AKIKAZE

秋風に揺れて咲く

立秋 〜 処暑 〜 白露 〜 秋分 〜 寒露

〜 秋たつや川瀬にまじる風の音      飯田蛇笏 〜

索引  イタドリ オケラ オシロイバナ オミナエシ キョウチクトウ クサギ コスモス サルスベ
 シロバナマンジュシャゲ タケニグサ ツユクサ ツルボ ナツズイセン ナデシコ ハギ
 ヒガンバナ 被爆ヒガンバナ フジバカマ ホウセンカ マツムシソウ ムクゲ ワレモコウ


 クサギ >  臭木

 生家の石垣に一株のクサギがあった。成長の早い木ゆえ、放置すれば石組みが崩れるからということであろうが、梅雨明のころになると、その枝打ちをするのが、中学生の私に課せられた仕事の一つであった。切り落とされた枝葉は名にたがわぬ異臭を発し、その後片付けは私にとって年に一度の苦役であった。
 そんなわけで、一時期の私は、この木の茂みを見るたびに「紫がかり黒味をおびし臭木の葉重く心におひかぶさりぬ」という前田夕暮の歌を思い出さずにはおれなかった。
 ところがいつの頃からか、わたしはこの木が好ましく思えるようになっていた。それは、あのひととの辛い別れをした初秋の日、キャンパスの片隅にほのかに香り咲く白いクサギの残り花に気付いたその時からだったのかも知れない。


 行きすぎて常山の花の匂ひけり      富安 風生

 クサギには独特の臭気があり、それゆえに臭木の名を得たが、花は甘く香り、黒揚羽が好んで飛来する。開花するとまず雄蘂が突出し、花粉を放出すると巻き縮み、代わって雌蘂が伸び始める。自家受粉を回避する仕組みである。常山の字を当てることもあるが、これは平安時代に中国産の常山、つまりジョウザンアジサイをクサギと混同して以来のことでである。
 何の役にも立たない木かと思っていたが、美濃の井深の禅寺では、春の若芽を摘み干して精進料理の具にしたというし、江戸時代の百科事典である『和漢三歳図会』にはこの木の芯に巣くう常山蟲は小児の疳の薬になるとも記されている。
 日本には3種が自生するのみだが、クサギの仲間はあきれるほど多く、全世界では400種以上だという。ほとんどが熱帯や亜熱帯産である。数々の美花があるが、私は“マレーシアのポゴタの花”と呼ばれる赤花のパニキュラータ・クサギや熱帯アフリカ産の、乳白色花を手毬状に咲かせるキャピタトゥム・クサギが好きだ。



 

 マツムシソウ>  松虫草

 御山洗いと呼ばれる雨が上がった富士の裾野の草原に、薄紫のマツムシソウが寂しげにうなだれていた。松虫が鳴くころになると咲き始めるが故の名だが、花の色もあの虫の声によく似合う。ヨーロッパでは皮膚病に効くからと、この類を「疥癬草」というが、イギリスの子供たちは「もじゃもじゃ頭」だと教えてくれた。



  オミナエシ>  女郎花

 秋づきて草蔭荒くなりにけり
         咲きゐるものは女郎花の花
               尾山篤二郎

 立秋の声をきくとまもなく、今年も庭の片隅で、オミナエシが金色の粟粒のような花を咲かせ始めた。この多年性草本は東アジアの暖温帯に広く分布し、日当たりの良い山地の草原に多い。昨秋訪れた、北京の西郊に位置する香炉峰の山腹にも、風に揺れて咲くオミナエシが点在していた。


 現代中国の植物学者は黄花龍牙と呼ぶが、かつては同属で白花をつけるオトコエシとともに敗醤と呼び、若葉を食用し根は干して浮腫や産後の痛み止めの薬としていた。梁の武帝の頃『神農本草経集注』を著わした陶弘景によると、敗醤の名はその根に腐敗した豆醤に似た臭気があることに由来するという。庭に植えてみると気づくことだか、根だけでなく花が終わり実が熟し葉や茎が枯れはじめるころになると、獣の尿のような独特の臭気を発する。それは花時の可憐な姿からはちょっと想像できないほどのものである。

 オミナエシを秋の七草の一つに選らんだのは、大陸への留学の経験もある、かの万葉の歌人、山上憶良である。彼が七草を選定した目的は、中国由来の行事である七夕祭りの乞巧奠に飾るためであったようだが、この花はそれ以前から人々の心をとらえていたのだろう。これはオミナエシを詠んだ歌が万葉集だけで十五首もあることからもうかがえる。だが今日のように女郎花の字を当てた例はなく、娘子部四・娘部思・佳人部為・乎美奈飯之などと書かれ、憶良の歌でも姫部志と表記されている。しかしいずれをみても、この花に美しい女性の姿を重ねあわせていることがわかる。女郎花は延喜年間の頃から使われだしたらしい。

 ではなぜ「オミナヘシ」と呼ばれるようになったのだろう。平安時代初期に深根輔仁が著わした『本草和名』では敗醤の和名を於保都知(おほつち)、別名知女久佐(ちめくさ)としている。別名のほうは血目草の意味で、結膜炎などの眼病に薬功があるからだという。だが、「オミナヘシ」はこれよりも古くから使われていた呼称である。万葉集に「姫押」と書かれた例があることから、江戸時代の『古今要覧稿』などは、美女をも負かすほど美しい花の意味だと説く。しかし、深津正の説も捨てがたい。それは、上古の人々がすでにオトコエシを男敗醤、オミナエシを女敗醤と区別していて、「おみなはいしょう」がいつしか「おみなへし」と転化したというものである。ただし、天平の文化人が「敗醤」を「はいしょう」と発音していたか否かの確証はない。

