春菜摘みと春の七草

厳冬期の陽だまりに萌えはじめているハコベ

 南下してくるシベリア寒気団に身の縮む思いをさせられる日がまだまだ多いものの、関東以南では立春が近づくにつれて土はしっとりと黒ずみ、日向には若草が萌えはじめる。そして野の道を歩きながらナズナ、ハコベ、ミミナグサと数え上げてみると、その種類が意外に多いことに驚かされる。
 
 籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳爾 菜採須児 家吉閑 名告紗根
 こもよ みこももち ふくしもよ みふくしもち このおかに なつますこ いえきかな なのらさね
(きれいなカゴをさげ、可愛らしいヘラを手にして、この丘で若草を摘んでいる娘さん、家はどこですか、名を教えてください)

 春の野遊びに出た雄略天皇に、こう呼びかけられた乙女が、春の丘の辺で摘んでいたのも、若萌えの草の芽だったのだろう。
 この巻頭の雑歌をはじめとして、山部赤人の「明日よりは春菜つまむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」など、万葉集には春の野山での菜摘みを詠んだ歌が多い。

引用: http://weather.asahi.com/ WETHERNEWS

日本人は遥か先史の時代から、自然のリズムに合わせた生活の中で、春の菜摘みをしていたのであろう。この素朴な生活は、やがて中国大陸の文化の影響を強く受けつつ、平安朝のあの絢爛たる貴族文化を生み出していったのだが、万葉集には、そこへの過渡期における生活が詠われている。
 そして万葉時代には特定の日に行われる行事とまではなっていなかった春菜摘みの風習は平安時代になると”七日の若菜”の行事として盛んに執り行われるようになった。古代からの風習が、中国南朝の梁の宗懍が当時の揚子江中流域の年中行事を記した『荊楚歳時記』などの影響を受けて成立したものと考えられている。6世紀中頃のことである。『荊楚歳時記』には「正月七日、人日と為し、七種菜を以って羹と為す」と記されている。人日とは、この日にその年の人の吉凶を占う日である。
 この中国の行事が平安貴族の生活に取り入れられて生まれたのが”七種粥”と”若菜の賀”で、記録によれば宇多天皇の寛平二年(890)の正月に始っている。しかし当時の七種粥は、いわゆる”春の七草”を入れたものではなく、鎌倉時代の『拾芥抄』によると、米・小豆・大角豆・黍・粟などの7種類の穀類の粥であった。
 若菜の方は粥とは別に、沈という香木で作った折敷(角盆)などに盛ってだされ羹にされたが、菜の種類は決まっていなかった。例えば、室町時代の有職故実書『公事根源』にはハコベ・セリ・ワラビ・ナズナ・ヨモギ・タデなどの12種類があげられている。

 日本古来の”春菜摘み”が”若菜の賀”となり”七草粥”と合体して一つの行事となり、さらに草の種類が特定されようになるのは鎌倉時代以降のことであった。
 例えば、南北朝時代に著された源氏物語の注釈書の『河海抄』には「薺、繁縷、芹、御形、菁、酒々代、仏座」が七種菜だとある。
 また室町時代の百科事典『壒嚢抄』には「せり、なつな、御形、たひらこ、仏の座、あしな、耳なし、これや七種」とある。したがって、今日一般にとなえられている「せりなづなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ、これぞ七くさ」という言い回しもこのころからであろう。

 このようにして春の七草が決まったものの、それぞれの名で呼ばれる植物の実体はということになると諸説紛々であった。セリ、ナズナ、ハコベの3種については異論をさしはさむ余地はないだろうが、残りの4種については人により意見が分かれてきた。


 先ずは”御形”。ゴギョウあるいはオギョウと呼ばれる草についてはスベリヒユ、ゴボウ、オニタビラコ、ハハコグサなどの説がある。スベリヒユ説とゴボウ説は陰暦正月に野外で若葉が伸びだしている可能性は皆無に近いので除外できるだろう。オニタビラコ説は完全には否定し得ないものの、一般にはハハコグサ説が有力である。

 その論拠は元慶3年(879)に成った『日本文徳天皇実録』の記述である。これには「三月三日の草餅に母子草を入れる」とあり、これに基づいて曽榛堂は寛政年間に著した『春の七草・釈菜』のなかで「御形の名の由来は天照大神の御像(みかたち)の鏡を象徴する鏡餅(かがみもちひ)の中へ母子草を搗き入れたからである」と論じている。 

 一方、ハハコという名はその葉が白蒿(シロヨモギ)に似ているので、ハクコウ→ホウコウ→ハハコとなったとか、牧野富太郎のいうように「花が終わったあとに冠毛が”ほほけ立つ”、つまりハハケルので、これが転じてハハコやホウコの名がついた」などの説がある。あるいは深津正の説くように白蒿の別名である蘩皤蒿(ハンハコウ)に由来するのかもしれない。先にあげた曽榛堂は「批草の性淡くして毒なし。田野のちまたに生し、雪に堪え霜に枯す。つねにふるき苗に、若芽のそひて生るなれハ、母子と云う名も儀なり」とも記している。
 また面白いことに、3月3日の桃の節句に草餅を食べる習慣も、実は『荊楚歳時記』に書かれている「是の日ハハコグサの汁を採って蜜と一緒に粉に混ぜて餅にして食べる」という習俗がわが国に引き移されたものと思われる。


