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ヒガンバナの民俗・文化誌

(U)

花は咲けども

 彼岸の入りの今朝も、TVでは日高市の巾着田に真紅のカーペットを敷き詰めたように咲く彼岸花と、その中を散策する大勢の人々の映像を流していた。いったいヒガンバナの何が人々を魅了するのだろう。
 日本の野に咲く花としては異例の、紅蓮の炎、あるいは鮮血のような彩り、人里に、それもしばしば墓地や社寺の境内に生えていること、死をも招くことのあるその毒性、そして、あれほどまでに咲き誇っていても決して実を結ばず、それにもかかわらずどんどん増えてゆく不思議。こうしたさまざまなこの植物の特徴が複雑に絡み合って、人々の心を揺さぶり、異界の花、つまり別の世界からやってきた花と直感させるのだろう。

 この直感が正しかったことは、実を結ばない謎、つまり不稔性の原因が解明されることによって証明された。

中国浙江省の西湖の辺のヒガンバナ: 9月の下旬で花が終わったところ。
子房は膨らむことなく、花茎は間もなくしおれて枯れる。

 
ヒガンバナに種子ができないことの不思議を最初に指摘したのは牧野富太郎だった。彼は明治40年(1907)に出版された飯沼慾斎の『増訂草木図説』のマンジュシャゲの補記に「予ハ未ダ本種ノ結実セシモノヲ見タルコトナシ」と書いている。
 江戸時代の本草家はこのことには気づいていなかったようだ。そればかりか反対に、天保15年(1844)刊行の小野蘭山著『重訂本草綱目啓蒙』には「花後圓實を結ぶ、實熟して莖腐り新葉を生ず」とある。思い違いの可能性もあるが、蘭山ほどの学者が実物にあたらなかったとは考えにくい。後で詳しく書くが、ごく稀れに結実することもあるので、そのような株を見たのかもしれない。しかし牧野富太郎は「蘭山は花後に尚存する緑色の略円き子房を見て其れを実が熟したと誤解している」と断じている。

 ではどうして種子ができないのだろう。


 オシベからメシベへ花粉を運んでいる花粉媒介者がいないからだろうか。そんなことはない。天気がよく風も穏やか日には花を訪れるアゲハチョウの姿を見ることができる。コハナバチのような小さな蜂が花粉を集めに来ることもある。また風が吹けば、身を寄せ合って群れ咲いている花は頻繁に触れ合う。しかし調べてみると花粉が多量に付着しているメシベ(柱頭)は滅多になく、なかにはまったく受粉していないものもあった。統計を取ってみるとそれでも約20%のメシベに多かれ少なかれ花粉がついていた。つまり、受粉することがないから種子ができないというわけではない。
 植物によっては、自家不和合性といって、同じ株の花粉では受精できないものもある。ヒガンバナは自家不和合なのだろうか。
 この点に関しては、東京帝国大学で生物学を学んだ終り徳川19代目の当主の徳川義親やヒガンバナ類の育種で知られた寺田甚七、同志社女子大教授時代の小山松太郎などが人為自家受粉実験を行い、興味深いデータを残している。

 徳川義親は徳川生物学研究所を設立したことで知られる”殿様”だが、大正3年(1914)の論文『花粉の生理』のなかで、ヒガンバナの不稔性は「恐ラク栄養状態ニ関係アルモノトミラル」と書いたが、大正14年の植物学雑誌に『彼岸花ノ種子ニ就テ』という論文に彼の行った自家受粉実験の結果を報告している。それによれば、総計約140花をつけた20本の花茎を切り採り、自家受粉をさせ、1茎ずつ花瓶に差し、数日ごとに水を取り替えるとともに腐り始めた花茎の下部を切り詰めながら栽培したところ、約2ヵ月後に5個の種子が得られたという。
 この5個の種子を蒔いた結果は2年後の江本義数と共著の論文『Lycoris属植物ノ種子形成ニ就テ』に「終ニ発芽セシムルコトヲ得ザリキ」と報告している。この論文を読むと、不稔性の原因を探るため彼らはさまざまな実験をしたが、まがりなりにも種子が採取できたのは切り取った花茎を水栽培した場合だけであった。この方法でも4768花から採れた種子はわずかに17個で、しかも発芽したものはなかった。

