BANSHU

秋澄む野辺の色移り

霜降 ~ 立冬 ~ 小雪 ~ 大雪 ~ 冬至 ~ 小寒 ~ 大寒

~ 菊の香や月夜ながらに冬に入る     正岡子規 ~

索引  イソギク イヌタデ イノコヅチ ウラジロ キク キンミズヒキ クズ サイカチ
 サネカズラ シュウメイギク ジャケツイバラ ジュズダマ スギ ススキ センダン
 チャ ツリフネソウ ツワブキ トクサ  トリカブト ネナシカズラ ハゲイトウ ビワ
 ホトトギス ミズヒキ ムベ ヤツデ ヤドリギ ワタ


  クズ >   葛

  山里はくずのうらはをふきかへす
           風のけしきに秋を知るかな   菅原在良

 葛の生い茂った谷間の小道を神無月の風が吹き抜けてゆくと、さわさわと乾いた音をたてて白い葉裏がひるがえった。

クズは日本の山野のいたるところに見られる蔓植物であるが、中国と韓国のほかメラネシアの島々にも分布している。昔から有用植物として知られ、『大和本草』の“葛根”の条も「葛ハ蔓草春月発生ス其カツラヲ用テ縄トス皮ヲ布トス----」と書きはじまる。「山でたきもん丸ける時、クゾッパの蔓を使うが、すごぐ太いのは半分に裂いてからにする。ビユーン、ビューンといい音する。それを“マムシの鳴き声”という----」と信州坂城のKさんの話を紹介するのは宇都宮貞子の『草木おぼえ書』である。今日でもクズの蔓は縄として利用されているのである。葛布のほうは、もはや衣料としては使われていないが、襖や表装地のほか、さまざまな工芸品の素材として静岡県掛川市などで生産されている。この現代の葛布は緯糸(よこいと)にのみ葛の繊維を用いた平織り布である。

さらに『大和本草』には「生根ヲツキクダキ汁ヲトリ水飛シサラシテ粉トス葛粉ナリ其功用多シ----」との記述がある。功用の第一は薬となることであるが、これは漢の『神農本草経』をはじめ、あまたの本草書にみられるとおりであり、今日でも葛根湯の名で処方されている。功用の第二は凶年の食料となることである。「其ノ人ヲ救フコト五穀ニツゲリ葛蕨ノ山野ニ多ク生スルハ天地ノ民ヲメクミタマフ自然ノ理ナリ、民ヲアツカル人モ天地ノ心ヲ體シ民ニ仁アルヘシ」。これも貝原益軒の説くところである。なお中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』によると、クズやワラビの澱粉利用は初期縄文時代以来のことだという。

 また一方では、酒井抱一が六曲一隻の金屏へ、青い月光にぬれる秋葛を描いてみせたように、日本の風土の中ではぐくまれた人々の美意識は、この植物のもつ美しさをも見逃しはしなかったのである。


  
 ホトトギス>   杜鵑草

  律の調べを奏でながら切通しを吹き抜けてゆく風に、小さな錨を思い起こさせる不思議な形のホトトギスの花が、心もとなげに揺ら いでいた。名の由来は、赤紫色の斑点で飾られた花が、新緑の野山を鳴き渡るあの恋し鳥を連想させるからという。一方、20世紀初 頭に始めてこの花を王立キュー植物園に導入したイギリス人は、こともあろうに”蟇蛙百合”と名づけた。


ツリフネソウ>   釣船草  

霜月のある日、久しぶりに辿った梅ケ瀬渓谷の小道の際で、草黄葉の中に咲き残るツリフネソウの小花に出会うことができた。

  吹き上ぐる風にゆらぎてとどまらぬ
     草の中なる釣舟の花   木村流二郎

 この一年草の花は一風変わった形状をしており、淡い赤紫色の帆を張った小舟を逆に吊り下げたようにみえる。帆を連想させる部分は花弁で、くるりと巻き上がった舳先は萼が変形したいわゆる距である。分類学的にはホウセンカの仲間であり、したがってその実に触れるとパチンと爆ぜて、小粒のエメラルドのような種子を遠くへ飛ばす。分布は広く、千島列島の南部から九州にかけての山地の湿った場所で、ごく普通にみかけることができる。だが、その存在がわが国の学者に認識されたのは幕末になってからで、一八六二年刊の飯沼慾斉の『草木図説』の草部一七巻に初出する。しかし、芸術家はさすがに目ざとく、橘保国は一七五五年刊の『絵本野山草』にツリフネソウを描いている。

 いっぽう、各地に残る里呼び名が語るように、山里の子供たちは昔からこの花を遊び道具にして親しんでいたようだ。たとえば、長野県の戸隠ではこの花をユビハメとかユビサシバナと呼ぶが、これは距のついた袋の部分を右手の三本の指にはめ、お琴を弾くお嬢さんを気取ってみたり、両手の十指にはめて大きな鈎爪の妖怪に変身してみたりして遊ぶからだという。またごく近年まで、木曽の子供たちはこの実を集めておやつ代わりにしたとも聞いた。アイヌのコタンではオキマ・キナ(小便する草)とよぶが、これは利尿剤にしたからである。
 近縁種のキツリフネは名のとおり黄色花をつけるが、分布はさらに広く北半球の温帯全域にわたっている。その英語名はタッチ・ミイ・ノット、つまり「私に触れないで」という。「触れば爆発、ご用心」というわけだ。いっぽう、あの色好みの大学者リンネ先生がつけたラテン語名はインパチエンス・ノリタンゲレ(我慢できないわ、触っちゃいや)であった。




  ネナシカズラ>   根無葛

 造成地に猛々しく茂る帰化植物たちの一角がネナシカズラに襲われている。秋の日差しを反射する肉質で黄白色をした根無しの蔓は、しっかりと宿主に絡み、吸盤で養分をむさぼる。発芽したばかりの幼植物には根があるが、寄生をはじめると消え、大地から離れる。強精に使われる漢方薬の菟糸子はこの草の種子である。


  
 <ミズヒキ>   水引

  秋ふけし日のにほひだつ草なかに
       金線草もうらさびにけり  齋藤茂吉

 大学祭も果て、キャンパスに満ちていたあの若人たちならではのさんざめきが、かすかに筋雲がたなびく青い天空にすいこまれてしまうと、ひいやりとした晩秋の風が、雑草だらけの私の小さな実験圃場を訪れて、葛の葉裏をひるがえしたり、赤く咲き残ったいくすじかのミズヒキの穂をゆらしたりして遊んでゆく。

