IKOKU

異国に咲く花
目次 プロローグ
 1)ガーデンシティーを彩る花  2)お寺さんの花  3)
サバンナの奇樹、バオバブ  
 4)バンクスに見いだされた花  5)インカの聖花  6) 密林の翡翠の勾玉
 7)ヨーロッパの森の神  8)西双版納でであった花々  9) チリ、思い出の花々
プロローグ
 子房と呼ばれるメシベの基部の袋の中に種子を作ることのできる花を咲かせる植物(被子植物)が地球上に出現したのは、ゴンドワナやローラシアと呼ばれている巨大大陸が現在の大陸の配置へと分裂を始めたころだろうと考えられています。恐竜たちが跋扈していた2億年ほど昔のことです。


ジュラ紀の陸地の配置 引用: S.J.Gould (Ed.), The Book of Life, Norton (1993)

 いくつにも割れた巨大大陸の破片は、長いときの流れの中をゆっくりと漂動し、今私たちがアフリカ、ユーラシア、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリアなどと呼んでいる大陸と大小さまざまな島嶼となりまた。

 被子植物の最初の祖先がどんな姿だったのかは化石の記録が乏しいこともあって確かなことはわかっていませんが、現生種の中ではニューカレドニアの雲霧林にのみ生育している1科属1種のアンボレラ・トゥリコポダ(Amborella trichopoda)が遺伝子の比較研究から最も原始的(祖先的)なものと考えられています。
 アンボレラは潅木ですが、その黄緑色の花は小さく直径5mmで萼と花弁は分化せずオシベも含めて螺旋状に配列しています。最初の被子植物の祖先の姿をとどめる、文字通りの生きている化石かもしれません。

        

左の写真はアンボレラの雄花です。
   引用: http://fgp.bio.psu.edu/cgi-bin/fgpmine/www/taxa/taxon.cgi?id=11
右の図はネブラスカ州のローズクリークの初期白亜紀(約1億4000万年前)の地層から見つかった5数性の花の化石です。すでに現生の被子植物の花の姿に達していたことがわかります。
   引用: W.N.Stewart & G.W.Rothwell (1993), Paleobotany and the Evolution of Plants


 一つの祖先から出発した「花の咲く植物」でしたが、いくつにも分裂した大陸や島嶼のさまざまな環境に分かれて、数え切れないほどの世代を重ねていくうちに、それぞれの土地に特有の姿かたちへと変身してゆきました。

 茎や葉などの栄養器官の形は、その植物がどんな気候の下で生きてきたかによって、驚くほどの多様性をみせます。たとえば、高温少雨の乾燥地には葉が刺状に変化し、代わりに茎が多肉化して貯水機能を備えるサボテン型の植物が、湿潤な熱帯多雨林では天を突く高木やそれに巻きつき攀じ登る蔓性の植物が優占します。風が強く気温も低い高山帯では、植物は小型になり岩の裂け目などに身を潜めますが、なかには自分自身の大きな葉で茎と花芽をふわりと抱き込み、その葉を透過してくる太陽の光で温めることのできる温室植物などと呼ばれるものもあります。


  


 一方、生殖器官である花の形や色や香りは、それを訪れる生物の種類と深く関わっています。それはより効率よく花粉を運んでもらうための適応の結果です。
 一般的にいえば、白くてよい香りを放つ花には夜行性の蛾や甲虫が集まり、赤や黄色の目だった花びらを持つ花には蜂や蝶がやってきます。腐肉臭を漂わす花のまわりには蝿の仲間が飛び交います。またランの中には雌蜂にそっくりな形と色の花を咲かせ、だまされて飛びついてきた雄蜂に花粉の塊をはりつけて運ばせるものもあります。アリゾナ州などに分布しているハナシノブの仲間のスカーレット・ギリアはハチドリが蜜を求めってやってくる7月の間は名前のとおり赤い花を咲かせていますが、8月に入りハチドリが北上していなくなると今度はスズメガが好きな白い色の花を咲かせ始めます。

  


 このように、数億年もの遠い昔、巨大大陸の片隅に生まれた花の咲く植物の祖先は、分裂した大陸が海を挟んで遠くに隔てられる約6000万年前までには世界各地へと分散していたと考えられます。そしてそれぞれが生育地の気候や地形やそこに住む動物たちの影響を受けて今私たちが目にするような多様な姿かたちへと進化したのです。

 したがって、自分の生まれ育った場所を離れて遠くへ旅するほど、私たちは見知らぬそして奇妙に思える草や木に出会う機会が増えます。
 遠州灘近くの田舎で少年期を過ごした私にとっては、青年になって初めて目にした南アルプスのお花畑に咲く花々はまさに別世界のものでした。やがて外国へ出かける機会も多くなり、さらに多くの珍しくも美しい異国の花たちを知りました。
 シドニー郊外で見たテロペアの真紅の花、パタゴニアのパイネの麓に咲くエンボスリュウム、ライン川の辺で風に揺れていたリンデンバウム、シーサンパンナの朝霧に濡れた八宝樹の白い花。思い出は尽きません。

 以下はこの思い出の花物語です。 

1) ガーデンシティーを彩る花

 

 昼近くに成田を飛び発ったSQ-997便がシンガポールのチャンギ国際空港にその翼を休めるのは、もう夕闇が迫るころです。
 通路に飾られたいろとりどりのランの花に迎えられ、かたちばかりの検疫と入国審査を終え、ターンテーブルから手荷物をひろいあげて、冷房の効いた到着ロビーから外に出ると、高温多湿の空気がどっと私たちを包み込みます。
 自分はいま熱帯にいるのだと実感するのはこの瞬間です。
 シンガポールはほぼ赤道直下に位置する淡路島ほどの広さの島国ですが、1800年代の初めから東南アジアでの重要な貿易港として繁栄してきました。そのためこの国には世界各地の美しい熱帯植物がもたらされ、市街全域があたかも庭園のようです。 シンガポーリアンが誇らしげに「私たちのガーデンシティー」と呼ぶのもむべなるかなと思います。
 そんな町の中で、とりわけ私の目を引いたいくつかの花を紹介します。 


