木 星 |
木星は小望遠鏡でも、それなりに楽しめる惑星である。これまで持ってきた様々な機材で見てきたが、見えるのはいつも2本の太い縞模様だけで、それ以上に詳しく見えたという記憶があまり無い。有名な大赤斑すら見ていないような気がする。
本来なら21cm反射赤道儀を持っていたときに、もっと詳しく見ておくべきだったろうが、眼が悪いのか不馴れなせいか、詳しくは見えなかったのだろう。だって、驚くほど細かく見えたのなら、きっと印象深く心に残っているはずである。記憶に無いということは、大して良く見えなかったということに違いない。 あるいはあの頃の私の興味の中心は彗星にあったから、惑星はろくに見なかったのかも知れない。そうだ。きっとそうに決まっている・・・と見苦しい言い訳をしておく。。 表面の模様はともかくとして、木星の周りを回る4つのガリレオ衛星は、双眼鏡程度でも存在がはっきり見える。だから、4cm屈折を持っていた頃は、ガリレオ衛星の位置のスケッチを良くやったものである。学問的には全く意味の無いことをしていた訳であるが、とにかくその時に自分が見た木星と衛星の姿を、描くということに楽しみがあった。ひと夏かけてその観測をまとめ、「Jupiter Report」などと大げさな名前をつけて、当時の天文同好会で発表したりもした。まさに天文少年であった。 今でも木星の観望はするが、表面の模様の観察はあまりしない。それよりも低倍率広視野の中に、木星とガリレオ衛星を捕えて見る。こうすると、広大な宇宙空間の中に、木星と衛星がポツンと存在しているような不思議な感覚がある。宇宙船に乗って木星系に近づいているようにも見える。 昔から惑星写真を撮るという趣味は持っていないので、惑星を撮影したことは一度も無い。天体写真は機材を揃えるのに、金がかかり過ぎる。それで、金持ちの他人の撮った惑星の写真を見ることになるが、最近のアマチュアの技術は凄いものだと感心している。 デジタルカメラで写した像を、専用のソフトでコンポジットするらしいが、もの凄い写り方をする。昔の天文台の大望遠鏡で写したものより遥かに詳細に表面の模様が写る。昔我々に衝撃を与えたヴォイジャーの木星写真に近いと言っても大げさではない。こんな写真が撮れる人を羨ましいとは思うけれど、自分には無縁の世界である。 私にとっての木星、それはガリレオ衛星があってこその観望の対象だ。ちょうど土星の環のように、ガリレオ衛星があるから木星を見る。それだけだ。
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土 星 |
土星は太陽系随一の奇観である。どんな小さな望遠鏡でも、初めて土星を見たときには感動するものだ。私もそうだった。
1965年の10月か11月。南東の空に明るく輝く白い星があった。何気なしにその星を望遠鏡の視野に捕えた私は驚愕した。他の恒星とは違って、その星は大きさがあり、またちょうど団子の串のような棒が、星の両側に突き出していた。その年は、真横から環を見るかっこうになっていたので、団子の串のように見えたのだった。 それでも私はそれが土星であることに直ぐに気付いた。家族をみんな庭に呼んで、その土星を見せた。家族はみな喜んだり不思議がったりしていた。 その時に見えた土星の姿は、今でもありありと覚えている。たかが口径4cmとは言え、F20の長焦点アクロマートレンズが作り出す像は、もの凄くシャープだった。あんなに輪郭がくっきりと見える土星の像は、その後どの望遠鏡でも見たことがない。 21cm反射赤道儀でこの土星がどのように見えたのか、全く覚えていないのは残念である。おそらくカッシーニの間隙は見えたに決まっているだろうが、環の詳細がどの程度まで見えたのか、あるいは本体の縞模様はどうだったのか、今となっては気になるところではあるが、失われた記憶は戻らない。 したがって、最近買った8cm屈折でカッシーニの間隙が見えたときは、あらためて新鮮な感動を覚えた。その点では、21cm反射による土星像を覚えていなくて幸いだったと言える。事実私はカッシーニの間隙を、初めて見たような昂奮を覚えたものだ。楽しくて、その夜は1時間近く土星を眺めていた。 土星も相変わらず天体写真の対象として人気があるようだ。木星と同じく、デジタルカメラで撮影し、画像処理を施した写真を見ると、環などはかなり詳しく写っている。 これからも土星は観望の楽しい対象であり続けるだろう。 |