日々の雑感

ファッション界は回転が早い(2004.4.3)

 春もたけなわになった。近所の桜並木も満開である。いよいよ春物の上着が欲しくなった。前々から目をつけていた春秋用のジャケットを買おうと思い、またまたユニクロに行くことにした。

 私が欲しいという商品は「ストレッチオックスジャケット」という。比翼仕立てのシンプルなスタイルが大人に似合うと思っていた。できれば値下がりしてから買いたかったのだが、いつまで経っても値は下がらない。ええい定価でも買ってしまおう、そう思って店に行ったのだった。

 ワクワクしながら店に入って、いつもこのジャケットが並んでいる場所に行ったが、そこには無い。置いてある場所が変わることはユニクロでは珍しくない。そこであちこち回って探してみたが、どこにも無い!そんな馬鹿な。先週までは確かにまだたくさん並んで吊るしてあったのに、きょう来たらどこにも置いてないのだ。

 そう言えば、コットンジャケットもずいぶんと少なくなったし、以前に私が買ったカバーオールやウインドブレーカーも残り僅かだ。この一週間の間に売れてしまったのか、はたまた店のほうで仕舞ってしまったのか、何れにしても無いものは無い。まあ定価では買うなという、天の思し召しだと思って買うのは諦めた。

 今ユニクロには半袖ポロシャツやTシャツなど、明らかに夏物としか言えない商品がたくさん並んでいる。今この店の商品の主力は夏物なのだとわかる。今まではファッション界のことには疎くて良く分からなかったが、こういう店では季節を先取りしているのだ。

 だから真夏になってから夏物を買おうと思っても明らかに遅い、という可能性が見えてきた。夏になったら秋物が並んでしまうかも知れないのだ。そこで私は焦った。私がいま持っている半袖のポロシャツ達はダイエーで買った安物ばかりで、生地の肌触りが極めて悪い。暑い夏では汗が染み付いて、着ていて不快なことこの上ない。今まではそれでも我慢して着ていたが、今年はユニクロのポロシャツを買おうと思っていたところだった。それなら多量に並んでいる今のうちに、自分の欲しいサイズと色のものを買っておいたほうが良いだろう、そう思ったのだ。

 それで税込み1290円の特価で売られていた「ドライカノコポロシャツ」のグリーンとグレーのやつをとりあえず買うことにした。本来ならレッドやイエローなどの派手なやつも欲しいのだが、とりあえず無難な色のものを選んだつもりだ。2枚で2580円だから安いものだ。

 こうして春物のジャケットを買うつもりだった今日のショッピングは、真夏のためのポロシャツを買うという、予想だにしなかった結末となった。いやはやファッション界の回転の早さというか、気の早さにはびっくりである。

 だって今は春になったばかりだぜ。それなのに春物のジャケットが売られていないとは、一体どういう訳なんだ!全くこの世界の人達は何を考えているのやら、頭の固くなった爺には流行の先端を行く人達の考えは理解できそうもない。


ユニクロがマイブーム(2004.2.11)

 いい歳をして、最近ユニクロがマイブームになっている。特に上着の類いは、この冬ずいぶんとユニクロのお世話になった。殆ど全てがライトエアテックを使ったものである。

 このライトエアテックというのはなかなかのスグレモノで、薄いのに寒さを感じない。この着心地は実に不思議な感触で、今までの素材では感じたことの無いものである。そう、暖かいのではない。ただ単に寒くないのだ。バイクに乗るのに着用しても、全く寒くない。だからといってぽかぽかしている訳でもない。そこのところが、何とも不思議な感覚で、ダウンなどとは全く違った着心地である。

 エアテックを着るようになってからは、ダウンが時代遅れのような気がしている。あの、もこもことした服は、昔はじめて見たときからどうも好きになれなかった。その後の大流行で私もダウンを着ざるを得なくなってしまったのだが、エアテックの登場によって私の不満が吹き飛んだ。

 ユニクロでもダウンは売っているから、その存在価値が無くなったわけでは無いのだろう。しかし、私にとってダウンの時代は終った。私は薄くてスマートなエアテックの上着のほうが趣味に合っている。私にはもうダウンは必要無い。

 エアテック以外でもユニクロには安くて魅力的な商品が並んでいる。パンツも買ったし靴さえも買った。ちゃんと使える商品がこの価格というのは、実に驚きである。今ではダイエー金沢八景店に行く主目的は、ユニクロに行くことになってしまった。

 ちょっと前まではラオックスやアシーネ(本屋)に行くのが、ダイエーに行く主な目的であったが、今は違う。私はダイエーに入ると真っ先にユニクロに行く。買わなくても並んでいる商品を見るだけでも楽しい、というのは他の店と同じだが、ユニクロならその気になれば簡単に手に入る価格である。思わぬ掘りだしものがあったりする。それは500円だったり780円だったりする。こんなものは簡単に買える。だからユニクロに行くのは楽しい。

 またネットでユニクロ・ドットコムにアクセスして、期間限定値下げ商品や、単純に値下がりした商品を見つけるのも楽しい。私がユニクロで買った商品のほとんどは、ドットコムで値下がりしたことを確認してから買ったものである。だからお買い得感が高い。

 今でも毎日ユニクロ・ドットコムにアクセスしている。冬物は一通り買ったから、これからは春物を買うのが楽しみだ。

 今までの私にはファッションに対する興味も知識も感覚もなかった。だがユニクロによってそれは一変した。これから老人になっていく私が、ユニクロとどう付き合っていけるのか。楽しみは尽きない。


