古川夫妻のミラノレポート

<<古川夫妻のミラノレポート 〜 謎の男ヘルムット>>


昨年12月13日、14日に行われた「CAMPI DI LUCE」の落成式は予想以上の盛況で一同胸をなでおろしました。その後はいろんなメディアで取り上げられ、徐々に知られる存在となってきているのですが、今回は、今年1月4日の「CORRIERE DELLA SERA (ミラノの市民に一番読まれている新聞)に写真入りで載った、合気道家のヘルムットを紹介します。


*謎の男

彼なしでは「CAMPI DI LUCE」は語れない、というほど中心的な存在であるヘルムット。そのドイツ風名前の由来については「父がドイツ人だった」とか「イタリア人の母が、恋人だったドイツ人の名前を付けた」とかもっともらしいような、全くデマのような話があります。自分からは自分のことをあまり話したがらないので、しょっちゅう会っている割にはまだまだ謎が残っているのですが、GRANDE CUOREを持っていることだけはみんなが認めます。


*なぜかベジタリアーノ(菜食主義者)

武道家なのに肉もアルコールも「決して」口にしないのです。何か宗教的な理由でも?と尋ねてみると「少年時代は、PROSCIUTTO(ハム)が大好きで、ほんとに毎日食べていた。でもある日、ふとこれは生きていたんだ・・と想像した途端に、身体が一切の肉を受け付けなくなった。」らしいのです。それ以来、牛乳とモッツァレッラ以外の動物性蛋白質は口にせず、大量の野菜や果物を食べるように。でも彼は、「野菜は葉を取ってもまた生えるし、完全には死なないだろ。種もできる。でも、動物は魂があって・・」と、話を続けたので、何かしらはっきりした考えを持っているように思えました。


*そんな彼が日本へ行った時のこと

結婚披露宴も兼ね、2週間ほど神戸方面に滞在したそうですが、「食べる物がなくて困った」とか。でも日本語も話せず披露宴、一次会、二次会・・アルコールも飲まない上に食べれる物も少ないとなれば・・、奥さんが事ある度に、特製サラダを作って持参したそうですが、さぞかし二人とも大変だったことでしょう。彼によると、「美味しかった日本の食べ物は、フルーツトマト、鰹節なし醤油なしの冷や奴、そして、鳥取の梨!」なのです。私からしても、イタリアの野菜や果物は日本のそれと比べると、形はいびつですがずっと旨味がありしかも値は安いし、特に果物はまさに太陽の恵みといった味なので、ベジタリアーノの意見としては妥当だと思えました。時々彼が日本の悪口を言うのは、このせいかな。


*合気道

彼が合気道と出会ったのは、約10年前のある日の午後。ある日本人マエストロの元へ、一人で話を聞きに行った時に遡ります。その時なぜか道場は停電中で、マエストロはロウソクをテーブルに置いてヘルムットと向かい合い、その灯の中で合気道を語ったそうです・・。この出会いがあまりにも印象的だったのでしょう、彼にしてはめずらしく感情を高ぶらせて当時のことを語ってくれました。そんな彼の合気道は「Campi di Luce」でも重要な存在で、日本人の生徒も数名いるのが特徴です。稽古は型やテクニックの説明だけではなく、「Campi di Luce」らしく各人の内側のエネルギーの話や、技の意図の説明をしながら進められます。彼独特の話は面白くまた稽古にもテンポがあるので、人気が高いようです。


*人前で話すのが大得意

以前はそうでもなかったそうですが、今では大勢の人前に立つと、とにかく俄然はりきります。人々の反応を見ながら惹きつけるのが上手く、飽きさせず、笑いもとりまぜ素晴らしいパフォーマンスなのです。昨年11月に「 Campi di Luce」のプレス発表をした時も彼の独壇場でした。ただ、調子に乗りすぎると話が止まらず、つい言わなくても良いことを口に出したりするので、こんなエピソードも・・。


*合気道の練習中に

話が過ぎると「マエストロとしても威厳がなくなり、稽古にもならない」と彼の生徒でもある奥さんは考えた。そして、ヘルムットの話が横道にそれそうになったり、長くなりそうになった場合は、奥さんが「合図するから早く話を終えるように。その方がいいでしょ」と取り決めをさせたのです。もちろん他の生徒に気付かれ、「マエストロが陰で操つられている」と思われても威厳がなくなる、と考えた奥さんはとても苦労しながら合図を送っていたのです。おかげでしばらく稽古は脱線することなく上手くいっていました。しかしある日、絶好調に波に乗った彼は「早く話をやめろと合図がきたので、ここで話を終わります。」と言ってしまったのです。みんなは気づくし、奥さんはがっくり。同じ方法は使えないので、ヘルムットは野放し状態になったのです。


*でもラジオ局では・・


12月のある日、私たちのもとに「ミラノの日本人のNATALE(クリスマス)について」ラジオで喋ってくれという話がきました。さっそく「落成式の宣伝ができるゾ」と話を引き受け、ヘルムットを先頭に、落成式の時にピアノを弾いてくれた紫竹女史、歌ってくれた歌手のリム女史と安藤氏、そして私の総勢5名で収録にのぞんだのです。打ち合わせで、DJがバックミュージックで「きたろうを流そう」と言い出したのを機に、「せっかく歌手がいるんだから」と本題のNATALEの話もそっちのけで、そのままスタジオ収録になだれ込みました。そして、彼らの素晴らしい歌声で民謡や童歌を次々と聞かせ、DJを大満足させたのです。こうして収録は順調に進みました。ひととおり歌の紹介をした後、DJがヘルムットに話を振りました。待ってました!さあ落成式の宣伝だ! とばかり・・、「落成式には日本食レストランの出張屋台が出て・・」とポポロ屋(ミラノにあるリストランテ)の事から話し始めた途端、DJから「OK!はい、ありがとう!」。ヘルムットと私:唖然。DJ:「エンディングに何か1曲歌って・・」。こうして、あっと言う間に1時間番組の収録は、大切な当日行われる各コースのプレゼンやデモンストレーションの話をすることなく終わってしまったのです。スタジオから出て「何で食べ物の話からするの?」となじると、へルムット:「当日のことをぜーんぶ説明するつもりだったんだ。」
・・まあ、ラジオで落成式のことを話すのはこれで2回目だったので(前回はヘルムットとピエロがさんざん喋ったそうだ)これで良かったと言えば良かったのですが、数少ない喋り足りない日となりました!

去年の夏はバカンスなしで、ずっと「 CAMPI DI LUCE」で働いていた彼。NATALEのバカンスでやっとゆっくりと骨休めができたそうですが、年明けから「 CAMPI DI LUCE」に来る見学者や電話が倍増し、忙しくなりました。
一方、私たちは年末から進めてきた1月8日の、和楽器奏者(尺八、篠笛、能管)紫竹氏/劇団わらび座所属/によるコンサートが大成功したので、快く新年を迎えることができ喜んでいます。これはピエロ(前号の主人公)がきっかけになって実現したようなもので、いろいろと面白いエピソードがあるのですが・・、次の機会にでも紹介することにしましょう。


<<古川夫妻のミラノレポート 〜 ミラノも変わる!!>>

漠然とイタリアの街は変わらないと決めつけていたのですが、昨年の9月に戻ってからのミラノはだいぶ変わりました・・


*治安が良くなった!


一昨年は、街を歩くと昼でも必ず、一見して麻薬中毒患者と分かる者を見かけたり、夜も売春婦のための縄張り奪い合いが、多国籍間で繰り広げられたりと、新聞の記事には事欠かないほどの賑やかさでした。それが昨年秋から変わったのです。目に見えて不法滞在者と麻薬売人の姿が減ったのです。一説にはミラノ市長が替わり、政策を変え、不法滞在者をばんばん摘発している効果らしいのです。ほぼ連日のように新聞を賑わせていた場所も、以前はP.za della Vetra, P. za Loreto, Via Ripamonti近辺でしたが、近頃はCorvetto, Parco Sempione とはっきりと変わってきました。場所が変わっただけで、根本的には解決していない気も少しはするのですが、でも確実に、街の表情は明るくなり、イタリアの景気も上向きらしく、街全体に活気が出てきています。また、役所はこの夏から商店の営業時間を延ばす準備を進めていて、そういう意味でも今年はひと味違う夏がやってきそうです。


*新しい地下鉄「R」!


長年の計画だったFSの地下鉄が昨年末ついに開通しました。現在の区間はP.ta Venezia - P. za Repubbrica - P. ta Garibaldi - Lancetti - Bovisa で、本数は1時間に4本、終電も早いのですが、皆もっぱら通勤用に利用しているようです。トラムやアウトブスの共通ビリエットで乗れるこの路線は、3両連結で、地上で見慣れている普通列車の車両を使い、中には2階建て車両もあったりして、少し奇異な感じを受けます。もちろん車窓など楽しめるわけはないのですが、とにかくあっと言う間に移動できるのが利点です。一方ホームは地下とは思えないほどの巨大さで、メトロの下を通っているのが不思議なくらいです。きっと壮大な計画なのでしょう。今後、線路はP. ta Venezia から南東に延長され、P.ta Vittoria を通りLinate方面に向かうようです。イタリアのことなので、いつ完成するか見当も付かないのですが、とにかく今のところは、Linateにまで延びない限り観光客にはあまり利用価値はなさそうです。


*昨年後半に、やっと改装が終わった アンブロジアーナ美術館!


