私の本棚

凍える牙(乃南アサ)

 この小説は面白い。こんなにワクワクドキドキしながら小説を読んだのは「亡国のイージス」以来だ。乃南アサという名前から何だかミーハーな小説家をイメージしていたのだが、とんだ間違いだった。乃南アサという小説家との新しい出会いが得られたのは幸甚なことである。

 冒頭、レストランで人間がいきなり炎上する。まるでクロスファイアのバックフラッシュを見ているかのような気分になったところで、場面が一転する。そこは若い女性が独り暮らしをしているマンションで、そこの玄関にツーリングから帰った女性ライダーが登場する。ライダーの描写がかなり丁寧なので、昔よく読んだ片岡義男のオートバイ小説の再現であるかのような錯覚に襲われる。以上のバックフラッシュと錯覚とが、私を一気に物語の世界に引き込んでしまった。

 その女性ライダーは音道貴子というもと白バイ隊員の刑事である。この女性刑事が女性を蔑視している冴えない中年刑事と組んで難事件に挑むことになる。この中年刑事とのやりとりが実に面白く、また丁寧に書かれている。双方の心理描写が細かく緻密で時としてくど過ぎる感さえ与えるが、この心理描写こそが乃南アサの真骨頂であるらしい。

 同じ女性作家でも宮部みゆきの心理描写はこれほど細かくはない。心理描写を少なめにしてストーリーを多彩に描いていく宮部みゆきとは違って、乃南アサは一つ一つの場面の心理描写を丁寧にして、ストーリーはゆっくりと進められていく。だが、そこから作り出されるストーリーの迫力は宮部みゆきと同等かもしくはそれ以上と言っていい。

 物語に登場する警察やその他の素材(ネタが割れるので書かないが)に対する事前の取材はかなり多くの時間をかけて行われたものなのだろう。普通ではわからないような事柄が膨大な量になって、この小説の中に盛り込まれている。そしてその事柄が物語の本質と密接に結びついてこの小説の現実感を高めている。単なる架空の物語ではなく、現実に存在するかのような説得力を示しているのはお見事としか言いようが無い。ほんとに凄い才能を持った小説家である。

 物語のクライマックスシーンで深夜の高速道路を疾走するバイクを描く場面では、身体に当たる冷たい空気、ヘルメットを切り裂く風の音、エンジンの排気音、そして照明に照らされた情景などが頭の中にずっと浮かび続けた。ここは圧巻な描写である。このシーンのバイクに乗った貴子の心理状況が正確に伝わってきたのは、自分がライダーであるからこそであり、それは幸福なことであった。

 細かい突っ込みを入れると、「私物のバイクがXJR1200なのに、なんで警察のバイクがCB400スーパーフォアとちゃっちくなるんだ?」とか「林の中や泥濘地を走らせるんなら、オフロードバイクのほうが良かったんじゃないか?」とか言いたいことはあるが、まあそれは大きなお世話であろう。

 とにかく最後まで面白さが持続し、読み終わった後ちょっと悲しささえ感じさせられた。「自分には小説は書けない」と落胆させられるのは、こういう傑作を読んだときである。こんな膨大な量の取材をして、それらをこんなに見事に物語として繋ぎ合わせ、しかも人間も見事に描き切っている(これは「亡国のイージス」も同じである)。こんなことが自分にできる筈がない。

 ともあれ乃南アサはこれからも読む価値がある。いい作家に出会ったと繰り返し言っておこう。


魔術はささやく(宮部みゆき)

 なんだかんだ言いながら、宮部みゆきはけっこう読んだ。「R.P.G」も読んだし「火車」も読んだ。だがここには書こうという気にならぬほどの作品だった。私がプロの文芸評論家で、時間も充分に与えられているならば何としても書評を書くだろう。だが私は忙しい仕事の合間にこれを書いている。書こうと言う気にならぬ作品は書かない。したがって実はここに紹介している作品以外にも、けっこう読んではいるのだと告白しておこう。

 さてこの「魔術はささやく」の紹介は書く気になったから書いている。なぜ書く気になったのか。感動したからではない。腹が立ったからだ。読者を馬鹿にするのもたいがいにしろ、と思ったからだ。

