秋の七草
Seven representatives of autumn flowers in Japan


    秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花     (8-1537)
    萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花     (8-1538)

 秋の七草と聞けば真っ先に思い浮かぶのが、この『万葉集』巻8にある山上憶良の「秋の野の花を詠む2首」である。
 春の七草が中国古代からおこなわれてきた正月七日の”七種粥”と結びついているのに比べ、秋の七草はまとめて特定の行事に使われるものではない。
 だが、国文学者の中西進の説くところによると、やはり元来は中国由来の年中行事である”乞巧奠”(七夕祭り)に飾る花として選ばれたものらしい。もちろん”七”という数に限ったのも中国における律令的思考の借り物である。
 しかし、日本人の秋草好みは、大陸文化の模倣として奈良時代以降に流行するウメやモモやキクの花の愛玩と違って、おそらくそれよりも遥か古代からこの列島の風土の中で育まれたものであり、やがて中世において成熟する”わび””さび”の感性と無縁のものではなかった。額田王や和泉式部らを引き合いに出すまでもなく、日本人には春よりも秋に心を寄せるものがはるかに多いのもこのためであろう。
 秋は豊穣の季節であり、充足のときである。だが、秋はまた、間違いなく到来する冬の先触れでもある。
 この秋の野に咲く花々は人々に、ひとときの安らぎを与えるとともに、うつろうものの哀れをも語りかけているのである。
 憶良の七草は、『芸文類聚』をはじめとする中国の典籍に登場する植物という基準で選定されたらしいが、いずれも姿形の美しい秋草ばかりである。そのためであろう、最初の選定理由が忘れ去られた現代になっても我々はこの万葉集の七草に心ひかれてやまないのであろう。


~ 萩の花 ~
ヤマハギの変種のミヤギノハギ 里山に多いマルバハギ


 憶良が七草の筆頭にあげたハギはマメ科ハギ属の多年草である。この属のほとんどの種がヒマラヤ以東のアジアの温帯に分布するが、オーストラリア北東部と北米にもあり、ブッシュ・クローバーと呼ばれている。この属の学名はレスペデツァ(Lespedeza)だが、これは18世紀のフロリダ州知事セスペデス(V.M. Cespedes)に因んだ名である。ところがCがLと誤植され、”セス・・・・”とすべきものが”レス・・・・”となったまま定着してしまったのだという。
 日本には約15種が記載されていて、山野に自生するヤマハギ、キハギ、マルバハギ、ミヤギノハギ(古くから庭園にも植栽されている)などがハギと総称されている。またハギのの名がついてはいてもナンテンハギやヒメハギなどは別属の植物である。

 中国ではもっぱら緑肥や家畜の飼料として利用し、ほとんど鑑賞の対象にされることのなかったハギが、どうして憶良により七草の一つに選ばれたのであろう。
 それは単に大和の国の秋を彩る代表的な花だからというのではなく、『詩経』をはじめとする中国の古典に記された占星術用の”めとぎ”を作る霊草である”蓍(し)”、つまりメドハギの仲間だったからということのようだ。だが”蓍”はキク科のノコギリソウ属のものとする説もある。
 しかしその選定の理由は何であれ『万葉集』にはこの花を詠んだ歌が141首もあるところをみると、ハギの花がいかに当時の人々の心を捉えていたかがわかろうというものである。

 ところで、『万葉集』の白文表記には”萩”の字はなく”芽子”や”波義”などと用字されている。中国最古の字書『爾雅』にある”萩”を”ハギ”と和訓するようになったのは平安時代以降のことらしく『和名抄』に初出している。だが中国で”萩”と書く植物はキク科のヤマハハコやヤハズハハコのことであり、ハギそのものの中国名は”胡枝子”である。ハギに萩の字をあてたのは、これが日本の秋草を代表するものと考えた先人たちの知恵であった。ツバキに椿を用いたのと同じ発想である。ちなみに中国での”椿”はツバキではなく、センダン科の夏緑性喬木である。
 また面白いことに、近年出版された『中国高等植物図鑑』は胡枝子の別名の一つに萩を挙げている。日中文化交流の一面である。


