SAHOHIME

佐保姫のたぶさの風に花香り

〜 春彼岸 〜 春分 〜 清明 〜 穀雨 〜

陽炎のものみな風の光かな     曉 台

索引  アケビ アセビ アネモネ エビネ カタクリ キブシ クマガイソウ
 ショウジョウバカマ シラン スイセン スズラン スミレ ゼンマイ ソメイヨシノ
 タンポポ ツクシ ツバキ ナノハナ ニリンソウ フキ ムラサキハナナ ヤマアイ
 ライラック



  カタクリ   片栗

   物部の八十少女らが汲みまがふ
           寺井の上の堅香子の花

 万葉集巻十九にあるこのよく知られた歌は、天平勝宝二年三月、三三歳の春を越中の国守としてすごしていた大伴家特の作である。

 家持が詠んだ堅香子の花をいま私たちはカタクリの花という。だが、カタクリは江戸方言のようで、新潟、山形、岩手などではいまでもカタカゴ、あるいは濁音を落としてカタコ、カタッコと呼んでいる。

 このユリ科のスプリング・エフェメラルは東アジアに広く分布するが、日本産の標本を基に記載されたため学名にはヤポニクム(日本の)という種小名がつけられている。幕末の北方探検家の松浦武四郎は『十勝日誌』に、アイヌはこの花をフレ・エプィと呼ぶと書いているが、これは赤い蕾という意味で、カタクリのあの美しい赤桃色の花をよくいいあらわしている。しかし更科源蔵は『コタン生物記』の中で、松浦にこの名を教えたアイヌの案内人は、実はその名を知らなかったので「この花はなんと呼ぶか」と訊ねられ「ああ、あの赤い蕾ね、さてね」といったのではないかというような意味のことを書いている。あの有名な“カンガルー”の由来に似ていて面白い。食用になる球根にはエシキ・マイマイという名があるが、花には固有名がなかったらしい。
 さて、和名ではなぜカタクリというのかということになると、諸説紛々であるが、これはおくとして、ともかく良質の片栗粉が採れるので、照葉樹林文化の担い手であった縄文の人々も水晒しなどをして食べていたことは確かだろう。宇都宮貞子の『植物おぼえ書』によると、いまでも長野の山里では球根を焼いて食べたり、葉を茹でて食べたりし、花も摘んで三杯酢で楽しむという。
 ともあれ、早春の落葉樹林下に紅い雪かと見まごうほどにこの花が咲き満ち、その中をニンフのようなヒメギフチョウの舞うさまは、まさに日本の風景の原点いえよう。

 宮澤賢治が創造した“にしね山に住む山男”も「やさしく咲いたむらさきいろのかたくりの花」に見惚れている。



  フキ  蕗

 コルコニ サンナ   (フキがでたよ)
 マカヨ  サンナ   (フキノトウでたよ)

 こう歌い踊りながら、十勝本別地方のアイヌの人たちは春を喜ぶのだと、更科源蔵・光の『コタン生物記』にあった。コルコニはフキの葉、マカヨはフキの薹のことである。

 フキはコタンの住人ばかりでなく、この花綵列島に生活するすべての人々にとって、春を告げる親しみ深い野の花の一つである。それは目に楽しいばかりでなく、かつては大切な栄養源であり薬草でもあった。
 フキの名が書き残されている最古の和書は『出雲風土記』らしい。また、蕗がフフキと読まれていたことは、『倭名類聚抄』に、蕗和名布々木、とあることからもわかる。だが同時代の『本草和名』では、梠茎菜一名蕗伏が布々岐だとしている。
 江戸時代になると、フキは款冬(かんとう)であるとする説が主流となったが、寺島良安はフキは蕗であり、款冬は山蕗、つまりツワブキであるとしている。『本草和名』においても、款冬は也未布々岐(ヤマフフキ)、一名於保波(オホバ)である。
 どちらが正しいかというと、植物学的には、実はどちらも誤りで、蕗も款冬もフキとは別の草である。近年出版された『中国高等植物図鑑』にあるフキの中国名は蜂斗菜であった。

フキがフフキの省略形であることは『東雅』などに述べられてあるとおりだろうが、なぜこの草をフフキと呼ぶのかは解らない。芽がフユフキ(冬吹)草だからフフキであるというのは田井信之の説である。
 『蝦夷産物誌』にある葉柄の太さ八、九寸、高さ八、九尺の巨大なエゾブキは、フキの変種のアキタブキで、東北地方以北に分布している。
 伝説の先住民コロボックル(フキの葉の下の人)もこのフキの大葉を使ってコルカシ(フキの葉小屋)を作っていたのだとすると、話にあるほどの小人族ではなかったのかも知れない。



  スイセン   水仙

  水仙郷花の傾斜の海に落つ     朝倉 房子

伊豆下田の爪木崎や福井県越前岬の海辺の風景にとけこんで咲き乱れるスイセンを知る人には、この花が外来のものだとは思えないかも知れない。
 だが、スイセンの故郷は地中海地方であり、スペインのシエラネバダ山脈やモロッコのアトラス山地の岩間に生まれたと考えられている。それが沿岸一帯に広がり、やがてその香りと美しさに魅せられた人々により、はるばるとシルクロードを運ばれ中国にもたらされたのだという。唐の時代の『酉陽雑狙』にある禰祇(ないぎ)がスイセンのことで、これはペルシャ語のnargiに由来するとは北村四郎の指摘である。

 この花がいつ日本に伝わったのか、確かなことは解らないが、鎌倉初期の色紙に水仙模様があるといい、また室町時代の『下学集』に水仙草、俗名雪中草ともあるので、この頃中国より伝来したのではないかという。

釜江正己の『日本スイセンの渡来栽培史』によると、一般の庭園に植えられるようになったのは江戸時代に入ってかららしい。そして『花壇地錦抄』が出版された元禄時代になると房州や駿河から江戸や京へこの花が盛んに出荷されていた。
 ともあれこの花は、まるで土着のものであるかのように、ほとんどなんの抵抗も受けず日本人の美意識の中へ浸透したようだ。

 幸田露伴が書くように「姿あり才ある女の、男を持たず、世にも習はで、身を終るまで汚を知らぬ」さまが水仙の趣だというのが、この花に対する一般的な印象であろうか。ワーズワースにも水仙をうたった詩があり、その影響があってのことかも知れないが、夏目漱石も水仙を好んだようだ。病院の白いベッドの上で除夜の鐘を聞きながら「此間人から貰った支那水仙もくるくる曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った」と『思ひ出す事など』に記している。

