』をはじめとし、平安時代初頭に編まれた『本草和名』など、この時代の文典にはそれらしきものは登場していない。しかし、室町時代の1444年に刊行された国語辞書『下学集』には「水仙華、俗名雪中華」と採りあげられているので15世紀までには渡来していたのだろう。

 この後はさまざまな書物にその名が見られるようになる。江戸時代の文政年間の『古今要覧稿』に至れば「この花元より此国に自生多くして・・・・・、さて安房国も暖気にて自生殊の外にこえたり・・・・」ということになる。4~5百年の間に日本各地に伝播し、一部が野生状態になったと考えられる。
 中国から日本へは、シルクロードに沿って唐に至ったように、人により持ち込まれたとする説が一般的だが、確証はない。華南の沿海地方に野生化したものが、南シナ海にこぼれ、北上する海流に乗って日本まで分布を広げた可能性も、日本での分布パターンを見ると、否定しきれない。

では、ヒガンバナはどうだろう。

 中島が漂着説を提唱するや、山口隆俊(1961)がこれに異を唱えた。
 山口は『ヒガンバナさすらわぬ記』に前川文夫や山田修の中国での観察記録をもとに「恐らくその原産地は揚子江流域であることはまちがいないことであろう。だから中島氏が揚子江岸壁が凍融のさい崩れおちて、ヒガンバナが河中にほうりだされて、海まで運ばれたのではないかと、書いてきておられるのは、ありそうなこととして同意できる。しかしヒガンバナが海で漂流をはじめたその先に、問題がたくさんあって、同氏が考えたように易々と日本には漂着しそうにはないのである」というのだ。
 その論拠はいくつかあるのだが、山口はまず第一に、東シナ海に存在する黄海へ北上する海流と中国沿岸に沿って南下して南シナ海に至る海流を挙げる。これが揚子江から流れ出る球根が日本に漂着するのを妨げているというわけである。また、洪水が起こるであろう季節の風向きも日本への漂着には不向きだと指摘する。
 しかし、気象条件によっては黒潮ですら大きく蛇行するように、海流は、とくに東シナ海のような水深200mたらずの浅海では複雑である。さらに東シナ海にはいくつもの大きく回転する環状の海流もある。1980年代まで台湾の国民党が中国本土の人々に読ませる目的で、政治的宣伝文を詰めた「海漂器」と呼ばれるプラスチック製の容器を福建省の沿岸近くで放流していたが、その一部はしばしば玄界灘の浜に打ち上げられていた。したがって、球根が数ヶ月にわたって浮き続け、しかも生活力を保持することができれば、海流によって分布を広げることは可能である。
 
 海水への耐性については竹村英一(1962)が報告している。それによれば、26日間海水に浸した球根の一割は細々ながらも生活力を保ち、土に植えると新しい葉を伸ばすことができた。また、26日間浮き続けたものは約 1.7%であった。山口隆俊(1963)は人工海水中に、5月末に掘り取った200球を浸けて浮沈の様子を観察したが、329時間(約2週間)ですべてが沈降したと記している。冬季の葉のついている球根ならばもっと長時間浮かんでいるかもしれない。
 つまり、海流による長距離への分散は不可能ではないにしても、海流散布に適応している種子をもつハマオモトなどに比べれば、真におぼつかないといえよう。
 竹村は長崎県松浦市大崎海岸や五島列島の中通島海岸などのヒガンバナ群落が漂着の例かも知れないと書いている。

 私の知る限りで、確実な漂着例と思われるものが一つある。それは近藤富蔵が著した『八丈実記』の巻8海島之部鳥嶋の章に見ることができる。これは天明5年(1785)に漂着してアホウドリを食料に生き延びて13年目を迎えた土州鏡郡赤岡の水主の長平、天明年から11年目の摂州大阪の沖船頭代の儀三郎、寛政3年から7年目の薩州志布志浦の船頭の栄右エ門ら14人が、寄り物を集めて組み立てた小船で寛政9年(1797)に脱出して幕府の役人に申し立てた漂流譚だが、その“草木”の項に、房総半島の南約480kmに位置するこの絶海の無人島に咲く石蒜(ヒガンバナ)が登場する。難破船の積荷に紛れ込んでいたのか、遥か彼方から海流に乗って来たのかはわからないが、漂着したものには違いない。