”仏の座”もまた諸説入り乱れている草である。
 これがホトケノザだというのは貝原益軒で、著書の『大和本草』に、貧しい人が「飯ニ加ヘ食フ、是レ古ニ用ヒシ、七種ノ菜ナルベシ」と記しているが、牧野富太郎は「こんな不味いもの食えますかいな」というような意味のことを書いている。
 また益軒は同書のタビラコの項にも「本邦人日七種ノ菜ノ内、仏の座是ナリ」と記している。
 『師光年中行事』という江戸の書物には「俗に”かはらけな”と呼んでいる草が仏の座だ」とある。曽榛堂もこの”かはらけな”説を支持していて「かはらけなは、何地にもおひ出て、雪霜にたえ、春のはじめにも若葉をしきて、まどかにつらなり、その葉の形は、やや”はこべら”に似てまろく、二月のころ、かすかなる白き花をひらきて・・・」と記している。この記載文を読むと”かはらけな”はミミナグサのことと思われる。ところが奇妙なことに曽榛堂が掲げている”仏の座”の写生図はどう見てもムラサキ科のキュウリグサのそれである。

 『本草綱目啓蒙』の著者小野蘭山も”仏の座”をムラサキ科の草と考えている。
 上記の説のほかにも、オオバコ、キランソウ、チドメグサ、レンゲソウなどの諸説があるが、今日では牧野富太郎が『植物学九十年』で主張したコオニタビラコ(=タビラコ)を春の七草の”仏の座”とする説を信じる人が多い。
コオニタビラコ ホトケノザ キュウリグサ ミミナグサ


次は”すずな”と”すずしろ”だが、今日では前者はカブ、後者はダイコンだとする説が主流である。
 しかしながら、春の野の若菜摘みに起源する”春の七草”のなかに、奈良・平安時代に中国から渡来したものとはいえカブやダイコンなどの栽培植物が入っているのは不自然で、本来の姿ではないと思われることから、”すずな”と”すずしろ”の正体を野の草の中に求めたのが辺見金三郎である。
 彼は”すず”とは狭々(ささ=小さい)ということで同時に”鈴”をも意味するから、小さくて清らかで鈴のような植物が”すずな”で、これはノビル(野蒜)のことに違いないと考えた。現に今日でも九州の一部ではノビルのことをスズナと呼んでいるという。

 確かに、日本語の音韻変化の法則からみてもスズナという呼称はスミラ(ツルボの里呼び名)を間に挟んでミラ(ネギ類の古語)とつながっている。
 もしこれが正しいとすると、いささか落胆する人もあろうが、 「春の野にすみれ採みにと来しわれぞ 野を懐かしみ一夜寝にける」と詠んだ山部赤人が摘んだすみれ(須美礼)は、スミレ(菫)ではなく、スミラつまりツルボはノビルだったのかも知れない。

 事実、慶長8年に出版されたポルトガル語・日本語対応辞書である『日葡辞書』には「スミレ-この名で呼ばれるある草。根はニンニクに似て、食用にされる」とある。
 また、古代には京の郊外の七つの野から一草づつ七種の菜を集めたというが、その野の一つの平野からはノビルと同類のアサツキを採ることになっていたことなどを考え合わせると興味深いものがある。
ダイコン  カブ ノビル


辺見金三郎は”すずしろ”についても新説をたてた。’すず’は「涼」で’しろ’は「白」の意味とされ、普通は”おおね”、つまりダイコンがこれに当てられているが、彼は食用となる白い地下茎をもつ野草として”うはぎ”すなわちヨメナを選んだ。
 この草もまた、「春日野に煙立つ見ゆ乙女らし 春野のうはぎ採みて煮らしも」と詠われたように、万葉の時代から親しまれた春菜の一つである。
 ヨメナの若葉の下には、元株から四方に伸びるいく筋もの白い地下茎が走っている。したがって”すずしろ”は「筋白」ということかも知れない。
 飛鳥の里でのおおらかな春菜摘みは、やがて平安朝の宮中での形式化された若菜の賀や七種粥の行事に発展したが、鎌倉から室町、江戸へと時代が移るにつれて、再び庶民の生活の中へ呼び戻され、それぞれの地方で独自の様式を持つ七草の行事が生まれた。
 例えば、八百八町の大江戸では、江戸っ子たちが正月6日の晩、一束一文で買ってきたナズナをまな板に載せて、「七草ばずな、唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に。七草なずな・・・・すととん・すととん」と囃しながら心を込めて叩くのであった。
    七草をうち出だしけり母屋の灯      菅裸馬
    四方に打つ薺もしどろもどろかな     芭蕉
 これは豊作を祈願する北国の鳥追い歌が七草粥と結びついたものだといわれているが、前にあげた中国の『荊楚歳時記』に「正月の夜はたくさんの鬼鳥が渡るから、家々では床や戸を打ち叩いてそれを追い払う」と記されていることを思い合わせると、わが国の習俗と中国古代のそれとがいかに深く関わっているかがわかってきて興味尽きないものがある。 

 左の絵は歌川豊国筆「春遊娘七草」の一部。 東京都立中央図書館所蔵。     

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