         /水仙咲き出しゃワーオ/尻軽娘が谷いっぱい/

シェークスピアの『冬ものがたり』でならず者のオートリカスが歌うこの水仙は、イギリスの野に咲く黄色のラッパズイセンである。白と黄のちがいだろうか。



  ショウジョウバカマ   猩猩袴

 雪解けの水音がどこからともなく聞こえはじめるころ、袴状の葉むらの中心からすっくと伸び上がる花茎の先に、猩々緋(しょうじょうひ)の小花を群れ咲かせるショウジョウバカマは、日本と朝鮮半島に分布するユリ科の多年草である。

  猩々袴搏つ雨雪解了りたり  太田蓁樹

 ショウジョウバカマ、それは白い世界のただ中で黒い土と緑の芽立ちとを待ちこがれた人々に春の到来を告げる花の一つである。ユキゲシバ、ヤチカタコ、ナデバナ、カンザシバナ、ユキワリバナなどの二十余の方言が知られているが、こうした呼び名のほとんどは雪深い里に生まれたものであった。
 ところで、この春告げ花に“水石蘭”という名がつけられているのを知ったのは、ごく最近のことである。善男善女でにぎわう正月の成田山新勝寺の参道で、ひとりの香具師が奇妙な植物を売っていた。それはきれいに洗われた白い根茎に一つの淡緑色の芽をつけていた。
 その指の頭ほどの芽は数枚の鱗片状の葉に包まれていて、素焼きの小鉢に植えられた株には濃い赤や紫の小花が開きはじめていた。顔を寄せると、“ありがたいことに”、線香のかおりがした。鉢のかたわらには水石蘭と書かれた札が立てかけてあった。実はこれが、冬には紅葉している根生葉をすべてむしり取り、花芽だけを裸出させ、食紅らしきもので蕾を染めたショウジョウバカマであった。現代日本ならではの花の文化であった。

 人類が花に関心を寄せはじめたのがいつのことかは断言できないものの、六万年ほど前のある初夏の日に、イラクのシャニダール洞窟に埋葬された一人のネアンデルタール人は、ヤグルマソウやムスカリやノボロギクなどの花束に囲まれていた。骨と化した遺体の周辺の土を花粉分析してわかったことである。どんな思いをこめて彼ら先人類がそこに花を置いたのか、もはや知るよしもないが、人類の揺籃の時代にすでに存在したこうした人と花との係りは、時の流れの中に変質し多様化した。

 葉をむしられ、着色着香されたショウジョウバカマは、現代日本のゆがんだ精神文化の産物の一つではあるが、遺伝子工学が発達する一方で自然を知る人が少なくなった未来には、もっと奇妙で不自然な花の文化が生まれるのであろう。



  ナノハナ   菜花

菜の花の遥かに黄なり筑後川

 これは漱石が明治三十年の春、久留米の高良山に遊んだ折の句である。
 ナノハナ、つまり正式にはアブラナまたはナタネと呼ばれるこの植物は、弥生時代に種油を採る目的で中国から移入されたものだといわれ、昔から日本の農村に春を告げる花の一つであり、胡銅や竹の経筒によく似合う利休忌の花でもあった。
 そして、一八七七年の春四月、若き日のチャールス・マリーズがヴィーチ商会のプラントハンターとして、長崎湾に乗り入れた船上から印象深く眺めたものも、頂上まで耕された沿岸の丘陵を黄金色に彩る、ナタネの段々畑であった。
 時代が新しくなるにつれ、アブラナの亜種や変種であるハクサイ、ミブナ、キョウナ、コマツナ、タイサイなどが栽培されるようになる。これらの花は、いずれも大変よく似た黄色の四弁花であり、花を見ただけでは区別がつけ難い。そのため近年はこれらの花をひとまとめにして、ナノハナ、ハナナなどと呼ぶようになった。

 菜の花と総称される植物が、生物学的には同一種であることは、これらを混植すると自由に交雑し、さまざまな中間型が生まれることからもわかる。このような中間型を、ふざけてバケナ(化け菜)などと呼ぶ人もいる。
 ナノハナの原種は、中央アジアに分布する草丈二〇センチにも満たないブラシカ・カンペストリスという草だと考えられている。この原種から、どのようにして多様なハナナの仲間が生まれたのか。塩谷格の台所畑選択説など大変示唆的であるが、まだよくわからない点が少なくない。
 それにしても、黄河支流の渭水と水の合流点近くにある、西安市半坡の仰韻期の遺跡から、ハクサイなどの種子が出土するところをみると、ずいぶんと古くから栽培植物化されていたことがわかる。

 墓所を暴かれた、楼蘭のあの美少女も、春のハナナを知っていたのだろうか。



  ニリンソウ   二輪草

 弥生も中旬ともなれば、上総の丘陵地はすでに春たけなわである。切り通しの南向きの斜面に垂れかかるキブシの蕾はほころびはじめ、そのしたではツボスミレが薄紫に香り、ツクシがせいいっぱい背伸びして、青灰色の胞子をときおり吹きぬける優しい風に運んでもらおうとしている。
 その日、研究材料のウバユリの芽生えを求めて踏み入った小さな谷のなかで、うれしいことに数百平方メートルもありそうなニリンソウの群落に出逢うことができた。点々と咲く、ほそながい花柄の先についた真っ白な五弁の小花は、まんなかにたくさんの黄色の蕊を乗せ、かすかに揺らいでいた。

