prologue

ヒガンバナの民俗・文化誌

(T)

〜 プロローグ ヒガンバナとの出合い 〜

  何処で初めてヒガンバナを見たのか、その名を覚えたのは何時なのか、残念ながら少しも記憶に残っていない。とはいえ、小学生になったころには、すでにこの植物を知っていたことはたしかだ。昭和19年の秋、日本帝国海軍牧之原飛行場を襲ったグラマンの1機が、対空砲火に被弾し、豊かに実った稲田に墜落炎上した。散乱した機体と黒焦げの肉塊と、それらを取り囲んだ、燃え盛る火のように赤い畦道のヒガンバナが、いまも脳裏に焼き付いている。
 もちろん、このような特異な状況での出会いはこのとき限りである。戦いに敗れた後の、平和の訪れた日本では、秋の彼岸が来るごとにヒガンバナは何事もなかったように咲いた。黄金色の稲穂の波打つ水田の際や、村のはずれの古寺の参道や、小川の土手などに、まるで篝火を連ねたようにこの真紅の花が咲くと、日本列島は秋霖の季節を迎えるのである。
 とはいえ、水田耕作が機械化され、畦や農道が改修され、市街化が進むにつれ、このような秋の風景にはなかなか出合えないようになってしまった。
 マンジュシャゲという奇妙な名を教えられたのも子供のころだが、同時におぼえた死人花とか火事花などといういささか縁起の悪い名のせいもあって、この花を美しいと感じたことはなかったと思う。
 そんなヒガンバナに私が深くかかわることになったのは、四半世紀ほど前のことである。
 当時、私はシダ植物の進化の道筋とその仕組みを、遺伝子の担い手である染色体と呼ばれる細胞内の構造を調べることで明らかにしようとしていた。来る日も来る日も顕微鏡をのぞき、新しい発見があれば、それがどれほど些細なことであっても嬉しくなって、よれよれになるまで祝杯を傾けていた。
 かかわりは、そんな日々の中で、一人の学生が卒業研究の材料にヒガンバナを選んだことから始まった。彼女は、水稲栽培の伝播に伴って有史以前に日本に持ち込まれたというのが通説で、いまでは北海道を除く日本各地に広く分布するこの植物の染色体構成(核型)に種内変異があるかないかを確かめようと思ったのだ。
 ヒガンバナは種子をつくらず、球根の分裂のみで繁殖しているから、常識的に考えれば考えれば染色体の変異はほとんど期待できず、したがっていまだ誰も試みたことない。彼女はそんな常識を疑っていたのである。仮に変異が検出されなくても、少なくとも染色体を観察する技術は身につく。そこで、「よいでしょう。頑張ってください」ということになった。

 染色体を観察するのはさほど難しいことではないが、プレパラートを作る過程のほとんどが手仕事になるため、よい結果を得るためにはいささかコツがいる。そこで”先生”がお手本を示すことになる。
 ところが、当時の私は専らシダ植物の染色体を研究していて、ヒガンバナの染色体を観察したことがなかった。しかし基本的には同じ方法でプレパラートはできる。
 初めてにしては上手にできたプレパラートではあったが、その染色体を見て目を見張った。大きくて形にメリハリのある、まさに絵に描いたようなその染色体は、小さくて数の多いシダ植物の染色体で苦労していた私には感動ものであった。
 この第二の出会いがきっかけで、私はヒガンバナとその仲間たちの世界に魅入られてしまったのである。

 はじめのうちこそ、艶やかな花を咲かせるヒガンバナに心惹かれたことを、恋人のように思ってきた決して花の咲くことのない日陰育ちのシダ植物に申しわけなく、仲間に知られることも気恥ずかしく思っていたのだが、結局は本気になり、ついにはヒガンバナとその仲間を求めて中国大陸の原野をさまようというところまでのめり込んでしまったのであった。