かなり長い間修復工事をしていましたが、やっと終わりました。ここは1600年代の図書館から出発した美術館で、改装後のその室内は明るく、居心地も良いのです。ルネッサンスの香りが漂うここは、ブレラ絵画館と比べるとずっと魅力的な空間になっています。見逃せない作品はレオナルド・ダ・ビンチの「音楽家」、カラバッジョの「果物かご」、その独特な浮遊感覚に惹かれてしまうティエポロの絵などで、その他にも有名な作家の絵が色々あります。中でも圧巻なのは、37才でこの世を去ってしまったラッファエロ作のアテネの学堂(バチカンにあるフレスコ画)の下絵。これは彼の20代後半の作品で、彼の引いた線からは、まるで彼の息づかいが感じられるようなのです。その個々の描写力の的確さもさることながら、全体構成のバランス感覚はほんとに素晴らしく、いつまで見ていても飽きません。下絵だけに、その時彼が何を大切に考えていたかが伝わってくるようです。

話は変わり・・アンブロジアーナ美術館に居るとき、ふっと思ったのですが、ブレラにあるピエロ・デッラ・フランチェスカの絵は、アンブロジアーナの3階一番奥の明るい部屋に移した方が良いと思いません? 暗いブレラにピエロ・デッラ・フランチェスカは似合わないですよね。
アンブロジアーナへの行き方は、DUOMOからV. Torinoを通り、V. Spadariに入り、高級食料品店ペックの店先を過ぎ、左に曲がれば正面に見えます。開館時間は9.30/17.30で、月曜休館です。


ちなみに現在、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィェ教会のレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最期の晩餐」は修復のため見れません。2月いっぱいで終わると耳にした記憶があるのですが、定かではありません・・


<<古川夫妻のミラノレポート 〜 ちょっと変わったフィレンツエ観光案内>>


*バルジェッロ国立美術館、2枚のブロンズ板


この美術館では、いろんな作者(特にドナッテッロとジャンボローニャ)の素晴らしい彫刻作品をふんだんに見ることができますが、その2階にひっそりと、それぞれフィリッポ・ブルネレスキとロレンツォ・ギベルティによる、2枚とも「イサクの犠牲」をテーマとしたブロンズ板があるのをご存じでしょうか・・。同じ部屋のドナッテッロの魅力的な彫刻に見とれていると、つい見逃してしまいそうになるのですが、この小さな作品にはドゥオーモの巨大な丸屋根までつながる話があるのです。


・世界初のコンペ

1401年頃、ルネッサンスの意識が芽吹くフィレンツェで、コンペが行われました。ドゥオーモ前・洗礼堂の北側扉の制作を誰に任せるかを決めるもので、数回の審査の上、ギベルティ(23才)とブルネレスキ(24才)の二人が最終選考まで残りました。この最終審査内容が、「イサクの犠牲」のテーマでのブロンズ板制作だったのです。


・ギベルティ

それぞれ全く作風が異なり、私には主題の表現方法はブルネレスキの方が緊迫感があって面白く、全体の印象としての完成度はギベルティの方が、とすぐには甲乙を決めかねますが、当時の審査委員たちも迷ったそうです。恐らく技術的に勝っていたのでしょう。コンペの結果はギベルティが勝ち、現在に残っているように、扉制作はギベルティに任されました。そして破れたブルネレスキはすぐにローマへ去っていったのです。


・約17年の歳月で

破れたと言っても、ブルネレスキも当時の芸術家らしく、色々な方面に才能を発揮する人でした。彫刻家であり、また遠近法に関する深い考察をもっていたのです。彼はローマで古代建築の構造研究に取り組んだのです。
そんな彼が17年ぶりにフィレンツェに戻ってきました。「とにかく大きな教会を」というフィレンツェ人の意地から建設し続けられた「花のサンタ・マリア教会」が、屋根をどうするかという大難問で、足踏み状態になっていることをローマで聞いたのでしょう。彼は17年の構造研究の成果である丸屋根の模型を携え故郷に入りました。


・ブルネレスキの案で

当時の技術では巨大ドームを建設するのはとても無理だ、とそれまであきらめムードだった委員会は、さっそくブルネレスキの新しい構造案を認め、工事を任せることにしました。そうして、彼は他の現場で彼の理論が正しいことを確認した後に、丸屋根工事にとりかかったのです。ところが、なんとあのギベルティが第二監督として、ブルネレスキのすぐ下の立場で現場に入ることになったのです。
よっぽどこの二人は因縁があったのか・・、とにかく彫刻家、金細工師、建築家、画家の顔を持つギベルティは、当時のフィレンツェにかなりの影響力があったのでしょう。でも、もちろんブルネレスキは面白くありません。まったくの自分の案で、しかも当時最新の技術や作業機械を次々と考案しながら、難問を解決しているのに、それとは関係のないギベルティが、あのコンペ以後フィレンツェ市民から絶大な信頼を得ているのをいいことに、現場でも偉そうに振る舞っているのですから。


・ブルネレスキの作戦

そこでブルネレスキは考えました。あれこれと理由をつけ、ある期間、現場へ行かないようにしたのです。こうすれば、工事に誰が一番必要か分かりますよね。この駆け引きの結果、現場でのブルネレスキの地位は確固としたのものとなり、一方、ギベルティは元々の彫刻の仕事が忙しくなったこともあって、工事から離れていきました。こうして、フィレンツェ大聖堂の巨大な丸屋根は18年後の完成へと向かったのです。
この偉業にとりかかった後、建築家として広く認められる事となったブルネレスキは、メディチ家の庇護の下、次々と新しいルネッサンス様式の建物を設計したのです。

そうです、もしブルネレスキが最初のコンペに勝っていれば、恐らくローマへ行って古代建築を研究する事はなかったでしょうに・・・。
事の始まりの2枚のブロンズ板。17年の歳月を隔てて、意図せずに2度もその実力を民衆の前で争うことになったこの二人の作品の前に立ち、はるか500年前に思いを馳せると、急に当時のフィレンツェが身近な存在に感じてきます。
そして、この部屋に彫刻があるドナテッロも、当時ギベルティの工房で修行しながら、このコンペに弱冠15才で参加したそうです。


*行き方

チェントロにあるので、どこからでも行けるのですが・・、私の好きな行き方は、シニョーリア広場からパラッツォ・ベッキオの裏へ向かって歩き、フィレンツェでは珍しいバロック風のファッサードの建物を右手に見ながら、ピアッツァ・サン・フィレンツェを左へ、ドゥオーモ方面に行きます。そのピアッツァの斜め先右側にあるのですぐに分かります。前身はフィレンツェ共和国最初の公共建築であったこの美術館は、ウフィッツィに比べると、素晴らしい彫刻がたくさんある割には不思議に見学者が少なく、落ちついて見て回ることができます。


<ミケランジェロの実力>

今はフィレンツェの役所にも使われているパラッツォ・ベッキオ。その昔から数々の歴史的なでき事が起こったシニョーリア広場を前にして優雅に佇んでいます。ところで、その壁に人の顔が彫刻されているのをご存じでした?


・いったい誰が?

フィレンツェ育ちのイタリア人が、フィレンツェの7不思議の一つとして話してくれたものなのですが・・、なんとミケランジェロだそうです!?
仮に彼だとして史実をつなぎ合わせ想像してみると・・


・仕事の合間に

年代は1503年。実はこの年、ミケランジェロはレオナルド・ダ・ビンチと共に、パラッツォ・ベッキオの500人大広間に、絵の競作を描くはずだったのです。レオナルドはすぐに取り掛かりましたが、ミケランジェロは本格的には作業しませんでした。というのも、負けず嫌いなミケランジェロはレオナルドがどんな絵を描くのか見た上で、自分のに取り掛かろうと考えていたのです。


・広場にて

ミケランジェロは、レオナルドの様子を見るために毎日パラッツォ・ベッキオまで足を運びました。当然シニョーリア広場を通ります。その当時のフィレンツェは、開廊で、あるいは広場で、言葉巧みに論陣を張り議論したり、演説をしたりと賑やかでした。もちろんシニョーリア広場もそんな議論をする人たちで賑わっていたのです。ミケランジェロもレオナルドの仕事を覗いた後、パラッツォ・ベッキオの壁にもたれながら、時々は人々の議論に耳を傾けたり、話に参加したりしていたのです。

・手持ちぶさたに

そして、そんなある日、いつものように話に参加していたのですが、彼はあまりのつまらなさに、持っていた彫刻の道具を手に持ったのです。そして、周りにも悟られず、話に参加しながら、後ろ手で全くそれを見ずに、きっと半ば無意識に彫ったのです。しかも巻き毛まで表現して。こんな芸当はミケランジェロしかできないでしょう。恐らくこんな風なストーリーだったのでしょう。


・夢になった競作

さて、ミケランジェロはこんな事をしながら、レオナルドの進行状況を見ていました。一方レオナルドはミケランジェロに嫌気をさしてか、仕事を始めたもののすぐに投げ出してしまったのです。その後、レオナルドは1506年にはミラノへ戻ってしまい、下絵も散逸し、ついに完成することはなくなり、競作は夢となりました。もともと、フィレンツェから飛び出たレオナルドが、再びこの地に足を踏み入れたのも、当時チェーザレ・ボルジアの建築・土木技師をしていたためで、決して自ら望んだのではなかったのです。二度とフィレンツェには戻りませんでした。とはいうものの、この時レオナルドは「モナリザ」を描いているので、この時のフィレンツェ滞在はかなり充実していたように思えます。
一方、その後もローマにバチカンの仕事で行くまで、フィレンツェに住んでいたミケランジェロは、この時から約30年後にレオナルドなしで絵を描くはめに・・


顔の作者の真偽はさておいて、一瞬でも「ほんとかな?」と思わせるフィレンツェの歴史背景、昔と余り変わらない街の姿を保存する配慮が、フィレンツェの散策の面白さを倍増させます。
それにしても、私にはどうみてもただの落書きにしか・・。いやいや、後ろ向きで彫ったから・・?!
絵の場所は、シニョーリア広場側の外壁で、ウフィッツィよりのコーナー近くにあります。

<<古川夫妻のミラノレポート 〜 ミラノの住宅事情>>


不動産屋の友人の依頼で、彼の仕事を手伝うことになりました。改めて考えてみると、ミラノで暮らし始めぶつかった最初の難関が「家探し」です。住環境は生活に深く関わり、その人の暮らし方を左右します。出来るだけ早く快適な生活環境を確保したいもの。そこで今回は、自らの体験と不動産屋での話をまとめ、家探しのノウハウをご紹介します。


*ミラノの現状

ここでの家探しは他の都市と比べ難しいと言われ、イタリア人の場合でも数カ月を要します。焦って探しても、どこかで妥協しなければ、1カ月間見合う物件に出会わない、ということにもなりかねません。勝負はほぼ運任せで、特に家賃相場を下回る物件を探そうとすると、我々日本人の想像以上の時間がかかります。
こちらの引っ越しはキッチンまで持っていき、入居時にはまさにvuoto(空)です。内装を自分の好みにやり替えてから入居、というのがこだわる彼らのやり方で、手を加えて自分たち風に生活します。考えてみれば気に入った空間を求めるには合理的ですよね、最初から何もないのですから。とは言っても、外国人にとっては、すぐに生活のできる家具付きアパートが都合良いので、今回はこれに焦点を当てます。


*探し方 その1(1年以上ミラノ滞在の場合)

