AI

”藍”の名のつく植物
                         Dye Plants pass under the name of Ai

 自然は綺(いろえ)に満ちている。空の色、水の色、土の色、そしてそのなかに鳥獣花鳥の華やぎがある。
 だがこうした多彩な自然の中で、何故か裸のサルだけは情けないほどに色際(いろきわ)が単調である。たぶんその所為だと思う。裸のサルである人類は、裸身に顔料を塗り、髪を染め、色とりどりの装身具を身につける。
 それは精霊との交わり、あるいは呪術や魔除けのためと説明されはするが、その奥には生物としての同種内の他個体に対する自己顕示欲と色彩豊かなものへの変身願望が潜在しているのであろう。

 植物がもっている色素は、この裸のサルの願望をかなえてくれるものの一つである。
 植物性染料はいつの頃から使われるようになったのか。確かなことはわからない。だが、モスクワの東方約200Kmに位置するスンギルに、25,000年ほど前に生活していた、毛皮をまとい骨製のビーズや腕輪をつけたマンモスハンターたちには無縁のものであったろう。植物性の染料は、どちらかというと、皮や骨の染色にはむかないからである。とはいえ、決して彼らクロマニヨン人たちが色彩感覚に乏しかったわけではない。いくつもの洞穴壁画から知られるように、鉱物性の顔料をふんだんに使っているからである。

 一万年ほど前に農耕文明が興り人々の定住が始まると、狩猟時代に比べはるかに多種類の植物が生活に取り込まれた。
 例えばイスラエルのナハルヘマルの洞穴から9000年前の麻布が発見されたように、植物繊維を使った布織りが行われるようになる。植物性染料の利用もまたここに始まったとみていいだろう。白い布を美しく染め上げるためには水溶性でしかも定着性のある染料を必要としたからである。もちろん漂白や媒染の技術も並行して発達したことだろう。
 ヨーロッパや中近東では遥か古代からモクセイソウ科のウエルド(Weld: Reseda luteola: 先史時代のスイス杭上居住址からも発見されている) による黄染めやアブラナ科のタイセイ(Woad: Isatis indigotica)による藍染めが行われていたが、古代の日本ではどうだったのだろう。

 日本の染料植物についての最初のまとまった記録は『延喜式』にあり、その「縫殿寮雑染用度条」には黄櫨(はじ=ヤマハゼ)、蘇芳(すおう)、紅花、紫草、茜草、梔子(くちなし)、藍、橡(つるばみ=クヌギ)、黄蘗(きはだ)、刈安の名が見える。また断片的ではあるが『古事記』『風土記』『万葉集』や正倉院御物などからも古代日本人が利用した染料植物を知ることができるのである。

 その結果、当時すでに50種を超す植物が利用されていたと推定されているが、ここではそのうちで”藍”の名のつく植物について記すことにする。


<呉藍> くれない


 くれない、つまりベニバナ(Calthamus tinctorius) はキク科カルサムス属の1種で花から紅色色素カルサミンや黄色色素サフロール・イエローを抽出したり、種子からリノーサラダ油(サフラワー油)を搾るために世界各地で栽培されているが、その原産地はよく分かっていない。だが近縁種のオクシカンサス・ベニバナ(C. oxycanthus)が野生する中央アジアをその地と推測する学者が多い。


 かつての日本の女性がつけたベニバナの頬紅や口紅も、変身願望の充足というだけでなく、ティーカと同様の意味をもっていたに違いない。

 この植物の栽培が始まったのは先史時代のことと思われるが、古代エジプトのミイラを包んだ布にベニバナ染のものが発見されていて、染料植物としての歴史の古さが示唆される。
 中国へはシルクロードを経由して紀元前2世紀ころに伝播した。それは漢の張騫が西域から持ち帰った種子であったという。

  ミイラの包布がベニバナで染められていたことからもわかるように、その色素には殺菌防腐の効力があり、昔から皮膚病の治療に利用していた。

 ヒンドゥー教徒が、まじないとしてこの花を乾燥させて砕いた粉末で額に点描するティーカもこの薬効と無縁ではないだろう。
 この植物が日本に渡来したのは『古事記』によれば5世紀の初頭の仁徳帝のころであるが、『万葉集』にも見るように”くれない”と呼ばれ「久礼奈為」「呉藍」「紅」と用字された。大陸の呉から渡ってきた藍という意味である。

 日本でのベニバナ栽培はその後次第に発展し、江戸時代にその最盛期を迎える。
 江戸時代のベニバナ産地として名高いのは、曾良とともに元禄2年の夏の奥州路をゆく芭蕉が、立石寺詣での道すがら「まゆはきを俤にして紅粉に花」の句を残した、出羽は山形の漆山の里であった。
 かつて古老たちは「紅花は川霧のかかる所へよく育った」と語ったが、山形盆地の中央を立谷川、馬見ヶ崎川、寒河江川など、幾本もの支流を集めて酒田へと流れ下る最上川の流域は、まさに川霧の立つ紅花栽培に最適の土地であった。