なぜか気になる人里植物

 ヒガンバナは、花さえ咲いていればまず見落とすことのない植物だが、花時の秋彼岸に人里はなれた山の中をどれほど歩き回ってみても、ヒガンバナに出合うことはできない。もしも出合ったなら、その付近を探索してみるとよい。人間の生活したなごりが残っているはずだ。
 このように村落や都市など、人間の生活圏に限って出現する植物を「人里植物」と呼ぶ。
 人里植物は、早春の路傍に咲く空色のオオイヌノフグリ、桃色の小さな花穂を立てるホトケノザ、踏まれても咲くたくましいセイヨウタンポポ、夏の到来を告げるような濃いオレンジ色の花のヤブカンゾウ、秋の日差しを浴びて金色の波のように揺れるセイタカアワダチソウなどなど、数え上げればきりがないほど多い。
 これらの草々にはそれなりの風情もあり、俳句や短歌にも詠われているが、ヒガンバナはそれらとは少し違って、ひとたび目にすると忘れ難い、特異な印象を人々の心に残すようだ。
 そのせいであろう、この植物には1000余の里呼び名がある。日本に分布する植物でこれほど多くの呼び名をもつものは他にない。
 オチョーチンボンボラコのように子供の草遊びを表す楽しい名もあるが、一方では不吉な縁起のよくないものも少なくない。死人花、幽霊花、葬式花、地獄花、墓花、毒百合、親殺しなどである。なぜこんな名で呼ばれるのかは後で触れるが、これらの里呼び名から想像できるように、現代でもこの植物を嫌う人がいる。しかし最近では積極的に庭に植え込んで、その秋の色を楽しもうという人も増えてきた。
 いずれにしろ、秋の彼岸が来るたびに、なぜか気になる人里植物、それがヒガンバナだ。


魅せられた人々
 「毎年ヒガンバナの咲くのを楽しみにしている。私は北海道育ち、二十数年前この地にきて始めてこの花を見たとき驚嘆し、この花にすっかり魅了されてしまった。(中略)みごとに咲いた群落が、無残にもなぎ倒されたり、踏みにじられているのを見ると腹が立つ。私は散策の折には、行く先々の野山へ球根を植えるように心がけている。やがて数十年もすると、そこにはヒガンバナの群落を見ることだろう。咲くのが待たれるこのごろである」
 これは小田原市の木村四郎が1977年10月16日発行の『サンデー毎日』のペン・サロンに投稿した文である。
 この木村のような積極派は稀だろうが、ヒガンバナに魅せられる人々は少なくない。しかし、ではどこに惹かれるのかとなると、これはまた人さまざまである。
                             (甲斐信枝 画)

 昭和6年、日本で最初にアイスクリームの紙カップの製造を始めたことで知られる詩人藤村雅光は、戦後間もない24年の夏、詩集『曼珠沙華』を出版した。このとき最愛のご子息は北朝鮮の地ですでに戦死していた。

    曼珠沙華の花が/私は好きだ

    庭の/雑草の中に/曼珠沙華の赤い花が/ぽつんと咲いている
                ○
    私が妻をつれて/あてのない旅を/つづけていた頃のことだ/おりる人もない/山の中の小さな駅で/雨に濡れた/
    汽車の窓から/見たものは/曼珠沙華の赤い花であった

    そういう記憶がある
                ○
    私の妻が/病気になったことがある/その頃の私には/醫者に来て貰うことも/薬を買うこともできなかった/
    小さな庭の/こわれかかった板塀の下に/曼珠沙華の赤い花が/ぽつんと咲いていた

    20何年か前のことだ
               ○
    醫者に診て貰うこともできなかったが/少しは歩けるようになった/私の妻は/庭におりていった

    痩せほそった指の間から/仁丹の小粒が/こぼれ落ちているのも忘れて/私の妻は/曼珠沙華の花を/
    いつまでも見ていた
    詩集を賣って/仁丹を買ったその残りの金で買ってきた/タバコを吸いながら/私も庭におりていった