良い物件があれば引っ越そうという人、あるいは時間的に余裕のある人で、なおかつイタリア語に自信のある人にお勧めの方法は、アパートの扉に貼ってある「affittasi(貸します)」の貼り広告で探すこと。あるいは「seconda mano」という中古情報誌で探すこと。
前者は、自分の好きなゾーンを集中して歩けば、あたりの環境も確認でき、またいくつか物件を見ればその辺りの相場も分かります。但し両方とも、電話で広告主に直接電話し、条件を再確認してから下見の約束を取り付けねばなりません。特に「seconda mano」の場合、人気のある物件は早い者勝ちなので、朝一番に「seconda mano」を購入し、即電話をかけるぐらいの気合いが必要です。(余談ですがこの情報誌には、家以外にも色々な情報が載っていて見ていて飽きないはずです。)
でも結局、慣れている人ならともかく、無難に思うのは、信用ができ日本人を理解する不動産屋で探すこと。住み始めて分かる問題があったり、いろんなタイプの大家がいてその対処に困ったりするからです。日本人を理解するとあえて書いたのは、日本人気質ならではの問題も起こり、それを理解していないことには仲裁にも入れないからです。また、家を決める時にも不動産屋の意見を参考にできるし、とかくいい加減な情報の飛び交うイタリアでは、プロの意見は大切です。


*探し方 その2(短期の場合)

商用の場合は、家賃が高くともレジデンスが都合良いでしょうが、語学学生の場合は素直に語学学校からの斡旋が好都合です。これは基本的に月契約で家賃には電気、水道、ガス料金が含まれ、電話は1スカットLit 200 で清算します。
他には、人づてや日本食屋等や語学学校の掲示板の広告をくまなく探せば、「同居人募集」等の情報はいくつかすぐに集まります。また、ミラノには個人(日本人)で斡旋サービスを行っている人もいます。
上記の方法はいずれも短期ならではの方法で、それぞれ一長一短があります。その中でも以外と知られていないのが、語学学校の斡旋の場合のデメリット。全てとは言いませんが、いわゆる「nero」、法律違反なのです。具体的には大家は警察、役所に借り主が変わる度に申告義務があるのですが、税金及び申請料を払いたくない為にそれをしないので。その上、部屋の家賃相場の2倍から1・5倍ほどの値で貸すのが一般的なので、家主とその斡旋一味は税金を払わない分も含めて稼ぐのです。大家は賃貸を公にしていないので、
滞在許可証更新時にややこしい話になる場合もあり、長期で借りると困ったことになりかねません。現に私も2度ほど仲裁に行きました。
とは言っても、このことを承知で借りるのであれば十分利用価値はあります。第一に、日本に居るときから予約できる事。こんな離れ業はなかなかできません。そして家具は勿論、電話まで一通り揃っているので着いてすぐに生活出来るのです。例えば長期滞在予定者も2カ月程は語学学校で頼んだ家で過ごし、その間に自分で家探しをするようにすれば焦らずに探せますよね。


*ミラノの家賃相場

他の都市と比べ相場が高く、我々が扱う物件で、家具付きの2部屋プラス台所の場合、150万リラ/月、程度します。面積は80平米ほどはあり、日本のマンションとは比べものにならないほど雰囲気、質感共良いものです。勿論、ドゥオーモ周辺の中心部では相場はもっと上がります。見ているとこの値段がボーダーラインとなり、立地条件、部屋の広さ、家具の質等が大きく変わってくるように思います。 一方、家具付きの1部屋プラス台所(キッチン+食事スペース)程度の場合で、110万リラ/月程度からが、立地条件やその他も満足できるものとなります。私たちは、法的に問題があるものは扱わないので、これぐらいの金額ですが、運次第では、この相場以下で掘り出し物に巡り会う場合もあります。
一般に、トラムの終点付近や街の境目の辺りの相場は安いのですが、車所有ならともかく治安に問題があるし、生活が不便なので私は勧めません。パラッツォの住人も、外国人の占める割合が増え、彼らがイタリア語をあまり話さなければ、例えばパラッツォ内で問題が起きても解決しようがありません。それに、何をするにも時間のかかる外国人にとって、何かと都合の良い地域に住まなければ毎日の生活が大変になります。


*家具付き

イタリアらしく、一言に家具付きと言っても千差万別で、家具のデザインもすっきりしたモダンなものから、猫足のアンティーク調のものまで色々あります。でもまず勉強机はありません。そしてもっと不思議に思うのは割と洗濯機がないこと。困りますよね!ちなみに、私の知人(イタリア人)は彼女ができて一緒に住み始めるまで洗濯機を持たず、なんと1週間溜めた洗濯物を、毎週末母親の下へ持って帰っていました・・。
と、こんな様子なので、必ず下見時には何が付いているかを確認しなければなりません。さもないと後で、「ない!」と言うことになってしまうのです。


*契約

部屋を見て気に入れば、いよいよ契約。「seconda mano」等、大家と直接契約の場合は簡単な契約書にサインというのが一般的です。不動産屋に依頼した場合は、何ページかにわたる契約書が用意され、大家、借り主、不動産屋で契約します。この契約時に不動産屋に不動産手数料を支払います。これはよっぽどの場合を除き、年間家賃の10%から20%の間です。
その時の契約書ですが、ずらりと難しいイタリア語が並んでいます。全部読むのは大変なのですが、一番大事なのは扉ページと、終わりの特記事項で、これはひとつづつ確認しなければいけません。まだ余り調べていないのですが、契約種類は大きく分けて2種類になっているようです。一方は、1年毎の契約自動更新であったり、家賃値上げを国から決められた範囲で要求できるもので、もう一方は逆に住み手の権利がある程度守られているものです。外国人相手には前者の契約タイプが多く、特に家具付きの場合は、家賃の数カ月分を保証金として要求されたり、時にはそれプラス何カ月分かを前払い家賃として払う場合もあります。この保証金は家を引き払うとき何も壊したりしていなければ、全額戻ってくるのが一般的です。でも、壁に釘を打ったりするときは大家に確認しましょうね。


*住み始めて実感する事

ミラノでは夏より冬が過ごしにくく、気温はマイナスにもなります。日陰はホントに寒く、太陽があたる部屋とあたらない部屋とでは、天国と地獄ほどの差があります。夏少々暑くとも、日当たりの良い部屋を選んだ方が冬過ごしやすく、第一イタリアらしい気もします。
そして、浴室への給湯方式。電気とガスの2種類で、電気の場合は貯湯式となり、その容量によっては、二番目にお風呂に入っている途中に湯がなくなる場合があるのです。冬にこういう目に遭うと悲惨ですが、夏でもなぜか水道水はとても冷たいのです。
それから管理人の有無。留守の時にも日本からの小包を受け取ってくれたり、電気・ガスの検針を立ち会ってくれたりします。簡単な事も色々教えてくれたりして、とにかく大助かりです。


*最後に不動産屋の比較

不動産屋もこれまたいろいろあります。私も家探しの時に何軒か回り、そのサービスの質の違うことに驚きました。希望物件が上がってくるのはどこも一緒で遅いのですが、その後とにかく早く決めてくれといったものから、嘘をつくところまで、様々だったのです。契約手数料は一般的でも、契約時に不透明なことがあったり、友人のケースでは、毎月の家賃を直接大家ではなく不動産屋宛に払わされ、そこの不動産屋がピンハネしているというのもあります。なかなか信用のおけるところはないようですね。イタリア語をぺらぺらに話せれば問題は減るでしょうが・・
こんな事情も私が不動産屋を手伝おうと思ったきっかけの一つです。皆、家探しには苦労しているようです。ちなみに、我々の不動産屋は2人のイタリア人+私で動いているので、イタリア式にテンポは遅いのですが、一つづつこだわりながら丁寧にこなすことを心がけています。

<<古川夫妻のミラノレポート 〜 サローネ>>

毎年4月中旬に行われる「ミラノのサローネ」は、ドイツのそれとならび、世界の注目を集める2大家具見本市のうちの一つとなっています。今年も2000の事業体、30万平米の展示、130ヶ国から16万人の関係者が来ると予想されたほど、大掛かりなものでした。ひょんな話から、日本から取材に来たグループに同行し4日間行動を共にしたので、今回はこのミラノの「ミラノのサローネ」取材同行記をまとめてみました。


*初めてのサローネ

フィエラ会場へはイタリア全国物産展などで行ったことはありましたが、家具のサローネは初めてでした。その内容は後で雑誌で見られるし、第一、人混みの嫌いな私はむしろこれまで近寄るのを避けていたのです。今回取材に来られたK女史(ライター)、S氏(カメラマン)もサローネの取材は初めて。彼らが事前に集める予定だった資料が結局、集まらなかったそうで、直前に仕入れたほんの少しの情報だけで、世界規模の巨大な家具見本市へ挑むこととなったのでした。
フィエラ会場だけでなく、、衛星会場と呼ばれるショールーム、ギャラリーなど街中の150カ所を越える場所でも作品は展示され、まさにミラノの街が「サローネ(展覧会場)」と化します。
今回、そのギャラリー衛星会場の一つ「MUDIMA財団」では、日本からのアーティスト鴻池朋子さんと、4人の日本人デザイナーがサローネに参加しました。彼女たちを取材する使命もあったK女史、S氏の要望により、初日のホテルでの顔合わせもそこそこに、早速ミラノの名物トラム(路面電車)とバスを乗り継ぎ、ギャラリーへ。ここから私のミラノ取材同行記は始まります。


*不思議なギャラリーで

建物は1800年代後半に建てられたような造りで、一階は天井が高く、中庭に面した気持ちの良い空間がありました。そこで鴻池さんをはじめとする出品者達や関係者に会ったのですが、個々についてはK女史の雑誌記事を読んで貰うことにして、私は建物そのものの話を・・。というのも、一見なんの変哲もない建物なのに、なんと地下にプールがあるのです。
同行2日目の盛況だったオープニングパーティの日、恐ろしい人混みを避け、関係者以外立ち入り禁止の地階で、つまりこのプール横の地下室で、私とK女史は作戦会議を開いていました。ところが、なにやら訳知りのイタリア人のおじいさんが数人のイタリア人を連れ、このプールにやってきては「ミラノの七不思議の一つだ」と語っているではありませんか。
実は、そこにあったのは単なるプールではないのです。薄暗いプールの壁にはびっしりと暴力的な絵が並び、その絵の下地パネルは所々破られ、建物の煉瓦壁が露出。各々の絵とバランスをとる位置にはそれぞれ小さなモニターが埋め込まれている、という奇妙なものだったのです。あまりの薄気味悪さと好奇心から、ギャラリーの人に尋ねてみると、以前この建物を所有していたドイツ人アーティストが「インスタレーションをした跡」との返事。モニターは戦争の風景を映したのでしょうか・・。
その後、このアーティストはドイツに戻り、この空間だけが残されたそうですが、なにやらドラマのありそうな話です。とにかく、長くはそこにいたくないような光景でした。
思い起こせば私が「プール」と言って質問したにも関わらず、「水槽」と返事があったので、決して水と遊ぶ場所ではないのでしょう。ちなみに、そのギャラリーの人はここに過去何人もが落ちたと言ってました。
フィレンツェの七不思議はルネッサンスと結びついていますが、ミラノのそれは近代と結びついているのですね。