  膝折ればわれも優しや二輪草  草間時彦

 ニリンソウはキンポウゲ科の多年草で、琉球弧を除く日本全域と、朝鮮半島から中国東北部ウスリー地方を経てサハリンヘと分布している。二昔ほど前までは、下総台地でもごくありふれたものであったが、昨今はなかなかお目にかかれない花の一つとなってしまった。そしていま悪性の皮膚癌のように、上総と安房の緑の大地を侵食しているゴルフ場が、暖地にはめずらしいこの可憐な花の住家を奪ってゆく。
 双子葉植物のくせに子葉が一枚しか発達しないという変わり者だが、有毒植物の多いこの科のうちで、数少ない食べられる草でもある。しかも癖のない、胡麻和えなどによく合うおいしい山菜の一つである。奥多摩や甲信越の山里では、いまでもあちこちでこの草の大群落に出逢うことができる。宇都宮貞子の『草木おぼえ書』によると、戸隠の中社ではオンナッタマと呼ぶという。この名の意味はよくわからないが「白いまん丸い莟や、朝夕、丸くふっくらと閉じている花を玉と見たのかもしれない」とあった。信州ではこのほか、ユキシロバナ、ウグイスバナ、フクニラなど多くの里呼名で親しまれている。また、たいへんよく似た種にサンリンソウというものがあるが、茎の最上部に輪生する三枚の葉に柄があることと匍匐枝で殖えることとで区別できる。

 中国では林蔭銀蓮花と呼び、根状の地下茎を薬用している。風邪に効くという。



  ツクシ  土筆

 まもなく廃線になるらしいと聞き、懐かしさのあまり訪れた鉄路は、春のさなかであった。昔ながらの、少しも変わらぬ切り通しには、やはりスミレやフキやツクシが、生きいきと陽を浴びていた。

 ツクシはシダ植物であるスギナの花である。常識的には、シダ植物は花の咲かないものということになっている。だが、進化学的にみた場合は、ツクシを花と呼んでさしつかえない。
 なぜか南半球には分布しないこの植物も、北半球の暖温帯ではごくありふれた草であり、人間とのかかわりも深い。
 「蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、これは、わらはべの供養して侍る初穂なり、とてたてまつれり」
 源氏物語の早蕨の一節である。“つくづくし”はツクシである。
 甘草の淡緑色の芽が伸びはじめると、ツクシも負けじと伸びあがってくる。野に遊ぶことの多かった昔の子供たちにとっては、大切な春の友達だったのだろう。楽しい里呼び名がずいぶんとある。
 『日本植物方言成集』をみると、四百ほどもの名があった。
 柳田國男の『野草雑記』や中田幸平の『野の民俗』には、いろいろな地方でのこの草の呼び名や童歌があげられていて、何度読んでもあきない。柳田の言うように「ツクシの語源は澪標(みをつくし)のツクシで、突き立った柱を意味する」かどうかはおくとしても、ドコドコ、モトモト、ヒガンボイボイ、ツクボンサン、チャンチャンボー、コチョコチョキンヨーズ、メーヒッパルなど、よくよく考えてみないと、なんのことやら皆目わからない、子供たちの遊びの世界語が数えきれないほどある。
 風味のある野草でもあるが、北米の原住民たちも食べるそうで、ロッキー山地では乾燥させ粉末にしたものをトウモロコシ粥に入れ、粘り気の素にするという。
 またこの草のもつ造形的美しさは、江戸時代の美術工芸にも取り入れられ、鍋島の染付土筆文皿や春草蒔絵硯箱などに見事な絵柄を残している。絵画では俵屋宗達の手になると伝えられる『四季草花図屏風』や山口素絢の『春秋草花図』などにもさりげなく描きこまれている。



  ソメイヨシノ   染井吉野

 四月、キャンパスが新入生たちの弾んだ声でにわかに活気づく頃、ソメイヨシノは満開となり、私に狂態を演じさせる。
 この一重咲きの桜はワシントンのポトマック河畔やロンドンのハイドパークなど世界の各地へ移植され、日本を代表する花木とみなされているが、農民が稲の神の依代として崇め、西行法師や本居宣長などの先人たちもこよなく愛でた、あの古来の桜ではない。
 正確な記録は残っていないようだが、この桜が世にでたのは幕末から明治の初めにかけてのことで、江戸は染井村(現在の駒込)の植木屋が「吉野桜」の名で売り出したものである。だがやがて吉野山のヤマザクラと混同しやすいという理由で、明治三三年に「染井吉野」の名が付けられたが、その花つきと樹形の良さがかわれ、またたく間に全国に広まったのである。
 しかし、伊豆は天城の山中で、オオシマザクラとエドヒガンを両親にして密かに生まれたこの桜は、ほんとうは人間に発見されたくなかったかもしれない。軍国主義の象徴など、この花には似つかわしくない。だが明治、大正、昭和にわたる長の歳月、ソメイヨシノは軍靴の響きと狂気の万歳とを聞かせられ続けてきた。
 明治八年の江華島事件に端を発した、列強との大陸切り取り合戦は、陸海軍を統帥する天皇のもと、東条英機陸軍大臣によって示達された死への至上命令である戦陣訓とともに熱核兵器の地獄を迎えて終結した。この時代、ソメイヨシノは「散るべき時に清く散り御国に薫れ桜花」と歌われ継がれたが、その頃「桜に錨の七つボタン」も次々と太平洋の深みへと沈んでいた。そして、三月十日の東京大空襲のあと、無数の遺体を焼いた上野の山に、まもなく桜が満開になったとき、そこには「にわかに逃げ出したくなるような静寂がはりつめていた」と坂口安吾は書いた。また、昭和七年に夭折した梶井基次郎が「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる。これは信じていいことだ」と記したとき、彼はソメイヨシノと軍国日本の命運を透視していたのかも知れない。



  ムラサキハナナ  諸葛菜

 蕗の薹が立ち、沈丁花や水仙の甘い香りが風に運ばれてくる頃になると、土手の枯草の中でムラサキハナナの緑の葉叢がむくむくと大きくなり、軟らかな浅緑色の花茎が先を競うように伸びあがってくる。このムラサキハナナはアブラナ科の一年草で、三月から四月にかけて、明るい藤色の花を咲かせる。
 最近ではこの花を全国のいたるところで見かけるようになったが、日本土着の植物ではなく、原産地は中国大陸で、あちらでは“諸葛菜”とか“二月蘭”と呼んでいる。日本でもショカツサイと呼ぶ人が多い。最初に渡来したのがいつのことか、確かなことはわからないが、近年各地へ広まったものは、薬学者の山口誠太郎と黒田辰一郎が、昭和十四年に南京郊外の紫金山で集めて持ちかえった種子の子孫である。採集地にちなんでシキンソウともいう。
 この植物が諸葛菜とよばれるようになったのはいつのことか私は知らない。しかし名前そのものは元禄時代の宮崎安定著『農業全書』にみられ、蕪菁(カブ)の別名としてあつかわれている。また諸葛菜という名の由来については『三国志演義』でよく知られた知将諸葛孔明が「軍のさきざきしばしの在陣にても必地をゑらび是れを蒔せられし。故にかく名付くるなり」とある。寺島良安の『和漢三才図会』の記述も同様であった。