 ミズヒキはタデ科の多年草で、ヒマラヤから雲南山地をへて万里の長城以南の中国と韓半島、そして日本列島へと分布している。長さが四〇センチ以上にもなることのある花穂には、点々と濃紅色の小さな花がならぶ。ひとつひとつの花はその直径が五ミリにも達しないので、虫眼鏡で見ないとよくわからないのだが、四枚の蕚片と四本の雄蕊に囲まれた二花柱の子房からなりたっている。タデ科の植物ゆえ、花弁はない。
 和名は、その花穂が進物用の包み紙に掛ける「水引」に似ていることに由来する。室町時代以前のものでこの草にふれた典籍は知られていないが、雪舟の弟子で十六世紀の始めに活躍した等春の代表作『花鳥人物図』には描かれている。江戸時代になると、この草はあちこちでとりあげられるようになる。たとえば『大和本草』のなかで貝原益軒は古代中国で「海根」と呼んでいるものにたいして「倭俗水引卜名ヅク」と記している。また小野蘭山は、『圃史』にある「金線草」がミズヒキのことだとしている。生花の素材としても好まれ、去風流の花書『花林清質』(寛政三年写本)では藤細工の釣船に一束のミズヒキがいけられている。この時代、あまたの画家もこの瀟洒な野の草を描いている。なかでもとりわけ私が好きなミズヒキの絵は、狩野探幽の『草木花写生』のそれと、酒井抱一が八曲一隻の『六歌仙四季草花図屏風』に描き残したそれである。
 ミズヒキには白花の品種があり、ギンミズヒキと呼ばれる。わが家の庭にも数年前から出現し、さかんに種子繁殖をしている。自家受粉で結実しているのだろうか。交配実験をして確かめねばなるまい。また一つの穂に紅白入り交じるものもあり、江戸時代から御所水引の名でしられていた。現代中国の植物学者はこの草を金綫草と呼び、抗菌消炎・止血作用のある成分を含有する薬草としている。なお「綫」と「線」とは同義である。

     稗草にをりふし紅くそよめくは水引草が交じりたるらし     北原白秋


 


  イノコズチ>   牛膝

 外遊びから帰った猫が、背中についたイノコズチの実を気にして、くるくると回っている。秋の初めに咲く花は地味で目立たないが、実が熟すと苞が反り返って鉤になり、通りかかった獣や人に取り付いて分布を広げる。このため、ヤブジラミやトビツキなどの名もある。若葉と種子は食べられる。


 ムベ>   郁子

 晩秋の安房の山路で、赤紫に色づいたムベの実を見つけるたびに、少年の日に遊んだ遠州の山里を思いうかべる。敗戦から間もないころで、甘い物に飢えていた時代であった。白い果肉のとろけるような甘さが、どれほど貴重だったことか。自分の発見した茂みのことを、結局はしゃべってしまったものの、親友にすら告げるのがためらわれたものであった。

    郁子の雨唇にうけたる峠かな      岸田稚魚

 ムベはアケビとよく似た植物だが、常緑なので、トキワアケビとも呼ばれる。日本では郁子という字をあてウベとも読ませるが、中国では石月と書く。ムベがウベになるのは、アシがヨシになるの類かも知れない。

 四月に新たに展開した葉の腋から短い花穂を伸ばし、中央が薄紫色の小さな花を咲かせるが、アケビと同しように雄花と雌花の別がある。蕚片の幅が広いほうが雌花である。分布は関東以西だが、南へゆくほど多くなる照葉樹林性の植物である。だから、南の島から北上してきた縄文時代の人々にとっても、有用な植物だったろう。ミツバアケビのツルは、長野の民具鳩車で知られるように籠を編むのに使われるが、ムベにもそのような用途があったかも知れない。
 ところで、ムベは何故に“ムベ”と呼ばれるのだろう。牧野富太郎は、昔この実をわら籠に入れて朝廷に献上したので大贄(おおにえ)すなわち苞苴(おおむべ)と
いったが、これが“ウムべ”を経て“ムベ”になったと書いている。しかし、前川文夫はアケビが開実(アケミ)であり、これに対し口を閉して裂開しない実がつまりンビ、ムビ、ムベとなったと考えた。一方、アケビはその赤紫色の裂開する実を女陰にみたてたアケツビに由来するとの白井光太郎などの説もあるが、これではムベの由来が説明できない。
 私は“ムベ”という言葉自体が、女陰を意味する古い単語である“ベベ”と同根とみている。“ベベ”は村山七郎が指摘したように、南島語の“ビィービン”などにつながるし、フィジー語の陰唇を意味する“ムベムベ”などはまさに“ムベ”そのものである。するとアケビは、アケムベということになる。




  <キンミズヒキ>   金水引

 山小屋にたどり着きふと足元を見ると、ズボンの裾がもぞもぞしたキンミズヒキの実で覆われていた。つるべ落としに迫る夕闇にせかされた沢の道で付いたのだろう。タデ科のミズヒキとはあまり似ていないが、黄色の花の並んだ細長い穂を金色の水引に見立てた名である。止血作用のある成分を含み、毒蛇の咬み傷にも効くという。


ワタ>  綿

   綿を干す寂光院を垣間見   高浜虚子

柳田国男が『木綿以前の事』や『何を着ていたか』に書いているように、日本におけるワタ栽培の歴史は短く、江戸文化があでやかに花開いた元禄時代にあってすら、木綿の衣服を着用できるのは裕福な人達であると思われていた。ことに奥羽地方の庶民は明治になるまで、ほとんどワタの恩恵に浴すことがなかった。
 ワタには新大陸原産のものとアジア原産のものとがあるが、日本に入ったのはインダス河のデルタ地帯に自生がみられるインドワタであった。

 ワタの渡来についての記録は菅原道真の『類聚国史』にあり、延暦十八年(七九九年)七月に三河の国に難破漂着した異国人が種子をもたらしたのだとある。この異国人は最初崑崙(マレー)の人かと思われたが、後に天竺(インド)の人であることがわかった、ともある。
 この時の種子は紀伊、淡路、阿波などの諸国に配られたものの、結局は栽培に失敗し絶えてしまったという。十六世紀の初頭に再び西域を経て種子がもたらされ、これが次第にふえ、江戸から明治にかけて河内、和泉、大和などがワタの産地として栄えることとなったのである。

 日本では栽培の歴史が短いワタも、その原産地のインドや中南米では紀元前から利用されていた。たとえばモヘンジョダロの遺跡から発掘された四千五百年ほども前のものと推定される銀の花瓶には、インドワタの織布が巻かれていたし、ペルーのワカ・プリエッタの遺跡からは蝶の模様のある綿織物の裂片が出土している。これも紀元前二千五百年前のものだという。

 綿の繊維は種子に生えた毛であるが、この種子からは食用油も採れ、サラダ油などの代用にされる。ところが、このワタ油にはゴジポルという男性避妊薬として有望な物質が含まれていることが最近になってわかった。これは中国の湖北省や山東省などのワタ作地帯で出生率が極端に下がる男性不妊症が多発したのをきっかけに発見されたという。


