桃の話  Folklore of Peach, Prunus persica L.


 だいぶ以前のことになるが、国立西洋美術館で催されたゴッホ展で、美しい「花咲く桃の木」を鑑賞することができた。
 それは、従兄ですぐれた風景画家でもあったアントン・マフェの死を悼んだゴッホが、1888にその未亡人に贈った20号の油絵で、南仏はアルルのうらうらとのどかに照り映える春の果樹園に、耕されてほどないライラック色の土と赤褐色の畑柵と、そして輝くばかりの青い空と白い雲とを背景にして咲き満ちる2株の桃の木が描かれていた。



モモの原産地とその伝播

 モモ(Prunus persica) は世界の暖温帯で広く栽培されている果樹であるが、ローマの大プリニウス(AD 23〜79)により著された『博物誌』にペルシカ・アルボル(ペルシャの木)と記されている。その後、分類学の父ともいわれるリンネは1753年、この木にアミグダルス・ペルシカ(Amygdalus persica:ペルシャのアーモンドの意)という学名を与えたが、このことからもわかるように古代からヨーロッパの人々はペルシャ(現在のイラン)をモモの原産地だと考えていた。

 だが、1915年にアメリカ農務省のF. N. メーヤーが西安の北方の陜西省と甘粛省にまたがる標高600〜2000メートルの山岳地帯に野生種が群生することを報告し、中国が原産の地であることが明らかになった。

 つまり、紀元前334年に始まったアレグザンダー大王の遠征にともない、紀元前1世紀ころまでには、ペルシャからアルメニア、そしてバルカン半島を経由してローマへともたらされたと考えられていたモモは、それ以前にシルクロードを通って中国から西アジアへとすでに伝播していたのである。しかし、南ヨーロッパ全域で栽培されるようになったのはルネッサンス以降のことだったらしい。
 そして、セミプロの植物愛好家J. ジェラードの『本草書: The herball or generall history of plantes』などを読むと、16世紀までにはイギリスでも栽培が始まっている。一方、新大陸へはスペイン人により1530年代に移入されたという。
  原産地中国での栽培の歴史は、当然のことながらたいそう古く、河北省の藁城県にある紀元前15世紀頃の殷代の遺跡からモモの核が発掘されている。
 モモの果実にはウメやアンズなどと同様に縦の凹条が走っていて、これらを区別することは容易ではない。だが、核(内果皮が硬化したもので、種子はその内側にある)の表面には深く刻まれた皺模様があるので、平滑な面に小穴が散在するウメなどの核とのははっきりと見分けられる。
雛の節句に飾られる”寒白”

日本への渡来


 ところで、日本へはいつ頃に渡来したのであろう。近年までは佐賀県唐津市の菜畑遺跡や静岡市の登呂遺跡から発見されたモモの核が最古のものであったため、弥生時代渡来説が有力であったが、その後に長崎県西彼杵郡多良見町伊木力の熊野神社遺跡の縄文時代早期の地層から1個の核が出土し縄文時代渡来説が有力になった。
 大陸から新天地を求めて東シナ海を渡った古代の人たちが運んできたのであろうか。
 これまでに見つかっている古代の遺跡からのモモの核は、縄文や弥生時代のものだけでなく奈良時代の例えば長岡京跡からから発掘されたものも、直径3cm未満で5cm前後になる今日の栽培品種に比べるとかなり小型であり、また核の表面の皺模様も単純である。これは西南日本に点在する逸出野生化した品種のものに近い。例えば大阪府高槻市の石灰岩採石場の近くには野生状態のモモが数10本もあるが、その核は小さく皺も少なく低く、各地の遺跡で発見されているものとよく似ている。しかし、ひょっとしたらこれらの野生状態のモモは有史前に渡来したものの生き残りかもしれない。


 モモと一緒に渡来した古代中国の思想

 和銅5年(712)に成ったといわれる『古事記』にモモは登場する。
 それは、黄泉の国へ妻の伊耶那美命に会いに行った伊耶那岐命が、8種類の雷(イカヅチ)とそれらが従えた黄泉の軍勢に追われて逃げ帰ってきた黄泉比良坂の麓に生えていたモモである。そして、伊耶那岐命がその実を3つ採り投げつけると迫ってきた追っ手はことごとく退散したと記されている。