 この花を「いのちの花」とよぶのは退職婦人教員全国連絡協議会の方々である。ムラサキハナナの咲き乱れる大陸の地で、若い命を断たれてしまった何十万という教え子たちを、その戦場に送りださざるを得なかった痛恨の思いが、「いのちの花」には込められているのである。
 いまでも、それぞれの思いを胸に抱き、この花の種子をそっと道の辺にこぼしながらの旅をする人が多いと聞いた。千葉大学看護学部の教授をなさっていた山口覚太郎さんもそんなお一人で、平和への願いをこの花に託して“花ゲリラ”として活躍されていた。

    諸葛菜また咲きいでて忌の日来る       角川源義



   ツバキ   椿

 リュウビンタイの群生地があるからと案内していただいた燈明崎はツバキの盛りであった。海面の白い反射からそらせた目を丘に向けると、そこもまた、まばゆく春の光をかえす、照葉樹の繁みであった。
 ツバキは海辺に多い。
 田宮寅彦が「枝から落ちた椿が、-----市枝の見つめている岩場の上を舞い、小さな赤い点となって、遠い波の上に落ちていった」と書いた『赤い椿の花』も足摺の岬に咲いていたのではなかったか。
 ツバキには東北地方の沿海から西南へ広く分布するヤブツバキのほか、東北や越後の雪深い山里に咲くユキツバキ、屋久島の山中に大きな実を結ぶリンゴツバキなどの亜種や変種が知られている。

 ツバキが分布する地域、そこはまた縄文時代の人々の生活圏でもあった。岩槻市真福寺遺跡や船橋市海老ヶ作貝塚などからはドングリ、クルミなどとともにツバキの実が出土している。つまりツバキは遥か有史以前から、日本人の生活に密着した植物であった。
 今日ではツバキの漢字にはもっぱら椿を使うが、記紀万葉の時代には海石榴、都婆吉、豆波岐などとも書かれた。津山尚によると、海石榴は“海外からきたザクロに似た花の咲く樹”で、日本から輸入したヤブツバキに中国人がつけた名である。
 一方、中国語の椿はセンダン科のチャンチンだが、これがどうしてツバキとなったのか。諸説があるが、斎藤正二の「白鳳期文人官僚は、見も知らぬ中国の霊木“椿”についての信仰形態だけを輸入し、肝心の植物の方は“都波岐”を以って代用した」のだとの説は興味深い。
 椿信仰の方はほとんど忘れ去られたものの、その美しさは今も強く人々の心を捉え、さまざまな心像を残す。
 それは、川端康成の『眠れる美女』で六十七歳の江口老人が薬眠させた若い女を抱きながら思う京都地蔵院の五色八重椿であり、『春景色』の千代子が真面目に見入った象の尿に浮かぶ紅い花船であり、十三代柿右衛門の雪持椿花図壷でもある。




   アセビ   馬酔木

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
          見すべき君がありといはなくに

 朱鳥元年(六八六)十月三目、謀反の罪にとわれ、寒風に波立つ磐余(いわれ)の池の辺で処刑された年若い弟宮大津皇子をしのぶ姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の挽歌である。
 春早くから白い壷状の小花を房なりに咲かせるこのツツジ科の常緑低木は日本特産の種で、東北地方南部から九州にかけての山地に自生している。伊豆の天城山系などでは樹高が三メートルを超すほどの古木が純林を作っており、頭上を覆う枝々が奇妙な角度でうねうねとからみあう。花どきのこのアセビの隧道には、ほのかな香りがただよう。

    花馬酔春日の巫子の袖ふれぬ        高浜虚子

 奈良の春日神社の西南にもよく茂ったアセビの林があるが、これは当初からの天然林ではなく、古い時代に植栽された株がふえたものだという。ではそれほど繁殖力が強い木かというと、そうではなく、有毒成分を含むため他の植物とちがってシカの食害を逃れることができたからだと考えられている。
 万葉時代から使われてきた“馬酔木”という表記も明らかにアセビの有毒性を示すものであるが、この漢字表記の由来について『植物研究雑誌』二十二巻十二号に発表された前川文夫の説はなかなか面白い。
 東北アジアのいわゆる騎馬民族の一部が、日本列島にはじめて馬をもたらしたのは四世紀のことだが、アセビは大陸に分布しないため彼らはその有毒性を知らず、これを食べた馬たちはしばしば中毒症状におちいったものと思われる。先住者にこの低木の名をたずねるとアセミだという。「そこでa-se-miに似せた音と馬が中毒して酔っぱらう木だという事実とを引きかけてma-sei-muすなわち馬酔木とおいた」というのである。つまり日本で創作された漢字表記だという説である。
 日本に生まれたこのアセビも、今日では世界各地で栽培されている。昨年の夏の終わりに訪れたシドニーの王立植物園でも、すずやかな白い花穂をさげたアセビを見たが、南半球の見慣れぬ草木に囲まれて、なにとはなく心細げであった。



   キブシ   木付子

 「絹糸を撚ったように、よじれて垂れ下がるきぶしの黄色い花房が春のおそい山国の山相を、一番はやく彩りはじめる」
  歌人生方たつゑが東庵をしのぶ『きぶしの籠る谷』の冒頭に描く美しい春景色である。
 青味を帯びた黄色で、なんとなく磁器のような清冷さを感じさせる穂状花をつけるキブシは、いまでこそ春を告げる花の一つほどにしか思われないが、昔の人々には親しく大切な植物であった。