 

可愛いチョイノリライダー(2003.11.22)

 午後から釣りに出た。何も釣れなかったし全然おもしろくなかったので、釣行記は書かないが一つだけ印象的なことがあったので、それだけを書くことにしよう。

 釣り場の近くにコンビニがある。ちょっとした買物があったので、そこの駐車場に自分のバイクを進めていった。そこにはベージュ色のチョイノリが停められており、傍らにそのライダーがいた。後姿しか見えなかったが、ヘルメットの下に長い髪が見えた。女性である。そのチョイノリに花のステッカーなどが貼ってあるのも、女性だからだろう。そのチョイノリがなんともいい感じである。

 私はその女性に「可愛いね、これ」とチョイノリを指差しながら声をかけた。女性は振り向いて笑顔になった。可愛いのはチョイノリだけではなかった。この女性もとても可愛い。二十歳前後だろうか。きっとお気に入りのチョイノリであるに違いない。自分のバイクを褒められて喜ばないライダーはいない。この女性も私の一言が嬉しかったに違いない。とびきりの笑顔だった。

 こんな可愛い女性が週末の午後、チョイノリに乗って一人で海の近くをお散歩するなんて、なんとも微笑ましく、またお洒落でもある。こういう女性ライダーがいると知ったことで、こちらまで嬉しくなってしまう。

 長年に亘ってバイクに乗り、また釣りをしている私の経験から言うと、女性釣り師にはいい女は稀だが、女性ライダーにはいい女が多い。間違い無くそう言える。やはりこれは釣りとバイクの趣味としてのかっこよさの違いだろう。誰が見たって釣り師よりライダーのほうがかっこいいに決まっている。

 私も釣りはやめてライダー稼業に専念しようか。


映画「クロスファイア」(2003.8.15)

 サニーマートのTSUTAYAでレンタルビデオを物色していたら「クロスファイア」という邦画を見つけた。パッケージをひっくり返して説明を読むと、以前に読んだ宮部みゆきの同名の小説を映画化したものである。2000年に製作されたものだ。

 だいたいに於いて小説を映画化したものにろくなものはないというのが定説である。古すぎる話で恐縮だが「日本沈没」、あれほど人を馬鹿にした映画は無い。あれを観たときは本当にがっかりした。壮大な原作が矮小なB級SF映画に成り下がってしまったからだ。あれ以来、自分が読んで感動した小説を映画化したものは観ないことにした。もっとも小説を読まないで映画だけを観たものはあるから、私も案外いい加減なことを言っている。

 まあしかし原作の「クロスファイア」自体が面白かっただけのレベルで感動したというほどのことは無い。だからあまり期待しなければパイロキネシス(念力放火)がSFXでどう映像化されているのかを見てみるのも興味深いことではある。ちょっと観てみようか、そういう軽い気持ちで「クロスファイア」をレンタルしてもらうことにした。繰り返すが、この映画には大して期待していなかった。面白くなくてもともとだと思っていた。

 家に帰ってさっそく観てみることにした。CMが終わって本編がスタートする。原作では戦闘場面から始まるが、映画は青木淳子が幼い少女時代に少年を「燃やした」エピソードがモノクロの画面で語られることによって始まった。原作ではこのエピソードは後半になって明らかにされるのだが、映画としてはこういうスタートもありだろう。とりあえずは納得して画面に見入った。

 そのモノクロ画面が終わると主役らしき女優のモノローグとともにタイトル画面が始まった。炎の作るリングが次第にほどけていって一直線になり、その中から炎に包まれた「クロスファイア」のタイトルが浮かび上がる。

 私はここでとつぜん真剣に観ようという気になった。この作品が邦画のSFとしては珍しく本気で作られているらしいことがこの画面とBGMの音楽の組み合わせによって私の心に伝わってきたからだ。タイトルの表現技術や音楽の雰囲気、少なくともゴジラシリーズよりはるかに優れている。どうやら思っていたよりまともな映画らしい。

 そして最初から目立たない役柄であるかのように、ひっそりと主役が登場する。主役を演じる女優は矢田亜希子という。今ではけっこうな人気女優らしいことが後で分かったが、私はこの映画を観ている時点では全く知らない。女優だから美人には決まっているが、そんなに派手な雰囲気は無い。

 原作では青木淳子は目立たない地味な女性として描かれている。だからあまりにも華やかなあるいは安っぽくちゃらちゃらした女優が演じたらぶちこわしである。矢田亜希子が演じることによって、少なくともその心配は消えたのであった。

 この映画の前半は小説「クロスファイア」ではなく、「クロスファイア」の原型となる「燔祭」という小説の映像化である。途中まではあくまでも知らない女優が青木淳子を「演じている」という感覚で観ざるを得なかった。小説「クロスファイア」の青木淳子は目立たないにしてももっと強い女性であるが、映画の冒頭部分に見られる淳子はいかにも儚げでおとなしい。これはこれで一人の女性として魅力的に表現されているのだが、原作のイメージとは大きく異なる部分であるからだ。もっともこの部分では原作より映画の淳子のほうが優れていることは、別項「私の本棚」の「燔祭」の書評に書いたとおりである。

 私の頭の中で原作と映画の淳子が確かに重なって見えるようになったのは小説「クロスファイア」の冒頭場面に重なる廃工場のシーンからである。ここで初めて戦闘としてのパイロキネシスがSFXで映像化されていく。最初に大きな火球が画面を横切り、悪役の少年をバイクごと吹っ飛ばすシーンは圧巻である。またここから淳子が前半とは別人のように強くなっていく。うむ。これは確かに青木淳子そのものだ、と完全に映画に引き込まれてしまう。