2) 人為分布説

 自然分布説に対し、ヒガンバナはある目的意識を持った人間が大陸から島国日本に運び込んだとするせつがある。これを人為分布説、ないしは史前帰化植物説と呼ぶ。この説のよって立つところは、まず第一に、日本列島でのヒガンバナの分布パターンの特異性である。

 ヒガンバナの分布については数多くの報告があるが、とりわけ松江幸雄(1985)が詳しく調査している。私も京都大学、東京大学、国立科学博物館、東京都立大学牧野表本館、東北大学などに収蔵されている標本の産地を調べるとともに、各地で採集をした。
 これらの記録をまとめてみると、ヒガンバナの分布の北限は日本海側では北緯40度付近、太平洋側では北緯39度15分あたりであった。青森県と北海道では自生は見られず、分布はしているものの、秋田県・岩手県とも北部にはまれで、内陸部では北上川流域を除き分布していない。そして分布の密度は関東から九州へと南西に行くほど高くなる。
 しかし、このような分布密度の傾斜はヒガンバナのみの特徴というわけではない。暖地性の植物には似たような分布をするものが少なくない。

 では、ヒガンバナの分布パターンのどこが特異なのなろう。
 それはこの植物が見られるのが人里に限られるということです。“人里”という言葉はいかにも古めかしく、昔物語の舞台のようでもあるが、昔に限らず、現代の都市もふくめて人が定住する場所をとりまく環境が人里である。
 我々の祖先がこの極東の島に定住したときには既に長い歴史を背負った土着の植物が茂っていたはずである。すると人里に限って生育する植物は人と深いつながりを持ってそこにある特別なものと考えることができる。このような植物のうち、畑や庭園で栽培されるものを除く、野生状態で繁殖しているものが人里植物と呼ばれる。

 人里植物といえども、元来は人間とはかかわりなく自然植生の一員であった。それが人里植物となった過程はさまざまであるが、大別すれば二つの筋道が考えられる。一つは蔬菜や薬草あるいは観賞用として栽培されていたものが、本来の用途があいまいになり、管理の手を離れて雑草化するものである。二つ目は人間が農耕を始め定住することにより出現した、それまでは存在しなかった定期的に耕され施肥され、あるいはその過程で撹乱される新しい環境に入り込んできて適応を遂げるというものでる。このタイプの植物の多くは、自然植生の中では、大型草食獣の群れる草原と河原や山野の崩落地などの不安定な環境に適応していたものと考えられている。また、これらの人里植物のうち、比較的に近い過去に、人間の移動にともなって別の文化圏(外国)から持ち込まれ野生化したものを帰化植物と呼んでいる。

 さて、ヒガンバナといえば、水田の畦、灌漑用の小川の土手、果樹園の縁、社寺の境内、そして墓地などのような環境に限って生育しており、人が居住したことのない自然植生の構成員になることはない。典型的な人里植物である。しかもこの分布パターンは栽培植物から野生に戻ったと推定されるものにみられるものである。 

 人為渡来説はこのような分布パターンから導かれたものである。
 そこで、照葉樹林文化論の提唱者の一人として知られる中尾佐助は、ヒガンバナは縄文時代に食料として中国大陸から日本列島へ持ち込まれたものだと考えた。
 照葉樹林文化は、東アジアの暖温帯に東西につらなる一つの生態学的領域である照葉樹林帯に生活する多様な民族に共有される、衣食住にかかわる要素的な文化で、これは中国雲南省を重心とする“東亜半月弧”と名づけられた地域をセンターとして、そこからの伝播によって生まれたものと定義されている。
照葉樹林帯の分布 : 中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源 (1966
中尾(1967)は今西錦司還暦記念論文集『自然ー生態学研究』に寄せた「農業起源論」で、照葉樹林文化における農耕方式の発展段階をつぎの5段階に区分した。

 Ⅰ: 野生採集段階 Ⅱ: 半栽培段階 Ⅲ: 根茎作物栽培段階

      Ⅳ: ミレット栽培段階   V: 水稲栽培段階
 野生採集栽培段階は野生の堅果類(クリ・トチ・シイ・クルミ・ドングリなど)と根茎類(クズ・ワラビ・テンナンショウなど)山野で採集して生活していた時代。半栽培段階はクリやジネンジョなどの野生種の中から収穫量の多いものや味のよいものなどを選抜し品種の改良を試み始めた時代。根茎作物栽培段階はサトイモ・ナガイモ・コンニャクなどのいわゆるイモ類の本格的な栽培と焼畑農業が始まった時代。ミレット栽培段階は雑穀(ひえ・アワ・キビ・シコクビエ・オカボ)を主体とした農耕の時代である。水稲栽培段階はイネの水田栽培が中心となった時代である。

