記事タイトル:彼岸花は救荒植物として伝来したか 


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お名前: 後藤史朗   
ありがとうございます
 里呼び名については先生の『ヒガンバナの博物誌』に「遺伝子と同じような存在で
ヒガンバナの由来の手がかりになる」と言うような記述があったと思いますが、私も
同感です。
 植物名は北海道のアイヌ史の研究に必要があって古代、中世、現代、アイヌ語など
で調査をしたことがあります。植物名の由来と転訛について調べたのですが、植物は
「その特徴か用途が分かるように命名される」「古い時代の植物名ほど由来が解らな
くなる」ということは言えるように思います。ヒガンバナの里呼び名はその由来が
推定できるものが多く、それほど古い時代に分布を広げた植物ではないように思います。
江戸時代に分布を広げたサツマイモやジャガイモの方が由来を推定できない名前の割
合が多いようです。
 
 ”金槌”については、お手数をお掛けしました。ありがとうございます。私も『本草
綱目啓蒙』や『古事類苑』などを当たってみたのですがわかりませんでした。カラスウ
リの可能性があるということで了解しました。今後も調査を続けたいと思います。何か
解りましたらご報告します。

お名前: 栗田子郎   
コメントが遅くなりましたことお許しください。

 毒抜きの方法が江戸時代になって普及したのではないかというご指摘についてです
が、アルカロイド類を除去する方法の一つとしての水晒しは縄文時代以前から知られて
いたとう説が有力です。故中尾佐助先生などは水の豊富な照葉樹林帯で発見された手法
だと主張しています。縄文時代の遺跡からキツネノカミソリの球根が多量に見つかるの
は、当時すでにこの方法を知っていたのでしょう。しかし、この知識がどの程度人々に
膾炙していたかは、わかりません。しかしこのような重要な生活の知恵はかなりよく知
られていたのではないでしょうか。
 室町時代より古い文献にヒガンバナと思われる名が登場しないのは、ほんとに不思議
ですね。タブーの植物であったため公式記録や詩歌には書かれなかったのでは、とでも
考えるほかないのかな、と思っています。里呼び名はいろいろあって、よく知られてい
た植物だったのではないかな、とも思っています。

 ”金槌”という植物は初めて聞きました。手元の書籍を繰ってみたのですがわかりま
せん。葛とともに掘り取って食べたということで、ひょっとしたら烏瓜の肥大したデン
プン豊富な根ではないかと。烏瓜の種子の色が黄色みがあって形が小槌のようですの
で。遠州ではこの種子をお財布に入れておくとお金持ちになるという言い伝えもありま
す。

お名前: 後藤史朗   
ありがとうございます。
 私は北海道の稲作農家に生まれ、子供の頃には6分作程度のものでしたが何度か凶作を
経験しています。テレビがなかった頃は夜家族で色んな話をしました「米が取れなかった
ら笹の実を集める、終戦直後には実際に笹の実を蓄えたこともある」と聞きました。よく、
祖父母の子供の頃の話をせがんで聞かせて貰いました。また、食べられる植物、食べられ
ない植物を教えられました。私の友人などは父親から「米が取れないときにはドングリを
集めて食べる、と言われていた」と言います。農業技術が近代化するまでは、稲作は常に
凶作と隣り合わせの状況だったと思います。どの地方でも100年に1度以上は餓死者を
出すような飢饉を経験しています。飢饉の度に救荒植物は重要な役割を果たしていたはず
で、子孫に伝えられるべき情報の最も重要なものだったと思います。古い時代にヒガン
バナが救荒植物としての役割を果たしていたので有れば、その存在が忘れられるはずは無
い、と言う思いは消えません。
  『日本凶荒史考』(様々な文書から凶荒に関する記述を集めたもの)を読むと、食べら
れそうなものを何でも食べ、毒草による中毒や塩分、栄養の不足で体力と気力を失い、つ
いには餓死に至る、というのが真相に近いように思います。今治での方言名がイチヤニョ
ロリからイチヤコロリに変化した事情もこの辺にあるのではないでしょうか。ヒガンバナ
は救荒植物である事を忘れられたのではなく、江戸時代に毒抜きに成功した集落があって、
その情報が全国に広がったと考える方が自然なように思います。遺伝子の分析結果が楽し
みです。

 先生のツルボとヒガンバナに関する記述に注目しています。『日本凶荒史考』のなかに
次のような記述があります。
 『寛永飢民録』寛永13年の肥前の記録に「…一人にて堀り根、すみれ堀り申すことも
もはや精付き不罷成…」。
 『西遊記』天明3年春の記述に「葛の根を山には入りて堀食ひしが、これも暫くの間に
皆掘り尽くし、金槌というものを堀て食せり、これもすくなく成りぬれば、すみらという
もの…略…葛の根、金槌の類は、その根を砕き、水にさらし…」(肥前)
先生が書いて居られるように、古くは、ツルボはスミレと言われていたようです。ところでこの記禄にある金槌とは何でしょうか。

お名前: 栗田子郎   
後藤史朗 様

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
 
 おっしゃるとおり、日本での救荒食としての利用の文献上の記録は江戸時代よりさか
のぼっては見つかっていません。このことについては中国での記録を含めて『ヒガンバ
ナの博物誌』のp・79「人為分布説」の章で詳しく書いたとおりです。遺跡出土物と
いう、文字でない記録が示唆する縄文時代の食用の可能性についても触れました。
 現時点では日本のヒガンバナはすべて稲作とともに救荒目的で持ち込まれたと”断
定”できる証拠はありません。しかし、古く開けた水田地帯ほどヒガンバナの密度が高
いというようないくつかの状況や飢饉に際して実際に食糧として利用したという近世の
記録は、推測の一つの要因でしょう。
 とはいへ、食糧以外の用途は、例えば畦の崩れを防止するとか糊材としたとか虫除け
に利用したとか、さまざまです。これをどのように考えるかという問題があります。
 拙著にも書きましたが、個人的には、縄文時代に渡来したもの、稲作とともに入った
もの、そして鎌倉〜室町時代に僧侶によって運ばれたものがあってよいと思っていま
す。
 特定の遺伝子の塩基配列を比較することでこの謎解きをする試みが始まっています。
結果が楽しみです。

お名前: 後藤史朗   
あけまして、おめでとうございます。
  私は今まで文献、HPから情報を吸収し、考え、生じた疑問点をまた調査するという孤独
な作業を続けてきました。そのため、お尋ねしたいことがたくさんあります。よろしくお願
いします。何からお尋ねして良いものか迷っていますが、まず私が今抱えている課題につい
てお尋ねします。

 彼岸花が救荒植物であったと認識されていた証拠を探しているのですが、江戸時代の中期
までしかたどれません。たしか、私が学生の頃『梅と日本人』という本に「彼岸花を天明の
大飢饉の時食べた記録がある。彼岸花を救荒植物として利用することも昔の人々が持ってい
た知恵だ。」という意味の事が書いて有ったように思います。その時には、よほど衝撃的な
記述らしく、マスコミが強く反応していました。
  いま、多くの人々が更に踏み込んで「彼岸花が救荒植物として日本に入ってきた」として
います。私にはその理由が分かりません。何を根拠にしているのでしょうか。

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