    わが机袖にはらへどほろろ散る
                      女郎花こそうらさびしけれ     与謝野晶子






  ナツズイセン>  夏水仙

 連日の猛暑をものともせずに、ぐいぐいと背丈を伸ばしてきたナツズイセンの薄緑色の花茎の先に、ほのかに青味がかった桃色の花が開いた。春には茂っていた地上部は、5月になると枯れてしまい、どこに植えておいたのか忘れたころ、突然に花が咲いて驚かされる。それで、ワスレグサと呼ぶところが多い。揚子江の下流域で生まれた雑種で、種子はできない。


  サルスベリ>  百日紅

 さるすべりの老い立てる木にくれなゐの
            散りがたに咲く花を惜しみつ
                  斉藤茂吉

 秋暑の厳しい日であった。研究材料のコヒロハハナヤスリを求めて訪れた長生郡の地引村の墓地は、白い花の点在する蓮田が眼下にひろがる岡の斜面にあった。その墓地の中央には、十数基の墓石をかばうかのように枝を広げた、みごとなサルスベリの古木が植栽されていて、まもなく彼岸に入る頃だというのに、見あげる枝先には桃色の雲を連想させるほどたわわな花房が揺れていた。

 サルスベリは中国南部原産の花木で、あちらではふつう紫薇(ジイウェイ)と呼ばれている。紫薇とは唐代の皇帝の居所のことだが、その中庭にこの木が植えられていたことに由来する名である。昆明植物研究所の顧志健さんは痒痒花(ヤンヤンファ)ともいうと教えてくれた。猿も滑りそうなつるりとした茶色の木肌を指先でそっとくすぐると、まるでむず痒がるかのように、花をつけた枝先がふるふると揺れるからだという。いっか風の全くない日に試してみようと思いつつ、まだ確認するに至っていない。日本では百日紅とも呼ぶ。

 中国の人々はこの花の美しさに並みなみならぬ愛着を抱いているらしく、衛昇の『紫薇図』など、宋の著名な画家たちの作品をはじめとし、数多くの名画が残されている。昨年の秋のある日、広州の流花路に面した書店で手に入れた『李野屋花卉冊』にも「艶夏」と題したすばらしいサルスベリの絵があった。李野屋(りいぇう)は一九三八年に三九歳で夭折した近代中国画壇の俊秀である。
 この木が我が国に渡来したのは室町時代以降のことと考えられているが、中国と違いほとんど描かれなかったようだ。私が知っているのは、円山応挙その人かその流派のひとりの手になるものと言われる、京の冷泉家に伝わる「花貝合せ」の蛤に描かれたそれと、伊藤若沖が描いた京都信行寺の天井画のうちの一枚だけである。

  まさびしく地虫きこゆる此庭の
                    百日紅の花うつろひにけり      今井邦子




   <オシロイバナ>   白粉花

 眼前をなにか小さな白いものが舞って、落ちた。

 足もとに音もなく横たわったのは、懐かしいオシロイバナのバラシュートであった。思わずふり仰ぐと、右側のビルの六階のベランダから身を乗り出した少年が、私に手を振っていた。窓にそろそろ燈のともる頃であった。

  おしろいは父帰る刻咲き揃ふ    菅野 春虹

 オシロイバナは、熱帯アメリカを中心に分布するオシロイバナ科オシロイバナ属の一種である。花は七月から霜が降りる晩秋まで咲きつづけ、冬には地上部が枯れる。さまざまな彩りの花弁のようにみえるのは蕚で、その基部を抱く緑色の部分が苞である。夕方四時頃から咲きはしめるので、フォーオクロックとか夕化粧の名もある。

 十六世紀にスペイン人やポルトガル人によりヨーロッパへ持ち込まれ、それが各地へ広まったといわれている。日本へは江戸時代の初期に渡釆している。一七〇八年出版の『大和本草』には白粉花の名で記載されているが、花は「朝開夕ニ萎ム」と誤記したり、「中華ノ書ニテ未見之外国ヨリ来レル物ナルヘシ」としていることからも、渡来して間もない植物であったことがうかがわれる。一方、この四年後に出た『和漢三才図会』には、種子のなかにある白粉を集めて婦人の顔に塗ると本物のチ粉(おしろい)よりも艶がでるので、俗に白粉草という、と名の由来がしるされている。また、一六九九年の『草花絵前集』には“おしろい”の名で、よくその特徴をとらえた絵が描かれている。

 中国へも十七世紀末までには渡来しており、白井光太郎の『植物渡来考』によると、一六九一年刊とされる『遵生八牋』に紫茉莉あるいは臙脂花の名で登場しているという。『填南本草』(一四五〇年頃)にある苦丁花もオシロイバナだとする学者があるが、もしこれが正しいとすると、コロンブスの新大陸発見以前にアジアと中南米間に往来があったことになる。

    星あひの空よりおつる宵あかり   
            咲きひろがれるおしろいの花       臼井 大翼




   <タケニグサ>   竹似草

 大暑の頃のあのさんざめきが嘘だったかのように、静まりかえった登山道には、もう秋の気配が濃い。その道に沿った草の茂みからは、黄褐色の扁平な実を鈴なりにつけたタケニグサが、ひときわ丈高く伸びあがっていた。風が吹き渡ると、触れあった実が、ひそひそと囁きあい、白い葉うらをひらひらとみせた。
 タケニグサは、中国大陸の一部と、北海道を除く日本各地に分布するケシ科の多年草である。ケシ科には有毒植物が多いが、タケニグサもプロトピンやケリドニンなどのアルカロイドを含んでいる。


 毒草であることは古くから知られていた。唐の陳蔵器が著した『本草拾遺』(七三九年)に初出する博落廻という名の植物がタケニグサのことだが、その解説には「大毒があり…、長江の流域の山谷に生じ、茎葉はヒマに似ている。中空の茎を吹くと博落廻のような音がする。折ると黄汁が出るが、これを口にするとたちどころに死ぬから要注意」とある。また、段成式の『酉陽雑爼』(八三〇年頃)には、「中空の茎を吹くと勃邏廻のような音を出すので、そのように名づけた」とある。