 中尾佐助は上記の論文の中で、ヒガンバナは半栽培段階にあった縄文時代中期の人々が中国大陸からデンプン源として受け取ったものと推測している。この時代に大陸と何らかの交易が既に行われていたことは、福井県の縄文時代前期、約6000年前の遺跡から出土した耳飾が中国大陸に産出する石を素材にしていることからも確かである。

 日本人が土着の野生植物から選抜した栽培植物はウド・セリ・ミツバ・フキなどごくわずかで、しかもデンプン含有量が少なく、副食の域を出ない。穀物をはじめとし、主食の地位を占めるものはすべて外部から受け取った作物である。縄文時代の人々が野生採集段階から農耕段階に移るためにはどうしてもこのような主要作物の導入が必要だった。中尾はその移行期に補助的な食物として持ち込まれたものの一つがヒガンバナだと考えた。

 しかし、食料としてヒガンバナをとらえるとき、忘れてはならないことがある。それはヒガンバナは有毒植物だということである。ヒガンバナの里呼び名のなかにオヤコロシ・シビレバナ・テクサリバナ・ドククサ・イットキゴロシなど、毒性に関連した名が多いのもこのためである。
 毒の正体は細胞内の液胞に溶けている窒素原子を含む塩基性分子でアルカロイドと総称される化合物の一つである。昔アイヌの人々が矢毒に使ったトリカブトの猛毒成分のアコニチン、古代ギリシャの哲学者ソクラテスを死に至らしめたドクニンジンに含まれるコニイン、ケシのモルヒネ、タバコのニコチン、これらもすべてアルカロイドの一種である。
   ヒガンバナのアルカロイドは明治時代の中頃から昭和の初期にかけて森嶋庫太(1896)、外山清太郎(1910)、朝比奈泰彦・杉井善雄(1913)、近藤平三郎・富村邦好(1927)などの薬学者により研究され、リコリン、セキサニン、ホモリコリンなど、多数の化合物が報告された。なかでもリコリンはヒガンバナ科の多くの種に共通するアルカロイドである。

 リコリンの中毒症状としては、先ず自発的運動が減衰し、呼吸が抑制され、重篤な場合は呼吸停止に至る。中央アフリカはザイール南東部の部族や南アフリカのブッシュマンが狩りに使う矢毒の中にもリコリンが調合されている(Neuwinger, 1996)。
 一般にアルカロイドは神経伝達物質であるアセチルコリンなどに似ているため神経毒として作用する。ただしアコニチンが強壮薬に使われたように、用法によっては薬にもなる。群馬県高崎地方にはワスルソウというヒガンバナの里呼び名があったが、これは球根をすりつぶしたものでシップをすると熱や痛みが忘れられることに因むものだという。近年ではリコリンが腫瘍細胞の活性を顕著に低下させたり(Gohsal et al., 1985)、ポリオウイルスの増殖を阻害する(Suffness, 1985)ことなどが報告されている。

 しかし、有毒植物がとうして食料となりえたのだろう。縄文時代の人々はヒガンバナに含まれる程度の有毒成分など問題にしないような体質だったのだろうか。だがこれは生物学的にみてもちょっとありえないことである。ではなぜだろう。
 答えは簡単で、毒消しの方法があればよいわけである。この毒消しの技術は縄文時代の人々は既に獲得していたと考えられる。いわゆる“水晒しによるアク抜き”がそれである。中尾佐助は、植物体を石の上で叩き潰し、これを水に浸けてアク(毒)を飛ばし、可食部分を集めるこのテクニックは水の豊富な照葉樹林帯に居住する人々により野生採集段階の頃からすでに確立されていた文化、つまり照葉樹林文化の一つだと考えた。なぜなら、このテクニックを知らずしてはクズやワラビなどの根茎に含まれるデンプンの効率的な採取はできず、当時の林床に抱負に生育していたと考えられるテンナンショウやヤマノイモなどの、アクの強い野生のイモ類の利用も難しかっただろう。縄文時代の遺跡から出土するクリ・カシ類のドングリやトチの実のアク抜きにもこの方法を使ったに違いない。
 したがって、半栽培段階で大陸から有毒植物のヒガンバナを受け入れて食料として利用することには、何らの問題もなかったということである。
 とはいえ、これらは有史前のことで、確証はない。花粉分析などで復元される先史時代の植生や発掘された遺跡から出る炭化物、現代の照葉樹林帯に生活する多様な民族に継承されている文化などから推測せざるをえない。
 ヒガンバナの故郷の中国でも古代から食用したのだろうか。