 イヌタデ>   犬蓼

   立ちどまりあたり見廻しくれなゐに
                 咲き満ちたるは犬蓼の花   齋藤茂吉

 イヌタデは日本各地の人里にごく普通に生え、淡紅色で長さ二ミリほどの小花が枝先にたくさん集まった三センチ前後の花穂をつける。晩秋には葉が紅く色づき、草紅葉の一つとして野を飾る。イヌタデという名は、役に立たないタデ、の意である。タデは“蓼食う虫も好きずき”の蓼のことであり、イヌタデと違って辛味があり、刺身のつまにしたり蓼汁をとったりする草である。植物学的にはヤナギタデと呼ぶが、民間ではホンタデの方がとおりがよい。
 このタデ、つまりホンタデは、すでに万葉集に歌われているが、イヌタデの存在も平安時代の初頭には認識されており、『本草和名』には紅草の和名として“以奴多天”が登場している。しかし、紅草は正しくは中国からインドに原産のオオケタデのことであるから、この以奴多天は現代のイヌタデとは別物ということになるかというと、必ずしもである。土着のイヌタデを大陸の別の種と取り違えた可能性が高い。鎌倉時代中期の歌人藤原為家が「からきかな刈もはやさぬいぬたでのほになる程にひく人のなき」と詠んだイヌタデがなんであったかも定かではない。
 江戸時代になっても寺島良安は紅草の和名をイヌタデとし、貝原益軒は馬蓼がイヌタデであるとした。小野蘭山も馬蓼にイヌタデを当てたが、「品類多し野生して辛味なく食用に堪ざる者を皆イヌタデ或は河原タデと呼びみな馬蓼なり」と書いている。つまり昔の人は蓼(ヤナギタデ)に似ていて辛味のないものをすべてイヌタデと呼んでいたのである。

 しかし現代の人々は、タデ属の特定の一種をさしてイヌタデと呼ぶ。このイヌタデは岩崎灌園が『本草図譜』にあげたハナタデのことで、それは江戸の小児らがアカノマンマと呼び親しんだ“ままごと草”である。ところが現在は、ハナタデはヤブタデの別称とされている。ややこしいことではある。

  赤まんまたべてくれぬと目に涙        静

 薄紅の小花を咲かせたイヌタデを、アカマンマ、オコワクサ、アズキノマンマ、カカマキクサなどと呼びながら、村里の童子らがままごと遊びに使いはじめたのは、いったいいつの頃だったのだろうか。

 此辺の道はよく知り赤のまま      高浜虚子






  ハゲイトウ>    葉鶏頭

 南米生まれのタマスダレの白い花に縁どられた花壇の中央に、艶やかに装った印度生まれのハゲイトウが立っていた。熱帯で野菜として栽培されているヒユの一系統で、平安時代には既に渡来していおり、“かまつかのはな”と呼ばれた。西欧でも愛好され、エリザベス朝の人々はその美しさを鮮やかな鸚鵡の羽に例えた。漢名は雁来紅。



  <チャ>    茶

 花びらの白きが包む黄の蕊の
      ややあらはれて匂ふ茶の花  木村流二郎

 上総の里の柿の実が、梢で熟し赤く輝く頃になると、小春日和の光の中で、チャの木の花が密やかに咲きはじめる。純白の花弁が開ききると、その中央に、黄金の小粒を先端につけた白銀の糸が群れ立つ。しかし、蕉翁門下の越人が「ちゃのはなやほるる人なき灵聖女」と詠んだように、まことに静かで目立たない花である。灵聖女は霊照女とも書く。嫁せずして俗界を離れた唐代の才女である。
 ところで、柳田国男は『北国紀行』の中で、若狭の名田荘木谷川上流での観察を「山には又到る処茶を発生す。昔茶畠ありし跡かといへど、広い区域なれば野生なるべし」と記しているが、チャは土着の植物ではなく、中国に原産し有史以前から利用されていたものだというのが現代の植物学者の意見である。紀元前に編纂された中国最古の辞典とされる『爾雅』にみえる「木賈」は苦茶のことだといわれている。しかし近年ではノウゼンカズラ科のキササゲにこの字をあてる。
 ではいつ頃日本に移入されたかとなると、定かではない。静岡や埼玉の有史以前の遺跡から種子が発掘されているが、伝承では欽明天皇の時代(五三九~五七一)に百済王よりつかわされた僧一三名が、宮中で茶を賜わったという。また聖徳太子の時代(五九三~六二二)に中国より伝来したともいうが、信頼できる最初の史料は勅撰の六国史の『日本後紀』である。これには弘仁六年(八一五)に天皇が近江国滋賀に行幸して梵釈寺に詣でた折、大僧都の永忠が茶を煎じて奉ったとある。恐らく、行基や最澄など八~九世紀にかけての留学僧が飲茶の風習とその栽培法を各地にひろめたのであろう。
 現代の日本で一般に飲用している茶は、栄西禅師により伝えられた宋朝禅林の飲茶法にしたがう抹茶、隠元禅師により一七世紀中頃にひろめられたという煎茶、明末か清初に創製された発酵茶の一種の紅茶である。
 茶王樹と呼ばれる老大木があり、原産地とみなされている雲南省西双版納では、葉を漬物にして常食にしている。チン・ニイエンとよばれるものがそれである。

     茶の花に暖き日のしまひかな      高浜虚子



  <シュウメイギク>   秋明菊

 霜月の高宕林道は、房総の秋の盛りであった。
 谷の辺の雑木林で、猿が騒いだ。
 江戸時代には、石切人たちが伊豆からも渡ってきていたという石井太郎の岩峰からの高宕山への尾根沿いの道は細かった。
 山頂に近く、覆いかかる大岩に抱かれ、朽ち残った一宇の堂があった。天平の昔、僧行基が開いたという高宕観音である。
 この破堂のかげに、淡く赤紫色のシュウメイギクが咲いていた。艶やかでありながら、静かな美しさをそなえた花であった。


    いわかげの観音堂や秋牡丹          静
 

 シユウメイギクは秋明菊と書き、多産する京都山城の貴船山にちなみキフネギクともいうが、和漢三才図会には紫衣菊、加賀菊、貴布禰菊などの名がみえる。寺社の境内によく似合う花である。大和本草には、秋牡丹すなわち唐菊、高麗菊で「近世異国ヨリモ来タレルニヤ」とあるが、どこの国から入ってきたのか、いまでもよくわかっていない。
 しかし、よく似た打破碗花(ダーポーワンファ)という一重咲きの植物が中国の湖北省を中心に分布しており、この変種とみなきれる八重咲きのシュウメイギクそのものも、長江以南の各地の墓所などに栽植されているので、これが僧侶により日本へもち帰られた可能性が高い。
 いっぽう、植物学的にみると、シユウメイギクは「菊」とは名ばかりで、実はキク科よりもずっと原始的なキンポウゲ科の多年草である。一八二三年に訪日したシーボルトが学友のツッカリーニとともに与えた学名の、アネモネ・ヤポニカが示すように、あの春の花壇をにぎわす、風神アネモスの春の使者というアネモネの仲間なのである。



