tubaki

椿の話 Folklore of Common Camellia, Camellia japonica


 「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿を聯想する・・・。あの花の色は唯の赤ではない。目を醒ますほどの派手やかさの奥に、言ふに言はれぬ沈んだ調子を持ってゐる」と夏目漱石が『草枕』のなかで描写したツバキは、カメリア・ヤポニカ(Camellia japonica)というその学名からもわかるように、日本を代表する花木の一つである。
ツバキの語源
 カメリアという属名はスウェーデンの博物学者リンネの命名によるものだが、これはフィリピンはルソン島の植物を研究したイエズス会の宣教師ゲオルグ・カメルを記念したものである。
 なお、和名のツバキの語源は常緑の”厚い葉”を意味する「厚葉木−アツバキ」にあり、ここからアが脱落したとみる人が多い。しかし、ツバキの朝鮮語「ton-baiku」から転訛したという説もある。
 いっぽう、「椿」の字は奈良時代にはすでに使われていたが、漢語の「椿」はセンダン科のチャンチン(香椿)のことであり、それは『荘子(逍遥篇)』によると8000年も生きる長寿の樹ということになっている。
 そこで、「椿」の実物を知らなかった上代の日本人が、この漢字をわが国の春を代表する樹であるツバキに流用したのであろう。
ヤブツバキ


ツバキの分類と分布


 生物学的にみると、ツバキ(Camellia japonica)にはさまざまな種内変異があるが、一般にはタイワンヤマツバキ、リンゴツバキ、ユキツバキ、ヤブツバキの4変種に分類されている。
 小さな花を咲かせるタイワンヤマツバキは奄美大島から台湾北部にかけて分布しているが、研究者によってはヤブツバキと区別しない。果実が大きいリンゴツバキは屋久島と沖縄に分布し、ヤクシマツバキあるいはオオミツバキとも呼ばれる。ユキツバキは1936年に杉本順一らが発見したもので、中部から東北地方の積雪期間3ヶ月以上で150cm以上の積雪がある山地に分布している。多雪地適応型の低木性のツバキである。
 4変種の内で最も普通に見られるのはヤブツバキで、海辺におおい。生態学的にみれば、日本の照葉樹林の指標植物の一つである。本来は暖地に適応したものと考えられるが、かなりの耐寒性があり、北は青森県まで分布している。


ヤブツバキの分布と柳田仮説


 その北限のツバキは、青森湾と野辺地湾に挟まれて陸奥湾へと放物線状の海岸線を描いて突き出した夏泊半島の先端、かつては椿崎と呼ばれた岬の小高い丘に自生している。
 椿山と名付けられたこの20haほどの森には樹幹の周囲が1mにもなる老木が幾本かある。江戸時代にはすでに景勝の地としての名を得ており、寛政7年(1795)3月26日にこの地を訪れた国学者の菅江真澄は、その著『津可呂の奥』に「浦館よりみちしばし離れて岨(いしやま)よりくだれば、波うつ岸べよりけしき遠ざかりたる磯山に、としふる椿のひしひしと生ひ茂りたり」と記している。


 このような純林に近いツバキの森がどのようにして成立したのかよくわかっていないが、下北半島に閉じ込められた北限の野猿たちのように、この地が現在よりはるかに温暖だった遠い過去からの生き残りかもしれない。
 だが、民俗学者柳田國男は、これら北国のツバキは天然のものではなく人の手によって運ばれたものだと主張している。それは前に挙げた菅江の著作にも載録されている伝説を重く見るからである。
 その伝説とは、夏泊のとある浦の漁師の娘と毎年そこへ南から渡って来る船頭との悲恋物語である。ある年、娘は都の女たちが黒髪に塗るという椿油を自分も使ってみたいから来年来るときには是非ツバキの実を持ってきてほしいと、南へ帰る男に懇願した。
里乙女

 しかし、一年待ちニ年待っても男は現れない。娘は男が心変わりしたものと悲しんで海に身を投げてしまった。
 よんどころない事情で船に乗れないでいた男は三年目にやっとこの浦に漕ぎつくのだが、娘の死を知り「苔の下に朽ちてしまう愛しいお前の黒髪に、今はもうこの油を塗ってやることもできなくなった」と血の涙を流しなが携えてきたツバキの実を娘の塚の周りに蒔いた。これが芽生えて茂り椿山になったという言い伝えである。
 