 物語の大部分は本格的社会派小説のような趣で書かれていて、「火車」に共通したような設定もある。したがってこちらもそのつもりで読んでいた。そしてこの謎がどのような方法で解明されるのか、大いなる興味を持って読んでいた。途中の描写は全く文句のつけようのない上手さだ。人物の描写、情景の描写、会話の描写、どれもが完成され尽くしていて迫力も満点。ひじょうに面白い小説だと感心していた。

 ところがだ。肝心の謎が解明される場面に突入したところで、私はずっこけてしまったのだ。なんだこりゃ。この謎の人物は何だ。こんな奴がいるのか。セリフ回しなど怪人二十面相にそっくりで大仰である。ここまでこの雰囲気でこの小説を引っ張ってきて、いきなり小説のジャンルが変わってしまったではないか。社会派小説かと思っていたら、擬似SF小説であったのだ、この作品は。

 「宮部みゆきは読者をだましている」と言った人がいる。「R.P.G」は意図的に読者をだまそうとした小説であり、後書きで作者自らそう告白しているからまだ許せる。しかし「魔術はささやく」でのこのだましかた、これは反則である。言ってみれば、密室犯罪を扱った本格推理小説を読んでいたつもりが、実は犯人は魔法を使って殺したのだというオチがついたようなものだ。だから私は怒った。

 「クロスファイア」が面白いのは初めから主人公が超能力者であることが明らかにされており、読者の関心はこの超能力者の運命に置かれることになり、そして読者の期待を裏切ること無く物語が進んでいくからだ。宮部みゆきの小説は先が見えないから面白いという人がいるが、いくら先が見えないからと言ってこの裏切り方はないだろう。「魔術はささやく」はそう思わせる作品だった。

 これも古本市で20円で買ったものだ。20円で良かった。新刊で買っていたら、壁に投げつけていただろう。実はあまりに腹が立ったので、読み終わる前にこの書評に怒りをぶつけようと思ったくらいである。何とか我慢して最後まで読んだが、結局怒りは収まらなかった。全くひどい話だ。


人生勉強(群ようこ)

 本の裏表紙には「私小説」と書かれているが、私にはどうみてもエッセイとしか思えない短編10編から成っている本である。「わざわざ私小説と謳っているということは、ここに書かれていること全てが事実ではないということだろうか。その辺が実に曖昧だが、こんな程度の小説でいいのなら私にも書ける。暇があればの話だが。

 文体は中年女性特有のおちゃらけた下品なものであり、作品のほとんどが他人への悪意と侮蔑から書かれたものである。この人は女性やおじさんに人気がある作家らしいが、なぜそんなに人気があるのか私には理解できない。このような品性下劣な文章を書く作家は、私はご免蒙る。

 ただしこの人の書いた長編小説を読まぬうちは、本当の評価はできないのかも知れない。おちゃらけた文章で面白いストーリーを作ることは可能だろう。この本の中にも書かれているが、この人は作家として相当な稼ぎをしているらしいから、確かに支持者は多いのだとは認めざるを得ない。

 群ようこの名前は書店でたびたび目にしていて、気にはなっていた。古本市にたまたま出ていたので20円で買ったのが、この「人生勉強」である。古本市で買って良かった。新品で買ってこの薄っぺらな内容と文体であったら、腹が立ったことだろう。まさに20円に相応しい本である。


テロリストのパラソル(藤原伊織)

 平成7年度に江戸川乱歩賞を受賞し、翌年に直木賞にも輝いた作品。この二つの賞をダブル受賞したのは、この作品が最初らしい。

 新宿中央公園で数十名を巻き添えにする爆破テロという派手なシーンから話が始まるので、これは何か大掛かりな設定の小説かと思わされるが、その後は一転して地味なストーリー展開になっていくので、おや?と思わされる。

 アル中で中年のバーテンが主人公だが、実は過去に秘密を背負っている。だが、途中までそれが明らかにされない。だからこのバーテンが訳の分からないヤクザに出会ったり、突如暴漢に襲われたりするが、読むほうはなぜこんな事が起こるのか解らないまま読まされることになる。しかし飽きずに読めるのは、まず第一に人物描写が巧みであり、物語の底を流れる哀愁にも似た雰囲気が読者を引きつけるからだろう。会話のセリフ回しもなかなか面白い。