    暮れかかった小さな庭の/曼珠沙華の赤い花の下に/こぼれている/仁丹の銀色の小粒を見ているうちに/
    瞼のなかが/熱くなってきたことを/私は今に覚えている

 詩人藤村にとってのヒガンバナは、彼のこまやかな心の波動に同調する赤い花であった。それはまた、病んだ妻の姿とも重なるものであった。

 室町時代から曼珠沙華と呼ばれていたヒガンバナは江戸時代の本草家にもよく知られていた。しかし彼らは魅せられると言うより、『本草綱目』を初めとする中国の本草書に「石蒜」の名で取り上げられている薬草として認識していた。一方、同時代の文人の多くはこの花にふれることもなかった。わずかに森川許六の「弁柄の毒々しさよ曼珠沙華」や蕪村の「まんじゅさげ蘭に類て狐啼」などの句が知られるに過ぎない。許六の目はこの有毒の真紅の花に優しくはないが、寂しげに狐が鳴くフジバカマの香る野中のヒガンバナを見る蕪村の目は秋の日差しのようだ。中興期の信濃の俳人大島寥太は醒めた目で「此のごろの西日冷たし曼珠沙華」と詠んでいる。

 明治時代以降になると、なぜか文芸作品にヒガンバナを登場させる人たちが急増する。
 正岡子規もその一人だ。あまり知られてはいないが、彼は『曼珠沙華』という短編小説を明治30年の秋に書き上げている。それは、玉枝という名の金持ちの総領息子と蛇使いを父にもつ極貧の花売り娘みいとの幻想的な恋物語である。

 田の中の大将塚に茂る大きな木の下に、傾く西日に映えて真っ赤な毛氈を敷きつめたように咲くヒガンバナの群落。その中に座って、娘が手折った花茎を束ねている。足の親指の爪が破れ赤い血が流れている。二人の出会いのシーンである。娘の好きな花がヒガンバナだと聞いて、「葬礼花、蓮華花、死人花などいふて誰でもいやがる花がお前には好いの、葉も枝も何もなく・・・・、色といや厭に真赤な色で、あかくても子供さえ取らん花を、それが好きなの、その人の嫌う花が」と訊く玉枝に「それだから可愛がってやるのぢゃがなぁ」とヒガンバナを薬玉にして首に下げた娘が答える。忌まれる身分ゆえ、忌まれる花に心寄せるのである。
  GONSHAN. GONSHAN. 何処へゆく/赤い、御墓の曼珠沙華/けふも手折りに
   来たわいな。

   GONSHAN. GONSHAN. 何本か、/地には七本、血のやうに、/血のやうに、/
   ちやうど、 あの児の年の数。

   GONSHAN. GONSHAN. 気をつけな、/ひとつ摘んでも、日は真昼、/日は真昼、/
   ひとつ あとからまたひらく。

   GONSHAN. GONSHAN. 何故なくろ、/何時まで取っても、曼珠沙華、/
  恐や、赤しや、 まだ七つ。

 これは明治44年に北原白秋が出版した歌集『思ひ出』に収録された「曼珠沙華」である。曼珠沙華には”ひがんばな”とルビが振られている。GONSHANは柳河の方言で良家の令嬢のことだという。集中冒頭の「わが生ひたち」には「美しく小さなGonshan. 忘れもせぬ七歳の日の水祭りに初めてその児を見てからといふものは私の羞恥に満ちた幼い心臓は紅玉入りの小さな時計でも懐中に匿してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた」と、蚕豆の青い液に小さな指先を染めて黒い瞳をみひらいて立っていた初恋の Gonshan との出会いが記されている。

 少年の日の白秋の脳裏に焼きついた、「曼珠沙華」の御墓で泣いているGONSHANは、この小さな Gonshan なのだろうか。
 白秋は童謡集『とんぼの眼玉』を編むにあたり、童謡味の勝ったものとしてこの詩を採っているから、ヒガンバナを手折りに来たのはやはり初恋のGonshanなのだろう。しかしこの「曼珠沙華」はまったく違う読み方もできるように思える。
 「わが生ひたち」を読む以前に、何の予備知識も無く初めてこの詩に出合ったとき、私が思い描いた情景は、父なし子を産んで死なせて気のふれたGONSHANが、昼日中の墓地で咲き乱れる鮮血色のヒガンバナを涙を流しながら折り取っている姿だった。ゴンシャンという言葉は『広辞苑』など手元の辞書にはなく、もちろんラテン系の言葉でもなかった。そこで、墓地との連想から、仏・菩薩が衆生を救うためこの世の人の姿となって現れたものを意味する権者(GONJA)という言葉に由来するもので、美しい女人、ひょっとしたら遊女のことではないかと勝手に解釈した次第である。
 白秋の思い出に残るGonshanは、水祭りの日に見初めたGonshanだけではない。
 「あの情の深そうな、そして流暢な、柔らか味のある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛の溶け込んだ夕暮れのささやき」が懐かしいGonshan(良家の娘、柳川地方の方言)もいる。蒼白い薬種屋の乱行娘もGonshanの一人であろう。この娘たちの誰かが、御墓でヒガンバナを手折るGONSHANであってもよいように思える。