  

 水路を挟んでマーライオン像が見えるエリザベス・ウォーク公園や植物園のメインゲートから入って直ぐ左手に、この奇妙な木があります。高さ10mを越すほどの直立した幹から垂れ下がる枝の先に、大人の頭ほどもある丸い実を鈴なりに下げています。近づくとかすかに甘い香りが漂い、花も咲いていました。肉質で、直径は15cmにもなる大きな花でした。赤橙色をした6枚の花びらとオシベの塊が印象的です。サガリバナ科ホウガンボクCourouptia guianensis)です。この和名は英語名のキャノンボール・ツリーの直訳で、漢字で書けば「砲丸木」です。大きな丸い実の形にちなんだ名です。原産地はパナマからブラジルにかけての地域です。若い果肉からは清涼飲料が採れますが、熟して暗赤色になったものは悪臭を放ちます。しかしその臭気に辟易するのは人間だけのようで、サルや昆虫類はいっこうに気にしないようです。シンガポールのホウガンボクはスリランカのペラデニア植物園から贈られた種子から育てたものだそうです。


     
 

 エリザベス・ウォークの北西には白亜の尖塔があります。ロナルド・マクファーソンが設計して、1856年から8年近くかけて建てられた典型的なゴシック様式の聖アンドリュース寺院です。
 この敷地内にも数多くの熱帯花木が植栽されていますが、なかでもネムノキを一回りもふたまわりも大きくしたようなマメ科レインツリーSamanea saman)が印象的でした。こんもりと茂って涼しい日陰をつくる樹冠をピンクのパフのような可愛い花が彩っていました。この木も原産地は南アメリカですが、いまでは世界中の熱帯でその生長の早さからシェードツリーとして利用されています。コマーシャルに登場した♪この~木なんの木、気になる木~♪もレインツリーです。
 この寺院より少し西に位置するリバーバレー通りに面した中央公園を散策すると幾本ものミソハギ科オオバナサルスベリLagerstroemia speciosa)にであえます。直径6cmほどの紫桃色の花を枝先に穂状に咲かせるこの木の故郷はマレー半島ですから、ここシンガポールでは実にのびのびと育っています。材が硬いので家具や建材に使われ、インドでは塩水に強い性質を利用してボートやカヌーを作ります。また、樹皮は下剤に、葉は湿布として使う地域が多いそうです。ブンゴルとも呼ばれていました。

 とにもかくにもこの小さな常夏の国は花の宝庫です。世界でも指折りの植物園があり、島全体が熱帯庭園植物の見本園のようでもあります。

 2) お寺さんの花

 ベランダの大きな籐椅子に身を沈めて、黄金色の砂浜を打つ潮騒を聞きながら、朝日に濡れたように輝くココヤシの林を眺めていると、電話が鳴った。
 「スラマット・パギ。イニ・スメンタ。アパ・カバール・エンチッ?」
 「カバール・バイク、テリマカシ」
 お決まりの朝の挨拶を交わす。
 ペナン島の花案内人スメンタさんだった。いまホテルに到着したところで、ロビーで待っているとのこと。
 カメラを提げて急いで部屋を出て、フロントにルームキーをあずけ、彼女の愛車で出発。
 100kmほどの海岸線に囲まれたこの小島ペナンは、インド洋のエメラルドと愛称されるほどに緑が深い。
 ペナンとはピナン、つまり檳榔(びんろう)のことである。これはマレーシア原産の椰子の1種 (Areca catechu)で、その実(檳榔子)をスライスしたものを石灰を塗ったコショウ科のキンマ(Piper betle)の葉で包んだものをシレと呼び、人々はこれを噛んで赤い唾を吐く。この風習は東南アジアから東アフリカの人々に広くいきわたっていて、ギリシャのヘロドトスの著作にもとりあげられている。儀式的な起源を持つものだが、タバコ同様にやめられなくなるものらしい。おまけに肺ガンならぬ口腔ガンを誘発する危険性が指摘されているので、敬遠する若者も多い。
 この檳榔子は奈良時代の日本にも薬種として輸入された記録がある。つまり、ペナン島と呼ぶのはかつてはこの島が檳榔子の重要な産地だったことの名残なのだ。
  
 私の好きな「お寺さんの花」をまず見てくださいとスメンタさんが真っ先に連れて行ってくれたのはジョージタウンの北にある寝釈迦仏寺であった。頬杖をついて横たわる金箔の仏像は30m以上もあり、タイやミャンマーのそれに次ぐものだという。

 彼女が好きなその花木は芳香を放つ純白の花房をつけて、境内の一隅にひっそりと茂っていた。

 キョウチクトウ科の白花印度素馨(シロバナインドソケイ=プルメリア Plumeria obtusa)だった。和名からは原産地が印度だと考えがちであるし、また印度でもごく普通に見られる木ではあるが、実際はメキシコからカリブ海域がこの植物の故郷である。
 シロバナインドソケイは西欧では普通フランジパーニ(frangipani)と呼ばれるが、この名は12世紀に初めて揮発性の香水を調合したイタリア人に因んだものである。16世紀にカリブ諸島に入植したラテン系の人々は、そこでメディチ家の貴婦人方にこよなく愛でられた、かのフランジパーニの香水にそっくりの香りを放つ花木に出遭った。
 やがて誰いうとなく、この花はフランジパーニと呼ばれるようになったのである。