    サネカズラ>   美男葛  

 秋の終わりを告げるひいやりとした風が、くるくると舞う小さな踊り子のような紅葉葉を連れて谷を渡っていくと、茂みの中に三つ四つと光っている、紅玉細工のようなサネカズラの実が、微かに揺れた。

 葉隠れに現れし実のさねがづら      高浜虚子

 サネカズラはマツブサ科の常緑性蔓植物である。東北地方南部以西に分布するが、遠州や伊豆の山地にも多い。

 晩夏に咲く花は黄白色で小さく、あまり目立つものではないが、霜が降りはじめるころから真っ赤に色づき始める実は、たいへん美しい。
 その名の由来は判然としないが、多数の小さな液果が集まって房状になっている様子を、核(さね)が露出した状態と見立て核葛と呼んだという説と、茎を切断すると粘液が滴ることから滑葛(なめりかずら)と呼び、これに接頭語の「さ」が付き、サナメリカズラ→サナリカズラ→サネカズラと転訛したとする説がある。
 いずれにせよ、古代から日本人には親しい植物で、『古事記』には応神天皇の皇太子の菟道椎郎子(ウジノワキノイラツコ)が、船床にサネカズラの粘液を塗りつけておき、急に船を傾け、自分を暗殺しにやってきた大山守皇子(オオヤマモリノミコ)を宇治川へ滑落させ溺死させたとある。

  一方、万葉時代の歌人たちは、長く伸びあちこちと這い回った蔓がやがて再び出会ってもつれ合うことや、“さね”が男女が同衾する意味の“さ寝”を連想させることから、「逢ふ」とか「寝る」の枕詞としてしばしば「佐禰加都良」を使った。

 あしひきの山さな葛もみつまで
        妹に会はずやわが恋ひおらむ    10-2296

 江戸時代になると、サネカズラの粘液はもっぱら整髪に利用されるようになる。浮世草子の好色一代男も「髪はさねかづらの雫にすきなし」たが、それは「ねばいごと髪のそそけぬさねかづら」であったからであろう。

 美男葛や美人葛はこうした習俗に由来する名である


  ジャケツイバラ>   蛇結茨

 霜月のある日、カツラやイロハモミジが美しく色付き、ヤクシソウの黄花が切通しの斜面にゆれる高宕林道を歩いた。

 ふと視線を向けた右手の林床に、ひと叢の見慣れぬシダがあった。何だろうと、夢中になったときのいつもの癖で、無用心に薮こぎをはじめた私は、下半身のあちこちを襲った激しい痛みに思わず声をあげていた。ジャケツイバラの茂みに踏み込んでしまったのである。手ひどい傷を負わずに脱出するのは不可能であった。曲りくねった茎や小枝に密生する、硬く鋭く大きな刺の恐ろしさを、この時はじめて知った。六月に咲く、あの美しい黄金の蝴蝶のような花からは想像もつかない、手強い鉤刺であった。

 ジャケツイバラは、マメ科の蔓性の木本植物で、大きくなれば二十メートルを越す大木の梢までも這い登る。その名は『大和本草』によると「其クキ蛇ノ結バレタルニ似タルユヘ」つけられたのだという。しかL、山村で生活する人々の呼び名はもっとわかりやすい。房総や伊豆の山地では普通サルトリイバラと呼ぶ。猿さえ捉えられてしまうほどの荊、というわけである。熊本での里呼び名のサルカケイゲも同じ意味である。この他、シシモドシ、トビトリイゲ、ムシャトリイゲなどの名が知られる.いずれも刺のすざましさを思いおこさせるに十分である。中国の四川省の里呼び名に閻王刺(ヤンワンチ、閻魔様の刺)というのがある。これもよく感じがでている。

 中国では古代から注目されていた植物で、漢の時代に著された最古の本草書『神農本草』以来、雲実(ユンシェ)の名で呼びつがれ、根や茎を解毒・止痛に薬用している。我が国では平安時代に唐の『新修本草』を翻訳し和名と対照した『本草和名』にこの名が見えるが、ハマササゲのことだとしている。また同じ頃書かれた『倭名類聚鈔』ではサイカチの別名として蛇結(ジャケツイバラ)をあげており、かなりの混乱がみられる。しかしこれは、当時の不完全な記載がもたらした混乱であり、無理からぬことではあった。

    落武者の鎧白骨からからとさるかけいげのしげみ風泣く   静


  ジュズダマ>   数珠玉

 「Coix Lachryma-Jobi L. ヨブの涙という珍しい名をもったこの草の実は、日本では千年以上の存在が證明せられている」― 柳田国男がその晩年に、自らの提唱した“海上の道”という壮大な仮説を検証すべく、情熱をこめて書き記した『人とズズダマ』という論文は、このように始まる。

 その実を連ねて数珠を作るからジユズダマというのだと一般に考えられているこの植物は、都市の郊外や村落に近い水辺などで目にすることが多いが、その分布様式からみると典型的な人里植物といえる。
 つまり、遠い昔、原産地の東南アジアから、何らかの目的でこの地に待ち込まれたものらしい。それが何時の頃かはわからない。中国では意苡子(いいじ)とか意苡仁(いいれん)の名ですでに漢の時代から栽培されていた。さまざまな薬効のある薬草であった。
 一方、日本の典籍に意苡仁の名が現れるのは平安時代以後のことである。その最初は八〇二年に著されたという『薬経太素』であるが、和名は書かれていない。しかし、この六年後に成ったとされる『古語拾遺』には田の畔に植える意子の和名は都須(ツス)だとある。意子は意苡仁のことであろう。
 平安中後期に刊行された『本草和名』や『康頼本草』などになると、都之太末とか川支太未という和名が付記されている。いずれもツシタマと読む。『新撰字鏡』ではタマツシである。つまり、古来の和名は数珠とは関わりのないものであつた。

これを知った柳田は、古名ツシタマの由来を琉球諸島の古代歌謡を集めた『おもろ草子』に頻出するツシヤという言葉に求めたのであった。彼は「ツシヤがもと宝貝を糸に貫いて、頚に掛けていた頃の名ではなかったか」と考え「大小の相異は著しいけれども、植物のツシタマも形状曲線、ことに色沢がよほどよくあの貝に似ている」とみたのであった。

ところで、八重山諸島以南に分布しているマメ科の相思子(トウアズキ)もまた平安初期には豆志(ツシ)と呼ばれていたが、この蔓性の常緑低木の実も古くから首飾りとされていた。ツシタマという名はこの辺りとも関わりがあるのかも知れない。


  ツワブキ>   石蕗

 浜金谷駅から観月台を越えて百尺観音へと向かう鋸山の登山道は、ヤクシソウの小さな黄花やイナカギクの純白の花が点々と咲き残ってはいたが、もう霜枯れはじめていた。例年より冬の訪れが早いのか、ふと振り仰いだ凝灰岩の、その見事に切り落とされた絶壁にわずかに開く裂け目には、白い陽光を受けて艶やかに輝く濃緑の葉を茂らせたツワブキが、初冬の東京湾から吹き上げてくる潮風の中で、黄金色の花群をふるわせていた。