 この詩には後に山田耕筰が曲をつけている。もう20年近くも前になるが、東京文化会館で開催された東混特別演奏会での指揮・岩城宏之、ピアノ・林光による合唱は、まさに凄絶な「曼珠沙華」であった。明治以来もっとも凄い歌と評した人もいたほどである。作曲者による演奏上の注意書きを読むと、山田耕筰にとってのGONSHANはあどけない少女ではなかったようだ。

         まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました    渡辺白泉

 白泉のこの句は白秋の前出の詩の影響を受けているように思える。大岡信は朝日新聞に連載した『折々のうた』で、この句を「人を食った句で、何の細かい説明もない。それでいて“おいらん”という語が秘める悲運、悲哀の情を汲みつくしている感じがする」と評している。

 大正歌壇を代表する歌人、木下利玄もヒガンバナに魅了された一人で、この花を詠んだ短歌をたくさん残し、”曼珠沙華の歌人”とも呼ばれている。

 利玄は『李青集』に「・・・・私はあの花が大好きです」「その紅の反くり返った花弁は、まだ炎威をのこしてゐる秋陽に照り映えて、毒々しいまでに燃えてゐる。それが夕方村を通り過ぎたりして、路傍の小高い丘の、日露戦役の戦死者の墓の処などに、かたまって咲いてゐるのを見かけると、赤い夕日に照らされてといふ、センチメンタルな唱歌の節などが、思ひ合はされて、不思議な淋しさを、人の心に投げかける」と書いている。

 長年にわたり結核に苦しめられた利玄は四十路を目前にして他界するが、そのほんの1ヶ月前に雑誌『日光』に「曼珠沙華の歌」が発表された。大正14年のことである。“曼珠沙華の歌人”とよばれるゆえんである。。


「わが故郷にては曼珠沙華を狐ばなと呼ぶ、われ幼き頃は曼珠沙華の名は知らざりき」との詞書に続けて、

       舂ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち

 高熱にうなされながらヒガンバナが篝火のように連なる故郷の小道を夢に見たのだろうか。秋の陽が山の端に沈みかけた夕暮れ、気がつくと少年は独り、ぽつんと、狐ばなに囲まれていた。

 『大伴家持の研究』や『西行法師伝』などで知られる国文学者の尾山篤二郎は歌誌『自然』を主催した歌人だが、やはり数多くの曼珠沙華の句を詠んでいて、歌集『雲を描く』には20余首が採録されている。

       赤々と地よりしみみにつくづくと火を焚きあぐる曼珠沙華の花
       あなさけやあな赤々と曼珠沙華あなさけや田の畦の細径
       美しとわれは見つれど曼珠沙華ただそれなりに枯るるまで咲く

 斉藤茂吉は「元来小生は医者で一生を終わらねばならぬ身」と承知のうえ伊藤左千夫師事し、「業余の吟」と言いながらも歌人として大成した。この茂吉もヒガンバナに惹かれた。

       秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの薄のなかに曼珠沙華赤し   (赤光)
       ふた本の松立てりけり下かげに曼珠沙華赤し秋かぜが吹き    (赤光)
       曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり来む道のほとりに咲きぬ    (つゆもじ)
       冬岡に青々として幾むらの曼珠沙華見ゆわれひとり来む      (寒雲)