 寺田甚七は昭和12年に同様の実験をするとともに他家受粉をも試みているが、やはり一粒の種子も得られなかった。
 ところが、小山松太郎は毎日水を取り替える方法で18912個の花から479個の種子を採り、この内の22個を発芽させている。

 切り取り栽培実験ではなく、自然状態に放置した場合はまったく種子をつけないのだろうか。あるいは実験結果と同じように少しは結実するのだろうか。
 千葉県木更津市の大きな群落で調査したところ、約0.016%の花でさまざまなサイズの種子(写真参照)を採取できたが、発芽したものはなかった。一方、園芸家の城下重春が長崎県の野外で採取した4粒の種子の内の1個が発芽し、外見上は正常な形態の花をつけた。後に、この個体のクローンの染色体を調べたところ2n=33ではなく2n=32で欠失が観察された。


大群落から採取できた見かけは正常そうなヒガンバナの
種子。一つとして発芽しなかった
花茎を水差し栽培して途中まで育った種子

 
以上のような実験や観察の結果からみると、
ヒガンバナは極々稀には種子で繁殖することがあるものの基本的には不稔性植物である。

 どうしてこれほどまでに種子ができにくいのだろう。
 その答えは細胞遺伝学と呼ばれる分野の研究から得られた。
 明治33年(1900)にメンデルの法則が再発見されるとともに、遺伝子が染色体に担われていることが明らかになる。生物の体を構成する基本単位の細胞には核と呼ばれる構造があり、この中に染色体が納まっているのだが、その数と形が原則として種ごとに決まっていることも知られるようになった。そこで、さまざまな種の染色体の数や形態を詳しく調べるとともに配偶子が形成される際の染色体の動向を観察し、染色体のどの部分にどんな遺伝子が存在するのかを示す染色体地図を作成したり、栽培植物の起源や野生種の類縁関係などを解明することを目的とする細胞遺伝学の研究が盛んになった。

 ヒガンバナの不稔性の原因を、この新たな視点から探ったのが京都帝国大学農学部の西山市三である。そしてその研究結果をまとめた論文『ひがんばな属植物ノ減数分裂』が発表されたのが昭和3年(1928)である。
 ではなぜ減数分裂(花粉と胚嚢を形成するための細胞分裂)を研究すれば不稔性の原因がわかるのだろう。西山の研究の結果を紹介して説明しよう。

 説明を進める都合上、先ず始めに細胞分裂と染色体数の変化の仕組みについて簡単に解説しよう。

 細胞分裂には2つのタイプがある。一つは個体が生命を維持し成長するために行う分裂で、体細胞分裂と呼ばれ、今ひとつは卵子と精子(植物では胚嚢細胞と花粉)を形成するための分裂で、減数分裂と呼ばれる。
 身体を構成している細胞には雌の配偶子に入っていたn本の染色体と雄の配偶子に入っていたn本の染色体、つまり2n本の染色体がある。分裂をしようとする細胞は個々の染色体を複製(コピー)して4n本にしたのち、体細胞分裂ではこれを均等に2分して2n本の染色体をもつ2つの体細胞になる。
 減数分裂は引き続く2回の分裂で、まず複製して4nにした染色体を体細胞分裂とは異なる方法で二つの細胞に2n本ずつ配分し、次には複製なしで2n本をn本ずつ2つの細胞(配偶子)に配分する。そしてこの配偶子が受精すれば出発点の2nにもどり、これが次世代となるのである。
 しかし、減数分裂の結果の配偶子の染色体のセットに乱れが起こるつと、正常な次世代を作ることができなくなる。植物でいえば種子ができないか、できても発芽しないことになる。これが不稔性である。
 乱れが起こる原因には外的なものと内的なものとがある。外的なものとは異常な高温や低温、放射線の照射、有害な化学物質などの刺激が分裂の途中で加わることであり、内的なものとは減数分裂に関わる遺伝子が壊れたり、奇数の染色体数などのように染色体構成がアンバランスになっている場合である。