 パイロキネシスはいわば念力の一種であるから、これを使うときの目の表情が重要である。矢田亜希子は目の演技がものすごく上手い。彼女にとってはこれが映画初主演だったらしいが、完璧に超能力者としての演技をこなしている。いや初主演だったからこそ、なおいっそう力が入ったのかもしれない。

 また日本映画には珍しく、音楽が極めて効果的に使われている。私が観た邦画の中でかつてこれほど音楽にも感動しながら観た作品があっただろうか。そう思うほどこの映画では音楽も目立っている。映像と音楽が密接に連携して感動を盛り上げてくれている。

 タイトル画面で感じた私の予想は当たっていた。この映画は期待していなかったにもかかわらず、ものすごく面白い。演技者と製作側が一丸となって本気でこの映画を作っているからだ。

 クライマックスで原作には無い機動隊、狙撃者など百名くらい出てくるのは映画なりの盛り上げかただろう。それにしてもたかが若い女性一人を相手にするのに、こんなに大勢の警官を出す必要はないだろう、大げさだな、と思った。ところが、である。強いのである。小説をはるかに超える淳子の超能力が発揮されるのは見ものである。

 たとえば飛んで来た弾丸を熱の膜で跳ね返し、しかも跳ね返された弾丸が真っ赤に灼熱しているという細かな描写がある。弾丸を掴んだスーパーマンも顔負けの強さだ。冷静になって考えると笑えるのだが、映画を観ているときは迫力ある映像と切り替わりの早い画面のテンポに目を眩ませられるのか、笑わずに観てしまう。こんなことで笑っていたら「スターウォーズ」なんて馬鹿馬鹿しくて観ていられないはずだ。

 このクライマックスのシーンでは炎が多用されハリウッド映画のような趣がある。実際にタンクローリー1台を爆破したというから、やはり本気になって製作されたのだと思う。

 こうしてこの映画「クロスファイア」は日本映画としては奇跡的な傑作に仕上がっている。にもかかわらず、この映画が公開された当時は興行的にはふるわなかったというのだから、首を傾げざるを得ない。面白い映画というのは単に有名な俳優を起用し、歴史上の有名な人物や大きな出来事を描けばいいというものではない。こんなに面白い「クロスファイア」がヒットしなかったのは、やはり日本の映画ファンにも責任があるのではないか(私は映画ファンではないので勝手なことを言う)。矢田亜希子も人気が出てきたらしいから、彼女の初めての主演映画ということで、いつか見直されるときが来るといいのだが。

 いまや私の中での青木淳子は完全にこの矢田亜希子の勇姿以外には想像できなくなってしまった。中古DVDでも安く買えれば、手元においておきたい映画である。

 さて、後で次のことを知ってすべて納得した。この映画の監督と音楽担当は平成のガメラシリースと同じ人であるとの由。ガメラは素晴らしい映画であると思っている。ゴジラシリーズはどう見ても子供向けだが、ガメラは大人の鑑賞に耐え得る貴重な怪獣映画である。なあるほど。ガメラが青木淳子に置き換わったのか。そう思えばこの映画の作られ方についての理解ができる。

 ただしガメラは恋をしないが青木淳子は恋をする。若い人のために付け加えておこう。とにかく一見の価値あり。今すぐレンタルビデオ店へ!

DVDのパッケージ


 

母を連れて夏祭へ(2003.7.20)

 けふは町屋神社や寺前の八幡宮などが揃つて祭禮である。私も近くの町屋神社に行くことにした。自分が行きたいと言ふよりは足が不自由な母を気晴らしに連れて行つてやりたいと思つたからである。

 午前中は雨が降つていたので天氣を心配してゐたが、さいわひにして午後からは空も明るくなり、陽射しさへさすやうになつた。暑ひくらゐだ。午後の壱時半頃に母を車椅子に乗せて家を出た。

 車椅子を押しながらとぼとぼと歩ひて町屋神社に行くと、ちやうど神社の前で山車が出発するところだった。道端ではてんつくてんつくと賑やかなお囃子を奏でてをり、それがいかにも祭といつた氣分を盛り上げてくれてちやつと樂しい。

町屋神社の大鳥居も提灯や幟が飾られてをり、いつもの閑散として静けさをたたえている境内とは思へなひ華やかさだ。鳥居をくぐつて境内に入つてみると、思いのほか屋薹の数が少ない。昨晩の宵宮にはもつと多くの屋薹が出てゐたのかも知れなひが、何年か前にやはり母と来たときにはもつと沢山の屋薹があつたはずだ。午前中の雨で撤収した屋薹もあるのかも知れないが、やや物足りなさを感じざるを得なかつた。

 とりあへず境内に車椅子を止めてしばし祭の風景を母に見せた。しばらくさうしてゐたが母がもう出やうといふので、そこから移動し鳥居の前にあるたこやき屋でたこやきを買つた。私はたこやきが好きなので、先週の洲崎神社の祭でもたこやきを買つた。

 それから私は考へた。せつかくここまで来たのだから、母をサニーマートまで連れていつてやらう。足を骨折してもう六年になるが、その間、母はサニーマートには一度も行くことができなかつた。大したものがある訳ではなひが、店内を見せてやるだけでも喜ぶのではなひか。母に「サニーマートに行つてみる?」と聞くと「さうだね」と言ふので、神社からえつちらおつちら車椅子を押してサニーマートまで行つた。

