2005年1月


「挑戦」 2005年2月28日
「教育」 2005年2月27日



ゆ〜じ「挑戦」について熱く語る!
 今回の雑記(月記)は「挑戦」について熱〜く語りたいと思う。

 一般的には未知のモノであったり、達成が難しいモノに取り組む事を「挑戦」と言うが、私は、人間が何かに取り組む事が「挑戦」だと思っている。日々変わらぬ日常を機械的にこなす事に慣れてしまった人間には「挑戦」するという気持ちは少ないだろうが、私は変わらぬ日常でも機械的ではなく新しい発見を求めて「挑戦」しているつもりだ。大袈裟に言ってしまえば生きる事に「挑戦」していると言っても過言ではない。常に高い目的意識を持って変わらぬ日常を何かのきっかけで打破できるのではと模索し、「挑戦」しているのだ。勿論、変わっていく事に対しての恐怖はあるが、何かを壊さなければ新しい何かは生まれないのだ。今の現状に甘え、殻に閉じこもってしまうのではなく、変わり続ける事を歓びに出来れば、これ程幸せな事はないはず。仕事も恋も、前に進むために「挑戦」し続けたいと思っている。

 皆様は何か「挑戦」している事はあるだろうか?大きな事でも、小さな事でも「挑戦」する事は自分自身の成長に繋がると思っている。皆様にも色々な事に「挑戦」して貰いたいと願っている。



ゆ〜じ「教育」について熱く語る!
 今回の雑記(月記)は私を知る人なら笑ってしまうかも知れないが)「教育」について熱〜く語りたいと思う。

 私が高校を卒業した頃から生徒一人一人の個性を伸ばす事を目的とした「ゆとり教育」が文部科学省で発表された。しかし、その「ゆとり教育」も成果を出すどころか生徒の学力低下を招き、「ゆとり教育」の見直しを迫られる結果となった。そもそも「ゆとり教育」とは、文部科学省が定めている教育時間を削ってボランティア活動などの課外活動に参加する事で生徒の個性を伸ばす事をモノだったはずだが、結果は目も当てられない常態になってしまった。ここからは私の私的考察、原因として生徒に対して真剣に向き合っていない教師にあるのではないだろうか?決められた授業要項のみに捕らわれ、生徒に目を向けないマニュアル教師に責任はないのだろうか?個性とは時間が作り出すモノではなく、誰かが見付けて育てていくものではないだろうか?それが教師の務めではないのだろうか?自分自身では気がつかない個性を大人の代表である教師が生徒と一緒に育んでいくのが本来の「教育」だと思う。それと、一般常識などの基本的な「教育」を疎かにして個性が育つとは思えないだ。何故なら「ゆとり教育」が施行される前の人間だって個性があるのだから。勿論、私にだってね。

 さて、今回のテーマは「教育」についてなので、もう少し語りたいと思う。とは言っても現在の「教育」現場について、詳しく把握できていないのだが…(汗)。なので、情報しか材料がないので実際の「教育」現場とは食い違いがあるかも知れないが、ご了承いただきたい。私は、今の「教育」で欠けているのは教師の威厳ではないかと思っている。私にとって教師とは絶対的な存在で、常に恐怖していた。しかし、今の教師にそれがあるだろうか?少しでも生徒に厳しい事を言えば、親が怒鳴り込んできたり、体罰なんて以ての外。生徒から気に入られたいが為に授業を疎かにしてしまう始末。その結果、個性と我が儘を履き違えた子供が育ち、善悪の判断も付かないまま大人になる。私は高校時代に教師から厳しい事も言われたし、体罰も受けた。しかし、それは私に善悪の判断を教え、一人前の大人へと成長させてくれる為の「教育」だと思っている。世論は体罰に対して厳しく反論しているが、私は体罰に対して肯定的な考えを持っている。勿論、度が過ぎたり、理不尽な体罰は反対だが、この事で私は痛みを知ったと思っている。教師は大人として、毅然とした態度で生徒と向き合い、威厳のある存在であって欲しいと切に願っている。

 今回の
雑記(月記)は柄にも無いテーマだったが皆様はどのように感じただろうか?現状の「教育」について、皆様はどのように感じているだろうか?皆様の意見を聞かせていただければ幸いです。




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