昨年11月から連載している「イタリア子連れ遊学顛末記」。今回は、テレビも洗濯機もない、という思わぬ暮らしで気付いた、いくつかのことをまとめてみました。電化製品のない生活に、最初は親子共々戸惑うばかりでしたが、慣れて来るとそれも思ったほど不自由なものではなく、このことがきっかけで現在の生活の「矛盾」にも気付いたように思います・・。
皆様のご意見、ご感想なども、ぜひお聞かせください。お待ちしております。
私たち親子のトスカーナ暮らしは、こんなのどかな生活もあったんだ、と感動するくらい心地よく楽しいものでした。しかし、困ったこともなかったわけではありません。私たちが暮らしたアパートには、なんと電化製品らしい電化製品がほとんど存在していなかったのです。さすがに冷蔵庫だけはありましたが(といっても、昔懐かしいワンドアのもの)、洗濯機も掃除機もクーラーも、テレビさえ見当たりませんでした。
イタリアの古いパラッツォは石造りで天井も高いため、外はどれだけ暑くても中は意外と涼しく、クーラーがなくてもそれほど不快ではありませんし、掃除機もほうきとモップで代用することができます。でも、洗濯機がないとは・・、私はもう面食らうばかりでした。
高度成長期に生まれ育った私の場合、物心ついた時から家には洗濯機がありましたし、汚れ物が出ればそのまま洗濯機にほうり込んでスイッチを入れればそれでいいと思い込んでいましたから、それまでは洗濯機がない暮らしなんて考えたこともありませんでした。しかし、戸惑っている間にも洗濯物は山積みになっていくし・・、残された方法は、もう手洗いのみ!
早速、スーパーに出かけ、たらいを探しましたが、そんなものはどこにもありません。いくら小さな田舎街とは言え、今時、洗濯機のない家なんてまず存在しませんし、たまたまうちの場合は、本来はバカンスなど短期滞在者用のアパートを半年間も借りることになったために、運悪くこんなことになってしまっただけでしたから。
結局、私は小さな洗面器と手洗い用の洗剤を買って帰り、とりあえずバスルームの洗面台で一枚一枚洗い始めましたが、かごいっぱいの汚れ物はなかなか減ってゆかず、そのうちに手までふやけてきます。うんざりして顔を上げ、ふとあたりを見回すと・・、目に付いたのはバスタブ。そうか、これを使わない手はない。この際、衛生かどうかよりも、楽かどうかだ! とばかり、私はすぐにバスタブに水を張り、その中に洗剤と残りの汚れ物を突っ込んで、洗濯をすることにしました。染みや泥がついたところはつまみ洗いし、後はおおざっぱに布をこすりあわて、最後に流水でささっと洗うだけ。本当に綺麗になっているかどうか多少不安はありましたが、とにかくそれで「完了」としたのです。
バスタオルやシーツの脱水はなかなか大変で、何度やってもぽたぽた水が垂れるばかりでしたが、それまま干してもトスカーナの強い日差しのお陰でちゃんと乾き、しわもきちんと伸ばして干しさえすれば、それほど気になりませんでした。というより、この際、もう気にしないことに決めたのでした。
こうして、私は半年間、洗濯機のないまま過ごしました。最初は手洗いをするのは面倒で、うんざりしていましたが、慣れて来るとそれほどでもなくなり、ほぼ2日に1回のペースで手洗いを続けていました。
ただ、少しでも洗濯物を減らして楽をしようと自分なりにルールを決め、直接身につけるものは毎回着替えるが、そうでないものは特に汚れが目立たなければ2、3回着てから、また濡れたバスタオルもそのまま乾かして2度は使うことに。また、シーツ類は2週間おきに交換し、今週は息子のもの、来週は私のもの、と交替で洗っていました。
正直なところ、こんな生活に最初はなんとなく不潔感を感じていたのですが、だんだん衛生観念が麻痺していったのか、そのうちに気にならなくなりました。別に病気にもならなかったし、これで十分ではないかと思うようになったのです。
そう、ちょっと使っただけで洗濯し、それが衛生的であるかのように思うこと自体が変なのではないでしょうか・・。もちろん、その時々で状況は違ってきますが、何もかも一緒に考えてそこまで神経質になる必要が本当にあるのだろうか、と、私は日本での生活を思い出す度に考えていました。
これは帰国してから読んだある雑誌に紹介されていたのですが、さまざまな電化製品が家庭の中に入り込んで家事はずいぶん楽になっていると言われているのに対し、人間の価値観そのものが変わってきているから一概にそうとは言えない、例えば、洗濯や掃除ならより綺麗にいつも清潔に、料理ならより美味しくいつも新鮮なものを、と要求の度合いもあがっているから、結局、家事は楽にはなっていない、とする意見があるのだそうです。
確かに一理あると思います。綺麗なのも美味しいのも、もちろん歓迎すべきことではあるけれど、「よりよく」はまだしも、それが「いつも」となると、やはりちょっと行き過ぎ! ほどほどが一番、メリハリが大事だと思うのです。
本当にそれが人間の暮らしに必要なことなのか、このあたりでちょっと立ち止まって考え直してみるのも悪くない、と今、私は感じています。
実は、テレビに関しても、私は同じようなことを考えていました。東京にいる時は、当たり前のように毎日テレビを点け、見ていようが見ていまいが、とにかく寝るまでスイッチを入れっぱなしでした。画面にニュース番組が映っているのに、新聞を読んでいたことも何度となくあったし、それほど面白いわけでもないのにだらだらテレビの前に座り、夜更かしをしてしまうこともよくありました。
そんな生活に慣れていたから、アパートにテレビがないと分かってからは、いつもなんだか物足りなさを感じ、後日、偶然、物置で埃だらけの古いテレビを発見したときには、慶び勇んで部屋に運びこんだりもしたのですが、いざスイッチを入れてみると、聞こえて来るのは早口のイタリア語ばかり・・。何を言っているのかよくわからず、とりあえず映像を見て内容を想像するだけで、結局、私も息子もほとんどスイッチを入れなくなってしまいました。
留学生活が3ヶ月ほど過ぎ、なんとか日常会話に不自由しなくなった頃、たまにスイッチを入れてニュースやドラマ、映画を見たりもしましたが、以前のように、そのままだらだらとテレビの前に座り続けることはなく、見終わったらさっさとスイッチを消して、他のことを始めるのがいつのまにか習慣になっていました。