 「何年ぶりだらうね」と母は言ふ。とりあへず中に入つて、服のコーナーで半袖パジヤマが壱千円で売つてゐたので、それを買つてやつた。

このところ忙しくて親孝行もしてやることができなかつたので、けふは私も嬉しかつた。なかなかな日曜日だつた。


草を抜くな(2003.7.6)

 隣の家が無人となって取り壊され、ちやつとした空き地になってゐた。そこに雑草が生へ、てふてふなどが飛び交ひ、なかなか風雅な風景だつた。この分では秋になると蟋蟀などの秋の虫々の大合唱が聞こへるやうになるだらう。いやその前に夏には蟷螂や飛蝗などももどつて来るかも知れなひ。さう思つて楽しみにしてゐた。ちやつとした原野が我が家の前に出現するはずだつた。

 ところがその空き地の向かうにある家の老婆が、これらの草草を全部ひつこ抜ひてしまつたのだ。全くなんて事をするのだらうと私は悲しくなつた。だうして下俗の人々といふのは、自然を大事にしなひのだらうか。この老婆は秋の虫の音のことまでは思ひ至らなかつたに違いなひ。

 ちやつとした出来事だが、私には大きな悲しみである。


古典への回帰(2003.6.15)

 五十路を迎えた所為か古い日本のものに興味を持つようになった。今の日本人には無い過去の精神とでも言おうか、そのようなものに触れて、自分もそのような精神的支柱を自分の一部にできたらいいと考えている。

 古い日本人の精神は色々なものに残されていることは勿論だが、最も直截的に現れているのは言語であり文章である。そこで私は古文や漢文といった古典といわれるものを再び勉強したいと考え出した。

 こう思うようになったきっかけはもう一つある。最近読んだ文庫本の中の何冊かに、平安時代の文章が引用されていた。しかし、この平安時代の短い文章が全く読めないのである。読めないというのは理解できないということである。実はこれは私にとっては少なからず悔しい。何故ならばかつて中・高生であった時代、私は国語を得意としていたからである。

 自分の興味は理系科目にあり、その後理系に進んだ。しかし源氏物語の文章から感じられる香気、風情といったものを感じられる程度の国語的素養はあった。それが長い人生のうちに、すっかりと自分の知識の中から消え去っていたことになる。文庫本の古文を読んで全く理解できなかったことによって、そのことを思い知らされた。

 漢文に対する話は今日は書かない。これについては別の話題とからめて後日述べたい(いつになるか分からないが)。しかし一言だけ書いておくと、今はNHK第二放送の「カルチャーアワー・漢詩への誘い」をテキストを買って聞いている。

 話を古文に戻す。私が受験生時代、古文の最良の参考書といえば小西甚一の「古文研究法(洛陽社)」であった。私は理系の受験生であったから、この部厚い参考書は買わなかった。受験参考書というのは良く書かれているから、大人になった私が古文を本格的に勉強する手がかりとして、この本は充分使えるはずである。しかしなにせ30年以上前の本である。今はもう無いだろうと思ってネットで調べると、嬉しいことに今も売られている。

 ダイエーやサニーマートの本屋で売られている古文の参考書はお手軽安直なものばかりで、私の目的には到底そぐわない。ここは有隣堂にでも行かなければ手に入るまい、そう考えてきょう伊勢佐木町の有隣堂に行った。

 これは実はバイクでのショートツーリングも兼ねている。かつてはバイクで良く行った有隣堂だが、もうずいぶんと行っていない。道順もすっかり忘れていたが道路マップで確認したら、すぐに思い出した。かくして「古文研究法」を求めてバイクでのショートツーリングというおかしな行動に私は出た。

 渋滞には無関係のバイクである。すいすいと伊勢佐木町に到着した。昔来たときとはずいぶんと店の内部も変わっていた有隣堂だが、受験参考書とは最も見つけ易い類いの書物である。古文の参考書のコーナーもすぐにわかった。そして確かに「古文研究法」はいまだ本屋の棚に堂々と鎮座ましましている。その厚さは健在である。私は遂にこの本を手に入れた。

 なお、もう一冊、岩波全書の「漢文入門」も買うつもりだったがいくら探しても無い。そのうち店内の在庫を確認できるパソコンを見つけたので検索してみると「在庫無し」と出た。便利な時代になったものだと感心した。

 欲しかった本は手に入れた。問題は読む暇があるか否かである。最近は雑務に忙殺されて、ゆっくり本を読む暇がとれない身分である。そうしてみると、週末の夜にパソコンに向かってこんな駄文をしたためている場合ではないのかも知れない。


 

初めての腹部CT検査(2003.3.4)

 今日は区内の某病院で腹部のCT検査を受ける日だ。ちょっとした病気の疑いがあって、それをはっきりさせるための検査である。検査結果がどう出るかもさることながら、私にはそれ以前の心配事があった。

 今日のCT検査は造影剤を使うことになっている。より精密な検査をするために造影剤を使うのは望ましいことだとしても、何やら危険も伴うらしいのである。事前に渡された書類には色々と説明が書いてあり、ショック状態に陥ったり極めて稀ではあるが死亡するなどの副作用があるとのことだ。

 私は以前に狭心症の疑いがあり南共済病院で心臓カテーテル検査というのを受けたことがある。その時に一時的にではあるが血圧が低下し、意識が朦朧としかけた。その時も造影剤を使った。この血圧低下が造影剤の副作用であるか否かは不明であるが、ともあれそのような過去の経験がある。今回はそれ以上に多量の造影剤を使うのであるから、何か悪いことが起きなければ良いが、とかなり強い不安におそわれていた。