 西山は「きつねのかみそりトひがんばなトハソノ形態並ビニ習性ガ非常ニ相類似シテオルノニ関ラズ、獨リひがんばなノミハ全ク種子ヲ生ズルコトガナイ」点に注目し、この2種の減数分裂を研究した。
 その結果、キツネノカミソリの体細胞は22本の染色体を持ち、減数分裂は、まず22本の染色体の内の2本ずつが対合して11個の2価染色体ができ、その後も分裂は整然と進行して11本の染色体を持った花粉が形成されることがわかった。体細胞の染色体数が22ということから胚珠の中で胚嚢細胞を形成する際の減数分裂も正常に行われ11本の染色体を持つ卵細胞ができることもわかる。つまり、キツネノカミソリでは正常な減数分裂の結果として、受精後に正常な種子ができるのである。
 一方、ヒガンバナの体細胞では33本の染色体が数えられた。そして減数分裂を観察すると、最初の分裂では細胞ごとにさまざまな染色体の組み合わせがおこり、キツネノカミソリのように同数の染色体を持った2つの細胞に整然と分かれることができない。したがって2回目の分裂で形成される花粉の持つ染色体の数も一定しない。
 同様のことは胚嚢細胞の分裂でも起こるので、異常な染色体数の卵細胞ができる。この結果、ヒガンバナでは仮に受精までこぎつけたとしても正常な種子を作ることができないということが明らかにされたのである。

 キツネノカミソリの花粉の持つ11本の染色体セットを”X=11"と表すとその体細胞は”2X=22”で、これを2倍体とよぶ。これに対してヒガンバナの体細胞は33本の染色体を持つので”3X=33”である。これを3倍体と呼ぶ。つまり、3倍体は減数分裂を正常に終了させることができず不稔性になるのである。

 この後、稲荷山資生がさらに多くの個体で減数分裂を観察して、西山と同じ結論に達している。稲荷山(1951)の論文によれば、発芽させたヒガンバナの花粉の染色体数は12から19までさまざまで、15のものが26.4%、16が29.6%、17のものが19.2%であった。稲荷山は観察していないが11や22の花粉があっても不思議ではない。
 このようにして、ヒガンバナの不稔性は、それが3倍体で正常な減数分裂ができないことに起因することが解明されたのである。

 しかしながら、野生の大きな群落の中では膨大な数の花粉と胚嚢細胞が作られているわけで、非常に稀ながらバランスの取れた染色体の組み合わせができる可能性がある。城下が長崎で種子を採取して育てた株はこのごく稀な組み合わせの産物だったのであろう。
 小山が人工的にヒガンバナの自家受粉を行い22個体の実生を得たことは前に書いたが、その内の10個体の染色体数が報告されている。それによれば6個体が2n=22、3個体が2n=23、1個体が2n=25である。いずれも偶然から生じた生存可能な染色体の組み合わせであろう。これらの2倍体と異数体が開花に至ったか否かは報告されていない。
 また、人為的に自家受粉をさせれば、自然状態では不稔の3倍体から、さまざまな染色体数の実生が得られることがユリ属やネギ属などでも報告されている。
 竹村英一(1962)は高槻市の平林寺付近で3倍体ヒガンバナの群落内に混生していた2倍体を採集しこれを交配実験の片親としたが、これも偶然に3倍体から誕生した2倍体であろう。

 今のところ日本で発見された野生の2倍体と確認されているのはこの竹村の使った個体だけである。
 

種子から生まれたヒガンバナ

 種子で繁殖できないにもかかわらず、ヒガンバナは東北地方以南の日本列島に広く分布していて、場所によっては大群落を形成している。これは云うまでもなく球根が分裂し増殖できるからである。
 しかし、ヒガンバナはどうしてここにあるのだろう。
 球根で増殖することしかできない3倍体のヒガンバナは何処でどのようにして誕生したのだろう。


 3倍体の植物が誕生する仕組みは二つある。

 第一は2倍体(2X)と4倍体(4X)が偶然に交雑した場合である。2倍体が作るX本の染色体を持つ配偶子と4倍体が作る2X本の染色体を持つ配偶子が受精してできる3X本の染色体を持つ個体が3倍体である。2倍体が母方となれば、その子房の中にできた種子(胚)が3倍体の出発点となる。
 第2は2倍体(2X)の個体が何らかの原因で減数分裂が抑制され、X本の染色体を持つ通常の配偶子の代わりに非減数性の2X本の染色体を持つ配偶子(精核または卵細胞)を形成し、この配偶子がX本の染色体を持つ通常の配偶子と受精し3Xの染色体を持つ種子(胚)となった場合である。