空いた時間、私たち親子は絵を描いたり、本を読んだり、ゲームをしたりして過ごしていました。カレンダーの裏を使って「モンテプルチアーノめぐり」と名づけた双六を作ったり、画用紙を切って絵合わせのカードを作ってみたり、旅行代理店でもらってきたカラーパンフレットを細かく千切って貼り絵にしたり、しなびた野菜の切り口に絵の具をつけスタンプ代わりにして遊んだり。日本から持っていった数少ない絵本を繰り返し読み、イタリアの絵本を使って息子に簡単な言葉を教えたこともあれば、私が辞書を引きながらあせって宿題をしている横で、息子も自ら「勉強」と称し、自分の名前や覚えたてのイタリア語をアルファベットで書く練習をすることもありました。
それは本当に穏やかで心豊かな時間だったように思います。テレビという「物」に支配されるのではなく、何を選ぶか、それをどう進めるか、考え決めるのは「自分」だけなのですから。
東京に戻ってから、ふと気付くと、私はいつも「時間がない。忙しい」と呟くようになっていました。でも、考えてみると、ここには洗濯機も掃除機もあるのだから、イタリアにいた時よりは家事に時間がかからなくなっているはず。変わったことと言えば、新聞を念入りに読むようになったことと子どもの送り迎えの手間くらいなのです・・。
「犯人」はテレビでした。帰国した途端に、私も息子も、また、すぐテレビのスイッチを入れるようになり、何をするでもなくぼーっとテレビの前に座っては時間を無駄に過ごするようになっていたのです。
夫と相談した結果、ショック療法ということで思い切ってテレビのケーブルを引っこ抜き、息子には「壊れて映らなくなった」と告げて、再びテレビ無しの生活を始めてみました。息子は、最初不満気でテレビを点けたり消したり、時々たたいてみたりしていましたが、そのうちあきらめたのか、何も言わなくなりました。そしてそのまま数週間たち・・、以前のような生活を取り戻したところで、とりあえずテレビのケーブルを接続。でも、結局、それから私も息子もほとんどテレビはつけなくなり、たまに見たい番組があれば、その時間にスイッチを入れるかビデオに録画し、見終わったらすぐに消すのがルールのようになっています。
それにしても、興味を持てるテレビ番組の少ないことといったら・・! おまけに、最初は期待して見ていたものの、制作側の思惑が見え見えでうんざりしたり、あまりにも安易な作り方に怒りを感じて、スイッチを切ることもしばしばで、私も夫もすっかりテレビ嫌いになってしまいました。息子も、テレビが見たいというのは、流行のポケモンと大好きなウルトラマンシリーズの放送くらいです。
ニュースは新聞や雑誌で十分、BGMならラジオ。それで、今のところ特に不自由はありませんし、かえって心地よく暮らせるようになったと思っています。テレビなんてもういらない!!
今回は、トスカーナの古都ルッカで起こった、なんとも素敵なエピソードをご紹介します。主役は我が息子、舞台はルッカのランドマーク的存在のグリニージの塔です。
帰国を2週間後に控え、私たち親子は、同じ学校に通っていた日本人留学生ノリコと共に、最後の小旅行に出かけました。モンテプルチアーノからフィレンツエを経由してコローディ村のピノキオ公園に出かけ、夕方ルッカに入って光祭りを見学。ピサで宿泊した後、再びルッカに戻って街歩きを楽しむ、というのが予定していたルートです。1日目は、バスが時間通りに来なかった以外にこれといった問題もなく過ごした私たち(こんなことは日常茶飯事で、全く驚かなくなっていました)。しかし、2日目の朝、ルッカ観光の手始めにと出かけたグリニージの塔で『事件』が起こりました。塔の上からルッカの街並みを眺めていた息子が、ふとしたはずみに帽子を飛ばしてしまったのです!
実は、この帽子は、息子の思い出がつまった大切なものでした。イタリア滞在中、私たち親子は週末を利用して、よく日帰りの小旅行に出かけていましたが、その先々で買っていたのが、街の紋章が入ったピンバッチでした。1個300円程度と値段も手ごろだし、小さくて軽いし、これは何よりいい記念になる、とどこに行ってもまず最初にピンバッチを探していたり私たち。息子は、それを自分の帽子に飾り、少しずつ数が増えてゆくのをとても楽しみにしていました。
帰国前には、ピンバッチは10個以上になり、その全てがまばゆいばかりに息子の帽子に輝いていたというのに・・、大切な帽子はあっけなく風に飛ばされて、グリニージの塔の目の前にある古いパラッツォの屋根にひっかかってしまったのです。
帽子が飛んだことに気付いた息子は、もう大泣き! どんなに慰めても泣き止みません。値段こそ知れたものですが、あの帽子にはこの半年の思い出がたっぷりつまっていて、彼にとってはもちろん、私にとっても、かけがえのないものだったからです。私はどうやって息子を慰めていいかわからず、とりあえず二人で神様にお祈りをすることに。息子は、目にいっぱい涙をためて「僕の帽子を返してください。お願いします。いい子にしますから・・」と、いつまでもじっと目を閉じていました。
息子の気持ちがわかるだけに、私もなんとかしたいとあれこれ方法を考えたのですが、帽子が落ちたパラッツォはどうも空き家になっているらしく、ドアも窓も固く閉ざされたまま。向かいの建物の窓から棒か何かでひっかけるにしても、落ちたところが屋根の奥のほうで、しかも樋に絡み付くようになっているため、とても取れそうには思えませんでした。万事休す、もうあきらめるよりほかありません・・。
いつまでも泣き続ける息子を、ノリコが懸命に慰めてくれて、なんとかグリニージの塔は降りたものの、私たちはなんだか急にがっくりきてしまって、歩く気力さえなくなっていました。
とりあえず、同じ通りにある小さなバールに入って休むことにし、軽い食事を取りながら、バールのお兄さんや隣のテーブルのお客さんに事の顛末を話していたところ・・、息子が突然声をあげ、店から走り出して行きました。
「おかあさん、僕の帽子が戻ってきた!!」
なんと、帽子はまたまた風に煽られて空に舞いあがり、そのまま、私たちがいたバールの前に落ちてきたのです。その日、息子の帽子をさらっていった意地悪な風は、息子のあまりの悲しみに心を打たれたのか(?)、急に優しい風になり、私たちに素敵なプレゼントをもたらしてくれたのでした。
バールのなかは拍手喝采。知らない人たちが、にこにこしながら息子に握手を求めてきます。息子はと言えば、得意げにまた帽子をかぶり、最大級の笑顔で拍手に答えていました。
こんな夢のようなことが本当に起こるなんて・・!