 私は自分が運の悪い人間であることを自覚している。これまでの人生でも運の悪い目にたびたび遭っている。そんな運の悪い私であるから、造影剤の副作用で稀に死亡する人間の一人になっても全く自然なことであると考えられるのだ。そんな思いが不安にさらに追い討ちをかけていた。

 さて、病院に着いてほぼ予約の時刻通りに検査が始まった。検査装置のベッドに横たわった私はどうにでもなれ、と思い切ることはできずに、相変わらずの軽い恐怖に捕われていた。情けない男だがこれが私なのだ。この歳までの小心者が今更なおる筈もないだろう。

 まずは造影剤を使わずに通常のCTスキャンだ。これは問題無い。次に看護婦が入って来て左の腕に造影剤を注入するための注射針を刺しながら「身体が熱くなるのは心配要りません」と言う。ああそうかい、と思って聞き流していたら「一気に造影剤が入っていきます」ときた。おいおいっ!もっと慎重にやってくれ。そーっと、頼むからそーっと入れて様子を見てくれ。死んじゃうかもしれないんだから、と叫びたくなった。

 が、一気に入ってきたらしい。身体中が内部からかあっと熱くなる不思議な感覚に襲われた。酒を飲んで熱くなるときとはまた全然異なる感覚である。が、気分が悪くなるような感じはしない。とりあえず大丈夫だ。まだ俺は生きている、と自分の意識の確かさを確認しながらじっとしていた。

 いくらも時間がかからぬうちに検査は終った。検査後、5分ほど様子を見るとのことで、せまい更衣室の椅子に座っているように言われた。良く見るとこの看護婦は元シンクロの小谷実可子に似ていた。まあそんなことはどうでも良いが、目の前のドアに取り付けられているタイマーを見ながら、とりあえずの自分の無事にほっとしていた。

 5分経ってタイマーがピピピピピと貧弱な音を立て、小谷実可子がやってきた。無事だった。ああ良かった。心底ほっとしながら「お疲れ様でした」の言葉を天使の声のように感じながら聞いた。

 数時間後に副作用が出ることもあるらしいが、今でも私はまだ生きている。あとは検査の結果を数日後に医師から聞かされるのを待つだけだ。どうなることか。


朝見た富士の美しさ(2003.3.2)

 日曜日の朝が久しぶりに晴れた。風は少し強いがさほどの寒さではない。バイクを走らせるには絶好の日曜日がやってきた。先週末はバイクを走らせていないので、もう2週間もバイクのエンジンは止まったままだ。たまにはエンジンを動かさないと、愛車が不動車と化してしまう。午前10時頃、バイクに乗って家を出ることにした。

 しかし案の定、エンジンがなかなかかからない。むむ。やばいかも。しかし、何とかエンジンが動き出したのでほっとした。やはりエンジンをかけないでいられるのは一週間が限度だ。二週間も間が空くとエンジンがかからなくなる恐れがあることが分かる。ともあれバイクに跨ってスタートだあ!

 いつもの散歩コースである埋立地の工業団地を目指す。日曜日で会社が休業している日曜日は、ここの工業団地の道は走る車も少ないので、のんびりマイペースで走るのには最高なのである。

 向かい風に時折あおられながらも、私のバイクは快調に走る。うーん、やはりバイクはキモチイイ。早く春になって、思う存分バイクで走れるようになって欲しいものだ。そんなことを思いながら、走り慣れた道をしかし新鮮な気分で走った。

 そしてここが折り返し点と決めている埋立地のある突端まで行き、そこでUターンをした瞬間私はあっと声をあげそうになった。Uターンした私の目に飛び込んで来たのは、真っ白に雪化粧した富士山だった。しかもかなり大きく見える。埋立地の突端まで出ているから、金沢の山々はかなり小さく見え、その分だけ富士山が高くそびえて見える。これだけ大きな富士山を見たのは、いったい何年ぶりのことだろう。しかも風があって空気が澄んでいるから、その姿がくっきりとしている。美しい。実に美しい。富士山なんて過去に何度も見ているのに、久しぶりに見たこの美しい光景に、バイクを止めてしばし見とれてしまったのである。

 バイクでちょっと走っただけで、こんなにも心に響く風景に出会えるのだ。やはりバイクとは素晴らしい生活の道具であると言える。もしこれを読んでいてバイクに乗ったことのないそこのあなた。原チャリでもいいから是非ともバイクに乗ってみませう。バイク、ほんとにいいですぜ、旦那。


最強伝説黒沢」の衝撃(2003.2.9)

 ビッグコミックオリジナルで比較的最近連載が始まった『最強伝説黒沢』は面白い漫画だ。穴平建設という中小企業に勤める44歳、独身の現場監督の奮闘を描いた物語である。

 最近の物語の進行もそれなりに面白いが、何と言っても第1回目が私には衝撃だった。黒沢は独白でこんなことを言っていた。

 『自分の人生が、地味というか、あまりにきらびやかでないことに愕然とする』

 これはそのまま自分の人生にあてはまるのだ! 私も一応仕事はしているが、毎日がとても地味に過ぎていく。しかし、そんなことは考えたことは無かった。生きる為の糧を稼ぐためにだけ仕事をしていると割りきっていたから、まあ人生とはこんなもんだろう、と思っていた。