  この島よ樹々茂れれば木がくりの
           崖につはぶき咲きみだれたり   若山 牧水

 ツワブキは、潮の香が似合うキク科の植物である。
 太平洋側では福島県以西の、日本海側では石川県以西の沿海の地に自生する多年草で、春先の新葉は食用となる。
 貝原益軒の『大和本草』にも「其茎ヲ食スルニ味フキノ如シ皮ヲ去リテフキヲ食スルコトクスヘシ」とある。またこの書には「一切ノ毒ヲケスニ功能スクレタリ」「ヨク魚毒ヲコロス河豚ノ毒ヲモヨクケス」などと様々な薬効があげられている。
 このツワブキと中国の本草書にみえる“款冬”(かんとう)とが同一物だとするのは寺島良安の『和漢三才図絵』であるが、平安時代中期に書かれた『本草和名』では款冬の和名としてヤマフフキとオホバをあてている。貝原益軒も『本草網目啓蒙』の著者小野蘭山もツワブキは款冬そのものではないとし、李時珍が『本草綱目』にあげている“たくご”こそツワブキであると述べている。たしかに、款冬が別物らしいことは、南宋の『重修政和本草』の図を見ても理解できる。ちなみに、現代中国においても款冬といえばトウゲブキやマルバダケブキなどのことである。
 ところでツワブキなる和名は厚葉ブキないしは光沢ブキのことだといわれているが、案外中国名の”たくご、tuo-wu”に由来するのかも知れない。だが、ツワブキそのものが中国にあるかというと、これが疑わしい。中国の図鑑にはツワブキの学名であるファルフギウム・ヤポニクスをあてた植物があり、大呉風草とか山菊という中国名で呼ばれているのだが、図版を見るとツワブキとはかなり趣の異なるものであった。



  <イソギク>  磯菊

 伊豆は城ヶ崎の溶岩の海崖で、白い縁どりのある葉群の上に小さな金ボタンのような花をたくさん乗せたイソギクが、ならいに吹かれて震えていた。犬吠埼から御前崎にかけて分布する海浜性の菊の一種。煎じて飲めば胃腸が丈夫になり風もひかなくなるなどと言って、夜店で売っていたこともあったが、薬効は疑わしい。


  トリカブト>   鳥兜

   荒寥と熊の湯ちかき鳥かぶと     水原秋桜子

トリカブトはキンポウゲ科の植物で、その仲間は北半球に広く分布していて、日本だけでも三十余種が知られている。晩秋に咲く濃い青紫色の花の姿が、舞楽の常装束に用いる鳥兜に似ているため、この名で呼ばれている。
 また、『出雲風土記』や『康頼本草』などをみると奈良・平安時代には於宇(おう)と呼はれていたことがわかる。今日では忘れ去られた名である。
 花形からカブトを連想したのは日本人ばかりではない。英国にはヘルメットフラワー(兜花)
かモンクスフード(修道士の頭巾)の名があり、ノルウエ-にも“雷神トールの兜”という意味の呼称がある。花の形の面白さもさることながら、この草は有数の猛毒植物の一つである。

    エン ルム カタ (尖った鏃に乗って)
    オマン カムイ  (行く神が)
    エペンタ ウエ   (山奥に向かう)

『コタン生物記』にある十勝伏古部落の祭歌である。

 山の神である熊を迎えに山奥に向かうこの神は、トリカブトの根から生まれた矢毒の神、スルク・カムイである。アイヌの人たちはトリカブトの根をスルクと呼ぶ。晩秋に掘り採った根はクサソテツの葉に包んで炉端につるし乾燥保存し、使うときはスルクタ・シュマ(毒をつぶす石)の上で唾液を混ぜながらつぶし、これを鏃に塗りこめるのだという。
 トリカブトの根に猛毒物質が含まれることは、洋の東西を問わず、大型哺乳類を狩猟対象とする文化を持った民族の間では古くから知られていたようだ。
 シェークスピアの『ヘンリー四世』の第四幕にはアコニツムという毒草が登場するが、これもトリカブトである。アコニツムという名は、へラクレスと戦った地獄の番犬ケルベロスが猛毒のよだれを垂らした、アコニツスという丘の名に由来するなどといわれる。また、昔のヨーロッパではオオカミを退治するのにこの草の毒を利用したので、オオカミグサとかオオカミコロシの名が今日でも残っている。


  キク>   菊

 菊の香やならにはふるきほとけたち  はせを

 支考、素牛らに付き添われ伊賀を発った芭蕉は、元禄七年九月九日この句を成した。すでに、十月十二日申の刻に鬼籍に入ることを予感していたのであろうか。里には色とりどりの菊が咲きはじめ、山谷の紅葉が日ごとに色彩を濃くしてゆく秋であった。
 いつの頃からかキクは日本を象徴する花とみなされてきたが、実は土着の植物ではなく、奈良時代から平安時代にかけて中国から移入されたものである。キクという名も菊の漢音に由来する。

キクがシマカンギクとチョウセンノギクとの交配によって作出された雑種であることは分類学者や遺伝学者の努力により明らかにされた事実であるが、これがいつごろから中国で栽培されていたかは定かでない。たが菊についての記述は『爾雅』『礼記』『楚辞』などの漢代の典籍にすでにみることができ、『神農本草経』にも「軽身耐老延年」の効能ありと書かれている。
 唐の時代になるとさまざまな品種も生まれ、古くから行われていた重陽の節句に菊花酒を飲む風習が“重陽の宴”として定着した。
 七五二年に成った『懐風藻』の詩に歌われるように、奈良時代の日本の文人貴族は先進国のこの習俗をいち早くとり入れ模倣したのであった。だが、斎藤正二が『植物と日本文化』に書いているように、この時点ではキクの実物は渡来していなかったようだ。実際にキクが栽培観賞されるようになったのは平安時代以降のことらしい。

ところで、後白河法皇が源頼朝に賜った品という、国宝の籬菊螺細蒔絵硯箱にあるキクの絵柄は、当時の栽培法を示していて面白い。

子狐のかくれ貌なる野菊哉     蕪村

 中国原産の栽培菊に対し、日本に有史前より自生するキクの類は、ふつう一括して野菊とよばれる。


  ススキ>   薄

 初冬の落日はことのほか早い。奥秩父の雁坂小屋での小休止をあきらめたにもかかわらず、突出峠を過ぎ川又の集落を眼下にする頃には、日はすでに山影深く沈み、仙道沿いの植林されてほどない斜面には、夕霧のようにほの白くススキの穂波がゆれていた。谷底に生まれた闇がもう足下に迫っていた。

