<染谷明彦のイタリアレポート・・ローマからシチリアへ>

*薄暗いテルミニ駅

 空港駅からローマ、テルミニ駅まで向かう列車からの車窓は、まだ20:00すぎなのに、真っ暗だった。車両でアジア人は僕一人、周囲の視線がなんだか冷たい。旅の始まりにもかかわらず元気がないのは、駅職員のお姉さんのせいかもしれない。パスの使用日を記入してもらうだけなのにお金を請求され、おまけにお釣は全部50リラのコインで投げ捨てるように渡された。あまりにも冷たい態度に、僕は少し落ち込んでしまった・・。
 駅についたら今日中にシチリアに向かう列車に乗らなくてはならない。テルミニ駅は日本で言えば東京駅に当たるのに、薄暗く汚い。おそるおそる列車の待つホームに行くと、車両はすでに満席となっていた。列車の窓ごしに、座席から身を乗り出して大声で騒いでいる人や、こちらをじっとにらみつけている人が見える。僕は「この列車には乗れない!」と冷静に判断し、1時間後にある次のシチリア行最終列車を待つことにした。
 時間があったので、バールでミネラルウォーターを買う。店員のお兄さんは、トムクルーズの『カクテル』を意識してか、ボトルをほうり投げ、回転させている。それはまさに自分の思い描いていたイタリア人・・、僕はイタリアに来たことを実感した。 


*最終列車は寝台車*

 次の列車もすでにホームに入っていた。幸運にも、今度の列車には気になる人影はなく、無難そうだ。安心して空いているコンパートメントを探していると、僕はあることに気付いた。この列車は全部寝台なのだ。当然、寝台は、予約していないと乗車できない。しかも、イタリアでは寝台の予約は出発の3時間前まで打ち切るのである。僕は我を忘れて走りだした、窓口にかけこめば、何とかなるかもしれない・・。
 しかし、窓国のおじさんは僕を追い払うように、手を振って相手をしてくれない。しかたなく列車に戻り、今度は車掌に訴えるように話しかける。しかし、車掌は、今にも襲いかかりそうな僕の剣幕に、すまなそうにイタリア語を発するだけだった。車掌は人の良さそうなおじさんだったが、わざといじわるをしてイタリア語しか話さないのでは、と思うほど、ぼくは焦っていた。
 もしこの列車に乗れなければ、ここで野宿しなくてはならない。旅の最初から野宿、それも危険なローマで! そういえば、ローマにはゲイが多いと聞いている。一人で寝ていたら何をされるかわからない。僕は、ただ列車の周りを走り回っていた・・。
 あてもなく列車の細い通路を移動し、コンパートメントの人に声をかける。といっても、会話集の列車編のページの単語コーナーにある『空席』という文字を示すだけだが、どのイタリア人も残念そうな顔をして手を振るだけ。そして、発車20分前になってしまった。


*イタリア人のおやじさん

 列車の通路を進み、僕の乗れる2等車の車両も、もう残りわずかとなったとき、あるコンパートメントで、いかにもイタリア人的な体の大きなおやじさんたちのグループに出会った。僕は半ばあきらめながらも、今にも泣きそうな顔でコンパートメントをのぞみこみ会話集を指し示した。すると、みんながコンパートメントから出てきて僕に話しかけてくれる。僕はただひたすら『寝台』『予約無い』という単語を順に差し示し続けた。もう、これしかできることがなかった。
 そのとき、大げさだが奇蹟が起こったのである。どうやら、ボス的存在のおやじさんが僕の言うことを理解したのか、うなずき始めたのだ。そして、周囲の人達に何か言い、他のおやじさんたちが次々に列車から降りて行った。車両に残っていたおばさんたちは「落ち着け、落ち着け」というジェスチャーをしてくれる。僕は何が起こるのかもわからずに、ただ泣きそうな顔をしていた・・。かすかな期待をして。
 しばらくすると、列車から降りて行ったおやじさんたちが車掌を何人か連れて帰ってきて、僕は彼らと車掌10数名に取り囲まれてしまった。おやじさんたちは、車掌に向かって、早口のイタリア語でまるでけんかをしているかのように話し始める。おばさんたちも話に加わって、大声で車掌を怒鳴っている。もう僕には全く事態が把握できない、ただ口を開けてぼけっーとするしかなかった。
 それから5分位たっただろうか・・。なんと、車掌がうなずき始めたのである。どうも、おやじさんたちが車掌をいいくるめてくれたようだ。そして、一人の立派な髭をはやした車掌が僕を引っぱって行こうとした。僕の脳裏には「犯罪多しイタリア」という言葉もちらついて、一瞬身構え、おやじさんたちに助けを求めようとしたが、彼らはニコニコしながら手をふっているのではないか! 僕は、わけがわからず無表情のまま手をふり返し車掌に誘導されるまま足を進めた。


*もう野宿じゃない!

 同じ車両の一番奥のコンパートメントにきたとき、その車掌は笑いながら一つの寝台を指した。僕はまず自分を指差してから、次にその寝台を指してみた。車掌は、ニコニコうなずいている。やった、野宿じゃないんだ! 僕はあまりのうれしさに疲れも不安も忘れて、荷物を置いておやじさんたちのところに急いだ。僕の嬉しそうな表情に、おやじさんたちも一安心してくれた。
 安心して少し冷静さを取り戻すと、僕は彼らとコミュニケーションを取りたくなった。会話集を使ってやり取りが始まる。僕の周りは、興味深そうに見つめるイタリア人でいっぱいになった。ふと、写真を撮ろうと思いつき、自分のコンパートメントに戻り始めたとき、列車が走り出したことに気付いた。興奮と安心からか、僕は窓から入ってくるとても強い風を、思いっきり吸い込んだ。
 またおやじさんたちのコンパートメントに戻り、写真を撮った。そして、先程のお礼に、大韓航空の機内食で出た「もなか」を手渡した。本当は韓国製なので心苦しかったが、「Giapponese!」と説明しておいた。
 しばらくして自分のコンパートメントに戻ったが、長時間の飛行機と列車に乗るまでの騒ぎで疲れていたせいか、すぐに眠ってしまった。

*おやじさんたちとの別れ

 翌朝、おやじさんたちに朝の挨拶に行くと、ジェスチャーとイタリア語で「朝食は食べたか?」と聞いてきた。「まだです」と身ぶり手振りで伝えると、おやじさんはパンを出してくれた。僕はあまりのうれしさに涙が出そうになった。やけに砂糖の多いクロワッサンだったが、最高にうまかった。本当に不思議なことだが、心さえ通じれば、言葉はそれほど必要ないのかもしれない。そう思える一瞬であった。
 1時間後、おやじさんたちは、シチリアのリゾート地「タオルミーナ」で列車を後にした。別れるときに、ボス的存在のおやじさんは自分の名刺を僕に渡し、「写真と手紙を送ってほしい」と言った。僕も笑顔でうなずいた。列車が駅に着き、僕はせめてものお返しにと、彼らのかばんをホームまで降ろした。そして、一人づつ握手をして回った。最後に、ボスおやじのところに行き握手をしたら、彼はイタリア流のキスをしてくれた。思いがけないことで、びっくりしている僕・・。そして、彼らは笑いながら手をふって、ホームを後にした。
 しばらくして、列車はまた走り出した。急に一人になり、なんだか寂しくなる。風に気付いて窓の外を見ると、地中海に反射した朝日が、目を開けていられないほどまばゆく僕に降り注ぐ。この瞬間の喜び、うれしさ、満足感・・。このときのこみあげるような思いは、生涯、僕の心から消えることはないと思う。今、こうして書いているときにさえ、涙が出そうになるくらい、彼らのことをはっきりと思い描くことができるのだから。

<染谷明彦のシチリア・レポート パート2 シラクーサ

*シラクーサに到着!


 ローマ発の夜行列車で本当にお世話になったおやじさん達と別れ、やがて列車は終点のシラクーサに到着した。この小さな街は、意外にも日本人になじみが深い。日本の高校生が国語の時間に必ず読む太宰治の「走れメロス」という小説があるが、この物語で最後に主人公メロスが走っていく悪い王様のいる街というのが、シラクーサなのである。しかし、そんなかつての華やかなイメージとは反対に、シラクーサはさびれた街であった。
 シラクーサで最初に体験したことといえば「ホームシック」だった。初めての一人旅、まさかと思っていたがなんとホームシックにかかってしまったのである。何でこんな所にいるんだろう・・。来たいから来たのであるが、宿から出たくない! という初期症状まで出てしまって、結局、しばらくベットに横になりながら、自分はマザコンであったのか、と、うつろに考えていた。
 でも・・、おなかは減る。しかたなく宿を出てみることにした。不思議なものであるが、一度外に出てしまえば、歩けば歩くほど気が楽になっていくのがはっきりと分かる。僕は、自分が単純ですぐ気の変わる男であることを改めて実感した!


*粋なシチリアの男たち


 そんなシラクーサの街でも、何人かのシチリア人との出会いがあった。街を歩いていると、じいさん達が井戸端会議をしている。派手ではないのだが、着ているものが結構かっこよく、ハンチングをかぶって、ジャケットを着たりしている。こんな姿はローマやフィレンツェでは目撃しなかった。改めてイタリアという国での「シチリア=特別自治州」という存在を実感した気がした。彼らも僕をみてきさくに「Giappone?」と声をかけてくれるのが嬉しい・・。
 僕が自動車の移動式の食品店でパンを買ったときのことである。どれを選んでいいのか分からない僕に、店員の兄ちゃんがいっぱいあるパンの中から、ぼくに選んでくれたのだが、なんと大きいこと! 中型の猫ぐらいある(例えが変だが、そんな形をしていた!)。僕はあせって「Piccolo?(小さいのは?)」と聞き返したが「No!」と大声で言う。ここで買わなければ、僕はおなかを空かせて死んでしまうだろう!
しかたなく「中型の猫」を買うことにし、値段がわからなかったので、適当に大きいお札を手渡した。そのあにきはお札を受けとって僕にパンを渡してから、何かごそごそやっている。僕は「ちょうどだったのか?」と勝手に思い、まるで獲物を捕獲した動物のように、逃げるように宿に向けて歩き始めた。
 するといきなり後ろから声がした。さっきのあにきが車から降りて、こっちに走って来るではないか! 彼はお札をにぎりしめている、どうやらおつりのようだ。さっきは、そのおつりを探して、ごそごそしていたのだった。まわりにいたおやじさん達もけらけら笑いながら、ぼくのことを見ていた。なんて心やさしき人なのだ! 僕のホームシック気味の心も、少しづつ元気になっていった。


*「助っ人」は小学生!