 私が気付かなかったことに、黒沢は気付いてしまったのだ。そして私も黒沢の考え方の影響を受けてしまった。地味だ。実に地味だ。何の輝きも無い毎日。こんな生活のまま人生を終えてしまうのだろうか、と不安を抱くようになった。

 黒沢は自分に輝きを与えるのは「人望を得ること」だと判断したらしい。人望を得るために必死になってあれこれの策を考える。しかしそれは全て空回りに終り失敗する。その過程を見ていると、とても面白いけど考えさせられもする。黒沢はいい奴だ。だがどこか人生の歯車が外れている。

 さて一方、私のほうは何が自分の人生に輝きを与えてくれるのか、全く分からない。このままでは駄目だとは思っている。しかし、もうすぐ50才になる私が今の仕事を捨てても、今の日本の経済状況のもとでは新たな収入源を得ることはできないに決まっている。冒険はできない。失敗は許されないのだ。

 しかし、このままで人生を終えるのはやはり虚しい。何か見つけなければ、私は存在価値の無い人間のままで死んでしまうではないか。

 黒沢のような自問自答がいま私の心の中で始まっている。どうすれば・・一体どうすれば、自分の人生に輝きがもたらされるのか。

        わからん

 

;一枚の古いコート(2003.1.26)

 もう、何年前になるだろうか。ダイエーで冬用のコートを買った。手触りが良く、一見シルク風の裏地もしゃれていて、また昔のヨーロッパの農民が着ていたもののような風情もあり、そこが気に入って買ったのである。高級品でもないが安物でもない、ごく普通の価格の商品であった。

 という訳で私としては何の変哲も無いコートのつもりで買ったのであり、ごく当たり前のように外出に着用していた。ところがこれを着ているとおかしな事が起こるようになった。スーパーのレジなどでは私がまるでホームレスであるかのような不潔な人間と思われたらしく、店員が私にお釣りを渡すとき、汚いものに触るかのような仕草をされる。あるときなどは、あまりに店員が早くお釣りから手を放したため、硬貨が床に転げ落ちたこともある。

 また本屋やCDショップなどに私が入ると必ず店員がそれとなく私について周り警戒しているかのようである。私が怪しい人間に見えるのだろう。万引きでもせぬかと思って注視しているのかと思える。

 そういうことが起こるようになってから、あらためてこのコートを見直してみると、確かに色は汚いし皺も多く、くちゃくちゃのボロ着に見えないこともない。ホームレスが良く着ているドカジャンとは違うが、このコートを着ていると少なくとも上品で裕福な人には見えないだろう。明らかな貧乏人か、失業者のような存在に見えたとしても不思議はないのかなと、そこで初めて気が付いた。同じ私でもフリースのジャケットを着て店に行けば、明らかに店員の態度振るまいが違うのであるから、このコートが私をみすぼらしく見せているのに違いない。

 だが、私にはそれがかえって可笑しい。可笑しいからわざとこのコートを着て外出することにしている。見かけは悪いが製品そのものは悪くない、そこがいいのだ。見かけは悪くても中身の上等な人間が私は好きだが、このコートもそういう特長を持っている。見かけだけで人を判断するような愚かな店員には判らなくてもいい。これからも私はこのコートを着て冬の街を歩くつもりである。

 

久しぶりの年末の「第九」(2002.12.28)

 最近、意識して心に余裕を持たせようと努力している。その一環として、久しぶりにゆっくりとクラシック音楽を聞いてみることにした。ダイエーのエラートでベートーベンの「第九」のCDを買おうと思い、交響曲のコーナーを物色してみた。

 第九と言えばはるか昔の学生時代、ゲオルク・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団の2枚組LPを何度も聞いた。そのLPは今もあるし、LPが再生できるプレーヤーも家にはセットしてある。したがってそれを聞いても良いのだが、今や時代はとっくにCDだ。第九のCDを1枚くらいは持っていたい、そう思って新しく買うことにしたのだった。

 しかしダイエーのエラートに行った人はおわかりになると思うが、あの店はクラシックのCDなどほんの僅かしか置いていない。したがって選ぶCDは限られる。最近のクラシック音楽界の事情にはすっかり疎くなっているから、新しいCDで第九の名演はどれか、などということは知る由も無い。以上、二つの理由から私はカラヤンの第九を買うことに決めた。カラヤンは生前は毀誉褒貶の激しい指揮者であったが、名指揮者であることに変わりは無く、彼の演奏なら一定以上の水準は保っているはずである。カラヤンの演奏なら屑ということは無いだろうと思った。

 しかし、さすがはカラヤンと言うべきか。エラートのような店ですらカラヤンの第九は3種類ものCDが置いてある。録音の年代が古い順に1200円、1500円、1800円の価格がつけられている。一瞬、一番安いのを買おうかとも思ったが、当然のごとく最も新しい演奏は「デジタル録音」と明記されている。どうせCDを買うならデジタル録音がいいに決まっている。ほんの少し悩んだ後、その1800円のものを陳列棚から取りだし、レジへ持っていった。かくして20数年ぶりに新しい第九が我が家の音楽コレクションに加わったのであった。

 そして次の日、遂にカラヤンの第九が私の部屋で響き渡り始めたのだ。ほんの少し聞いただけで私は仰天した。ショルティの演奏と比べてなんたる違い!同じ第九がこんなにも違って聞こえるとは思わなかった。ショルティのものは楽譜を丁寧になぞっていくと言った類いの演奏で、これはこれで第九の原型を知るには適したものだ。しかし、カラヤンのは違う。自在にテンポを揺らし自分の音楽として作り上げているのだ。