*サローネ開幕・・めざすはフィエラ会場の外


サローネ開幕の朝。まずは衛星会場を見て回ろうという計画を立てた我々は、前日のギャラリーに集合しました。鴻池さんも加わり総勢4名で、厳選したとはいえ28カ所の衛星会場を一日で見て歩こうというハードな取材のはじまりです。しかも衛星会場どうしはあまり離れておらず、ほとんどの行程を歩くことに・・。ミラノは先週まで暖かかったのが嘘のようにこの日から寒くなり、日中でも吐く息が白いほどでした。K女史とS氏は可哀想なくらい薄着で、特にS氏はジャケットさえなく、自分で吐く息の白さに気づきながらも「寒さを感じない」と不安げにつぶやいてました・・。
そういえば私も身に覚えがあるのです。独立したての頃、2月のソウルで、日本、韓国、オーストリアの三国合同現代美術展覧会の会場構成をすることになりました。現地入りしてみると、頼んでいたはずの通訳が居ず、ハングル語の分からない私は、現地スタッフとお互いぼろぼろの英語でコミュニケーションをするはめになったのでした。寝に帰れるのはいつも深夜を過ぎてから、という生活が続き、日一日とストレスのたまるのをはっきりと感じていました。
一通りのことができるまでの2週間ほどは、零下の続くソウルに居ながら寒さを感じなかった私。しかし、夜寝る前に気がつくと、なんと自分の意志とは関係なく手が震えているではありませんか。恐らく自律神経に影響していたのでしょう。我ながら「ぞおっ」としました。ちなみにこの仕事が無事終わっての帰りの飛行機の中、離陸してしばらくした頃に、体中からぽきぽきという骨の鳴るような音を聞きました。まるで解凍してゆくように・・。
S氏の場合は、すでに日本へ帰る当日に普段の体調を取り戻されたようで、「寒い」と言っておられたのですが、かなりストレスがたまっていたのでしょう。


*夢の晩餐


鴻池さんが「お勧めのレストランがPta. Genovaにある」と言いました。この日はかなりの数の衛星会場を見て回らねばならないので、皆でささやかな息抜きにと、そのレストランで晩餐をする事を確認し、衛星会場を次から次へと歩いていました。
その行程は、San Babila から始まり、Duomo 付近、Brera付近、Moscova付近を徘徊し、そこからGiardini Pubbulici付近まで向い、最後にPta. Genovaに向かうというものでした。続けざまに見てゆくと、それなりにイメージが湧き楽しかったのですが、数をこなさねばならない取材は大変でした。歩けば歩くほど、見れば見るほど体力を消費し、悲しくもそれとは反比例してカタログの重さは増えていったのです。それでも午前中はお互いに感想を話しながら歩いていたのですが、午後にまずK女史がばててしまいました。可哀想にカタログが相当重たかったようです。その後、夕方にかかると一同も無口になりがちで、正直言ってふらふらに。
この頃、皆(私だけ?)の頭の中ではレストランが全面に浮かび上がり、おかげで最後の力を奮い起こして、地下鉄でPta. Genovaへ向かいました。残すは2軒のみ。その後は晩飯だ! でもそんな気持ちを知ってか知らずか、地下鉄から出ると無常にも、なんと雨が降り出したのです。


*どんでんがえし

雨を避けるようにして1軒目を見て、最後に皆よれよれになりながらたどり着いた2軒目。そこでは突然、いままで受けたことのない、ギャラリーの責任者からの厳しい追及を受けたのです。理由は「許可を得ずに写真を撮った」から。もっともな理由ですが、しばらくは一方的な攻めが続き、私は気が遠くなりました。いままでいつも一言断っていたのに、この時だけ忘れていたのです。疲れているときには色々な事が重なるものだとぼんやり考えながら、彼らの身分を説明し、やっと双方納得のうえ一件落着しましたが、その攻め方になんとなくの後味の悪さを残しました。でも、ここで最後だったので、とにかく疲れは徐々に満足感に変わっていき、さあまず座ろうとバールへ。
皆がほっとして急に精気を取り戻す中、どうもK女史の表情だけがすぐれないのです。みんなで色々前向きな話をして表情を明るくしようとしたのですが、その時「実は・・」と、なんと彼女はポケットからホテルの鍵を出したのでした。別によくある話と言えばよくある話で問題ないといろいろ説明したのですが、なにか事情が重なっているようで、この一件で晩餐は突然中止に。ささやかな楽しみもふいに消え、再び急にがっくりと疲れ、一同暗い面持ちで帰路につくことに・・。いやはや大変な一日でした。


*最終日、いよいよフィエラ会場へ

この日はフィエラ会場に的を絞っていたスケジュール。今日は私が同行しての最後の取材でもありました。メンバーは鴻池さんに代わり、日本から前日に到着したH女史(ライター)が加わり、またもや総勢4名。会場入り口で記者用パスを取得するのに手間取ったものの、無事に入り口をくぐると、そこには広大な会場がありました。ここでも、歩きに歩いた我々はカタログを集めながら、ひとと通りめぼしいところ回ったのです。荷物を持っていない私はともかく、機材をかかえたカメラマンやカタログを次々ともらう記者さんは、仕事とはいえ良く頑張ったと思います。私にとってさえ、この数日間は、一年分というのは大げさとしても、半年分は歩いた気がするのですから。


*フィエラの感想

私は、衛星会場のほうが楽しかった。というのも、フィエラの中は、商品が「単にずらり」といった感じで、商品イメージを全面に出すものではなく、興味をひくブースもありはしたものの、商談の場という印象が強く残ったからです。商談の必要のない我々には、フィエラの人工的なブースではない、衛生会場の個性ある各空間の方が、少なくともより明快で具体的なイメージを感じさせてくれました。来年は、見て歩くだけならフィエラの外に的を絞りたいと思います。


*最後に・・

振り返ってみれば、関わった人たちはそれぞれ興味深い人たちだったことと、私自身の「私の周りからイタリア嫌いの人をだしてはいけない」という使命感から、取材クルーとは単なるビジネス以上に深く接することになったような気がします。結局、簡単な通訳しかしなかったのですが、言葉の通訳だけでは物事が進まない事が多々あり、私にとってなかなか経験出来ないことができたように思います。準備の大切さを痛感できたことも含めて、有意義な同行でした。


<<古川夫妻のミラノレポート 〜 イタリアで和食を作る!>>


ミラノに住み始めた当初は「イタリアに生活しているのだから、イタリア料理を食べるのが当然」と、イタリア料理ばかり食べていました。中華食材店でも日本の食材の値はバカ高いし「イタリア料理に比べて、和食の調理は手間がかかる」と決めつけ、はなから作ろうなんて思わなかったのです。
その態度が、昨年の秋から変わることに・・。というのも、ローマとブリュッセルで茶事が行われた時に、席外でしたが料理のお相伴させて貰い、わざわざ日本からの食材を使わなくても和風料理ができることを肌身で感じたのです。それ以後、盛り付けの美しさだけでなく、消化の良さにも改めて意識が向き、イタリア料理を作るうえでも、この意識は役立つことになりました。
 豆腐作りを始め、鶏肉のタツタ揚げや、おからのふりかけなど、数々のヒット作を編み出し、味の評判も上々。喜んで貰えると頑張れ、おだてられるとどこまでも舞い上がり、その挑戦は留まるところを知りません。ただ、残念ながらいつも美味しく出来るわけではなく、時には二度と作りたくないというような味になることもあります。
 例えば、最近はラーメン作りに凝ってるのですが、それに落ちつくまでこんな失敗談がありました。


第一部 「蕎麦」


*そば粉探し

 この春、料理の腕が上がったと思いこみ、初めから成功する気で蕎麦作りに挑戦した。
まず最初は、そば粉を探すこと。以前から、そば粉を混ぜたパスタが存在すると聞いていたので、そば粉も簡単に見つかるだろうと軽く考えていたが、現実は、なかなか思い通りにはいかなかった。それでも、きっとミラノでも蕎麦を作っている人がいるはずだと思い、色々な友人に聞きまくっていた。するとしばらくして、なんとフランス人から「そういえば、ボローニャの駅で買ったものがあるけど、使ってもいいよ」という返事が・・。「さすが、美食の街ボローニャだ、駅でさえ売っているのだ」と感心しながら、早速、現物を見せて貰ったが、果たしていつ購入したのか分からないような代物だったため、即、断ることに。
その後は「ボローニャへ行く日を待つしかないのか」とか「旅行に出かける口実ができた」とか、あれこれ考えているうちに、いつのまにか「蕎麦がだめでもうどんがある」と、気持ちが変わっていった。


*偶然に

一方、うどん作りの材料は簡単に手に入る。逆に小麦粉の種類が多すぎて選ぶのに迷うほどだった。その後、うどんを延ばす麺棒を買いに、ドゥーモ横の百貨店「リナシェンテ」に行ってみると、なんと、そこで偶然に「そば粉」を発見。「そば粉」は麺棒のある台所用品コーナーと、同じ地下階の食料品コーナーに何気なくあった。私は「あんなに探しても見つけられなかったのに、こんなにところに・・」などと、買う気もなく感慨深げに眺めた。探し始めて、とうに2カ月は過ぎた頃で、頭の中にはうどんしかなかったのだ。
それでも、好奇心からそば粉の袋を手に取り、説明書きを読み始めた。そして、「ふーん、石臼で挽いてあるのか」と興味を引かれたとたん、大好きなざる蕎麦と天ぷらが頭をよぎり、再び蕎麦作りへの情熱がよみがえることに。結局2kg も買ってしまい、蕎麦を作るべく急いで家へ帰った。