私たちはこの出来事を「ルッカの奇跡」と名づけ、すぐにドゥオーモに深々と頭を下げたのでした。
息子は、今でも数々のピンバッチを見るたびに、この時の話をします。「いい子になるって約束したよね」という私のセリフは聞こえない振りをしながら・・。
トスカーナを歩く(5) ルッカへ
トスカーナを歩く(6)ルッカの光祭りへ
ここ十年程前から、ドイツでは「トスカーナ」が一種のブームのようになっているそうです。ヨーロッパ中の人たちがトスカーナに家を持つことに憧れている、というのはずいぶん前から言われていることですが、特にドイツではこの傾向が顕著で、実際に観光客の数も増えているし、中には古い農家を買いとってセカンドハウスにする人も少なからずいるとか。モンテプルチアーノを訪れるバカンス客も大半はドイツ人、そして私が通った「IL SASSO」でも学生の7割近くはドイツ人でした。
なぜ彼らがそんなにもトスカーナに惹かれるのか、正確なところはよくわかりませんが、彼らには、イタリア=太陽がさんさんと照り付ける明るい南の国、というイメージが強いようで、特にトスカーナ人たちのゆったりした暮らしぶりや豊かな食生活には、大きな憧れを持っているようでした。
ところが、彼らを受け入れる側の人たちはと言うと・・、どうも視線が冷ややかなのです。ドイツ人はこの街を経済的に潤してくれるであろう大切なお客様のはずなのに、彼らに対する態度はなんだかそっけなく、もろ手を挙げて歓迎する、という感じではないのです。
もちろん、あからさまに嫌なそぶりを見せるようなことはないし、トラブルに発展するようなケースもほとんどありませんが、街を闊歩するドイツ人の姿を横目で見ながら「全くドイツ人ときたら・・」と口にする地元の人たちを、私は何度となく見かけました。
モンテプルチアーノの人たちの言い分はこうです。
「ドイツ人はケチだから、余計なお金は一切使わない。見ててごらん、お土産なんてほとんど買わないから。」
「こんな小さな街に、大きな車で乗りつけて、ぶっ飛ばして行くんだから。メルセデス(ベンツ)なんてここには似合わないのに。」
「全く、どこに行ってもドイツ語が通じると思っている。ここはイタリアだよ。」
「こんな坂道を自転車で必死にのぼってゆくなんて・・。あんなことをするのはドイツ人だけだ、バカみたい。」
「こんなところまで、大きな犬を連れてやってきて。危ないし、迷惑じゃないか! (実際に、なぜかドイツ人はバカンス先にもペットを連れてくる人が多く、それが決まって大型犬ばかり)」
「ドイツ人は仕事ばっかりしてるくせに、イタリア人をバカにしている。」
「よくあんなひどい格好で街を歩けるもんだ! もう、センスが悪いったら。」
納得できることもあれば、ほとんど言いがかりに近い、と思うこともあるのですが、どうやら彼らの頭の中では、ドイツ人に対する否定的なイメージがあるようで、数人で噂話をしているうちにだんだん感情的になってしまうこともよくありました。
実は、イタリア語のレッスンでもこんなことが・・。その時のクラスは、珍しくドイツ人学生がいなかったのですが、服装や行動に関する各国の文化比較になったとき、誰かが「ドイツ人とイタリア人はパッとみるだけですぐ見分けがつく」と言い出したのです。
私が不思議そうな顔をしていると、クラスメイトたちは口々に説明を始め、そのうちにどんどん話がエスカレート! 話の展開はこんな感じでした。
・ガラス玉のような青い目で、背が高く、金髪なのはたいていドイツ人、イタリア人は背が低く、目や髪の色も黒や茶色の人が多い。
・バミューダパンツにTシャツ姿で、サンダルを履いているのは、まず間違いなくドイツ人。真夏でもアイロンのかかったシャツと長ズボンを身につけ、ちゃんとした靴を履いているのはイタリア人、彼らはたとえ日差しが強くなくても、決ったようにサングラスをかけている。イタリア人は見てくれが全てで、オシャレには細心の注意を払うべきだと思っているし、実際にそれを実行している。
・広場や教会前の石段に座って熱心にガイドブックを読んでいるのはドイツ人、広場や通りで誰かと延々と立ち話をしているのはイタリア人。イタリア人は車を運転しているときでも、知り合いを見つけると、後ろに車が続いていようが全く気にもかけず、その場で車を止めて挨拶しようとする。
・バールのテーブルに座って小さな字で絵葉書にぎっしり何か書き記しているのはドイツ人。何枚も絵葉書を書いてはいるが、そこに書く文句は「チャオ」か「サルーテ(お元気で)」のたった一言と自分の名前だけなのがイタリア人・・。
なるほど、言われてみると、確かに思い当たる節があります! もちろん個人差があるわけだから、こんな風にステレオタイプにはめ込むのは良いことではないのですが、この話はドイツ人とイタリア人の特徴をよく言い表していて、なかなか笑えました。
この話が出てから数日後、私は先生の一人アントネッラにある質問を投げかけてみました。彼女は、ベルリンに5年ほど留学した経験を持っていて、ドイツ語も堪能だし、ドイツ人の暮らしぶりもメンタリティもよく知っています。彼女なら客観的な判断ができると思ったのでした。
「イタリア人は、ドイツ人をどんな風に見ているの? 彼らに対してどう思っているの?」
「ドイツはヨーロッパでは一番の強国よ。イタリアはドイツに比べれば小さいし、経済的にも遅れをとっているわ。それはイタリア人もよくわかってる。でも、それを認めたくない、というか、半分やっかみのような感情があるのは確かだと思う。イタリア人は、イタリアが世界で一番素晴らしい国だと思っているの。ドイツ人のような暮らしはしたくない、と。」
「なるほどね・・。でも、アントネッラはドイツに5年もいたのに、どうしてイタリアに帰って来たの? ドイツの暮らしとイタリアの暮らしは何がどう違うの?」