 では日本ではいつ頃からこの草に注目するようになったのか。定かなことはわからないが、『大和本草』は、この草をシシヤキ草とかササヤケの名で呼び、『本草網目啓蒙』は、チャンパギグ、ササヤキグサ、オオカメダオシなどの名で呼んでいる。最後の名は狼をも倒すほどの毒草という意味かもしれない。しかし、どちらの書物にもその毒性についての説明はない。
 チャンパギクの名は、これが、かつてインドシナ半島に栄えた占城(ちゃんぱ)という国から渡求した菊だという誤解にもとづくものだという。シシヤキ、ササヤキなどは同系の呼称だが、「笹焼き」の意とも、「囁き」の意ともいわれる。また、標準和名のタケニグサは、茎の断面が竹のそれとよく似ていることに因んだものだという。

 ところで、私が子供の頃には、この草をヨーチン草と呼び、運動会にはその黄赤色の汁を脹脛(ふくらはぎ)に塗りつけて走ったものである。

     足遅き児にまじないの竹似草      菊川 静




   ヒバクヒガンバナ>   被爆彼岸花

 一九四五年八月九日午前七時。濃くたれこめていた朝霧が晴れると、美しい坂の町並みと波おだやかな長崎湾が、いつもと変わらぬ姿を現わした。樹木や草の葉は光り、大地はしっとりと湿り、その黒々とした地表の下にもあまたの命がいきづいていた。
 十一時二分、松山町一七〇番地上空五〇〇メートル。“ファットマン”のプルトニウムが臨界点に達し、閃光を発して炸裂。人間も家畜も草木も、そして大地も、ありとあらゆるものが熱線と爆風と放射線にうたれ、焼かれ、傷つけられた。あとには、断末魔の世界がはてしなく続いていた。
 十一時二〇分。“黒ぼこり”が薄れるとともに黒い雨が降りはじめた。夜半まで断続的に降る。

『「ああ、なんということだろう」母が赤ちゃんを固くだきしめて言いました。 「------世の終わりではなかろうか?------」。のどが乾いてたまりませんでしたので水をくみに行ったら、油のようなものが一面に浮いていました。それは空から降ったものだそうです。-----どうしても水が欲しくてたまらず、とうとう油の浮いたまま飲みました。』 当時九歳だった山口幸子さんの手記である。


 原子野に秋が訪れたとき、奇妙な花が咲いた。葉のないショウジョウバカマかと見まがうそれは、八月九日に土中にあって被爆したヒガンバナの球根が咲かせた花であった。
 写真はそのヒガンバナの押葉標本である。文部省学術研究会議が昭和二〇年九月に設けた原子爆弾災害調査研究特別委員会の生物学的調査団の一行に加わった北村四郎が、その年の十月十五日に爆心地近くで採集した株の一つである。この調査団の一員であった前川文夫は現地での様子を「ヒガンバナ特有のあの赤さも、豪華な花弁の妖艶なそり返り方も全く見られず、みすぼらしい花つきである」と書いている。


 京都大学の静まりかえった標本庫の中で、はしめてこの標本と出遭ったとき、「愚かなる人間よ-----」というこの枯れ果てたヒガンバナの叫びを、私は確かに聞いたのであった。
 京都と東京の植物園に移植されたこの被爆ヒガンバナはすべて一年で死に絶えたそうである。



   イタドリ>   虎杖

  いたどりの白き小花のむれ咲くを
            幾たびも見て山を越え来ぬ    斎藤茂吉

 茂吉が好んだ“白き小花”をつけるイタドリは日本全土の原野山間にごく普通に見かけるタデ科の多年草である。春先に竹の子のように伸びあがる若茎にはさわやかな酸味があり、昔はよく子供たちが生で食べた。塩漬けにして保存したものは、もどせば種々な料理の素材となり、たいへん美味である。

 広く分布する植物には複数の里呼び名があるのが普通で、イタドリもその例外ではないのだが、この草の場合には、べらぼうに、といってよいほどそれが多い。手元にある『植物方言集』を調べただけでも五百三十余の里呼び名があった。だが、この膨大な呼称のうちでもイタドリという名が最も広い分布を持つ。柳田国男が『虎杖及び土筆』を著した時点で、その分布の北限は越後、南限は土佐であった。
 生物の種の分布様式と同じで、古い起源を持つものが必ずしも広範囲に分布するとは限らないものの、イタドリという言葉は平安初期の古典にすでに現れている。

イタドリの中国名は虎杖で、これは杖にもなる茎にある虎斑模様に由来するのだと李時珍が書いている。この虎杖の和名が“以多止利”だとしているのが、深根輔仁の『本草和名』である。つまり九〇〇年頃には既に使われていた名前である。
 さらに古い時代にはタヂあるいはタヂヒという名も使われていたことは『日本書紀』の反正天皇の条に「多遅花は今の虎杖花なり」とあり、天皇がこのタヂの花の咲く井のそばで生まれたので「多遅比瑞歯別」と命名されたとあることから知れる。
 『古事記』ではこの天皇の名を「蝮(タヂヒ)之水歯別」としているところをみると、タジヒといふ呼称はイタドリの茎の斑紋がマムシのそれに類似することに由来するのだろう。
 京から遠く離れた東北と九州に今も残るサシとサドという呼び名は、タヂからの音韻変化として説明できるであろうが、イタドリの語源はよくわからない。前川文夫のいうように“イチシ”から生まれた名なのだろうか。




 
  キョウチクトウ>   夾竹桃

 いつの間にか処者も過ぎ、明日は白露だというのに、その日はことのほか暑さが厳しかった。あれを秋暑というのであろうか。そしてその夕刻、大きくたわむ枝先に群れ咲く夾竹桃の赤い花々を引き千切らんばかりの激しさで、雷雨が通り過ぎていった。