 さて、僕は無事イタリアに到着したことを日本の両親へ連絡しようと電話を探すことにした。でも、どこの電話ボックスでも通じず、しかたなく街の電話局に行ってみることにした。 イタリアの電話局は、窓口のお姉さんに指定された電話を使い、終了後また窓口で清算システムになっているのだが、僕が何度「日本に電話!」と繰り返しても、窓口のシチリア娘には全く通じないのだ! どうしようもないので、局内に設置してあるコインを入れる電話でかけてみたが、これもやはりダメ・・。もう連絡しなくてもいいかとあきらめていたところに、シチリア人の「助っ人」が登場した。小学校の4、5年ぐらいのガキたちだ!!
 彼らは、僕が電話できないのを見ていたようで、まず、僕の手のひらにあったコインをすべて鷲掴みにした。僕はとっさに「やられた。もって行かれる!」と思い、取り返そうとしたのだが、彼らはすぐにコインを電話機に入れ始めた。僕は冷ややかな眼で彼らをみながら「どーせかからないよ。さっきまでと同じことをしているのだから」と思っていた。すると、ガキたちは僕にボタンを押せというジェスチャーをしている。全く期待せずに、僕はボタンを押し始めた。

 やっぱり、ここは日本ではなくてシチリアだ! シチリアではシチリア人に従うのが正しい!! 不思議なことになんと日本に電話がつながているのだ。僕は戸惑いながらも、すぐに「OK!」のサインを出した。ガキたちは僕を見て安心したのか、笑っている。そして、僕のサインを窓口のお姉さんに伝達してくれた。
 ガキたちは、異国の言葉で会話している僕をとても不思議そうに見ていた。そのときの顔は、何とも子供らしく、今でも僕の脳裏に焼き付いている・・。窓口の彼女も、電話が終わった僕に、ニコニコしながら手を振ってくれた。


*Grazie、マルコ!


 電話局にあるソファーで少し休憩してから外にでると、入口の階段のところで、さっきのガキたちが座り込んで何かしている。よく見ると、セリエAの選手のカードを見せあっているのである。僕は、自分が小さい頃に遊んだプロ野球カードのことを思い出し、なんだか懐かしい気分になった。
 そのうちに、一人が僕に英語で話しかけてきた。あまりにもきれいな英語だったので一瞬たじろいでしまったが、僕もすぐに英語で答えた。今から考えると、僕のイタリア旅行中一番きれいな英語を話すイタリア人は彼だったと思う。ほかのガキたちは全く英語が分からない様子で、何で彼だけが英語が話せるのかよくわからなかったが、彼の名前は「マルコ」だということがわかり、早速、彼らにさっきのお礼を言った。「Grazie mille !」。すると、マルコがいきなり僕の正面に立って両手をあわせ、頭を下げる。どうやら、仏教式の挨拶をしてくれたようだ。なんだか、そのぎこちない姿がおかしくてたまらない。僕も「仏教スタイルでいくか!」と挨拶しようとしたら、今度は片手に切り替えてきた。僕が笑っていたからか、どうも彼には片手のスタイルが正式な仏教スタイルだと間違って伝わってしまったようで・・、後で少し反省した。
 マルコたちは、電話局を後にする僕に何度も手を振ってくれた。とても楽しく、満足できたひとときだった。


*今度はイタリア語で・・


 先ほどまで降っていた雨が、上がっていることに気付く。彼らとの出会いによって、ホームシックで曇っていた僕の心も空と同じように晴れ、快く歩くことが出来た。今から考えると、何でマルコたちと一緒に写真を撮らなかったのか。それがとても残念だ。次にシラクーサの街を訪れるときには、彼らに何か日本のおみやげを渡したい。そして、マルコだけではなく、世話になったみんなとぜひイタリア語で話したいと思っている。

 ・・・先日、北海道に行って来たのだが、地元のテレビで「母を訪ねて3千里」の再放送が行われていた。主人公の名前は「マルコ」。彼らのことを思いだし僕が目を潤ませたのはいうまでもない。そして僕は、自分にこう言い聞かせた。「今年の夏、またシラクーサの街に行こう!」


<<染谷明彦のシチリアレポート 〜 「アランチーノ」を探る>>

イタリアのバールにはいるとよく見かける、ある食べ物があります。特に南部、その中でもシチリアのバールには、必ずと言っていいほどあります。「アランチーノ」です。このレポートでは、シチリアに行くと必ず出会うことになるこの「アランチーノ」について、お伝えします。


1.アランチーノとは

 アランチーノとは、どんな食べ物なのか。日本でも一部のガイドブックなどで、紹介されています。小森谷慶子・小森谷賢二著「シチリアへ行きたい」(新潮社)の中で、アランチーノのことを次のように説明しています。 「タヴォラ・カルダ(軽食堂)でつまむスナックとしては、まずアランチーナ。中にモッツァレッラやプロシュート(ハム)、ひき肉などを入れたサフラン味かトマト味の揚げおにぎりだ。」
ここでは、アランチーノをシチリアの郷土料理として紹介しています。しかし、実際にはイタリア中のバールでみることができるようです。ただし、地域によって、同じアランチーノでもかなり違いがあります。


2.アランチーノの歴史と由来

 まずは、名前。前出の「シチリアに行きたい」の中で説明されているのですが、もともとは「アランチーナ」で、普及するにつれて、「アランチーノ」とも呼ばれるようになったみたいです。また、その外見がオレンジ(アランチャ)に似ていることから、ここから付いた名前の可能性もあります。アランチーノの発祥地は、シチリアでも東部ということです。


3.現代のアランチーノ

 アランチーノは、バールの代表的なメニューです。1日中店先でみることができますが、アランチーノを作るの時間帯が早朝の場合が多いせいか、朝の方がおいしいことが多いです。夕方になると、ケースに入ったアランチーノすっかり冷たくなってしまい、電子レンジで温めてから出さえることが多いので、味も半減してしまいます。しかし、実際のシチリア人は、朝からアランチーノということは、あまりないみたいです。彼らは、甘いパンやビスケットが多いということです。一部のバールでは、アランチーノの入っているケースを湯せんによって常に温めているところもあり、こういうところのは、朝でなくてもおいしいことが多いです。値段は、安いもので1000リラから、高いものでは、2500リラぐらいです。大きさと値段には多少の相関関係がみられますが、それよりもそのバールの雰囲気と場所が値段に大きく作用すると思います。駅の中のバールや駅前のバールは、比較的値段が高く、逆に市場の中のバールなどでは、値段が安いことがあるようにみられます。


4.アランチーノの地域差

 「アランチーノ」と一言でいっても店によってかなり違うものです。もう少し大きい視点で見てみると、アランチーノは同じシチリアやイタリアでも地域差があるようです。短いシチリア滞在だったので、詳しく調べたわけではないのですが、シチリアのアランチーノとナポリのアランチーノの違いは、はっきりと感じました。シチリアのアランチーノは、ここまでで説明したいわゆる典型的なタイプのアランチーノです。しかし、ナポリのアランチーノは、多くの店で形が「とがった三角錐」です。少なくても私の入って店では、すべてこのタイプのものでした。似たような三角錐のアランチーノはシチリアでもみたことはありましたが、その数はシチリアでは少なかったです。大きさは、シチリアのものに比べて小さめ。そして一番の特徴が、特定の具というものがなく、ライスと何か赤いものがあえてありました。そのために全体的に、中身が薄いピンク色を呈していました。自分はシチリアのアランチーノの方が好きですが、ナポリのアランチーノも試してみる価値は十分にあると思います。


5.アランチーノと出会うには

 では、実際シチリアを訪れた時に、どこでおいしいアランチーノに出会えるかをまとめてみました。アランチーノ発祥地がシチリア東部だからかもしれませんが、アランチーノのおいしい地域は、カターニャ-メッシーナ間ということです。
 紹介していただいたのですが、もっともおいしいアランチーノが食べられるバールです。シチリア第2の都市カターニャの中心部の「SAVIA」というバールです。Via Etnea(エトネア通り)、Villa Belliniの前だそうです。
 個人的な体験からだと、シラクーサにおいしいバールがあります。新市街から旧市街に入り、シラクーサのドゥオモに向かう途中の小道Via Landolinaにあるピッツェリアです。ピッツェリアというからには、ピッツァが中心なのですが、申し訳ないようにアランチーノが店頭に並んでいます。ここのアランチーノは、シチリアでは少ないタイプの三角錐型です。そして中身はこの店のオリジナリティーがあふれています。中には野菜が入っているんです。確認できたのは、ニンジンらしき赤いものでした。味は、今回の旅の中では一番おいしかったです。それと店の奥さんは、絵に描いたようなシチリア人。とても優しい方です。
 これ以外にも、おもしろいアランチーノがあります。このバールは、イタリア本土とシチリアを結ぶ連絡船の船内にあります。私は、列車ごと乗り込むフェリーしか乗船したことがないのですが、フェリーが動き始めると列車からでてデッキにでることができます。ここにバールがあって、地中海の風を肌で感じながら、アランチーノを食べられるわけです。雰囲気と素晴らしいからだと思いますが、非常においしいです。前回の旅では、ショーペロ(ストライキ)にあってしまい、ヴェネチアからパレルモまで23時間も電車に閉じこめられました。そんな息苦しい車内から外にでられたうれしさとともに食べたアランチーノは、涙が出るくらいおいしかったのが印象的でした。


6.日本でのアランチーノ

 このような文章を書いているだけあって、自分はアランチーノが大好きなわけです。そこで、日本に帰ってきてからも、何とかしてアランチーノと再会するために調べてみました。その結果、イタリア料理のチェーン店「カプリチョーザ」で、「ライスコロッケ」という名前であることを聞きつけました。まだ自分自身で食していないので何ともいえないのですが、これを食べた方の話では、残念ながらシチリアのアランチーノと比べると・・・、といったものだそうです。やはり、今の現状では、日本に「シチリアのアランチーノ」は存在しないようです。


以上が、アランチーノレポートです。いろいろな方からお話を聞くと、シチリア以外のイタリア中には、いろいろなアランチーノやそれと似たものがあるようです。また、シチリアとインド両方にいかれた方は、「インドにも似たものがある」とおっしゃっておりました。単純な食べ物だからこそ、世界中に似たものがあっても不思議ではありません。また、誰でも食べることができるものだからこそ、非常に魅力的な食べ物だと思います。これからもアランチーノの調査と研究を続けて、おもしろい結果ができたときに報告させてもらいと思います。まだ、食べたことのない方は、ぜひシチリアに行ってアランチーノを食べてみてください。それと、おもしろいアランチーノをご存じの方はぜひお知らせください。

最後に、シチリアのアランチーノ情報を提供していただいたYUKIさん、どもありがとうございました。

参考文献
「シチリアに行きたい」
小森谷慶子・小森谷賢二 新潮社 1997
「THE ROUGH GUIDE Sicily」
Robert Andrews and Jules Brown The Penguin Group 1996