「ベルリンは大都会だから、最初は刺激的でとても楽しかった。友達もたくさんいたし。でも、ドイツの暮らしには疲れる部分も多かった。みんな仕事が第一で、いつも仕事、仕事、仕事、ちょっと休んで、また仕事、仕事、仕事・・。イタリアのように、買い物に行って、店の人に挨拶をしたり、立ち話をしたりするようなことなんてほとんどない。人間関係がイタリアよりずっと希薄な気がして、寂しさも感じてた。帰国を決めた直接のきっかけは急に父が亡くなったからだけど、いろいろ考えて、私はやっぱりイタリアで暮らしたいと思ったの。ドイツの暮らしは、もういい、と。」
イタリア人とドイツ人のメンタリティの違いを思うたびに、私は、日本人とイタリア人のことを考えていました。 私たち日本人とドイツ人には、共通する部分もあると感じたからです。
仕事中心の忙しい暮らし、年々希薄になってゆく人間関係。合理性や効率性が追い求められた結果、昔ながらの伝統や習慣が徐々に姿を消し、ストレスの多い社会が出来上がった。経済的にはある程度豊かでも、みんな何か満ち足りないものを感じている・・。
それを思うと、私には、ドイツ人がイタリアの暮らしに憧れる気持ちがなんとなく理解できる気がして、イタリア人が、もしくは他のヨーロッパの人たちが、ドイツ人のことを否定的なニュアンスで話す度に、まるで自分たちのことを言われているようで、どきっとしていました。
一般的イタリア人にとって、日本はまだまだ「遠い国」だから、彼らがドイツ人を評するような感じで、日本人を評することはまだそれほど多くないように思います。少なくてもモンテプルチアーノでは、親切にされることはあっても、日本人は・・、と否定的なニュアンスで言われた経験は全くありませんでした。
しかし、やがてこの街にも大勢の日本人が押しかけ、彼らが、日本のことを、日本人の実態をよく知るようになったら、事情は変わってくるのではないだろうか、という気がしています。
ローマやフィレンツエで何度か味わった、金持ち日本人への冷たい視線や鬱陶しそうに接する態度を思い出すたびに、もしかしたら、いつかモンテプルチアーノでも・・、と複雑な心境になるのです。
語学学校「IL SASSO」では、クラスメイトのほとんどがヨーロッパ出身者ということもあって、よくヨーロッパ各国の文化比較が話題になりました。食生活や流行といった軽い話から、失業問題や環境問題などの難しい問題まで、様々なテーマで話が進められていきましたが、あるとき、どの国でバカンスを過ごしたいか、ということが話題になりました。そこで、驚くべきコメントが飛び出したのです・・。
バカンスに行きたい先は、まず、フランス、スペイン、ポルトガルといった、彼らにとっては身近な国から始まりました。次いで、バリ島やキューバ、中国など、エキゾチックなイメージの強い国が挙げられ、みんなお互いの意見にうなずきながら、和やかな雰囲気で話が続いていました。しばらくして、今度はある若いクラスメイトが「ニューヨークに行ってみたい」と発言すると、いきなり周囲から失笑がもれ、こんな発言が出てきたのです。
「アメリカなんかに行って、どうするの? あの国にあるのはコカコーラとハンバーガーだけ、見るべきものは何もないわよ!」
「そうそう・・、アメリカなんかに行っても仕方ないわ。アメリカには文化なんてないもの・・!」
私は唖然としました。いくらアメリカはヨーロッパに比べて歴史が浅いとは言え、コーラとハンバーガーしかないというのはあまりにも大袈裟だし、偏見に満ちた発言です。あまりにも失礼な言い方ではないか、と思ったのです。
ところが、誰もそれをいさめようとしません。それどころか、これをきっかけに次々とアメリカに対して否定的な意見が出始め、どんどんエスカレートしていきました。
・経済的に発展しているというだけで、世界を支配しているような偉そうな顔をしているのは我慢できない
・どうして、アメリカがヨーロッパのことに口を出さなければならないのか。
・アメリカは、どんどん物を作って、それを外国に売り付ければいいと思っている、世界中にコーラとハンバーガーを押し付ける気だ。
・ヨーロッパに、これ以上、アメリカのものが入り込んで来るのは、とても我慢できない。
それは、イタリア人とドイツ人の特徴を比較をした時とは、比べ物にならないほどの激しさでした。あの時は、みんな「調子に乗って、面白おかしくコメントしている」ということを自覚していたようですし、どこか「言葉遊び」に近い雰囲気がありました。言わば、同じサークルの仲間が、その中の対照的な性格の二人を取り上げて批評するようなもので、だから、両者の欠点をあげながらも、ある程度は相手のことを認めていました。
しかし、今回は頭っから相手を否定し、非難しています。もっと言えば、どこか相手を見下している雰囲気があることを、私ははっきりと感じていました。ヨーロッパから見たアメリカはまさに「成り上がり者」であり、歴史も伝統もないくせに偉そうな顔でのさばっている厚かましい奴、という感じだったのです。
私は、しばらく黙って彼らの話を聞いていたのだが、ついにたまらなくなって思わず言い返しました。
「アメリカに行ったことがあるの? アメリカのことをどれだけ知ってるの? よく知りもしないくせに、どうしてそんなことが言えるの? 私は、別にアメリカが好きなわけでもないし、特に興味を持っているわけではないけれど、そんな言い方をするなんて信じられない」
いきなり反論を始めた私を見て、彼らはきょとんとしていました。何をそんなに怒っているのかよくわからない、とでも言うように、不思議そうな顔をしていました。そして、教室は、なんとも言えない居心地の悪い雰囲気に包まれ、そのまま、話は途切れてしまったのでした。