 花は朝霧が消えぬ間に、そして葉刺が柔らかなうちに、競って摘まれた。
 その頃、千歳山に登れば盆地一面に咲き広がる橙黄色のベニバナ畑が望まれたと伝えられている。東根出身の幕末の絵師、青山永耕が描く六曲一双の『紅花屏風』には、当時の紅花の採り入れから花餅作り、そして出荷と取引の様子などが活写されている。

 しかし、明治、大正、昭和と時代が移るにつれ、科学染料の発達と農業構造の変化によりベニバナ栽培は衰退した。いまやベニバナは消えゆこうとしている。
 水上勉は『紅花のこと』という小品の中で「山形紅花の亡びこそ、日本文化の大きな変わり目だったのではないかという思いは、日ましにつよい。・・・・・・京舞妓も、いまはハンドバッグから棒紅をとりだすのである。・・・・・・べにさし指のくねりにうかんだ女らしさ、かわらしさ失せたのと同じく、紅花は衰退したけはいだ」と悲しむのであった。


<山藍> やまあい


 ヤマアイ(Mercurialis leiocarpa) はトウダイグサ科の1種で、雌雄異花の多年草である。光沢のある柔らかな葉が美しい。
 ヤマアイ属には8種が知られていて、いずれも北半球の温暖な地域に分布している。例えばイングランドにはイヌヤマアイ(Mercurialis perennis)と黄色の染料が採れるアンヌウアヤマアイ(M. annua)があり、前者はブナ林の林床に、後者は人里や荒地で目にすることができる。
 日本にはヤマアイが分布するだけだが、その分布パターンは一風変わっていて、日本海側では西津軽まで北上しているにもかかわらず太平洋側では千葉県以北にはない。
 この植物も古くから染料源として利用されており『万葉集』にもただ1首ではあるが、片足羽川に架かる丹塗の大橋の上を「紅の赤裳裾引き山藍もち摺れる衣着てただ独り」渡ってゆく唐風の乙女によびかける歌がある。また、記紀に見られる青摺衣や、大嘗祭の後の節会で文武百官が着用する小忌衣も白絹にヤマアイ染めをほどこしたものとされている。


 山藍の青摺というからには、藍色の染の可能性が高いが、その染色方法がいつしか忘れられてしまったため、実際にはどんな色合いだったのか研究者によって意見が分かれていた。ある人は文字通りの藍色であったと主張し、またある人は葉緑素染の浅緑色だと考えた。だが、中川五郎吉によりヤマアイには青藍素(インジゴ)が含有されていないことが確かめられてからは浅緑色説が有力となっていた。
 しかし、ヤマアイの腊葉標本を作ってみると、根茎の部分が青色に変わる。
 このことに注目したのが田辺市の山藍染め研究家の辻村喜一であった。彼は苦心のすえこの青色色素を分離したが、それはやはりインジゴとは全く別の水溶性色素で、しかも加水状態では赤変するものであった。そこで彼は13種の媒染剤を試み、ついに硫酸銅により美しい藍色に染着できることを知ったのである。昭和51年のことであった。
 謙虚な研究者辻村は「山藍によるこの藍染めは、今頃になって個人の発見したものではなく、遠く古代の先人がすでに発見し、秘して語らなかった山藍染めであってほしい」とも書いている。嬉しい言葉である。


<蓼藍> たであい

 藍色の色素であるインジゴを含有する植物はマメ科、アブラナ科、キョウチクトウ科などさまざまな科にわたっているが、タデ科の一年草のアイ(タデアイ: Polygonum tinctorium)が最もよく知られている。
 アイの原産地はベトナムと考えられていて、日本へは中国を経由して移入された可能性が高い。日本で栽培され始めた時期は、大宝律令の賦役令のなかにその名があるというから、奈良朝以前のことであろう。しかし何故か『万葉集』には登場しない。

 『延喜式』によれば、藍染は毎年6月1日から8月30日の間に行うものだとあるから、夏期に茂った生葉をもっぱら使っていたと推定される。この場合、摺り染にしろ浸し染にしろ、絹布しか美しく染めることができない。したがってそのころ蓼藍染めを楽しめたのは一部の貴族階級だけだっただろう。
 年間を通じて、そして安価な麻や木綿を藍色に染められるようになったのは、乾燥させた葉を加湿醗酵させ蒅(すくも)を作る技術が発明された室町時代後期以降のことであった。そして江戸時代に入るとともに藍色は大衆の色として庶民の間に定着していった。ジャパニーズブルーの誕生である。
タデアイ ジャパニーズブルー
(両国涼み図部分)
リュウキュウアイ中国高等植物図鑑

<琉球藍> りゅうきゅうあい


 沖縄には蓼藍とは別に古代から利用されていたインジゴを含有する植物がある。
 それはアッサム地方を原産地とするキツネノマゴ科のリュウキュウアイ(Baphicacanthus cusia)である。中国の中・北部から日本におよぶ”蓼藍文化圏”と違って、この植物を利用する文化圏は西はブータンから中国南部を経て沖縄へと続いている。

 この他、例えば『万葉集』の「秋さらば写しもせむとわが蒔きし韓藍の花を誰か摘みけむ」に見るように天平時代にカラアイと呼ばれた植物があるが、これはヒユ科のケイトウのことで、当時はその朱色の葉を使って摺染めしていたと考えられている。

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