 山は暮れて野は黄昏の薄かな  与謝蕪村

 ススキは東アジアに特産するイネ科の多年草であり、日本の山野のいたるところにみられる。だが安定したススキ草原は、海辺の強風地や洪水のたびに冠水する河川敷か、人手が入る採草地にのみ発達する。

         秋の野の美草刈り葺き宿れりし
                        宇治のみやこの仮廬し思ほゆ

 『万葉集』の巻一にある額田王の歌である。仮廬(かりいほ)を葺いた美草はススキの別称である。今日ではもうほとんど名ばかりとなってしまったが、各地にある萱場とか萱刈場とよばれる所は、かつては屋根葺き用や炭俵用に定期的に手入れをして維持されていたススキの原であった。
 いつの時代から日本人がこの草を利用した生活を営んでいたのか、碓かなことはわからない。おそらく大陸から焼畑農耕文化が伝播し、列島を覆っていた発達しきった森林のあちこちで、火入れ作業がおこなわれはじめた頃からであろう。

     雪ちるや穂屋の薄の刈残し

  ススキは宗教的儀式にもしばしば使われた。諏訪神社の御射山祭ではススキの穂を集め御仮屋を作って祭る。穂屋の神事である。信濃路を過ぐるに、と添え書きのあるこの芭蕉の句のススキは、祭りの後に刈り残された枯れ薄である。
 また、葛井連子老(ふじいのむらじこおゆ)の挽歌にある“尾花の仮廬”を作り死者をとむらう万葉時代の習俗は、今日でも京の嵯峨野の墓地に見ることができる。そして神奈川県の白山古墳から出土した、蔵骨器であろうといわれる古常滑秋草文壷の、冬枯れた野の色をしたその表面にも、鋭い刻線でススキが描かれている。

      枯れきって風の烈しき薄かな        杉山杉風


  ヤツデ>   八手

  生き残る蝿が集へり花八つ手   松田茂代

 シベリア寒気団の南下がはじまり、北海道や東北から初雪の便りがとどく頃になると、関東ではヤツデの白い花が咲きはじめる。ヤツデは山形県を北限として南は琉球まで分布する。台湾にもヤツデにごく近い種があり、これは八角金盤とよばれている。タラノキやウドなどと同じウコギ科の植物である。
 ヤツデを最初に見たヨーロッパの人が誰であったか知るよしもないが、一六九〇年に長崎に着き、二年間を日本で過ごしたケンペルの『廻国奇観』にはこの植物の名がある。

 ヤツデにアラリア・ヤポニカという学名を与えたのは一七七五年に来日したチュンベリーであったが、これは後にファチア・ヤポニカと改められた。ファチアは八手(はっしゅ)由来する。

日本の庭園の中でのヤツデは、他の花木と異なる一風変った植え込み方をされる。つまり、厠の横とか、屋内にいる家の人の目はとどかないが、外から入ってくる者には目につきやすい玄関脇などに植えられることが多いのである。
 これは現代の日本人がもう忘れかかっている、この植物の持つ呪力とかかわりがあるとみてよいだろう。古代の人々は、厳冬にもみずみずしさを失わない厚く大きな葉に、悪魔を追い払う力の存在することを信じたにちがいない。
 鹿児島県や宮崎県では近年まで伝染病が発生するとヤツデの葉を戸口に挿したり、門口に縄を張ってナンテン、コショウとともにヤツデの葉を吊るしたそうである。また、節分には悪臭を放つトベラの枝と並べてヤツデの葉を家の入口に置く地方もあるという。赤飯をヤツデの葉に盛るのも九州での習俗だが、関東では有毒だと思われたらしく『大和本草』には「鰹ノサシミヲ八手木ノ葉二盛リテ食スレハ死スト俗ニイヘリ」とある。

ところで、ヤツデの茎には弾力性のある軟らかな白い髄があるが、これはヤマブキの髄とともに、酒席での遊びの一つとして享保年間に流行した“酒中花”の材料とされたという。


  サイカチ>   皂莢

 実物をつぶさに見たのはしばらく後のことであったが、皀角子(さいかち)という植物のあることを初めで知ったのは十八歳の頃だったと思う。当時の私は、大正時代から昭和の初期にかけての高村光太郎の詩にことのほか惹かれていた。そして、その一つ、昭和元年の師走に書かれた『火星が出てゐる』のなかにこの名があったのである。

   火星が出てゐる
   木枯らしが皀角子の實をからから鳴らす。
   犬がさかって狂奔する。
   落葉をふんで
   薮を出れば
   崖。

 駒込台の真上に光るまっかな星を見つめながら光太郎が聞いた、あのからからと実を鳴らしていたサイカチの大木は、ひょっとしたら今でも生き残っているかも知れない。
  恐ろしげな剛刺で守られた太い幹や、それぞれが不思議な角度で捻じり曲がりつつ枝先に連なっている黒褐色の長い鞘果が、冷たい北風のなかで、かららがららと、なにやら呪文のように鳴っているのを聞くと、ふとそんな想いにかられる。
 このマメ科の喬木は関東以西に分布し、しばしば川原に生えるので、カワラフジノキと呼ばれることもある。宇都宮貞子の『草木おぼえ書』によると、信州ではこの木をガランボ、ガラガラなどと呼び、正月にはこの莢に唐辛子を混ぜて焚き、その悪臭で厄払いをしたそうである。また、若葉を茹でて食べたり、お湯がすべすべしよく温まるので、乾いた莢を風呂に入れたとある。
 この秋に訪れた中国雲南省の大理の朝市ではサイカチのそれの数倍もある雲南皀莢の若い鞘を売っていた。直径一センチに満たない小さな半透明の種をスープに入れ、そのつるりとした舌触りを楽しむのだということであった。

         皀莢の素枯の莢の風鳴りも
                      止みたる今は霜満つらむか     木俣 修


  センダン>   栴檀

 洗柿色に頬を染めた、銀鼠のヒヨドリが、水浅葱(みずあさぎ)の喉元をふくらせふくらせ、夢中になってついばんでいるのは、黄金色に熟したセンダンの核果である。ヒヨドリ科の分布の中心は熱帯で、日本はその北限の地であるが、センダン科植物の分布パターンもこれとよく似ている。
 原日本人がこの列島に足跡を印す遥か以前から、暖地の沿海地に自生していたこの落葉高木は、さまざまな古典に“あふち”の名で書き記されてきた。