「アメリカには文化がない」という強烈な一言は、その後、いつまでも私の脳裏にこびりついていた。発言の主が、あまりにもさらっとこう言ってのけたことに、私は本当に驚き、これが「ヨーロッパ至上主義」というものなのかも知れない、とちらりと思いました。
また、同時に、私はこんなことも考えていました。いかに日本の生活がアメリカナイズされているか、今の日本の文化がアメリカの影響を受けているかです。
多分、今、日本人が最も身近に感じる外国はアメリカでしょう。経済的なつながりの深さはもちろんのこと、食生活や音楽、ファッションなど、随所にアメリカの影響が見られますし、日本で暮らしていても、アメリカで起きた様々な出来事は、重大な政治問題から下世話な事件まで、ほぼリアルタイムで伝えられます。 しかし、イタリアに住んでみると、事情は全く違いました。テレビのニュースを見ても、新聞を読んでも、取り上げられる話題はヨーロッパのことばかり。アメリカや日本の国内情勢が伝えられることは、数えるほどでした。たまに、ニュース番組でクリントン大統領の顔写真が映し出されることはありましたが、それはあくまでヨーロッパ、もしくは近隣諸国と何らかの関係がある話題だけ。アメリカで起きた社会事件や事故などのニュースは、よほどのことでなければ取り上げられていませんでした。
もちろん、若者たちの間では、アメリカの音楽が流行り、ハリウッド映画が人気を集め、コーラやハンバーガーも大人気ではありましたが、そんな様子を「どうして、そんなものがいいんだか・・?!」と冷ややかに見つめる人たちは、決して少なくなかったのです。
ヨーロッパの人たちがアメリカのことをどう見ているのか、本当のところはまだよくわかりません。年代や生活環境によっても、見方、考え方は相当異なっているでしょう。しかし、その距離は、地図で見る以上に遠く離れているなぁ、と、私はしみじみ思いました。
イタリアで暮らし始めた直後、食料品店にマヨネーズとケチャップを探しにいって、なかなか見つけられなかったことがあります。日本では、どの店でもごく当たり前のように存在しているものが、イタリアでは、棚の隅に追いやられ、埃をかぶって小さくなっていました。
そうか、マヨネーズもケチャップもアメリカのものだったんだ、この国では馴染みもなければ、必要ともされていないんだ、と気付いたのは、ずっと後のことでした・・。
私が通った語学学校「イル・サッソ」は、モンテプルチアーノの旧市街に建つ古いパラッツォの中にありました。重い木の扉を開いて、そのまままっすぐ階段を上がってゆくと、踊り場の窓の向こうに、トスカーナの雄大な景色が広がり、それは、まさに「絵葉書」のような美しさでした。
私はよくレッスンの合間にここへ来ては、母国語以外の言葉で喋るのはこんなに大変なことなのか、これほどもどかしいものなのか、と何度となく溜息をつきながらぼんやり外を眺めていました。もういいや、とすべて投げ出したくなってしまったとき、そこにいるだけで、ささくれ立った心がほんの少し和らいだからです。「イル・サッソ」でのことを思い出すたびに、私の脳裏には今も鮮やかに、階段の窓からみたあの景色がよみがえってきます。
日本で一通りの文法を学び終えていた私は、いきなり上級クラスからスタートすることになりました。しかし、文法の時間はどうにかなるものの、会話や講読になると全く歯が立ちません。講読のプリントを下読みしながら、知らない単語に赤線を引いていったら、真っ赤になってしまって、辞書を引く気にもなれないし、会話のほうは、仲間に入れないどころか、話がどう展開しているのかさえ理解できなかったのです。
そんな私に、先生方はいつも根気よくつきあってくれ、予習用にとあらかじめプリントを手渡してくれたり、私の言いたいことを察して他のクラスメイトに伝えてくれたしていました。しかし、それがまたなんだか情けなくて、私はいつも焦燥感にかられ、「落ちこぼれ」とはこのことか、と実感してました。
最近のイタリアブームの影響で、ローマやフィレンツエなどの語学学校には日本人学生がたくさんいますが、この学校は生徒の大半がヨーロッパ人。だいたい彼らは、たとえ文法はしらなくても、驚くほどよく喋るのです。文法の練習問題には四苦八苦しているくせに、会話になると意気揚々と話し始め、留まるところを知らず! もちろん、動詞の変化を間違えたり、前置詞や代名詞が抜けていたりすることもあるにはありましたが、少なくとも意志を伝えるということに関してはそれほど不自由はないようで、私のように単語が全く出てこないとか、たとえ出てきても文章にならず単語を羅列しているだけ、というようなことはまずありませんでした。講読でも、私が知らない単語に出会う度に困惑しているのに対し、彼らはそのままどんどん先に読み進んでいきます。正確な意味はわからなくても前後の文章から判断したり、スペルから想像したりして、なんとなく理解できる、というのが彼らのコメントでした・・。
どうして、文法を知らない彼らが、あれほど喋れたり読めたりするのでしょうか? 最初、私は『努力の差』だと真面目に考えていました。だから、その差を埋めるには、できる限り辞書を引き、ひたすら単語を覚えてゆくしかない、と思っていたのです。そして、子どもが寝静まってから、まずその日の復習をし、翌日分の予習をし、と、毎晩のように深夜まで机に向かっていました。
実は、それはそれで心地よかったのです。辞書を引き、ただノートに書き記すだけで、なんだか知識が広がってゆくような気がしていたし、勉強した気になってたから。しかし、そんなのは単なる思い込みでした。いくら、辞書を引いたとしても、それを明確な形で頭に刻みつけることができなければ、なかなか成果には結びつきません。おぼろげな知識だけでは、いざ何か喋ろうと思っても口からは出てこないのでした。
*ついに「爆発」!