 ラテンアメリカ生まれのこの花木が、いつ誰によって東南アジアへ持ち込まれたのかは定かではないが、ヨーロッパの列強による植民地化と並行して広まったのであろう。
 庭園を飾る花としか見ていなかったキリスト教徒と違って、仏教徒たちは引き抜いて放置しておいても葉を広げ花まで咲かせるこの木を永遠の生命の象徴と考えて墓地や寺院に植え広めた。
 「お寺さんの花」と親しみを込めて呼ばれる所以である。
 スメンタさんが言うには、マレーシアでは葬式の花輪に使い、お隣のタイではこの花をラントムと呼び、これが嘆き(ラトム)を連想させるからといって嫌う人がいるそうだ。日本でヒガンバナを嫌う人の思いと似ていて面白い。一方ポリネシアの人たちのように全くタブー視せず、歓迎のレイや耳飾に使う人たちもいる。
 原産地ではこの木をスクウバと呼び、アルカロイドを含む乳白色の樹液を皮膚の炎症の治療に使うが、マレーシアでは幹や根の皮を下痢止めや利尿薬として利用することがあるそうだ。

 スメンタさんの説明を耳に、ファインダーの中の、望遠レンズで拡大された白く輝く花に見ほれていると、燐光を放つ小さな蝶が視界をよぎった。

 「次はタンジョン・ブンガ(花岬)の火炎樹Delonix regia) の並木をお見せしましょう」

 彼女のいざなう声が、なぜか遠くに聞こえた。

3) サバンナの奇樹、バオバブ 

 東から西へとサバンナを悠然と流れるヌエベ河を眼下にして飛び続けていたコバ・エアラインの双発機が唐突に高度を落とし始めた。身体が浮いて少し不安を覚えるような急降下だった。
 ナイジェリアの首都ラゴスの郊外にある、熱帯雨林に囲まれたイケジャ空港を発って、すでに3時間が経過していた。カメルーンとの国境に近い目的の町、フラニ州のヨーラに到着したのだろう。
 窓外の景色に気をとられている私に、隣席の青年が「あの山がフォーゲル・ピークだよ。シェブシ山系の最高峰さ」と教えてくれる。日本人は珍しいそうでいろいろと訊ねられたが、バオバブを見に来たのだというと肩をすくめて首を降った。わざわざバオバブなどを眺めにやってきた黄色い肌の小男を変人と思ったに違いない。いや、ひょっとしたら、サバンナの精霊キンキルシにとりつかれた奴か、と疑っていたのかも知れない。

 バオバブ! この一たび聞いただけで奇妙に耳に残る名を持つ巨樹(Adansonia digitata)はアフリカのサバンナの名物である。
 樹高20mを越すものも少なくないが、その幹がまた異様に太い。そのため乾季に葉を落とした姿は掘り起こされ根を上にして放置された巨大な切り株のように見える。
 だが、一たび雷光がはためき雨季が始まれば、やや厚みにある6枚の小葉が矢車状に集まった、艶やかな若葉が萌え出す。
 土地の人々は待ちかねたようにこの葉を摘みスープの具にする。ビタミンCやミネラルに富むとともに独特の苦味とぬめりがあって食欲増進に役立つそうだ。余ったものは乾燥させて保存し、必要に応じて粉にして食べるという。薬種としても使われ、発汗・去痰などに効果があるらしい。かのリビングストン博士も無痛性腫瘍に苦しんだとき、バオバブの葉の粉末を練った湿布で救われたと『ザンベジ河とその支流』に記している。
左図-引用: G.E.Wickens:The Baobab, Africa's Upside-Down Tree, Kew Bull. 37 No.2 (1982)

 また、毒矢を使ってしとめた獲物の生肉にはバオバブの樹皮の絞り汁をかけることによって残存する毒が中和されると信じられている。

 やがて雨季たけなわともなれば、枝先に茂った葉の間から垂れ下がる花柄の先に、直径20cmほどの純白の蝋細工のような花が、いくつもいくつも、まるでシャンデリアのように咲き始める。
 はちきれそうに膨らんだ蕾(1)は夕闇が迫るころほころび始め(2)、夜明け前には開ききる。このとき、夜露にしっとりとぬれた花びらは、羽ばたくように反り返る(3)。だが、日が高くなるにつれて萎えてゆき(4)、次の蕾が開き始める日暮れにはすっかりしおれてしまう(5)。
 人間が深い眠りに落ちているとき、この美しい花を楽しむのは荒野に住む精霊と夜行性の動物たちである。花の蜜をもらい受粉を手伝うのは主にコウモリだが、中央アフリカでは原猿類ギャラゴの1種のブッシュベイビーと呼ばれる小さなサルも一役買っている。

引用: G.E. Wickens; The Baobab, Africa's Upside-Down Tree, Kew Bull. 37,2 (1982)
 バオバブという名は西欧での呼称だが、これはアラビア語の”ブー・フブーブ”に由来するとの説がある。このアラビア語の意味は「種がたくさんあるもの」で、長さ25cm前後のビロードのような手触りの果実に固い種子がぎっしりと詰まっていることを指しているのだろう。
 また、”死んだ鼠の木”という名で呼ぶのは、長い花柄の先に下がった細かな毛で覆われた楕円体の果実の様子が、死んだ鼠の尻尾をつまんで吊り下げたようにみえるからというのである。ちなみに、ディズニーのライオンキングの中のバオバブは”Tree of Life、生命の木”である。