 そして途中から、次第に主人公の過去や主人公に関わる人物達の背負っているものが明らかになり、それらのものの絡まり方が見えてくると、もう物語りに引き込まれてしまう。

 作者の藤原伊織は私より4〜5歳年上で、明らかに全共闘の指導者世代である。東大仏文科卒となっているが、彼も全共闘に属していたのかどうか定かでは無い。確かに、当時の安田講堂落城事件などを知らなければ、この作品が完全に理解できるとは言い難いだろう。若い人にはその点で、いま一つこの作品に乗りきれないもどかしさはあるだろう。その点は確かにこの作品の弱点ではある。

 しかし、全篇を通じての物語構成が緻密である。また主人公を取り巻く人物の数は決して多いとは言えないが、一人一人の人間性が細かく描かれていて、どの人物にもそれぞれ異なった魅力を感じさせられる。陳腐な喩えで恐縮だが、文体が清水俊二氏の訳したレイモンド・チャンドラーの小説に似た雰囲気もあると言っておこう。

 最後に強いて不満をあげると、物語の説明をを会話の部分に頼り過ぎているきらいがある。一人のセリフが長過ぎるのである。会話の描写の上手なことは充分に感じられるから、もっと地の文章によって物語を進めて欲しい。前半はそれほどでもないが、後半、特に肝心のクライマックスが会話ばかりで迫力がない。この小説には迫力を求めてはいけないのかも知れないが、クライマックスなのだから、会話の合間にもっと色々な描写を付け加えると、更に面白く読めただろう。

 作者が東大卒だからというのではないが、文章はしっかりと書かれていて破綻がない。逆に言うと東大卒の人間に、よくもアル中のバーテンだのヤクザだのが描けるものだと感心した。かなり複雑な精神世界を持った人なのだろう。


私の岩波物語(山本夏彦)
 
 かつて山本夏彦翁の別の著書を読んでいたら「岩波こそ日本語の破壊者である」というような発言に出くわした。その本にはそれ以上のことは書いてなかったので「一体これはどういうことか。一流中の一流たる岩波書店が日本語の破壊者であるとは何ぞ」とずっと気になっていた。この「私の岩波物語」という翁(故人だが翁と呼ばせていただく)の著作を読んで少しだけ謎が解けた気がするが、未だ完全に氷解したとは言えない。完全に理解するには翁と同じだけ本を読まなければならないので、永遠に不可能だ。
 
 この本は複雑な構成なので、私の拙いまとめかたより、ここは原文を紹介したほうがこの本の雰囲気が伝わるだろう。また私の個人的な思い出とも繋がるのでちょっと引用させてもらう。
 翁は37ページにこう書いている。
 
岩波の用語は哲学叢書に端を発している。文学もまたそうだ。
 
そしてその哲学叢書については、その前の36ページでこんなことを書いている。
 
 それは難解を極めた。天野貞祐訳のカントの「純粋理性批判」がその代表だろう。それは不可解な字句に満ちて読むものに絶望に近い迷惑を与えた。分かるのは天野とその教室の生徒だけだった。
 
 さらに文学の代表として岩波が日本にはじめて紹介したトルストイやドストエフスキーの翻訳をとりあげ、その訳者についてこう批判している。
 
 原文に忠実なあまり、また文法的に正しくありたいあまり、彼らは日本語のリズムを失った
(さらに痛快な批判もあるのだが、それはこの本を読んでのお楽しみだ)
 
 私はこのくだりを読んで30年間抱いてきた劣等感がだいぶ癒された。私は哲学科の学生ではなかったが哲学には興味があった。岩波文庫でカントを読もうと思い、部厚い「純粋理性批判」は敬遠して薄目の「実践理性批判」を買って読み始めた。しかし読んでも何が書いてあるのかさっぱり分からない。おかしい。俺はこんなに文章が読めない人間ではなかったはずだ。生意気な学生の持つ過剰な自尊心が悲鳴をあげたが、分からないものは分からない。私は遂に「実践理性批判」を読むのを諦めた。これに比べれば「摩訶止観」のほうがまだ分かる部分が多いし、ベルグソンはひじょうに良くわかる。
ま、そんな訳で翁の言葉のおかげで、私が岩波文庫のカントが分からなかったのは、あながち私だけが悪かった訳でも無さそうだと思い少しほっとした。もっとも誰の訳書だったかは覚えていない。
 