その苛立ちがピークに達したのは、確か学校に通い始めて一ヶ月ほどたった頃でした。この学校では、レッスンは二週間単位になっていたため、そのたびにクラスが再編成されて、クラスメイトも少しずつ入れ替わってゆくます。それまで私が属したクラスはわりとのんびりしたムードがあったため、わからないなりにも楽しく、クラスメイトとも仲良くなれたのですが、この時のクラスはちょっと雰囲気が違っていました。みんな相当レベルが高く、私とはかなり実力差があったから、彼らのペースについてゆくのは、それまで以上に大変で、しかも、その時のクラスメイトはかなり自己主張の強い個性的な人が多く、教室はディスカッションになるたびにちょっぴり険悪なムードに包まれていました。そして・・、多分、私自身も少し精神的に疲れていたのでしょう、ある日私は、ついに爆発してしまったのです。
それは、講読の授業の時でした。テキストの内容が理解できず戸惑っている私を見て、クラスメイトの女性がくすりと笑いました。実は、それまでにも何度か同じようなことがあり、その時は自分の力が足りないのだから笑われても仕方ない、と半ばあきらめの心境だったのですが、この時は彼女の態度に過剰反応してしまい、私は傍目にもはっきりわかるくらい不快感を表してしまいました。
さらにその後、各国の文化比較の話になり、その彼女が頭ごなしにある国を否定し、他のクラスメイトもそれに同調するのを聞いて(先月号で紹介した、アメリカの話です!)ついに私は声を荒げてしまったのです。たどたどしいイタリア語で「行ったことも、見たこともないくせに、どうしてそんなことが言えるの? 何を知っているというの?」と。 教室内には、なんともいえない、重く冷たい雰囲気が漂ってしまいました・・。
授業を受け持っていた先生は、よほど私の態度にびっくりしたのか、しばらくしてから、レッスンについて話をしよう、と声をかけてきました。私が、授業についていけないから、イライラしているのだと思う、と自分の気持ちを打ち明けると、彼女は、私のボキャブラリーに問題があることを指摘し、しばらくはボキャブラリーを増やすことだけを考えて、プライベートレッスンを受けてみては、と助言してくれました。
確かに彼女の言うとおりだと私も思いました。でも・・、正直に言うと、その言葉はやはりちょっとショックでした。なんだか『落ちこぼれ』という烙印を押されたようで、悔しく、また悲しかったから。
その後、もう一度、先生を話しあい、結局、私はその翌日から3週間、プライベートを受けることになりました。
プライベートレッスンを受け持ってくれたのは、私が「落ちこぼれた」クラスを担当していた、もう一人の先生でした。たぶん、彼女もこの一週間余りの私の様子を見ていて、何か変だと感じていたのでしょう。私の顔を見るやいなや、こう切り出しました。
「エリ、いったい何が起きたの? どうして、そんなに苛立っているの?」
「私はもう授業についていけそうにないの。もちろん、ついていけない自分が悪いんだから、勉強するしかないとは思っているけど、昼間は子どもの世話もしなければならないから、夜しか勉強する時間がないし。だから、いつも深夜まで机に向かっているけれど、それでも追いつかない。先生たちは、わからない単語があったら文章の前後を読んで想像しなさい、大意が取れればいいんだから、って言うけれど、想像しようとしても私には出来ないの。全く、わからない。だから、ひとつひとつ辞書を引くしかなくて、すごく時間がかかってしまう。それに、辞書を引いてやっと意味がわかっても、すぐには覚えられないから・・。もう、どうしていいかわからない。」
思いの丈をぶちまけているうちに、私の目からは涙があふれ出ていました。黙って私の話を聞いていた彼女は、やがて、私をなだめるように、ゆっくりとこう語ったのです。
「もっと、早く話をすればよかったわね。そんなに授業が難しいと思っていたなら、早く相談してほしかった。途中でクラスを変わったって、別に恥ずかしいことでも何でもないのよ、そんなことはごく普通のこと、みんな何とも思わないわ。それに、無理して勉強したって疲れるだけでしょう? 第一、楽しくないわ。一人で我慢していることのほうが、時間の無駄だと思わない・・? 焦らないで。時間はたっぷりあるのよ。ピアノ・ピアーノ(ゆっくり、ゆっくり)」
心のなかのどんよりした部分をすべて吐露して、やっと私は苦痛から開放されました。ほんとうに彼女の言う通り、こんな気持ちで毎日を過ごしていたら、きっといつかイタリア語が嫌いになっていたに違いありません。それこそ、もったいない話だ、と私は彼女の言葉にうなずくだけでした。
今、考えると、何をあんなにムキになっていたんだろう、と思います。生まれ持ったせっかちな性格のせいか、それとも、自分のわがままを押し通してイタリアまで来たのだから早く成果を出さなければ、と知らず知らずのうちに頑なになっていたのか。まだまだ、イタリア人のような『人生の達人』にはなれそうもない、と、その時、しみじみ思ったのでした。
ところで、個人レッスンが終わった後に所属したグループレッスンのクラスで、こんな出来事がありました。クラスメイトの一人、18歳のフランス人の女の子と親しくなったのですが、たまたま、彼女が隣の席に座っていたある日、授業中に私が、テキストの文章のカギとなる「Crisi(クリージ)=危機」という単語の意味が分からず戸惑っていたら、彼女がそっと耳元でささやいたのです。
「英語だと『 Crisis(クライシス)』よ。意味、わかる? フランス語でも『クリージ』って言うの。イタリア語はフランス語とよく似ているから、知らない単語もだいたい見当がつくの」
それはまさに、目からうろこがおちるような瞬間でした。そうか、みんなアルファベットなんだもの、似てるんだ! フランス語もイタリア語も語源はラテン語なんだから親戚みたいなものだし、だから、知らない単語でも意味が想像が出来るんだ! な〜んだ、そういうことだったのか。それってずるい!!
