梅の話 Folklore of Ume, Prunus mume (Sieb.) Sieb. et Zucc.

 余寒の朝であった。水面に散り敷いて、夜の間に薄氷に結ばれた山茶花の赤い花びらを見つめていると、かすかに梅が香った。
 狩野派の障屏画に見るような、複雑に屈曲した黒い古枝が池の上に広がり、そこからしなやかに伸びた緑の若枝に、数輪の白梅が綻んでいた。その白花の放った香りであった。
 「梅は野にありても山にありても、小川のほとりにありても荒磯の隅にありても、ただおのれの花の美しく清きのみならず、あたりのさまをさへ床しきかたに見さするものなり。・・・・・・」と幸田露伴が記し、「梅の風骨たる事、水陸草木の中に、似たる物はあらじ。・・・・・」と許六がたたえるように、梅は日本人にことのほか愛されている花木である。

 だが面白いことに、梅はわが国に土着の植物ではなく、原産地は中国の四川省から湖北省にかけての山岳地帯と見るのが近年の定説である。
 そのように判断される最大の理由は、日本には桜などと違って野生状態の自生地が存在しないことである。
 ではいつごろ渡来したのか。その時期を特定することは困難だが、弥生時代中期の大阪府八尾市の亀井遺跡や山口県の岡山遺跡、後期に当たる奈良県の高塚遺跡などから核や材が発掘されている。今のところ縄文時代の遺跡からの報告はないので、おそらく弥生時代前期に渡来して栽培が始まったのであろう。とすれば、揚子江の中・下流域からこの島国に渡ってきて稲作を伝えた人々が携えてきたと考えるのが自然である。

 
豊穣のシンボル ~中国古代の人々にとっての梅


 原産地の中国ではたいへん古い時代から、梅を薬用や食用に利用するだけでなく、一種のシンボルとみなしていた。
 例えば紀元前11世紀の西周から前7世紀の東周に亘る500年間の詩を集めた『詩経』には、結婚を急ぐ娘が歌う次のような戯歌「摽有梅」がある。

    投げる梅の実/その実は七つ/あなたわたしが欲しいなら/良いお日柄をはずさずに
    投げる梅の実/その実は三つ/あなたわたしが欲しいなら/今この時をはずさずに
    投げる梅の実/もうないわ/あなたわたしが欲しいなら/今すぐ言葉をおかけなさい

 古代中国ではこの歌のように、女が男に果実を投げる行為は結婚の申し込みを意味した。つまり梅の実はエロティシズムや生殖のシンボルとされていたのである。それは”梅”の古字が母を意味する”某”や”楳”であり、これが子授け神の”禖”などになっていることと無縁ではない。つまり梅は”母の木”で、それは酸味の強い果実が悪阻によく効いたからだということになっている。前漢の馬王堆古墳から出土した梅の核も、薬用や食用にされた名残であろう。
 時代が下って、南北朝から隋、唐の頃になると、梅は松竹とともに”歳寒の三友”と呼ばれ、寒中に咲くその香り高い花が賞玩されるようになる。そして、それは唐の徐堅らによって編まれた『初学記』や王維の梅花詩などに見るように、多くの場合雪や月や鶯と組み合わせて鑑賞されていた。ことに梅と鶯の取り合わせは、陰と陽、すなわち男女の恋情を象徴し、見るものの心は『詩経』の時代のあの求婚歌の世界へと回帰するのである。
 