  遠のける雷の音かそかにて
         夾竹桃を吹き揺する風      松村英一


 その日、私は某紙に連載されていた『平和の風景』を纏め読みしていた。その中に次のような上広豊子さんの手記があった。

「原爆が役下きれた時、爆心地から1.5キロほどの会社の庭で、ラジオ体操をしていました。------父を奪われ、母も放射能による肝職障害で亡くしました。キョウチクトウの花を見ると、身震いがします。焼けただれた膚の色と同しなんです」

 こんな想いで、この花を見ている方がおられたとは、不明にも私はその時まで知らなかった。以来、私にとってもこの花は反核の象徴の一つとなった。

       穴竹桃ピカドンの日をさりげなく         平畑静塔

 ご承知のように、キョウチクトウは外来種である。原産地はインド、西アジア、地中海地方といわれる。中国を経て江戸時代に日本に持ち込まれたものがインド生まれのキョウチクトウであり、地中海から新大陸へ渡り西廻りでやって来た種がセイヨウキョウチクトウである。よく似ていて素人目には区別が難しい。どちらもネリオドリンやオレアンドリンなどの強心配糖体を含有した有毒植物である。このため、インドからマレーシアにかけた地域では、かつてその根の煎汁を堕胎や自殺に用いた。最近人手した『カリホルニアの有毒植物』には、一九八二年にコントラコスタ在住の九十六歳の女性がセイヨウキョウチクトウの葉を多量に食べて自殺したという記事があった。しかし、生枝を燃した煙を無理に吸ったり意図的に大量の葉を食べたりしない限り、死に至るほどの強い毒性は無いのだから、身近にこの木があっても心配するにはおよばない。

     秋づきて朝霧さむき街角に
           夾竹桃のはな赤く散りたり      古泉千樫



   <ツユクサ>   露草

 早朝の冷気に秋の訪れを知らされる侯になると、きらきらと輝くような青色の小花が、雑草の茂るにまかせた庭のおちこちに開きはじめる。徳富蘆花が「花ではない、あれは色に出た露の精である」と書いたツユクサの花である。
 ツユクサという名は元来江戸の方言らしく、ホタルクサとかボウシクサと呼ぶ地方も多い。だが、万葉集などの古典にみられるように古くはツキクサと呼び月草と書いた。
 この名の由来については、越谷吾山の『物類称呼』が「よろづの花は朝日影にあたりてこそ咲に此花は月影にあたりてさけば月草」であるとする新井白石の説を紹介している。


ところが、実際は夜間に咲くのではなく、早朝、東の空が白む頃からつぼみがふくらみ始め、朝日が差す頃までに開花するのである。

    朝咲き夕は消ぬるつき草の消ぬべき恋も吾はするかも

ツユクサの花の命は短い。日が中天を過ぎるにしたがい青い花弁は光を失い、ちりりと縮れ、やがて薄緑色の苞の内へかくれるように消えてしまうのである。まことにうつろいやすい花ではある。

    つき草に衣はすらむ朝露にぬれての後はうつろひぬとも

 万葉人はこのツユクサのさわやかな青色を好んだようである。朝に集めた花びらで摺染めされた衣はさぞ美しいものであったろう。
 つき草とは衣に染め着く草、つまり“着き草”といことらしい。美しい染料ではあったものの、この色はことのほか水に溶けやすい。
 ひとしずくの朝の露にさえ、さっと消えさってしまう青色であった。忘れられてもいい、だがいま思いをとげたいのだ、とこの譬喩歌は語りかけているのか。

 つき草による摺染は紫染や藍染にとってかわられたが、水に流れやすい性質ゆえに友禅染や紋染の下絵には、いまもこの花の色素が使われている。
 その絵具は青花紙であるが、これは草津市の木ノ川や下笠に栽培されるツユクサの変種、オオボウシバナの花汁を和紙に染み込ませ乾燥させたものである。



   ホウセンカ>   鳳仙花

    鳳仙花夕日に花の燃え落ちし      鈴木花蓑

西日を受けたとき、その花色が一段と鮮やかさを増す花はあまり多くはないが、ホウセンカは不思議なほどに沈みゆく陽の光を吸収し明るく輝く。
 
 インドから熱帯アジアにかけての地域を故郷とするこの草が、いつ日本列島にもたらされたのかは定かではないが、室町時代に一条兼良が著したとされる『尺素往来』にこの草の名が記されている。多分この頃、明国から渡来したのであろう。
 李時珍の『本草網目』に“花は飛ぶ鳥に似ていて、頭翹尾足がそなわり鳳のようだ”とあり、その名の由来がわかる。また“庖人は魚肉の硬きものを烹るとき数粒の種子を入れる。すると軟らかとなる”とか“この草には虫がつかず、蜂や蝶も近づかない。毒があるからだろう”などという記述もある。だが事実は、寺島良安が『和漢三才図会』に「蝶蜂モ亦不近之説非也。特ニ蝶喜ビテ其花ヲ吸也」と書くとおりである。

江戸時代にはすでにさまざまな品種が栽培されていたようだが『百花ノ譜』の著者森川許六のように「鳳仙花といふ花は、是もけばけばしく、紅粉鉄漿を粧ひ、人の眼を驚かすやうなれども、手に携へて見るべきものにあらず。木ぶり葉つきのいやしき事は、彼の出女の李喰ふ口もとには似たり」と徹底的にけなす人もいた。

 しかし、草花あそびの好きな子供たちからはこよなく愛された花であった。九州地方にいまも残るツマクレナイとかツマベニ、ツメゾメなどの里呼び名が教えてくれるように、昔の女の子たちはこの花の汁で爪を染めて遊んだのである。
 沖縄の童たちも「テングサぬ花や爪先に染みり---」と唄ったという。“テングサぬ花”はホウセンカのことである.田中幸平の『野の民俗』によると、美しく染めつけるためには、摘みとった花にカタバミの葉を搗きあわせたものを爪にのせ、草の葉で包んでおくのだという。