 つまり、
最初の3倍体のヒガンバナは種子で繁殖できる2倍体ヒガンバナがあってはじめて誕生できた。
 

故郷をもとめて


 北海道をのぞく日本列島に広く分布している3倍体のヒガンバナは何処で誕生したのだろう。2倍体がなければ3倍体はできないのだから、2倍体が分布している場所が誕生の地である。だが、現在の日本には種子で繁殖している2倍体は存在しない。とすれば、可能性があるのは海の向こうの中国や韓国である。

 韓国では一輪のヒガンバナを描いた切手も発行されているが、日本でのようにありふれた植物ではなく、栽培ないしは逸出状態で散見されるに過ぎないが、最近は全州郊外の公園のように大量のヒガンバナを植え込み、秋になると観光の目玉としている場所も出てきてはいる。
 全北国立大学の金茂烈教授の調査によれば現在のところ、ソウル、大阜島、月岳山、禅雲山、白羊山、仏甲山、双渓寺、頭輪山などで見ることができるという。私も数年前、全羅南道を中心に半島の南部を巡ったが、済州島をふくめ一度も目にすることはなかった。
 現在はむろん過去にも稔性の個体は報告されておらず、染色体を観察された個体もすべて3倍体であった。
 韓国に2倍体が存在する可能性は先ずないと見てよいだろう。

 一方中国では日本どうようにヒガンバナはありふれた植物で、大きな群落も見られ、昔から救荒植物の一つとしてよく知られていた。だが、明の李時珍の『本草綱目』をはじめとするヒガンバナをとりあげている本草書のいずれにも稔性の有無についての記述はない。   

 その中国のヒガンバナの中に3倍体とともに2倍体が存在することを最初に明らかにしたのは、ヒガンバナが3倍体ゆえに不稔性を示すことを発見した西山市三(1939)であった。

 西山はその論文に「昭和4年の頃小見益男氏が支那大陸産(浙江省)のLycorisを二種類寄贈してくれた。その中の一つは本邦各地に自生するヒガンバナとまったく同一種であった。他の一種はヒガンバナとよく似ているが、詳細に比較して見ると明らかに異なったものである。」と記しており、これが2倍体であった。西山はこれをシナヒガンバナと呼んだ。
 稲荷山(1953)も詳しい産地には触れていないが中国産のヒガンバナに稔性のある2倍体を見いだし、これをコヒガバナと名づけ、L. radiata (L'Herit.)Herb. var. pumila Gray にあてた。この学名は正式に記載されたものではなく、Gray(1938)がヒガンバナの倭性の系統に暫定的につけた学名で、稔性の有無についての記述はない。したがって3倍体であったのかもしれないが、稲荷山が2倍体にこの学名をあってて以来、var. pumila といえば2倍体ヒガンバナをさすという暗黙の了解がある。
 L. radiata にしても、記載された時点では稔性の有無には触れられていない。しかし日本産の個体を元に記載された学名ゆえ、こちらは3倍体としてよいだろう。

 このように、西山と稲荷山の研究によりヒガンバナの故郷が中国大陸である可能性が高くなった。しかし、日本で竹村が拾い出した株のように、3倍体由来の偶発的産物の恐れもある。これに決着をつけるためには中国での2倍体(コヒガンバナ)と3倍体(ヒガンバナ)の分布の実態を明らかにする必要がある。

 広大な中国大陸を私自身がくまなく回ってこの目で確認できれば云うことはないが、現状ではさまざまな制約がある。
 そこで上海復丹大学の徐炳声教授(現名誉教授)の助けを借りて、北京の中国科学院植物研究所、南京植物園、杭州植物園、復旦大学、成都植物研究所、昆明植物研究所などの標本庫に収蔵されている押し葉標本にあたって、採集地を確かめ、分布範囲を調べた。