 カラヤンとベルリン・フィルと言えば第九なんぞは数限りなく演奏してきたに違いない。お互いに充分に理解し合った仲だろう。それにしても、カラヤンの解釈に大オーケストラが一体となって、舞うが如く自在に第九を歌っているのだ。カラヤンも凄いのだろうが、こんな自在な演奏に全員が乱れず付いていけるベルリン・フィルの凄さに圧倒された。シカゴとベルリンの腕の違いを、まざまざと思い知らされたのだった。

 私はこのカラヤンの第九を聞いて、あのフルトヴェングラーの「エロイカ」を連想した。フルトヴェングラーのエロイカと言っても一般に出回っているものではない。かつて復刻盤が発売されるまでは、マニアの間で10万円で売り買いされたという、幻と言われた「ウラニア盤」のエロイカだ。これは敗色濃厚となった第二次大戦下のベルリンでのライブ録音である。(2020年追記。これは私の記憶違いであった。ただしくは1944年のウィーンフィルとの録音である。しかしウラニアのエロイカであることは変わりが無い)モノラル録音で音質も悪いが凄い演奏である。このエロイカもフルトヴェングラーがこれでもかというほど自在にテンポを揺らし、かつて聞いたこともない迫力の演奏を繰り広げている。きょう聞いているカラヤンの第九もこれに近い印象を与えてくれたのである。こんな演奏が1983年に行われていたのを知らなかったとは、私も随分と時代に取り残されたものだと苦笑せざるを得ない。

 全てが驚きであり感動であった。鳥肌すら立つ第九だった。第九と言えば「長くてときには退屈な瞬間もある」という印象を完全に拭い去った。びっくりしているうちにさらにびっくりする素晴らしいエンディングを迎え、カラヤンの第九は終った。私は部屋の中で一人で「うおおおおおぉぉぉぉぉ!!」と叫び拍手した。

 

不況の工業団地

 不況である。どうしようもない不況だ。私はほんの数年前まで自分の収入が無くなるなんて全く想像だにできなかった。今はかろうじて職を保っているが、昨今の経済状況下では、自分が職を失うことに備えなければならなくなっている。たいへんな時代に生きているのだ。一体いつになったら日本はこの暗いトンネルから抜け出すことができるのだろう。まだ先は見えない。

 今日は取引先の相手が来ないことが解っているので休暇をとった。ありがたい休暇ではないが、仕事の無い仕事場に行っていったい何をしろというのだ。

 幸いに今日は暖かい。風が強いので釣りには向かないが、バイクで近所を散歩するにはいいと思い、夕方近くになってバイクに跨って家の庭を出た。とりあえず釣り場に行ってみたが案の定この強風のもとでは釣り師の姿が少ない。最近、ここに捨てられる猫たちがまた増えている。ひどいことをする輩がいるものだ。止めたバイクの下に仔猫が潜り込んで来た。エンジンの余熱で暖を取ろうとするつもりなのか。実に痛々しいではないか。

 釣り場を出て付近の工業団地群の中を軽く流してみた。気のせいかここの工業団地にも活気が無い。もっと仕事で行き交う車が多くても良いのだが、道路は閑散としている。たまに大型のトラックが通っていくが、どのトラックも明らかに積載重量違反と解るほどの荷物を積んでいる。今すぐにころげ落ちても可笑しくないほど不安定な状態で荷物がぎっしりだ。これも不況で運送コストを節約しようという企業の方針なのだろう。

 それにしても、だ。ここに並ぶ会社の名前はごく一部の大手企業を除いて聞いたことの無いものばかりだ。要するに中小もしくは零細の企業がここにずらりと集結しているのだ。 これらの会社の中に多くの人間ドラマがあり、中には不況で儲からず苦しい思いをしている経営者や労働者がいるのだろう。否、そういう企業のほうが多いやも知れぬ。そう思って見ると一つ一つの企業の門戸を叩いて「おたくは経営状態は大丈夫ですか?」と尋ねてみたい衝動に狩られる。心配なのである。現に少し前にあった釣り場の真正面の会社が潰れて、今は更地になったりしているのだ。そういう現実を見ているから、ここにある会社の状態が気になって仕方ない。これだけ多くの会社があれば、今日この瞬間にリストラを言い渡された人間が居るかもしれない、とそんなことまで頭に浮かんで来るのだった。

 これらの企業も生まれた当時は創業者の大きな夢があったことだろう。あるいは一攫千金を狙って作られた悪徳企業もあるかも知れない。しかし今や夢を追うどころか、生き延びるだけで精一杯なのではないか。

 夕陽に照らされた工業団地群の建物は、夕日のごとく頼り無げに輝いて見えた。頑張れ!日本の中小企業!