*本格的な味

 早速、本の作り方を見ながら蕎麦作りに挑戦してみる。今晩はうどんが食べれる、と思っている妻はまだ仕事から帰っていない。作り方は2種類あり、本格的な味用と、間違いのない作り方と書いてある。私は、なんの迷いもなく「本格的」を選び、作り始めた。
 途中、作りながらほんの一瞬、「何か違うのでは」と思ったものの、みるみる行程は進み、後は延ばして切るだけになる。買ってきたばかりの麺棒を使いながら「選んだ麺棒は正解だ」と満足し、生地を延ばす。しかし段々と、かつて実演蕎麦屋でみた蕎麦生地のイメージと現物が違うことがはっきりしてくる。「そうだ、異様に硬いぞ。」 成す術を思いつかず、というより楽天的な私は「よく湯がけばいいのだ」と思い、麺を切って湯がき始めた。妻も帰ってきてテーブルについた。


*短く太い「蕎麦」

出来上がりは、楽天的な私と、蕎麦好きな妻の期待をあっさり裏切った。麺は切った時の2倍ほどにも膨れ上がり、2、3センチごとにちぎれ、短く太く、しかも硬いのだ。とても蕎麦とは呼べないものがみるみる出来上がる。とんでもないことに、作り方の分量通りに6人分も作ってしまった。
呆然としながらも、2人で無理して半分ほどは食べたが、蕎麦と言うより、得体の知れない硬い物といった感じだった。実は、これ以来「蕎麦を食べたい」といまだに思わない。それほど強烈だった。
救いだったのは、その時一緒に食べたズッキーニの天ぷらがとても美味しかった事で、以来、ズッキーニはよく食べるようになった。


第二部 「うどん」

*うどん

 いまだに、ミラノで蕎麦作りをしている人がいるなんて聞かない。相当難しいのだ。フランス人の友人も、蕎麦を作る目的でそば粉を買ったのではないのだ。こう思うと、蕎麦ショックから立ち直れ、今度は「作った人がいる」と聞く「うどん」に挑戦することにした。蕎麦の悪夢を忘れるためにも、成功しなければいけない。


*失敗は成功の元

すでに、材料は揃えてあったので、すぐにうどん作りに取り掛かった。作り方は一つしかなく、その通りに進み、作りながらうどんは簡単だと思った。ただ「体重をかけて30分以上こねる」が面倒で、腹も減っていたので「体重が重いから20分で良いだろう」と勝手に判断し、出来たことに。その出来上がりがどうも「何かが違う」気がするが、うどん作りは見たことがなく、迷っても仕方がないので、さっさと延ばして切ることにした。蕎麦での失敗を思い起こし、麺の太さはうどんにしては細目に切り「失敗は成功の元」などと、この時まで成功を疑わなかった。


*茹で上がりは

とにかく硬かった。蕎麦に続きうどんまでも硬いとは・・。きっと粉が違うに違いないとか、水のせいだとか、もしかして塩か、などとあれこれ考えるが、とにかく「また失敗」という思いでがっくりきた。今思えば、煮込みうどんにすれば「もしかすると、旨かったのでは?」と思う。少し前に帰ってきていた妻は「うどんは大丈夫だろう」と安心していたが、箸で持ち上げても、棒のように水平になる、うどんらしくない麺を目の前にし、驚き言葉を失い、ただもくもくと食べていた。この時「麺作りの才能は全くないのか?」と思った。


第三部 「ラーメン」

*重曹

今までの麺作りは失敗だったが、麺棒がある限り挑戦はできる。材料も吟味すればよいのだ。幸いにもミラノにはいろんな種類の小麦粉がある。そして、蕎麦のとてつもない味もすでに忘れ、うどんの硬さもきっとこねる時間が短かっただけだと、都合の良い理由に落ちついた頃、ラーメンの作り方を見てみた。
蕎麦、うどんの作り方の載っていた本なのだが、これには全ての料理がいとも簡単に出来るかのように書いてある。一度ならずも二度までも失敗した経験からラーメンの作り方を冷静に見た。その時、はたと「重曹」という言葉に目が止まる。蕎麦の作り方にもうどんのにもなかった言葉だ。「重炭酸塩・・炭酸・・これが入れば硬くならないはずだ・・」。「今度こそ」と思いながら、重曹を買いにスーパーに走った。


*スープが命

 ラーメンの味はスープで決まる。重曹を手に入れたスーパーの帰り、肉屋へ行く。込み合う人をかき分け、ショーケースを物色した。鶏がらがないので、贅沢にも骨付きの鶏もも肉を出汁につかうことに。まずスープ作りに取りかかり、その後、すぐにラーメン作りに取りかかった。この日はなぜか妻は家にいて、「性懲りもなく」とばかり今回は最初から見学していた。
作り方にはまたしても6人分とあったが、重曹が味方してくれるはずだと、そのまま作り始めた。蕎麦、うどん作りの失敗経験を活かして、みるみる作り上げていく。それでも不安な妻は、これ以上不気味な食べ物が出来ることに耐えられないのか、自発的に手伝ってくれ、生地を薄くしてくれた。それも、執拗に。おかげで、今回は麺らしくなり、大きな期待を抱きながら茹で始めることに。


*味噌味で

とにかく美味しかった。先に作っておいた鶏スープに、どんぶりの中で味噌を入れ足し味噌ラーメンにしたのだが、二人とも「美味しい」の一言だけで後は無言で一心に食べた。化学調味料一切なしなので、舌にべったりとした味が残るようなこともない。あっと言う間に食べ、続けて醤油ラーメンにしてみたが、やはり旨かった。やっと、まともに食べれる物が出来た嬉しさもあってか、我ながら驚くほど美味しかった。


*今後は

 その後、麺作りの自信もでき、上機嫌で仲の良い知人に話すと「ラーメンは駐在員の奥さん達も良く作るのよね。」などと、成功して当たり前のような口振りだったので、ちょっと傷ついた。確かに、パスタマシンがあれば細麺が簡単に作れるはずで、「かんすい」を手に入れれば、麺の硬さ太さを自在に工夫できる気がする・・。(「かんすい」の実体はよく知らないが。)
 今後はまずラーメン用の器を手に入れ、そのうちに、パスタマシンはだめでも、麺を細く切るための幅の広い包丁を手に入れようと思う。そして、かんすいが手に入れば、この夏は冷麺に挑戦だ!




<注:イタリアの電話のかけ方について>

今月の6月19日よりイタリアでの電話のかけ方が変わります。イタリア電話会社の説明によると「電気通信市場の自由化につながる新しい要求へ応えるために、電話番号の利用度を拡大し、ヨーロッパで制定された法律や、その受け入れによるイタリアでの法律への対応を予想して」とのこと。具体的には、市外局番が市の局番となり、市内であろうと市外であろうとこの局番(旧市外局番)が必要になりますので、ご注意ください!

例えばミラノ場合、今まで市内電話は、市外局番「02」が不要でしたが、今後は必要になります。
*市内電話:112233 ーー> 02ー112233
一方、市外電話はこれまでと変わりません。
*市外電話:02ー112233 ーー> 02ー112233
また、イタリア国外から国際電話をかける場合については、これまで省略されていた市外局番の最初の数字「0」が、必要になります。
*国際電話:39ー2ー112233 ーー> 39ー02ー112233
なお、緊急の電話や、フリーダイヤル等は変わりありません。


<<古川夫妻のミラノレポート 〜 ミラノに関係の深い芸術家>>


*ミラノの芸術家

 観光案内を書こう、とミラノに縁の深い芸術家は誰だろうと考えてみた。ふと、スカラ広場に4人の弟子を従え佇んでいるレオナルド・ダ・ヴィンチに気付く。彼はトスカーナ出身だが、20年間近くもミラノに滞在した。これは彼の生涯で一番長い滞在である。彫像は、新生イタリア王国誕生の翌年1872年に設置されたのだが、それはまるで、彼の死後約350年たって、ようやくフランスから帰国したかのようにも思える。
 レオナルドを案内役にして、ミラノを辿ってみることにした。


*レオナルドがミラノへ来た頃

 他の芸術家ともしっくり合わなかった花の都フィレンツェから、その才能を買われ、霧の都ミラノへやってきたのが1482年。レオナルドは30才だった。当時ミラノはルードヴィコ・イル・モーロの安定した政治を背景に、人口も増加し、街自身も目覚ましい発展をしていた。
 イル・モーロも、フィレンツェのメディチ家同様に優秀な芸術家を抱え、美術品を蒐集したが、その宮廷はフィレンツェの雰囲気とは違った。それはもっと原始的で、その分、活力に溢れ、都市の建設、他国との競争の必要性が常にあった。 このため、レオナルドは土木、自然への興味を大いに刺激された。彼にとっては、居心地が良かったのではないだろうか。


*まずアンブロジアーナ美術館へ行く

 ドゥオーモ近くの通りvia Spadari を曲がると、正面に見えるのがアンブロジアーナ美術館。この中の2つ目の部屋には、彼がミラノに来たばかりの頃の絵「音楽家の肖像」がある。
 当時、ミラノ公国は繁栄し様々な式典や催し物が行われていた。レオナルドもその企画に関わり、様々な仕掛けを考案した。最初は彼も音楽絡みで参加したはずだ。この絵のモデルは、その打ち合わせのために出会った音楽家の一人ではないだろうか。あるいは、レオナルドが考案した楽器を演奏した人かも知れない。
 ちなみに、この建物1階のアンブロジアーナ図書館の方には、恐らく非公開だろうが、要塞に関するレオナルドのスケッチがある。もしかすると、ズフォルツェスコ城のための資料も含まれているかも知れない。


*ドゥオーモにて


 ハリネズミのようなミラノの大聖堂。屋上に上りドーム部分を見る。レオナルドはこのドームにも関わった。
ミラノに来た当初、レオナルドは、ドーム外郭部分の建設方法や構造について意見を求めらている。彼の土木機械や建設機械へのアイデアはミラノ時代に磨かれたので、この時からミラノを後にするまで、ずっと相談役のような立場が続いたに違いない。どんな意見を述べたのだろうか?
 大聖堂の屋上からドゥオーモ広場へ目を向ける。レオナルドの時代の大聖堂は現在の姿はしていなかったが、活気のある建設現場であったことがうかがえる。運河も聖堂のすぐ脇まで引かれていた。建設に必要な石材を運ぶためだ。ドゥオーモ広場側が西であるが、運河はミラノのほぼ真北からそそぎ込み、この広場を通り建物の南側脇を東へ抜けていた。レオナルドはこの運河の流れと城壁を、急ピッチで進む都市の拡張と共に変化させた。当時の城壁は、現在のトラムの29、30番が走っている道路と内側の周回道路の間に置かれていた。残念ながら現在はほとんど残っていないが、ポルタ・ロマーニャにその遺構が少しまとまって残っている。これによりかなり大きな城壁だったことが想像できる。
 ドゥオーモ屋上からこれは見えないので、トラムに乗りこむ。ついでにトラムで一周すると、当時の街の大きさがだいたい掴めるかも知れない。