 さて、この「私の岩波物語」は岩波だけについて記述してある訳ではない。講談社、筑摩書房、誠文堂、電通などをはじめとして、大正から昭和にかけての出版界、広告界、はては印刷屋、製本屋に至るまでその内情が詳しく書かれていて読んで飽きない。その主軸となるのは翁が主催した雑誌「室内」(もと「木工界」)である。この雑誌を作るにあたって経験した事柄を書き連ねたものだが、翁が並みの出版人でないために色々なことが起こる。また翁の目に面白くまたは不条理に思える様々の事実に関する記述がまた面白い。

 この本が面白いのは内容だけでなく、翁の文章力にも魅力があるからである。漢学をバックボーンに持つとこんなにもすばらしく歯切れの良い文章が書けるのかと羨ましく思う。この文体は翁独自のものであり、真似をしたい衝動にかられるが真似をすると直ぐ猿真似だと分かってしまうので真似はやめる。


鳩笛草/燔祭/朽ちてゆくまで(宮部みゆき) 

 この本を買ったのは映画の「クロスファイア」をレンタルビデオで見てたいへんに面白かったので、映画に含まれている「燔祭」の部分を原作と比較してみたかったからである。
 
 結論からいう。映画のほうが原作より面白い。もちろん原作あっての映画化であることは百も承知だが、映画のほうが感情移入しやすい物語構成になっている。原作では多田一樹が妹の雪江を溺愛するようになる部分は詳しく書かれている。だが雪江と青木淳子が直接の面識も無く、また淳子と一樹がそれほど仲が良いのでもないのに、なぜ淳子が一樹の復讐に手を貸そうという気になるのかが納得できない。
 
 仮にも人を殺そうというのだから、そこにはよほど強い動機が無ければならない。淳子が「装填された銃」でそれを正しい方向に撃ってみたいと思っていたのなら、もうとっくにやっているだろう。少なくともこの程度の動機で撃とうというのなら。そう思ってしまうのである。
 
 映画では淳子と雪江が直接会い、また一樹に想いを寄せていたことが分かるので、淳子が初めて自分の意思でパイロキネシスを人間に向かって使うことが許されるとこちらも理解できる。映画のほうは出発点から復讐を開始するまで、(ほとんど)何の疑問も無く観ていられた。映画を観た時点では原作を読んでいなかった私でも話の流れが理解できたのだ。
 
 もう1つ「燔祭」と映画の大きな違いは淳子の性格である。ひっりと他人と関わりを持たないように生きてきたという点は原作も映画も同じだが、本来の性格はだいぶ違うようだ。
 
 レストランの前に止めてあるベンツを炎上させた淳子が、一樹に顔をひっぱたかれて止められた後の台詞でそれがわかる。原作では「信じてくれる?」とあっけらかんと言うまるで子供みたいな淳子だが、映画では「信じて・・・・くれたん・・・・・ですね」と物静かにひっそりと言う礼節をわきまえた女性になっている。(文章では分かりにくいかも知れないが)
 
 という訳でこの「燔祭」という中編小説は私にとっては映画を観ていなかったら何も感じない作品になっていただろう。小説「クロスファイア」はもっと読み応えがあって面白いが。
 
 あとの「鳩笛草」と「朽ちてゆくまで」も超能力を持った女性が主人公の短編と中編。どちらも一度読み飛ばしてしまえば十分という作品だ。宮部みゆきという人は本質的にストーリーテラーであって名文家でも美文家でもないようだ。文章そのものは超一流とは感じられない。
 
 だから長編でストーリーが面白く構成されている作品を読むのは良いが短編では彼女の本領は発揮されないのではないか。今はどんな作家になっているのかは知らないが、少なくともこれらの作品が書かれた頃の彼女はそうだと言える。

 暇があったらもっと色んな作品を読んでみたいとは思う。


私の國語教室(sc恆存)