 ある日、村はずれの巨木の下で瘤牛をつれた涼やかなまなざしのフラニ族の少年と仲良しになった。彼は私が木の周りをきょろきょろ見回しているその目的を直ぐに察知して、草の茂みに隠れていたバオバブの幼木を見つけ出してくれた。それは親木とは似ても似つかぬ切れ込みのない単葉を互生させている、頼りなげなひょろひょろりとした姿であった。

 熱風がサバンナを流れていった。

 西アフリカのサバンナに住むモシ族の人たちは彼らの居住区域をイリと呼び、荒野をウェゴウと呼ぶ。ウェゴウは野獣と精霊の住処である。
 このウェゴウを根城とする精霊たちの中にキンキルシという一族がいて、時々イリに生えているバオバブの大木に遊びに来るという。枝に座っていたキンキルシを確かに見たと主張してやまない人もいた。
 
 そのキンキルシだろうか?
 バオバブの灰色の幹に溶け込んで、私を見下ろしているは・・・・(^_^;)

 貴方にもキンキルシが見えますか?
 

4)  バンクスに見いだされた花

 1770年4月28日、若き日のジョセフ・バンクスやリンネの弟子のソランデルたちを乗せた、キャプテン・クックの率いるエンデバー号は、タスマン海の大波に打ち寄せられるようにして、いま私たちがオーストラリアと呼んでいる大陸の東海岸のとある入江に錨を下ろした。

シドニー近郊のボタニーベイ Botany Bay、NSW 上陸地点にある記念碑

 胸弾ませて上陸したバンクスとソランデルは、そこに見たこともない奇妙な、それでいて美しいあまたの植物を発見して狂喜した。浜辺にキャンプした彼らは、来る日も来る日も採集と標本作りに明け暮れた。
 そんな様子を見ていたクック船長は、後にこの地をボタニーベイ(Botany Bay、植物学の入江)と命名している。

 最近は日本のフラワー・ショップでもよく見かけるようになったバンクシアもこの上陸で発見された植物の一つである。
 バンクスに因んでバンクシア(Banksia)という属にまとめられたこの植物はヤマモガシ科の一員で、現時点では75分類群が知られているがその80%が西オーストラリアに分布してる。ただ1種、ニューギニアまで分布を広げているデンタータ・バンクシア(B. dentata)を除けば、すべてがオーストラリアの固有種である。
 ユーカリほどではないにしても、オーストラリアではごくありふれた植物なので、シドニーなどの郊外でも容易に野生のものと出会うことができる。
 

 例えば、先年の5月中旬に訪れた晩秋のブルーマウンテンの山道では3種を観察することができた。その内の1種、ヒースリーブド・バンクシア(B. ericifolia)はその名が示すようにツツジ科のヒースのそれとよく似た細い葉を密生させていて、花がついていなければ針葉樹のようにも見える。
 ニューサウスウエルズ州のフォークスバリー砂岩地帯に生えていて、秋から早春にわたって1000個ほどの赤橙色の小花が穂状に集まって咲く。すると、何処からともなく、小鼠のような姿をした有袋類の1種のピグミーオポッサムが蜜をなめにやってきて、ついでに花粉を運んでくれる。
 こうして花時は過ぎるが、鉤のように曲がった硬い雌蕊がいつまでも残って、花穂は瓶ブラッシのような姿となる。

 やがて、果実が成熟するころになると、かつての花穂はたいへん奇妙な姿に変身する。
 言葉でその姿かたちを説明するのは至難な業だが、あえていえば「剛毛で覆われた棍棒にニ枚貝を隙間なく埋め込んだようなもの」とでもいおうか。しかもその形態は種ごとに微妙な違いがある。
 さらに面白いことには、果実はブッシュファイヤーと呼ばれる野火にあぶられると、ぱくりと口を開いて、膜質の翼のある種子をこぼすのである。別の言い方をすれば、野火が起こらなければ子孫を増やすことができないのである。

 235年前の秋の日、期待に胸膨らませて上陸したバンクスたちが、海食崖の上に広がる疎林の中で最初に採集したのはこのヒースリーブド・バンクシアだったという。そしてそのときの標本は今もロンドンの大英博物館に保管されている。
スカーレット・バンクシア(B. coccinea) テロペア(Telopea speciosissima)

 ところで、バンクシアのなかで一番美しいといわれるのは西オーストラリア州の南海岸に生えているスカーレット・バンクシア(B. coccinea)で、長く突き出ている無数の真紅のオシベが印象的である。自生地に因んだオールバニーバンクシアの名もあるが、先住民のアボリジニーたちはワラタと呼んでいた。
 彼らはまたニューサウスウエールズの州花のテロペア(Telopea speciosissima)もワラタと呼ぶ。こちらも真紅のよく目立つ花でアある。つまりワラタとは「遠くから見えるもの」のことである。

 探検船エンデバー号が世界周航のたびを終えて英国に戻ったのは、翌年の6月12日のことであった。このとき、バンクスたちが持ち帰った標本は3000点を越していた。

5) インカの聖花

 深く潜水しすぎた私は空気を求めてもがいていた。だが水面はまるで天空のように遠く、酸素を使い果たした肺が悲鳴をあげ、そこで私は目覚めた。
 標高4000mに近い、ボリビアの事実上の首都ラパスのアセル通りに面したシェラトンホテル12階のベッドの上であった。高地の希薄な大気といささか過ごしたピスコサワーのなせるわざであった。
 これも一種の高山病なのかと、眠れぬままに昨日のことを思い返していた。

 
ピューマの姿に譬えられるチチカカ湖 ラパスのエル・アルト空港
(日本のODAで近代化が進められている)