<<堤 顕さんのイタリア・レポート  〜 ミラノ、スカラ座編>>

*夢の歌劇場 ミラノスカラ座へ

 フランクフルトからの乗り継ぎもうまくいき、夕刻6時にはミラノ中央駅駅前のホテルにチェックインした。すぐにシャワーをすまし、服を着替えて地下鉄の駅へと向かった。 切符売場の前にはいつもの通り人の列。しかも、窓口の横ではホームレスのおっちゃんが釣り銭をねだっている。いつもと同じ風景や。自動販売機はあるけど買っている人はほとんどいない、というより、買うことができない。なぜなら、小額紙幣を機械がなかなか受け付けないからだ。早くユーロになって、自動販売機も新しい機械で統一してもらいたいものだと思いつつ列に並んだ。妻の分と帰りのチケットを併せて4枚買い、3号線でドーモへ。
 今回の目的は、ドーモの夜景や華やかなガッレリアではない。週末の夜を楽しくカフェで過ごすミラネーゼにも目もくれず、私たちはガッレリアを通り抜けた。7時をすぎ、スカラ座の前には人を待つ人、警備の警察官でごったがえしていた。本当ならば黒系のちょっとおしゃれな装いで来るべきであるが、なんと惨めなジャンバー姿。とてもオペラ鑑賞と言うようないでたちではない。チケットもないのだからしょうがない。


*ダフ屋さんと交渉

 でもあたりをきょろきょろしている私たちを見つけてはなしてくる人がいる。そう、ダフ屋さん。「チケット?チケット?」最初は簡単に無視し、離れた。しかしそこはダフ屋さん。獲物は見逃さない。しつこく追ってきて、売りつけようとする。そして、いくらと聞くと、なんと2枚で15万リラ。「どうせ今頃いい席のチケットが残っているはずがない。天井桟敷や。」と思い、安くしてと交渉した。結局、開演まで時間もないので2枚で10万リラ(そのときのレートで1枚3750円)で妥結。
 余談になるが、この日のオペラは2カ月前から行われることを知っていて、いろいろチケットを入手使用とした。スカラ座のホームページでは電話で受け付けをやっているが2カ月前にはとっくに受け付けを終了。JTBの友人に尋ねても不可能。そして最後の手段がダフ屋さんというわけだ。


*天井桟敷で

 ダフ屋さんにエスコトートしてもらい、横の階段から最上階に上がった。なんと最上階の天井桟敷にもクロークがある。そして席もちゃんとしたものがあり、しかも空席はたくさんある。でもすぐに理由がわかった。席はあるけどそこからだと全く舞台が見えないのだ。だから、立ってでもよく見える場所に早くも人がたくさんいる。私たちは、とりあえずその見えない席を確保し、開演までくつろごうかなと思ったとき、赤いセーターを着たおじいさんが何か話しかけてきた。彼曰く、「鞄や上着はちゃんとクロークに預けなさい」とのこと。どうせ誰も座りそうにない席に私たちは、鞄やジャンパーを置いていたのだ。言われるままに私はクロークに荷物を預けたが、そこで新たな感動。荷物の引き替えにとくれたのが、歴史を感じさせるずっしり重いブロンズ製のコイン。「さすが、スカラ座や。単なる荷物札にもこだわりがある。」とつまらないことに感心しながら席に戻った。
 そうこうしている間に開演。別にあの有名なムーティーが指揮ではないのに1階の平土間席には本当に1つの空席もないほどの満員。さすがスカラ座は違う。


*ついに開幕

 今日の演目は、ドニゼッティ作曲「愛の妙薬(L'elisir d'amore)」。97-98年シーズン最後の演目である。序曲が始まった。今まで生で聞いた中でもオーケストラはやはりうまい。関東では新国立劇場もできて、一流の歌劇場から引っ越し公演があるが、私たち関西人にとって一流どころのオペラは皆無である。旧東ヨーロッパの歌劇場のオーケストラの中には、「この人らアマチュアのオーケストラ?」と聞きたくなるほどよくないことがある。したがって、生で上手なオーケストラ付のオペラを見るには旅行をするしかない。
 さあ一幕の幕開け。例の豪華なスカラ座の幕が開く。「そこにあるのはすばらしい舞台装置か」と思ったが、期待とは裏腹にちゃっちなセットであった。アディーナ役のソプラノ歌手は調子がいまいちなのか、聴衆の反応も悪い。しかし、脇役の合唱は本当にうまい。 今日のメインはドルカマーラ役のバス歌手で、一人「ブラボー、ブラボー」のかけ声を頂いていた。一幕じゅう長旅の疲れも感じさせず、ずっと立っていたがさすがに時差ボケで眠たい。幕間はずっと寝ていた。めでたく二幕も終了し、カーテンコールも一通り終了した。時刻は10時半であっというまの、また夢の、また眠たい2時間半であった。
 帰り道、ガッレリアのレストランやカフェはまだ十分開いている。日本ならば当然店は閉店しているし、人も演劇の余韻を楽しむどころかそそくさと家路に向かうところであるが、彼らは終わった後に十分時間をとり、飲み物や食事を楽しむ。これがヨーロッパの文化なんだなと思いながらも、これ以上、こんな乞食みたいな格好でカフェなんてとんでもないと、地下鉄の駅へと向かった。

・・・最後に、個人でミラノに行って、スカラ座でオペラを見たい人は以下の方法があるのでご参考に。

 ・スカラ座のホームページ(lascala.milano.it)で演目をチェックし、電話予約をする。その予約の方法は英語で詳しく説明されている。しかし演目の日程にもよるが、受け付けの終了が意外と早い。
 ・公演のあるだいぶ前から現地にいるなら、スカラ座左横地下にあるチケット売場で買う。発売開始もホームページで記載されている。
 ・JTBとかで、航空券を買うのであれば、チケットがあれば入手してくれることもある。
 ・直前にいって見ようとする人は、ダフ屋さんだより。公演3〜4日ぐらい前からスカラ座の回りをうろちょろしている。でも席の種類と値段を必ず確認して、交渉して買うのがポイントだと思う。日本人のお客さんには当然彼らは英語で話しかけてくる。通常複数のダフ屋さんがいるので何人かに話を聞いてみるのもいいかもしれない。でも私たちのように公演1時間前に行ってみようとするならしょうがないが、無駄でもチケット売場で売り切れを確認してからダフ屋さんにたよってもいいかもしれない。

<<堤 顕さんのイタリア・レポート  〜 ベルガモ編>>


*バスのチケットを買うのにも一苦労


 宿がミラノ中央駅前でしたので、ベルガモへは国鉄を利用しました。ミラノ中央駅からは、朝には1時間に1本ぐらいの割合で電車があり、料金は往復12,000リラです。
 ベルガモ駅を出ると、ヴィットリヲ・エマニュエーレ2世大通りの向こうにベルガモアルタが見えて、なにかわくわくさせてくれます。
 まずベルガモアルタに直行するためにバスに乗ろうと、チケットを売るタバッキやビリエッテリアを探したけども、自動販売機しかありません。自動販売機で大勢の観光客が列をなして買っていますが、買い方がはっきりわからないため、すごく時間がかかってしまいました。でも、朝の時間帯でもアルタの方向に向かうバスはたくさんあるため、チケットさえ買えば問題はありません。ちなみに片道チケットは1600リラで、フニコーラ(ケーブルカー)共通です。バスは10分程度で大通りを抜け、フニコーラの駅前につきます。


*ヴェッキオ広場へ

 ベルガモアルタのフニコーラの駅を降りたときから、観光客が喜びそうないい雰囲気が漂っています。ヴェッキオ広場に向かう道は結構細い道ですが、リストランテやきれいな八百屋さん(季節柄かポルチーニが生のものや乾燥したものが売られていました。ちょっと高そう)が軒を連ねています。
 ヴェッキオ広場には、ベルガモ・アルタで見るべきもののだいたいがそろっています。
●ラジョウーネ宮
●鐘楼...当然、歩いて上ります。見渡す景色は、何となくトスカーナにも似ているかも・・?!
●サンタマリア・マッジョーレ教会...12世紀のロマネスク様式。中のすばらしさは言うまでもなく、教会の外の回りを見ると壁にうっすら絵画がのっこっています。
●コッレオーニ礼拝堂...内部はとにかく豪華。特に入り口正面の黄金の騎馬像は必見。
●ドォーモ

  *市が出ていたマスケローニ広場

 ヴェッキオ広場を過ぎて、コレオーニ通り(フニコーラの駅からの道)をまっすぐ進むと、マスケローニ広場に出ます。この回りには市が出ていて(日曜日だけかもしれない)、観光客が集まっていました。そのなかでも特にいいなと思ったのは、寄木細工です。いろいろな色の異なる木を組み合わせて、絵を作っていました。モチーフはヴェッキオ広場など町の風景や花瓶の花、キリストさんなどいろいろで値段も大きさに合わせて4万〜28万リラ。値段は高そうですが、値打ち十分。作品の表面もきれいに仕上げれているため、おみやげというよりも美術品というものです。28万にもなると相当大きいため旅行者には持ち帰り困難となるため、B4サイズぐらいのものを買いました。作者のAntonio Belloniさんによると、毎月第一日曜日に実技も兼ねて販売しているそうです。

  *カッラーラ絵画館は祝日もおやすみ

 ベルガモアルタからの帰りは、ポンタ・ディピンタ通りをくだり、カッラーラ絵画館へと向かいました。実は、ベルガモの楽しみの一つにカッラーラ絵画館があったのですが、残念ながら11月1日は国民の休日(現在の定休日は火曜日)でやはりお休みでした。G.ベッリーニ、ボッチティチェッリ、ラファエッロの作品があり見れなくて本当に残念でしたが、再会を誓って正面だけ見てきました。
 駅へ帰る途中、サンタレッサンドロ・デッラ・クローチェ教会、サント・スピリト教会と回りマッテオッティ広場に到着しました。この広場は、広場と言うか、でっかい交差点というか、でもベンチがたくさん置かれたくさんの花壇があるため、散歩のひと休みにはもってこいという場所です。

  *FS(イタリア国鉄)のホームページは便利

 今回は、主にFS(イタリア国鉄)を利用して旅しましたが、このFSの時刻表がインターネットで調べられるのをご存じでしょうか? 日時指定で、出発時刻から到着時刻まで正確にタイムテーブルが検索できます。もちろん英語、伊語、西語、仏語で表示ができます。乗換駅とその待ち時間まで出るので本当に便利。正確に日にち指定ができるので、休日運休などの心配もありません。

  アドレス 
http://www.fs-on-line.com

<<堤 顕さんのイタリア・レポート  〜 コモ編>>


湖の町コモ

コモはご存じの通り、北イタリア有数の観光地また、夏の間は避暑地としても有名でいろんなテレビ番組で紹介されています。ミラノからの行き方はいろいろあるみたいで、北駅からコモ湖岸線で行く方法と中央駅からコモ駅(S.Giovann駅)へ行く方法があります。私たちは後者の方法で行きました。中央駅からはインターシティー(特急列車)が多く、これに乗るとものの30分ぐらいでつきます。朝9時ぐらいの列車だったのですが女の子のグループやイタリア人ガイドを連れだった年輩組など日本人がたくさんいました。ちなみに中央駅からコモ駅往復、インターシティー、2等で18,400リラでした。