 これについての現存する最古の記録は私の知るかぎりでは明代永楽4年(1409)に出版された『救荒本草』に見ることができる。

 この書は飢饉の際に利用できる400余種の植物を挙げ、図とともにその形態や調理法を簡単に解説したものである。図は当時のものとしてはかなり写実的である。ヒガンバナはその上巻草部の根可食の項にツルボなどとともに“老鴉蒜”の名でとりあげられている。その図は栄養器官だけで花が描かれていず、しかも球根の鱗片に甘みがあると解説されていて本当にヒガンバナのことなのかといささか疑わしいが、万暦18年(1509)に刊行された『本草綱目』のなかで著者の李時珍は老鴉蒜は石蒜(ヒガンバナ)の別名と判定し、以後はこの李時珍の説が踏襲されている。
 『救荒本草』の処方では、薄く油を引いた鍋で球根が弾けるまで炒った後、冷水でよくアク抜きし、塩油で調理してたべるとある。

 李時珍もこの『救荒本草』のレシピを紹介しているが、有毒性についても言及している。しかし彼は食物としてよりも薬草としてのヒガンバナを重視していて、さまざまな薬効とその処方を記している。たとえば、疔瘡悪核(顔面などにできる根の深い悪性のできもの)には水で煎じたものを飲み発汗を促しすとともに搗き潰したものを貼り付け、水当りには酒で煎じたものを1リットルほど飲んで吐くのがよい、などとある。崇禎年間(1626~43)に姚可成が著した『救荒野譜補遺』では煮て食べることになっている。

 近・現代の中国でも食料として認識しているのだろうか。
 『中国植物誌』や『中国高等植物図鑑』を始めとし、近年出版された各省の植物誌には民間薬とされることは書かれていても、食用するという記述はない。そればかりか共同研究者の徐炳声教授や傳承新教授のみならず面識を得た植物学者の誰もが、ヒガンバナが食料として利用できる事実を知らなかった。『世界花の旅』の取材で中国のヒガンバナに会いにでかけた朝日新聞記者の川上義則も「上海や長沙で『本草綱目』を引いて何人かの専門家に彼岸花の食習慣について尋ねた。ところがだれもが言下に否定した」と記している。

 しかし川上たちは、そこに大群落があるはずと聞いて訪ねた、洞庭湖に注ぐ豊水の流域の名勝として知られた武稜源の入り口に位置する張家界で、ヒガンバナを食べる習慣が連綿と息づいていることを知った。湖南省のこの一帯には古来少数民族の苗族と土家族が住んでいる。川上らが張家界の一老婦人、張得松から聞き取った話の概略は次のようなものであった。
 この地では先祖代々、ヒガンバナの球根を擂り潰すか切り刻み、長時間水で晒し、穀類と混ぜて食べていて、近いところでは1959年から3年間に亘った異常気象による大旱害時の飢えを癒すのに大いに役立った。ひどいときには球根の粉末と塩味のスープだけでしのいだこともあり、花茎も炒めて食べた。食糧事情が好転した76年あたりまで食べていた。また、食べるだけでなく『本草綱目』の処方のように“できもの”に貼っていた。毒蛇に咬まれた傷にもつけるので「背蛇生」の名もある。魔除けの霊力があるとして戸口に植える習慣もあるという。