      山里に友とひよれば庭さきにつまくれなゐの花ぞ咲きける     伊藤左千夫




   <ナデシコ>   撫子

 高原に風が立ち、アキアカネが里に舞い下りる頃になると、まだ草いきれの消えやらぬ河原の茂みのすそに、辺縁が細かに裂けた、桃色の可憐な五弁花が咲きはじめる。ナデシコの花である。

 山上憶良が秋の七草の一つに選定したことからもわかるように、ナデシコは古代から大和人に愛好された秋草である。憶良だけでなく、数々の万葉の歌人たちがこの花を詠んでいるが、なかでも大伴家持はことのほかナデシコに執着していた。

     なでしこが花見るごとに少女らが
            笑まひのにほひ思ほゆるかも

 越中守に任ぜられ、雪深い北国で暮らす家持は、望郷の念にかられつつ館の中庭にユリを植えナデシコを蒔き、奈良の都に残してきた恋しい妻、坂上大嬢に思いをはせ、こう詠わずにはいられなかった。天平感宝元年のことであった。

 いっぽう、家持を恋いしたう笠女郎は「朝ごとにわが見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも」と文を送る。彼女は自分の庭に咲くナデシコが、この花をことのほか好む家持の化身であればと願ったのだ。

 平安朝の才女たちもまたナデシコを愛した。その一人である紫式部も『源氏物語』の背景にしばしばナデシコを登場させている。

 たとえば常夏の巻をひもとけば、玉鬘の住む神殿の、その夕映えの庭先に咲き乱れる唐と大和のナデシコをみることができる。光源氏にとって、それは幼さない玉鬘の象徴であると同時に、その母夕顔の若き日の姿をも象徴するものであった。
 また野分の巻には、吹き荒れた台風の去った朝の六条院がえがかれている。夕霧が見舞に立ち寄った秋好中宮の庭には、まだうすく霧が流れ、そこに色とりどりの籠を手にした四、五人の童が降りたって、あわれに吹き散らされたナデシコなどの秋草を集めていた。この様子は、土佐光吉よる『源氏物語図』に細密に描写されている。その絵の中央、秋草の茂る庭に立つ少女の一人は、撫子紋の袙(あこめ)を着け、その右手にはひともとのナデシコが揺れているのであった。

        野辺みればなでしこの花咲きにけり
                       わが待つ秋は近づくらしも   万葉集、夏雑歌





   ツルボ>   綿棗児

 夏も終わるころ、日焼けしてすっかり黄ばんでしまっていた土手に、小さな緑の蕾の群れを先端にいただいたツルボの花茎がすくすくと伸び上がってくる。一尺ほどの高さになると下の蕾から咲きはじめ、まるで桃色の参内傘のようになる。公園の芝生などにもしばしば生えるが、目立たぬ花ゆえいまは気にとめる人とてない。

 だが乙益正隆が『球磨の植物民俗誌』で、天保の飢饉にさいして人々がこの植物の球根を争って掘り食べた記録があると書いているように、昔は大切な救荒植物であった。中国でも古くから食用しており、明代の一四〇六年ごろ初版が出た『救荒本草』に綿棗児の名でとりあげられている。

 和名のツルボは連穂の意味で、群生する花穂がつれだって咲くからとの説もあるが、牧野富太郎のように意味不明だとする人も少なくない。

 しかし、この名そのものは「京都ノ方言也」と貝原益軒が『大和本草』に書いている。また彼は「是ヲスミレト云ハ誤レリ」ときめつけているが、九州を中心にスミラという里呼び名がいまも使われている。そればかりか、一六〇三年に出版された『日葡辞書』にある“Sumire”― 編訳者は菫の字を当てているが― の解説には「この名でよばれるある草。その根はニンニクに似て食用される」とあり、明らかに当時はツルボのことをスミレと呼んでいたことがわかる。さらに、一六九○年に長崎を訪れたケンペルが著した『アメニタテス・エクソチカエ』には、ツルボのことを“Kui Symira”すなわち食えるシミラであると書いてある。
 記紀や万葉の時代から、日本人は韮(ニラ)の類をコミラ、カミラ、ククミラなどと呼んできた。スミラ、シミラも明らかにこの系列で、歴史の古い言葉といえよう。韓国南部ではこの類をスァムナムというそうだが、これもスミラ系に入る呼称であろう。山口県のモメラとか和歌山県のスガナなどのツルボの方言も、その源はスミラにあるとみたい。そしてツルボそのものもスミラからの音韻変化に由来する名だろうと思っている。



   ムクゲ>   木槿

    道のべの木槿は馬にくはれけり

貞享元年秋八月、大和竹内村へ帰る千里を伴って、そぞろ寒げな風の音を聞きながら“野ざらし”の行脚へと隅田河畔の草庵を発った芭蕉は、やがてひねもす降りつづく秋雨の中に大井川を越えて金谷の宿へと向かう。
 その道すがらか、道の辺にほの咲くムクゲの花を、芭蕉を背にした馬がぱくりと食べてしまった、というのである。彼の『木槿自画賛』をみると、青すすきの繁みに生えていたこの時のムクゲは薄桃色の花をつけていたようだ。

 中国原産とみなされているこの花木が、どのような経路で日本に入ってきたのかよくわからない。だが西日本の山間の川岸に自生状態のものもみられる今日の分布のしかたからみて、かなり古い時代に伝来したのであろう。またムクゲという名は明らかに中国名のム−チンや韓国名のムグンファと関連のある呼称だが、いつの頃からこの名で呼ばれていたかもわからない。記録にムクゲという呼び方があらわれるのは室町時代の『尺素往来』や江戸時代初頭の『日葡辞書』などである。それ以前には別の名で呼ばれていたのか。