 ペルーはリマのホルヘ・チャベス国際空港を離陸したDC10は太平洋沿岸に沿ってアタカマ砂漠の高みを南下した後、東に向きを変えオクシデンタル山脈を越えてアルティプラノの上空に入る。
 眼下に広がる灰赤褐色の世界はまるで月面のように生き物の気配がまったく感じられない。しかし目を凝らすと侵食の進んだ山々の間をかぼそく川が流れ、今にも消えてしまいそうな薄緑の植生の帯がそれを縁どっている。そして、荒涼とした山肌を糸のように細い道が気の遠くなるようなうねりを見せて視界の彼方へと続いていた。
 やがてチチカカ湖の巨大な湖面が視野に入ると、DC10は高度を下げ始めた。岸辺の緑はトトラの茂みだろうか。
 舞い降りるコンドルのように、拾い集めた石礫の小山が丸い模様を描くインディオの耕作地をかすめて着陸した空港は、標高4050mという世界一の高みにあるアエロプエルト・エル・アルトであった。
 タラップを降りると軽く眩暈を覚え、反射的に深呼吸をしていた。軽やかな、日本の晩秋のそれよりもさらに爽やかな風が通り過ぎていった。風圧を感じさせない不思議な風であった。
 ボリビアでの花追いの旅の始まりであった。


まずは独立戦争の英雄、ムリーリョの像の立つ広場で目にしたカントゥータを紹介しよう。

 カントゥータ(Cantua buxifolia)はハナシノブ科の常緑性低木で、ペルーからボリビアとチリ北部にかけてのアンデス山地に自生している。
 10cmほどの筒状の花は赤紫色で、その姿は赤いスカートを着けて踊る歌姫に譬えられる。またボリビアの緑・黄・赤3色の国旗はこの花に擬えたものだと聞いた。
 手折ったカントゥータの小枝を手にしたインディオの娘さんがいたので、ケチュア語の話せるベハラーノさんに通訳してもらってあれこれと訊ねて見た。彼女によれば、カントゥータは”インディオの聖なる花」とも呼ばれるが、それはこの花の色が太陽の神に捧げる生贄の血の色と同じだからだそうだ。赤い花は他にもあるのになぜこれだけが聖なる花なのかと聞くと、そんなこと知らないわ、とご機嫌斜めになってしまった。
Plaza Murillo Cantua buxifolia
  
 リャーマの群れが遊ぶ、標高4600mのクンブレ峠を越えて訪れたアマゾン河源流のユンガス渓谷にある静かな美しいコロイコ村で出会ったツルコバエアの優雅な花も忘れ難い。

 コロイコはインディオとメスティーソとアフリカ系の人々が渾然と静に暮らす村である。みな信心深いのであろう、立派な教会があり、祈りの声が聞こえてくる。バナナやコーヒーが無造作に栽培されている畑のなかでは、下草のように茂ったアフリカホウセンカが色とりどりの花を咲かせ、路傍では子供たちが独楽遊びに興じ、子羊の長く垂れた尾に子猫がじゃれついていた。

 ツルコバエア(Cobaea scandens)はカントゥータと同じハナシノブ科(研究者によってはコバエア科として区別する)の蔓草である。
 コロイコで出合ったそのときは何の仲間か皆目見当がつかなかったが、ハナシノブ科だとは思いもしなかった。ボリビアに自生する花と思い込んだのだったが、帰国後に調べてみて原産地はメキシコで、1787年にはすでにヨーロッパへ導入されていることを知った。
  コバエアという名は17世紀の初めににメキシコとペルーで働いたイエズス会伝道師 Bernabe Cobo に因んだものというから、コロイコのツルコバエアも教会関係の人によって持ち込まれたものが野生化したのかもしれない。  
 
ツルコバエア ホテル・プレフェクトラル・コロイコ


 咲き始めの花は緑色で悪臭を放つが、咲ききれば美しい紫色になり悪臭も消える。主な花粉媒介者は植物食のコウモリ(Phyllostomidae)で鳥や昆虫はほとんど訪花しないそうだ。
 一年草だが生長が早く、環境がよければ枝先に発達する巻き髭で背の高い樹木に取り付いて8mもの高さまで攀じ登っていくと報告されている。

 コロイコは夜の世界もすばらしかった。富士山頂にいるようなラパスと違って標高1800mの熱帯のしっとりとした空気は甘く、闇を漂う名も知れぬ花の香りのなかで飲むビールは蜜のようだった。原猿類のヨザルのそれだという、小鳥の囀りの様な声が夜のしじまを破る。近くの茂みでは飛行機の翼の先のフラッシュライトのように無数の白い光が点滅している。ホタルだという。仰げば見知らぬ星々が瞬いていた。

 

6)  密林の翡翠の勾玉


 3月下旬のジャワ島は雨季から乾季への移行期で、さまざまな熱帯の果物が楽しめるが、とりわけ出盛りのマンゴスチンがすばらしい。

 ボゴール植物園の南の入り口があるオットー・イスカンダール・ダイナータ通りにもマンゴスチンを売る露天が軒を連ねている。スズランテープで4個ずつ、蔕(へた)の部分をたくみに縛ったものを、45度の角度でずらしながら、きっちりと5段に重ねて一房にまとめたものを積み上げたり吊るしたりしてある。

 ねっとりとしたドリアンの異臭と、あくことなき土産物売りの呼び声と、絶え間なく響くクラクションのなかを人々は流れてゆく。
:ドリアン 中手前:サーサック :マンゴスチン
 叙事詩リグ・ベーダの一節を表しているであろうか、像の姿をした知恵の神ガネーシャを中心に学芸の女神サラスバティーと思われる豊満な女体とさまざまな動物たちが浮き彫りになっている石の門柱の立つ入り口から植物園内に入ると、右手には板根がみごとに発達したフタバガキ科の森が広がり、左手には古びてはいるが落ち着いたたたずまいの研究棟やゲストハウスなどが並んでいる。