 実際に当たってみてわかったことは、押しつぶされ色が抜けたり変色したりしている標本をもとに、それが2倍体か3倍体かを決めることの難しさである。
 染色体数が確定している個体の形態を統計的に比較すれば、2倍体より3倍体の方が花茎は太く長く、小花の数は多く、花糸長・花柱/花被片長は大きく、葉身も長いのだが、こうした数値は個体レベルでは重なり、確かな決め手にはならない。しかし、種子のついている標本があれば2倍体と決められるし、よい葉の標本があれば気孔のサイズからどちらか判定がつく。
 ところがヒガンバナ類の特徴として花時には葉がなく、葉が出ているときは花がない。したがってこの二つの器官が揃った標本は皆無に等しい。また花のほうが目立つためその標本はあっても葉の標本は少ない。また花の終わった後の花茎の標本も非常に少ない。

 ある程度は頼りになるのはもう一つの形質、開花期である。
 これも多少の重なりはあるものの2倍体は早いものでは8月の上旬から咲き出し、3倍体は9月中旬(稀には9月上旬)から咲き始める。したがって、花のある標本のラベルに採集した日付があれば判定可能である。しかしその年の気象条件や生育地の状況によってあるていど花期がずれることがあるので、8月の終りから9月の初めにかけて採集された標本は除外することにした。

 この開花特性は採集した球根は日本に持ち帰って栽培しても保持されているので、もし日本にも8月上旬から咲き始めるものが自生していれば2倍体である可能性が高い。
 そこで、斉藤茂吉が長崎医学専門学校教授の時代、大正9年の夏、病を癒すために逗留した雲仙温泉で詠んだ短歌、「曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ」が注目される。“石原”は「温泉神社(四面宮、国魂神社)裏の石原」である。8月4日に詠まれたものである。
 茂吉は偶然に2倍体と出合ったのではないか。そう考えてかの地を訪ねてみたが、残念ながら2倍体を採集することはできなかった。島原半島には7月から開花するオオキツネノカミソリはある。しかし植物には詳しかった茂吉が間違えたとは考えにくい。これは謎として残しておこう。
 東京大学の標本庫には、種子は付いていなかったが、台紙に「種子は黒熟する」と書き込まれた標本がある。熊本県益城郡中央町樫志田で採集されたものであった。そこで現地に出かけ堅志田のみならず阿蘇の外輪山南山麓一帯を調査したが、ここでも2倍体を見つけることはできなかった。

 日本に2倍体が分布するか否かの問題は置くとして、上記の手法での調査の結果、中国では3倍体は主に揚子江本流とその支流域に広く分布し、山岳地帯の多い雲南省や南西部の江西チワン自治区などでには少ないことがわかった。一方、花期と種子を持つことから2倍体と判定されたものはわずかだったが、四川・湖南・貴州・安徽・浙江・江蘇省の6省で3倍体と重なるように分布していた。
 
 2倍体がごく狭い地域のみに分布しているのであれば、そこが3倍体の起源の地の可能性が高いが、残念ながら今回の調査からはそれは特定できず、揚子江の中・下流域のどこかだろうとの推測しかできなかった。
 
 日本に分布するヒガンバナが単一のクローンである可能性は核型の研究(Kurita, S., 1987)や酵素多型の研究(小和田理子、未発表)が指摘したが、韓国に分布するものも酵素多型の解析から単一クローンであることが示されている(Chung, M.G., 1999)。したがって、日本と韓国のヒガンバナは中国から人為により持ち込まれたものと考えるのが自然だろう。
 では中国に広く分散して分布するものも一回起源のクローンだろうか。核型と外部形態から見た限りではいくつかのタイプがあり、どうやら複数回起源のようだ。日本や韓国へはその一つが持ち込まれたのであろう。日本のものと同じ酵素多型パターンは南京産のヒガンバナで観察されている。
 また、日本に分布するヒガンバナが単純な同質3倍体ではないことは核型の研究から示唆されていた(Kurita, S., 1987)が、ごく最近の葉緑体遺伝子の塩基配列に基づく研究(Hayashi, A., Saito, T., Mukai, Y., Kurita, S. and Hori, T., 2005) からも確かめられている。

 このようにヒガンバナそのものの起源についても問題が残されてはいるが、それは置くとして、現在の日本に分布しているヒガンバナがどのような方法で中国大陸から日本にやって来たのかについての論考を『ヒガンバナ渡来再考』と題して以下のページで紹介する。



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