 これほど高級で専門書にも匹敵する内容を含む本が文庫本で買えるというのは素晴らしいことである。

 本来ならこの本の紹介は正假名遣ひ(いわゆる歴史的仮名遣い)で書くべきところだろうが、多くの人のために読みやすさを優先して現代仮名遣いで書くことにする。

 我々が日常何気なく使っている現代仮名遣いは実はとんでもなくでたらめなものであり、正假名遣ひこそが論理的にも筋が通っている正しい日本の言葉であるという事を、著者は様々な視点から繰り返し述べている。その論調は時として攻撃的であり、読者によっては不快に感じられることがあるかも知れない。しかし論理的には完璧であり、反論の余地は無い。

 途中いくつか語学の専門的な知識を伝達しようと試みている章があって、その部分は難解である。しかし、その章が理解できなくても正假名遣ひの正しさは十分に伝わってくる。この本を読み終わった後、誰でもが「自分も正假名遣ひで文章を書かなければ」と思うだろう。少々の努力があればそれは可能である。論理的に筋が通っているのだから、学び易いのは当然である。

 また、これは感性の問題であるが、古い日本の假名遣いのほうが情感を含んでいて奥床しくまた美しいと私は思う。「かおり」よりは「かほり」、「こい(恋)」よりは「こひ(戀)」と書いたほうが何となくほっとするではないか。これはきっと古い言葉が、自分の中にある日本人としての心の琴線に触れるからだと思っている。

 だから私はこの假名遣いは正しいものと見なし、識者の間で使われている「正假名遣ひ」という言い方を用い、「歴史的仮名遣い」とは呼ばないことにする。最近は若い人の中にも「正假名遣ひ」を好んで使う人が増えてきたという。まことに喜ばしいことである。意識して探してみるとWebにも正假名遣ひで書かれたものがけっこうある事がわかる。

 声を大にして言はう。正假名遣ひこそが正しい日本の言葉であると。


 

日本海軍のこころ(吉田俊雄)

 これは戦争賛美の本でもなければ軍国主義復活を願う本でもない。大日本帝国海軍がいかに組織として優秀であり、またその優秀な人材を生み出すために江田島の海軍兵学校でいかようにして教育がなされたかを、現代の我々に今更ながら教えてくれる本である。もちろん、著者の懐旧の情が入っていることは避けられないであろうにしても、私が今まで抱いていた日本帝国海軍に対するイメージを根底から覆したことは間違い無い。

 私が子どもの頃はまだ戦争ものの漫画や映画やテレビドラマが盛んに作られていた。漫画で言えば少年マガジンの「紫電改の鷹」、映画で言えば東宝の「太平洋の翼」、TVドラマでは「戦友」など、どれも面白く観たり読んだりしていたものだ。

 そのようなメディアから日本軍に対するイメージが子供であった私の心の中に作られていった訳だが、まことに漠然とながら「どうも陸軍より海軍のほうがカッコイイ。日本軍の中での最高の存在は海軍航空隊じゃないのか」といったようには感じていた。その程度に海軍を評価する力は子供の私でも持っていたことになる。

 しかし日本軍総体については精神主義ばかりが横行して、神国を信じつつ戦った愚かな組織であると思っていた。しかし、この本を読んで日本海軍が敗れたのは軍隊の所為ではない、軍を動かす国の政策の間違いである、ということを教えられた。

 まあ日本が戦争に勝ったほうが良かったのかは何とも言えないが、ともかくこの戦さは、近代戦における科学技術の重要さを知らぬ帝国政府のおかげで、負けるべくして負けたというところか。そのようなことが、この本の終り近くになって政府の内情と共に明らかにされている。

 だが著者が本当に言いたかったのは、戦争で負けたことへの言い訳ではない。戦争が始まる前の平和だった頃の日本帝国海軍の姿が、いかに素晴らしいものであったかということである。そこは男にとっては最高の世界だったろう。ちょっと本文から引用してみると、当時の海軍将校の姿が良く分かるだろう。

 だが、ジェントルマンのあるべき貌は、そのスマートさだけではない。それを裏付ける深く広い教養・・・大きな意味での骨太の使命感、義務感と責任感。それに、今自分は何をなすべきかの判断を誤らない洞察力とバランス感覚が必要である。そしてさらに、それを可能にする堅確な意思と健康な体驅である。
 鉄砲を持って走るだけでは、ジェントルマンは勤まらないのだ。