S.Giovann駅の駅前を出ると目の前に緑の山、高さはそんなにないのでしょうけども結構険しそうで、この山と湖がどういうマッチングをするのかすでにわくわくさせてくれます。駅前中央の花壇のある階段まっすぐすすみ、道なりにどんどん町に入っていくと10分ぐらいで町の中心のカブール広場に出ます。この広場は目の前にコモ湖を望み回りには高級ホテルと絶好のロケーションです。


軽くあしらわれたヴィッラ・デステ

カブール広場の前の船着き場からは、コモ湖を周遊する船が出ています。(船着き場はいくつかあるので、チケットを買うときにしっかり聞く必要あり)およそ4時間で周遊するそうですが、とりあえず乗ってみようと15分ぐらいでいけるチェルノッビオに行きました。船からは湖畔のお屋敷を眺めることができ、湖の一端には大きな噴水などもあって最高です。チェルノッビオは、コモ周辺でも有名な保養地なのですが、テレビのレポートに必ずと言っていいほど出てくるヴィッラ・デステ以外にこれといったものはありません。ヴィッラ・デステは船着き場から、徒歩約10分ぐらいでつきます。
ここは16世紀頃にたてられた枢機卿の館で現在は超デラックスなホテルになっていて、美しいイタリア庭園があります。私たちも一目見ようと、牧師風の衣装を着た門番の方に入っていいですかと訪ねたけれども、丁重に断られました。中で昼食でもとるといえば入れてくれたかもしれませんが、今回は入り口を確認しただけでした。このホテルは通常料金だと一般庶民にはとても泊まれるそうにないホテルですが、お昼時に、チェックインか昼食かわからないけれども、たくさんの観光バスが門をくぐっていきました。団体旅行だと行きやすいかもしれません。
とりあえず「いつかは来てやるど!」と思い、私たちは船着き場の方に戻りました。船着き場の回りには3星クラスのホテルがあり、オープンテラスで食事ができるようになっていました。みんな、目の前の湖を楽しみながら食事をしていて、思わず私たちも座ってしまいました。快晴の天気、そしてきれいな湖にそれを囲む山々最高の演出の中、食事をしました。


Made in Comoのネクタイ

コモの町中を象徴する建物はやはりドーモです。ロンバルディア・ルネッサンス様式の傑作で、白とピンクの大理石が本当に美しい教会です。また、コモ町の中は結構たくさんのブティックや飲食店でにぎわっています。当然日本人のお目当てはコモのシルクです。スカーフやネクタイを売る店はそんな思ったよりもたくさんはないですが、確実にいい店はありました。私たちが行った店は、ドーモ前のその名も"Made in Como"。ネクタイで2.5万リラ〜4万リラ、スカーフでは3万〜8万で、イタリアの値段からすると普通の店だと思います。
基本的に品数が多く、必然的にデザインも日本にはないものが多く、私も数本ネクタイを買いました。裏には"Made in Italy"ではなく"Made in Como"と記されており、店の名前とコモ製をかけています。
一般的な話でネクタイでいうとイタリアものは、色使いやデザインという点では日本のものとは比べようもありません。しかし、一点だけ縫製の悪いものに注意しないとダメです。日本だとどんなに安いものを買ってもしつけの糸が解れてくるということは考えられませんが、イタリアものにはあるんです。私もデザインがよくてローマでかったものが数回の使用で裏のしつけの糸は解れて、だんだんバラバラになっていったんです。(ケーブルカー)


フニコーラ(ケーブルカー)に乗ったけれど何もない

カブール広場から湖沿いに5分ぐらい歩くと、フニコーラ(ケーブルカー)があり、天気が良かったので乗ってみたのすがこれが失敗。確かに眺めはいいのですが、山の上にはバールがある以外特に何もなく、同じ行きの便に乗った観光客もほとんどが1時間後の便に乗って下っていました。「地球の歩き方」には夏にはオペレッタなどがあると書いていましたが、はっきり言ってこのフニコーラは山の上で生活する地元民のもので旅行者が行く価値はないと思います。ちなみに料金往復7000リラ


初めてこの有名なコモの町を訪れて思ったことは、やはりこの町は保養地で風光明媚が何よりの目玉であるということです。ミラノからわずか30分でこれて、これだけ違う雰囲気があじわれるのもコモの大きな魅力です。私たちのように日帰りでちょっこと雰囲気を味わうのもいいでしょうし、コモに泊まって湖の周りの小さな町(ベッラージオやトレメッゾなど)を訪ねるのもいいかもしれません。


上地由一のイタリア・レポート
<<映画「ノスタルジア」を巡る旅>>


「母よ。母よ! 空気はこんなにも軽く顔にそよいでいる。微笑めばいっそう澄んでいる。」

  水と光、霧と闇と火、記憶と回想、神話と寓話…。タルコフスキー独特の詩的宇宙がフォトジニックに展開される『ノスタルジア』のロケ地となったのは、トスカーナである。(『ノスタルジア』に関する説明はここでは割愛させていただく。)
おそらく、『ノスタルジア』に取り憑かれた人は、誰しも映像に封じ込められた絶対的な世界をこの目で確かめたいと思うに違いない。私は、念願かなって『ノスタルジア』を巡る旅に向かったのであった。


*朝霧に煙るトスカーナの丘陵

  『ノスタルジア』のオープニングは、朝霧に煙る丘陵地の映像。しっとりとしたヒューミディティに被われるトスカーナの丘は”よそもの”の心にもなぜか帰属意識を浮かび上がらせる。なぜだか懐かしい、なによりも優しいそんな光景を、映画のロケ地ではないが、ブルネッロディモンタルチーノで有名なモンタルチーノで目の当たりにする。都会の喧噪を免れ、心の温度がほんの少し上がった私は、豊かさについて何度も何度も自問したのであった。

 「豊かさとは、自然から導きだされるもの。そして、共に生きること。」(私)

【ワンポイント】
モンタルチーノは、ワイン好きには見逃せないポイント。金にいとめをつけずに浴びる程飲みましょう。極上のトスカーナ料理でワインがすすむこと間違いなし。アクセスは、シエナから路線バスが良いでしょう。40分程度です。


*バーニョ・ヴィニョーニの湯煙

 小さな温泉地、バーニョ・ヴィニョーニ。シエナの聖カテリーナも療養したという温泉の沸く人工池を囲んで、数件のホテルが立ち並ぶだけのほんとにさびれた集落。静かに揺らぐ湯煙は退廃的な空気を漂わせ、『ノスタルジア』の二人の主人公が出会う場に相応しい雰囲気を醸し出している。
精神と物質との闘い。そのオープニングに、バーニョ・ヴィニョーニの様な沈静の地が相応しいと再確認することとなった。

 「なぜ奴等がお湯に入っていると思う?永遠に生きたいとさ。」(ドメニコ)

【ワンポイント】
バーニョ・ヴィニョーニは、観光の名所ではありません。よって、ホテルをとってのんびりする目的で訪れるのには良いでしょう。交通の便はとても悪いです。私はモンタルチーノに宿泊し、ホテルに便宜をはかってもらい、車でアクセスしました。さもなければシエナ辺りに宿泊して、タクシーという手がスマートでしょう。


*サン・ガルガーノに封じ込められた故郷

  『ノスタルジア』のエンディングで、この廃虚に仕込まれた仕掛けが明かされたときの衝動を実体験する、旅のクライマックス。原野の中、唐突に浮かび上がる壮麗な廃虚を目の当たりにした時の驚きは、内なる精神の震えまでも催す。12世紀末に建てられたシトー派の修道院が、建築途中のまま、崩壊。タルコフスキーはこの廃虚の中に主人公ゴルチャコフの故郷への思いを箱庭的に封印する。その荘厳かつ空虚な空間は、形骸化した人生を厳しく問いただす。また、この空間は現実的な距離感、時間軸を認知不能にし、そこに佇む人々の存在自体をも希薄にしてしまう不思議なパワーを有している。(箱庭の錯覚)屋根のない空を見上げた時、薄明るい光の天井に響く鳩の羽音が耳に焼き付いている。

 「自らの源泉から遥かに離れてしまい、そこに帰れなくなってしまった者−その人間が苦しまなければならない死に至る病、これこそ、この映画に描いたノスタルジアである。」 (タルコフスキー)

【ワンポイント】
サン・ガルガーノへのアクセスも非常に悪いです。日に1本のマッサ・マリティマ行きのバスがあるようですが、私はタクシーを半日チャーターしました。費用はかなりかかりますが、『ノスタルジア』を巡る旅において、はずすことは不可能ですよ。

<後藤康恵さんのイタリア・レポート・・・
            トスカーナの小さな街「モンテリッジョーニ」>


 今回はトスカーナ地方の小さな街をまわるつもりで、宿はシエナに取りました。シエナからはトスカーナ中心部〜南部の各地への長距離バスが出ていますし、鉄道も通っています。有名な観光地なので、シエナの街自体も魅力的だし、旅行者向けの各種施設(宿、レストラン、インフォメーションなど)も充実しており、ここを拠点にしたのは正解でした。

 
モンテリッジョーニは、シエナから車で15分ほどのところにあります。バスもありますが遠回りするので30分ほどかかると聞き、時間が無かった私達は、行きはタクシーを使いました。タクシーでの料金は2〜3千円でした。
 モンテリッジョーニは小高い丘の上の中世の城壁に囲まれた街で、典型的なトスカーナの古い街です。城壁はほぼ完全な形で残っており、きれいな円形をしています。向かい合う2つの城門と等間隔に7つの塔が付いていて、城壁の周りはなだらかな丘で視界を遮るものがないため、遠くからの眺めは、ダンテが「神曲」のなかで記述しているとおり、まさに王冠のようです。街からなだらかに下る丘の斜面には、オリーブやぶどうの木が植えられていて、街の姿と一体となって完璧なまでの眺めを作り出しています。

 城門同士を繋ぐ道が街のメインストリート。ちょうど城壁の中を二等分する形で通っています。その長さは、ざっと200メートルといったところでしょうか、一方の城門から向かいの城門まで街全体を見渡せてしまうという、本当に小さい街です。住民の数は70人前後という話です。街の中をぐるっと一周し、メインストリートを歩き、カメラ片手に小さな路地をうろうろしても、半日どころか1時間で見尽くしてしまうほどの大きさです。
 でも、ちゃんと街の中心には広場があり、広場に面してバールとレストラン、エノテカがあり、小さなお土産物屋さんも一軒ありました。このレストラン、実は隠れた名店らしく、遠くからわざわざ食べにくる人もいるとのことです。広場から少しメインストリートを入ったところに、数年前にオープンしたという街で唯一のホテルがあります。こんな街のホテルに泊まったら、きっと一日ゆっくりスケッチでもしたくなるでしょう・・。