 上記の寒雲の短歌や、無形文化財紙塑人形の創作者でアララギ派の歌人としても著名な鹿児島寿蔵の「海崖のけはしき畔は曼珠沙華冬の群立ちただいさぎよし」に見るように、花ではなく厳冬に青々と重るつややかな葉群の生命力も注目された。
 篤二郎や茂吉や寿蔵の目をひいたヒガンバナからは、すでに”不吉な花”の印象は薄れ、日本の秋を彩る花の一つとなっている。この傾向は時代が新しくなるにつれて強まるようだ。
 とはいえ、おおかたは「彼岸花忌みてはみれど美しく」と詠む河野南畦のように、この花の背後に在る、悲しみを誘う何物かを意識しているようだ。

       曼珠沙華抱くほどとれど母恋し         中村汀女
       父若く我いとけなく曼珠沙華            中村汀女
       あせたるは悲傷に似たり曼珠沙華        島村正
       曼珠沙華さいてここが私の寝るところ     種田山頭火

 南方では日本軍が海南島に上陸し、北方ではノモンハン事件が勃発し、朝鮮半島では総督府が創氏改名を強制した昭和14年頃から戦後にかけて流行した歌謡曲、梅木三郎作詞・佐々木俊一作詞の『長崎物語』にも曼珠沙華が歌われた。

   赤い花なら曼珠沙華/阿蘭陀屋敷に雨が降る/濡れて泣いてる じゃがたらお春/未練な出船の ああ鐘が鳴る/ララ 鐘が鳴る

 長崎はヒガンバナ、というより、曼珠沙華のよく似合う街であった。かつて私が訪れたときも金毘羅山の麓の野道が赤く染まっていた。
 この歌を口ずさんだ往時の人たちは、異国情緒色濃いオランダ屋敷と雨に濡れた真紅の曼珠沙華に、江戸は寛永の昔、混血がゆえに平戸の港から追われた悲運の娘、お春の姿を重ね見ていたのであろう。
 家光により鎖国令が発せられたのが寛永10年(1633)、イタリア人航海士を父に持ったお春が、在留中だったオランダ人・イギリス人とその妻子らとともにオランダ船プレ ダ号で日本を追われたのはその6年後、お春14歳の秋のことであった。
 バタビア(現在のジャカルタ)に送られた彼女は望郷の熱い思いを胸に、元禄10年、その波乱の生涯を閉じた。72歳であった。その彼女が“ジャガタラお春”の名で知られるようになったのは、長崎出身の西川如見が『長崎夜話草』に「紅毛人子孫遠流之事附きジャガタラ文」としてお春が親友おたつに宛てた手紙を紹介したのが始まりだといわれる。その文は「千里ふる神無月とよ、うらめしの嵐や。まだ宵月の空も心もうちくもり。時雨とともに故郷を出しその日をかぎりとなし・・・・・」とはじまり「・・・・あら日本恋ひしやゆかしや、見たや見たや見たや」と終わる。
 しかし、『長崎物語』のジャガタラお春は江戸時代のお春ではなく、サンダカンなど南方の娼婦館に売られた近代のお春だと信じてこの歌を歌っていた人も少なくないようだ。

 私見ではあるが、総じて歌謡曲の作詞者は、ヒガンバナそのものに魅入られたというのではなく、曼珠沙華なる言葉が聴衆に与えるインパクトを狙っているように思える。ことに、山口百恵が歌っていた、阿木耀子作詞の『曼珠沙華(マンジューシャカ)』は植物学的に見ればヒガンバナではない。なにしろ、ほのかに香ったり、はかなく散ったりするのだから。もっとも、かつて熱烈な百恵ファンであったらしい家人にこの話をしたところ「つまらないことをゆうのね」と顰蹙を買ってしまった。そういえば、写生を身上とするホトトギス派のさる人の句にも「曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて」というのがあるそうだが、赤い花びらは白く色が抜け、褐色の糸のように捩れ縮れて、朽ち果てる。けして散ることはないのである。