*国立科学技術博物館へ

 彼は芸術家としてではなく、もっぱら公爵の技師として、水の設備に関する仕事、開墾、建築や都市計画を研究していた。というより、レオナルドにとってこの仕事は絵を描くことより楽しかったのだろう。彼はさらに、宮廷の催しのための器具、装飾、複雑な装置の制作も手がけた。
 これを確認するためには、地下鉄駅S. Ambrogioから徒歩すぐの国立科学技術博物館に行くことになる。ここには彼のスケッチを始め、それを基にしての数々の模型がある。自然観察の結果により様々な機械を発明しているので、土木工事では彼の右に出る者はいなかったのではないだろうか。彼は、式典についても、様々な仕掛けや、楽器まで工夫したと言うから、さぞ見物人の話題になったことだろう。
 残念ながらこの博物館にレオナルドのスケッチ全てが収蔵されているわけではなく、他を見るためにはパリとロンドンまで行かねばならない。


*ズフォルツェスコ城で

 ズフォルツェスコ城は、地下鉄駅 Cairoli を降りると目の前にある。守り一点張りの中世の平地の城郭だが、その郭にレオナルドは関わっていたはずだ。現在、郭はもう存在しないが、建物の北西すぐ外側にあった城壁と溝は見ることができる。城内部は後年改修されているが、「板の間」と呼ばれる部屋には、彼がデッサンした木々があり、今も枝を伸ばしている。
 この頃の彼は、ダンスのワンシーンをデザインしたり、また、パヴィアへ大聖堂の工事指揮のために通ったりもしていた。
 それにしても、レオナルド企画による式典や出し物はこの城の中でも行われているので、もしかすると当時の宮廷画家がその様子を描きとめた絵がどこかにあるかもしれない。レオナルド考案の仕掛けが、実際にどのように使われて使われていたかが分かるはずだ。


*サンタマリア・デッレ・グラーツィエ教会

 ズフォルツェスコ城から歩いていくこともできる。レオナルドは、1495年に、教会の食堂に描く「最後の晩餐」の制作にとりかかった。使った技術のせいとミラノの湿気のために、制作段階から困難だったようだ。この時、レオナルドが一番気にかけていたのは、人間の心や感情など目に見えないものをいかにして表現するかであった。残念ながら、剥離した画面からはレオナルドの緻密なハーモニーは見られないが、工夫された構図と各使徒のポーズは見ていて飽きない。
 もともとイル・モーロは、自身の菩提寺にするつもりで、この教会に手を加えた。増改築の指揮にはブラマンテが任命され、イル・モーロの期待に応えた。ブラマンテは後年、この経験を元にバチカンの聖堂を設計した。


*ミラノを後に

 レオナルドにとって不幸なことに、安定した時代は長くは続かなかった。フランス兵が攻めてきて、1499年にイル・モーロ統治が崩壊し、レオナルドもミラノを離れることになった。
 この時にはすでにフィレンツェのメディチ家も1492年を境に下り坂になっており、多くの芸術家がローマを目指していた。そしてローマの教皇も芸術家を庇護した。ブラマンテももちろん、古代遺跡の研究に打ってつけのローマへとすぐに向かっている。
 レオナルドもすぐにローマへ向かっていればバチカンの様子も変わっていたかも知れない。しかし彼は、マントヴァ、ヴェネツィアに滞在した後、チェーザレ・ボルジアの軍事土木技術顧問として仕えることを選び、ウンブリア地方やロマニャーナ地方を回った。この行動を見るとレオナルドは絵を描いて教皇に仕えるより、危険があっても土木、建築設計の仕事が好きだった事が分かる。


*再びミラノへ

 1505年までフィレンツェに滞在するが、チェーザレ・ボルジアの死去後、1506年再びミラノへ戻る。当時ミラノは、イル・モーロを追いやったフランスの干渉下であり、1507年の記念式典の準備をしていた。以前自分の仕えていたイル・モーロを蹴散らした、兵曹長の騎士記念碑像制作のためである。やはり仕事に気乗りしなかったのか、あるいは政情がまた変わったのか、デザインを仕上げると、彼の愛した弟子Francesco Melzi のVaprioへと逃げるようにして移った。そしてこの時以来ミラノへ戻ることはなかった。ミラノは以後、他国の勢力下にあり暗い時代が続く。


<追記 レオナルド小史>

*ミラノへ来る前、フィレンツェにて

 レオナルドは1452年にトスカーナの田舎で生まれた。父の教育を受け、17才の時にフィレンツェへ出た。父の友人でもあった芸術家ベロッキオの工房へ弟子入りしたのだ。この時より、当時一番栄えていた芸術の都での活動が始まった。ロレンツォ・ディ・メディチの時勢である。イル・マニィーフィコと呼ばれるメディチ家の当主は芸術を保護し、最高の芸術家達がフィレンツェに集まった。しかし、レオナルドは彼とは目指している芸術性が違い、異質な存在だった。
 ミラノへ来る直前、彼は「東方三博士の礼拝」という、現在もウフィッツイ美術館にある絵を制作中だった。結局、ミラノ行きのために未完となった。展示してあるその絵はまだ下絵の状態だが、その表現技術には目を見張るものがある。


*ローマへ。晩年のレオナルド

 弟子Francesco Melziのもとで何年か過ごした後、やっと、ローマへ行く決心をする。1513年のことである。仕事を得に行ったのか、評判のバチカンの絵画や建築を見に行ったのかはわからない。とにかく、バチカンで仕事をするには彼の到着は遅すぎた。すでにブラマンテやラファエッロや彼の一派に仕事が決まっていたのだ。ブラマンテは1514年に亡くなるが、ラファエッロ一派の勢いは衰えず、結局、レオナルドは教皇のきらびやかな宮廷に入ることなく、1517年にフランスへ移る。フランソワ1世の申し出を受け入れたのだ。
 フランスで彼は城を住居にあてがわれ、自由に研究することができた。しかし、わずか2年後の1519年4月下旬永眠についた。まだ67才であった。


<<古川夫妻のミラノレポート〜ちょっと変わった観光案内:トリノ編>>


*街の歴史

ローマ帝国と同盟したのが紀元前28年。アウグスト軍がこの地に駐留し「アウグストが治める"タウリーノ"人の土地」と名付け、トリノの名の由来になる。その後、数々の侵略を受けた。1248年にサボイア家にトリノが封土され、以来、サボイア家は絶大な影響力を持つようになる。特に1600年代と1700年代は、サボイア家が定住地をこの街としたおかげで安定し、バロック様式の建物が数々建てられた。もともと都市計画で作られた碁盤の目のような街だったが、この時の拡張工事で、真直ぐな広い通りが整備され現在の姿の基礎となる。1800年代のある時期、ナポレオンの占領を受けるが、リソルジメント(イタリア国家統一運動)の頃、1861年から1864年までイタリア王国の主都になる。フィレンツエに主都が移るとトリノの活気は低迷するが、1899年7月1日フィアット社が産声をあげ、1900年代、軍需、戦後復興で南からの労働者を受け入れながら工業の街として躍進する。



そんなトリノのイメージはフィアット、サッカーチーム「ユベントス」だろうか。イタリアをもっと知っている人は、聖骸布、イタリアで電気の街灯が初めてついた街、初めての映画の街、最初のイタリア王国の主都、初めてのラジオ放送をおこなった街、などと連想するかも知れない。
ところが、この街はイタリア人、そしてもっと多くのヨーロッパの人々からも不思議な街と呼ばれる。それは何故だろうか。


*不思議なエネルギー

現在でも、風変わりな儀式やカリスマ的場所の存在、様々な秘密結社や、変わった人物の豊富さは群を抜いている。昔から記録されているだけでも、稀代の変人達ノストラダムス、カサノバ、カリオストロ、サンジェルマン・・・などが滞在した。そう言えば、ルーブルから盗まれたモナリザも、彼女(彼?)はフィレンツエで発見された後、パリへの帰り道に訪れた。もっとも真夜中の Porta Nuova 駅で列車(もちろん一等客車だった)を乗り換えただけの、たった45分の滞在だった。
これらは皆、強力な「地球エネルギー」に導かれると言われる。エネルギーは街の脇の男性的なポー川と、街の中の女性的なドーラ川の結合からこの地に生まれるのだ。なるほど、地図を見るとトリノのすぐ横で合流している。
また、トリノには他の不思議な都市と同調する波長があると言われる。
陽性の波長はPiazza Castello の中心と他の不思議な街、リヨンとプラハと同調する。一般にはこの三都市をもって「不思議な三都市」と言う。リヨンには異界へのトンネルがあるとされ、プラハは人造人間(ゴーレム)とカバラ(ユダヤ教の秘密の教典)の話がある。
もう一方の陰性はPiazza Statuto の中心とロンドン、サンフランシスコを繋ぐと言う。ロンドンも話題に事欠かない街なので理解できるが、アメリカに全く疎い私は、サンフランシスコについて検討もつかない。