  私達が到着したのは、ちょうどお昼どき。そのせいか、人影もまばらです。でも、広場にあったレストランは、休みなのか営業していなくて、結局、ホテルの隣の別のレストランに入ることにしました。外からはよく分からなかったのですが、中は意外に広く、奥にはテラスがあります。テラスには真ん中に大きなオリーブの木が植えられていて、それを囲む形でテーブルが置かれています。奥には少し庭があって、その先はもう城壁・・。布製の屋根が付いているので、風も涼しく、明るくて快適。真っ青な空と城壁、黄色い小花をつけた草が自生していて、小鳥のさえずりが聞こえます。なんだかほっとして、とても落ち着いた和やかな気持ちになれました。
 注文したのは、ピーチのポルチーニソース。ピーチ(Piti)というのは、この地方の独特のパスタで、うどんによく似ています。もちっとしていてコシがあって、極太のスパゲティ(直径4ミリほど)みたいな形 です。フォークでは麺が太くてちょっと食べにくい感じ。しっかり噛まないといけないので、食べごたえがあります。ソースは、言うこと無しのおいしさでした。


 その後、街の中をぶらぶらし、ちょっと城壁の外に出てみました。門をくぐるとすぐ、オリーブ畑です。あぜ道を歩いていると、オリーブの木の手入れをしているおじさんに会い、"Ciao!"と声をかけると、日本人かと聞きます。そうだと答えると、おじさんは木を降りてきて、自分の腕時計を見せて何か言っています。時間でも教えてくれているのかしら、と思っていると、その時計がカシオ製! "Bene!"と言うと、満足そうにニコニコ笑っていました。
 こういう体験って、ほのぼのと本当にうれしいものですよね。こちらの人は親しみやすくて、どんなに忙しく手を動かしていても、こちらが何か話し掛けると、手を止めて笑顔で相手をしてくれます。それがうれしくて、迷惑だと分かっていても、ついつい話しかけたくなってしまいます・・。



 さて、そろそろシエナに戻る時間、そのあとサン・ガルガーノへ行く予定なので急がないといけなかったのですが、街にはタクシーは当然見当たりません。乗るのなら呼んでもらわないといけないようです。仕方なく、帰りはバスを使うことにして、広場でおしゃべりしていたおじさんに、片言のイタリア語でバス停の場所を聞き、身振りから、城壁を出て丘を降りた下の道にあるらしいと分かりました。
 来た時とは反対の城門を出て、坂道を下ります。しばらく歩いて後ろを振り返ると、モンテリッジョーニの街の全景が眺められます。道路の周りはぶどう畑。さらに少し歩くと交差点があり、そこにバス停がありました。そばのタバッキでチケットを買うらしいのですが、閉まっています。どうしようかと悩んでいるうちにバスが来て、結局タダ乗りしてしまいました!。 一部の長距離バス を除いて検札は無いみたいで、実はこの先も何度か、チケットが買えずにタダ乗りしてしまいました。地元の人もチケットを持っている様子が無かったのですが...、ごめんなさい!

  <後藤康恵さんのイタリア・レポート・・・
            トスカーナの廃虚の街「サン・ガルガーノ」>



 サン・ガルガーノは街ではなく、ひたすら続くトスカーナの丘と森の中に、ぽつんと一軒、昔の修道院の廃墟があるだけ。周りには他に何の建物も民家も人影もなく、まさに辺鄙な土地に、この修道院を見るためだけに行ってきました。
 サン・ガルガーノ修道院は、13世紀初頭にシトー会修道士たちによって開設されたトスカーナでは珍しいゴシック様式の建物、タルコフスキーの映画「ノスタルジア」のラストシーンに登場することで有名です。修道士たちは文明との接触を避けてこの地に修道院を構え、生涯を祈りと労働に捧げたそうですが、14世紀後半より徐々に衰退し、17世紀中頃ついに解散。その後住む人もなく、今では荒れ果てて屋根は崩れ落ち、すっかり廃墟となっています。


 さて、シエナから廃墟の街サン・カルガーノへ・・。一日一往復しかないマッサ・マリティマ行きのバスに乗って、片言のイタリア語で運転手さんにサン・ガルガーノに行きたいと伝えますが、どうも不安! 本当に着いたら教えてくれるのかしら、もう過ぎてしまったのでは、と思い始めた頃、ようやくバスは到着しました。
 バスを降りると、そこは何も無い寂しい林の中で、当りを見渡すと少し離れたところにぽつんと建物がみえるだけ。ほかに建物は見当たらないので多分あれだろうと足を進めましたが、あたりには人影はほとんど見当たらず、観光客はバスで来た私達二人と、マイカーで来た欧米人が4〜5グループでした。本当に静かで、鳥の鳴き声がよく響き渡っています。実は、ここはつい最近までは深い森の中だったようで、そういえば少し離れたバス通りのあたりにその面影が残ってました。
 ただ、ここも観光地化されようとしているのですね・・。修道院の周りはすっかり木が伐採されて一面に赤土がむき出しとなり、その中を行く道はアスファルトが敷かれ、両側に糸杉の幼木が植樹されていました。深い森の中にあった方が、この修道院の廃墟独特の荘厳な美しさが引き立つのに、と残念に思うのは、旅行者のわがままでしょうか・・。

 のどかな修道院の周りを一周して中へ。建物は外壁が残っているだけで、屋根は完全に無く、床も内装品らしきものも一切残っていません。外壁には、かつてはステンドグラスがはめられていたと思われる窓がたくさん開いていて、かなりの高さがあり、上はアーチが連なった形になっています。中は薄暗いのですが、外壁の上や窓から光が差し込んで、とても荘厳な雰囲気を作り出していました。まるで、ここだけ外界とは違う空気が流れているよう・・。大体どこでも教会や修道院の建物の中というのはそういう雰囲気がありますが、ここは廃墟だけあって、その荒れ果てた様子が一種の迫力を生んでいました。映画「ノスタルジア」に登場したのも、ここの内側からの映像です。


 修道院を出ると、隣の小さな丘の上に礼拝堂があります。せっかく来てここを見逃してはいけません。この中に『聖ガルガーノの奇跡』があるのです。
 『聖ガルガーノの奇跡』とは・・? ガルガーノは1148年高貴な家に生まれ騎士となりましたが、戦いの人生に空しさを感じ、神に帰依する決意をします。そして、戦争を拒否する印として自分の剣を岩にぶつけて折ろうとしましたが、剣は折れず、岩に飲み込まれてしまうのです。彼はこれを神が受け入れた印と理解し、決意を新たにした、というのです。
 なるほど、岩に剣が根元まで突き刺さった状態のものが残されています。かの地の人は「世界に奇跡の話は数々あっても、証拠がきちんと残っているのは『聖ガルガーノの奇跡』だけ」と誇りにしているのだそうです。
 礼拝堂はとても小さいのですが、屋根が円形のドーム型になっていて、素朴で暖かな感じのする造りでした。大きくて立派な建造物ばかりを見てきた眼には、とても新鮮に映りました。
 ちなみに、最近はここで結婚式をあげるカップルが多いそうです。周りの景色も最高だし、礼拝堂は可愛いし、ついでに修道院の廃墟で記念撮影というのも、なかなか雰囲気がありそうですね・・。脇には売店があって、絵ハガキや写真集の他に、地元産のワイン、オリーブ油、ハーブ化粧品なども売っていました。


 さて、そろそろ帰りのバスが来る時間。なにしろ一日一本しかないので逃してはならじ、とバス停でひたすら待ちましたが、時間になってもバスは来ません・・。普通なら、イタリアで時間通りにバスが来なくたっていちいち気にしないのですが、ここは人気のない森の中。待ってるのは私達2人だけだし、他の観光客たちはマイカーで次々に帰っていくし、だんだん日も暮れて不安でたまらなくなってきました。
 もしかしたら、バスは予定より早く出発してしまったのでは? アクシデントで帰りは欠航になったのでは? 時刻表の見間違いでは? といろいろな考えが頭をよぎりますが、聞く人もいません・・。もしバスが来なかったらどうしよう、野宿かヒッチハイクか・・・?! 
 道路には時々車が通りかかりますが、みんな心配そうな目で私たちを見ていきます。だんだん二人とも無言になり、とうとう諦めかけた頃、やっと姿が見え、思わず道路の真ん中に出て、大きく手を振ってしまいました! 実は予定よりたった15分遅れただけだったのですが、あの状況では1時間にも2時間にも思えました。今回の旅行で唯一不安な思いをした経験でしたが、無事バスに乗れて、ホッと一息・・。

  <後藤康恵さんのイタリア・レポート・・・
            典型的トスカーナの風景に囲まれた小さな街「ピエンツァ」>


 葡萄畑に囲まれた小さな街ピエンツァ。ここは、街自体も魅力的ですが、とにかく街の周辺と、そこへ行くまでのバスからの景色が素晴らしく、「これぞトスカーナ!」という自然の風景を楽しむことが出来ます。トスカーナに憧れている方には、迷わずお薦めします! 私はシエナからバスで出かけましたが、出発は朝7時。バスは基本的に観光客用ではないので、早朝にしかありません。所要時間は約1時間半です。

 さて、その素晴らしい景色は、バスの車窓から始まります。このバスは高速道路を走るのではなく、いくつかの街をつなぐ昔からの街道を通りぬけていきます。途中は、果てしないぶどう畑が続いたかと思うと、名もない小さな街を通り過ぎたり、郊外の農家の家の前を過ぎたりします。とにかく飽きることがありません。
 所々で地元の人が、出勤や買い物のために乗り降りしていきますし、学校へ行く小学生の集団も乗ってきます。お客は、おじさんだったり、若い女の子だったり、学生だったり・・・。みんな運転手さんの後ろの席に陣取って、乗っている間中、運転手さんとおしゃべりしているのです。お客の方は入れ代わっていきますが、運転手さんはずっと相手をしている訳です。おしゃべりに夢中で、ろくに前を見ていないのがちょっぴり不安ですが、日本では世代の違う他人同士で、こんなにおしゃべりが弾むことはないですよね!