 「ビビノキともマメブシともそうが、この実の豆噛んでお歯黒染めたんちゃ」宇都宮貞子の『草木おぼえ書』にある、大野川のTさんたちの話である。マメブシは豆状の実の附子、キブシは木附子である。つまり、お歯黒を染めるときヌルデの五倍子(ふし)の代用にしたのだ。栃木県塩谷郡船生村ではいまもオハグロボシと呼んでいる。
 倉田悟は『越路の樹と人』の中で、醤油を作るとき種麹(こうじ)を入れた材料をキブシの葉付の枝で被っておくからショウフタというのだ、という黒川俣村小田屋のお婆さんの話をあげていた。だが、この木は沢沿いに繁ることが多いのでサワフタギからショウフタギに転じ、これがショウフタになった可能性が高いともあった。
 ところで、秩父の浦山村や伊豆下狩野村などでは、小正月の一月十五日の朝粥(がゆ)を炊くときに使う粥杖をキブシで作る。ヌルデ(オッカド)でこれを作る地方ではオッカド棒ともいう杖である。これが中国の桃杖・桃符の習俗と深いかかわりがあるというのは、前川文夫さんの卓抜な説である。また稲の花の象徴ともいわれる“削り花”もキブシやヌルデで作るが、これも単に材が白く軟らかな削り易い木というだけでなく、これらを聖樹とみなしていたからであろう。
 このほか、トウシンノキという名があるように、髄は灯心に利用されるとともに、スッポンノキなどとよばれ、子供たちの遊び道具ともなった。



   ヤマアイ   山藍

 紀伊半島の南端近くにキツネノカミソリがあるからと、田辺市の真砂久哉さんと新宮市の中嶌章和さんがわざわざ案内してくださった。その古座川支流の猿川谷では、ウバユリがユリらしからぬ葉を広げはじめ、ヤマアイが小さな小さな薄黄緑の花を咲かせていた。

 万葉集巻九に、片足羽川の丹塗(にぬり)の大橋を「紅の赤裳すそびき、山藍もち摺れる衣着て」ただひとり渡ってゆく美少女が歌われているが、ヤマアイは古代の染料植物の一つであった。
 ことに大嘗祭の後の節会で、文武百官がつけた青摺の小忌衣(おみごろも)が山藍染めであったことはよく知られている。ところが、その染色法が今に伝わらず、実際はどんな色の衣であったのかよくわからない。
 そこで文字通り藍色だったとする説と、浅緑色だったとする説が対立している。ことに後説は明治二十一年の東京化学会誌にある中川五郎吉「山藍にはインジゴを含まない」という論文に始まり、現存する小忌衣も藍色ではないこともあって、葉緑素染めの浅緑説として確立したかにみえた。いまでも、ほとんどの書物がこの説を採っている。
 ところが、昭和五十一年に、田辺市在住の辻村喜一が、ヤマアイによる見事な青摺に成功していたのである。ヤマアイ繁る猿川谷の林床で真砂さんにこのように教えられた。
 辻村の『幻の山藍摺の歴史と実験』によると、ヤマアイの色素は青藍(インジゴ)とは性質が異なり、水溶性である。だが銅塩媒染によって定着性のある藍染料となる。
 上古の人々もこの媒染法を知っていたのだろうか。五十二年、白浜の古代の銅坑跡から採取された銅滓を媒染剤に使って、河内郷花が鮮やかな山藍染めに成功したことは、この答えにならないだろうか。
 ともあれ、「山藍による藍染は今頃になって個人の発見したものではなく、遠く古代の先人が既に発見し、秘して語られなかった山藍染であってほしい」という辻村さんの言葉はうれしい。



   スミレ   菫

「山辺(やまのべ)の道は、かげろうの中に、細く曲りながらつづいていた。石仏の並ぶうえの土手に、女の子がうつむいている。女の子はすみれの花咲く中かにいた」
 相馬大が『花万葉集』に描いてみせるこの美しい道は、山部赤人が「春の野にすみれつみにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける」と歌った、その春日野に続く道であった。

 いまでも、ほんの少し郊外へでれば、私たちはいろいろな種類のスミレに出逢うことができる。だが最も普通にみられるのは、尾形光琳の草花図屏風にも描かれているタチツボスレであろう。
 ところで、なぜ昔の人がこの草をスミレと呼んだのかは、よくわからない。かつて大工さんが使っていたスミイレ(墨斗)に花形が似ているからという牧野説がよく知られるが、最近、中村浩は、古代の武具の隅入旗とスミレの花とが大変よく似ていることを指摘した。
 いまひとつ、東北から九州にまで広く行き渡っているこの草の名に、スモウトリクサがある。この意味は、江戸時代の百科辞典である『和漢三才図会』に“小児戯レニ二花ヲ採テ鈎卜鈎トシ、対シ引ケバ則チ萼切レ落ル方ヲ似テ負卜為ス、因テ角力草卜名ク”とあるところから明らかでる。岩手のカギヒキバナコ、長崎のジーガカッカバガカッカなども同様の遊びに由来する名とみてよい。
 このほか、蕾(つぼみ)を馬の顔に見立てての名も多い。『物類称呼』にあるトノノウマや、熊本の子どもたちが、蕾のついた細い花茎を小さな指でつまんで、ンマントッコントッコンといいながら遊ぶのがこれである。

 ヨーロッパでも、スミレは子どもたちに親しい花であり、小人の住む洞穴の扉を開いたり、かくされた財宝のありかを教えたりしてくれる。そして、鏡の国の花園で、アリスに向かって「こんなまのぬけたようすの人、一度もみたことがないわ」とさけぶのも、小さな可愛らしいスミレである。



   クマガイソウ   熊谷草

 風はらむ熊谷草の花の母衣  吉田朔夏

 植物同好会の新入生歓迎採集会のたびに、毎年のように訪れていた晩春の土気の善勝寺附近は、ここも千葉市なのかと驚かされるほど緑が濃く、山門の左手の深い切通しにかかる橋から見た九十九里浜方面の眺めもすばらしかった。そして、台地に島のように残った雑木林と緑波打つ麦畑を縫い、谷の斜面の杉林を抜けて大網駅へと続く小道沿いで、きまって出会う花の一つがクマガイソウであった。