 私はここで、憧れのヒスイカズラStrongylodon macrobotrys) の花をはじめて見ることができた。
 図鑑で見て想像していたとおりの、いやそれ以上の筆舌に尽くしがたいといってよいほどの美しさであった。夜間に吸蜜に訪れたコウモリの狼藉の跡か、地表に点々と散ったあえかな青碧色をした4cmほどの蕾を手のひらにそっと載せてみると、それはまさしく翡翠の勾玉と見まごうばかりであった。
 頭上でゆったりと揺れる重たげな花房は、古墳から発掘され、永の眠りから目覚めた、数え切れないほどの数の翡翠の勾玉を、ていねいに連ねたアールヌーボーのアートのようにも思えた。

 ヒスイカズラはフィリピンのルソン島のロス・バーニョスで発見され、Asa Gray により記載されたマメ科の蔓植物である。ヒスイカズラ(Jade Vine)という通称もGrayが付けたものである。
 熱帯降雨林の高木によじ登り、大きな古株ともなれば20mもの高みに長さ2mほどにもなる花穂が、シャンデリアよろしく垂れ下がる。一つ一つの花は長さ5cm前後で、見る人によってはトルコスリッパのようだという。また、熱帯の珊瑚礁の海の色に染まったカヌーを連想する人もいる。
 いずれにしろ、見上げる首が痛くなるほどの頭上で、木漏れ日にぬれて輝く翡翠色の花房は人を魅了して止まない。
ヒスイカズラの落花 花の解剖図: A-縦断面図 G-柱頭 D-舟弁+翼弁 E-旗弁
引用:Huang, S-F. ; Strongylodon, a revision of the genus.W.A.U.Press 90-8 (1991)

 ヒスイカズラと同じストロンギロドン属に分類される植物は12種が知られていて、マダガスカルからインド洋のレユニオン、セレベス、ニューギニア、タヒチ、ハワイなどのに分布している。
 この属が最初に発見されたのはハワイのオアフ島で、ストロンギロドン・ルキドゥスと命名された。1836年のことである。その花は”紅玉葛”と呼びたいほどの真紅である。しかしハワイの人たちはこの植物をヌクイウィ(Nukuiwi)と呼ぶ。ヌクは嘴を意味し、イウィはこの島に住む曲がった嘴の真っ赤な小鳥のことである。また、この植物の強靭な蔓は島に育った子供たちのブランコ遊びに欠かせないものだったというが、近年は保護林の中でさえ出会うことが難しくなってしまった。

 美しい植物ゆえ、ヒスイカズラは世界各地の植物園や庭園で栽培が試みられ、日本でもいくつかの植物園の温室でそのみごとな花を見ることができるようになった。
 例えば、東京大学付属小石川植物園のヒスイカズラは昭和54年の冬に千代田化工社長の玉置明善さんがシンガポールから取り寄せたものという。当時この植物園でさまざまな外来種の世話をされていた下園文雄さんは原産地での花粉媒介者であるコウモリに代わって自家受粉を試み、種子を採ることに成功した。その10粒ほどの種子は蒔くと直ぐに発芽して”ジャックと豆の木”のマメのように瞬く間に生長したそうだ。

 7)  ヨーロッパの森の神

 ベルリンを象徴する建造物の一つであるブランデンブルグ門を境にして「シナノキの木陰通り Unter Den Linden」と呼び名が変わる「6月17日通り Str. Des 17 Juni」の南側にはティアーガルテン (Thiergarten)と呼ばれる広大な都市林がある。選帝侯たちの狩猟場だったというその林内にはシュプレー川が作った三日月湖が連なり、さまざまな木や草が茂っている。
 北海に生まれエルベ川に沿って渡ってくるという北ドイツ平原の秋風に誘われて森に入ると、林床にはセイヨウダイコンソウやヒエンソウの仲間が咲き乱れ、藪に絡んだニオイニンドウはルビーのような実を木漏れ日にきらめかせていた。
 そんな林の中で、視野を遮るほどに茂ったヨーロッパブナ(Fagus sylvatica)の巨木に出遭った。それは私の知っている日本のブナのような柔らかな明るい緑色ではなく、紫がかった古びた銅を思わせる重厚な葉叢であった。風が通り過ぎてその葉叢が揺らめいたとき、なぜか私は唐突に、この木の向こうには遠い過去へと人々をいざなう時の扉があるのではないかと思った。扉を開けば、ヨーロッパ黎明期のあの原初の森が広がっているような気がした。 
  古代の中央ヨーロッパはブナの極相林で被われていたと考えられている。ガリアからライン川を渡ってゲルマニアに入ったシーザーに「この森はどこまで続いているのか」と問われた土地の男が「二ヶ月かけて歩いてもまだ森だ」と答えたというほど、当時の森は広大だった。
 古代の人々にとって、こうした大きな森は恐ろしい敵であると同時に畏れ多い超越者であり崇拝すべきものであった。そして、そのような森の中で、ひときは大きくその姿が美しいブナの巨木は神の化身とみなされていた。このためヨーロッパにはブナにまつわる神話や俗信が数多く伝えられている。
 例えば北ドイツのメクレンブルクのライトフルには、昔から数多くの人々の病を癒してきたというブナの古木がある。太い幹の一部に穴が開いていて、病人がこれを潜り抜けると健康をとりもどすというのである。

 ブナはまた豊穣多産のシンボルでもあり、あちこちに”子授けの木”があった。「ブナの実がたくさんできる年には私生児もたくさん生まれる」とか「ブナの木の盥で湯浴みした少女はやがて男狂いする」などの言い伝えもあった。