 鹿児島県では薩摩半島南端の頴娃町や知覧町の民家の一部で、門口や生垣の下生えにヒガンバナとショウキランが植え込まれているが、張家界と同じような魔除けの風習の名残だろうか。
 ちなみに張家界のヒガンバナは9月半ばですでに花が萎れ花茎のみが棒のように立っていたというから、断定はできないが2倍の可能性が大きい。
日本にも古代からヒガンバナを食べていた記録があるのだろうか。
 残念ながら江戸時代中期より古い文献で食料としてのヒガンバナを記述したものは知られていない。わずかに江戸時代後期の享和3年(1803)に小野蘭山が著した『本草綱目啓蒙』、天保8年(1837)の遠藤泰通著『救荒便覧』、天保14年(1843)小野識孝著『救荒本草啓蒙』、そして弘化4年(1847)の小野蘭山著『重修本草綱目啓蒙』に勢州粥見(三重県松坂市飯南町粥見)で食用すること、阿州一宇(徳島県美馬郡一宇)の山地の住人が葛粉を採る要領で球根からデンプンを集め水粉と呼んで食べることが記されているにすぎない。分化13年(1816)に岩崎常正がまとめた『救荒本草通解』でも「此物毒アリ妄リニ食スベカラズ」と注意を喚起しているほどである。過去に起こった中毒事件の記憶が生々しかったからだろう。
 
 しかし明治時代以降になると、民間の口伝を含め、ごく近年まで食べていた記録が散見されるようになる。
 牧野富太郎は昭和6年の論文に「土佐の国では明治年間頃、ところにより其球根を農家で食用していましたが、今日でも僻地の山間では、なおその風が存していると思います」と記し、さらに友人から聞いた話として、高知県長岡郡新改村(高知県美香市)の貧しい農家はこれを常食としていたと書いている。牧野自身も「明治10何年といふ頃、私は高岡郡鳥形山に採集にいったことがあったが、その山下の長者村字泉で一農家の傍らの水の落ちるところに其球根を搗き砕きて布袋に容れ晒してあったことを見受けたことがあった」と報告している。

 第2次世界大戦の末期、食糧事情も逼迫していた昭和19年、東北帝国大学農学研究所の岡田要之助と石川重夫は『澱粉資源植物に關する調査』という論文を書いているが、その中でヒガンバナの食習慣についての口伝・伝承再調査の結果を報告している。小野蘭山がヒガンバナを食べる土地として挙げた粥見では、当時の小学校校長の服部大定が「最近の食糧事情に促されて、再び之を利用するの風を生じた」と嘆いている。ここでの調理法も水晒しによる毒抜きに始まる。球根を一週間水に浸け、穀類(もち米、粟、キビなど)の上に乗せ、蒸して餅に搗いて食べる。これを“ヘソビ餅”と呼んでいた。徳島県女教員会がやはり昭和19年に編纂した『阿波郷土食の伝承と将来』をみると、剣山を中心とする三好郡西祖谷山、美馬郡東粗谷、名西郡神領、那賀郡坂州などの山間の村落にヒガンバナ食の風習があったことがわかる。いずれの地方でも球根を搗き砕き水に晒して団子や餅にして食べている。ここではツブロダンゴ、ツブロモチ、オシロイモチ、マンジュモチなどと呼んでいた。また、天明年間と天保年間の大飢饉に際してはヒガンバナに笹の芽を蒸し焼きにして作った粉を混ぜて飢えをしのいだとの言い伝えもこの地にあるという。奈良県と和歌山県の十津川に沿った地域にもヒガンバナ食にかかわる口伝が残る。

 『いよのことば』の著者の杉山正世は愛媛県の老人の話として「アナ、エグイモンガ食ベラレマスカイ、花ヲ折ッタテ、ヨイヨクサイジャケン。ソヤケド、アノ球ヲ水デサラシテ、ソレヲコーニシタモンヲ御米ニマゼテ食ベタラ食ベラレルソウナガ、サア、ドウジャロカ」という言葉を紹介している。
 大庭良美の民謡集『水まき雲』に収録されている「山中へ娘やりたや/もてくるつとは煮モメラ/煮モメラもじょうにやもてこぬ/葛の葉にこそ包んで」という島根県鹿足郡の高津川上流の日原で歌われた麦踏み唄の“煮モメラ”は、ヒガンバナの球根を湯がいて擂り潰し、麦粉とまぜてつくった餅のことである。歌詞のなかの“つと”は土産の意味ですから、救荒食というより菓子のようなものだったのだろう。
 高橋道彦(1980)は高知県土佐山村中切(高知市土佐山中)には当時でも伝統的なヒガンバナの調理法を受け継いでいるご婦人がいることを報告してしている。聞き取った調理の手順はおよそ次のようなものであった。