   珠に貫くあふちを家に植ゑたらば
               山ほととぎす離れず来むかも

 大伴書持が兄の家持に送ったこの歌にみるように、五つの稜をもつその白い核は緒にとおして装飾品とされた。また、初夏に群れ咲く淡紫色の小花も古人に愛でられ、清少納言は「木のさまにくげなれど、楝(あふち)の花いとをかし」とし、「むらさきの紙に楝の花、あをき紙に菖蒲の葉、ほそくまきゆひ----」と、花束に作り手紙にそえた当時の風習を記している。
 平安の才女には“にくげ”な樹形とみえたものの、賀茂の馬くらべを見にいった吉田兼好が「むかひなる樗(あふち)の木に法師ののぼりて、木のまたについゐて物見るあり」と書いたように、張り出した太い横枝は格好な足場となる。そして、壇ノ浦で敗れ囚われの身となった平宗盛・清宗父子の、近江の国篠原で斬られ、三条を西へ東洞院を北へと引き廻された首が、最後にかけ捨てられたのが「獄門の左の樗の木」であつた。梢に咲いていた紫雲のような花群れは、既に緑の実に変っていた。元歴二年六月二十四日のことであった。
 ところで、樗を“あふち”にあてたのは、植物学的には誤りである。樗は明治になって初めて移入されたニガキ科のシンジユのことである。同様に「双葉より芳し」とされる栴檀もセンダンとは別種で、熱帯産香木のビャクダンである。楝と栴檀との混同がいつに姶まったか定かでないが、新井白石の『東雅』に楝の俗名はセンダンだとあるところをみると、室町か江戸時代にかけてのことらしい。


  ビワ>    枇杷

  しぐるるや冬木の庭に枇杷の葉の
           いろさえざえと濡れそぼちつつ   太田水穂

 ビワはバラ科の常緑樹で、生育の良いものは高さ一〇メートル以上となる。分布の中心は揚子江流域だといわれるが、インド、ビルマ、ベトナムなどにもある。
 日本では埼玉県以西に野生がみられるが、そのほとんどは石灰岩地に生えている。秋芳洞洞口のビワは有名である。いずれの野生地でも、アラカシ、シロダモ、ヤブニッケイなどの常緑広葉樹と混生し、実生株も多く、我国の原植生にとけこんでいる。だが、史前帰化植物だと説く人もいる。
 枇杷(ピ-パ)という中国語は二世紀頃に著された『釈名』に初出するが、これは楽器の琵琶のことで、植物名として使われるようになったのは五~六世紀のことだというが、藤堂明保の説である。実や葉の形が琵琶に似ているからだというのである。
 日本では、『本草和名』に、和名は“比波”とあるところをみると、奈良時代以前に伝わった中国名が大和古来の言葉と思い込まれていたのであろう。ちなみに、英語ではビワをloquatというが、これは蘆橘の広東式発音に由来する。蘆橘はキンカンのことなのだが、どうしてビワと混同されたのだろう。
 『新修本草』の記載にみるように、ビワはまず薬用植物として認識されたのであるが、今日ではもっぱら採果用に栽培されている。日本では“茂木”と“田中”という品種が有名で、前者は天保か弘化の頃、三浦シヲという長崎茂木の女性が唐通事からもらった種子に始まり、後者は明治初期に本草学者の田中芳男が長崎から東京に持ち帰った種子の子孫だとされている。

 ところで、ビワを庭に植えると病人が出るとか悪霊がつくなどという人が現代でもいるが、これは小野蘭山が「木久しきを経ざれば実をむすばず、故に俗に栽し人死せざれば実を結ばずと云」と書いたことの影響だろうか。
 奈良明日香村では、正月十五日に小豆粥(あずきがゆ)をビワの葉に盛ってカキの根元に供えるという。その民俗学的な意味を知りたいものである。


  スギ>   杉

 「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すざまじい早さで麓から私を追って来た」踊子の一行に追いつくかも知れないという「期待に胸をときめかして道を急いでゐる」青春の日の川端康成の見た、この整然と植林された杉林の風景は、日本ならではのものである。

スギは我国特産の裸子植物の一つで、材は清涼な香気を放ち、耐水性にすぐれ、加工しやすい。そのため太古から利用されており、静岡市の登呂や伊豆韮山町の山木などの弥生時代の遺跡からも多量のスギ板が出土している。この時代の富士山南麓には到る所にスギの天然林があったのだろう。
 だが「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」という歌が『万葉集』にあるところをみると、有史以前から栽培・植林がおこなわれていたのかも知れない。
 スギの用途はまことに広く、家具や建築材となるだけでなく、かつては日本酒に香気を移すための樽材としての需要がことのほか多かった。奈良の平城宮跡から膨大な量の木簡が出土していることは有名だが、これもほとんどがスギ板である。また「杉及び櫲樟(クス)、此の両樹は、以て浮宝とすべし」と『日本書紀』にあるように船材としても重用された。さらに樹皮を剥いで屋根茸用とし、葉は粉末にして線香の原料としたり、束ねて薬玉を作り酒屋の看板とした。

       大杉の根にたたずみてうつつ世の
                         短かき人の命をぞ思ふ       香取秀真

 スギは長命で巨樹となる。屋久島にはヤクスギの大原生林があるが、ここで昭和四十一年に発見され、縄文杉と名付けられた巨木の樹齢は七千二百年と推定されている。縄文杉ほどではないにしても、樹高六〇メートルに達する高知県は八坂神社の“杉の大杉”をはじめ、各地の神を祭る場所には依代としてのスギの老大樹がある。巨木は遠くからでも人目につく。したがって、それはまた神々にとっても目印だと古代の人々が考えたからであろう。

      いつの間も神さびけるか香具山の
                          鉾杉がもとに苔むすまでに     鴨足人


  ウラジロ>   裏白

     正月あんどこまで 鷲峰山の麓まで
     裏白を蓑にきて 譲葉を笠にして
     白箸に餅さいて 食い切り食い切り
     ござった

 これは鳥取県気高郡の山里に伝わる童歌である。暮れも押し詰まり、大人たちの生活がにわかに慌しさを増すころになると、かつての日の子供たちは、正月の年神様がウラジロの蓑とユズリハの笠をつけて我が家へとやってくるのを、首を長くして待つのであった。
 ウラジロは日当たりの良い乾燥した山地に生える常緑性のシダ植物で、福島県以南に分布している。その葉の表は光沢のある緑色をしているが、裏面は粉を吹いたように白く、これが名の由来となっている。しかし、七〇もの里呼名も知られていて、近畿地方から四国にかけてはホナガあるいはヤマクサ、長崎・大分・熊本ではオニスダ、宮崎・鹿児島ではヘゴ、五島地方ではモロモチとよぶ人が多い。またオオシダとよぶ地方もあるが、これは近縁種のコシダに対応する名称である。
 日本人は、ワラビとともに古代からこのシダを利用していたらしく、奈良時代の『出雲風土記』には師太、室町時代の『下学集』にも歯朶の名で登場する。このように昔はシダといえばウラジロのことであった。また『下学集』には「正月に之を用ゆ」と記されており、すでにこの時代から注連飾(しめかざり)などに使われていたことがわかる。
 現代の日本でのウラジロの用途といえば、ほとんど正月の注連飾に限られているが、昔はもっと日常生活に密着した用途があった。その一つは細工物の素材で、光沢のある暗褐色の葉柄を編んで盆や手籠を作った。マレーシアではリネアリス・ウラジロを使って、今日でも家の内壁や椅子を編む。また食糧として各地で利用され、屋久島では新芽をゆでて食べたと聞く。オーストラリア原住民のアボリジニーはデイコトマ・ウラジロの地下茎から澱粉を採って食べていたという。