  ラテン語ではブナのことをファグスというが、これはギリシャ語のファゴ(食べる)に由来している。つまり、ブナの実が人や家畜や森の獣たちにとってだいじな食糧だったことを意味している。これが豊穣多産のイメージを生んだのである。
 ブナは文化の伝播にも一役かってきた。
 ヨーロッパでは、文字は元来羊皮紙に記していたが、かなり高価なものであった。そのためこれに代わるものが求められ、ブナの木が利用されるようになった。ブナの材は白いので、これを薄い板に加工し、いわゆる木簡として使った。というわけで、ドイツ語のブナの呼び名のブッヒェンが本を意味するブッフとなった。

  ヨーロッパのほかにブナの仲間が分布しているのは北米東部と極東の一部に限られている。
 日本にもイヌブナとホンブナの2種があり、青森県の白神山地のブナの純林は世界一の規模である。
 また遺跡からも推測されるように、狩猟採集生活をしていた縄文時代の人々にとっては、ブナは食糧や用材として重要な存在であった。
 ところが日本ではヨーロッパに比べるとこの木にまつわる神話や俗信ははなはだ乏しい。
 縄文時代末期に新たに大陸から西国に伝わり東へと伝播していったブナを知らない暖帯生まれの稲作民族の文化に飲み込まれ忘れ去られてしまったのであろうか。


 ティアガルテンが途切れるとその向こうはブランデンブルグ門である。6本の柱に支えられた門を潜ってウンター・デル・リンデン通りに入ると、なぜか急に風が強くなり、両側に長く連なるセイヨウシナノキ(リンデン、菩提樹; Tilia europaea) がざわめき、銀色の葉裏がひるがえった。
 そのリンデンの木陰にはテーブルと椅子が置かれ、人々が楽しげにビールのジョッキを傾けつつ談笑していた。
 そこで、ブナの巨木が放つ不思議な精気から開放された私も、ブナの木の根元で瞑想しブナの木を刳った酒盃を傾けたというギリシャの雄弁家パッセニュウス・クリスプスを真似て、ブナの木ならぬリンデンの下で酒神バッカスと語らうことにした。

 8) 西双版納(シーサンバンナ)で出逢った花々

 早朝に思茅(しーまお)の宿を発った4輪駆動車が昼少し前に大開河(たーかいへ)の村落を通過する。
 憧れの秘境、雲南省西双版納自治区に入ったのだ。青々とした水田と水牛と、そしてアブラヤシの並木が続く。
 
 バッシャ!
 検問でスピードを落とした車の助手席の窓から勢いよく水しぶきが飛び込んできて、メモを取っていた手帳もろとも全身ずぶぬれになる。
 いったい何が起こったのか?驚きのあまり茫然自失する。
 だがにぎやかな口笛と弾けるような若々しい笑い声に吾に返ると、プラスチック製のバケツや洗面器を手にした青年たちと艶やかな民族衣装をまとったタイ族の娘さんたちが道に沿って並び、にこやかに手を振っていた。
森で出会った娘さんたち 曼飛龍の仏塔 潑水節ではしゃぐ若者たち


 「しまった、今日から潑水節(ぽーしゅいちー)だった」
 運転手の陳さんが大声を上げて急いで窓を閉じた。飛び込んできた水しぶきは歓迎の挨拶であった。潑水節というのはタイ族の正月行事の一つで、一般には”水掛け祭り”の名で知られている。それはまことに開放的な祭りで、誰彼かまわず水を掛け合って大騒ぎをするのだ。たっぷりと水を含んだ薄衣の下に娘たちのボディーラインが浮かび上がり、熱帯の光の中で人々は幸せそうに笑う。
 私はこの憧れの地で、熱帯植物研究所の李保貴先生に助けられ、たくさんの珍奇な植物を見ることができた。


  なかでもとりわけて私が気に入ったのは純白に近い大輪の花を咲かせる八宝樹(ぱーぽうすぅDuabanga grandiflora)である。
 野生のアジアゾウや電柱ほどもあるニシキヘビが現れることもあるという森で野営したときのことである。
 漆黒の闇の中で「ヒ、ヒ、ヒ・・・」と鳴きつづけていた雲南河鹿の声が止み夜が白むと、乳色の霧が立ち込めていた。どこからかドリアンのそれに似てはいるが不快感のない香りが漂ってきた。
 その香りに引かれて薄明の森を辿ると、無数の花を咲かせた背の高い八宝樹が待っていた。振り仰いだ枝先に重たげに咲く白い大きな花は、まるで夜明けの濃い霧がそこに凝集したかのようであった。

 「これはハマザクロ科(Sonneratiaceae)の1種で、ミャンマーから雲南省南部の山岳地帯に分布しています。大きな株は樹高が40mにもなりますよ。果実はかなり酸味が強いですが食べられますし、材が硬いので家を建てたり道具を作ったりできるとても役に立つ木です。だから八宝樹と呼ぶのです」
 一生懸命に説明してくれた李先生もきっとこの樹が好きなのだろう。

 この森で出合った黄梔子(ふぁんちーず Gardenia sootepense)も忘れ難い。名前のとおり梔子(クチナシ)の仲間だが樹高10mを越す大木に育つ。乾季でほとんどの葉を落としてしまった枝々に直径が6cmばかりの花をたくさん咲かせていた。咲き初めは純白だが、間もなく黄変する。甘い優しい香りがした。
 水掛け祭りの翌日には、若い男女が20mほどの間隔で向き合って、娘たちがキャーキャー騒ぎながら紐をつけたお手玉のようなものをお目当ての青年に向かって投げる、擲包(ちゅーぱお)という明るい求愛儀式のようなことが行われていたが、その娘さんたちがこの花を髪に飾っていた。なんという花なの?と聞くと、ゲムーだと教えてくれた。
黄梔子(ふぁんちーず Gardenia sootepense 黒苳葉(へんとういえTacca shantrieri