 このラン科の植物は扇形で縦じわのある淡緑色の大きな葉を二枚対生させ、その間から茎を伸ばし、うなだれぎみの美しい花を一つ咲かせる。黄白色の地に紫褐色の斑点があり、袋状になった唇弁はうすく紅色をおび、白い膚の下から赤い毛細血管がすけてみえるような、そんな感じをあたえる。変わった形の花で、『大和本草』には「-----鴨卵ヲ二ニワリタルヨリ猶大ニシテ形ハハマグリヲ二ニヒラキタルガ如シ----」とあり、牧野図鑑には「甚だ奇観を呈し-----」とある。
 クマガイソウは熊谷草のことで、この花の形を、一谷の合戦に出陣したおりの熊谷直実が背負っていた母衣(ほろ)にみたてたものである。昔は布袋草(ほていぐさ)、鬼督郵(きとくゆう)などとも書かれた。この類の中国名は杓蘭、台湾名は鞋蘭で、いずれもその花形に由来する。日本での分布は広く、いろいろな里呼び名がある。そのほとんどは、動物の外部生殖器にちなんだユーモラスなものである。千葉県では、山武郡のキツネノチョウチンや印旛郡のトウカノチョウチンバナなどは品の良い方で、安房にゆくとタヌキノキンタマとなってしまう。青森県八戸のへノコバナ、伊勢市のニタリソウなどみなこのたぐいである。

 クマガイソウそのものはアジアにしかないが、同属のものはヨーロッパにも北米にもあり、英語圏の人々はレディーズ・スリッパ―と総称している.属名のキブリペディウムは女神ビーナスのローシューズという意味だが、ミュンヘンからオーストリアへ向かうハイウエー沿いの美しいドイツトウヒの林の中で出会ったオオキバナアツモリソウは、ビーナスが嵐の吹き荒れる森でなくしたという、その伝説の黄金の靴をほうふつとさせるものであった。



   ゼンマイ   薇

 黒潮に暖められた南風が、里から山へと吹き渡るころ、冬枯れていた草原に、萌黄色の葉柄の先の螺旋に巻いた若芽を淡褐色の綿毛でしっかりと包んだゼンマイが、すっくと立ちあがってくる。

     むらさきの綿かづきたる薇の
           芽に春の日は光をなげつ  岡 麓

 ゼンマイは、サハリン南部から台湾・ヒマラヤ方面にかけて広く分布するシダで、主に低山帯にみられる。一方、深山の渓流沿いに生えるのはヤシャゼンマイであり、高山の草原に大群落をつくるのはヤマドリゼンマイである。
 仲春の頃、最初に芽立つ数本の葉をオトコゼンマイと呼ぶ。これは胞子葉で、魚卵を思わせる形と色の胞子のうを無数につける。これがゼンマイの“花”である。“花”はやがて緑色の胞子を春風の中に送り出し、茶色になって枯れしぼむ。そして、“花”がしぼむころには、栄養葉と呼ばれる別の葉が伸びはじめている。この葉は一夏を経て、霜の降る初冬に枯れる。これがオンナゼンマイで、食用にするのはその芽立ちである。

    ぜんまいはしろき綿毛を纏ひたる
            こぶしほぐして双葉になりぬ     遠山 繁夫

 近年は都市に住む人々の間での山菜摘みの人気が高い。ゼンマイはワラビとともに春の山菜を代表する。
 ゼンマイの全国一の産地は、なんといっても福島県南会津郡只見町であろう。里の雪もまだらになり、野焼の煙りが山肌をはいのぼる頃、ゼンマイ採りがはじまる。都会に出稼ぎに行っていた人も、この時は帰郷して山に人る。一ヶ月近くも山小屋にこもり、採ったゼンマイを茹でて筵にひろげ、木炭をまぶしてもみしだきながら乾燥させる。“泊り山”と呼ばれる年中行事である。また、新潟県岩船郡朝日村三面地区の小・中学校には、五月中旬に十日ほどのゼンマイ休みがあった。こどもたちも家族とともに山中のゼンマイ小屋で汗を流すのである。

          ぜんまいの拳ほどけよ雲と水       桂 信子



   アケビ   通草

 ほのかなる通草の花の散るやまに
      啼く山鳩のこゑの寂しさ  斉藤茂吉

 アケビは通草または木通と書かれ、東アジアに固有の蔓植物である。学問上の属名はアケビアだが、これはパリの自然科学博物館付属植物園の園長をつとめたドケーヌが、シーボルトが日本で採集したアケビの標本をみて、一八三九年に命名したものである。
 『本草和名』には阿介比加都良(アケビカズラ)とあり、古くから薬用されていた。カルシウム塩やサボニン類を含む。また伸び始めの若蔓(つる)は美味で良質の山菜である。
 蔓茎の利用例としては、信州野沢温泉の民具鳩車が有名である。このアケビ細工は天保年間に河野安信という人が考案したといわれ、温泉の麻釜(おかま)に切り集めた茎を浸し、皮を剥ぎ、白い蔓を得た。もっぱらミツバアケビが使われるが、それは五葉のアケビより細工がしやすいからだという。

      ひよどりの行く方見れば山女かな        季圃

アケビはまた、山女とも山姫とも書かれるが、これは秋に熟した紫色の果実が裂開した様が女性器を思わせるからという。
 なるほどと眺め入ったるあけび哉、とふざけてみせたのは、あの牧野富太郎先生だが、『古名録』にも阿介比、開玉門也とあるそうで、この見方は昔からのものとわかる。だが分類学者の前川文夫は『植物研究雑誌』で、口が開く実、すなわち“アケミ”がアケビになったと論じている。
 さて、アケビに近縁で、その果実が裂開しないムベという植物があるが、この名はン!と□をつぐんで開けない実、“ンミ”に起源するというのも前川説である。だがムベも性器に関連した名ではなかろうか。
 いまでも女性器のことをベベという地方が多いが、言語学者村山七郎の『日本語の誕生』によるとベベは南島系の言葉で、フィージー語の女陰を意味するmbembeと同根だという。すると“海上の道”を辿ってこの列島に到達した人々がmbembeにそっくりの果実を見て、ムベと名づけた可能性もあろう。