*聖骸布


聖骸布が納めてある礼拝堂は、バロック建築家グアリーニの設計による。15世紀に建てられたドゥーモの後ろにあり、そのまた後ろのPalazzo Reale とも通じている。
世界には、聖骸布と呼ばれるものが幾つかあるが、トリノのが一番有名らしい。サボイア家所有になるのが1430年で、その後かなり経って一般公開用にグアリーニに設計依頼した。礼拝堂完成後の1694年から稀に行事に合わせて公開され始め、今年も火災の後に公開され多くの人々が訪れたと聞く。
実物は一枚の布(亜麻)で、サイズは約4.5m x 約1mとかなり大きい。伝承では「死後のキリストを十字架から降ろしこの布で包んでいたところ、なんと布に体の前と後ろが写り込んだ。」となっている。キリストの身体的特徴と十字架に打ちつけられた処刑の跡がくっきりと残っているらしい。
この布を1898年の夏に写真撮影をした者がいる。現像すると目を閉じたヒゲの男がくっきりと浮かび上がり、以来、論争が起こった。1988年には、話題のつきないこの聖骸布の制作年が炭素鑑定で調べられた。すると結果は12世紀以前のものではありえないと出た。大事件である。
しかしイタリア人の中には、外国の研究所は偽物と判定する傾向がある、とか、この炭素鑑定方法自体に問題がある、と言う人がいる。その理由は、聖骸布は1521年に火災に遭いその影響があるから、とか、礼拝堂のロウソクの煙の残留があるから、などだ。論争はまだまだ終わりそうにない。
いずれにしても、どうやって描いたか解らない。ある学者は、エネルギーが布を通過してできたと言う。そう言えば、イエスは死後3日後に蘇ったという話がある。それにしても、12世紀以前の物ではないと鑑定されてもまだ泥棒に狙われている。よっぽど欲しい人がいるのだ・・。

ところで、真偽もそうだが、トリノに辿り着いた経緯も良く分からない。サボイア家の手に入る前も、教会ではなくフランスの貴族が所有していたようだ。
私の知った話を要約すると、イエスは処刑されたゴルゴダの丘で、十字架から降ろされすぐにこの布に包まれた。その後、東ローマ帝国(395年ー1453年)の首都、コンスタンチノープルに保管される。時は流れ1204年、第4回十字軍遠征の時に、この街からヨーロッパに持ち去られた。テンプル騎士団が手に入れたらしい。しかし彼等はドイツを通り、フランスに戻ったところで、1307年告訴され逮捕状が出る。もちろん財産も没収。そこで聖骸布は人手に渡る。この後、足取りが掴めず再び世に姿を現わすのは、1418年。一説では、イギリスのある修道院に保管されていたとも言う。ともかくその後、フランスにてサボイア家が1430年あるいは1452年に入手した。
しかし、どうも話が眉唾だ。テンプル騎士団だ絡んだ事とある時期足取りが掴めなくなるのが怪しい。

もっと眉唾で興味深い話は、聖骸布はレオナルドの制作ではないかと言うものだ。実は先に聖骸布は世界に幾つかあると書いたが、トリノのものよりももっと有名な物がフランスにあった。が、フランス革命(1789ー99)の折に焼けてしまったそうだ。
確かに、晩年のレオナルドはフランスに住んだので本物を見る機会はあったはずだ。そして彼の才能をフルに発揮しコピーした。それがサボイア家に渡り、本物は灰になったのだ。
今となっては比べようもないが、中世の制作と出た炭素鑑定結果の信憑性が増す。それに、サボイア家が入手したと推測される1452年とは、レオナルドの出生年に他ならない。

行き方:Palazzo Realeの左にあり、Porta Nouva 駅から xx settembre通りをずっと歩けば右側にある。ただし、数年に1度程度しか一般公開しない。


*深い意味がある彫刻

Chiesa Gran Madre di Dio 、このお寺は1831年、ナポレオンの占領が終りサボイア家が戻ってくるのを記念に建てられた。場所はポー川を超えた所すぐで、スタイルはネオクラシックで、ローマのパンテオンを模している。この寺の地下埋葬室は、1915年ー1918年の第一次世界大戦での戦死者の納骨堂に使われ、トリノ人5千人にものぼる犠牲者の遺物を納めている。
ここの正面大階段両脇にCarlo Chelli 作の二つの彫刻がある。この二つの彫刻は女性像で、各部に色んな象徴的な図象がちりばめられてある。
まず右側の女性だが、名前は「宗教」と言う。「厳しい目つき」と顔の中には「神の目のある三角形」があり、足下には「教皇冠」が落ちている。そして膝をついた天使が彼女の服の裾にふれながら、「法律台」を差し出す。天使は今は失われてしまった右手で「十字架」を支えていた。
左側の女性の名前は「信仰」。彼女もまた一人の天使に付き添われている。この女性は右手に開いた「本」を持ち、左手で「杯」を「天へ持ち挙げて」いる。
さて、この杯はグラールではないかと言われている。グラールとはイエスが秘蹟を授ける時に使ったとされる聖杯だ。また一説によれば、天使ルチフェロが地獄に落ちる時に落としたエメラルドを彫って作ったものとも言われる。
聖杯探しはアーサー王物語のテーマでもあり、映画「インデイ ジョーンズ」ではジョーンズ博士も探していた。

行き方:Chiesa Gran Madre di Dio、Palazzo Reale の前のPiazza Castello から伸びるvia Po を真直ぐポー川へ歩いて行けば真っ正面に見える。


*サボイア家の格言

Palazzo Reale は堂々とした建物で、サボイア家により1660年に建てられる。これをもってサボイア家はトリノに本拠地を構えたことになる。
この建物には1600年代から1800年代の間のトリノでの重要な芸術家達の作品がある。実際1865年まで、初代イタリア国王となった時もサボイア家はここに住んだ。
さて、この館の装飾に何度も「FERT」の文字が現れる。これはサボイア家の格言だがいろいろな話がある。具体的な意味は知らないが、この奇妙な省略記号はもともと、「緑伯爵」と呼ばれたアメデオ6世(1334-83)の座右の銘だった。緑色の服を着た伯爵。当時緑色の服とは、諸国遍歴の騎士が着る色と決まっていた。つまり緑の騎士。実は「緑の騎士」はアーサー王物語と聖杯探しの象徴だ。
サボイア家の帰国を記念して建てたChiesa Gran Madre di Dioの彫刻が持つグラールといい、この屋敷のサボイア家のモットーといい、「聖杯」で奇妙につながる。つまりサボイア家は聖骸布を手に入れた後、グラール(聖杯)をずっと探していたのではないだろうか?
もともと、聖骸布と聖杯はヨーロッパの各地で交差する。聖骸布の足取りが掴めなくなる1300年代、イギリスの修道院にあったと言われると先に書いたが、この修道院は「聖杯伝説」と強く結びつく。
聖杯伝説とは「キリストが最後の晩餐に用い、アリマテヤのヨセフが十字架上のキリストの血をうけブリタニアにもたらしたという聖杯を、騎士たちが探求する物語。」(広辞苑)となっているが、一般には、いつの時代からかアーサー王物語と聖杯伝説が混ざりあっているとされる。
それにしても、ヨセフは、なぜブリタニアに持って行ったのだろう。ここはケルト人の住処だが、彼等は神話、伝説の類いには事欠かない民族だ。想像するにこの地で、ケルト人の古来からの宝と聖杯が差し換えられ広く伝わったと思える。

ところで、サボイア家はなぜ聖杯を探したのだろう。
映画「インデイ ジョーンズ」の世界とウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を地でいくような話がここトリノで行われたのだろうか。聖棺(聖骸布)、聖杯を地球エネルギーのあるトリノで集める。その結果、数々の風変わりな人物が訪れた。
つまり、一目を避ける「聖杯探し」の性格上、そしてサボイア家の執念を隠すために、ここに書いた話も含めてトリノの数々の不思議なエピソードが生まれたののではないだろうか。


<<古川夫妻のミラノレポート 〜 初めての一人旅(第一部)>>

 もう4、5年前になるが、フィレンツエでホームステイをしていた頃のこと。秋のある日、シチリアへの旅を思いついた。滞在も三ヶ月目になりそろそろイタリア語に耳が慣れたと感じ始めた事もある。幸か不幸かこの時期、大学生は新学期の準備に忙しく、語学学校のクラスメートも数日間さぼってまで旅に出ようというのはいなかった。
 私はその年まで一人旅をしたことがなかった。いつの頃からか「男は一人旅で成長する」という広告のキャッチコピーのような言葉が頭にあり、一人旅には憧れていた。しかしいつも何やら不安がもたげ、実行できずにいた。トイレへ行く時の荷物の心配、一人で食事する味気なさなども想像する。しかしこの時一緒に行ってくれそうなのは誰もいなかった。
 要するに・・、躊躇していた。しかし、今後シチリアへの旅は簡単には実現しそうにないことを冷静に悟ると、今しかないとの考えに至る。「パレルモのミイラ巡礼の旅」はこうしてやっと決まった。


*みーんな泥棒

 夕食後、ホームステイ先の家族に「今晩の夜行でシチリアに発つ」と突然告げた。すると5歳の子供を始めその両親は「どうしたんだ」「何があったんだ」と、私がまるで地の果てに行くかのように驚き、矢継ぎ早に質問した。興奮するイタリア人に反論できるほどの語学力がなかった私は、一方的に攻められる。たじたじしていると、だんなの方は「え、ナポリも行くのか? あーもうだめだ。ナポリ人はみーんな泥棒なんだぞ、知ってるのか?」とも言った。
 「そこまで言うか」と心の中でつぶやきながら、もう出発すると言うと、彼らは珍しく車で駅まで送ってくれた。珍しい。きっと雨が・・いや嵐が来るに違いない。


*予約が必要

 駅に着くとユーレルパスを手にさっそくパレルモ行の夜行寝台列車を目指す。まずパレルモへ行き、そこからゆっくり北上する計画だ。バーリやアルベロベッロへもこの機会に足を延ばしたい。
 早速、2等車を見つけいざ乗り込もうとすると、車掌が驚く早さでやってきて切符を見せろと言う。乗り込む前から厳しいチェックだ。でもこんな事は初めてだ。するとなんと「予約がないと夜行寝台車は乗れない」と言うではないか。パスを握り締め焦る私に「もう出発するよ」とたたみ掛ける。
 結局、この晩はすごすごと家に帰るはめになってしまった。ホームステイ先家族の大笑いネタになったのは言うまでもない。


*気持ちを改めローマへ

「幸先悪し」と思いながらもめげずに南下の行程に変え、明朝ローマへ発つことに決める。この時、しっかり時刻表を調べなかった事を反省したが、このおかげで以後、時刻表は細かく見る習慣が付いた。
 次の日、列車は順調に進みテルミニ駅に降り立つ。すっかりフィレンツエの田舎気分に慣れていたので、久しぶりのローマのその雰囲気とあまりの人の多さに驚いた。
 ローマでは、以前から行きたかったハドリアヌス帝の別荘を目指す。ここは磯崎新と篠山紀信の写真集「逸楽と憂愁のローマ」に詳しい。広大なローマ帝国各地の思い出の風景をハドリアヌス帝自らが指揮し、この地に具現化したものだ。別荘と言っても大会議室、裁判所、病院、浴場などがあり、今は屋根も壁もほとんど崩れ、庭園のような敷地の中で廃虚として残っている。
 入り口で小学生の遠足と一緒になり賑やかだったが、雑草が生い茂る広い敷地の中は静かだった。夢中になって歩き回っているとあっという間に夕暮れになる。ふとすぐ近くで熱心に写真を撮っている奴がいることに気がつく。どちらからともなく声をかけたが、彼は一人旅のフランス人だった。私たちはスムーズにコミュニケーションできる共通の言葉がないので、ぽつぽつと話した。