 これは古代の日本人がモモには鬼神をも恐れさせる強い呪力・霊力が宿っていると信じていたからだが、この思想は日本独自ものではなく、モモの原産国の中国からの借り物である。                     

 古代中国では、最古の詩集といわれる『詩経』に収録されている嫁入りする娘の美しさをモモに譬えた周南の歌「桃夭」にみるように、モモを初々しい乙女の象徴ととらえていたが、また一方では『春秋左氏伝』や『荊楚歳時記』、あるいは陶淵明の『桃花源記』に記されているように、モモは不老長寿の薬効をそなえ、百鬼をも退かせる呪力を宿す仙木だと信じられていた。

  春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女   巻19 4139

 『万葉集』の中でも取り分けてよく知られた大伴家持のこの歌もまた上述した中国の神仙思想の延長線上にあるといえるだろう。そればかりか、この美しい短歌の背後には、永く正倉院に秘匿されてきた天平の至宝『鳥毛立女屏風』の樹下美人図もほの見えるのである。
 また、正倉院には桃花の下に楽器を奏でる女性が描かれている阮咸の撥もある。


 語り継がれたモモの霊力: 桃太郎説話と桃の節句

 大きな霊力を持つと信じられたモモだが、木の寿命が20年程度と短く、夏の間の葉の茂りがいささかむさ苦しいことと、どちらかといえば直線的に放散する樹形があまり日本人の好みに合わなかったせいか、花が美しいにもかかわらず、同じく中国から渡来したウメほどには庭木としてもてはやされることはなかった。
 とはいえ、この霊木の持つ伝説的な呪力への信仰には根強いものがあったらしく、さまざまな説話や行事のなかに形を変えては取り込まれていった。
 桃太郎話もその一つである。この説話がいつできたのかは特定されてはいないが室町時代以前と考えられている。例えば、滝沢馬琴の『燕石雑志』では『保元物語』が書かれた頃だろうと推定している。人口に膾炙するようになったのは江戸中期以降のことだが、敦賀の気比神宮の柱に慶長19年(1614)の作という”桃から生まれた桃太郎”が彫られている。この話にはいくつかのタイプがあり、流れてきた桃を食べたお婆さんが若返って桃太郎を生んだことになっているものもある。しかしいずれにせよ中国の桃樹信仰と日本民話との複合体である。 
京舞妓


 また、現代ではモモの花と聞けばひな祭りを連想する人が多いはずだが、この取り合わせは比較的近年になって成立したものである。
 まず平安時代に中国古来の上巳の行事と日本に土着の呪術である”人形流し”の習俗が結びつき、その後これに季節の花を飾る”天道花”の行事と中国伝来の桃樹信仰が結びついたと考えられている。
 ”座り雛”が作られ、「桃の節句」とよばれ、女の子の行事として盛んに行われるようになるのは、江戸も元禄時代以降のことであった。

 モモの霊力・呪力信仰は各方面に及び、鬼門にモモを植えたり、野菜の害虫避けに畑に植えたりした。また、下北のイタコは口寄せをするときに霊を呼ぶ助けにモモの枝を飾った。

 さてここで、絵本に描かれている桃太郎のモモの実を思い出してみてほしい。面白いことに気付かれるはずである。お解かりいただけただろうか。つまり、桃太郎が元気よく飛び出してくるモモの実は、その形が今日私たちが食べなれているそれと違って、先端が尖っているのである。
 そこで、意識して昔に描かれたモモの絵を集めてみると、たとえば左の図の江戸中期鍋島焼の『色絵桃花図大皿』に描かれている3個のモモの実に代表されるように、例外なく”尖り尻型”の実である。
 これは、かつては果実の先が尖る中国北方系の品種で日本の気候によくあった、天津水蜜桃系のものが主に栽培されていたことの現れである。今日普通に店頭に並んでいる”丸尻型”のモモは南方系で栽培が難しかった上海水蜜桃の偶発実生から選抜された新品種で、こちらの栽培が主流になったのはごく近年のことであった。
静岡MAO美術館蔵: 色絵桃花図大皿

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