   タンポポ   蒲公英

  廃れたる園に踏み入りたんぽぽの
             白きを踏めば春たけにける  北原白秋

 ひとくちにタンポポといっても、その種類ははなはだ多く、日本に産するものだけでも二十種ほどある。中部地方以西にはカンサイタンポポやシロバナタンポポが多いが、関東以北の市街地で最も晋通にみかけるのは帰化植物のセイヨウタンポポである。
 この可憐なインベーダーは、その名が示すようにヨーロッパ生まれである。原産地では昔から薬草、食草とされ、その黄色花と白い小さなパラシユートをつけた種子は子供にも大人にも愛された。サルバドール・ダリが一九四八年に描いた、あの童話的な“踊るたんぽぽたち”にもそんな親しみが込められているような気がする。
 この植物がわが国へ入って来たのは明治時代になってからで、北米から輸入した牧草の種子に混じっていたものが、故郷の風土に似た北海道で定着したらしい。それは十七世紀初頭にヨーロッパの人々とともに新大陸へ渡ったと考えられるセイヨウタンポポの子孫だったのだろう。そして、これが次第に南下したのかどうか、断定はできないものの、大正時代には関西地方に、昭和になると九州地方にも出現している。
 カントウタンポポなど、在来種のタンポポは古くから日本にあったはずだが、鎌倉時代以前の古典にはその名がみえない。しかし、徳川家康が征夷大将軍に補せられた一六〇三年に、日本イエズス会が刊行した『日葡辞書』に「Tanpopo−この名でよばれるある草」とあることからも、この呼称が古いものだとわかる。
 また、北は青森から南は大分にわたる各地で、タンポポの仲間を今でもクヂナと呼ぶが、この名の由来がよくわからなかった。『倭名抄』にある不知奈がクヂナに転じたらしいが、なぜ不知奈いうかは不明、と民俗学者柳田国男も書いている。ところが前出の『日葡辞書』に、空き地や野原のことをCugi(クゥヂ)と呼ぶとあるので、クヂナは“空地菜”だと考えれば納得がゆく。

   いつしかに春の名残りとなりにけり昆布干場のたんぽぽの花     北原白秋



    ライラック   

 「四月はいちばん残酷な月だ/死んだ土地からライラックの花を咲かせ/記憶と欲望をまぜあわせ/春の雨で、だるい根を刺激する」
 詩人、中桐雅夫の訳すエリオットの『荒地』は、こう、始まる。

 バルカン半島を古里とするこの花木が西ヨーロッパに移入されたのは十六世紀になってからというのが通説である。
 植物文化研究家でもあったの春山行夫さんの大著『花の文化史』によると、ディオスコリデスの『薬物誌』の注釈書をものしたマッティオーリが、その一五六五年版にライラックという名と写生画をかかげている。これがヨーロッパでの最古の記録らしい。
 また、絵もなくその名も書いてないものの、フランスの旅行家ベロンが一五五三年に出版した中近東旅行記の中かで「キズタに似た葉の小さな潅木にスミレ色の花が小枝をかこんで、キツネのふくらんだ尾のように房なりに咲く」と記した植物も、ライラックではないかといわれる。
 花姿ばかりか香りも良いこの木は、ヨーロッパ、ことに北欧の人々に愛好され、どんな寒村でも家々の戸口に咲きこぼれるラィラックが見られるほどになり、新大陸へさえも十七世紀末までには渡っていた。
 オランダ生まれの花絵画家、ファン・スペンドンク兄弟もこの花を愛した。ことに、兄のジェラードが一七八五年に描いた彩色画にある一枝のヲイラックは見事である。ロシア人のライラック好きは有名だが、トルストイの『復活』にもナイチンゲールがひそむ花盛りのライラックの繁みが登場する。
 ところで、この花木が日本に入ってきたのはあまり昔ではない。明治二十年に、北星学園の創始者クララ・スミスさんが故郷のニューヨークから札幌に持ってきたのである。

 「遅咲きのライラックが前庭に咲いて、西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき/わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお永久に帰ってくる春ごとに嘆き悲しむであろう」
 ホイットマンがリンカーンの死を悼む詩の一節である。詩人木島始の訳文である。

 <MEMO>
 T.S.エリオット(1922)『荒地』西脇順三郎訳 1.埋葬の冒頭
  四月は残酷極まる月だ/リラの花を死んだ土から生み出し/追憶に欲情をかきまぜたり/春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ/冬は人を温かくかくまってくれた。/地面を雪で忘却の中に被い/ひからびた球根で短い命を養い。

 ワルト・ホイットマンのリンカーンへの追頌歌 有島武郎訳
  咲き残りのライラックが戸口の庭に匂ひ、/夜空の西にたくましい星が沈み果てた時、/私は嘆き悲しんだ―而して返り来る春毎に嘆き悲しみつゞけるだらう。


  アネモネ

  アネモネのむらさき濃くて揺ぐなし   水原秋桜子

 敗戦の日も遠くに去り、チューリップの球根まで食べてしまったあの飢えの記憶も薄れ、平和であることがあたりまえとなった頃から、私たちの花壇には彩りも豊かな異国の草花が急速にふえはじめた。アネモネもそんな花の一つである。
 シュウメイギクやユキワリイチゲなどと同じイチリンソウ属の多年草である。コロナリアという種がもっとも広く栽培されている。ボタンイチゲと呼ぶ人もいる。原産地はイスラエルやレバノンなどのレヴァント地方から小アジアと南ヨーロッパの地中海沿岸域である。レヴァントでは春一番にこの赤い花が野を染めるので、マタイ伝にある“野の花”はこのアネモネのことだという聖書研究家もいる。
 聖地パレスチナのコロナリア種がヨーロッパに入ったのは、第二回十字軍の遠征がおこなわれた頃だといわれている。聖地から兵士を乗せて帰国の途についた船のバラストとして積んだ土に球根が混入していたのである。これがイタリアのある墓地で発芽し、真赤な花を咲かせたとき、僧侶達は聖地に散った殉教の徒の血から生まれた花だと説いたという。そんなわけで、信心深い巡礼者が各地にこれを運び、一六世紀の終わりまでにはヨーロッパ全域に広まったと伝えられている。
 イチリンソウ属の植物は世界に広く分布しており、150種以上が知られ、日本には15種が自生している。ヨーロッパにも勿論いろいろな土着のアネモネ類があり、人々に親しまれてきた。ギリシャ神話にある美しい妖精アネモネの化身というアネモネは白い花を思わせるが、狩りにでて猪の牙に貫かれ鮮血の中に倒れた美少年アドニスの化身だというローマ神話のアネモネは、深紅のコロナリアそのものかも知れない。また、アネモネ類の花は、ビーナスの神殿の飾りや花冠にしばしば使われるとともに、熱病よけの呪い草とも考えられた。イギリスでも、薄桃色の花をつけるアネモネの一種のヤブイチゲを、胴衣に縫い込めて疫病よけにしたと伝えられている。