文学から芸術へ ~日本人の育んだ梅の文化~ 

 唐の文化は630年に始まった遣唐使によりいち早くわが国にもたらされ、律令国家の設立に勤しむ白鳳・天平の貴族の間に広まっていった。
 国文学や歴史学者のいうところによると、何故かはわからないが、『古事記』を初めとし『播磨風土記』や『日本書紀』にもウメと特定できる植物が登場していないという。だが『万葉集』の巻五には天平二年(730)正月十三日に大宰府の長官である大伴旅人の館で催された梅見の宴での「梅花の歌三十二首」が載録されていることからも、梅を知ることが当時の貴族たちの文化的ステータスとなっていたらしいことがわかる。
 この日はずいぶんと暖かだったらしく、序文には山間には霧がたなびき、庭には越冬した蝶が舞ったとある。
 弥生時代の初期に中国から運ばれた梅は、唐の文化が一世を風靡したこの時代になって、村落から貴族の庭へと移しかえられていったのであろう。
 そして、天平勝宝三年(751)に成った漢詩集『懐風藻』には、大伴皇子と十市皇女との長子、葛野王による「春日鶯梅を翫す」などの詩が見られるが、この頃にはすでに平城京へも移植されていたに違いない。
 平安時代に入るとともに、梅はますます日本人の生活に密着した存在となってゆき、詩歌ばかりでなく広く文芸や美術工芸の世界にも登場し始める。

 またこの時代になると紅梅も広く栽培されるようになり、清少納言をして「木の花は、濃きも薄きも紅梅」といわしめている。梅文様が見られるようになるのも平安時代からで、羽黒山御手洗池出土の「梅花蝶鳥鏡」や花背別所第三経塚山出土の「梅枝双雀鏡」には、若枝の先に花房のように蕾を連ねた槍梅文と正面に開いた梅鉢文風の梅花がちりばめられている。よく似た文様は、やはり平安時代の作とされる、春日大社の神宝「蒔絵筝」や国宝の「片車輪螺鈿蒔絵手箱」にもある。
 一方、絵画で梅が描かれている最古のものは、11世紀末の春日隆納らの筆になると伝えられる『源氏物語絵巻』である。それは「竹河」の段で、薫が訪れた玉鬘の庭に一羽の鶯を宿して咲く紅梅の若木であった。

 鎌倉時代も末となると、「唐のものは薬の外はなくとも事かくまじ」とか「唐めきたる名のききにくく花もみなれぬなどいとなつかしからず」と断じた兼好法師ですら「梅は白き、うす紅梅。ひとへなるがとく咲きたるも、かさなりたる紅梅のにほひめでたきも、みなをかし」と褒め称え唐来物であることを忘れてしまうほどに、梅は日本の風土に馴染んだものとなっていた。

 こうして、室町、江戸へとさらに時代が移るにつれて、日本の”梅の文化”はますます洗練されていった。
 私たちは今、京都東山高台寺に伝わる桃山時代の「梅型蒔絵薬味壷」や尾形光琳の描く国宝「紅白梅図屏風」や野々村仁清の秀品の一つである「色絵梅月図茶壷」などにその極みの一端を見ることができるのである。
 文学や芸術へのかかわりとは別に、梅を日本列島にもたらした人々の本来の目的であったであろう薬用植物としての利用も古代から今に至るまで連綿として続いている。
 6世紀中葉の中国で著された『斎民要術』にその製法が記されている漢方薬で、紅花染めの媒染剤ともなる”烏梅”や、塩漬けの実を干した”白梅”が日本に伝わったのは奈良朝末か平安時代の初頭のことらしい。当時は”烏梅”を”うめほし”と読ませている。

出光美術館収蔵 「紅白梅図屏風、伝 尾形光琳」の部分。
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 しかし、今日普通に食べているシソの葉の色素で染めた赤い梅干は、平野必大が著した『本朝食鑑』などの記述からみて、江戸も元禄時代になってから日本で考案されたもののようだ。また梅を利用した民間療法も本家の中国より多様であり、このような分野においても日本独自の”梅の文化”が生まれている。

 ところで、中国に原産したウメという花木とそれから生まれた文化が伝播したのは、当然のことながら日本だけではなかった。
 ウメと梅の文化は、北は朝鮮半島へ、南はベトナムへと広がっていった。このことは中国でメイと発音する梅を、韓国ではメ、ベトナムではマイ、日本ではムメあるいはウメと呼ぶこと一つをとってみても明らかである。そして、かつて日本の女性の名に梅子が多かったように、ベトナムではマイという名の、韓国にはメの付く名前の女性が多かった。またベトナムでは新婦が着るアオザイに梅花文をつけ、テト(旧正月)には白梅や黄梅を飾る慣わしが今に伝わっている。
 こうしてみると、アジアの一隅に、かなりの広がりを持つ梅文化圏が存在することがわかるのである。

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