 球根は地上部が枯れている4月から8月に採集する。
 球根の上下を切り落とす。黄色みをおびたヘソ(茎)をえぐりとる。
 桶にいれ水を注してかき混ぜて褐色の鱗皮を除く。
 鍋などにたっぷりの水をとり、白くなった球根と晒しに包んだ灰(消石灰)を入れ、強火で煮る。
   球根が黄色になったらよくかき混ぜて球根を潰し、粗い糊状にする。
 内側に晒しを張ったカゴの上に目の細かいザルを置き、ここへ潰したものを入れ水を注ぎながら
   撹拌する。黄色を帯びたデンプンがカゴに沈殿する。ザルに残ったものは捨てる。
 沈殿したデンプンは黄色みが失せて白くなるまでときどき緩やかに撹拌しながら流水で晒す。
 アルカロイドが抜けた白いデンプンは、晒しに包んだまま圧し絞り、よく水を切る。
 別の容器に移し、粘りを持たすための葛粉や屑米、調味料を加え、手のひらほどの大きさの餅に
   して炭火で焼き上げる。


 このような手順で集めたデンプンに少量の小麦粉と砂糖・塩を添加して焼き上げたものを試食した高橋は、「ヒガンバナ特有の味と風味を持ち、代用食として充分に食することができた」と記している。

 ここまでに書いてきたように、中国では明代以降、わが国では江戸時代後期から現代までヒガンバナが食料として大いに利用されたことはわかった。では中尾佐助の主張するように、この植物は本当に縄文時代前期には日本へ渡来していたのだろうか。当時既に渡来していたことが証明できないだろうか。
 一縷の望みはある。

 渡辺誠著『縄文時代の植物食』によれば、ヒガンバナのそれよりずっと小さなノビルの球根の炭化物が、東京都中野区の新井小学校裏手の縄文時代後期にあたる遺跡から出土した壷の中に、ほぼ完全な姿で残っていた。またノビルは八王子市宮下の縄文時代中期の遺跡からも発見されている。クログワイの球茎も同時代の青森の遺跡で発掘されている。これらは現代でも食用されている野草である。
 また、小島弘義・浜口哲一(1977)の報告によると、平塚市北部、伊勢原丘陵から東西に半島状に延びた丘陵の中ほどに位置する、出土した土器の形式から縄文時代中期と決定された“上の入遺跡”から、クルミとともに30個ほどの炭化した球根が発見されている。この球根の縦断・横断切片を顕微鏡で観察し、比較研究をした結果、ユリ科やネギ科ではなくヒガンバナ科だと判定された。しかしその形と大きさから、ヒガンバナではなくキツネノカミソリだろうと報告されている。発掘された状況は、あたかも保存食としてコモで包まれていたかのように、一塊の球根の周囲にはワラ状の炭化物があった。
 状況証拠ではあるが、主食ではないにしても当時はキツネノカミソリが食料であったことが強く示唆されている。

 実は、興味深いことにキツネノカミソリを食べる風習は最近まで焼畑農耕で知られる宮崎県椎葉村に残っていた。宮崎県教育委員会の斉藤正美(1995)は伝統的な焼畑農耕を続けていた椎葉クニ子から聞き取った話を『おばあさんの植物図鑑』として刊行したが、それによると椎葉村ではキツネノカミソリをオオシと呼び、土佐山村中切の人たちがヒガンバナからデンプンを集めたとほぼ同様の方法でデンプンを採り、おにぎりに結んで焼いて食べたという。椎葉村ではキツネノカミソリはさほど多くないので、山で見つけると掘り採ってきて家の近くに仮植えをして、5月の末に葉が枯れてから太った球根を掘り起こして利用していた。これはまさに中尾佐助の言うところの半栽培段階である。


 キツネノカミソリが縄文時代に食べられていたのなら、それより大型で繁殖率のよいヒガンバナが渡来すれば、これを住居の近く、いわゆる家庭菜園に植えて利用したに違いない。
 