 

 

熊男とVINO

 私は普通二輪の免許を持っていて150ccというまことに中途半端な排気量のバイクに乗っている。したがって普通なら50ccの原チャリなどには興味を持たないはずなのだが、いま欲しくてたまらない原チャリがある。それはYAMAHAのVINOというスクーターだ。これは言わゆるファッショナブルスクーターの中で最も人気の高い商品である。口の悪い人はVESPAもどきなどというが、そんなことはどうでも良い。とにかくデザインがいいのだ。美しいとさえ言っていい。が、この原チャリはもう数年前から発売されていて、一時はPUFFYのCMで有名になった。あるいはあのCMがVINOの人気の原因になったのかも知れない。そんなVINOになぜ今更興味を持つようになったのか、その原因はこうだ。

 私は通勤途上、金沢区内の某交差点でたまにVINOに乗った女性ライダーとすれ違う。その女性の顔はあまり良く覚えていない。いや顔などどうでも良いことなのだ。その女性はCMのPUFFYのように銀色の御椀型ヘルメットにゴーグルを重ねている。ゴーグルを普通に目にあてるのではない。ヘルメットに巻きつけているだけだが、ここが重要なポイントなのだ。これが今流行りのスタイルである。

 その女性がVINOに乗ってさっそうと街を走り抜けていく。その雰囲気の全てが美しい。VINOの大きさとその女性の身長が絶妙にバランスして、美しいライディングスタイルを作り上げているのである。私は何度かこの女性とすれ違っているうちにVINOに惚れた。女性でなくVINOに惚れたのである。VINOとは何て美しいスクーターだろう、と思うようになったのである。原チャリではあるがVINOが欲しい、そう思い続けていた日々であった。

 今日、自分のバイクに乗って釣り場の様子を見にいった。そしたらなんと新品と思しきVINOが止まっていた。ブルーメタリックの塗装が深々とした光沢を放ち、実に美しい。こうして間近でVINOを見てもやはり美しい。うーむ、欲しい。私の目線は釘付けになった。

 しかし、だ。このVINOの持ち主は女性ではなく熊のような男であった。何故こんな熊のような男がVINOを買ったのか。私と同じくその美しいスタイルに惚れたとしてもおかしくはない。しかし、男とVINOの組み合わせを客観的に眺めてみると、何となく似つかわしくないように思えてきて、自分がVINOを買ったとしても同じように見えるのではないかと考え始めていた。

 しばらくそばで気付かれぬよう観察していたが、やがてその男はVINOに跨って走り始めた。小柄な女性が乗るとちょうど良く見えるVINOの車格は、長身の男が乗るとなんだか小さ過ぎて、釣り合いがとれないことがわかる。やはり男には私のバイクくらいの大きさがないと格好が悪く見えるのかなあ、と判断せざるを得ない。

 残念な現実を見てしまった私は、VINOを手に入れようとすることは考え直さねばならないのかも知れない。やっぱ原チャリは原チャリなのか。それでも私はまだVINOを諦め切れずにゐる。

 

もの思ふ雨の休日

 12月上旬。休日だというのに真冬なみの冷たい空気が地上を覆い、さらに冷たい雨が降っている。どこへも行けないし何もできない。本を読むのにも飽きて、今こうしてPCに向かって独り言を書いてゐる。

 さっき漫画を読んでいて思い出したことがある。かつて12月になると私は聖書を読んだ。私はクリスチャンではないが、キリスト教が世界の多くの人々に、大きな精神的柱を与えていることは事実であろう。だからクリスマスシーズンの12月くらいは、私も聖なる気分に浸ろうと思い聖書を読んでいたのだ。

 だがいつの頃からか、そういう落ち着いた気分を忘れてしまった。仕事に束縛される時間が急速に増加し、ゆったりとした12月の過ごし方ができなくなったのだらう。

 人生を何十年も過ごしているうちに、何と多くのものを忘れたことだろう、と思う。知識や技術で忘れたものも数多いが、今せめて取り戻したいのが上に書いた「ゆったりとした気分」だ。12月は聖書を読む。正月は新鮮な気分で迎える。2月は近づく春の足音を聞き分ける。などなど書いていればきりが無いほど多くの「気分」を忘れてしまっている。

 そういう気分というものは、人生の時間を濃密なものにするために欠かすことのできないものだと思っている。そういう感情を忘れてしまって干からびた精神を持っている人間が、巷には何と多い事か。私も危うくそうなるところだった。それに今気付いた。

 家のどこかに仕舞いこんだ聖書を探し出して読もう。外はまだ雨が降ってゐる。

 

ちっちゃなラジカセの魔法

久しぶりに風邪をひいた。どうにも気分がすぐれないので寝室で横になることにした。寝室と言ってもベッドとタンスがあるだけである。テレビはおろか普段はラジオさえ置いていない。ここはただ寝るだけの場所である。したがってただ横になっていても退屈してしまう。そこで私は小さなモノラルのラジカセを持ち込んだ。

自慢するわけではないが、私の家ではオーディオ機器はいくつかある。20万円を超すハイコンポもあればCDラジカセもある。あるいは作業をしながらパソコンで音楽を聞くこともある。だから、今日私が寝室に持ち込んだラジカセは、普段は全く使用されていない古いものである。

布団にもぐり込みラジオのFM放送を聞くためにスイッチを入れたら、JAZZが流れ出した。その瞬間、その音楽が私に与えた心地良さにびっくりした。「ん?何だろう、この心地良さは」と不思議な思いに捕われたのである。それはまるで魔法のように私の心を揺さぶった。この心地良さはハイコンポで音楽を聞いたときにさえ感じなかったものである。ちっちゃなラジカセの音が何故かくも耳に心地良いのか。実に不思議な体験だった。

この原因を想像すると、多分その時の私が風邪をひいていて気だるいところへ、それにピッタリのJAZZのスロウバラードが流れたものだから、体調・気分と音楽とが上手く組み合わさって私に快感を与えたに違いない。

私はこの時、音楽を聞くにはいかにシチュエーションが重要かを再確認させられた。音楽の心地良さは機械の性能ではない。その時の自分の状態が大事なのだ。

このことがあってから、私はいつも枕元にこのラジカセを置いて、眠りに着く前の十数分聞いている。今でもこのちっちゃなラジカセは無くてはならないものになってしまった。