 シエナを出て30分もすると、あたりにはトスカーナの丘陵が広がってきます。なだらかな丘が幾重にも重なり、その斜面を覆うのはぶどう畑、オリーブ畑、ひまわり畑・・。羊を飼っているのでしょうか、草地も結構あります。丘自体がなだらかで、背の高い木もないため、はるか遠くまで素晴らしい景色を見渡すことができるのです。所々には糸杉の木も・・。トスカーナの人たちは、きっと深く考えた末に、そこに糸杉を植えた訳ではないのでしょう? その配置が、そこしかない! という感じで、はまっているのです。どこを見ても絵になる風景が、延々続いています



 さて、そうこうするうちにピエンツァに到着しました。ピエンツァもトスカーナの古い街の常として、小高い丘の上にあります。街外れのバス停から街の中心に向かって少し歩くと、昔の城門が見えてきます。これをくぐると街のメインストリート。 ピエンツァは元々はコルシニャーノと呼ばれていました。この街で生まれた教皇ピウス2世が、自分の出身地をルネッサンスのモデル都市にしたいと考えて、大改造計画を立て、その時にピエンツァと改名したのだそうです。
 街のメインストリートを歩くと、ピウス2世広場に出ます。広場に面して、ドゥオーモ、ピッコロミーニ宮、市庁舎がありますが、これらの建造物はすべてピウス2世の命を受けてベルナルド・ロッセリーニが設計したものです。(市庁舎の中にツーリストインフォメーションがあり、ピッコロミーニ宮の一部はホテルになっています。)街の見どころは広場周辺なので、あとは足の向くまま小さな路地を散策するのが良いでしょう。そんなに観光地化されていない街ですから静かですし、のんびり歩くことができます。ほんとに小さな街ですが、メインストリート沿いには商店、バール、レストラン、床屋さんもあります。農園直営の地元の特産物を売る店もあるので、お土産選びにも困らないでしょう。

 ひととおり街の中を見たら、街の外へも出かけてみてください。歩いて簡単に行くことができます。一歩外へ出ると、のどかな田園風景が広がっていて、道の両側は、オリーブ畑とぶどう畑。そして、レンガ色の農家の建物が点在しています。高台にあるので見晴らしは最高! 思わず時間を忘れて見入ってしまうはずです。
 ピエンツァまでのバスからの眺めと、街の周辺の風景は本当に素晴らしくて、まるで写真集のなかに入り込んでしまったような感じがします。フィレンツェ在住の叔父によると「トスカーナでもこれだけの景色は、他ではなかなか見られない」とのことです。日本人観光客は見かけませんでしたが、本当にトスカーナらしい風景が見たかったら、ピエンツァへどうぞ・・。

 最後に、ピエンツァで見つけたおすすめのお土産をご紹介します。トマトを乾燥させて、ハーブと一緒にオリーブオイルに漬けた「Pomodori secchi con olio」。トスカーナではどこの街でも簡単に見つかります。私はこれをパンに挟んで食べたのですが、とっても美味しかったです。他には、パスタソースに使ったり、そのまま前菜として食べたりもするそうです。ワインにもとても良く合いますょ。お惣菜屋さんにもありますが、食料品屋さんでは手頃なサイズの瓶詰めを売ってますので、ぜひお試し下さい。


<根岸信彰さんの南イタリア・マテーラ紀行>
                 その1  マテーラへの遠き道のり


 列車の窓からアドリア海から昇る朝日が見えた。やっと夜が明けた。昨日の深夜、ローマ発ウィーン行きの夜行急行からさらにボローニャで乗り換えた夜行列車は、バカンス客で満員となり、客室には入れずコンパートメントの廊下で寝る羽目に・・。朝日に染まる海の上空には全く雲は見あたらない。昨日のローマも暑かったが、きょうの南イタリア行きも暑くなりそうだ。

 朝9時過ぎバーリ着。トランクを縦に置いてその上で仰向けで寝る、というかなり不自然な格好だったので節々にくるものがある。体をぎしぎし言わせながら列車から降りた。今日の目的地は南イタリアの内陸にあるマテーラだ。

 初めてイタリア旅行をするというので買ったガイドブック(地球の歩き方イタリア編)。ぱらぱらとめくっていたとき、あるページの写真に目が止まった。それは廃墟に近いサッシと呼ばれる石造の住宅群の写真で、私には他のページの写真とは全く異質なものに思えた。イタリアといえば活気あふれるラテンの国、というイメージがあるが、何となく生気のない、光が当たっているのに暗い感じを与えているその写真に興味を持ち、どうしてもそこに行ってみたいと思ったのだった。・・が、その町へ行くにもどのようにすれば見当もつかない。私鉄がその町まで通じているようだが、小さな私鉄などトーマスクックの時刻表には出ていなくて、それがかえって何としてもそこに行ってみせるという気にさせてくれた。

 国鉄のバーリ駅を出て広場の左側に私鉄の駅があり、そこからマテーラ行きの列車が出ているとガイドブックには出ていた。だが、実際に行ってみると半地下駅と高架駅の二つの駅がある。半地下駅の方を覗いてみると、灰色のレールバスが止まっているが、どこにもマテーラという文字が見えないので、隣の高架駅へ。ホームは2階だが、駅コンコースは1階にあり、決して大きくはないのにあまり人がいないことも相まって広く感じる。壁には、鉄道創業当時の一号機関車であろうか、エッチング製の大きな銅プレートが飾ってあった。時刻表を見ると、こちらにはマテーラという文字が見える。今度は間違いないようだ。

 列車が来るまでは時間がありそうなので待合室で待つことにした。が、私の他には誰もいない。待合室の椅子に座っているうちに、昨日の夜行の疲れもあってかうつらうつらし始めた・・。暫くすると誰かに揺り起こされ、目の前には警官が立っている。私の荷物を指して、気をつけなくちゃだめだよ、と片言の英語で私に話しかけてきた。有り難うと答えると、今度はどこに行く?、と聞いてきた。マテーラまで、と答えると、彼は時刻表を見てくる、と待合室を出ていき、程なくして戻ってきて、次の列車の時間を教えてくれた。何て親切な警官なんだろうと思ったが・・、だがまてよ、さっき私の見た時刻と違うではないか! 心配になって、先ほどの時刻表のところまで行ってよく見ると、それはバスの時刻表であった。列車の時刻表は出札口のある列車のほうの待合室に出ていたのだ。私はバスの待合室の方にいたのだ・・。

 本当にあの警官に会って良かった。そうでなければいつまでたっても列車には乗れなかっただろう。しかももうすぐ出札の時間、もうすでに出札窓口には何人か並んでいる。とりあえずその列の後ろについたが、どうも私だけ浮いているようだ。まぁ、それも仕方ないか・・。旅行者風の人は私しかいないし、しかも外国人なんだから。

 いざ、切符を買う段になると、さて幾らだか判らない。仕方がないので5万リラ札を窓口の駅員に差し出すと、なにやら手触りを調べたり透かしを見たりしている。その後、私に渡されたのは一枚のぺらぺらの紙の切符と大量のお釣りであった。バーリからマテーラまではわずかに4300リラ(当時の日本円で480円ほど)。しかし、これでとにかくマテーラに行くことが出来る!

 2階のホームに上がると、ちょうど列車が入線してくるところであった。駅の造りは櫛形プラットホームに線路が一本だけの簡単な造りで、しかも線路を見るとレールの幅は大分狭い。列車も線路の幅に見合ったクリーム地に赤い塗装のフィアット製の小さな二両編成のレールバスであった。お客の数も十数人といったところだから、かなり席には余裕がある。お陰で私はボックスシート一つを占拠する事が出来た。


 列車は北に向かってバーリの町を高架線で渡っていき、暫くすると急に西に向きを変えて町から離れる方向へと走っていった。沿線には意外に民家は少なく、列車はオリーブ畑の中を淡々と進んでいく。ずっと緑の森を眺めながらの旅だ。面白いことに、線路際には結構うちわサボテンが生えている。やはり、かなり暑いところのようだ。一時間ほど走った頃、急に開けた盆地に出て、国鉄線とおぼしき幅の広い線路と交差し、程なくして比較的大きな町へ到着した。地図で確かめるとアルタムラという町であった。ここからマテーラまではおよそ20キロだ。

 駅を出発すると、今度は南に進路を変えたようだ。沿線風景はがらりと変化し、どこまでも続く丘陵地帯には背丈の低い草が少し生えているだけで、ひたすら茶色の大地が広がっている。線路際には白っぽい人の頭ほどの石がごろごろと転がっている。あちこちに石積をしたような跡が残っており、おそらくは昔は石造の家であったのであろう。(帰国後調べてみたところ、プーリア、バジリカータ地方に特有の石造住宅「トゥルッロ」の残骸と思われる)。遥か遠くの丘の上には何やら城か大邸宅のような石造建築が見える。ただひたすら茶色の丘陵、という異様な風景がマテーラ到着までずっと続いた。

 列車はそれまで何もない荒野を走っていたが、急にトンネルに入り、程なくして地下駅に到着した。ここがマテーラ中央駅だ。とはいうものの、対向式ホームが一つあるだけの何ともこじまんりとした駅で、しかも地下駅ということもあってか薄暗い。階段を上がると、中央駅は出札窓口が一つあるだけの平屋の小さな駅であった。地下から上がってきた目に光が眩しい。駅前には広場があるが、町を案内するような立て札や地図は何もない。いざマテーラには着いたが、右に行っていいものやら左に行っていいものやら全く見当が付かない。もちろんガイドブックに出ていたような石造建築群などどこにも見あたらない。列車に乗っていた人たちも散り散りに街の中に消えていき、駅の周りには誰もいなくなってしまった。写真でみた石造建築群「サッシ」までの道のりは、まだまだ遠い・・。

  
<根岸信彰さんの南イタリア・マテーラ紀行>
                 その2  マテーラへにて

 電車、バスを乗り継いで、ようやくマテーラへ。まずは、今晩泊まる宿を探さなければならないのだが、人に訊こうにも周りには誰もいない。私はイタリア語が話せないので訊ける筈もないが・・。じっとしていてもしょうがないので、ともかく駅前の道なりに歩いていくことにした。このくらいの町ならどこかに宿ぐらいあるだろうと思って歩き続けたが、全く宿屋の看板が見つけることが出来ない・・。
 それにしても不気味なのは町を歩いても殆ど人に出会わないことである。まっすぐ道を歩いていくと、右手の丘の上に古色蒼然たる城跡が見えるだけで、それ以外には何もない。ただ普通の鉄筋の建物が続く通りがあるだけであった。

 いくら進んでも埒があきそうにないので、まずは振り出しに戻してと思い、再び駅前に戻る。空には雲一つ無く猛烈に暑い。実のところ、今朝から何も食べておらず、重いトランクを引きずっての石畳道は相当体力を消耗する。駅前広場にあった水飲み場で思い切り水を飲み、腹をその水だけで膨らませてから再び駅前の道を進んでいった。さきほどとは別の道を進むと、何やら雰囲気のある建物の並ぶ通りに出た。教会とおぼしき建物や朝市広場のような場所もある。どうやらこちらの道がマテーラのメインストリートのようだ。程なくして、道の傍らに宿屋の看板を出している建物を見つけることが出来、もはや何も考えずにそのホテルへと入っていった。