もちろん、全ての言葉が似通っているわけではありませんが、私たち日本人が、たとえ中国語はわからないとしても、漢字の表記を見ることでなんとなく意味が想像できるのと同じように、どうやら彼らも、単語のつづりを見たり、発音を聞いたりすることによってイメージを広げることができるらしいのです。
それに、だいたいヨーロッパでは、電車に乗っても駅や名所旧跡に行っても、説明書きは英仏独伊の四か国語になっているのが一般的です。自分の身のまわりに、ごく自然な形で外国語があふれているわけだから、日本人よりボキャブラリーが豊かなのは当たり前。そんな簡単なことに、私はやっとこの時気付いたのでした。
このことがあってから、私はあまり焦りを感じなくなりました。スタートからしてこれだけ大きな差があるのだから、彼らにライバル心を燃やしても仕方がない、と思うようになったのです。そして、この際助けてもらうほうが得策である、とばかり、私はしょっちゅうフランス人の彼女をつかまえて、教えてもらっていました。
なかには、どうしてそんなことがわからないのか、とシニカルな表情で私を見る人もいましたが、そんな時は、タイミングを見計らってガツンと一撃をくらわし『復讐』をしました。
「イタリア語の勉強も難しいけど、きっと日本語を勉強するほうがもっと難しいと思うわ。会話はそれほどでもないと思うけれど、読み書きを覚えるのはもう大変。ひらがなとカタカナが五十音ずつあって、さらに漢字まであるのよ。日本人が普段、どれくらいの数の漢字を使っているか知ってる? 二千字よ。しかも、一つの漢字に何通りも読み方があるから、それもみ〜んな覚えなくちゃならないのよ。おまけに敬語は三種類もあって、それぞれ使い肩が違うし・・。外国人が日本語を勉強するのは、相当大変ね!」
ここまで脅かすと、たいていみんな、ほーっと溜息をつき、尊敬のまなざしでこちらを見つめてくれます。それがなんだか可笑しくて、私はよく意識的にこの話をしては、憂さ晴らしをしていました・・。
プライベートレッスンの時に言われた「ピアノ・ピアーノ(ゆっくり、ゆっくり)」という言葉は、今も私の心の支えとなっています。帰国後も、相変わらずイタリア語の勉強を続けているのですが、思うようにはかどらなくて落ち込むたびに、この言葉を思い出し、自分で自分を励ましています。無理をせず、マイペースで。あきらめたら、それですべて終わり、と。
「開放的」といわれるイタリア人の「閉鎖的」な一面について、ご紹介します。
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一般に、イタリア人は陽気で開放的、と言われています。個人差はあるにせよ、確かに、イタリア人は明るくおおらかで、人付き合いもよく、年々人間関係が希薄になっている日本に比べると、まだまだ人と人との関わりが濃厚であるように思います。地域のつながりも強く、近所づきあいも盛んですし、また、見知らぬ人に対しても友好的で、気軽に話しかけてくれますし、困っているときに、知らん顔をされるようなこともあまりありません。 私も、先生方はもちろん、ご近所の人たちにもずいぶんお世話になり、心温まる思い出をたくさん頂きました。こぢんまりとした田舎街だったため、1ヶ月もいればすぐに顔なじみになったせいもあるかもしれませんが、みんな本当に親切で、このモンテプルチアーノで不愉快な思いをしたことは一度としてなかったのです。
でも、ある時こんな話を耳にして、驚いたことがあります。それは、トスカーナの隣にあるウンブリア州の出身で、モンテプルチアーノ出身の男性と結婚し、十年近くこの街に住んでいるという女性の体験談でした。
彼女いわく・・、「イタリア人はアペルト(開放的)だと言われるけれど、本当はそんなことはない、地域によってずいぶん違う。トスカーナ人はプライドが高くて、なかなか本当の部分は見せようとしないし、モンテプルチアーノにもキューゾ(閉鎖的)な部分が頑固に残っている。よそ者はなかなか受け入れてくれないわ。」
さらに、彼女の口からは耳を疑うような話が飛び出してきました。「私は、結婚以来ずっとこの街に何年も住んでいるけれど、夫と一緒に街を歩いている時には、にこやかに挨拶してくれる夫の方の知り合いが、私が一人でいるときには、声をかけてくるどころか、知らん顔をしたりするの。こちらが挨拶しても、無視されることだってある。私は、あくまで、友人の〜さんの妻、というだけであって、私個人を友人として見ているわけじゃないのよね・・。この街のコミュニティには、まだまだ仲間入りできそうにない。」
いつも冷静な彼女は、それに怒るでもなく、落ち込むでもなく、淡々と話してくれましたが、私は、この街の人たちの知られざる一面を垣間見たようで、本当にびっくりしたのでした。
この話を聞いて、ふと思い出したことがあります。ミラノ出身の人はミラネーゼ、ローマ出身の人はロマーノと呼ばれるように、ここモンテプルチアーノでは、地元出身の人のことを「ポリツィアーノ」と称しますが、(ポリツィアーノとは、この街で生まれたルネッサンス期の代表的な詩人の名前です)、そう呼ばれるのは、おじいさん、おばあさんの代から、すなわち三代に渡ってこの街に住んでいる人だけで、他の街から、たまたまここに移り住んだような人はポリツィアーノではない、というのです。そして、この街の伝統的な祭り「樽競争」でも、地区を仕切っているのは「ポリツィアーノ」たちで、それ以外の人は遠慮がちに手伝うか、見学に徹しているかでした。
この地元意識の強さ、プライドの高さと言ったら・・。日本にも「三代続いていなけりゃ江戸っ子じゃないやい!」というセリフがありますが、どこでも似たようなものだ、と思わず笑ってしまいました。正直なところ、こういう考え方はちょっと鬱陶しい気もしますが、まぁそれだけ、自分の街を、出自を誇りにしているのかと思うと、それはそれでうらやましくもあります。
実は、もうひとつ気づいた事実があります。私がモンテプルチアーノで親しくなった人たちは、仕事の都合でここに移り住んだり、この街で働いてはいるけれど家は別のところだったり、と、ほとんどが「ポリツィアーノ」ではなかったのです。