~ 尾花 ~

 

 尾花はいうまでもなくイネ科のススキの花穂のことである。
 東アジアに広く分布し、日本でも山野のいたるところに見られるが、安定したススキの原は海辺の強風地や河川敷、あるいは人手が入る採草地など、他の植物にとっては苛酷な環境に発達する。
 この植物も中国の古典、例えば『爾雅』の「釈草」などに登場している。『万葉集』の中でススキを詠んでいる歌は山上憶良のそれをふくめて43首あるが、額田王の「秋の野の美草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮廬し思ほゆ」の歌に見るように、古代から日常生活に利用していた。美草はススキのことである。今日ではもう名ばかりとなってしまったが、各地に残る萱場とか萱刈場の地名は、かつて屋根葺き用や炭俵用のススキを刈り取るために維持管理されていたススキ原の名残である。ススキの利用がいつの時代に始まったのかは定かではないが、おそらく大陸から焼畑農耕文化が伝播し、この島国を覆っていた森林のあちらこちらに火入れがおこなわれだした頃からのことであろう。
 
 ススキはまた宗教的儀式にもしばしば使われていた。長野県の諏訪神社の御射山祭ではススキの穂を集め御仮屋を作って祭る。穂屋の神事である。
 「信濃路を過ぐるに」と添え書きのある芭蕉の句「雪ちるや穂屋の薄の刈残し」はこの神事で刈り残されたススキを詠んだものである。
 また葛井連子老(ふじいのむらじこおゆ)の挽歌「秋萩の散らへる野辺の初尾花、仮廬に葺きて・・・・」にみる、尾花の仮廬を作り死者をとむらう万葉時代の風習は、いまも京都の嵯峨野の地に伝えられている。そして、川崎市の白山古墳から出土した、冬枯れの野の色をした古常滑秋草紋壷(蔵骨器といわれている)にも鋭い刻線でススキが描かれている。

 「かつての日本人は、薄で葺いた産屋に生まれ、薄で葺いた屋根の下に住し、薄の仮屋に死し、薄の原に埋葬されていった」
 詩人相馬大は『花万葉集』にこう記している。


~ 葛花 ~
 葛花は中国や韓国のほかメラネシアやポリネシアにも分布しているマメ科の蔓植物のクズの花である。
 クズもまた中国古代の典籍に頻繁にとりあげられている植物で、紀元前11世紀から前7世紀に亘る周の民衆の歌謡の収録といわれる『詩経』の詩に数多く登場している。
 例えば「周南」11編の中にある”葛覃”には「葛のつるが伸びて/谷の木に這って行き/葉を茂らせ/小鳥たちを呼び寄せ/恋の歌をうたわせる」とある。この詩のように『詩経』に登場するクズはいずれも男女の睦み合いの象徴となっている。
  大変役に立つ植物で、昔から食用、薬用、織物用などとして利用されていた。 例えば貝原益軒は『大和本草』の中で「其ノ人ヲ救フコト五穀ニツゲリ」と書いている。
 また、明治時代に北米に移入されたクズは彼の地で野生化している。クズ・バインと呼ばれ、家畜の飼料として利用はされるが都市近郊ではその強い繁殖力をもてあましている。休暇でしばらく留守をしている間に、駐車して置いた乗用車が覆い隠されてしまったという話もあり、ここではデヴィル・バイン(悪魔の蔓)と恐れられている。 ポリネシアにも分布していると前に書いたが、恐らくこれは有史前に東南アジアから移住してきた人々が持ち込んだ自然帰化植物であろう。フィージーではヤカ、トンガではアカと呼んでいる。飢饉の非常食である。


 瞿麦の花 ~

 瞿麦は東アジアの暖温帯に広く分布するナデシコのことで、中国では古代から薬草として利用されていて漢の『神農本草経』や唐の『新修本草』などにその名を見ることができる。
 山上憶良がこの植物を七草の一つに選んだ理由の一つはこのように中国でも注目されてきたことであろうが、それとは別に日本の野に咲くこの花をすでに大和人が鑑賞の対象としていたからでもあろう。