 玄関を入ると、ロビーは随分広々としていて何やら高級そうな感じである。しかし、そのときはすでに疲れ切っていて他の宿を探すような気力は残っておらず、少しくらい高くてもいいやという気で玄関を入った。まずは軽く「Buon Giorno」と挨拶してから、今晩泊まれるかどうか英語で訊いてみると、そのおばさんは最初ちょっとびっくりしたような顔をしてから、すぐに笑顔になって「Yes」と答えた。滅多に外人、特に東洋人など来るような町ではないであろうから、急に訪れた日本人に少々驚いたのかもしれない。


 宿代は5万5千リラ(日本円で約6000円弱)。三ツ星で、名前は「アルベルゴ・イタリア」、最近改装したばかりのようであった。客室はシングルであったが、随分天井が高く、床も大理石張りだ。暑い屋外を歩き通した後に、靴を脱いで裸足で客室の石張りの床を歩きのは何と気持ちいいことか・・。散々歩き通して汗もかいていたので、まずはシャワーを浴び、そのままベッドに倒れ込んで寝入ってしまった。


 目が覚めると3時を少し過ぎた頃、大分疲れもとれたので、何はともあれ外に出てみることにした。S.Francesco教会の裏手に石造の建物があり、その一部にアーチ型の小さなゲートが・・。そこには「SASSI」と確か青地に白の文字のプレートがはまっていた。ここだ! 
 ゲートをくぐると今までの町並みとは全く違う、まさにあの写真で見た石造住居群が目に飛び込んできた。何という迫力であろうか。ゲートから先は全て幅の狭い石畳の下り坂だ。乱雑に積み上げられた積み木のような四角い石造の家々の間を、坂道や階段となって右に左に狭い路地が延びている。暫く歩いていると自分がいまどこにいるのか判らなくなってきた。勿論地図など持っていない。まさに巨大な迷路だ・・。 サッシのかなりの部分は無人のようで、玄関や窓を鉄板で塞いだサッシを多く見かける。しかし、その一方でまだ人の住んでいる建物もあり、洗濯物を干してあったり、テラスにテーブルや椅子が並んでいたりする。

 かなり下の方まで降りると、車が通れるような広さの道に出た。どうもその道がサッシのある谷間の底のようだ。奥の方に進むとじきに道は細くなり、最終的に枝分かれした階段となってさらに建物の陰へと延びている。日本へ帰ってきてから調べたところ、私はどうやらサッソ・バリサーノ地区というところに迷い込んでいたようだ。 この地区は一つの谷を埋め尽くすようにサッシがある。ドゥオーモのあるチヴィタと呼ばれる高台、そしてその反対側には、カヴェオーゾ地区がある。こちらの方は、マテーラを横切る峡谷(グラヴィーナ)に向かって開けている。私は私で今どこにいるのか全く判っておらず、ともかくドゥオーモの尖塔を目印にしてサッシのあちこちを歩き回っていた。


 マテーラのサッシは洞窟住居群といわれているが、全ての住居が洞窟を穿ったものでは無いようだ。私がたまたま覗いた無人の住居は、切り出した石を積み上げた長方形の部屋一間の構造で、しかも、住居内はには窓が一つしかない。全くの穴蔵といった感じだった。入り口を入ってすぐのところが竃になっている。部屋の一番奥が元のベッドの跡であるのか、床より一段高くなっている。天井はヴォールト構造で高くなっているが、床面積は目見当で30平方程で、住居としては相当簡単な構造だ。
 部屋の中はひんやりしていて、何となく異様なにおいも漂っている。屋外に比べて室内は空気が澱み、かなり湿っぽい感じもする。残念ながら、あまり住みたい構造の家ではないと思った。


 一旦サッシを抜け、宿のある高台の方に上がる。そろそろ日が傾いてきた頃、教会前のメインストリートの方には人通りが出来始めていた。広場にあるカフェも夕方になってようやく店開きしたようだ。ここで一服した後、また来た道を引き返し、今度は宿の前を通り過ぎてさらに進むと、何やら人の集まっているところがある。
 何だろうと思って近づいてみると、そこはサッシを一望の下に見渡せる展望台となっていた。この展望台からはサッソ・カヴェオーゾ地区とグラヴィーナを見下ろすような格好になる。ここもまた素晴らしい風景であった。

 空腹を感じ、レストランを探しながら、教会堂の脇からメインストリートより一本サッシ側の路地を歩く。広場の出口近くにレストランの看板を見つけ、漆喰塗りの壁の門をくぐると、下り階段がずっと続いている。もしや、と思ってさらに進むと、果たしてサッシを改造したレストランがそこにあった。地球の歩き方にも出ていたレストラン「オスタリア・イル・テラッツィーノ」だ。
 テラスのところにいくつかテーブルが並べられ、ヴォールト天井のある洞窟の奥の方にもテーブルが並んでいるが、お客は誰もいない。店員の声はするが姿は見えない。一体これはどういうことか・・。どうもお客が来るにはまだ早い時刻のようだ。でも私が「Buon Giorno」と声をかけると店員がすぐに飛び出してきて、サッシ群の見渡せるテラスの席に導いてくれた。他にお客がいないので正に特等席である。
 日が暮れてくると、ぽつりぽつりとお客が入り始め、テラスから見るサッシ群のあちこちにも街灯がつき始める。何とも幻想的な風景だ。そのサッシ群の住宅の窓から殆ど光が漏れてこないところを見ると、やはり無人の住居が多いのであろう。

 そうこうしているうちに、よくわからないまま注文した料理が届けられた。これを見たら思わず笑ってしまう、という代物だ。皿の上には、まるでマンガに出てくるような足を丸めた格好の子ダコが4匹ポンと置いてある。味の方は、日本でも食べれるような普通の蒸しダコと同じだった。
 食事のあとには一杯百円のカプチーノを飲んで仕上げ。かなり満腹になったが、精算したら3千円ちょっとであった。記念にレストランの絵葉書をもらい、外に出ると、通りには一体どこから湧いてきたのかというような人の波があった。昼間の誰もいない町を見ているからこの人の多さは衝撃的である。どの人たちも特に目的を持っている風でもなくただぶらぶらと歩いているようだ。気温は日が沈んで大分下がり、湿度もあまり高くないこともあってとても気持ちがいい。街の人たちも、昼が暑い分、みんな夕涼みを楽しんでいるのであろう。

 さすがにサッシの方は街灯も少なくかなり暗い。行く当てもなくなってきたので宿に戻ることにした。明日は一旦バーリに戻り、さらに南のレッチェに行く予定。昨日の睡眠不足を解消し、今日の疲れを残さないためにも早めに寝ることにした・・。 


 何の下調べもせずにマテーラに行ったことを日本に帰ってきてから少々後悔した。
調べようにも、一部の建築関係の専門書以外には、ほとんどマテーラに関する記述のある本など出ていないのだから無理だったかもしれないが、実は私は、マテーラの街の半分も見ていないことがわかったのだ。もし、再びイタリアに行くことがあれば、必ずまたマテーラを訪れてみたい。

 交通の不便さはあるが、南イタリア行きを考えている旅行者がいたなら、一度はマテーラを訪れてほしい。もちろん、あの小さなレールバスで。
 あの乾いた空気、強烈な太陽光線、これらを実感できてこそ、本当に南イタリアを味わうことが出来るのではないかと思っている・・。

マテーラの写真合計15枚 約280kバイト


<下田修平さんのイタリア・レポート・・・
            「イタリアでサッカー観戦」>

 
今年の春にローマを訪れた際、私はUEFAカップ(ヨーロッパ各国のリーグ戦上位チームが出場できる)準々決勝ASローマ対スラヴィアプラハを観戦した。昨年ローマを訪れたときから、私はすっかりASローマのファンになってしまっていた。すでにアウェイで0ー2で負けてはいたものの、たかがチェコのチームにホームで苦戦するわけはない、いや、大差で勝ってくれるであろうという期待感は、誰の胸の中にもあったはずだ。
 私が泊まったホテルには、何と偶然にもローマの選手や監督を始めスタッフ達が泊まっていた。なんという幸運であろうか! 目の前にはマッツオーネ監督や、イタリア代表のトッテイがいるのだ。その後の私の行動はいうまでもない。次の日、試合に向かうローマの選手達をサポーターや報道陣がホテル前で囲んでいたが、彼らはいったいどこから宿泊先を聞き入れたのであろうか?


 
さて、客席に向かうと、そこには黄色の画用紙がおいてあった。ゲームの始まる前に一斉に皆がそれを掲げ、敵とサポーターを威圧、観客の比率はローマ9、プラハ1といった感じで、プラハにとってはまさに四面楚歌であった。試合は予想どおりローマがプラハを圧倒、いくらローマファンといえども、思わずプラハに哀れみを感じてしまった。彼ら(サポーターも含む)は遠路はるばるローマまでやって来たのだ。
 ローマは期待に応えて2点を先制し、そのまま後半を終了、適地での点数を考えてイーブンになった。そして延長戦に入り、またも1点取って、この時点で逆転、スタジアムは歓喜の声(というよりは絶叫)に包まれた。
 
ここで言っておかなければならないのは、点を取ったのに席に座っていると大変寒い思いをするということである。以前ローマの試合を観た際に、得点が決まっても座り込んでいたところ、「おい、何座っているんだ」と地元民に注意されてしまった。中には、見ず知らずの人に抱きついている人もいる。日本との違いを実感、まさに"Do in Rome as the Romans Do"ということわざどおりである。
 しかしここで悪夢が起こった。試合終了まであと少しというところで、ゴールキーパーの不意をついたミドルシュートがゴール隅に決まってしまったのだ。ここでまた説明が面倒になるが、試合が終了して、ホームとアウエイの合計得点が同点だった場合、アウエイでの得点は二倍に計算されるのである。この準々決勝の合計得点は3ー3であるが、プラハはアウエイで1点を獲得しているため、このままではプラハの勝ちになってしまう。そしてそれは現実のものとなった。グランドにダイブして喜ぶプラハの選手とそれに応えて跳びはねるサポーター達。それに対し、沈痛な面持ちで終始無言のローマサポーター。なんとも残念な結果であった。イタリアのサッカーの応援は激しいが、しかし負けても誰も文句を言ったり、大声で嘆いたりする人がいなかったのは意外であった。