もちろん「ポリツィアーノ」たちだって親切でしたし、少なくても表面的には分け隔てなく接してくれました。ただ、こちらが得体のしれない子連れ留学生だけに、双方の間には見えない壁があったのではないか、という気がしています。だから、結果として、こうなったのではないでしょうか。
さらに想像すれば、ポリツィアーノではない人たちは、心のどこかに「自分たちが傍系である」という思いがあったから、異端的存在だった私たちのことも、おおらかに受け入れてくれたのかな、などと思ったりもします。
「ポリツィアーノ」たちが、そうでない人たちに対してどんな風に考えているのか、また、その反対はどうなのか、それをきちんと聞けないまま帰国したことが、とても残念です。
半年の滞在ではわからなかったこと、知り得なかったことが、まだまだたくさんあります。心にひっかかっている多くの疑問を、いつか解き明かしたい、ちゃんと当事者に話を聞いてみたい、と思う今日この頃です・・。
ついに、今回が最終回
振り返ってみれば、あっというまの留学生活でした。出発前は、あれもこれもと、山ほど計画を立てていたものの、何処に行くにも、何をするにも子どもと一緒で、そう簡単に物事が進まない、ということもあって、結局、私たちは居心地の良いモンテプルチアーノにどっぷりと腰を落ち着けて、ただただ、のんびり暮らしていたように思います。
東京のように、お金さえ出せば何でもすぐに手に入る、という生活ではありませんでしたが、食べ物はどれも最高に美味しかったし、おまけに安くて新鮮でした。目新しい娯楽施設は見あたりませんでしたが、コンサートもオペラも映画も楽しめたし、街全体が燃え上がるような伝統的な祭りにも遭遇することができました。これというイベントがなくても、美しい景色を眺めながら街を散歩するだけで、太陽の光を存分に浴びるだけで、体中に満足感が広がったものです。
イタリア語の力は、確かに以前に比べると飛躍的にアップしましたが、とはいっても、新聞や雑誌がすらすら読めるようになったわけではないし、テレビのニュースだってまだ難しいのが正直なところ。ただ、話すことや書くことが好きになり、辞書がなくても、限られたボキャブラリーのなかで、なんとか相手とコミュニケーションを取れるようになりました。
もちろん・・、困ったことも、辛かったこともたくさんあり、特に、息子が幼稚園に慣れるまでの1ヶ月間は、全く余裕のない毎日でしたが、ふと気がつけば、いつも誰かがさりげなく手を差し伸べてくれ、ささくれ立った私の心を慰めてくれたように思います。本当に、幸せな、満ち足りた半年間でした。
東京に戻って、改めて気付いたこともたくさんあります。自分が何を求めているか、何を大切にしたいか、はっきり気持ちの整理が出来たのです。
今、私は、もうこれ以上モノはいらない、無意味な「所有」はしたくない、と真剣に考えています。帰国後すぐに、大型スーパーに買い物に行ったことがあるのですが、店内のありとあらゆるところに、きらびやかに飾りたてられた商品が並んでいるのを見て、どうしてこんなにモノがあふれているのだろう、本当にこれほど必要なのだろうか、と違和感さえ感じたことがあります。そして、大量生産し大量消費し、いつもトレンドを追いかける、という感覚には、もうついてゆけないとつくづく思いました。私にとって、モノを持っていることと生活の豊かさとは、全く別のものになっていたのです。そして、所有物を出来る限り減らし、シンプルに身軽に暮らしたいと、私は、クローゼットに並んでいた有り余るほどの洋服やバッグ類を、一気に処分しました。
忙しすぎる東京の暮らしにも戸惑いがありました。会社員である夫の帰宅は、平均すると夜11時過ぎ、終電で帰ることも珍しくなく、平日に家族揃って食事が出来るのは、週一回あるかないかです。モンテプルチアーノで暮らすまでは、仕事だからそれも仕方ない、と特に疑問も感じていなかったのに、帰国してからは妙に気になり、なぜそんなに仕事をしなければならないの、と何度も夫に問いかけました。怒っていたわけではなく、本当に不思議だったのです。そんなにまで仕事中心の生活を送る必要が本当にあるのだろうか、と・・。
さらに、どこに行っても車があふれ、ドライバーが、我が物顔で細い路地をぶっ飛ばしてゆく光景にも、怒りに似た感情を覚え、人間が車に遠慮しながら暮らしているなんて、絶対おかしい、と一人で憤慨していました。かつて路地は、ご近所の人たちが集まり、遊び、楽しむ場であったはずなのに、まさにイタリアの「広場」のような働きをしていたのに、今では車のためのものになってしまっている・・。確かに、車があれば便利ですが、その一方で私たちは貴重な空間を失ってしまったのではないか、と街を歩くたびに考えていました。
もし出来るなら、もっとゆったり時間が流れるところで、毎日の暮らしを楽しみながら、穏やかに暮らしたいというのが、今の私の正直な気持ちです。私にとって大切なのは、家族と共に心豊かに過ごす時間であり、自分自身のために絶えず何かを学び続けること。便利さやモノではないことが、よくわかりました。
しかし、そう思いながらも、今や東京の暮らしにどっぷり浸り、毎日「忙しい、時間がない・・」と呟きながら暮らしているのが、現実の姿。ふと、トスカーナのあの優雅な日々を思いだして、切ない気分になることも一度や二度ではありません。
そんな自分を戒める気持ちもあって、帰国してからも、私は相変わらずイタリア語の学校に通っています。ふと、いつまでこんなことをしているんだろう、これが何になるというのだろう、と思うこともありますし、現実に向き合う勇気がないから、ただ「イタリア」に逃げているだけではないか、と考えることもあります。
でも、何かを学ぶことはやはり楽しいし、夫や子どもという他者ではなく、自分自身にエネルギーをかけることによって得られる充実感は、捨て難いのです。本当は、何でもよかったのだと思います。自分自身でしか埋めることのできない心の隙間にぴったりとはまったのが、私の場合はイタリアであり、イタリア語であっただけだったのでしょう・・。 自分に賭けることができなくなったらそれで終わり、あきらめたら何も変わらない、と言い聞かせながら、私は、凝りずにイタリア語の辞書をめくっています。ピアーノ・ピアーノ(ゆっくりゆっくり)と呟きながら。そしてまた、いつか、今度は家族三人で、トスカーナに暮らす日を夢見ながら・・。
<完>