 日がかげれば、アネモネの花は閉じる。花に住む雨のきらいな妖精たちのしわざなのだと、ヨーロッパの子どもたちは教えられる。



   エビネ   他偸草

    木洩れ日のはだら他偸草の花となり   菊川 静

 エビネの分布域は広く、北海道西南部から九州にかけての低山や丘陵に見られ、雑木林が新緑に萌え出すころ、林床に地味な花を鈴なりに咲かせる。
 花には明るく咲いて自らを目立たせるものと、ひっそりと咲いて周囲に融けこんでしまうものとがあるが、エビネは後者である。
 この花が日本人とかかわりを持つようになったのは室町時代以降のようである。つまり鎌倉時代以前の古典には、その名がみえない。華道の成立が、野から茶室へこの花をもたらしたらしい。
 江戸時代も中期になると、いろいろな品種が知られるようになる。正徳三年(一七一三年)に出版された『和漢三才図会』には「今多庭園ニ植其花ヲ愛ス」とあり、盛んに栽培されたことがわかる。 また花色について「肉紅色或ハ淡黄色或ハ柿色或ハ外ト褐ニテ内白ク或ハ外紫内黄ナリ或ハ樺色或ハ外青ク内白キ者ヲ吾須力手ト名ク或ハ淡紫ナル者出船卜名ク」とあり品種名もできていた。
 ただこの書物ではエビネの漢名として藜蘆(りろ)をあてているが、これは見原益軒が『大和本草』で「コレヲ藜蘆ナリト云人アリ非ナリ」というように誤りである。藜蘆はユリ科のバイケイソウの仲間である。また「千草万花の名ありて其草をしらず、草ありてその名しらぬは、ほいなし」とその序にある『花壇地錦抄』には「花形鈴のごとくさがる」故に鈴ふり草ともいう」とある。
 『画本野山草』には十七もの品種があげられ、近衛予楽院家熈の筆になる『花木真写』にも多くの品種がえがかれている。尾形光琳の『草花図屏風』にもツユクサ、ヤエムグラ、ベニバナなどに囲まれて描かれたエビネがあるが、これはジエビネとキエビネの自然雑種であるタカネであろうと、京都教育大教授・伊野五彦は推定している。
 地下部の茎が蝦(エビ)に似ているから蝦根であるが、これを他偸草と書くのは“他の形を盗みとった草”ということか。中国では節根蘭という。



  スズラン   鈴蘭

 スズランはユーラシアの温帯に広く分布するが、北米ではアパラチアン山系の一部にみられるにすぎない。
  日本では、おもに中部山岳地帯以北にあり、北海道にはことのほか多い。だが、アイヌの人たちにチロンノプキナ(狐の草)とよばれ、白樺林が好きなこの花も、開発に追われ、乱穫され、ずいぶんと少なくなった。もつとも英国では、すでに一八三四年に、ウィルコックスが『フロラ・ポエティカ』の中で、開拓にともなうスズランの減少をなげいている。
  人々によく知られているわりには、この草の方言は少ない。これは、牧畜業が盛んになる明治時代より前の、大部分の日本人の日常的生活圏が、スズランの生える夏緑広葉樹林帯にまではおよんでいなかったからであろう。
 これに比べ、ヨーロッパでの人とスズランのかかわりは古く、神話や伝説にさまざまなかたちでこの草が登場している。
 旧約聖書の『雅歌』にある“谷の百合”についての話はおくとしても、スズランは暁の女神オスタラの花であり、聖霊降臨節の花であり、聖母マリアの花である。“聖母の涙”は、いまでも西欧の人々に最も好まれている名だという。
 アイルランドでは“妖精の梯子”と呼び、小びとたちがこの花茎を登ったり降りたりして遊び戯れるのだと幼い子どもたちは信じている。そして、ウォルター・クレインが一八八九年に描いた『スズラン』の二人の美しいニンフは、シェリーの詩の「水の精ナイアドにも似たスズランは、若さに輝き情熱で色青ざめ----」という一節を思いおこさせる。
 
 この草の英名は“リリー・オブ・ザ・バレー”であるが、牧野冨太郎は『随筆草木志』で、高等小学読本巻一の「西比利亜鉄道」の中に“谷百合”とあることに憤慨し、鈴蘭とか君影草という立派な和名があるのに「文部省は何を苦しんでこんな直訳名を用い、旧来の和名を放棄するのか」とかみついている。博士の面目躍如である。



  シラン   白及

  いつもなら、もうとうに花が終わり、紅紫色の花茎だけになっている頃なのに、今年の庭先のシランにはまだ蕾すら残っている。

  シランは関東以西の山地の岩上や林床に生える蘭であり、中国と台湾にも分布する。中国では揚子江流域にあり、白及または双腎草などとよばれている。台湾のものは小型で、葉の幅もせまく、紅頭白及という名の変種である。
 蘭の仲間としては例外的だが、畑や庭に直植えができ、ほとんど土質を選ばないので、江戸時代にはすでに観賞用として栽培されていた。
 貝原益軒の『大和本草』にも「園中ニウフルニシラント云物アリ葉ハエビネニ似タリ」「花紫白二色アリ花賞スヘシ紫白一処ニ種レバ白者枯ル」と書かれており、シロバナシランも知られていたことがわかる。
  また、両眼の間のくぼみ、いわゆる山根に、この草をはると鼻血が止まるとか、「冬月手足ニアカガリキルルニ此根ヲアブリテ糊トシ用テキレタル処ヲフサゲバ愈ユ」などとあり、薬草でもあった。『和漢三才図会』でも『本草網目啓蒙』でも同様に記述されており、シランは中国の薬物書にある白及だとしている。
  白及という名は漢の時代に書かれたとされる中国最古の本草書である『神農本草経』に始まる。この書物では薬物を上中下に三大別しているが、その下薬の一つに白及の名があり、「白及。一名甘根。一名連及草。味苦平。生谷川」と記されている。
 『神農本草経』を基にして編まれた唐の『新修本草』を和訳した平安初期の『本草和名』にも当然この名はあるが、その和名は加々美(カガミ)となっている。だが、これは誤りで、加々実は古事記にある羅摩、つまりガガイモの古名である。また、白及というのは、その根が白く連及しているからだというのは李時珍の説である。
  白及は、いまでも止血削として漢方医が用いるほか、七宝焼などの陶器を作るときの糊剤として使われている。


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