 緯度からいって、夏泊の椿崎よりやや南に位置する西津軽の深浦町小金崎の近くにも海榴山(つばきやま)という小山がある。菅江真澄のいま一つの著作『外浜奇勝』をひもとくと、かつてこの地にも密生したツバキの森があったが、あるとき出羽の男鹿半島から海を渡ってきた鹿の大群に食い荒らされて、貧弱な林になってしまったとある。
 鹿のやってきた男鹿半島にも椿という地名があり、そこの能登山という磯山にも200株ほどのヤブツバキが自生している。面白いことに、この椿山についても夏泊のそれとよく似た伝説がある。
 さらに南に下がって、能登半島をみると、ここにも椿原という場所があり、そこに茂るツバキは若狭の八百比丘尼が旅の道すがら植えたものだと伝えられている。
 
 柳田仮説の背景にはこのような数々の事実や伝承があったのである。

ヤブツバキの利用と霊力信仰

 柳田の仮説が正しいとするならば、何が目的で古代の人々は日本海岸を南から北へとツバキを運んだのだろう。
 多分その第一の目的は生活への利用であり、第二は極寒の季節にも美しい花を咲かせるこの常磐木の生命力への信仰であろう。
 ツバキは有史前から利用されていた。それは千葉県船橋市の海老ヶ作貝塚や埼玉県岩槻市の真福寺遺跡などの縄文時代中期から晩期にかけての遺跡から、ドングリやクルミなどと共にツバキの種子が出土することからわかる。当時の人々もツバキの種子を食用していたに違いない。直接食べるだけでなく、搾れば油が採れ、これは食用だけでなく髪油や灯油としても利用できる。また、火傷などの傷につける薬としても役に立った。
 さらに、「紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰」と万葉集(12・3101)に詠われているように、ツバキ(海石榴)の木灰は紫染めの媒染剤として重要だった。
 強い防腐作用も知られていて、静岡市岡部町の神(みわ)神社では濾過した灰汁に餅をつけ、これをマコモの葉で包んで粽(ちまき)にする。この粽は雷や病気を追い払う呪力を持つと信じられている。
 『日本書紀』などを読んでも古代日本人がツバキを霊力の宿る木と考えていたことがわかる。
数奇屋

鑑賞樹としてのツバキ

 ツバキを庭園に植栽しその花を愛でる風習はといえば、 「あしひきの八峰の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君  万葉集巻20・4481」 という大伴家持の歌があるように万葉の時代にはすでに存在しているが、本格的な椿花観賞は茶道・華道の興隆した桃山時代以降のことである。

 京都や奈良には、今日でも当時の権力者たちが賞玩した名木があちこちに残されている。例えば、高台寺月真院の”有楽椿”は信長の弟の小田有楽斎の、そして大徳寺総見院の”侘助”は秀吉の遺愛の株と伝えられている。また、椿寺地蔵院の”五色八重散椿”は加藤清正が朝鮮の蔚山城から持ち帰った樹だという。
 江戸時代に入ると、二代将軍秀忠の椿好きも手伝って、さらに多くの品種が栽培されるようになったが、その多様さは松平忠晴が狩野山楽に描かせた『百椿図』や安楽庵策伝の『百椿集』にうかがうことができる。宮内庁蔵の『椿花図譜』は成立年代がはっきりしないが元禄時代のものらしく、精巧緻密かつ美しい彩色で720もの品種が描かれている。

 だが、明治維新や引き続いた世界大戦の混乱の中で、江戸時代が生み出した名品の多くが失われてしまった。しかし18世紀以降にヨーロッパやアメリカに渡っていった江戸の椿の子孫たちが、彼の地での相次ぐ交配改良ですっかり面変わりはしているものの、戦後次々と里帰りしているのは、やはり喜ばしいことではある。

2009年の3月に見た“有楽椿”は気息奄々であった。挿し木をしてあるとも聞いた。

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