と、こんなことまで書かれている。海軍将校がここまでの能力集団であるとは、こんにちに至るまで全く知らなかった。精神主義者の集団だと思っていたのだが。ま、過去を賛美しているだろうことを割り引いて考えても、少なくとも現代の我々が忘れているものを多く持っていたことは間違いないだろう。

 もう一つ。たいへん羨ましく思ったのは、海軍の人間がつねに誇りを忘れずにいられたような、当時の社会環境である。能力と社会的立場の優れたものが、誇りを持ち続けていられるように現代の日本社会はなっていない。むしろ自分より優れたものに対する妬み、嫉みで溢れかえっているのが現代の日本ではないのか。

 現代の日本人が過去の日本から学ぶべきことは実に多い。軍国主義の日本へ戻れとは言わないが、もう少し日本古来のものを大切にして、日本人であることに誇りを持ったらどうか。そんな事まで考えされられたのだから、この本は現代人にとって有益なものとなるだろう。


 

クロスファイア(宮部みゆき)

 この本はずいぶん前に発売され相当売れたらしい。しかし、その頃はこの本の存在は知らなかった。宮部みゆきという名前だけは何となく知っていたが、どんな作家でどんな小説を書くのかは全く知らないままだった。

 ある日、私はとつぜん小説が読みたくなった。何でもいいから面白い小説が読みたい、そう考えて本屋に行った。いろいろ見ているとき、この本の帯に書かれている「超傑作」とか「目も眩む圧倒的物語」という謳い文句に何となくひかれて買ってしまったのだった。

 確かに面白かった。短期間で一気に上下巻を読み通してしまった。小説としては軽いノリであるが、ストーリー展開が巧みであり主人公・青木淳子の運命がどう展開していくのか気になって、次から次へとページをめくりたくなる衝動に支配され続けた。

 宮部みゆきという作家はよほど器用なのだろう。あまり深く考えることなくどんどんストーリーを生み出しているかのようだ。もちろん、実際はそうでもないのだろうが、少なくとも読んでいる者にはそう見える。それほど話の運びに淀みが無い。

 ただ一つ残念だったのはパイロキネシス(念力放火能力)を持つ人間を主人公以外にも登場させてしまったことだ。これでは主人公の持つ有り難味が薄れるというものだ。この小説がもともと嘘臭いのに、この事がさらに嘘臭くさせている。

 超能力者を主人公にした傑作には筒井康隆の「家族八景」があるが、あの主人公七瀬に比べると、超能力を持つが故の悩み苦しみといったものもあまり深くは描かれていない。まあ筒井康隆のような天才と比べるのは可哀想だから、これはこの程度で満足せねばなるまい。とにかく読んで面白いのだから。


亡国のイージス(福井晴敏)

 これは近年では稀にみる力作であるといって良い。部厚い本が上下2冊もあるので、つまらなかったら到底読みきれないところであるが、読み切れてしまうのである。上のクロスファイアとは対照的に最近の流行小説としては珍しく重厚長大であるが、内容が濃密に詰まっているので、飽きることなくページをめくる気になった。

 まず登場人物がたいへんに多く、かなり読み進んでも誰が主人公で誰が善人で誰が悪役なのかが全くわからない。後に主役になるはずの登場人物の正体もいっさい不明である。唯一北朝鮮のテロ組織が悪役であることが分かる程度で、後の人物のほとんどについては、どのような役割を持ってこの長編小説に登場してきたのか掴み所がない。

 それでも読み進むことができるのは、一つ一つのエピソードが面白いのと、これから何やら大変なことが起こるらしいことを読者に予感させる緊迫感を漂わせ続けているからである。

 そして、このように訳の分からなかった登場人物の関係が、後半では全て一本の糸で結ばれていく様は圧巻である。緻密かつ巧妙な計算のもとにこのストーリーが組み立てられていることに感心させられる。

 戦争小説と言ってしまっても良いが、戦争の規模としては実は大したことは無い。それにもかかわらず、大変な事態が日本に勃発したのだという事が実感できるような臨場感のある文章で語られていることも凄い技術だ。

 読後に残る余韻がたいへんに心地良かった傑作である。