 貝原益軒は『大和本草』の中で、万葉集の巻十の秋雑歌にある「朝顔は朝露負ひて咲くと云へど夕影にこそ咲きまさりけれ」という歌を挙げ、「此歌ヲ以見レバ朝顔ハ即チ槿花也」と断じている。小野蘭山などもムクゲの古名はアサガオであるとするこの説を支持している。
 だが現代ではこの説をとる人は少なく、八九〇年頃成立したといわれる漢和辞典『新撰字鏡』の記述をもとに、万葉集のアサガオはキキョウだと信じる人が多い。この辞典での木槿の和名は保己また彌夫利である。また、いまでもムクゲのことをキハチスと呼ぶ地方があるが、この名はすでに平安時代の、『和名抄』にみられる。

 ムクゲは花が美しいばかりではない。宋の『日華子本草』をはじめ、あまたの本草書に記されるように、その樹皮や根は漢方薬である。また中国では白花品を蔬菜として栽培している。



   オケラ>   朮

 まだ草いきれの気配が残る九月の雑木林に踏み入ると、秋を待ちかねたように咲きはじめているオケラの小株に出逢うことができる。
 このうす紅さした白い花をつけるオケラは、中国から韓半島を経て日本へと分布しているキク科の多年草である。
 遠い少年の日に、この草の名をはじめて聞いたとき、私は、どうして“オケラ”なのだろうと、大変不思議に思ったことを覚えている。指でつまみ上げると、まるで「Oh, no!」とつぶやいて首をすくめ両の手のひらを広げた異人さんのような、あのユーモラスなジェスチャーをする小昆虫と、なぜに同じ名なのだろうかと訝ったのである。
 草のオケラと虫のオケラとは関係がなく、草のオケラは万葉時代から使われていたウケラという古名が訛ったもので、ウケラは花の咲き方を表す“受皿の花”の意味だと知ったのはずっと後になってからであった。

       恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ

 これは万葉集巻十四にある武蔵野の秋の相聞歌である。夫をもつ女性の忍ぶ恋であろうか。オケラの花のように目立つそぶりはしてくださるな、というわけである。
 いっぽう中国では『神農本草経』にみるように、オケラを朮(じゅつ)と呼び、漢代にはすでに薬草として利用していた。この文化を受けて、日本でも古代から煎用していたらしく、『日本書紀』には天武天皇がオケラの煎薬を服したとある。

 江戸時代になると「蒼朮の煙賑わし梅雨の宿」の句にみるように、オケラを焚いて湿気払いとしたが、これは京の祇園の八坂神社に伝わる、大晦日にオケラを燃やしその煙で一年の邪気を払う、あの“おけら参り”などの神事の変形とみられている。しかし、その煙にはフルフラールなどの殺菌力のある物質が含まれているというから、単なるこじつけの行事ではない。正月の屠蘇散にオケラが入っているのも同様の理由からであろう。

           海近き小山の裾の草中に隠ろひ咲きぬうけらの花は      岡 麓
  


   フジバカマ>   藤袴

 ビルの谷間に秋光のこぼれる日、赤坂のS美術館で酒井抱一の『月に秋草図屏風』を楽しんだ。六曲一隻の金色の空間の中央で、葛の葉群からのぞいた藤袴の小花が、銀鼠の満月の光に濡れていた。
 フジバカマはキク科の多年草で、関東以西の人里の川岸などで時々みかける。同属のヒヨドリバナによく似ているが、ふつう葉が深く三つに裂けるので区別できる。かつてはいずこの野にも自生していたが、近年は出合ったことがない。
 万葉の歌人、山上憶良が秋の七草の一つに選んだこの植物は、他の六草とともに古代中国の典籍に登場する。たとえば『詩経』にある「??」という題の詩は、フジバカマの若草を手に手に摘んだ未婚の男女の、春の河辺での恋遊びを詠う。天保十三年成立の『古今要覧稿』には晋の陸機の説として、この詩がうたわれた鄭の国では三月に若者が水辺に集ってフジバカマの若葉を採ったとある。香りが邪気を払うと信じられていたらしい。唐代には湯浴や洗髪用の香科として盛んに利用するほか『新修本草』などにみるように一級品の薬草としても重用した。遣唐少録としての留学経験のある山上憶良が、フジバカマを七草の一つに選定したのも、この植物の持つこうした文化的価値を考慮したからであろう。

 万葉集には、しかし、フジバカマをとりあげた歌は憶良のそれ以外にはない。あまたの詩歌にうたわれるようになるのは、醍醐朝に成った『古今和歌集』以降のことである。そしてこの頃になると「やどりせし人の形見かふぢばかま忘られかたき香に匂ひつつ」という紀貫之の一首にみられるように、フジバカマは、藤蔓の繊維で織った袴を着けた臈たけた姫が、野辺に迷って行き倒れたその跡に生えた草だ、と云う純日本的な伝説を念頭においた短歌が多くなるのである。

 そういえば、この夏ベルリン郊外のダーレムにある植物園の、阿舎を置いた日本庭園でみたフジバカマは、異国の地に適応できないのか生育が良くなく、さめざめと泣きながら野辺にさまよう、あの伝説の姫君のように儚なげであった。



   <ワレモコウ>   吾亦紅

   吾亦紅摘みてその野に失しけり      田川信子

 私がこの花の名をおぼえたのは、恋を知りそめ、やるせなくとまどっていた少年の頃であった。秋草を活けていた今は亡き母が「われもこうすすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ」という牧水の歌の“われもこう”がこの花だと教えてくれた。この時から、この花の名が深く私の記憶に刻みこまれた。母がその名の由来を語らなかったので、私は勝手に“我も恋う”花だと思いこんでしまったからである。

 ワレモコウが北半球の温帯に広く分布するバラ科の植物で、濃い赤紫色の小指の先はどの、松笠のような部分が、小さな花の集まりであること、ほんとうは吾木香とか吾亦紅の字をあてるのだということなどを知ったのは、ずっと後になってからである。