 いずれ日にか、どこかの遺跡からヒガンバナの炭化球根が発掘されれば、この植物と日本人の出合いの時期がかなりの確かさで特定できるであろう。

 一方、山口隆俊はヒガンバナの渡来の時期が半栽培段階よりずっと後の時代、中尾の区分でいう水稲栽培段階に入ったときだと想定した。山口(1959)は『自然科学と博物館』に「彼岸花日本渡来記」と題する小論を発表し、稲作を日本にもたらした人々がイネとともに救荒食としてヒガンバナを携えてきたのだと主張した。
 ヒガンバナの群生地は米作地帯、それも古い時代に開けた地方を中心に分布していることが論拠である。また、近畿、中国、九州と南西部に行くほど分布密度が高く、大繁殖地も多いことも稲作伝播の歴史を反映しているとみている。
 愛知県下の豊川流域と渥美半島でのヒガンバナの分布状態を詳しく調査した愛知大学の有薗正一郎(1998)も稲作とともに渡来したと結論している。

 古代から農民が救荒作物としてヒガンバナを積極的に水田地帯の土手や畦に植えていたという記録は見当たらないが、そのような言い伝えはあったようだ。明治末年の頃、徳島県三好郡山城谷の開墾されたばかりの他の畦に、としのころ80歳ばかりのご婦人がヒガンバナをせっせと植え込んでいるのを見て、何のために植えているのかを尋ねると、先祖代々の習慣だと答えたという伝聞を山口隆俊が紹介している。このご婦人は植える目的については何も話さなかったようだが、この地では飢饉に際しては餅に搗いて食べていたことはすでに書いたとおりである。
 これは私の経験だが、30年ほど前のこと、千葉県木更津市清川の水田地帯でヒガンバナを採集していたとき、農作業をしていた方が、「ヒガンバナを植えてあるのは土手や畦が崩れるのを防ぐためだ」と教えてくれた。食料としての認識はまったくないようだった。

 1700年頃から鹿児島でサツマイモの試作が始まり、間もなく各地で栽培されるようになる。それとともに救荒植物としてのヒガンバナの用途は忘れられていったとも考えられる。

 水稲耕作が日本にもたらされた経路や時代はまだ確定してはいないようだが、最近の研究によれば、まず熱帯ジャポニカ系のイネが琉球列島経由で九州から西日本に入り、次いで今日主流の温帯ジャポニカ系のイネのRM1-a系統が揚子江下流域から東シナ海を渡って九州に、そしてMR1-b系統が朝鮮半島から九州に伝来したようだ。熱帯ジャポニカは約3500年前から、温帯ジャポニカは約2500年前頃から栽培され始めたと推定されている。弥生時代には水田耕作もされていたものの、元来は焼畑稲作に向いている熱帯ジャポニカは平安時代以降になると次第に姿を消してゆく。

 ヒガンバナの故郷は揚子江流域と考えられることはすで書いたが、この地では6000~8000年も前から温帯ジャポニカが栽培されている。これに対し、現在熱帯ジャポニカが栽培されている地域にはヒガンバナは分布していない。その日本への推定伝来経路にもヒガンバナは残されていない。沖縄のヒガンバナは後で触れるように、比較的近年になって九州から持ち込まれたものと考えられる。
 したがって、山口隆俊が主張したように、稲作にともなってヒガンバナが渡来したのならば、それは約2500年前頃ということになる。

 一方、前川文夫は日本への導入の目的は救荒食用としながらも、副次的はイモやタケなどの生きている植物を海を越えて運搬する際の梱包用に使ったのではないかと考えている。これは、和歌山や三重など紀州の各地ではミカンの出荷のとき、ヒガンバナの葉が適度な粘り気あり柔らかで湿気をよく保つことから梱包に使っていたという話にヒントを得た説である。
 牧野富太郎の『大日本植物誌』にも「理科大学助手、松田定久曰く、駿河に在りてはその生葉を利用す。其法秋冬の際箱中蜜柑の間に之を入れ以て果実の乾燥を防ぎ兼て其蜀接を避くと」と記している。これはわが国独自の発送のようにも思えるが、中国から受け入れた知識かもしれない。
 梱包材として使ったとなると、漂着説のところで紹介した伊豆沖の無人島の鳥島にヒガンバナが咲いていたのは、ひょっとすると紀州や伊豆から江戸に向かう蜜柑舟が難破して、その積荷の中に詰められたヒガンバナが運良く島に流れ着いたのかもしれない。可能性はあるだろう。

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