 ヒガンバナに対して民俗学的な、あるいは生物学的な興味を抱いた人も少なくない。

 日本民俗学の創設者とみなされている柳田國男は『野草雑記』の「草の名と子供」のなかでこの植物にふれている。ヒガンバナには1000を越す里呼び名があることは前に書いたが、民俗学のアプローチの一つとして”方言”を研究していた柳田はこれに注目したのである。
 「東京の郊外で彼岸花、俳諧で曼珠沙華などといっている草の葉を、奈良県北部ではキツネノカミソリ、摂津の多田地方ではカミソリグサ、それからまた西に進んで、播州でも私たちは狐の剃刀と呼んでいた」と始まる彼の小論では、各地に残る呼び名を上げ、その名の由来を考察している。
 『方言覚書(鍋墨と黛と入墨)』でとりあげた程度で、柳田自身はその後この草の名を本格的に論じたものは著していない。
                              
(左: 甲斐信枝 画)


 しかし、柳田の著作に刺激され、ヒガンバナの方言の収集に心血を注ぐとともに、この植物の渡来の時期についての考察を進めたのが山口隆俊である。山口は会社員としての勤務のかたわら、昭和2年に東京リーダー・ターフェル・フェラインを創立し初代指揮者をつとめ、その後も長くさまざまな音楽活動に参画したが、この間、国立科学博物館の機関誌『自然科学と博物館』や『言語生活』などにヒガンバナについての興味尽きない論考を発表するとともに1000余の方言を収集した。その成果は彼の死に伴い日の目を見ることなく『ヒガンバナ里呼び名カード辞典』として国立国語研究所に収められている。 また、昭和40年には彼岸花を詠んだ短歌81首を収録した小冊子『ある男のノート』を出版している。

 柳田国男が、「縛られた巨人の眼差し」をした「日本人の可能性の極限が、又時としては更にそれよりもなほひとつ向ふかと思ふことさへある」人物と回顧し、親交のあったロンドン大学事務総長F.V.ディキンズが「私の知るもっとも卓越した日本人」と記している南方熊楠も、ヒガンバナに興味を抱いた一人である。
 大正4年元旦発行の『日本及日本人』に発表された「石蒜の話」は南方の博学ぶりが遺憾なく発揮されている。石蒜はむろんヒガンバナの中国名である。この小論にはヒガンバナのさまざまな民俗、薬効、毀誉褒貶の変遷、呼び名の由来などのほか、この植物がヨーロッパへ紹介された時代や南アフリカ原産のネリネ・サルニエンシスと混同された経緯にも触れている。私の“ヒガンバナ考”の原点に位置する論文の一つである。
 めでたい正月号に世間一般が縁起の悪いものと見ていたヒガンバナをとりあげたところなども南方一流の皮肉で「種々面黒い珍談のついた草ゆえ、新年号の拙文の外題に選み立てたんじゃ」というわけである。


 当然のことながら、近代の植物学者もこの植物に注目した。
 牧野富太郎も、ヒガンバナについてはことあるごとに書いている。例えば『随筆草木誌』では、その毒性について記し、『植物一日一題』では万葉集に出る壹師をヒガンバナと考察したり、幻の純白のヒガンバナのことなどに触れている。
 ドクウツギの古赤道起源説やカンアオイ類の研究で有名な植物系統分類学者の前川文夫もヒガンバナには並々ならぬ興味を抱いていた。岩波新書の『日本人と植物』の第8章「ヒガンバナの執念」を一読すればその執着ぶりがよくわかる。
 市井のヒガンバナ研究家、松江幸雄は日本全土を巡り、精力的に分布や生態や民俗を記録したが、その情熱は『ひがんばな〜妖艶な花のすべて』や『日本のひがんばな』に結実している。また、『ヒガンバナが日本に来た道』を著した愛知大学の有薗正一郎は、文学者の立場から、豊川流域や渥美半島のヒガンバナの分布状態を精査し、この植物の渡来の経路に迫っている。
 
 このほか、インターネットで検索してみれば直ちにわかることだが、実に多くの人たちがヒガンバナについて書き記しているし、彼岸のころともなれば、TVのニュース番組でも、咲き盛るヒガンバナの映像を頻繁に放映している今日この頃である。 

 

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