 吾木香と書くのは、唐木香に似た吾が国の木香の意味だという。この草が古くから香料とされていたことは、源氏物語のあの匂宮が、「老いを忘れるる菊、おとろへゆく藤袴、ものげなき吾木香などは、いと、すさまじき霜枯れの頃ほひまでおぼし捨てず」に愛でていたことからも知れる。また、吾亦紅と書くのは、数ある秋草の中にあって「吾も亦紅なりとひそやかに」いっているからだという。この他いろいろな語源考があるが、前川文夫の“割帽額″説は面白い。小花の蕾の形が、御簾にそえてかける帽額(もこう)という幕に描かれた紋に割れ目を入れたようにみえるからという説だ。
 中国では葉の形が楡(にれ)のそれと似ていることから地楡とよび、花を玉鼓ともいう。

 ところで、ワレモコウを秋の七草の一つだというと笑う人がある。たしかに山上憶良があげた万葉の七草ではない。しかし、江戸時代中期の琴歌では「いにしへの/よしある人の秋の野に/かぞへし花のいろ香にも/いずれおとらぬ」ものとして新七草をあげ、ワレモコウはその一つに選ばれている。あながち誤りとはいえないのである。

               霜の中おのが身細き吾亦紅       多佳子




   <ヒガンバナ>   彼岸花

   山中へ 娘やりたや
   もてくるつとは煮モメラ
   煮モメラもじょうにやもてこぬ
   葛の葉にこそ包んで

 大庭良美の『水まき雲』に収録されている島根県鹿足郡の高津川上流にある日原(ひのはら)の麦つき唄である。モメラとはヒガンバナのこの地方での里呼び名で、煮モメラはその球根を湯がいてすりつぶし、麦粉とまぜて作った餅である。

 今日では有毒植物としてその名が高く、ドクユリ、オヤコロシ、イットキコロシなどと物騒な名をもつヒガンバナも、その球根には多量の澱粉が含まれている。そのため水でさらしてアルカロイドの毒を抜く技術をもった、縄文時代以降の照葉樹林文化圏に生活した日本人にとって、この植物は大切な食糧の一つであった。
 小野蘭山は『本草綱目啓蒙』の中に「勢州粥見凶年には団子となし食用す、ヘソビダンゴといふ」と書いているし、牧野富太郎も「明治十何年ト云フ頃私ハ高岡郡鳥形山ニ植物ノ採集ニ行ツタ事ガアッタガ其山下ノ長者村字泉デ一農家ノ傍ラノ水ノ落チヰル処ヱ其球根ヲ搗キ砕イテ布ノ袋ニ容レ晒シテアツタ事ヲ見受ケタ事ガアッタ」とその経験を記している。
 また杉山正世の『いよのことば』には「アンナエグイモンガ食ベラレマスカイ、花ヲ折ッタテ、ヨイヨクサイジャケン。ソヤケド、アノ球ヲ水デ晒シテ、ソレヲ粉ニシタモンヲ御米ニマゼテ食べタラ食ベラレルソウナガ。サア、ドウジャロカ」という古老の言葉がある。

 
熱心なヒガンバナ研究家として知られる山口隆俊の『ヒガンバナたべあるき』には、この他さまざまな食用例が挙げられていて面白い。昭型二十五年ごろ、大阪で起こった薩摩揚げ中毒事件の原因は、さらしが足りなかったヒガンバナの澱粉にあったという。
 食糧以外の用途も多々知られており、『甲子夜話』には「根は鼠の忌むものなりとぞ。紙捻(こより)を綱に結び、その根汁を塗り用うれば銅綱に換ゆべしとなり」とある。花からは染料を採ったという記録もある。

    秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの
               薄のなかに曼珠沙華赤し      齋藤茂吉

 繁殖は球根の分裂のみにたより、けして種子を結ぼうとしないこの花が、日本の秋を彩るようになったのはいつの頃からだったのだろう。
  諸説があって、中尾佐助は、照葉樹林帯を生活の場とした縄紋時代の人々が大陸から持ちこんだ史前帰化植物だと説き、山口隆俊は稲作の伝播とともにもたらされた救荒植物の一つだといい、中島庸三は海流に運ばれてきた漂着植物ではないかという。いずれの説にしろ、マンジュシャゲは有史以前から日本にあったことになる。
 だが、江戸時代以降にはあまたの本草書や文学作品に書きしるされたこの花が、千にも余る里呼び名を持つほど日本人に親しまれている花なのに、古事記・日本書紀にはじまるわが国の古典にあらわれていないのはなぜであろうか。

 もっとも、『万葉集』の「路の辺の壱師の花のいちしろく人皆知りぬ我恋妻を」という歌の壱師こそマンジュシャゲのことであるとする説があるが、万葉集と同時代の『歌経標式』にある「道の辺の伊知旨の原の白妙のいちしろしくも吾恋ひめやも」という歌や、『現存和歌六帖』の「立つ民の衣手白し道の辺の壹師の花のいろにまがえて」という歌からみて、壱師は赤く燃えたつマンジュシャゲではなく、なにか別の、よく目立つ白い花と考えるのが自然であろう。

 私の知る限りでは、鎌倉時代の『平治物語』や足利時代の僧たちの詩に、曼珠沙華としてこの花がはじめて登場する。例えば『木蛇詩』には「人に曼珠沙華を恵まれしを謝す」と題した詩がある。すると、この花は一三〇〇年代になってはじめて日本に渡来したものなのだろうか。

  しかし、今日の分布のしかたをみれば、やはりかなり古くから人里植物として存在していたとしか思えないのである。記紀の時代の人々は、今では死人花などときらわれもするこの花を、いったいなんと呼んでいたのであろうか。

        曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ      山頭火

 マンジュシャゲはヒガンバナの異名である。





 シロバナマンジュシャゲ>  白花曼珠沙華


 白曼珠沙華白毫の良夜かな   武藤砂城子

煌々たる月光の中に白銀に輝く白花の曼珠沙華、その鋭く天に向かう銀の針のような雄しべが、まるで仏の眉間に生えて光を発し、無量の国を照らすという白毫とみまがうばかりであったというのであろう。