        うらじろの反りてかすかに山の声        高崎武義

 忘れられて乾いた飾り裏白が、山を恋しがって寒風に泣いていた。


  <ヤドリギ>  宿木

 20数年ほど前の年の瀬、初日に映える富士の姿が恋しくなって、洲崎の宿で夜を明かしたことがあった。相模湾をへだてて瞬く伊豆箱根の温泉郷の灯りと南天に輝くオリオンと、遠くから響いてくる黒潮の轟を楽しみながら杯を重ね、時至るを待つ。
 突然、山巓が赤く輝く。だが下界はいまだ闇の底に眠る。黒富士が赤富士へと変身する。やがてその初富士を背に、それまで闇にまぎれていたみごとな欅の古木が、黒々と浮かび上がってきた。その天と地を結ぶ、まるで神経突起のようにこまやかに分岐を繰り返す枝々のあちこちに、丸い神経節のような塊が点在していた。ヤドリギであった。
 この寄生植物は雌雄異株で、ヨーロッパからアジアにかけて広く分布する。アジアのヤドリギと違って純白の実をつけるヨーロッパから東アジアに見られるものはセイヨウヤドリギの名で変種として区別される。果肉は粘液質でべとつき、種子はヒレンジャクなどの小鳥により枝から枝へと運ばれる。常緑ゆえ、中国では“冬青”と呼ぶ。
 奈良時代の中期、天平勝宝2年(750)の正月2日、郡司たちを集めて越中国府の庁舎で祝宴が催された。その席で長官の大友家持は二上山の雑木林から採ってこさせたヤドリギの小枝を髪に飾り、「あしひきの山の木末の保与とりて挿頭しつらくは千歳寿くとそ」と詠った。保与(ほよ)とはヤドリギの古名の一つである。厳冬のさなかにあってなおみずみずしさを失うことのないヤドリギ、その力強い生命力を借りて、人々は己が一族の繁栄を願ったのである。
 アイヌの人々のヤドリギに寄せる信仰はヤマトのそれよりはるかに強かった。彼らはそれをあらゆる病に効く妙薬であるとともに、作物を豊かに稔らせる霊力を備えたものだと信じていた。たとえば、稗などの穀類を蒔くときには、細かく切り刻んだヤドリギの葉に種子を混ぜて、祈りを捧げて播種した。また子宝の欲しい女性は、いま一つの霊木であるヤナギに宿ったヤドリギを食べると願いがかなうと信じられてもいた。
 大変興味深いことだが、アイヌのそれとよく似た信仰がヨーロッパ各地から報告されている。また、西アフリカのセネガルにも“トブ”と呼ばれている宿木の一種があるが、ワロ族の人々はその葉に戦傷を予防する霊力があると信じていたという。
 ヨーロッパでのヤドリギ崇拝の習俗やその由来についてはプリニウスの『博物誌』、そして、ことのほかフレイザーの『金枝篇』に詳しい。
 ちなみに金枝とはセイヨウヤドリギのことだが、これは枝を切り取って数ヶ月放置すると、葉とともに黄金色に変わるからだという。
 「ブルターニュの農民はその小屋の前面に大きなヤドリギの枝を架けておくが、6月の頃ともなればこの枝の豊かな葉が黄金色に輝くので、ひときは目だって見事である』とフレイザーが記しているので、私も一度試してみたのだが、褐色に変わり、あげくは、ばらばらになってしまった。気候の違いか、着生する菌類が違うのか。その原因はわからなかったが、自分が黄金には縁のない男であることだけは確かめられた。


  <トクサ> 木賊

 もの云はぬ男なりけり木賊刈る
               蓼太

 この句を目にするたびに、私は幼い日の師走の生家の庭と一人のまことに寡黙な初老の植木屋さんを思い出す。毎年、楓や木蓮や椋などの夏緑樹の葉が散り敷いたころにやってきて、槙の垣根を切りそろえ、椎や樫や檜の枝をつめ、空池を覆うほどに伸び広がる、私の展望台でもあった赤松の大木を、あちらか見、こちらから見しつつ三日ほどもかけて剪定するのである。もの珍しさに、なにとはなくはしゃいでちょろちょろと纏わりつく幼児を適当にあしらいながら、切り落とした枝を束ね、散った葉を掃き集め、そして最後
に父の自慢の大きな赤石の周りの木賊を刈った。しぃしっと音を立てて、長い時をかけて砥いだ鎌で、しゃくりと刈るのである。そのときの鎌の使い方が、幼い記憶に焼きついた。手前に引くのではなく斜め前に押しだして刈るのであった。
  そして、成人してのち、嘉永4年(1851)刊という『雨窓閑話』にある「観世一代能の事並びに木賊刈の事」のなかで、観世太夫が舞う「木賊刈」が鎌の使い方を間違えていると農夫に指摘されたというくだりを読んだとき、私はすぐにあのトーシーさんと呼ばれていた寡黙な植木屋さんのことを思い出していた。
 トクサはシダ類の1種でスギナの仲間である。北半球の温帯に広く分布し、洋の東西を問わず古代から人々に親しまれ利用されてきた。
 中国では11世紀初頭に編まれた『嘉祐本草』に“木賊”の名で初出し、眼疾や消化器系の病や月経不順などの薬草だと記されているが、わが国の『延喜式』にすでにこの名がみられるから、唐あるいはそれ以前の今は失われた本草書に木賊の記述があったことは疑いない。こちらでは薬用より研磨剤としての用途が主だったようだが、清少納言が「とくさといふものは、風にふかれたらん音こそいかならんとおもひやられておかしけれ」と記したように、観賞の対象でもあった。

   木賊を一むら植ゑて打水のよろしき庭となりにけるかも    尾山篤二朗

 キリキア地方アナザバル出身のディオスコリデスにより紀元一世紀著されたとされる『薬物誌 Materia Medica 』にもトクサ類の薬効が詳しく記されていて、地上茎の搾り汁を葡萄酒とともに服用すると鼻血や消化管の出血を止め、利尿作用もあるという。西欧ではもっぱら研磨剤に使い、家庭では台所用品や牛乳桶や床を磨き職人たちは骨や象牙や金属や木材を磨くのに利用した。ヘルマーシャウセンの修道士ロジャーは12世紀に『様々な技工について』という論文を著し、そのなかでトクサの利用法を述べている。また、北米先住民のクロウィツ族は乾燥した茎を粉末にしてイクラに混ぜて食べたり茎の煎じ汁で頭髪を洗い虱避けにし、ケイロック族はその煎じ汁を目薬にしていた。

   白き猫庭の木賊の日たむろに眼はほそめつつまだ現なり     北原白秋

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