 憶良だけでなく、数々の万葉の歌人たちがこの花を詠んでいるが、集中11首ものナデシコを詠んだ歌を残した大伴家持はことのほかこの花に執着していたようだ。
     なでしこがその花にもが朝なさな手に取りもちて恋ひぬ日無けむ
     なでしこが花見るごとに娘子らが笑ひのにほひ思ほゆるかも
 越中守に任じぜられ、雪深い北国で暮らす家持は望郷の念にかられつつ館の中庭に百合を植えナデシコを育て、京に残してきた妻の坂上大嬢に思いを馳せつつこう歌うのであった。
 
 平安朝の才女たちもまたナデシコを愛でた。その一人、紫式部も『源氏物語』の背景にしばしばナデシコを登場させている。
 例えば、常夏の巻では玉鬘の住む館の、その夕映えの庭先に咲き乱れる唐と大和のナデシコが咲き乱れている。また、野分の巻には、台風のさった朝の六条院の秋好中宮の庭で、吹き散らされたナデシコなどの秋草を童たちが手に持った籠に集めているありさまが書き記されている。土佐光吉が描いた『源氏物語図』のこのシーンには秋草の乱れ茂る庭に、撫子紋の袙(あこめ)を着け、折り取ったナデシコを手にした少女が立っている。

      野辺みればなでしこの花咲きにけりわが待つ秋は近づくらしも     (10-1972)

 ちなみに、ナデシコと総称される植物は数種類があるが、万葉集を始めとする古典にとりあげられているナデシコはカワラナデシコと考えられている。また万葉集の白文を改書するときナデシコに石竹という漢名を充てることがあるが、石竹は庭園に栽培されるカラナデシコのことで日本にもたらされたのは平安時代と考えられている。


カワラナデシコ オミナエシ


~ 女郎花 ~
 女郎花、つまりオミナエシもまた東アジアの暖温帯に広く分布している植物で、日当たりの良い山地の草原に多い。
 中国ではすでに漢の時代から薬草として知られ、敗醤と呼び乾燥させた根を浮腫や産後の痛み止めなどに処方していたが、その花の美しさに注目したことはなかったのか、詩歌に登場することはほとんどなかった。しかし山上憶良らがこの植物を乞巧奠に飾る花として選んだところをみると、大陸で名の通った薬草というだけではなく、古代から日本人はこの秋草の花の美しさに惹かれていたのであろう。それはオミナエシを詠んだ歌が万葉集だけでも14首もあることからうかがえる。
 万葉集の白文表記では女郎花と書かれた例はなく、娘子部四・娘部思・佳人部為・乎美奈飯之などと記されているが、いずれもこの花に美しい女性の姿を重ね合わせている。女郎花の表記は延喜年間(901~922)のころから使われるようになったらしい。
 漢名の敗醤は『神農本草経集注』によるとこの草の根に腐敗した豆醤に似た臭気があることに由来するという。また、庭に植えてみるとよく分かるのだが、根が臭いだけでなくだけでなく花が終り実が熟し葉が枯れ始めるころになると花の姿からは想像できないような異臭を放つ。これもまた漢名の由来であろう。
 女郎花を愛した万葉人や平安時代の貴族たちは、秋の野に咲く姿を離れたところからながめて楽しんでいたに違いない。

       ひぐらしの鳴きぬる時は女郎花咲きたる野辺を行きつつ見べし    (17-3951)