 シロバナマンジユシャゲは関東ではめったにみられない植物であるが、九州ではそれほど珍しいものではなく、群生している地方もある。ヒガンバナ属の一種である。小野蘭山の『本草網目啓蒙』の石蒜の項に「一種白花のものあり、此を銀燈花と云、秘伝花鏡にみえたり」という文があるが、この“銀燈花”はシロバナマンジユシャゲのことと思われる。

 ヒガンバナと同様に、種子を結ばないこの植物が雑種であることを最初に主張したのは牧野富太郎であった。彼は専門誌『植物分類地理』に「今よくこの植物を観察してみると、これは疑いもなく雑種であることがうなずける。そして、この両親は赤花を開くヒガンバナと黄花を開くショウキランであることが想像される」と書いた。ところが、この論文を読んださる高名な遺伝学者が、赤花と黄花との中間が白花になるとは考えられない、さすがの牧野も誤まれり、と笑ったという。

 しかし、その数年後には稲荷山資生などの細胞学者が核型分析と交雑実験をおこなって、牧野鋭が荒唐無稽なものではないことを明らかにした。ただ、親の一方となった赤花種は日本の三倍体ヒガンバナではなく、中国のみに分布する種子で殖えることのできる二倍体のコヒガンバナであろうと考えられた。これが事実だとすると、黄花のショウキランは中国にも分布するので、シロバナマシジュシャゲの誕生の地は九州だろうという牧野の推定は外れたことになる。だが調査した限りでは、中国大陸にはシロバナマンジュシャゲは自生していない。中国の学者がシロバナマンジュシャゲと同定したものはよく似て非なるものであった。ルーツはどこにあるのか。


 謎を秘めた美しい白花は、今年も静かに秋冷の夜に咲いていた。

 
   最近の調査結果で、中国でのショウキランの存在は疑わしくなりました。 牧野説が正しいようです。


   ハギ>   萩

   小狐の何にむせけむ小萩はら   芭蕉

 ハギの仲間はオーストラリアや北米にもあるが、そのほとんどはヒマラヤ以東のアジアの温帯に分布している。日本には十種類ほど自生しており、最も普通にみられるのがヤマハギである。
 
 中国では、緑肥ないしは家畜の飼料になる雑草ほどにしか認識されていないこの植物も、我国においては、なぜか遥か上代より人々の心をとらえて離さない。それは、ハギを詠んだ歌が四百十余首も万葉集に収録されていることからも知れる。

当時の人々は「見まくほりわが待ち恋ひし秋萩は枝も繁みに花さきにけり」と待ち望んだ開花をよろこび、「玉梓の君が使の手折り来るこの秋萩は見れど飽かぬかも」と、その美しさを愛で、「秋萩における白露朝な朝な玉としぞ見るおける白露」と萩と露との調和を歌う。そしでこの花の散るころは、なにとはなく人恋しく、「秋萩を散らす長雨のふるころは一人起きいて恋ふる夜ぞ多き」などとも歌う。

 ところで、万葉集の白文表記には“萩”という字はなく、“芽子”“芽”“波疑”あるいは“波義”と用字されている。
 周から漢の時代にかけて編纂された、最古の字書といわれる『爾雅』にある“萩”を“波木(ハキ)”と和訓するようになったのは平安時代以降のようで、源順の『和名抄』に初出する。
 だがこれはこじつけで、中国で萩と名づけている植物はキク科のヤマハハコやヤハズハハコであり、マメ科のハギの中国名は、松岡玄達が指摘したように、胡枝子である。しかし面白いことに近年出版された『中国高等植物図鑑』には胡枝子の別名の一つに萩をあげている。日中文化交流の結果なのだろう。

 ハギは文芸の世界のみならず、美術工芸の分野にも、驚くほどの頻度で登場する。鳥獣人物戯画の背景をなす秋草の繁みにも、源民物語絵巻の片隅にも、そして江戸琳派のえがく秋草のなかにも、ハギは美しく咲いている。



   コスモス>     秋桜

 青く晴れあがった空と、巨大な鷲が翼を広げたような山容の韓国岳を背景に、赤と白と桃色の入り混じるコスモスの花群が、吹き渡る風の中で絶え間なく波打ち、視野の大半を埋めつくす。霧島山の麓に広がる生駒高原は秋の盛りであった。

  たわたわに吹かれ乱るるコスモスは
            風道の中にあるにやあらむ    宮 柊二

 通り過ぎる秋風に、さからう素振りもみせず吹かれ乱れるコスモスの姿は、やさしい女人のようにかなしくも美しい。

    コスモスや雲忘れたる空の碧      松根東洋城

 そして、澄みわたつた秋の空を見上げるように咲くコスモスは、明るく微笑む健康な少女のようでもある。

    心中をせんと泣けるや雨の日の
        白きコスモス紅きコスモス   与謝野晶子

ところでこの花は、古木が植栽された築山や石橋の下を緋鯉が遊泳する池のあるような純日本風の庭園にはまったく似合わない。土着の植物ではないからであろう。
 コスモスの原産地はメキシコ南部地方で、十八世紀の終わりごろスペインのカバニエスがコスモス・ビピンナツスと命名した。これは間もなくヨーロッパに導入されたが、たいへんよく結実し、多くの種子がとれたため、短期間に各地へ広まった。
 
 日本にも幕末までには種子が入っていたらしいが、今日栽培されているコスモスは、明治九年に工部省美術学校に招聘された彫刻家のヴィンセンツォ・ラグーザが、彼の祖国のイタリアから取り寄せた種子の子孫だといわれている。アキザクラ、オオハルシャギクなどの名が生まれたのは明治二十年頃のことである。

 いまでは、熱帯は別として、世界のどこへいってもこの花が見られるようになった。森村浅香さんの『百花巡礼』にもアフガニスタンはバ−ミヤンの台地やトルコの古都エルズルムなどに咲くコスモスが美しい筆致で書きしるされている。


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