 帰り道はよくわからなかったが、地図も持っていたし、人の流れについていけば地下鉄の駅に着くだろう、と思っていたが・・、流れに乗ってたどり着いたのは、はてしなく延びる路上駐車地帯であった。これはやばいと思って引き返し、あたりに地下鉄の駅はないだろうかと探し回ったが、どうもなさそうだ。仕方なく歩いて帰ることにした。
 自分の宿はテベレ川を挟んでサンタンジェロ教会の向かいであり、幸いこの川がすぐそばを流れていたので、これに沿って歩けばそのうちなんとかなるはずだ。ライトアップされた川岸の建物を眺めながら歩くと、歩道だというのに車が向こうから走ってきて、油断できない。ここで私は、宿までの距離はどのくらいだろうかと思い地図を広げたが、どうやらこれは地下鉄三駅分はありそうだ。歩くにはちとつらい。でも、川に沿って走るバスに乗れば何とかなるはずだと思って、バスに乗ることにした。
 さすがにこの時間になるとバスの中はがらがらであった。しばらくして、バスは急に右に折れた。川からどんどん遠くなり、焦りの表情を隠しきれない。次のバス停ですぐに降りようとしたが、なかなか止まってくれなくて、もうどうしようもないところまで来てしまった。私は作戦を練り直し、地下鉄の駅にいちばん近いバス停で降りようと決めた。しかしどのバス停がそれなのかわからない。こんなときは人に訊くのが最良の選択である。バスの中に居た地元の少年二人に、身振り手振りで訊いてみた。すると、次のバス停が駅の前に止まるそうだ。助かった? いや、胸をなで下ろす暇もなく、私は驚くべき光景を目にしたのだ・・。
 駅のゲートはすでに閉まっていた。そんなばかな。しかし! 途方に暮れている時間は私にはない。もう、地図を見ながら宿まで走るしかない。人っ子一人いないローマの市街地を、私は一目散に宿へ走り去った・・。

<谷中浩二さんのイタリア・レポート・・・
            「モンツァ F1グランプリ観戦記」>


 
今回で2回目のイタリア訪問。前回は純粋に観光をしてきましたが。今回は、モンツァでのF1グランプリの観戦と、ミラノを中心に買いものを楽しんできました。
 まず、F1ですが、グランプリの行われるmanzaはミラノから列車で30分程度の小さな町で、F1が行われるサーキットはautodromoと呼ばれ、大公園の中にあります。年に1度グランプリの行われるこの時期だけ、イタリア中を初め、ヨーロッパなど世界中から約20万人が集まってくるそうです。そのとき以外は、静かな田舎町といったたたずまいで、観光客が訪れることも無いとのことです。
 manzaは地元と言うこともあり、町中がフェラーリ一色になっていました。フェラーリの帽子を被っていたところ、地元の人達から「F1を見に来たのか、フェラーリのファンか?」とどこへいっても声をかけられましたし、ピッツアリアやトラットリアの中にはフェラーリの写真を店中に飾ってあるところもありました。
 GPではフェラーリが優勝し大変な状態! もともとお祭り大好きなイタリアーノたちが大はしゃぎで、日本ではきっとこんなに盛り上がれることは無いのではと思う程の騒ぎでした。
 

 
ミラノでは、ブランドショッピングを思う存分しました。グッチやフェラガモを初めイタリアンファッションを大分かってしまい、予算オーバーです。その中にジノリの食器もあります(うちの奥さんが大好きなのです)。変わった情報としては、ご存じかも知れませんが、AMLETO DALLA COSUTAというギャラリーがあり、非常にきれいなポスターが安く手に入れられます。猫をモチーフにしたものと女性をファッショナブルに描いたものが中心です。VIA BREA3にギャラリーがありますのでご興味があれば行って見てください。

 あと、ローマで「魔法使いサリー」「銀河鉄道999」がテレビ(もちろん吹き替え)でやっていて驚きました。町の売店では日本のマンガが翻訳されて売られていました。今回はハネムーンで行きましたが、機会があれば何回でも行って見たいです。

小野寺浩美のフィレンツェ旅行記


フィレツンェの中央駅から バスで20〜30分、オリーブ畑をのぼっていくとフィエーゾレの町があります。  ここは 「世界各国の富豪が別荘をかまえる高級住宅地」。気分だけでも金持ちになってお散歩をしよう! という私たち二人にぴったりの町でした。

まずは 石畳の急な坂道を、サン・フランチェスコ教会に向かってGO。この坂の途中に、人なつっこいおじさんがいる カバン屋さんがあって、けっこう手頃な値段で皮製品を売っていました。(私の友人は、今でもあそこで にっこり笑った太陽のマークがキュートなリュックを買わなかったことをひどく後悔している。一期一会、ですねぇ。)
坂道はけっこう急で、二人の会話もとぎれがち。それでもぐんぐん歩いていくと、ついたついた 展望台! しばしの写真タイム。フィレンツェの町が一望できて、めちゃめちゃ感動的でした。そういえば二人とも高い所に登るのが好きで、旅のあいだじゅう登れるところは次から次へとチャレンジしてたっけ。 

ちょうどその日は、サン・フランチェスコ教会には社会科見学(と勝手に思っている)の高校生が集まっていて、カワイイ男の子もいっぱい・・・。芝生に座っていた男の子のグループは、ギターをひきながら楽しそうに歌ってました。イタリア語の歌ばっかりでさっぱりわからなかったけど、一曲だけクイーンの「ウィ・アー・ザ・チャンピョン」が聞こえてきたときは わらっちゃいました。フィレンツェでも クイーン健在、ってかんじですね。 

さて、そのあともローマ劇場をながめたり、住宅地にわざと迷いこんでみたり、食器屋さんをのぞいたり。いきあたりばったりの充実したお散歩を楽しみました。
そうそう バス停から見て 教会とは反対側のほうにずんずん歩いて坂を下るとサッカー場もありました。ここも偶然に試合中で、なんか得した気分だったな。 

フィエーゾレの町はこじんまりしているうえにゆったりした空気が流れていて本当にお散歩にはぴったり。わたしが行ったのは11月で ちょっぴり風の冷たさが気になったけど、そのぶん 町のあちこちが色づいていてすてきでした。フィレンツェで あんまり時間の余裕がないんだけど、ちょっと町から離れてみたいな、なんて時には いいんではないですか?
きっと「普段着のイタリア」を見ることができますよ。 

犬丸サツキのミラノレポート

12月になると急に寒さを増すミラノ。
朝、霧に包まれると、冷たい1日が始まります。
夏のギラギラした太陽とは一変して、冬のミラノは日差しも薄く、
「冷たい」という言葉がぴったり。冬は意外に長くて、じっと我慢の時なのです。
今年は、去年よりも少し寒いみたい・・・。

でも、この寒さを少し紛らわせてくれるのが、「Natale」前の華やかな街、
12月1日には、通りのイルミネーションが輝き始め、ショーウインドウは、
ツリーやパーティドレスで飾られ、何となく心ウキウキしてきます。
まるで1枚の絵ハガキを見るような、それでいて今にも動き出しそうな・・、
そんなセンスのいい飾り付けを見せてくれるから。
思わず足を止めて眺めてしまい、ミラノファッションの主人公になってしまいます。
今年の色は「黒」。この数年間、黒はあまり流行らなかったミラノですが、
今年は黒一色。パーティドレスも黒が主流です。

クリスマス気分に誘われて、Duomo(大聖堂)まで足をのばせば、
大きなツリーが輝いています。冷たい空気に包まれて、とってもきれい!
プレゼントやパネットーネを手にしたミラネーゼが、
がレリアを通り抜け、Duomo広場を横切って、せわしく歩いているけれど、
隣の友達や恋人と楽しそうにおしゃべりすることを忘れないのが、
イタリア人らしい、と言えるでしょう。

ミラノの「Natale」は、特別なことをするわけではありません。
24日から25日にかけて教会に祈りに行き、その後、家に帰ってから、
お楽しみのプレゼントをあけ、スプマンテで乾杯してパネットーネを食べます。
25日の昼は、家族で豪華な食事を楽しみますが、
テーブルに並ぶのは、その家族に受け継がれているお馴染みのお料理で、
ある家族は七面鳥を焼き、またある家族はオレンジ詰めのアヒルを焼き・・、
豚の料理も伝統的です。そして後は、またパネットーネを食べます。
大切なことは家族が一緒にいて語り合い祝うこと。
長い歴史の中で繰り返され、大切に守られているこの姿は、
少し前の日本のお正月に似ているように思います。

街のにぎやかさも、25日には一変します。
店も仕事もお休みになります。
そして、Duomoの鐘が鳴り、ミサが始まり、厳粛な祈りの日に変わるのです。
カトリック信者にとって、この日は1年で一番神聖な日に違いありません。
また、ミラネーゼにとって、イタリア人にとって、
25日の「Natale」は、キリストが誕生した日として新たな認識をし、
心静かな日として、受けとめられているのでしょう。

           I  migliori  Auguri  di  Buon  Natale
        
                                   ミラノより    May

犬丸 めいのミラノ便り − ミラノの週末−


週末はミラノの郊外に出て散歩でもしようか、それとも朝早く起きて一泊スキーにするか、やっぱりテニスで汗を流そうかとほんのちょっぴりOUT DOOR的な考えをするようになったのは、イタリア人の友人達のせいかもしてません。

友人のエゥフィーミー夫婦は共働きで二人の子供がいます。平日の彼らはかなり遅くまで働き(特に彼のほうは)−−−ミラネーゼは案外働き者なのです。−−−そのうえやんちゃな子供達に振り回され、奥さんのリビアはだんなのルカが手伝ってくれない、とどこかで聞くような文句をいっています。しかし週末になると寒い冬はミラノにいたくない、空気の悪いミラノはいやだといい、暖かい海の別荘へ車を飛ばして出かけていきます。二人の子供はまだ小学生の低学年ですが、子供にとっても、いい空気と少しでも暖かい日差しが必要だと言ってたまには学校を休ませても2時間近くかかるRapallo(ラパラロ)の海に向かうのです。

そしてそんな彼らが例ではなく、かなりのイタリア人がこのような生活リズムをもっています。そこで彼らはいつものように散歩をしたり、日光浴をしたり、本を読んだり、話しをしたり、特に変わったことをするのではないのですが、週末のミラノ脱出を当たり前のこととして繰り返します。



だからといってそんな彼らが特別な金持ちでもないのです。彼らは両親が買った別荘を使わせてもらっている場合もあるし、もちろん借りている場合もあります。これはイタリアが豊かであった時代背景もかなりありますし、相続税が安いため、両親の時代に手に入れた別荘を手放さずに済むという理由もあります。しかし健康管理、気分転換、家族サービス、そしてレクレーションとすべてが含まれているこの方法をうまくこなしているというか、身についているのです。あたり前のこととして生活に取り入れスマートにやりこなすのです。

私はこのリズムに感心して、時にはうらやましいなと思うこともありますし、逆に少しハードに感じることもあります。そしてなによりこれは私達日本人の生活体制と随分違うなと思うのです。自分の生活、家族の生活をきちんと守るということは、この週末の使い方でも解る気がします。そしてまたミラノの町の日曜日は、店も休みでひっそりとして過ぎていきます。

きちっとした区切りが町にも人もあるから、自分や家族を見つめる時間がおのずとできるのかもしれません。たかが週末されど週末。イタリア人の週末に対するささやかな情熱を感じるのは私だけでしょうか?。

私もイタリアに来て、以前はほとんどしていなかった散歩や山歩きがずいぶん好きになってきました。彼らイタリア人は贅沢をしないで贅沢をしているというのが私の正直な気持ちです。そして私も少しは私らしく贅沢な週末にしようかと思う今日このごろなのです。