*バスを逃す

 まだもう少し見て歩きたかった私は彼と別れた。そして太陽がすっかり傾き、遠くの見分けがつかなくなった頃、係員に追い出されるようにして庭園を出た。
 ゆるい下り坂を庭園の余韻に浸りながら夢見心地にふらふらとバス停に向かう。すると、すでに直通の最終バスは出発した後だった。あらら。ハドリアヌス帝の別荘にすっかり魅せられ帰りのことを考えるのを忘れていた。急に現実に引き戻されどうしようか思案していると、さっきのフランス人がやってきた。彼もローマへの帰り方が分からないと言う。「うららー」(とフランス人はよく言う)彼ものんき者だ。二人で沿道の人に聞きまくり、ローマまでの帰路につく。なんとかなるものだ。
 それにしても一人旅同士は話すきっかけが多いのだと気がつく。


*暴力バー

 ローマでのある晩。ホテルへと帰る道すがら交差点で信号待ちをしていると、突然小汚いおじさんが声をかけてきた。驚いた。彼は英語で「イタリア人かと思ったぜ」と言いながら、遠慮なく話しかけてくる。イギリスから昨日着いたばかりのイギリス人だと名乗り、ホテルへの道に迷ったと言う。ぼろぼろのホテルのパンフレットを持ち、この近くのはずだから一緒に探してくれと強引に言う。そのパンフレットを見ると、なんとそこからほんの十メートルほどの脇道が目指す通りだと分かった。それを彼に説明しても、とにかく角まで一緒に来てくれと聞き分けない。私は通りが見えてるのに「世話が焼けるやっちゃなあ」と思いながらも、近いこともあり一緒に行ってやった。 すると、彼は喜びお礼に一杯おごるからビールでも飲もうと言う。ホテルの横にバーがあるらしい。彼の指さす方向を見ると、やけに暗い通りの遠ーくにぽつんと明かりが灯っている。それにしてもどうも気乗りがしない。第一、お礼のほどもないのでさっさと別れることにした。さよならを言って彼に背を向け歩きだす。と、すぐ近くの暗やみの中で、私たちの動きに合わせて数人が隠れるように立っているのが目に入った。ここでやっとおかしいことに気づいた。罠だったのだ。
 後日友人に確かめてみると、なんのことはない昔からある有名な暴力バーの客引きの手口であった。私が知らなかっただけなのだ。バーで一杯でも飲もうものなら驚く金額を請求されるそうだ。
 これも一人旅ならではの出来事なのだろうか。あーそれにしてもひっかからなくてよかった。面白いことにその数ヶ月後、同じ交差点を通ったので注意して見るとやはりそのおじさんは居た。隅のほうに腰かけ、新たな鴨を狙っていた。
 一人旅は鴨になりやすいかもしれない。


*パエスツーム 、雨のギリシア神殿

 先日のフランス人との別れ際、「古代建築に興味があるなら、パエスツームのギリシア神殿を一緒に見に行こう」と誘われていた。やってくる話には警戒しろというのが私のこれまでの旅の教訓なので、その時行く気はなかったが、その後で気が変わった。というのも、パエスツームのギリシャ神殿はもともとノーマークだったが、調べると十分行く価値のある場所だと分かったのだ。そして古代建築を見に行ってまで悪企みをする奴もいないだろうと思い直し、一緒に行くことにしたのだ。
 でも、一番の理由はすでに一人で黙っているのに飽きた事だったのかもしれない。
 あいにくこの日は曇りだった。どんよりとした空を見ると今一つ気持ちが乗らなかったが、パエスツームを見た後、ナポリに泊まることを決めホテルを引き払う。
 列車は快調に進んだが、南へ行くにしたがい雲は厚くなり、雨は降ったり止んだりを繰り返した。小さなパエスツームの駅から、神殿まで暖かい雨に濡れながら歩いた。二人とも傘を持たずに来たので、すぐずぶ濡れになり、悪態をつきながら歩いていると突然神殿が見え驚いた。後で分かるのだがシチリアのアグリジェントの神殿よりここの方がずっと雰囲気が良いし、形もより原形を留めている。ほんとに雨だけが残念で、十分に写真を撮れなかった事が悔やまれる。


*ナポリへ

 「服さえ濡れていなかったら俺もナポリに泊まるのに」としきりに言う例のフランス人とナポリで別れた。結局彼はちょっと得体の知れないところがあったものの、悪いやつではなかった。よかったよかった。
 さて、雨の中初めて降り立ったナポリの駅前は、すでに夕暮れどきの雰囲気が漂っている。しかし歩くにつれ人気の少ない駅前広場の異様な風景がはっきりとしてくる。ドラム缶のたき火を囲んだ鋭い目つきの男達がたむろしているのだ。見渡すとそんなドラム缶はいくつもあり、広場には街灯の少ない暗い通りがぽっかりと口を開けている。スラム街の真ん中に降り立ったかと錯覚するほどの光景が広がっていた。
 これがナポリか。「ナポリを見て死ね」の降り注ぐ太陽、青い海、緑の島々のイメージはそこにはなく、地震の傷跡がいまだに深く残り、犯罪組織カモッラの街がある。私は急に心細くなり、下調べもしてなかったのでおのずとホテル探しの範囲も限られ、駅近くの目についたホテルに宿をとる。
 駅前は危険がいっぱいなのに、旅慣れない観光客は駅近くに泊まる羽目になる道理が分かった。例え一人旅でも新しい街にはせめて午前中には着かねばならない事を悟る。
 すっかり暗くなった頃、ナポリと言えばピッツアだとばかり、心細いくせに食い意地の張った私は街をうろつく。が、目ぼしい店はなく、しかたなくパニーノをかじる事に。ホテルの部屋の、青白い蛍光灯の下で体を投げ出し横になると、雨に濡れひどく疲れていたためか物事を良くない方向へ考えへ始めた。ドラム缶のたき火男達が不気味に思え、大通りをはずれると極端に暗くなる街にも慣れず、一人旅の心細さだけが募ってくる。寝転びながらぱらぱらとガイドブックを見ていると、「ポンペイはナポリと比べると安心」と書いてあるのが目に飛び込んだ。よしポンペイへ行こうとすぐ決めた。
 結局ナポリでは、夜の嫌な気分で狭い範囲をうろついただけとなり、私のナポリのイメージは、オレンジ色の街灯に浮かび上がるどす黒い街になってしまった。考古学博物館さえ行ってない。ぜひもう一度行かねば。


*ポンペイ

 雨上がりの明るく晴れた次の日の朝、むせるような湿気がある私鉄でポンペイへ向かう。沿線沿いに立ち並ぶバラックに驚き、車両に現れる乞食の多さにも驚いた。この乞食達は入れ替わりやって来るのだが、自分がどういう境遇かとその理由を詳しく大声で説明した後に、金を貰いに車両の中を回る。駅と駅の間隔も広いので説明にも力がこもるようだ。この口上の節が、もの悲しげな調子でひとつの旋律に聞こえる。車内は込み、うじゃうじゃいるナポリ人たちに囲まれ必要以上に緊張しながらも、この乞食タイプはミラノやフィレンツエでは滅多にないなとぼんやり考える。例えばミラノではたいがい小声でつぶやきながら手を出し、声を張り上げ乞うのはジプシーがほとんどだからだ。


*ついに風邪をひく

 もともと、風邪気味だったのにポンペイの遺跡内で張り切り歩きすぎたのか、ホテルでついに2日ほど寝込んでしまった。解熱剤は持参していたので熱はすぐに引いたが、のどが痛いので外出をあきらめ部屋で寝ることにする。するとケンカらしき声で起きた。ナポリ弁は分からないのだが、どうやらこの5部屋ばかりのホテルを切り盛りしている太った女将と目立たない旦那と普通の息子は仲が悪いらしい。
ケンカのせいか、一日目はシーツを替えに来なかった。二日目やっと女将がやってくるが、私を発見するなり「何してるの?」と驚いた顔を見せる。私はまだのどが痛かったのでタオルをクビに巻いていた。彼女にはそれが可笑しかったらしく、私の風邪をひいたという話を最後まで聞くか聞かないうちに、ほんとに腹を抱えて笑いだした。おまけに大声で息子まで呼び、二人で私を指さしながらしばらく笑った。タオルを首に巻いた東洋人を初めて見たのかもしれない。いい機会だとばかりに女将に風邪薬はないかと尋ねると、急に真面目な顔に戻りあっさり「ない」の一言。そして二人はシーツも替えずにさっさと行ってしまった。部屋は急に静かになった。
 それでもその晩、体調も回復してきて空腹を覚えた。女将からうまいピッツア屋を教えてもらい食べたが今までのピッツア観が変わるほど美味かった。ふと「気が滅入っていても、美味いものを食えば立ち直れる」と思った。私の料理好きはこの時の味への驚きによる。


*小さなごまかし

 ところで、このポンペイは何かと信用できなかった。ガイドには安心と書いてあったが、時代は変わるのだ。店では、ことごとく隙あらば金額や釣り銭をごまかそうする。ミネラルウオーター、フィルム、食事代までもだ。安いトラットリアで食べた時の事。おやじとその15才にもならない息子がカメリエーレをしていた。息子に勘定を頼むと、パン代の他に10%のサービス料がついている。こんなぼろい食堂でそれはないと思いながらも、ちょうどやって来たおやじの方に代金を渡すと、なんとおやじは息子に怒りだした。ほかの客もいたがおかまいなしだ。ドラマのようだ。「うちはサービス料なんかとってないんだ!」息子「俺は料理を運んだ。サービスじゃないか!」 親父に怒られた息子はしばらくして折れ、決着が着いたが、そのすぐ後、息子は悪びれた様子も見せずに釣りを持ってきた。私はその彼の表情にみじんも反省の色がないのに驚き、そしてこんな町に長くは居れないとも感じ、次の日すぐにパレルモへと発った。

( 第二部「パレルモへ」に続く