 チノー族の村落に近い大きな谷の奥では、花茎の先端に紫褐色の花と長く垂れ下がる糸状に変形した苞とをたくさんつけた、いささか異様な姿のタシロイモ科(Taccaceae)の黒苳葉(へんとういえTacca shantrieri)を見た。
 この植物はかつてはアフリカからインド、そして太平洋諸島にかけてコンニャクに似た地下茎からデンプンを採取する目的で広く栽培されていたタシロイモ(T. leontopetaloides)の仲間だが、地下茎は肥大しない。中国では薬用植物として珍重していて、消化器官の潰瘍、肝炎、高血圧などに効く成分が含まれているという。
 花の姿が面白いということで、いまではあちこちの温室で栽培されていて、英語圏では”Tiger Whisker 虎の髭”と呼んでいる。タイ族の人たちの呼び名はミーフォーワだと李先生が教えてくれた。

 9) チリ、思い出の花々

 サンタルチアの丘の麓に建つモンテカルロは瀟洒なホテルだった。ひょんなことから最上階のスウィートルームに滞在することになったが、その東に面した大きな窓は、万年雪をいただいたアンデスの山並みを背景にしてサンチアゴの市街を描いた一幅の絵のようであった。
 日が沈むころともなれば、6000mを越すコルディエラのなかでもひときは美しいエルプロモの峰が、一瞬血の色に染まって、やがて闇に溶け込んでいった。

 長かったチリでの”花の旅”も明日で終わる。陽気で親切だったチレーナと春風にゆられ心地よげに咲いていた妖精の化身であろう美しい花々が、荷造りをはじめた私の脳裏を走馬灯の絵のようによぎっていった。
サンチアゴの市街とアンデスの山並み サンタルチアの丘


{12月4日}

 セニョール・オキノの案内で、アルゼンチンとの国境にあるポルティーヨ峠直下に翡翠色の水をたたえるラゴ・デル・インカ(インカの湖)を訪ねた。
 サンチアゴからしばらく北に向かい、ロス・アンデスの町で左折してアコンカグア河に沿って東へ進む。
 リオ・ブランコを過ぎると、激しく流れ下る雪解け水に削られる谷はまるで大地を切り裂いたかのように深く狭まる。
 ビーグル号での旅の途中、11頭のラバと二人の従者を伴ってポルティーヨの峠を越えたチャールス・ダーウィンもこの道を辿ったのであろうか。



インカの湖 Lago del Inca, ca.3000m alt. マリポッサ・デル・カンポ Alstroemeria pulchra


 この峠越えの道で、わたしはさまざまなアンデスの花とであった。
 その一つのアルストロエメリア・プルクラは太陽に向かって手を差しのべる踊子を連想させたが、チリの人たちはマリポッサ・デル・カンポ(野辺の胡蝶)と呼ぶ。なるほどそういわれてみれば蝶のようにも見える。
 一見ユリに似ているが、鱗茎(いわゆる百合根)は作らず、サツマイモのように根が肥大している。子房の位置はスイセンのように下位である。したがって昔は分類学者によってはユリ科に入れたりヒガンバナ科に置いたりしていたが、最近の遺伝子の比較に基づいた研究ではヒガンバナ科とは縁遠く、ユリ科、ことにエンレイソウ科に近いアルストロエメリア科という独立した科に分類されている。
 根には多量のデンプンが含まれているので、昔から食用されていて”コンセプシオンのジャガイモ”の名で市場に並ぶこともあるそうだ。

 花の美しい植物なので、1800年代の初頭までにはいくつかの種がヨーロッパへ持ち込まれ栽培されていた。とくにオランダでは交配によりさまざまな品種が作出されている。近年は日本でも盛んに栽培されフラワ-ショップでよく目にするようになっている。
 ちなみに、アルストロエメリアという属名はリンネが友人の Clas Alstroemer 男爵に因んでつけたものである。


{11月15日}
 プジェウエ湖畔のホテル・テルマスを早朝に発って、標高1990mのカサブランカ火山に登る。
 沢沿いの山道には金色の飾りボタンのような花をつけたフジウツギ科のマティコ(Buddleja globosa) が咲いていた。
 「これは有名な薬草よ。切り傷につけるけど、胃潰瘍にも効くの。コーヒーの代用にもなるわ」 スサーナが得意げに教えてくれた。

マティコ カネロ Drimys winteri

 出合いたいと願っていたカネロの白い花をカメラに収めることができたのも、このカサブランカ火山の中腹の森の中だった。
 カネロは中南米、オーストラリア、ニューカレドニア、マレイシアにわたって9種が知られているドゥリミス属(Drimys、苦いという意味のギリシャ語に由来する属名)の1種で中米から南米大陸最南端のフェゴ島にまで分布している。一見は、日本のシキミに似た常緑樹であるが、コショウやウマノスズクサなどと共通の祖先から進化してきた植物でウインテラ科(Winteraceae)に分類されている。
 カネロの学名はドゥリミス・ウインテリーだが、これは16世紀末にドレーク提督に率いられてエリザベス号で世界周航を果たしたJ. ウインター船長に因んだものである。
 当時外洋に出る船乗りたちにとっての最大に悩みは壊血病であったが、ウインター船長はマゼラン海峡で採集したカネロの樹皮がこの病にたいして劇的な効力をもつことを発見したのである。

 写真を撮り終えて、ふと我にかえると、ナンキョクブナ特有の蜜のような香りの漂う山気の中を、かすかな羽音をたててハナアブが飛び交っていた。
  

  

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