~ 藤袴 ~
 フジバカマは関東以西の人里の川辺近くなどで時々見かけるキク科の多年草で、韓国と中国にも分布している。都市化が進んだ現代日本では野生のものを目にすることが難しくなったが、かつてはありふれた秋草であった。しかし、植物学者たちはその分布のパターンから奈良時代以前に薬草として中国から移入されたものが野生化したのだろうと考えている。いわゆる史前帰化植物の一つである。
 原産地の中国では、日本の縄文時代晩期にあたる周の時代から特別の意味を持つ植物としてあつかわれていた。例えば『詩経』にある「溱洧」という題の詩はフジバカマの若草を手に手に摘んだ未婚の男女の春の川辺での恋遊びを詠う。晋の陸機によれば、この詩がうたわれた鄭の国では三月に若者が水辺に集ってフジバカマの若葉を採ったという。香りが邪気を払うと信じられていたためである。唐の時代になると一級品の薬草としても重用されていた。遣唐使としての留学経験もある山上憶良がこの草を秋の七草の一つに選んだのも、フジバカマのもつこうした文化的価値を考慮したためであろう。
 だが万葉集にはフジバカマをとりあげた歌は憶良の一首以外にはない。あまたの詩歌に登場するようになるのは『古今和歌集』以降のことである。そしてこの頃になると「やどりせし人の形見か藤袴忘られかたき香に匂ひつつ」という紀貫之の一首にみられるように、フジバカマは藤蔓の繊維で織った袴を着けたろうたけた姫が、野辺に迷って行き倒れたその跡に生えた草だ、という純日本的な伝説を念頭においた短歌が多くなるのである。

サワフジバカマ キキョウ
 新潟の大橋様から、ここに載せた写真は典型的なフジバカマではなく、サワヒヨドリとフジバカマの雑種と推定されているサワフジバカマだとのご指摘をいただきました。現在インターネット上でフジバカマとして紹介されているもののほとんどがこのタイプです。
 典型的なものは次のURLをご覧ください。 http://www.city.ome.tokyo.jp/index.cfm/30,2562,173,250,html


~ 朝貌の花 ~
 ここまでにみてきたように、七草の内6種はその名を特定できたが、憶良が最後に挙げた”朝貌”に問題が残る。万葉集中には”あさがお”を詠んだ歌が5首あるものの、それぞれがこの植物の異なる姿を捉えていて実体に迫りにくい。
 巻14-3502番の「わが愛妻人は離くれど安佐我保の年さへこごと我は離かるがへ」を(私の愛しい妻を人は離そうとするけれど、安佐我保が毎年絡まるように私にはとても離れがたい)という意味だと解釈すれば、弦を伸ばして絡まるヒルガオ科のアサガオも候補にあげられるだろう。しかし、残りの歌からはあまり目立たぬひっそりとした雰囲気の花という印象を受ける。
 また、万葉集以降の典籍を眺めても”朝貌”が何であるかを断定することは困難である。
 例えば『本草和名』や『和名抄』などは牽牛子、つまりアサガオだとみなしており、『拾遺和歌集』などはアオイ科の木槿(ムクゲ)と考え、現存する最古の漢和辞典である『新撰字鏡』ではキキョウ科の桔梗(キキョウ)が憶良の”朝貌”だとしている。
 最初にあげた3502番の歌はアサガオ説に有利であろうし、巻10-2104番の「あさがほは朝露負いて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」という歌はムクゲ説を支持するようにも思える。しかし大方の学者は”秋の野に咲く”という条件を重く見てキキョウ説を採っている。
 確かに憶良の詠った七草の内の朝貌には古代中国でも薬草として珍重されていたキキョウが相応しいのだろう。しかしそのほかの歌にある”あさかほ”は必ずしもキキョウに限る必要はないと思う。

~ 江戸時代の七草 ~

 日本の秋は長く、北から南へと、甲乙つけがたい野の花が咲き乱れる。しかしその中から憶良が選んだ七草は彼が遣唐使の随員として留学した学んだ大唐帝国の文化を色濃く反映したものであった。
 したがって選者が異なれば七草も変わる。江戸時代中期の琴歌では「オトコヘシ、リンダウ、ノギク、シオン、カルカヤ、キキョウ、ワレモコウ」が七草として歌われている。『秋野七草考』を著した向島百花園初代園主の佐原鞠塢は「トロアオイ、リンドウ、オシロイ、カラスウリ、ヒオウギ、ゴジカ、ユウガオ」を七草に選んでいる。


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